【政教分離(1-3)最大判昭和52年7月13日 津市地鎮祭事件・反対意見】


憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

憲法目次Ⅳ

 裁判官藤林益三の追加反対意見は、次のとおりである。

 一 国家と宗教

 信教の自由は、近世民主主義国家の一大原則であつて、これは数世紀にわたる政治的及び学問的闘争の結果、かちえた寛容の精神の結晶である。政教分離原則は、信教の自由の確立の歴史の過程で、その保障に不可欠の前提をなすものと考えられるに至つているが、次の二つの主要点を含む。

 () 国家は、いかなる宗教に対しても、特別の財政的もしくは制度的援助を与えず、又は特別の制限を加えない。すなわち国家は、すべての宗教に対して、同一にして中立的な態度をとるべきである。

 () 国家は、国民各自がいかなる宗教を信ずるかについて、何らの干渉を加えるべきではない。信教は、各個人の自由に放任されるべきものであり、宗教を信ずるや否や、信ずるとすればいかなる宗教を選ぶかは、国民各自の私事である。

 この原則の確立により国家の特定宗教への結びつきは原則的に否定せられ、国家は世俗的なもののみに関与すべきものとされるに至つたのであるが、これによつて、国家と宗教の問題が全く消滅したのではない。けだし、すべての国家は、その存立の精神的又は観念的基礎をもつ以上、宗教もまた人類の精神の所産であるから、国家は、信教自由の原則を認めると同時に、国家自身が、宗教に対して無関心、無感覚であつてはならない。信教自由の原則は、国家の宗教に対する冷淡の標識ではなく、かえつて宗教尊重の結果でなければならない。

 国家の存立は、真理に基づかねばならず、真理は擁護せられなければならない。しかしながら、何が真理であるかを決定するものは国家ではなく、また国民でもない。いかに民主主義の時代にあつても、国民の投票による多数決をもつて真理が決定せられるとは誰も考えないであろう。真理を決定するものは、真理それ自体であり、それは歴史を通して、すなわち人類の長い経験を通して証明せられる。真理は、自証性をもつ。しかし、自ら真理であると主張するだけでは、その真理性は確立せられない。それは、歴史を通してはじめて人類の確認するところとなるのである。宗教に関しても、真理は自証性を有するものであるといわなければならない。したがつて、真の宗教は、国家その他の世俗の力によつて支持されることなくして立つべきものであり、かつ、立つことが可能なのである。そして宗教は、その独立性こそが尊重せられるべきである。

 二 宗教の民主主義化

 国家神道又は神社神道に関する連合国最高司令官総司令部からのいわゆる神道指令は、三つの重要な点を含んでいる。そして、これが憲法二〇条の基礎をなしているのである。

 () 神社を宗教と認めたことである。これが日本国民の国民的感情に完全に合致するや否やは、若干疑問の余地がないではない。神社は、宗教として思想的体系が貧弱であり、むしろ素朴な民族的生活感情の表現たる点が多いからである。しかし、神社の行事並びに神職の行為には、宗教的行事と認められるものがあり、これが本件の問題である。

 () 神社を宗教と認める以上、これに国家の行政的もしくは財政的保護を与えることは、政教分離の原則上不当であるとして、これが廃止を命令されたことである。

 () このように国家より分離された神社を、宗教として信仰することは、国民の自由であるとされたことである。

 明治維新後、政府は、新日本を建設するに当たり、制度及び文化は西洋より輸入したが精神的根底としては日本古来の神ながらの道によることとし、この跛行的状態をもつて日本の近代化運動を開始した。かくして、事実上神社神道に国教的地位を認めながら、ただ国際的及び国内的の都合から、信教自由の原則に抵触させないために、神社は宗教に非ずとの解釈を下したのである。それ以来、日本の政治及び教育は、この線に沿つて行われた。自己の信ずる宗教の何であるかを問わず、国務大臣は新任に際して伊勢神宮に参拝することが慣例とせられ、地方官は官国幣社の大祭に奉幣使として参拝を命ぜられ、学校生徒は教師に引率されて集団的に神社に参拝し、地方住民は神社の氏子として祭礼に寄附を求められた。これらのことが慣行として一般に平穏に行われたことには、次の理由があつた。

 () 神社の宗教性が素朴であつたことである。神社神道には組織的な神学がなく、その神観は原始的であり、超自然的・奇蹟的要素がほとんどなかつた。すべてが概して自然的であり、かつ、人間的であつた。このように、神社の宗教性が素朴であることが、神社参拝を信教自由の原則に抵触しないものとして、一般国民に安易に受けいれさせたのである。

