憲法重要判例六法F

憲法についての条文・重要判例まとめ

2014年06月

憲法目次Ⅳ

 

憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

憲法目次Ⅳ

第四章 国会

委任立法の限界

最大判昭和49年11月6日 猿払事件

 

国会議員の免責特権

最判平成9年9月9日

 

政党の自律権と司法権

最判平成7年5月25日 日本新党事件

 

   第五章 内閣

行政委員会の合憲性

福井地判昭和27年9月6日

 

内閣総理大臣

最大判平成7年2月22日 ロッキード事件

 

衆議院解散権

東京地裁昭和28年10月19日 

東京高判昭和29年9月22日  

名古屋高判昭和62年3月25日

 

   第六章 司法

 

第七十六条  すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。

○2  特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。

○3  すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

 

法律上の争訴

最判昭和41年2月8日(技術史国家試験事件)

最判平成14年7月9日(宝塚市パチンコ条例事件

 

最大判昭和37年3月7日(警察法改正無効事件)

最大判昭和35年10月19日(村議会出席停止事件)

最判昭和63年12月20日 (共産党袴田事件)

 

最判昭和56年4月7日 (板まんだら事件)

最判平成5年9月7日  (日蓮正宗管長事件)

 

裁判官の独立

最大決平成10年12月1日 寺西判事補事件

 

 

第八十二条  裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。

○2  裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。

 

憲法訴訟

最大判昭和27年10月8日(警察予備隊違憲訴訟)

 

統治行為

最大判昭和35年6月8日 

最大判昭和34年12月16日(砂川事件)

 

憲法判断回避

札幌地裁昭和42年3月29日(恵庭事件)

 

第三者の権利の援用

最大判昭和37年11月28日(第三者所有物没収事件)

 

合憲限定解釈

最大判昭和59年12月12日(税関検査事件)

最大判昭和44年4月2日 (都教組事件)

最大判昭和60年10月23日(福岡県青少年保護育成条例事件)

最大判昭和37年5月2日 (校風事故の報告義務)

 

立法事実に基づく合憲性判断

最大判昭和50年4月30日 (薬事法事件)

 

適用違憲

旭川地裁43年3月25日(猿払事件第1審判決)

最判昭和62年3月3日 (大分県屋外公開物条例事件)

 

部分違憲

最大判平成14年9月11日(郵便法違憲訴訟)

最大判平成20年6月4日 (国籍法違憲訴訟)

 

不遡及的効力・将来校

最大決平成7年7月5日

最大決平成25年9月4日 婚外子相続格差違憲決定

最大判昭和60年7月17日 (昭和60年衆議院定数不均衡訴訟)

 

 

 

 

   第七章 財政

 

   第八章 地方自治

 

第九十二条  地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

 

第九十三条  地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。

○2  地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。

 

第九十四条  地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。

 

第九十五条  一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。

 

地方自治の保障

最大判昭和38年3月27日 (東京都特別区長事件)

最大判平成8年8月28日  (沖縄代理署名訴訟)

 

地方公共団体の組織・機能

那覇地裁平成12年5月9日 (名古市住民投票条例事件)

福岡地裁昭和55年6月5日 (電気税訴訟)

 

条例制定権

最大判昭和33年10月15日(東京都買収等取締条例事件)

 

最大判昭和37年5月30日 (大阪市売春取締条例事件)

最大判昭和38年6月26日 (奈良県ため池条例事件)

 

法律と条令

最大判昭和50年9月10日

 

 

   第九章 改正

 

第九十六条

 

 

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信教の自由(1)【最判平成8年3月8日 エホバの証人剣道受講拒否事件】

要旨

信仰上の理由により剣道実技の履修を拒否した市立高等専門学校の学生に対する原級留置処分及び退学処分が裁量権の範囲を超える違法なものであるとされた事例

裁判要旨

市立高等専門学校の校長が、信仰上の理由により剣道実技の履修を拒否した学生に対し、必修である体育科目の修得認定を受けられないことを理由として二年連続して原級留置処分をし、さらに、それを前提として退学処分をした場合において、右学生は、信仰の核心部分と密接に関連する真しな理由から履修を拒否したものであり、他の体育種目の履修は拒否しておらず、他の科目では成績優秀であった上、右各処分は、同人に重大な不利益を及ぼし、これを避けるためにはその信仰上の教義に反する行動を採ることを余儀なくさせるという性質を有するものであり、同人がレポート提出等の代替措置を認めて欲しい旨申し入れていたのに対し、学校側は、代替措置が不可能というわけでもないのに、これにつき何ら検討することもなく、右申入れを一切拒否したなど判示の事情の下においては、右各処分は、社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超える違法なものというべきである。

 

判旨

 一 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。

  1 被上告人は、平成二年四月にD工業高等専門学校(以下「D高専」という。)に入学した者である。

  2 高等専門学校においては学年制が採られており、学生は各学年の修了の認定があって初めて上級学年に進級することができる。

D高専の学業成績評価及び進級並びに卒業の認定に関する規程(以下「進級等規程」という。)によれば、進級の認定を受けるためには、修得しなければならない科目全部について不認定のないことが必要であるが、ある科目の学業成績が一〇〇点法で評価して五五点未満であれば、その科目は不認定となる。

学業成績は、科目担当教員が学習態度と試験成績を総合して前期、後期の各学期末に評価し、学年成績は、原則として、各学期末の成績を総合して行うこととされている。

また、進級等規程によれば、休学による場合のほか、学生は連続して二回原級にとどまることはできず、D工業高等専門学校学則(昭和三八年神戸市教育委員会規則第一〇号。以下「学則」という。)及び退学に関する内規(以下「退学内規」という。)では、校長は、連続して二回進級することができなかった学生に対し、退学を命ずることができることとされている。

