【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(2)

 

 目次

個人の尊重(5-1) 【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(1)
個人の尊重(5-2) 【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(2)
個人の尊重(5-3)【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(3)
個人の尊重(5-4)【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(4)


第三節 厚生大臣のハンセン病政策遂行上の違法及び故意・過失の有無(争点一)

第一 厚生省の隔離政策の遂行等について

 一 厚生省は、旧法下の昭和二五年には、ハンセン病患者総数一万一〇九四人のうち八三二五人の患者(収容率75.04パーセント)を収容隔離していたが、新法制定後も、これらの患者の隔離を続け、さらに、新患者の収容隔離も続行し、昭和三〇年には最多の一万一〇五七人(収容率90.86パーセント)のハンセン病患者を隔離し、その後、昭和四五年の93.65パーセントをピークに九〇パーセント前後の収容率でハンセン病患者を、全国の療養所に隔離してきたものである。なお、昭和五〇年の在所患者は一万〇一九九人(収容率89.87パーセント)で、平成五年の在所患者は六七二九人(収容率89.79パーセント)である。(別紙五参照)

 ところで、新法六条一項は、勧奨による入所を定めるが、これは同条二項の入所命令、同条三項の直接強制を前提とするものであり、後記第四節第二の一の新法の解釈等からすれば、法的にも任意の入所とは同視し難い面がある。のみならず、新法廃止まで、抗ハンセン病薬が保険診療で正規に使用できる医薬品に含まれていなかったことなどにより、ハンセン病の治療が受けられる療養所以外の医療機関が極めて限られており、特に、入院治療が可能であったのは、京都大学だけという医療体制の下で、入院治療を必要とする患者は、事実上療養所に入所せざるを得ず、また、療養所にとどまらざるを得ない状況に置かれていた(前記第二節第三の八1)。さらに、戦前・戦後にまたがるほぼ全患者を対象とする収容の徹底・強化により、多くの国民は、ハンセン病が強烈な伝染病であるとの誤った認識に基づく過度の恐怖心を持つようになり、その結果、ハンセン病に対する社会的な差別・偏見が増強され、プロミン登場によりハンセン病が治し得る病気となった後も、新法がハンセン病に対する隔離政策を継続したことによって、ハンセン病に対する差別・偏見が助長・維持され、新法廃止まで根強い差別・偏見が厳然として存在し続けたものであるところ、その中で、ハンセン病患者は、いったんハンセン病であるとの診断を受けると、保健所職員の度重なる勧奨入所により、隣近所の者からハンセン病患者及びその家族が白眼視されるに至るなど、療養所に入所せざるを得ない状況に追い込まれ入所を余儀なくされていったことが認められる。したがって、少なくとも、原告らのうちで最も入所時期の遅い者(原告一一番)が入所した昭和四八年ころまでの状況を見る限り、勧奨による入所という形をとっていても、その実態は、患者の任意による入所とは認め難いものであった。(第二節第一の一、同第四、各原告作成の陳述書、各原告本人)

 また、第二節第二の一〇のとおり、新法六条の「らいを伝染させるおそれがある患者」の解釈についても、ハンセン病と診断されると「伝染させるおそれ」がないと判断される未治療の患者はいないといわれるほど極めて広義に解釈されており、これに対応するように、第二節第三の三のとおり、入所者の退所についても、極めて厳格な運用がされており、最も軽快退所者の多かった昭和三五年でも、その年の軽快退所者数二一六人の入所者数一万〇六四五人に対する割合は二パーセントに過ぎず、昭和二六年から平成九年までの各年の退所者の右割合も一パーセント未満の年がほとんどという状況であった(別紙六)。昭和三一年に厚生省が各療養所長に示した唯一の退所基準である「らい患者の退所決定暫定準則」も、その内容は極めて厳格で、しかも入所者にはその当時は周知されておらず、昭和五〇年代以降も、退所の自由について公式に表明されたこともなかった。

 また、新法一五条は、入所患者の外出を厳しく制限し、これに違反すると同法二八条で罰則を課することになっていたが、第二節第三の四のとおり、昭和三〇年代までは外出制限について厳格な取扱いもされていた。昭和五〇年代以降は、相当緩やかな運用がされるようになったが、厚生省や療養所が外出制限を事実上撤廃するなどということを公式に表明したこともなかった。

 さらに、優生保護法のらい条項の下で、昭和三〇年代まで優生手術を受けることを夫婦舎への入居の条件としていた療養所があり、入所者が療養所内で結婚するためには優生手術に同意をせざるを得ない状況もあった。

