【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-3)裁判官藤田八郎の反対意見・裁判官垂水克己の反対意見

憲法目次

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【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-1)

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-2) 裁判官栗山茂の意見・裁判官入江俊郎の意見

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-3)裁判官藤田八郎の反対意見・裁判官垂水克己の反対意見

【裁判官藤田八郎の反対意見】

 本件における被上告人の請求の趣意、並びにこれを容認した原判決の趣意は、上告人に対し、上告人がさきにした原判示の所為は、被上告人の名誉を傷つけ、被上告人に迷惑を及ぼした非行であるとして、これにつき被上告人に陳謝する旨の意を新聞紙上に謝罪広告を掲載する方法により表示することを命ずるにあることは極めて明らかである。しかして、本件において、上告人は、そのさきにした本件行為をもつて、被上告人の名誉を傷つける非行であるとは信ぜず、被上告人に対し陳謝する意思のごときは、毛頭もつていないことは本件弁論の全経過からみて、また、極めて明瞭である。

 かかる上告人に対し、国家が裁判という権力作用をもつて、自己の行為を非行なりとする倫理上の判断を公に表現することを命じ、さらにこれにつき「謝罪」「陳謝」という道義的意思の表示を公にすることを命ずるがごときことは、憲法一九条にいわゆる「良心の自由」をおかすものといわなければならない。けだし、憲法一九条にいう「良心の自由」とは単に事物に関する是非弁別の内心的自由のみならず、かかる是非弁別の判断に関する事項を外部に表現するの自由並びに表現せざるの自由をも包含するものと解すべきであり、このことは、憲法二〇条の「信教の自由」についても、憲法はただ内心的信教の自由を保障するにとどまらず、信教に関する人の観念を外部に表現し、または表現せざる自由をも保障するものであつて、往昔わが国で行われた「踏絵」のごとき、国家権力をもつて、人の信念に反して、宗教上の観念を外部に表現することを強制するごときことは、もとより憲法の許さないところであると、その軌を一にするものというべきである。従つて、本件のごとき人の本心に反して、事の是非善悪の判断を外部に表現せしめ、心にもない陳謝の念の発露を判決をもつて命ずるがごときことは、まさに憲法一九条の保障する良心の外的自由を侵犯するものであること疑を容れないからである。従前、わが国において、民法七二三条所定の名誉回復の方法として、訴訟の当事者に対し判決をもつて、謝罪広告の新聞紙への掲載を命じて来た慣例のあることは、多数説のとくとおりであるけれども、特に、明文をもつて、「良心の自由」を保障するに至つた新憲法下においてかかる弊習は、もはやその存続を許されないものと解すべきである。(そして、このことは、かかる判決が訴訟法上強制執行を許すか否かにはかかわらない。国家が権力をもつて、これを命ずること自体が良心の自由をおかすものというべきである。あたかも、婚姻予約成立の事実は認定せられても、当事者に対して、判決ををもつて、その履行―すなわち婚姻―を命ずることが、婚姻の本質上許されないと同様、強制執行の許否にかかわらず、判決自体の違法を招致するものと解すべきである)。 従つて、この点に関する論旨は理由あり、原判決が上告人に対し謝罪広告を以て、自己の行為の非行なることを認め陳謝の意を表することを命じた部分は破棄せらるべきである。

 

 

【裁判官垂水克己の反対意見】

 私は原判決が広告中に「謝罪」「陳謝」の意思を表明すべく命じた部分は憲法一

九条に違反し原判決は破棄せらるべきものと考える。

 一、判決と当事者の思想 裁判所が裁判をもつて訴訟当事者に対し一定の意思表示をなすべきことを命ずる場合に裁判所はその当事者が内心において如何なる思想信仰良心を持つているかは知ることもできないし、調査すべき事柄でもない。本件謝罪広告を命ずる判決をし又はこの判決を是認すべきか否かを判断するについても固より同じである。すなわち、かような判決をすべきかどうかを判断するについては上告人が、万一、場合によつてはこんな広告をすることは彼の思想信仰良心に反するとの理由からこれを欲しないかも知れないことも予想しなければならない。世の中には次のような思想の人もあり得るであろう―「今日多くの国家においては大多数の人々が労働の成果を少数者によつて搾取され、人間に値せぬ生活に苦しんでいる、これは重要生産手段の私有を認める資本主義の国家組織に原因するから、かかる組織の国家は地上からなくさなくてはならない、そのためには憲法改正の合法手段は先ず絶望であるから、手段を選ばずあらゆる合法・非合法手段、平和手段・暴力手段を用いてたたかい、かかる国家、その法律、国家機関、裁判、反対主義の敵に対しても、これを利用するのはよいが、屈服してはならない、これがわれわれの信条・道徳・良心である。」と。或は一部宗教家、無政府主義者のように、すべて人は一切他人を圧迫強制してはならない、国家、法律は圧力をもつて人を強制するものであるから、これに対しては、少くともできるだけ不服従の態度をとるべきである、という信条の人もあり得るであろう。かような人の内心の思想信仰良心の自由は法律、国権、裁判をもつてしても侵してはならないことは憲法一九条、二〇条の保障するところである。

