社会的身分による差別(2-3)尊属殺・尊属傷害致死重罰規定の合憲・裁判官下村三郎の意見・裁判官色川幸太郎の意見

 目次


社会的身分による差別(2-1)尊属殺重罰規定の合憲性
社会的身分による差別(2-2)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官田中二郎の意見
社会的身分による差別(2-3)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官下村三郎の意見・裁判官色川幸太郎の意見
社会的身分による差別(2-4)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官大隅健一郎の意見
社会的身分による差別(2-5)尊属殺重罰規定の合憲性・裁判官下田武三の反対意見

【最大判昭和48年4月4日・尊属殺違憲判決】

【裁判官下村三郎の意見】は、次のとおりである。

 

 わたくしは、本判決が、原判決を破棄し、刑法一九九条を適用して、被告人を懲役二年六月に処し、三年間刑の執行を猶予した結論には賛成であるが、多数意見が原判決を破棄すべきものとした事由には同調し難いものがあるので、次にその理由を述べる。

 憲法は、その一四条一項において、国民に対し法の下の平等を保障することを宣明した。これは、国民が、それぞれ平等の立場において、相互に敬愛し、扶助し、協力して平和な国家の建設に貢献すべきことを期待したものであるということができる。そして、その趣旨に従つて、民法においては、家、家督相続、戸主等の制度が廃止されるなど、各法律にも所要の改正が加えられたが、刑法二〇〇条のような規定もなお残存しており、その存置を支持する者も多く、当裁判所も、従来、尊属殺人と普通殺人とを各別に規定し、尊属殺人につき刑を加重していることは、身分による差別的取扱いではあるが、合理的な根拠に基づくものとして憲法一四条一項に違反するとはいえないと判断して来たのである。しかし、その後の時世の推移、国民思想の変遷、尊属殺人事件の実情等に鑑みれば、尊属卑属間の相互敬愛、扶助、協力等の関係の保持は、これを自然の情愛の発露、道義、慣行等に委せるのが相当であり、尊属殺人について特別の処罰規定を存置し、尊属殺人の発生を防遏しようとする必要は最早なくなり、かような規定を存置することが却つて妥当な量刑をする妨げとなる場合もあるに至つたといわなければならない。かように解すれば、普通殺人に対し特に尊属殺人に対する処罰規定を存置し、その刑を加重することは、その合理的な根拠を失なうこととなり、刑法二〇〇条は憲法一四条一項に違反し無効なものというべきである。したがつて、刑法二〇〇条は憲法に違反しないとして被告人の本件所為に対し刑法二〇〇条を適用している原判決は、憲法一四条一項の解釈を誤つたものにほかならず、かつ、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、これを破棄すべきものとすべきであると考える。

 

 

【裁判官色川幸太郎の意見】は次のとおりである。

 一、多数意見は、これを要約すると、刑法二〇〇条が、尊属殺人を普通殺人と区別して規定しているのは、一般的にいうと、身分による差別的取扱いであるが、しかし、尊属殺人は背倫理性が顕著であるから、かかる所為を禁圧する目的で特別の罪を設けてその刑を加重することは、憲法上許される合理的な差別であり、ただちには違憲とはいえない、もつとも右法条は、加重の程度が極端であつて、右のごとき立法目的達成の手段としては甚だしく均衡を失するが故に、憲法一四条一項に違反する、と説示している。右のうち、刑法二〇〇条が身分による差別的取扱いの規定であるとする点、および、これが憲法一四条一項に違反するとの結論には私も賛成であるが、尊属殺人につき普通殺人と異なる特別の罪を規定することが、憲法上許容された範囲の合理的差別であるという見解には、同調することができないのである。

 二、右に見るごとく、多数意見は尊属殺人が普通殺人に比して、それ自体、特に重い非難に値するものであるとなし、その一点に、右両者の間の差別的取扱いの合理性を見出そうとしているのであり、その論理はおよそ次のように展開されている。

  (1) 尊属と卑属(以下概括して親と子と略称する。)は婚姻と血縁とを主たる基盤とした親族である。

  (2) 親族は自然の敬愛と親密の情で結ばれている結合である。

  (3) その結合には長幼の別や責任の分担に伴う秩序が存する。

  (4) 親は子を養育成長せしめ、また子の行為につき法律上、道義上の責任を負う。

  (5) 親に対する尊属報恩は社会生活上の基本的道義であり普遍的倫理である。

  (6) 前記情愛と右の倫理は刑法上の保護に値する。

  (7) 尊属殺人は前記結合の破壊であり人倫の大本に反する。

  (8) 尊属殺人はこのように高度の社会的道義的非難を受けるものであるゆえ、これを量刑の情状とすることは不合理ではなく、そうである以上、一歩進めて類型化し、これを法律上の加重要件とすることは当然許される。以上である。

