信教の自由(3-2)最大判昭和63年6月1日 殉職自衛官合祀事件・補足意見】

憲法目次

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 裁判官長島敦の補足意見は、次のとおりである。

 私は多数意見と見解を同じくするものであるが、若干の点について、私の意見を補足したい。

 

 一 信教の自由と宗教的寛容さについて

 県護国神社が昭和四七年四月一九日、山口県出身殉職自衛隊員として、Xを含む二七名を新たに祭神として合祀する鎮座祭を斎行し、直会の儀を挙行し、翌二〇日慰霊大祭を斎行した(以下これら行事を併せて「本件合祀行為」という。)ことが、宗教上の行為、儀式ないし行事に当たることはいうまでもない。

 

 ところで、憲法二〇条一項前段は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」とし、他方、同条三項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」としているから、国及びその機関を除く何人も宗教的活動をする自由を憲法上保障されているといわなければならない。つまり、宗教法人法二条に「宗教団体」として定義されている「礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体」及びこれらの「団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体」はもとより、これらに含まれない団体又は個人もひとしく信教の自由を保障されているのである。宗教法人法一条二項は、この趣旨を明らかにして、「憲法で保障された信教の自由は、すべての国政において尊重されなければならない。従つて、この法律のいかなる規定も、個人、集団又は団体が、その保障された自由に基いて、教義をひろめ、儀式行事を行い、その他宗教上の行為を行うことを制限するものと解釈してはならない。」と定めている。このようにして、真の信教の自由は、その歴史的沿革、信者の数の多少その他当該宗教をめぐる諸般の情況のいかんにかかわらず、すべての宗教がその教義をひろめ、儀式行事を行い、その他宗教上の行為を行う自由をひとしく保障されるところに成り立つのであつて、これをその反面からみれば、各宗教には他の宗教が憲法上保障されている宗教上の行為に干渉せず、これを妨げないという寛容さが、憲法上要請されているものということができる。このことは信者においても同様であり、各宗教の信者にも、他の宗教の行う宗教上の行為について、それが宗教団体その他の団体、集団によつて行われるものであれ、その信者によつて行われるものであれ、たとえそれに対し不快感をもつたとしても、これを受忍すべき寛容さが求められているものというべきである。もし逆にこのような不快感を理由に、人格権の侵害があるとし、法的救済を求めることができるとするならば、宗教団体等や信者が行う宗教上の行為、特にその宗教の教義をひろめるため、他の者に対し伝道、布教や宗教教育を行うような行為、あるいは信仰を異にする者のために祈る行為などは、すべて他の宗教の信者から損害賠償や差止めを訴求されるおそれがある行為ということになる。仮に宗教団体等や信者が行うそのような行為は、法的利益の侵害行為ではあるが、その法的利益はそれほど強いものではなく、その侵害行為の違法性も高くないから、相手方が受忍すべき限度内のものというべきで、不法行為は成立しないとの見解に立つとしても、これらの行為が他者に不快感を与えることにより、軽微とはいえその法的利益を侵害するものであるという以上、宗教団体等や信者として本来してはならない行為ということになつてしまうことには変わりはないのである。かくては、特に伝道、布教を活動の中心とする宗教においてその打撃が大きく、憲法が信教の自由を保障している趣旨は、全く没却されるといつて過言ではない。そして、右に述べたように、憲法は、その宗教の我が国における歴史的沿革や信者の多少にかかわらず、どのような宗教に対しても、またどのような宗教を信ずる者に対しても平等に信教の自由を保障しているのであつて、いわゆる宗教的少数者といわれる立場にある者を特別に保護しようとしているものではないから、このような者もその例外ではなく、ひとしくこの寛容さが求められていることはいうまでもない。

 

 

 さらに、この理は、死去した自己の配偶者や近親者を自己の信仰する宗教以外の宗教で慰霊し、あるいは信仰の対象とする者がある場合でも、同様であり、たとえその宗教上の行為に対し不快感を抱いても、これを受忍すべき寛容さが求められているのである。けだし、信教の自由は、何人に対しても、自己が慰霊の対象として選んだものを自己の信仰する宗教により慰霊し、また自己の信仰の対象として選んだものを信仰し、祈りをささげる自由を保障しているのであり、それは、慰霊や信仰の対象が縁故者であろうとなかろうと同じであるし、また信仰の対象が故人であつても、生存者であつても、さらには人間以外の生物、無生物、天然事象その他何であつても、異なるところはないからである。

 

 