  3 D高専では、保健体育が全学年の必修科目とされていたが、平成二年度からは、第一学年の体育科目の授業の種目として剣道が採用された。

剣道の授業は、前期又は後期のいずれかにおいて履修すべきものとされ、その学期の体育科目の配点一〇〇点のうち七〇点、すなわち、第一学年の体育科目の点数一〇〇点のうち三五点が配点された。

  4 被上告人は、両親が、聖書に固く従うという信仰を持つキリスト教信者である「E」であったこともあって、自らも「E」となった。

被上告人は、その教義に従い、格技である剣道の実技に参加することは自己の宗教的信条と根本的に相いれないとの信念の下に、D高専入学直後で剣道の授業が開始される前の平成二年四月下旬、他の「E」である学生と共に、四名の体育担当教員らに対し、宗教上の理由で剣道実技に参加することができないことを説明し、レポート提出等の代替措置を認めて欲しい旨申し入れたが、右教員らは、これを即座に拒否した。

被上告人は、実際に剣道の授業が行われるまでに同趣旨の申入れを繰り返したが、体育担当教員からは剣道実技をしないのであれば欠席扱いにすると言われた。

上告人は、被上告人らが剣道実技への参加ができないとの申出をしていることを知って、同月下旬、体育担当教員らと協議をし、これらの学生に対して剣道実技に代わる代替措置を採らないことを決めた。

被上告人は、同月末ころから開始された剣道の授業では、服装を替え、サーキットトレーニング、講義、準備体操には参加したが、剣道実技には参加せず、その間、道場の隅で正座をし、レポートを作成するために授業の内容を記録していた。

被上告人は、授業の後、右記録に基づきレポートを作成して、次の授業が行われるより前の日に体育担当教員に提出しようとしたが、その受領を拒否された。

  5 体育担当教員又は上告人は、被上告人ら剣道実技に参加しない学生やその保護者に対し、剣道実技に参加するよう説得を試み、保護者に対して、剣道実技に参加しなければ留年することは必至であること、代替措置は採らないこと等のD高専側の方針を説明した。

保護者からは代替措置を採って欲しい旨の陳情があったが、D高専の回答は、代替措置は採らないというものであった。

その間、上告人と体育担当教員等関係者は、協議して、剣道実技への不参加者に対する特別救済措置として剣道実技の補講を行うこととし、二回にわたって、学生又は保護者に参加を勧めたが、被上告人はこれに参加しなかった。

その結果、体育担当教員は、被上告人の剣道実技の履修に関しては欠席扱いとし、剣道種目については準備体操を行った点のみを五点(学年成績でいえば二・五点)と評価し、第一学年に被上告人が履修した他の体育種目の評価と総合して被上告人の体育科目を四二点と評価した。

第一次進級認定会議で、剣道実技に参加しない被上告人外五名の学生について、体育の成績を認定することができないとされ、これらの学生に対し剣道実技の補講を行うことが決められたが、被上告人外四名はこれに参加しなかった。

そのため、平成三年三月二三日開催の第二次進級認定会議において、同人らは進級不認定とされ、上告人は、同月二五日、被上告人につき第二学年に進級させない旨の原級留置処分をし、被上告人及び保護者に対してこれを告知した。

  6 平成三年度においても、被上告人の態度は前年度と同様であり、学校の対応も同様であったため、被上告人の体育科目の評価は総合して四八点とされ、剣道実技の補講にも参加しなかった被上告人は、平成四年三月二三日開催の平成三年度第二次進級認定会議において外四名の学生と共に進級不認定とされ、上告人は、被上告人に対する再度の原級留置処分を決定した。

また、同日、表彰懲戒委員会が開催され、被上告人外一名について退学の措置を採ることが相当と決定され、上告人は、自主退学をしなかった被上告人に対し、二回連続して原級に留め置かれたことから学則三一条に定める退学事由である「学力劣等で成業の見込みがないと認められる者」に該当するとの判断の下に、同月二七日、右原級留置処分を前提とする退学処分を告知した。

  7 被上告人が、剣道以外の体育種目の受講に特に不熱心であったとは認められない。

また、被上告人の体育以外の成績は優秀であり、授業態度も真しなものであった。

    なお、被上告人のような学生に対し、レポートの提出又は他の運動をさせる代替措置を採用している高等専門学校もある。

 二 高等専門学校の校長が学生に対し原級留置処分又は退学処分を行うかどうかの判断は、校長の合理的な教育的裁量にゆだねられるべきものであり、裁判所がその処分の適否を審査するに当たっては、校長と同一の立場に立って当該処分をすべきであったかどうか等について判断し、その結果と当該処分とを比較してその適否、軽重等を論ずべきものではなく、校長の裁量権の行使としての処分が、全く事実の基礎を欠くか又は社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超え又は裁量権を濫用してされたと認められる場合に限り、違法であると判断すべきものである(最高裁昭和二八年(オ)第五二五号同二九年七月三〇日第三小法廷判決・民集八巻七号一四六三頁、最高裁昭和二八年(オ)第七四五号同二九年七月三〇日第三小法廷判決・民集八巻七号一五〇一頁、最高裁昭和四二年(行ツ)第五九号同四九年七月一九日第三小法廷判決・民集二八巻五号七九〇頁、最高裁昭和四七年(行ツ)第五二号同五二年一二月二〇日第三小法廷判決・民集三一巻七号一一〇一頁参照)。