 三、これを要するに、多数意見は、子の親に対する殺人をもつて、普通殺人とは比ぶべくもない背倫理性ありとする所以を、その行為が、自然的愛情を紐帯とし一定の秩序のある親族結合の破壊であり、かつ親に対する忘恩の所業であるという二点に求めたわけである。しかし、「婚姻と血縁とを主たる基盤とし互いに自然的な親密の情によつて結ばれている」親族は、ひとり親子だけではない。夫婦しかり、兄弟姉妹またしかりなのである。夫婦はもともと他人同志が結ばれたものではあるが、その間の自然的情愛は血のつながる親子に比してはたして劣るといえるであろうか。いわんや夫婦とその一方の親との関係とでは、いずれが強く結ばれているかいうまでもあるまい。しかも夫婦関係は親子関係と並んで否むしろ一層強い意味合をもつて、社会の根源的な基礎構造を形成しているのである(のみならず、子が成人し独立したのちには、後者の関係はほとんど分解し、社会の基礎構造たる実質を失うのが常であろう。過去一〇年間におけるいわゆる核家族の激増ぶりは欧米をも凌ぐものがあるといわれている。それは、良いか悪いか、好ましいか、好ましくないかの問題を超えた、現代社会の必然的傾向なのである。)。多数意見は、親族の間柄における「長幼の別や責任の分担に伴う一定の秩序」を強調する。しかしこれまた、親と子の関係だけに特有なものではない。夫婦には親子の間よりも明らかな「責任の分担」が存在し、また、兄弟姉妹にはいうまでもなく長幼の別がある。それらの親族関係には「一定の秩序」が厳存するのである。だから、その間に殺人行為があつたならば、それが「かかる結合の破壊」であること、もとよりいうをまたない筈であるのに、これについて普通殺人とは別異な罪が特に定められているわけではない。それのみか、親子間においても、子が被害者の場合には同様なのである。近時頻発している親の子に対する殺人などは、まさに、自然の情愛に基づく結合の破壊であり、また、その大部分は許し難い非人間的な犯罪であるけれども、わが国には従来この種の殺人について加重規定のなかつたのはもちろん、かかる立法への要請さえ絶えて聞かないところである。以上のように考えてくると、多数意見の指摘する、背倫理性が特に重いとする所以は、これを主として上告後段の理由、すなわち親に対する忘恩の所業であるとするところに求めるほかないであろう。

 四、この点につき、多数意見は、私の理解するところでは、親は子を育て、その上、子の「所為につき法律上、道義上の責任を負う」のであるから、子は、これに対し「報恩」の念を持つ義務があり、この恩に酬ゆる意味で親を尊重することが「社会生活上の基本的道義」であり「普遍的倫理」だとしているごとくである。しかし、はたしてそういう考え方がそのまま承認され得るものであろうか。

 (イ)まず、親が子の所為につき社会的に責任を負う、という意味を検討してみたい。こと、法律上の責任に関するかぎり、仮に誤りでないとしても、その立言は、甚だしく不正確である。いうまでもなく刑法は責任原則で貫かれている。なに人も、自己の行為によつてのみ、刑罰を科せられるにとどまり、他人の行為で罰せられるごときことはあり得ないのである。行政刑法においてはなるほど両罰規定があるけれども、その本質は監督上の不作為責任の追究であり、純然たる他人の行為による刑事責任ではない。いわゆる両罰が科せられるのは使用者その他監督者なるが故であつて、親なるが故の責任を問う規定は存在しないのである。罪九族に及んだのは、遠い昔の話であり、近代刑法のおよそ想像もできないところに属する。もつとも、民事上は、不法行為法の分野においてのみではあるが、親の監督責任を認める場合(民法七一四条)もないわけではない。しかしそれは、子が未成年であり、かつ行為の責任を弁識できないときで、しかもその親が監督上の義務を怠つたというきわめて例外の場合に限られているのである。被害者の救済という見地からは問題の存するところであるかも知れないが、それはそれとして、民事上でもまた、自己責任が原則だということができよう。

 道義上の責任について説くところは、一応もつとものようでもあるが、しかし道義上の責任を負うべきか否かは子の所為の態様にもよるし、また、各人の責任観念のいかんで左右される、きわめて個性的な、結局は各人の考えによるものである。万人にひとしく適用されるような社会的倫理規範はないのであるし、責任を強く感じないからといつて一概に非難はできないものがあろう。むしろ、子の所業につき親を厳しく糾弾したのは実は近代以前に見られた社会事象であつて、個人の独立と人格の尊厳を基調とする現代の道理の感覚からすれば、その風潮は、抑制こそ望ましく、決して助長鼓吹さるべきものではないのである。