 なお、ここで故人の近親者間の問題について一言する。信教の自由は、各個人に対し保障されているのであつて、今日においていわゆる家の宗教なるものが存在しないことはいうまでもないし、家族や近親者の間においても、相互に信仰を異にすることもまれではない。現に原審の判示するところによれば、Xの父ZがXの葬儀を仏式で挙行し、遺骨を仏壇に安置しておいたところ、被上告人は遺骨の一部を帯出した後、これをキリスト教会の納骨堂に納め、同教会の永眠者記念礼拝に出席しているというのであり、またZはXの合祀を非常にうれしく思い、Xの弟妹と連名でXの合祀について被上告人の希望を容れないで欲しい旨の嘆願書を県E会あてに送付しているというのである。故人の追慕、慰霊に関して、近親者のうち特に配偶者の意向を父母又は子の意向に優先させるべき法理は見当たらないし、相互に信仰を異にする近親者が故人の追慕、慰霊に関し他の近親者のとつた宗教上の行為に対する不快感を理由に、相互に法的救済を求めることができるとするならば、真に収拾のつかない事態に立ち至ることが明らかである。近親者相互間においても、互いに寛容さが要請されるのである。

 

 

 さて、憲法二〇条二項は「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」と規定する。もとよりこの規定は、公権力による強制を禁止した規定であるが、私人相互間においてこのような強制にわたる行為があつた場合にも、その態様、程度が社会的に許容し得る限度を超えるときは、場合によつては、不法行為に関する諸規定等の適切な運用によつて、法的保護が図られるべきことは、多数意見の説示するとおりである。そして、このことから私人相互間においての団体、集団及び個人による宗教上の行為の許容される範囲、つまり、それに対して不快感を抱く者も、信教の自由が保障されている下では、法的利益の存在を主張できない限界が導き出されるというべきであろう。それは、強制、その反面としての禁止又は制限、圧迫又は干渉の有無である。

 

 

 してみれば、本件において、県護国神社が行つた本件合祀行為が被上告人の法的利益を侵害したものというべきか、それとも同神社に保障された信教の自由の範囲内のものというべきかは、右合祀行為それ自体及びそれに至る過程において、同神社が被上告人に対し同神社の行う宗教上の行為、儀式又は行事等に参加するよう強制し、あるいは被上告人の信仰又はそれに基づく行為に対し、禁止又は制限、圧迫又は干渉が加えられたと評価し得る点があつたか否かによつて決せられるべきことになろう。

 

 

 

 そこで、本件合祀行為及びそれに至る経緯をみると、県E会は、昭和四七年三月三一日ころ、同会長名義をもつて、Xを含む二七名の合祀を県護国神社に申請したところ、被上告人は同年四月五日、合祀の資料収集のため被上告人方を訪れた地連職員に対し、はじめて、自己の信仰を明らかにしてXの合祀を断る旨を告げたので、同月一〇日ころ地連職員が県E会のAc会長に被上告人の右意向を連絡したが、同会長はXについての合祀申請を撤回せず、前記のとおり同月一九日及び二〇日の両日県護国神社によつて本件合祀行為が行われたこと、そして被上告人が県護国神社の宗教行事への参加を強制されたことのないことは、原審の確定するところであり、またその不参加により不利益を受けた事実、その信仰及びこれに基づくXの記念追悼に禁止又は制限や圧迫又は干渉が加えられた事実については、何らの主張もなく、県護国神社宮司から発せられた永代命日祭斎行等に関する書面も、被上告人の信仰に対し何ら干渉するものでないことは、多数意見の説示するとおりである。そうだとすれば、本件合祀行為に関して、同神社が被上告人に対し同神社の行う宗教上の行為、儀式又は行事に参加するよう強制し、あるいは被上告人の信仰又はそれに基づく行為に対し、制限又は禁止、圧迫又は干渉が加えられたと評価する余地は全くなく、本件合祀行為により被上告人の法的利益は、何ら侵害されていないというべきである。

 

 

 私も、被上告人の意に反して本件合祀行為がされ、静謐な宗教的環境の下で自己の信仰に従い亡夫を追慕し、その魂の安らぎを求めつつ信仰生活を送るという利益を害されたとする被上告人の心情は、これを理解するにやぶさかではないが、前記のとおり、信教の自由を真に保障するためには、すべての人がその信仰いかんにかかわらず、他者の宗教上の行為を受忍すべきことが要請されていることに想いをいたすと、被上告人のいう心の静謐を法的に保護された利益として認めるわけにはいかないのである。

 

 

 二 地連職員の行為と宗教的活動について

 