かし、退学処分は学生の身分をはく奪する重大な措置であり、学校教育法施行規則一三条三項も四個の退学事由を限定的に定めていることからすると、当該学生を学外に排除することが教育上やむを得ないと認められる場合に限って退学処分を選択すべきであり、その要件の認定につき他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮を要するものである(前掲昭和四九年七月一九日第三小法廷判決参照)。

また、原級留置処分も、学生にその意に反して一年間にわたり既に履修した科目、種目を再履修することを余儀なくさせ、上級学年における授業を受ける時期を延期させ、卒業を遅らせる上、D高専においては、原級留置処分が二回連続してされることにより退学処分にもつながるものであるから、その学生に与える不利益の大きさに照らして、原級留置処分の決定に当たっても、同様に慎重な配慮が要求されるものというべきである。

そして、前記事実関係の下においては、以下に説示するとおり、本件各処分は、社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違法なものといわざるを得ない

 1 公教育の教育課程において、学年に応じた一定の重要な知識、能力等を学生に共通に修得させることが必要であることは、教育水準の確保等の要請から、否定することができず、保健体育科目の履修もその例外ではない。

しかし、高等専門学校においては、剣道実技の履修が必須のものとまではいい難く、体育科目による教育目的の達成は、他の体育種目の履修などの代替的方法によってこれを行うことも性質上可能というべきである。

 2 他方、前記事実関係によれば、被上告人が剣道実技への参加を拒否する理由は、被上告人の信仰の核心部分と密接に関連する真しなものであった。

被上告人は、他の体育種目の履修は拒否しておらず、特に不熱心でもなかったが、剣道種目の点数として三五点中のわずか二・五点しか与えられなかったため、他の種目の履修のみで体育科目の合格点を取ることは著しく困難であったと認められる。

したがって、被上告人は、信仰上の理由による剣道実技の履修拒否の結果として、他の科目では成績優秀であったにもかかわらず、原級留置、退学という事態に追い込まれたものというべきであり、その不利益が極めて大きいことも明らかである。

また、本件各処分は、その内容それ自体において被上告人に信仰上の教義に反する行動を命じたものではなく、その意味では、被上告人の信教の自由を直接的に制約するものとはいえないが、しかし、被上告人がそれらによる重大な不利益を避けるためには剣道実技の履修という自己の信仰上の教義に反する行動を採ることを余儀なくさせられるという性質を有するものであったことは明白である。

   上告人の採った措置が、信仰の自由や宗教的行為に対する制約を特に目的とするものではなく、教育内容の設定及びその履修に関する評価方法についての一般的な定めに従ったものであるとしても、本件各処分が右のとおりの性質を有するものであった以上、上告人は、前記裁量権の行使に当たり、当然そのことに相応の考慮を払う必要があったというべきである。

また、被上告人が、自らの自由意思により、必修である体育科目の種目として剣道の授業を採用している学校を選択したことを理由に、先にみたような著しい不利益を被上告人に与えることが当然に許容されることになるものでもない。

 3 被上告人は、レポート提出等の代替措置を認めて欲しい旨繰り返し申し入れていたのであって、剣道実技を履修しないまま直ちに履修したと同様の評価を受けることを求めていたものではない。

これに対し、D高専においては、被上告人ら「E」である学生が、信仰上の理由から格技の授業を拒否する旨の申出をするや否や、剣道実技の履修拒否は認めず、代替措置は採らないことを明言し、被上告人及び保護者からの代替措置を採って欲しいとの要求も一切拒否し、剣道実技の補講を受けることのみを説得したというのである。

本件各処分の前示の性質にかんがみれば、本件各処分に至るまでに何らかの代替措置を採ることの是非、その方法、態様等について十分に考慮するべきであったということができるが、本件においてそれがされていたとは到底いうことができない。

   所論は、D高専においては代替措置を採るにつき実際的な障害があったという。

しかし、信仰上の理由に基づく格技の履修拒否に対して代替措置を採っている学校も現にあるというのであり、他の学生に不公平感を生じさせないような適切な方法、態様による代替措置を採ることは可能であると考えられる。

また、履修拒否が信仰上の理由に基づくものかどうかは外形的事情の調査によって容易に明らかになるであろうし、信仰上の理由に仮託して履修拒否をしようという者が多数に上るとも考え難いところである。

さらに、代替措置を採ることによって、D高専における教育秩序を維持することができないとか、学校全体の運営に看過することができない重大な支障を生ずるおそれがあったとは認められないとした原審の認定判断も是認することができる。

そうすると、代替措置を採ることが実際上不可能であったということはできない

   所論は、代替措置を採ることは憲法二〇条三項に違反するとも主張するが、信仰上の真しな理由から剣道実技に参加することができない学生に対し、代替措置として、例えば、他の体育実技の履修、レポートの提出等を求めた上で、その成果に応じた評価をすることが、その目的において宗教的意義を有し、特定の宗教を援助、助長、促進する効果を有するものということはできず、他の宗教者又は無宗教者に圧迫、干渉を加える効果があるともいえないのであって、およそ代替措置を採ることが、その方法、態様のいかんを問わず、憲法二〇条三項に違反するということができないことは明らかである。

また、公立学校において、学生の信仰を調査せん索し、宗教を序列化して別段の取扱いをすることは許されないものであるが、学生が信仰を理由に剣道実技の履修を拒否する場合に、学校が、その理由の当否を判断するため、単なる怠学のための口実であるか、当事者の説明する宗教上の信条と履修拒否との合理的関連性が認められるかどうかを確認する程度の調査をすることが公教育の宗教的中立性に反するとはいえないものと解される

