【政教分離(2-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見】

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憲法目次Ⅲ

憲法目次Ⅳ

【政教分離(2-1-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟】

【政教分離(2-1-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟2】

【政教分離(2-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見】

【政教分離(2-3)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見2】

【政教分離(2-4)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見3】

【政教分離(2-5-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-1】

【政教分離(2-5-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-2】

【政教分離(2-6-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見3-1】

 判示第一の二についての裁判官大野正男の補足意見は、次のとおりである。

 私は、多数意見に賛同するものであるが、多数意見第一の二につき、私の意見を

補足しておきたい。

 一 本件行為の目的について

 本件で重視されなければならないのは、玉串料等の奉納が、戦没者の慰霊、遺族の慰謝を目的とするものであるといっても、それはあくまでD神社、E神社という特定の宗教団体の祭祀に対してされているという事実である。その点を捨象して、単に、地方公共団体が戦没者の慰霊等を行うことに宗教的的意義があるか否かとか、あるいはそれが社会的儀礼に当たるか否かとかを論ずることは、事柄の本筋を見落とすものである。

 被上告人B1は、本件玉串料等の支出目的は、同人の支持団体であり同人が会長を務める県遺族会の要請にこたえ、県の行う戦没者の慰霊、遺族の慰謝という遺族援護行政の一環として行ったものであって、特段の宗教的意識を持って行ったものではない旨主張している。

 しかし、憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たるか否かの判断基準の一となるべき行為の目的は、当該行為者の主観的、内面的な感情の有無や濃淡によってのみ判断されるべきではなく、その行為の態様等との関連において客観的に判断されるべきものであり、とりわけ支出が宗教団体の世俗的な行為ではなくその宗教的な行為そのものに向けられているときは、世俗的目的もあるからといって、その行為の客観的目的の宗教的意義が直ちに否定されるものではない。

 本件支出行為は、一面において遺族の援護という行政的な目的を有するとしても、その対象がD神社等の最も重要な祭祀であって本来の行政の範囲に属する世俗的行為ではないから、直接的に特定の宗教団体の宗教儀式そのものへの賛助を目的としているといわざるを得ず、その宗教的意義を否定することはできない。

 二 本件行為の効果について

 被上告人B1は、本件玉串料等の奉納は戦没者慰霊等のためにされた少額のもので社会的儀礼であり、宗教に対する関心を特に高めたり、その援助、助長をするようなものではないと主張している。

 本件玉串料等の支出は相当年数にわたり継続して行われているとはいえ、一回の金員は五〇〇〇円ないし一万円程度のものであるから、経済的にみれば、宗教に対する援助、助長に当たるとは必ずしもいえないとの議論もあり得るかもしれない。しかしながら、政教分離原則の適用を検討するに当たっては、当該行為の外形的、経済的な側面のみにとらわれるべきでなく、社会的、歴史的条件に即してその実質をみる必要があり、社会に与える無形的なあるいは精神的な効果や影響をも考慮すべきである。そして、その観点よりすれば、以下に述べるとおり、その影響、効果は大きいといわざるを得ない。

 1 多数意見の述べるとおり、我が国においては各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存しているが、戦没者、戦争犠牲者の慰霊、追悼については各種の宗教団体がそれぞれの教義、教理、祭式に基づいてこれを執り行っているのであって、その中にあって地方公共団体がD神社等による戦没者慰霊の祭祀にのみ賛助することは、その祭祀を他に比して優越的に選択し、その宗教的価値を重視していると一般社会からみられることは否定し難く、特定の宗教団体に重要な象徴的利益を与えるものといわざるを得ない。およそ公的機関は、すべての、いかなる宗教をも援助、助長してはならないが、中でも併存する宗教団体のうちから特定の宗教団体を選択してその宗教儀式を賛助することは、政教分離の中心をなす国家の宗教的中立に反するものである。