 昭和五〇年前後からは、療養所内の処遇改善が行われ、外出制限も緩やかに運用されるようになり、退所についても、入所者が積極的に希望する限り、あえてこれを制限しない運用にはなったものの、大部分の入所者は、療養所での生活が長期間となり高齢となっていたこと、また、新法における隔離政策の廃止が明確にされないまま療養所が運営されていたことなどにより、療養所外の社会におけるハンセン病に対する偏見・差別が依然として残り、退所して社会復帰をすることを希望する入所者も漸次減少してくるなかで、厚生省は、平成八年四月まで、ハンセン病患者の人権を著しく侵害する内容を有し、ハンセン病に対する差別・偏見を助長、維持するという弊害をもたらし続けたところの新法の下での隔離政策を廃止しなかったものである。

 二 以上のとおり、厚生省は、新法の下で、ハンセン病患者の隔離政策を遂行してきたものであるが、いうまでもなく、患者の隔離は、患者に対し、継続的で極めて重大な人権の制限を強いるものであるから、すべての個人に対し侵すことのできない永久の権利として基本的人権を保障し、これを公共の福祉に反しない限り国政の上で最大限に尊重することを要求する現憲法の下において、その実施をするに当たっては、最大限の慎重さをもって臨むべきであり、少なくとも、ハンセン病予防という公衆衛生上の見地からの必要性(以下「隔離の必要性」という。)を認め得る限度で許されるべきものである。新法六条一項が、伝染させるおそれがある患者について、ハンセン病予防上必要があると認められる場合に限って、入所勧奨を行うことができるとしているのも、その趣旨を含むものと解されるところである。また、右の隔離の必要性の判断は、医学的知見やハンセン病の蔓延状況の変化等によって異なり得るものであるから、その時々の最新の医学的知見に基づき、その時点までの蔓延状況、個々の患者の伝染のおそれの強弱等を考慮しつつ、隔離のもたらす人権の制限の重大性に配意して、十分に慎重になされるべきであり、もちろん、患者に伝染のおそれがあることのみによって隔離の必要性が肯定されるものではない。

第二 隔離の必要性の有無について

 一 前記第一の二で述べたところを前提として、隔離の必要性の有無について検討するに、<1>もともと、ハンセン病は、感染し発病に至るおそれが極めて低い病気であって、このことは、新法制定よりはるか以前から政府やハンセン病医学の専門家において十分に認識されていたところであること(前記第一節第五の一)、<2>我が国のハンセン病の患者数は、明治三三年から昭和二五年までの五〇年間に半減あるいはそれ以下に減少し、それとともに、有病率もその間に一万人当たり6.92人から1.33人と約五分の一に低下し、新法制定当時のハンセン病の蔓延状況は、もはや深刻なものではなくなっていたこと、また、その後も、ハンセン病患者の発生は、戦後の混乱期を脱して社会経済状態が好転していくことで、自然に減少していくと見込まれていたこと(前記第一節第二の一、三4、四、第二節第二の四、六1の宮崎及び参議院厚生委員長の発言部分、九3の廣瀬久忠議員の発言部分)、<3>ハンセン病は、慢性の経過をたどって進行するが、もともと、それ自体としては致死的な病気ではない上、すべての症例が重症化するわけではなく、自然治癒するものもあったこと(前記第一節第一の三5、四12)、<4>新法制定当時、既にプロミンがハンセン病に著効を示すことが国内外で明らかとなっており、特に、重症化しやすい結節らいの患者の病状を著しく軽快させることができる状況になっていたこと、また、昭和二四年以降、プロミンが我が国の療養所で広く普及するようになり、かつてのようなハンセン病が不治の悲惨な病気であるとの観念はもはや妥当しなくなっていたこと、さらに、昭和二三年ころからは、プロミンと同じスルフォン剤であり経口投与可能なDDSが、少量でプロミンに劣らぬ治療効果を持っていることが明らかになり、新法制定の前年の昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会では、在宅治療の可能性を拡げるものとして高い評価を得ていたこと(前記第一節第三の一ないし三、第五の二)、<5>ハンセン病に関する国際会議等では、戦前から、隔離を限定的に行おうとする考え方が随所に現れていたこと、特に、患者を伝染性患者と非伝染性患者に分け、前者のみを隔離の対象とすべきことは、大正一二年の第三回国際らい会議以降、繰り返し提唱され、昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会の報告にもその旨の指摘がなされていたこと、また、国際連盟らい委員会が昭和六年に発行した「ハンセン病予防の原則」や昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会の報告では、強制隔離政策が、隔離を回避しようとする患者を潜伏化させる傾向がありハンセン病予防に十分な効果をもたらさないことがある旨の指摘もなされており、新法制定後のものではあるが、昭和二九年にWHOがまとめた「近代癩法規の展望」でも、隔離政策の正当性・有効性が疑問視されていたことなどが認められる。