これらのことは、最高裁昭和四六年(行ツ)第六九号同五二年七月一三日大法廷判決・民集三一巻四号五三三頁の趣旨に徴して明らかである。

 4 以上によれば、信仰上の理由による剣道実技の履修拒否を、正当な理由のない履修拒否と区別することなく、代替措置が不可能というわけでもないのに、代替措置について何ら検討することもなく、体育科目を不認定とした担当教員らの評価を受けて、原級留置処分をし、さらに、不認定の主たる理由及び全体成績について勘案することなく、二年続けて原級留置となったため進級等規程及び退学内規に従って学則にいう「学力劣等で成業の見込みがないと認められる者」に当たるとし、退学処分をしたという上告人の措置は、考慮すべき事項を考慮しておらず、又は考慮された事実に対する評価が明白に合理性を欠き、その結果、社会観念上著しく妥当を欠く処分をしたものと評するほかはなく、本件各処分は、裁量権の範囲を超える違法なものといわざるを得ない

 右と同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。

その余の違憲の主張は、その実質において、原判決の右判断における法令の解釈適用の誤りをいうものにすぎない。

また、右の判断は、所論引用の各判例に抵触するものではない。

論旨は採用することができない。

 よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

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【最判昭和63年2月5日  東京電力塩山営業所事件】

要旨

営業所長が、女子職員に対し、共産党員か否かを問い質し、かつ、共産党員でない旨を書面にして提出するよう求めた行為は、相当とはいい難い面もあるが、右職員の精神的自由を侵害した違法行為であるとまでは言えないとされた例

 

判旨

一 原審の確定した事実関係は、おおむね次のとおりである。

1 被上告人東京電力株式会社塩山営業所(以下「本件営業所」という。)の公開されるべきでないとされている情報が、ひそかに外部に漏れて日本共産党(以下「共産党」という。)の機関紙「赤旗」の昭和四八年一二月二八日付け紙上に報道されたことから、当時、本件営業所の所長であった第一審被告・控訴人亡齊藤忠司(昭和六二年三月二九日死亡により、被上告人齋藤恵美子、同齋藤肇、同中野節子、同河島久枝が本訴を承継した。以下「亡齋藤」という。)は、本件営業所の責任者として右報道記事の取材源につき調査の必要を認め、本件営業所の従業員の中でかねてから共産党の党員ないしその同調者であると噂の高かった訴外名取純一又は上告人以外に他に右取材源となる者はいないとの判断に基づいて、まず名取から昭和四九年一月二五日に事情を聴取し、次いで同年二月一五日に上告人から事情を聴取することにした。

2 亡齊藤は、同日午前八時五〇分ころ、上告人を本件営業所の応接室に呼び、二人だけで約一時間にわたる話合い(以下「本件話合い」という。)をし、その比較的冒頭の段階で、上告人が共産党員であるかどうかを尋ねた(以下この質問を「本件質問」という。)が、これに対し上告人は、共産党員ではない旨の返答をした。そこで、亡齋藤は、さらに、上告人に対して上告人が共産党員ではない旨を書面にしたためることを求めた(以下この要求を「本件書面交付の要求」という。)ところ、上告人は右要求を断る態度に出た。しかし、亡齋藤は、右書面を作成することの必要性などをいろいろ説いて右要求に応じさせようと、再三にわたり話題を変えて上告人の説得に努め、本件書面交付の要求を繰り返したが、上告人はこれを拒否して退室した。なお、本件質問及び本件書面交付の要求には強要にわたるところがなく、また、本件話合いの中で、亡齋藤が、上告人が本件書面交付の要求を拒否することによって不利益な取扱いを受ける虞のあることを示唆し、あるいは上告人が右要求に応じることによって有利な取扱いを受け得る旨の発言をした事実はなかった。

 

二 右事実関係によれば、亡齋藤が本件話合いをするに至った動機、目的は、本件営業所の公開されるべきでないとされていた情報が外部に漏れ、共産党の機関紙「赤旗」紙上に報道されたことから、当時、本件営業所の所長であった亡齋藤が、その取材源ではないかと疑われていた上告人から事情を聴取することにあり、本件話合いは企業秘密の漏えいという企業秩序違反行為の調査をするために行われたことが明らかであるから、亡齋藤が本件話合いを持つに至ったことの必要性、合理性は、これを肯認することができる。右事実関係によれば、亡齋藤は、本件話合いの比較的冒頭の段階で、上告人に対し本件質問をしたのであるが、右調査目的との関連性を明らかにしないで、上告人に対して共産党員であるか否かを尋ねたことは、調査の方法として、その相当性に欠ける面があるものの、前記赤旗の記事の取材源ではないかと疑われていた上告人に対し、共産党との係わりの有無を尋ねることには、その必要性、合理性を肯認することができないわけではなく、また、本件質問の態様は、返答を強要するものではなかったというのであるから、本件質問は、社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるとはいえない。さらに、前記事実関係によれば、本件話合いの中で、上告人が本件質問に対し共産党員ではない旨の返答をしたところ、亡齋藤は上告人に対し本件書面交付の要求を繰り返したというのであるが、企業内においても労働者の思想、信条等の精神的自由は十分尊重されるべきであることにかんがみると、亡齋藤が、本件書面交付の要求と右調査目的との関連性を明らかにしないで、右要求を繰り返したことは、このような調査に当たる者として慎重な配慮を欠いたものというべきであり、調査方法として不相当な面があるといわざるを得ない。

