【信教の自由(3-4)最大判昭和63年6月1日 殉職自衛官合祀事件 意見】

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 裁判官島谷六郎、同佐藤哲郎の意見は、次のとおりである。

 我々は、多数意見の結論には賛成するが、その結論に至る説示には同調することができないので、我々の見解を明らかにしておくこととしたい。

 

 一 多数意見は、本来合祀は、合祀申請がなくとも、当該神社の自主的な判断に基づいて決められる事柄であつて、本件における合祀も、県護国神社が殉職自衛隊員を合祀する方針を決定した結果、実現したものであるとし、また本件合祀申請は県E会の単独名義でなされ、地連職員は県E会に事務的に協力したにすぎないから、本件合祀申請を地連職員と県E会の共同行為とし、地連職員も本件合祀申請をしたものと評価することはできないとする。

 

 しかしながら、原判決(その引用する第一審判決を含む。以下同じ。)には、県護国神社が殉職自衛隊員合祀の方針を決定するまでの経緯として、次のような判示がある。

 

 1 昭和三八年ころから本件合祀が企画された昭和四六年に至るまで、自衛隊の幹部職員が全国各地における合祀の祭典に公然と参画し(原判決には、各地における具体的事実が詳細に判示されている。)、あるいは合祀実現について積極的な言動をしてきた事実が認められ、陸上自衛隊Ae師団のAp師団長、地連のAg部長らにおいて、県E会の行う合祀申請につき物心両面の協力と支援を行う言動に出たことが十分に推認される。

 

 2 昭和四六年五月二二日地連のAh総務課長は、九州各県(長崎県を除く。)の自衛隊Aiの総務課長にあてて各地における合祀実施の状況等を照会する文書を発し、福岡県を除く各県では既に合祀等がなされているとの回答を得、右照会文書の控えと回答書とを地連のAg部長と県E会のAc会長の閲覧に供したのであるが、右照会文書には、「地連としての」「方策決定の資に供した」いので、「御教示を賜」りたい旨の記載があり、地連として、合祀実現の資料とするために照会し、回答を得たもので、Ag部長も右のような照会をすることを容認していた。

 

 3 県E会のAc会長は、県護国神社のAd宮司に対し右回答結果に基づいて九州各県における合祀実施状況を説明し、県護国神社においても合祀されたい旨を重ねて折衝し、その結果、昭和四六年秋に至つて同宮司から合祀につき基本的に了解を得た。

 

 原審の判示するこれらの経緯によれば、直接県護国神社のAd宮司と折衝したのは、県E会のAc会長であつたかもしれないが、Ac会長は地連の強力な支援の下に折衝を行つているのであり、地連の強力な推進と支援があつたからこそ、Ac会長は折衝を行つたし、Ad宮司においても、県E会の申出の背後には地連の物心両面にわたる強力な推進と支援があるとみたからこそ、県E会の申出を諒とし、殉職自衛隊員の合祀を基本的に了解したものとみるべきである。

 

 合祀するか否かは当該神社の自主的な判断に基づいて決められる事柄であるとする多数意見は、抽象的にはそのとおりであるとしても、本件事案に即して考察すれば、県護国神社が自らの発意に基づいて単独に合祀の方針を決定したとは到底考えることができず、また県護国神社が県E会の説得のみによつて合祀の方針を決定したとみることも適切でない。県護国神社の合祀の方針決定は、本件合祀申請に至る間における地連及び県E会の強力な働き掛けの結果であり、この両者の合祀実現に向けての強力な推進がなければ、当初難色を示していた県護国神社が合祀の方針を決定することはなかつたであろうと考えられるのである。原判決には、昭和四五年秋には県E会のAc会長が同神社のAd宮司から合祀実現可能との感触を得ていたとの判示もあるが、右はあくまでもAc会長の得た感触にとどまり、この段階で県護国神社が合祀の方針を決定していたとの認定がされているわけではないのであつて、県護国神社は、その後の地連及び県E会の働き掛けによつて、昭和四六年秋に至りその合祀の方針を決定したものとみなければならない。

 

 また、多数意見は、本件合祀申請を地連職員と県E会の共同の行為と評価し得ない根拠として、本件合祀申請に至る過程において地連職員のした具体的行為がAh総務課長のした前記2の照会などにとどまること及び地連ないしその職員が直接県護国神社に働き掛けた事実がないことをも挙示するが、右のような照会をしたことは、九州各県における合祀実施状況の詳細を知つて、山口県においても合祀を推進しようとする地連の意図の表れであつて、単なる事務連絡ないし県E会に対する事務的な協力と目すべきものではないし、また直接県護国神社に働き掛けた事実はないとしても、本件における一連の経過を全体として考察するときは、地連は県E会を通じて県護国神社に働き掛けたものと評価すべきであることは右に述べたとおりである。