 () 日本の仏教は、理論的にも生活的にも神社と対立闘争することが少なく、むしろこれと協調し合流して、併立的に共存して来たという歴史的事実がある。すなわち日本の神々は、仏教諸仏の化身であるという本地垂迹説が唱えられて、日本の神々と仏教諸仏との調和・一致・併存が理論づけられ、仏寺の境内には鎮護の神社を祭るものもあり、日本国民の大部分は、仏教信者であると同時に神社の氏子であつた。すなわち個人としては仏教を信じ、国民としては神社を祭つて、毫も怪しむところがなく、平穏な生活を営んで来たのである。これは仏教の布教政策によつたものでもあり、一方、既述の如く、神社が素朴な宗教性をしかもたないからであつた。とにかく、過去一千年以上にわたつて実行せられて来た仏教と神社との二重生活によつて、明治維新以来の神社政策は、国民の間に大なる問題もなく受けいれられたのである。

 () 従来神社神道及び仏教によつて養われて来た日本国民の宗教意識そのものが、信教自由の問題について十分な敏感さをもたなかつたことである。けだし、神社神道も仏教も、その教義は多神教もしくは汎神教的であつて、キリスト教のような人格的一神教でなく、個人の人格の観念を刺激し、基本的人権の観念を発達せしめず、したがつて、信教自由の原則の重要性を認識させることも少なかつた。この事情が、神社参拝問題を信教の自由に抵触するものとして重要視しなかつたことの一大原因であろう。

 三 憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動

 信教の自由と政教分離の原則を宣明する憲法二〇条一項ないし三項の規定は、その制定に最大の影響を与えたものと思われるアメリカ合衆国憲法修正一条(連邦議会は法律により、国教の樹立を規定し、もしくは信教上の自由な行為を禁止することはできない。宮沢俊義編岩波文庫、世界憲法集訳)よりも、この点に関しては、更に徹底したものであり、世界各国憲法にもその比を見ないほどのものである。 その三項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しているが、その解釈の指導原理となるべき政教分離原則の意義から考えると、右規定によつて国及びその機関が行うことを禁止される宗教的活動とは、宗教の布教、宣伝、信者の教化、育成を目的とする積極的な活動にとどまらず、宗教上の祝典、儀式、行事など宗教的意義を有する一切の行為をいうものと解すべきである。そしてこのように、宗教的活動の意味を広く解すべき実質的理由は、次のとおりである。

 およそ歴史に知られた民族で宗教をもたなかつたものはないといわれる。もちろん、宗教学又は宗教史学にいわゆる宗教と、法律学上の宗教とは必ずしも同様に解すべきではないが、宗教に関して、神学者、哲学者、宗教の科学的研究者たちは、古来さまざまな宗教の定義を提示しており、その多様さは、学者の数だけ定義の数もあるといわれるほどである。それゆえ、わが国においても、法律上どこにも宗教の定義が示されていないことは当然であると思われる。また、アメリカ合衆国憲法にも、宗教もしくは宗教的ということばの定義は見られないのみならず、アメリカ連邦最高裁判所は、もろもろの宗教又は宗教らしいものに対応するに際して、宗教や宗教的という用語を定義することなく、この語がどういう意味をもつにしろ、アメリカ合衆国憲法修正一条が「社会的義務に違反し、もしくは善良な秩序を破壊する行為に介入するような」政府の行動を禁止してはいないということで満足していたのである。すなわち法は、行為の抑制のためにつくられるのであるから、法は、宗教的な信念や見解そのものに干渉することはできないが、宗教的活動に対しては抑制が可能であるとしたのである。換言すれば、あらゆる宗教又は宗教らしいものを憲法上宗教として取りあつかい、その外部に現われたところのものを問題とするにとどまつたのである(清水望、滝澤信彦共訳、「コンヴイツツ・信教の自由と良心」のうち、宗教とは何か、参照)。

 思うに、わが憲法においても、宗教又は宗教的という語は、できうる限り広く解釈さるべきものである。しかるにこれを厳密に定義し、また、これを狭く解するときには、それ以外の宗教ないし宗教類似の行為には二〇条の保障が及ばないこととなつて、信教の自由が著しく制限される結果となるばかりでなく、反面、国家と宗教の密接な結びつきが許容される道を開くこととなるであろう。