しかしながら、前記事実関係によれば、本件書面交付の要求は、上告人が共産党員ではない旨の返答をしたことから、亡齋藤がその旨を書面にするように説得するに至ったものであり、右要求は、強要にわたるものではなく、また、本件話合いの中で、亡齋藤が、上告人に対し、上告人が本件書面交付の要求を拒否することによって不利益な取扱いを受ける虞のあることを示唆したり、右要求に応じることによって有利な取扱いを受け得る旨の発言をした事実はなく、さらに、上告人は右要求を拒否した、というのであって、右事実関係に照らすと、亡齋藤がした本件書面交付の要求は、社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるということはできない

 したがって、右確定事実の下において上告人につき所論の不法行為に基づく損害賠償請求権が認められないとした原審の判断は、これを正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、右違法があることを前提とする所論憲法及び国際人権規約違反の主張は、失当である。論旨は、ひっきょう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は原判決を正解しないでその不当をいうものにすぎず、採用することができない。

憲法目次

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【最判昭和63年7月15日 麹町中学校内申書事件】

要旨

学校教育法施行規則五四条の三に基づく調査書(高校入試の際のいわゆる内申書)の記載は、生徒の思想信条の自由や表現の自由を侵害するものではない。

 

判旨

2 上告理由第一点のうち、原判決が学校教育法施行規則五四条の三に規定する調査書(以下「調査書」という。)として送付された本件調査書には、上告人の思想、信条にわたる事項又はそれと密接な関連を有する上告人の外部的行動を記載し、思想、信条を高等学校の入学者選抜の資料に供したことを違法でないとしたのは、教育基本法三条一項、憲法一九条に違反するものとする点について

本件調査書の備考欄及び特記事項欄にはおおむね「校内において麹町中全共闘を名乗り、機関紙『砦』を発行した。学校文化祭の際、文化祭粉砕を叫んで他校生徒と共に校内に乱入し、ビラまきを行つた。大学生ML派の集会に参加している。学校側の指導説得をきかないで、ビラを配つたり、落書をした。」との記載が、欠席の主な理由欄には「風邪、発熱、集会又はデモに参加して疲労のため」という趣旨の記載がされていたというのであるが、右のいずれの記載も、上告人の思想、信条そのものを記載したものでないことは明らかであり、右の記載に係る外部的行為によつては上告人の思想、信条を了知し得るものではないし、また、上告人の思想、信条自体を高等学校の入学者選抜の資料に供したものとは到底解することができないから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、採用できない

 なお、調査書は、学校教育法施行規則五九条一項の規定により学力検査の成績等と共に入学者の選抜の資料とされ、その選抜に基づいて高等学校の入学が許可されるものであることにかんがみれば、その選抜の資料の一とされる目的に適合するよう生徒の学力はもちろんその性格、行動に関しても、それを把握し得る客観的事実を公正に調査書に記載すべきであつて、本件調査書の備考欄等の記載も右の客観的事実を記載たものであることは、原判決の適法に確定したところであるから、所論の理由のないことは明らかである。

3 上告理由第一点のうち、調査書の制度が生徒の思想、信条に関する事項を評定の対象として調査書にその記載を許すものとすれば、調査書の制度自体が憲法一九条に違反するものとする点については、原判決の認定しない事実関係を前提とする仮定的主張であるから、到底採用することができない。

4 上告理由第一点のうち、原判決が、公立中学校の生徒には表現の自由の保障があるのに、その内在的制約の基準を明示せず、何の理由も付さずに、上告人が校内の秩序に害のある行動に及んだと認定したのは、理由不備の違法があるものとする点については、原判決は、適法詳細に認定した事実、すなわち、上告人が生徒会規則に違反し、再三にわたり学校当局の許可を得ないでビラ等を配付したこと、学校文化祭当日他校の生徒を含め一〇名の中学生と共にヘルメットをかぶり、覆面をして裏側通用門を乗り越え校内に立ち入つて、校舎屋上からビラをまき、シュプレヒコールをしながら校庭一周のデモ行進をしたこと、校舎壁面や教室窓枠、ロッカー等に落書をしたこと等の事実をもつて、「生徒会規則に違反し、校内の秩序に害のあるような行動に及んで来た場合」であると判断しているのであつて、何ら理由不備の点はなく、また表現の自由の内在的制約の基準を明示的に判示していないが、表現の自由といえども右のような行為を許容するものでないことを前提として判断していることは明らかであるから、所論は採用できない。

5 上告理由第一点のうち、本件調査書の備考欄等に記載された上告人の行動は、いずれも思想、信条又は表現の自由の保障された範囲の行動であるのに、これをマイナス評価の対象として本件調査書に記載したものであるところ、上告人の思想、信条又はこれにかかわる右の行動をマイナス評価の対象とすることを違法でないとした原判決の判断は、憲法一九条、二一条に違反するものとする点について

() 憲法一九条違反の主張については、所論はその前提を欠き採用できないものであることは、前記一の2において判示したとおりである。

() 憲法二一条違反の主張について

 原判決の適法に認定したところによると、本件中学校においては、学校当局の許可を受けないで校内においてビラ等の文書を配付すること等を禁止する旨を規定した生徒会規則が存在し、本件調査書の備考欄等の記載事項中、上告人が麹町中全共闘を名乗つて機関紙「砦」を発行したこと、学校文化祭の際ビラまきを行つたこと、ビラを配付したり落書をしたことの行為がいずれも学校当局の許可なくしてされたものであることは、本件調査書に記載されたところから明らかである。