 (ロ)多数意見は、親による養育とそれに対する「報恩」を説いている。たしかに親が子を一人前に育てあげることには並並ならぬ労苦を伴うものであり、時としては自己犠牲さえも敢えていとわないのが親のあり方である。子が親の庇護と養育の努力に感謝の念をいだくのはまことに自然ではあるが、これを「恩」であると名づけ、子が親の「恩」に酬ゆることこそ社会生活上の「基本的道義」「普遍的倫理」であり、一旦これに背く場合には、社会的にはもとより法律的にも重い非難が加えられてしかるべきだとすることは(多数意見の説示はきわめて簡潔であるが、敷衍すれば上述のとおりであろう。)まさしく、旧来の孝の観念から、いささかも脱却していないことを示すものにほかならない。そしてまた、多数意見は、その強調する右の徳目が旧来の孝と異なるものであるとはいつていないのであるから、右のごとく措定して、以下、議論を進めることは、当然許されると考える。

 ところで、孝はいうまでもなく儒教において最も重しとされた道徳である。古代儒教の説いた孝は、やや変容は受けたものの、「忠」とならんで徳川時代の武家社会を支配するゆるぎなき根幹の道徳となり、さらに、徳川末期には、心学の普及などに伴い、農工商の庶民にもある程度浸潤するところがあつた。もつとも結局においては、一部富裕な階級を除き、一般町民や農民を完全に把握するにはいたらず、孝の観念を基調とする家族制度も庶民層の間においてはついに確立しなかつたといわれている。ところが明治初頭、政府の重要な教化政策としてとりあげられ、国民に対し、あらゆる方をもつて徹底せしめられた結果、封建的な孝という徳目は、あたかも万古不易の普遍的倫理であるかのごとく考えられるにいたつたのである。だが、それは錯覚にしかすぎず、要するに、歴史的な一定時期の、特殊な家族制度を背景としてつちかわれ、そしてまた逆に、かかる家族制度の精神的な支柱を形成していたものであり、決して、古今東西を通じて変るところなき自然法道徳ではないというべきである。

 刑法二〇〇条の立法趣旨が、封建的時代からの伝承にかかる家族制度の維持、強化にあつたことは、配偶者の直系尊属に対して犯された場合をも尊属殺人とする最初の提案、すなわち明治三四年刑法改正案につき、その趣旨を明らかにした公的な「参考書」(法典調査会編)と称する文献や、その後現行法となつた明治四〇年改正案に関する政府の刑法改正理由書中に歴歴として見ることができ、またその当時における指導的な刑法体系書の明らかに指摘するところであつた。かくのごとき家族制度が、すでに、憲法の趣旨に背馳するものとして否定された今日、孝をもつて刑法の基礎観念としようとするものであるならば、時代錯誤と評せられてもやむを得ないのではあるまいか。

 (ハ)憲法との関連においては、なお、いうべきことがある。儒教にいう孝は、子に独立の存在を認めていない。そこにおける親と子の間は、相互に独立した人格対人格の関係とはおよそ対蹠的な、権威と服従の支配する世界にほかならず、尊卑の別(現行民法が折角の改正にもかかわらず、尊属卑属の称呼を踏襲したことには批判の余地があるであろう。)は永久に存在し、越ゆべからざるその間の身分的秩序の厳守が絶対的な要請とされている。一言でつくせば、孝は親に対する子の隷従の道徳なのである。親の恩は山よりも高く海よりも深しとし、これに無定量、無限定の奉仕の誠をささげ、親を絶対者として尊重服従し、己れをむなしくし力をつくして親に仕える、それが儒教における孝であつて、そのきわみは親、親たらずとも子、子たらざるべからずという孝となる。これは中国廿四孝の説話に余すところなく描かれているところである。現代の常識に反した、このような盲目的な絶対服従を内容とする孝が、個人の尊厳と平等を基底とする民主主義的倫理と相いれないものであることは多言を要しないところであろう。そしてこの後者の倫理こそが、憲法の基調をなすものであると考えたとき、多数意見の立脚地そのものに根本的な疑問を感ぜざるを得ない。

 かくいうからといつて、私は、親を重んじこれを大事にすることが、子にとつて守るべき重要な道徳であることを毛頭否定するものではない。しかしながら、もともと道徳は、独立した人格の、自発にかかる内面的な要請ないし決定によつて遵守せられてこそ、はじめて高い精神的価値をもつものであるから、法律をもつて道徳を強制せんとするのは道徳の真価を損うことなしとしないのである。もつとも、法律を通じての道徳の高揚も、策として已むを得ない場合があり、一概に両分野を峻別することのみ主張するわけではない。ただ、仮にその必要があるとしても、道徳的価値を保護法益とする立法にあたつて、何よりも留意されなければならないことは、その道徳が憲法の精神に適合するか否かを慎重に吟味することの必要性である。当該道徳が、憲法の建前とする個人の尊厳と人間の平等の原理に背反するものであるときは、その立法化はもとより許されないところというべきである。孝の道徳はなるほど日本の、ある意味では、美わしい伝統であるかも知れない。然し自然の愛情と相互扶助を基調とする近代的な親子関係(これが憲法の予定する親子関係であろう。)にまで昇華していない、廃絶された筈の古い家族制度と結びついたままの道徳を、ひたすら温存し、保護し、強化しよう