 本件合祀申請は、地連とは別の組織である社団法人E会のF支部連合会(県E会)の発意により、その費用をもつて、その名義によつてされていることは、原審の判示するところである。それにもかかわらず原審は、この合祀申請について、合祀申請をした一点でとらえるのではなく、合祀申請に至る一連の経緯の中でとらえるならば、地連職員と県E会の共同の行為とみることができると判断するのである。一連の経緯の中で検討を試みることには、何の異論もない。しかしながら、原審の認定しているところによつて右合祀申請がされるに至つた過程をみても、殉職自衛隊員の合祀問題は、県E会に対する遺族からの要望に端を発したもので(原審は、陸上自衛隊Ae師団長の賛意の表明と推進の要望を重視するが、これは遺族の要望があつて六年余の後のことであり、発端は遺族から県E会への要望である。)、県E会の会長は、県護国神社宮司から合祀実現可能との感触を得た後、県E会の役員会に合祀申請を行うことを諮つてその了承を得るという組織としての正規の手続を経た上で、県護国神社宮司と合祀について折衝し、合意に達しているのであり、地連ないしその職員が直接県護国神社に合祀を働き掛けた事実は全くないのである。なるほど右過程において地連職員は、長崎県を除く九州各県の自衛隊Aiの総務課長にあてて各地の護国神社における殉職自衛隊員の合祀状況等を照会し、その回答を県E会の会長に閲覧させ、同会長の依頼により奉斎準則と県E会の募金趣意書を起案し、右趣意書を配布し、寄せられた募金を管理し、殉職者の遺族から合祀に必要な殉職者の除籍謄本及び殉職証明書を取り寄せている(起案した奉斎準則は、県護国神社の準則ではなく、県E会のする合祀申請の基準等を定めたものであり、また募金は、県E会としてした募金であつて、地連ないしその職員としてしたものではない。)。しかし、地連職員のした具体的行為がこの程度の行為にとどまるのに、本件合祀申請をとらえて、県E会と地連職員の共同の行為と評価することができるであろうか。当時県E会の事務局は、地連の建物内にあり、専任の事務員はおらず、県E会の業務の大半は地連職員が代行していたということも重視されている事実の一つであるが、我が国の社会に存在する会員相互の親睦等を目的とする各種団体、例えば学校の同窓会などの中には、組織の脆弱なものがあり、そのような団体にあつては、その母体である組織の建物の中に事務局をおき、役員以外には専任の事務員はおらず、その事務処理は、加入者名簿の作成整備、会費の受入れや管理から各種行事の実施に至るまで、大なり小なりその母体である組織に属する者の事務的な協力に支えられているものがあるのが、その実状かと思われる。世人は、このような団体がその発意により、その資金をもつて、その名義によつて行つている活動をもつて、当該団体と母体である組織に属する者との共同の行為と評価し、ひいては母体である組織に属する者のした活動と評価しているであろうか。県E会の事務局が地連の建物内にあり、専任の事務員はおらず、地連職員が代行していたという事実は、共同の行為と評価すべきか否かの判断に当たつて、さして重視すべきものではないと考えられる。本件において、原審の認定する具体的事実に着眼して評価する限り、いかに本件合祀申請に至る一連の経緯の中でとらえるとしても、県E会がその発意で、その費用で、その名義でした本件合祀申請を、地連職員との共同の行為と評価することはできないのである。

 

 

 そのほか原審の判示するところをみると、昭和三八年ころ以降自衛隊の幹部職員が全国各地における殉職自衛隊員の合祀の祭典の実施に公然と参画し、あるいは合祀実現について積極的な言動をしてきたとし、前記の陸上自衛隊Ae師団長の合祀に対する賛意の表明と推進の要望の後、地連において合祀申請を積極的に推進する態勢がとられるに至つたと推認されるとし、また社団法人E会は、自衛隊諸業務に対する各種協力をその事業の一つとするもので、県E会と地連とは密接な関係にあつたとし、さらに地連は自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚のため殉職自衛隊員の合祀の実現を図りたいと考えていたと推認されるなどとしているが、このようなことから地連職員による県E会への協力が積極的に行われ、またこれらが県E会による県護国神社宮司の合祀決断へ向けての説得に有利に作用したことがあつたとしても、地連職員のした前記具体的行為からすれば、これらも地連職員が実質的に本件合祀申請を行つたとの評価に導くに足るものではない。

 

 

 

 してみれば、本件において地連職員に憲法二〇条三項にいう宗教的活動と評価し得る行為があつたか否かは、その行つた具体的行為について検討するほかないところ、その具体的行為をみると、それは宗教上の式典、儀式、行事又は布教、教化宣伝活動のように、それ自体独立して宗教的意義を目的とする行為ではないことはもとより、県護国神社のした本件合祀行為とのかかわり合いも間接的、二次的なものにすぎず、その意識も自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚という世俗的なもので、宗教的意識は希薄と認められ、その行為の態様からしても、国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こし、あるいはこれを援助、助長、促進し、又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるような効果をもつものと一般人から評価される行為とは認め難く、憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たらないことは、多数意見の説示するとおりなのである。

 

 被上告人の主張は、この点からも理由がない。 

 

 三 しかしながら、憲法がその二〇条三項に政教分離規定を設けた趣旨にかんがみるときは、本件合祀申請に至る過程における地連職員の行為の中には、より慎重であることが望ましかつたものがあり、特に本件合祀行為が終了した後のある地連職員の言動の中には、行き過ぎの感を免れず、公務員としては自粛が求められるもののあることは、裁判官高島益郎、同四ツ谷巖、同奧野久之の補足意見のとおりであり、この点において、私は右補足意見に同調する。