 表現の自由といえども公共の福祉によつて制約を受けるものであるが(最高裁昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日大法廷判決・民集三八巻一二号一三〇八頁参照)、前記の上告人の行為は、原審の適法に確定したところによれば、いずれも中学校における学習とは全く関係のないものというのであり、かかるビラ等の文書の配付及び落書を自由とすることは、中学校における教育環境に悪影響を及ぼし、学習効果の減殺等学習効果をあげる上において放置できない弊害を発生させる相当の蓋然性があるものということができるのであるから、かかる弊害を未然に防止するため、右のような行為をしないよう指導説得することはもちろん、前記生徒会規則において生徒の校内における文書の配付を学校当局の許可にかからしめ、その許可のない文書の配付を禁止することは、必要かつ合理的な範囲の制約であつて、憲法二一条に違反するものでないことは、当裁判所昭和五二年(オ)第九二七号同五八年六月二二日大法廷判決(民集三七巻五号七九三頁)の趣旨に徴して明らかである。したがつて、仮に、義務教育課程にある中学生について一般人と同様の表現の自由があるものとしても、前記一の2において説示したとおり、調査書には、入学者の選抜の資料の一とされる目的に適合するよう生徒の性格、行動に関しても、これを把握し得る客観的事実を公正に記載すべきものである以上、上告人の右生徒会規則に違反する前記行為及び大学生ML派の集会の参加行為をいずれも上告人の性格、行動を把握し得る客観的事実としてこれらを本件調査書に記載し、入学者選抜の資料に供したからといつて、上告人の表現の自由を侵し又は違法に制約するものとすることはできず、所論は採用できない。

 二 上告理由第二点について

 所論は、教師が教育関係において得た生徒の思想、信条、表現行為及び信仰に関する情報は、調査書に記載することによつて志望高等学校に開示することができないものであるにもかかわらず、この情報の本件調査書の記載を適法とした原判決は、憲法二六条、一三条に違反する旨を主張するのであるが、本件調査書の備考欄等の記載は、上告人の思想、信条そのものの記載でもなく、外部的行為の記載も上告人の思想、信条を了知させ、また、それを評価の対象とするものとはみられないのみならず、その記載に係る行為は、いずれも調査書に記載して入学者の選抜の資料として適法に記載し得るものであるから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、採用できない。

 また、所論の憲法二六条のほか一三条違反をも主張する趣旨が本件調査書の記載が教育上のプライバシーの権利を侵害するものであるとするならば、本件調査書の記載による情報の開示は、入学者選抜に関係する特定小範囲の人に対するものであつて、情報の公開には該当しないから、本件調査書の記載が情報の公開に該当するものとして憲法一三条違反をいう所論は、その前提を欠き、採用することができない。

思想良心の自由(3-2)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官那須弘平の補足意見】

憲法目次

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思想良心の自由(3-1)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】
思想良心の自由(3-2)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官那須弘平の補足意見】
思想良心の自由(3-3)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官藤田宙靖の反対意見】

【裁判官那須弘平の補足意見】は,次のとおりである。

私は,本件職務命令が憲法19条に違反しないとする多数意見にくみするものであるが,その理由とするところについては,以下のとおり若干の補足をする必要があると考える。

学校の儀式的行事において国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは,一般的には上告人の有する「君が代」に関する特定の歴史観ないし世界観と不可分に結び付くものということはできず,国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする職務命令を発しても,その歴史観ないし世界観を否定することにはならないこと(理由3(1)),客観的に見ても,入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をするという行為自体は,音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであって,その伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することが困難であること(同3(2))は,多数意見のとおりである。

しかし,本件の核心問題は,「一般的」あるいは「客観的」には上記のとおりであるとしても,上告人の場合はこれが当てはまらないと上告人自身が考える点にある。上告人の立場からすると,職務命令により入学式における「君が代」のピアノ伴奏を強制されることは,上告人の前記歴史観や世界観を否定されることであり,さらに特定の思想を有することを外部に表明する行為と評価され得ることにもなるものではないかと思われる。この点,本件で問題とされているピアノ伴奏は,外形的な手足の作動だけでこれを行うことは困難であって,伴奏者が内面に有する音楽的な感覚・感情や知識・技能の働きを動員することによってはじめて演奏可能となり,意味のあるものになると考えられる。上告人のような信念を有する人々が学校の儀式的行事において信念に反して「君が代」のピアノ伴奏を強制されることは,演奏のために動員される上記のような音楽的な内心の働きと,そのような行動をすることに反発し演奏をしたくない,できればやめたいという心情との間に心理的な矛盾・葛藤を引き起こし,結果として伴奏者に精神的苦痛を与えることがあることも,容易に理解できることである。

本件職務命令は,上告人に対し上述の意味で心理的な矛盾・葛藤を生じさせる点で,同人が有する思想及び良心の自由との間に一定の緊張関係を惹起させ,ひいては思想及び良心の自由に対する制約の問題を生じさせる可能性がある。したがって,本件職務命令と「思想及び良心」との関係を論じるについては,上告人が上記のような心理的矛盾・葛藤や精神的苦痛にさいなまれる事態が生じる可能性があることを前提として,これをなぜ甘受しなければならないのかということについて敷えんして述べる必要があると考える。

上記の点について,多数意見が挙げる憲法15条2項(「全体の奉仕者」),地方公務員法30条(「全体の奉仕者」として「公共の利益」のために勤務),32条(法令等及び上司の職務上の命令に従う義務)等の規定と,上告人のような「君が代」斉唱に批判的な信念を持つ教師の思想・良心の自由との関係については,以下のとおり理解することができる。