 四 本件起工式の性質

 多数意見は、起工式が工事の無事安全等を祈願する儀式であり、「祈る」という行為を含むものであることまでは認めているが、今日では、それは一般人及び主催者の意識においては、建築上の儀礼と化してしまつているから、世俗的行事と評価されているとしている。すなわち慣行だというのである。もちろん世の中には、その起源を宗教的なものに発してはいるが、現在では宗教的意義を有しない諸行事が存することを認めないわけにはいかない。正月の門松は、年々減少していくようであるが、縁起ものとして今日でも行われている。雛祭りやクリスマスツリーの如きものも、親が子供に与える家庭のたのしみとして、あるいは集団での懇親のための行事として意味のあることが十分に理解できる。そして今日では、これらは宗教的意義を有しないとすることもできるであろう。しかし、原審認定のような状況下において、本件起工式をとり行うことをもつて、単なる縁起もの又はたのしみのようなものにすぎないとすることができるであろうか。多数意見も認めているとおり、本件のような儀式をとり入れた起工式を行うことは、特に工事の無事安全等を願う工事関係者にとつては、欠くことのできない行事とされているというのであつて、主催者の意思如何にかかわらず、工事の円滑な進行をはかるため、工事関係者の要請に応じて行われるものなのである。起工式後のなおらいの祝宴をめあてに、本件儀式がなされたとはとうてい考えられない。ここに単なる慣行というだけでは理解できないものが存在するのである。けだし、工事の無事安全に関する配慮が必要なだけならば、現在の進歩した建築技術のもとで、十分な管理がなされる限り、科学的にはこれにつけ加えるべきものはない。しかるに、工事の無事安全等に関し人力以上のものを希求するから、そこに人為以外の何ものかにたよることになるのである。これを宗教的なものといわないで、何を宗教的というべきであろうか。本件起工式の主催者津市長がたとえ宗教を信じない人であるとしても、本件起工式が人力以上のものを希求する工事関係者にとつて必須のものとして行われる以上、本件儀式が宗教的行事たることを失うものではない。これは宗教心のない喪主たる子が、親のために宗教的葬式を主催しても、それが宗教的行事であることに変りがないのと同様である。

 本件においては、土俗の慣例にしたがい大工、棟梁が儀式を行つたものではなく、神職四名が神社から出張して儀式をとり行つたのである。神職は、単なる余興に出演したのではない。原審の認定するとおり、祭祀は、神社神道における中心的表現であり、神社神道において最も重要な意義をもつものである。このことは、すべての神道学者が力説するところである。神社の宗教的活動は、祭りの営みにあるといつてよいくらいである。祭祀は、神社神道における神恩感謝の手ぶりであり、信仰表明の最も純粋な形式であるといわれる。教化活動は、祭りに始まり、祭りに終るということができるのであつて、祭祀をおろそかにしての教化活動は、神社神道においては無意味であるとされる。すなわち祭祀は、神社神道において最も重要にして第一義的意義を有するものであり、儀式あるいは儀礼が最上の宗教的行為なのである。

 五 宗教的少数者の人権

 本件起工式は、たとえ専門の宗教家である神職により神社神道固有の祭祀儀礼に則つて行われたものとしても、それが参列者及び一般人の宗教的関心を特に高めることとなるものとは考えられないというのが、多数意見である。神社神道が教化力に乏しいというところから、そういう議論になるのであろうが、たとえそうであるとしても、そのような儀式に対してすら、違和感を有する人があることもまた事実である。もとより、個人あるいは私法人が起工式を行うに当たり、神社神道又はその他の宗教によることは自由であり、これこそ信教の自由であるが、本件起工式は、地方公共団体が主催して行つたものであることが、案外、軽視されているように思われてならないのである。すなわち国家や地方公共団体の権限、威信及び財政上の支持が特定の宗教の背後に存在する場合には、それは宗教的少数者に対し、公的承認を受けた宗教に服従するよう間接的に強制する圧力を生じるからである。たとえ儀式に要する費用が多くなくても、また一般市民に参加を強制しなくても、それは問題でない(本件起工式では、来賓として地元有力者等百五十名の参列をえ、工事責任者が出席し、津市の職員が進行係をつとめ、被上告人請求の目的となつている挙式費用七六六三円を含め公金一七万四千円を支出した。)。要するに、そういう事柄から国家や地方公共団体は、手をひくべきものなのである。たとえ、少数者の潔癖感に基づく意見と見られるものがあつても、かれらの宗教や良心の自由に対する侵犯は多数決をもつてしても許されないのである。そこには、民主主義を維持する上に不可欠というべき最終的、最少限度守られなければならない精神的自由の人権が存在するからである。「宗教における強制は、他のいかなる事柄における強制とも特に明確に区別される。私がむりに従わされる方法によつて私が裕福となるかもしれないし、私が自分の意に反してむりに飲まされた薬で健康を回復することがあるかもしれないが、しかし、自分の信じていない神を崇拝することによつて私が救われようはずがないからである。」(ジエフアソン) 国家又は地方公共団体は、信教や良心に関するような事柄で、社会的対立ないしは世論の対立を生ずるようなことを避けるべきものであつて、ここに政教分離原則の真の意義が存するのである。

 六 以上が、反対意見に追加する私の意見であるが、その一及び二項において、私は矢内原忠雄全集一八巻三五七頁以下「近代日本における宗教と民主主義」の文章から多くの引用をしたことを、本判決の有する意義にかんがみ、付記するものである。