 

 したがつて、本件合祀申請に至る一連の行為、すなわち殉職自衛隊員の合祀を求めての県護国神社に対する働き掛けを全体としてみれば、それは地連職員と県E会の共同の行為と評価すべきであつて、これを是認した原審の判断は正当であり、地連職員は県E会のする合祀申請に事務的に協力したにすぎないとし、本件合祀申請が県E会の単独名義でされていることから、共同の行為でないとする多数意見は、余りにも形式論にすぎるといわなければならない。

 

 二 次に、多数意見は、本件における地連職員の行為は憲法二〇条三項にいう宗教的活動とまではいうことはできないとする。

 

 しかしながら、本件において、県護国神社は自らの発意に基づいて単独に合祀の方針を決定したものではなく、地連職員及び県E会の働き掛けがあつたからこそ、その意を汲んで合祀の方針を決定したものであることは、一に説示したとおりである。そして、かつて大日本帝国憲法下においては、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、種々弊害を生じたことにかんがみ、国家といかなる宗教との結びつきをも断ち切るため、憲法二〇条三項の政教分離規定が設けられたことからすれば、右規定は国家と宗教との完全な分離を目指しているものといわなければならない。したがつて、いやしくも国の機関としては、ことさらに特定の宗教に接近し、これと結びつくような行為は許されないのであつて、本件における地連職員の行為は、殉職自衛隊員の県護国神社への合祀という宗教上の行為を目的としたものであつて、右条項の禁止する宗教的活動に当たるものといわなければならない。

 

 さらに進んでいえば、合祀それ自体は県護国神社のした行為ではあるが、原判決判示の合祀に至る経緯に照らせば、地連職員及び県E会も同神社と意を通じ、共同してこの合祀を実現したとみることができるのであつて、このように県護国神社及び県E会と共同して合祀を実現した地連職員の行為は、まさしく宗教的活動そのものであるといわなければならない。

 

 三 しかしながら、憲法二〇条三項の政教分離規定に違反する国又はその機関の宗教的活動も、それが私人の権利又は法的利益を侵害するに至らない限り、私人に対する関係では当然には違法と評価されるものでないことは、多数意見の説示するとおりであるし、本訴において被上告人が宗教上の人格権又は宗教上のプライバシーとして主張するところのものは、これを法的利益として認めることができないとする点についても、我々は多数意見と意見を同じくする。したがつて、我々は多数意見とは理由を異にするが、上告人の不法行為責任を認めた原判決を破棄し、第一審判決を取り消した上、被上告人の本訴請求を棄却すべきものとする結論には同調するものである。

 

 

 

 

 裁判官坂上壽夫の意見は、次のとおりである。

 私は、本件について、原判決を破棄し、第一審判決を取り消し、被上告人の請求を棄却すべきであるとする多数意見の結論には同調するが、その理由として説示するところに賛同し難い点があるので、一言しておきたい。

 

 一 多数意見は、死去した配偶者の追慕、慰霊等に関する場合をも含めて、原審が宗教上の人格権であるとする静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない、と判示するが、私はこの点に賛同することができない。

 

 多数意見が右判示の理由とするところをみると、私人相互間において「自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によつて害されたとし、」「かかる宗教上の感情を被侵害利益として、」「法的救済を求めることができるとするならば、かえつて相手方の信教の自由を妨げる結果となる」のであつて、「信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請している」と説示している。私も、一般論としては、正にそのとおりであろうと考えるが、しかし、この一般論を本件のように県護国神社のしたXの合祀によりその妻である被上告人が不快の感情を抱き、心の静謐を害されたとする場合にまで及ぼすことはできないと考える。けだし、故人につきどのような宗教的方法で追慕、慰霊等を行つても、それは信教の自由として誰にでも保障されているというのは、既に当該故人の近親者が現存しない歴史上の人物等の場合にいえることなのであつて、その配偶者、子女又は父母などの近親者が遺族として現存している場合にも、これらの者の意思に反する宗教的方法で追慕、慰霊等を行うことを何人にも認め、遺族である近親者は、それが宗教にかかわるものである限り、いかに心の静謐を害されても、これに口を挟むことは許されず、これを坐視し、受忍しなければならないというのは、一般人の常識、社会通念に著しく反すると考えられるからである。

 

 

 してみれば、何人も、死去した近親者の追慕、慰霊等については、それが誰によつて行われる場合であつても、自己の意思に反しない宗教的方法によつてのみ行われることにより、その信仰に関する心の静謐を保持する法的利益を有すると解するのが相当であり、これは宗教上の人格権の一内容ということができる。多数意見の説示する「何人かをその信仰の対象とし、あるいは自己の信仰する宗教により何人かを追慕し、その魂の安らぎを求めるなどの宗教的行為をする自由は、誰にでも保障されている」ということは、故人の近親者の意思に反することのない場合においてのみいえることといわなければならない。