第1に,入学式におけるピアノ伴奏は,一方において演奏者の内心の自由たる「思想及び良心」の問題に深く関わる内面性を持つと同時に,他方で入学式の進行において参列者の国歌斉唱を補助し誘導するという外部性をも有する行為である。その内面性に着目すれば,演奏者の「思想及び良心の自由」の保障の対象に含まれ得るが,外部性に着目すれば学校行事の一環としての「君が代」斉唱をより円滑かつ効果的なものにするに必要な行為にほかならず,音楽専科の教諭の職務の一つとして校長の職務命令の対象となり得る性質のものである。このような両面性を持った行為が,「思想及び良心の自由」を理由にして,学校行事という重要な教育活動の場から事実上排除されたり,あるいは各教師の個人的な裁量にゆだねられたりするのでは,学校教育の均質性や組織としての学校の秩序を維持する上で深刻な問題を引き起こし,ひいては良質な教育活動の実現にも影響を与えかねない。

なお,学校の教師は専門的な知識と技能を有し,高い見識を備えた専門性を有するものではあるが,個別具体的な教育活動がすべて教師の専門性に依拠して各教師の裁量にゆだねられるということでは,学校教育は成り立たない面がある。少なくとも,入学式等の学校行事については,学校単位での統一的な意思決定とこれに準拠した整然たる活動(必ずしも参加者の画一的・一律の行動を要求するものではないが,少なくとも無秩序に流れることにより学校行事の意義を損ねることのない態様のものであること)が必要とされる面があって,学校行事に関する校長の教職員に対する職務命令を含む監督権もこの目的に資するところが大きい。

第2に,入学式における「君が代」の斉唱については,学校は消極的な意見を有する人々の立場にも相応の配慮を怠るべきではないが,他方で斉唱することに積極的な意義を見いだす人々の立場をも十分に尊重する必要がある。そのような多元的な価値の併存を可能とするような運営をすることが学校としては最も望ましいことであり,これが「全体の奉仕者」としての公務員の本質(憲法15条2項)にも合致し,また「公の性質」を有する学校における「全体の奉仕者」としての教員の在り方(平成18年法律第120号による全部改正前の教育基本法6条1項及び2項)にも調和するものであることは明らかである。

他面において,学校行事としての教育活動を適時・適切に実践する必要上,上記のような多元性の尊重だけではこと足りず,学校としての統一的な意思決定と,その確実な遂行が必要な場合も少なくなく,この場合には,校長の監督権(学校教育法28条3項)や,公務員が上司の職務上の命令に従う義務(地方公務員法32条)の規定に基づく校長の指導力が重要な役割を果たすことになる。そこで,前記のような両面性を持った行為についても,行事の目的を達成するために必要な範囲内では,学校単位での統一性を重視し,校長の裁量による統一的な意思決定に服させることも「思想及び良心の自由」との関係で許されると解する

本件職務命令は,小学校における入学式に際し,その式典の一環として従前の例に従い「君が代」を斉唱することを学校の方針として決定し,これを実施するために発せられたものである。そして,入学式において,「君が代」を斉唱させることが義務的なものかどうかについてはともかく,少なくとも本件当時における市立小学校においては,学校現場の責任者である校長が最終的な裁量権を行使して斉唱を行うことを決定することまで否定することは,上記校長の権限との関係から見ても,困難である。そうしてみると,学校が組織として国歌斉唱を行うことを決めたからには,これを効果的に実施するために音楽専科の教諭に伴奏させることは極めて合理的な選択であり,その反面として,これに代わる措置としてのテープ演奏では,伴奏の必要性を十分に満たすものとはいえないことから,指示を受けた教諭が任意に伴奏を行わない場合に職務命令によって職務上の義務としてこれを行わせる形を採ることも,必要な措置として憲法上許されると解する。

この場合,職務命令を受けた教諭の中には,上告人と同様な理由で伴奏することに消極的な信条・信念を持つ者がいることも想定されるところであるが,そうであるからといって思想・良心の自由を理由にして職務命令を拒否することを許していては,職場の秩序が保持できないばかりか,子どもたちが入学式に参加し国歌を斉唱することを通じ新たに始まる学年に向けて気持ちを引き締め,学習意欲を高めるための格好の機会を奪ったり損ねたりすることにもなり,結果的に集団活動を通じ子どもたちが修得すべき教育上の諸利益を害することとなる。

入学式において「君が代」の斉唱を行うことに対する上告人の消極的な意見は,これが内面の信念にとどまる限り思想・良心の自由の観点から十分に保障されるべきものではあるが,この意見を他に押しつけたり,学校が組織として決定した斉唱を困難にさせたり,あるいは学校が定めた入学式の円滑な実施に支障を生じさせたりすることまでが認められるものではない

上告人は,子どもに「君が代」がアジア侵略で果たしてきた役割等の正確な歴史的事実を教えず,子どもの思想及び良心の自由を実質的に保障する措置を執らないまま,「君が代」を歌わせることは,教師としての職業的「思想・良心」に反するとも主張する。上告人の主張にかかる上記職業的な思想・良心も,それが内面における信念にとどまる限りは十二分に尊重されるべきであるが,学校教育の実践の場における問題としては,各教師には教育の専門家として一定の裁量権が認められるにしても,すべてが各教師の選択にゆだねられるものではなく,それぞれの学校という教育組織の中で法令に基づき採択された意思決定に従い,総合的統一的に整然と実施されなければ,教育効果の面で深刻な弊害が生じることも見やすい理である。殊に,入学式や卒業式等の行事は,通常教員が単独で担当する各クラス単位での授業と異なり,学校全体で実施するもので,その実施方法についても全校的に統一性をもって整然と実施される必要があり,本件職務命令もこの観点から事前にしかも複数回にわたって校長から上告人に発出されたものであった。したがって,A小学校において,入学式における国歌斉唱を行うことが組織として決定された後は,上記のような思想・良心を有する上告人もこれに協力する義務を負うに至ったというべきであり,本件職務命令はこの義務を更に明確に表明した措置であって,これを違憲,違法とする理由は見いだし難い。