 そうすると、他方で、新法制定当時においては、スルフォン剤治療による再発の頻度がいまだ明らかになっておらず、スルフォン剤の評価が完全に確定的になったとまでいえる状況ではなかったこと、昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会の報告を始め、国内外のハンセン病医学の専門家の意見としても、隔離政策を完全に否定するところまではいっていなかったことなどを考慮しても、少なくとも、病型による伝染力の強弱のいかんを問わずほとんどすべてのハンセン病患者を対象としなければならないほどの隔離の必要性は見いだし得ないというべきである。

 二 また、以上に加え、新法制定以降の事情として、<6>プロミン治療が我が国で開始されてから一〇年を経過した昭和三一年ころ以降、スルフォン剤治療による再発の頻度が少しずつ明らかになっていったが、国際的には、スルフォン剤のハンセン病治療上の優位は全く揺るがず、治療実績が積み重ねられるにつれ、ますますスルフォン剤の評価が確実なものとなっていったこと、<7>これに伴い、国際的には、次第に強制隔離否定の方向性が顕著となり、昭和三一年のローマ会議、昭和三三年の第七回国際らい会議(東京)及び昭和三四年のWHO第二回らい専門委員会などのハンセン病の国際会議においては、ハンセン病に関する特別法の廃止が繰り返し提唱されるまでに至っていたこと、<8>我が国におけるスルフォン剤の評価も、右の国際的評価と基本的には変わらないものであって、現実にも、スルフォン剤の登場以降、我が国において進行性の重症患者が激減していたこと、<9>戦後の混乱期を脱して社会経済状態が回復していったことにより、昭和三〇年に四一二人であった新発見患者数が、昭和三五年には二五六人となり、新発見患者数に顕著な減少が見られたこと(甲一の一八頁)などを総合すると、遅くとも昭和三五年以降においては、もはやハンセン病は、隔離政策を用いなければならないほどの特別の疾患ではなくなっており、病型のいかんを問わず、すべての入所者及びハンセン病患者について、隔離の必要性が失われたものといわざるを得ない。

 三 なお、被告は、スルフォン剤単剤治療によるL型患者の再発についてるる指摘するが、再発の頻度、原因、再発後の治療状況、再発症例の発生によるスルフォン剤の評価への影響については、前記第一節第三の七1、第五の二2(三)で検討したとおりであり、昭和三〇年代の再発の問題がスルフォン剤の評価を根本的に見直さなければならないようなものであったとは認められない。しかも、スルフォン剤単剤治療による再発が隔離の必要性を肯定する理由にならないことは、証人和泉が明確に証言しているほか(四回二〇〇項)、再発の問題の深刻さを強調する被告申請証人の長尾も、再発の可能性があったからといって隔離政策を継続すべきであったとは考えていない旨証言しているのである(一三回四一二項以下)。

 また、被告は、スルフォン剤単剤治療による難治らいの症例の存在を指摘するが、これについては、前記第一節第三の七2で検討したとおりであり、我が国においてハンセン病政策全体を左右するほど多数の難治らいの症例があったとは認められない。

 さらに、被告は、スルフォン剤登場後もらい反応をどのように克服するかがハンセン病の治療に当たっての極めて深刻かつ重要な課題だったのであり、また、らい反応によって医学的に見て入院治療が必要な場合もあったと主張する。ところで、らい反応については、前記第一節第一の五で詳しく検討したが、らい反応によって入院治療が必要な場合があるというのは、専ら医療上の観点からであって、ハンセン病予防という公衆衛生上の必要性と直接結び付くものではなく、隔離の必要性を肯定する理由にはならない。なお、らい反応が起こるのは、スルフォン剤に欠陥があるからではなく、頻度は異なるがリファンピシンによる治療や多剤併用療法でもらい反応の問題は生じること、スルフォン剤単剤治療の時代にも、らい反応に対してそれ相応の対応ができたことは、長尾の証言(一二回二〇六項以下)等から明らかである。

 したがって、被告の右指摘・主張を考慮しても、前記一及び二の隔離の必要性の判断を左右するものではない。