 

 

 したがつて、人は、死去した近親者に関して、他者により自己の意思に反する宗教的方法で追慕、慰霊等が行われ、その結果、自己の心の静謐が害された場合には、その宗教上の人格権に基づき、法的救済を求めることができるというべきである。

 

 

このような見解に対しては、当該他者の信教の自由が侵害される結果となるとの反論があるであろうが、憲法の保障する信教の自由といえども、他の人格権を侵害する場合にまで保障されるものでないことはいうまでもなく、信教の自由には当然にこのような制約が内在しているというべきである。

 

 

 これを本件についてみるに、県護国神社によるXの合祀は、信教の自由により保障されているところとして同神社が自由になし得ることは、多数意見のいうとおりである。しかし、それがXの配偶者である被上告人の意思に反したものであり、被上告人がそれにより不快の感情をもち、その信仰に関する心の静謐を害された以上、被上告人は法的利益を侵害されたものといわなければならない。

 

 

 このような法的利益の存在を否定する多数意見には、賛同し難い。

 

 

 二 もつとも、近親者の間においても互いにその信仰を異にする場合があり得るのであり、このような場合は、近親者の間においても故人の追慕、慰霊等の宗教的方法に関する意見を異にするであろうから、ある近親者の意思に沿つて行われた追慕、慰霊等により、他の近親者の心の静謐が害されることがあり得よう。本件においても、原審の確定するところによれば、Xの父ZがXの葬儀を仏式で挙行し、遺骨を仏壇に安置しておいたところ、被上告人は遺骨の一部を帯出した後、これをキリスト教会の納骨堂に納め、同教会の永眠者記念礼拝に出席しているというのであるから、Zは被上告人の信仰に基づく行為に対し不快の感情をもち、心の静謐を害されたであろうことは、想像に難くない。このような場合は、正に故人の近親者の間における人格権と人格権の衝突の場であり、多数意見のいう寛容が要請される場合であるといわなければならない。したがつて、ある近親者によつて行われ、又は

その意思に沿つて行われた追慕、慰霊等の方法が他の近親者にとつてはその意思に反するものであつても、それに対しては寛容が要請されなければならず、その者の心の静謐を優先して保護すべき特段の事情のない限り、その人格権の侵害は、受忍すべき限度内のものとして、その違法性が否定されるべきである。

 

 

 付言すれば、何人かによつて行われた追慕、慰霊等の方法が故人の意思に沿つていた場合においても、同様に違法性が否定されるべきである。けだし、追慕、慰霊等の方法に関し最も尊重されるべきは、当該故人の意思であるといわなければならず、故人の近親者は、たとえそれにより心の静謐を害されたとしても、それを受忍すべきであるからである。例えば、故人が近親者とその信仰を異にしたため、生前何人かに対しその葬儀の方式などに関して言い残し、これを受けてその意思に沿つて葬儀が行われた場合などが、それである。

 

 

 そこで、本件のXの合祀をみると、Xの父Zは、Xが合祀されたことを非常に喜び、昭和四七年八月一四日に至つてではあるが、Xの弟妹と連名Xの合祀について被上告人の希望を容れないで欲しい旨の嘆願書を県E会あてに提出していることは、原審の認定しているところであり、この事実によれば、客観的には、Xの合祀はその追慕、慰霊の宗教的方法として近親者であるZ等の意思には沿つていたものといわなければならない。もとより、Xの合祀は、Z等の申請によつて行われたものでも、事前にZ等の意思を聞いて行われたものでもないが、Z等の意思が右のようであるとすると、故人の配偶者である被上告人と故人の父であるZ等との関係において、特に被上告人の心の静謐を優先すべき事情が認められない本件においては、被上告人としては、たとえこの合祀が自己の意思に反するものであつて、心の静謐を害されたとしても、その侵害は、受忍すべき限度内のものとして、堪えるほかないといわなければならない。

 

 三 また、被上告人が侵害行為であると主張する本件合祀申請は、県E会の行為であつて、これを地連職員と県E会の共同の行為と評価することはできず、地連職員は県E会のした右申請に協力したものと評価すべきこと及び本件合祀申請に至る過程において県E会に協力してした地連職員の行為は、これを憲法二〇条三項にいう宗教的活動とまでいうことができないことは、多数意見の説示するとおりである。

 

したがつて、被上告人の本訴請求はこの点からも理由がない。 なお、Xの合祀後におけるある地連職員の言動には、行き過ぎの感を免れないものがあり、公務員として自粛が求められるところがあることについては、裁判官高島益郎、同四ツ谷巖、同奧野久之の補足意見のとおりであり、この点について私も右補足意見に同調する。