 2 地方公共団体によるD神社等への玉串料等の公金の支出の世俗的影響も、無視することはできない。

 宗教的祭祀に起源を有する儀式等が多くの歳月を経てその宗教的意義が希薄になり、社会的儀礼や風俗として残っていることもまれではない。このような場合に公的機関がこれを行ったり参加したりしても、特定の宗教団体を支持していると受け取られることはなく、また、社会関係の円滑な維持のため役立つことはあっても、社会に対立をもたらすことは考え難い。しかし、公的機関がD神社等の祭祀に公金を支出してこれを賛助することについては、D神社に崇敬の念を持つ人々やD神社を戦没者慰霊の中心的施設と考える人々は、これに満足と共感を覚えるかもしれないが神道と教義を異にする宗教団体に属する人々や、D神社が国家神道の中枢的存在であるとしてそれへの礼拝を強制されたことを記憶する人々、あるいはD神社に合祀されている者は主として軍人軍属及び準軍属であって一般市民の戦争犠牲者のほとんどが含まれていないことに違和感を抱く人々は、これに不満と反感を持つかもしれない。そのような対立は、宗教的分野ばかりではなく、社会的、政治的分野においても起こり得ることである。公的機関が宗教にかかわりを持つ行為をすることによって、広く社会にこのような効果を及ぼすことは、公的機関を宗教的対立に巻き込むことになり、同時に宗教を世俗的対立に巻き込むことにもなるのであって、社会的儀礼や風俗として容認し得る範囲を超え、公的機関と宗教団体のいずれにとっても害をもたらすおそれを有するといわざるを得ない。そのようなことを避けることこそ、厳格な政教分離原則の規範を憲法が採用した趣旨に合致するものである。

 三 被上告人B1は、D神社は我が国における戦没者慰霊の中心的存在であるから、その祭祀に地方公共団体が玉串料を奉納することは社会的儀礼であると主張する。

 しかしながら、玉串料の奉納に儀礼的な意味合いがあるとしても、また、我が国近代史の一時期にD神社が戦没者の中心的慰霊施設として扱われたことがあるとしても、それを理由に政教分離原則の例外扱いを認めるべきものではない。

 憲法二〇条三項、八九条が厳格な政教分離原則を採用しているのは、多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決及び多数意見が繰り返し判示しているように、明治維新以降の我が国の社会において国家と神道が結び付き、国家神道に対して事実上国教的な地位が与えられ、その信仰が要請され、一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた歴史的経緯に基づくものであるが、このような政教の融合が生じたのも、「神社は宗教にあらず」ということを理由に、神道的祭祀や儀礼を世俗的な次元で社会的規範として取り入れ、また、臣民の義務であるとして事実上強制したからである。憲法は、第二次大戦後このような歴史的経験にかんがみて、信教の自由を国民の基本的人権として、これに強い保障を与えるとともに、国家と宗教が融合することは信教の自由に対する侵害になる危険性が高いことを認識して、その制度的保障として政教分離原則を採用し、前記規定を設けたものである。この立法の経緯及び趣旨に照らせば、右各条項は公的機関に対し強い規範性を有するものと解すべきであるから、我が国社会の中に、D神社に崇敬の念を持つ人々がいることは事実であり、また、それは信教の自由の保障するところでもあるが、いやしくも公的機関が特定の宗教団体であるD神社等に対し、公金を使用して玉串料等を奉納し特別の敬意を表することは、先に述べたとおり、その目的、効果を実質的にみれば、戦没者の慰霊、追悼について公的機関が特定の宗教団体との特別のかかわり合いを示すことは明らかであって、右憲法条項の規範性に照らし到底許されないことである。そして、このことは、単にD神社に対してのみ許されないことではなく、あらゆる宗教団体に対しても同様であることはもちろんである。

 判示第一の二についての裁判官福田博の補足意見は、次のとおりである。

 

 

 私は、多数意見に賛成するものであるが、この機会に、我が国における信教の自由について私が考えていることを若干補足して述べておきたい。

 信教の自由は、各種の人権の中でも最も基本的な自由権の一つとして、近代民主主義国家にあってその擁護が重視されているものである。多数意見に述べられているとおり、憲法に定める政教分離規定も、そのような信教の自由を一層確実なものとするための制度的保障として設けられたものである。

 我が国においては、神道は年中行事や冠婚葬祭などを通じて多くの国民の生活に密接に結び付いており、そのような行事や儀式への参加が自然なこととして受け入れられている部分があることは事実である。とはいえ、神道も宗教の一つであることは、信教の自由を保障する憲法二〇条が当然の前提としているところでもある。したがって、政教分離規定を適用して国(地方公共団体を含む。以下同じ。)の宗教へのかかわりをどこまで許すかを検討する際は、政教分離の原則が目指す国の非宗教性ないし宗教的中立性の理念は、神道を含むあらゆる宗教についてひとしく当てはまる理念であることを常に念頭に置くことが、不可欠であると考える。