 論者或はいうかもしれない「迷信や余りに普遍的妥当性のない考は思想でも信仰でもなく憲法の保障のほかにある」と。しかし、誰が迷信と断じ普遍的妥当性なしと決めるのか。一宗一主義は他宗他主義を迷信虚妄として排斥する。けれども、種々の思想、信条の自由活溌な発露、展開、論議こそ個人と人類の精神的発達、人格完成に貢献するゆえんであるとするのが、わが自由主義憲法の基本的精神なのであつて、憲法を攻撃する思想に対してさえ発表の機会を封ずることをせず思想は思想によつて争わしめようとするところに自由主義憲法の特色を見るのである。

 二、謝罪、陳謝とは上告人が、万一、前段設例のような信条の持主であると仮定するならば、本件裁判は彼の信条に反し彼の欲しない意思表明を強制することになるのではないか。この点を判断するには先ず「陳謝」ないし「謝罪」とは如何なる意味のものであるかを判定しなければならない。思うに一般に、「あやまる」、「許して下さい」、「陳謝」又は「遺憾」の意思表明とは(1)自分の行為若くは態度(作為・不作為)が宗教上、社会道徳上、風俗上若くは信条上の過誤であつた(善、正当、是、若くは直でなく悪、不当、非、若くは曲であつた、許されない規範違反であつた)ことの承認、換言すれば、自分の行為の正当性の否定である、或は(2)そのほか更に遡つて行為の原因となつた自分の考(信条を含む)が悪かつたことの承認、若くは一層進んで自分の人格上の欠陥の自認、ひいて劣等感の表明である、或は(3)なおこれに行為者が自分の考を改め将来同様の過誤をくり返さないことの言明を附加したものである。なお、記事や発言の「取消」というものがある。これには単なる訂正の意味のものもあるが、やはり前同様自己の記事や発言に瑕疵不当があつたとしてその正当性を否定する意味のものもある。

 本件広告は相当の配慮をもつて被上告人の申し立てた謝罪文を修正したものではあるが、原審は単に故意又は過失による不法行為としての名誉毀損を認めたに止まり刑法上の名誉毀損罪を認めたものではないから、本件広告に罪悪たることの自認を意味するものと解し得られる「謝罪」という文言を用いることは、或は上告人がその信条からいつて欲しないかも知れない。さすれば本件判決中、広告の標題に「謝罪」の文言を冠し、末尾に「ここに陳謝の意を表します」との文言を用いた部分は本人の信条に反し、彼の欲しないかも知れない意思表明の公表を強制するものであつて、憲法一九条に違反するものであるというのほかない。けだし同条は信条上沈黙を欲する者に沈黙する自由をも保障するものだからである。

 人は尋ねるかも知れない「それならば、当事者はどんな信条を持つているかも知れないから、裁判所はあらゆる当事者に対して或意思表示(例えば登記申請)をすべく命ずる裁判は一切できなくなるではないか、」と。固より左様でない。裁判所は法の世界で法律上の義務とせられるべき事項を命ずることはできるのである。しかし、行為者が自分の行為を宗教上、道徳風俗上、若くは信条上の規範違反である罪悪と自覚した上でなければできないような謝罪の意思表明の如きを判決で命ずることは、性質上法の世界外の内界の問題に立ち入ることであるから、たとえ裁判所がこれを民法七二三条による名誉回復に適当な処分と認めたとしても許されない訳なのである。