 とする法律(刑法二〇〇条がその一つであるが)は、憲法によつて否定されなければならない運命にあると考えるのである。

 (二)なお、ついでながら親の「恩」について一言しておきたい。恩を受けたからそれ故に反対給付として忠勤を励むというギブアンドテークの関係は、洋の東西を問わず、封建時代における主君と武士との関係に見受けられるのであるが、子が親を敬愛しこれを大事にしなければならないという感情ないし道徳感は、それとは質を異にした、人間の情として自然に流れ出てくるところのものではないであろうか(儒教にしても古代のそれの教える孝は、給付、反対給付の関係ではないように思われる。)。本当の孝は恩を受けたからそれに酬ゆるという、水臭いものであつてはなるまい。第一、親が子のために心を砕くのも、親としては、恩を売つて他日その反対給付を受けようという底意のあつてのことでは、まず、ないのである。それは報償を期待することのない、子を思う惻惻たる自然の人情の発露なのである。法律の面からいつても、親の子に対する「監護及び教育」は、親の権利であるとともに義務であり(民法八二〇条)、子を一人前の社会人に育てあげることは親の職分にほかならず、それなればこそ、養育の費用も、子に特別な財産がある場合を除いては、当然親の負担に帰するのである。「子供の育成及び教育は、両親の自然の権利であり、かつ何よりも両親に課せられている義務である」(ドイツ連邦共和国基本法六条二項)。それであるから、これを恩と考えるべきものとなし、親に対する「報恩」を子の至高の義務であると断じて、ここに刑法二〇〇条の主たる存在理由を求めようとするのは、現行法の建前にも合わず、所詮は無理というものであろう。

 五 多数意見は、量刑に際して被害者が親であることを重視するのは当然であるし、そうである以上、これを類型化し、法律上、刑の加重要件とする規定を設けても合理性を欠く差別的取扱いにはならないと説く。しかし被害者が親であるという、ただそれだけのことをもつて、量刑上不利に扱うことは、結局違憲のそしりを免れることはできない。理由としては、上述したところをすべて援用すれば足りると考える。

 親に格別咎むべきところがないにかかわらず、子が放縦無頼の極、これを殺害するにいたつたような場合には、それこそ社会の健全な情緒的感覚をさかなでするものであつて、その際、裁判所においてこれを情状重しとするに何の躊躇もあり得ないであろう。しかしこれは親殺しであるという一事のみに依拠した判断ではない。量刑における情状の勘酌は、極めて具体的、特殊的でなければならないのであり、この場合、その特別な背景が考慮されたにすぎないと考えるべきである。過去における尊属殺人事件の量刑の実際を見ても、多数意見のいうとおり、他の犯罪と併合罪の関係になつたときは格別、「尊属殺の罪のみにより法定刑を科せられる事例はほとんどなく、その大部分が減軽を加えられており、なかでも現行法上許される二回の減軽を加えられる例が少なくないのみか、その処断刑の下限である懲役三年六月の刑を宣告される場合も決して稀ではない」のであるから、被害者が親であるというだけで、従来、重い刑が科せられたわけではない。多数意見の前述の見解は、過去の実例に徴したとき、説いてつくさざるものあるを感ずる。

 六 以上、私は、多数意見に同調し難いとする、私なりのいくつかの理由を率直に披瀝した。しかし、本判決の有する劃期的な意義はこれを評価するに吝かではないのであつて、私は、多数意見が、当審の多年に亘つて固持した見解を一擲し、刑法二〇〇条をもつて違憲であるとしたその勇断には深く敬意を表したいと考える。ただ、百尺竿頭さらに一歩をすすめ、親であり子であることの故に、刑法上差別して扱うこと自体、憲法に副わぬ立法である、とまで踏みきらなかつたところに、なお遺憾の念を禁じ得ないものがあるのである(刑法二〇〇条は合憲であるという下田裁判官の反対意見については特に言及しなかつたが、上述した私見は、移してもつてその批判になるであろう。下田裁判官の意見は、差別の合理性を主張する点においても、裁判所の謙抑を説く点においても、あまりに憲法の原点を離れ去つた感があり、これには到底賛成することができない。)。