 また、政教分離規定は、信教の自由を保障するために設けられたものであり、その適用に当たっては、国のかかわりを認めることにつき基本的に慎重な態度で臨むことが重要であると考える。なぜならば、国のかかわりを認めても差し支えないとされたことが結果的には国の信教の自由への過剰な関与(ひいては干渉ないし強制)につながることとなった事例が、諸国の歴史の中に散見されるからである。そして、このような慎重な態度を維持することは、緊密化する国際間の交流を通じ国民が様々な宗教に接する機会が増えつつある今日、我が国が信教の自由を保障し、いかなる信仰についても寛容であることを確保していく上でも、重要ではないかと考えるのである。

 

 

 

 

 判示第一の二についての裁判官園部逸夫の意見は、次のとおりである。

 本件支出が違法な公金の支出に当たるということについては、私も多数意見と結論を同じくするものであるが、その理由(多数意見第一の二)については、見解を異にする。

 我が国には、戦前から、戦没者追悼慰霊の中心的施設として、D神社及びE神社が置かれているが、原審の判断及び被上告人らの主張はいずれも、これらの神社が通常の宗教施設と異なった意義を有することを強調している。しかしながら、D神社及びE神社は、戦後の法制度の改革により、他の宗教団体と同等の地位にある宗教団体(宗教法人)となっており、その施設は、通常の宗教施設である。

 私は、右のことを前提とした上で、本件におりる公金の支出は、公金の支出の憲法上の制限を定める憲法八九条の規定に違反するものであり、この一点において、違憲と判断すべきものと考える。

 一般に、葬式・告別式等の際にお悔やみとして供される金員は、社会通念上、特定の故人の遺族を直接の対象とし社会的儀礼の範囲に属する支出とみられている。

これと異なり、宗教団体の主催する恒例の宗教行事のために、当該行事の一環としてその儀式にのっとった形式で奉納される金員は、当該宗教団体を直接の対象とする支出とみるべきである。したがって、右のような金員を公金から支出した行為は、一面において、その支出の財務会計上の費目、意図された支出の目的、支出の形態、支出された金額等に照らし社会的儀礼の範囲に属するとみられるところがあったとしても、詰まるところ、当該宗教団体の使用(宗教上の使用)のため公金を支出したものと判断すべきであって、このような支出は、宗教上の団体の使用のため公金を支出することを禁じている憲法八九条の規定に違反するものといわなければならない。

 これを本件についてみると、原審の適法に確定した事実関係によれば、被上告人B2らは、D神社又はE神社が各神社の境内において挙行した恒例の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際して、玉串料、献灯料又は供物料を奉納するため、多数意見第一の一掲記の回数及び金額の金員を県の公金から支出したというのであるから、右の金員は、D神社又はE神社の使用のため支出したものと認めるのを相当とする。したがって、右の支出は、憲法八九条の右規定に違反する違法な公金の支出というべきである。

 ここで、二つのことを付言しておきたい。まず、従来の最高裁判所判例は、公金を宗教上の団体に対して支出することを制限している憲法八九条の規定の解釈についても、憲法二〇条三項の解釈に関するいわゆる目的効果基準が適用されるとしているが、私は、右基準の客観性、正確性及び実効性について、尾崎裁判官の意見と同様の疑問を抱いており、特に、本判決において、その感を深くしている。しかし、その点はきておき、本件において、憲法八九条の右規定の解釈について、右基準を適用する必要はないと考える。

 次に、本件の争点である公金の支出の違憲性の判断について、当該支出が憲法八九条の右規定に違反することが明らかである以上、憲法二〇条三項に違反するかどうかを判断する必要はない。私は、およそ信教に関する問題についての公の機関の判断はできる限り謙抑であることが望ましいと考える。「為政者の全権限は、魂の救済には決して及ぶべきでなく、また及ぶことが出来ない。」(ジョン・ロック。種谷春洋『近代寛容思想と信教自由の成立』二三〇頁以下参照)