 三、法と道徳について法は人の行為についての国家の公権力による強制規範であり、行為とは意思の外部的表現である。人の考が一旦外部に現われて或行為(作為若くは不作為)と観られるに至つたときは社会ないし国家は関心なきを得ないので、法は或は行為を権利行為として保護し或は放任行為として干渉せず、或は表現(をすること又はしないこと)の自由の濫用とし、或は犯罪として刑罰を科し或は不法行為、債務不履行として賠償や履行を命じたりする。その場合に、法は行為が意思に基くか、又、如何なる意思に基くかをも探究する。もちろん、道徳が憲法以下の法の基本をなす部分が相当に大きく、この基本を取り去つては「個人の尊重」、「公共の福祉」、「権利の濫用」、「信義誠実」、「公序良俗」、「正当事由」、「正当行為」などという重要な概念が立処に理解できなくなるという関係ですでにこれらの概念は法概念と化していることは私もよく肯定するものである。しかし、法がこれら内心の状態を問題にしたり行為のかような道徳に由来する法律的意味を探究する場合にも、法はあくまで外部行為の価値を判定するに必要な限度において外部行為からうかがわれ得る内心の状態を問題とするに止まる。一定の行為が法の要求する一定の意思状態においてなされたものとして観られる以上、法はそれが何かの信条からなされたものかどうかを問わない。行為者の意思が財物奪取にあつたか殺害にあつたかは問題とされるが如何なる思想からしたかは問われない。無政府主義者が税制を否定し所得申告を欲しなくても法は彼の主義如何に拘わりなく申告と納税を強制する。かようにして法は作為・不作為に対しそれに相応する法律効果を付しこれによつて或結果の発生・不発生をもたらしその行為を処理しようとするものである。

 四、本件広告の内容謝罪の意思なき者に謝罪広告を命ずる裁判が合憲であるとの理由は出て来ない。けだし、謝罪は法の世界のほかなる宗教上、道徳風俗上若くは信条上の内心の善悪の判断をまつて始めてなされるものてあり、そして内心から自己の行為を悪と自覚した場合にのみ価値ある筈のものだからである。先ず、裁判所が上告人は判示所為をしたものでありその所為は不法行為たる名誉毀損に当ると認めた場合には、上告人の信条に拘わりなくこれによる義務の存在を確認させることができるのはもちろん、又、かかる所為をしたこと及びそれか名誉毀損に当ることを確認する旨の広告を上告人の意思に反してさせることもできることは疑いない。本件広告は単に「広告」と題し本文を「私は昭和二十七年十月一日施行された、云々、申訳もできないのはどうしたわけかと記載いたしましたが右放送及び記事は真実に相違して居り、貴下の名誉を傷け御迷惑をおかけいたしました。」と記載してなすべく命ずることも憲法一九条に違反するところなく妨げない、(客観的に、「真実に相違しておる」ことを確認させ、被害を与えたとの法律上の意味で「御迷惑をおかけしました」と言明すべき法的義務を課してもよい。)と考える、ところが本件広告には前に述べたように「謝罪」、「陳謝の意を表します」という文言を用いた部分があつてこの点は両当事者が重要な一点として争うところなのである。が、かような謝罪意思表明の義務は上告人の本件名誉毀損行為から法概念としての「善良の風俗」からでも生ずべき性質のものといえるであろうか。又、「かような謝罪の意思表明は名誉毀損の確認に附加されたところの、本件当事者双方の名誉を尊重した紳士的な社交儀礼上の挨拶に過ぎず、そしてそれは心にもない口先だけのものであつても被害者や世人はいずれその程度のものとして受けとる性質のものであるから、上告人も同様に受けとつてよいものである。」といえるてあろうか。私は疑なきを省ない。かような挨拶が被害者の名誉回復のために役立つとの面にのみに着眼し表意者が信条に反するために謝罪を欲しないため信条に反する意思表明を強制せられる場合のあることを顧みないで事を断ずるのは失当といわざるを得ない。私は本件広告中、右「謝罪」、「陳謝の意を表します」の文言があるのに、上告人が信条上欲しない場合でもこれをなすべきことを命ずる原判決は、性質上、上告人の思想及び良心の自由を侵すところがあり憲法一九条に違反するものと考える。これにはなお一つの理由を附加したい。それは本件判決が民訴法七三三条の代替執行の方法によつて強制執行をなし得るという点である。一説は本件判決は給付判決であつても夫婦同居を命ずる判決と同じく強制執行を許されないというが、夫婦同居判決のように強制執行のてきないことが自明なものならばその通りであるが、本件判決は理由中に別段本件広告については強制執行を許さない旨をことわつてなく、判決面ではそれを許しているものと解せられるものであり、そして本件広告が新聞紙に掲載せられたような場合に、読者は概ねそれが民事判決で命ぜられて余儀なくなされたもであることを知らずに、上告人が自発的にしたものであると誤解する公算が大きい。かくては上告人の信条に反し、そのの意思に出でない上告人の名における謝罪広告が公表せられることになり、夫婦同居判決が当事者の任意服従がないかぎり実現されずに終るのと違う結果を見るのである。されば論旨は理由があり、原判決が主文所掲広告の標題に冠した「謝罪」という文言とその末尾の「ここに陳謝の意を表します」との文言を表示すべく命じた部分は憲法一九条に違反するから原判決は破棄すべきものである。