 

思想良心の自由(3-3)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官藤田宙靖の反対意見】

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思想良心の自由(3-1)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】
思想良心の自由(3-2)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官那須弘平の補足意見】
思想良心の自由(3-3)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官藤田宙靖の反対意見】

【裁判官藤田宙靖の反対意見】は,次のとおりである。

私は,上告人に対し,その意に反して入学式における「君が代」斉唱のピアノ伴奏を命ずる校長の本件職務命令が,上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえないとする多数意見に対しては,なお疑問を抱くものであって,にわかに賛成することはできない。その理由は,以下のとおりである。

多数意見は,本件で問題とされる上告人の「思想及び良心」の内容を,上告人の有する「歴史観ないし世界観」(すなわち,「君が代」が過去において果たして来た役割に対する否定的評価)及びこれに由来する社会生活上の信念等であるととらえ,このような理解を前提とした上で,本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは,上告人にとっては,この歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが,一般的には,これと不可分に結び付くものということはできないとして,上告人に対して同伴奏を命じる本件職務命令が,直ちに,上告人のこの歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないとし,また,このようなピアノ伴奏を命じることが,上告人に対して,特定の思想を持つことを強制したり,特定の思想の有無について告白することを強要するものであるということはできないとする。これはすなわち,憲法19条によって保障される上告人の「思想及び良心」として,その中核に,「君が代」に対する否定的評価という「歴史観ないし世界観」自体を据えるとともに,入学式における「君が代」のピアノ伴奏の拒否は,その派生的ないし付随的行為であるものとしてとらえ,しかも,両者の間には(例えば,キリスト教の信仰と踏み絵とのように)後者を強いることが直ちに前者を否定することとなるような密接な関係は認められない,という考え方に立つものということができよう。しかし,私には,まず,本件における真の問題は,校長の職務命令によってピアノの伴奏を命じることが,上告人に「『君が代』に対する否定的評価」それ自体を禁じたり,あるいは一定の「歴史観ないし世界観」の有無についての告白を強要することになるかどうかというところにあるのではなく(上告人が,多数意見のいうような意味での「歴史観ないし世界観」を持っていること自体は,既に本人自身が明らかにしていることである。そして,「踏み絵」の場合のように,このような告白をしたからといって,そのこと自体によって,処罰されたり懲戒されたりする恐れがあるわけではない。),むしろ,入学式においてピアノ伴奏をすることは,自らの信条に照らし上告人にとって極めて苦痛なことであり,それにもかかわらずこれを強制することが許されるかどうかという点にこそあるように思われる。そうであるとすると,本件において問題とされるべき上告人の「思想及び良心」としては,このように「『君が代』が果たしてきた役割に対する否定的評価という歴史観ないし世界観それ自体」もさることながら,それに加えて更に,「『君が代』の斉唱をめぐり,学校の入学式のような公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って,また,このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」といった側面が含まれている可能性があるのであり,また,後者の側面こそが,本件では重要なのではないかと考える。そして,これが肯定されるとすれば,このような信念ないし信条がそれ自体として憲法による保護を受けるものとはいえないのか,すなわち,そのような信念・信条に反する行為(本件におけるピアノ伴奏は,まさにそのような行為であることになる。)を強制することが憲法違反とならないかどうかは,仮に多数意見の上記の考えを前提とするとしても,改めて検討する必要があるものといわなければならない。このことは,例えば,「君が代」を国歌として位置付けることには異論が無く,従って,例えばオリンピックにおいて優勝者が国歌演奏によって讃えられること自体については抵抗感が無くとも,一方で「君が代」に対する評価に関し国民の中に大きな分かれが現に存在する以上,公的儀式においてその斉唱を強制することについては,そのこと自体に対して強く反対するという考え方も有り得るし,また現にこのような考え方を採る者も少なからず存在するということからも,いえるところである。この考え方は,それ自体,上記の歴史観ないし世界観とは理論的には一応区別された一つの信念・信条であるということができ,このような信念・信条を抱く者に対して公的儀式における斉唱への協力を強制することが,当人の信念・信条そのものに対する直接的抑圧となることは,明白であるといわなければならない。そしてまた,こういった信念・信条が,例えば「およそ法秩序に従った行動をすべきではない」というような,国民一般に到底受け入れられないようなものであるのではなく,自由主義・個人主義の見地から,それなりに評価し得るものであることも,にわかに否定することはできない。本件における,上告人に対してピアノ伴奏を命じる職務命令と上告人の思想・良心の自由との関係については,こういった見地から更に慎重な検討が加えられるべきものと考える。

多数意見は,また,本件職務命令が憲法19条に違反するものではないことの理由として,憲法15条2項及び地方公務員法30条,32条等の規定を引き合いに出し,現行法上,公務員には法令及び上司の命令に忠実に従う義務があることを挙げている。ところで,公務員が全体の奉仕者であることから,その基本的人権にそれなりの内在的制約が伴うこと自体は,いうまでもなくこれを否定することができないが,ただ,逆に,「全体の奉仕者」であるということからして当然に,公務員はその基本的人権につき如何なる制限をも甘受すべきである,といったレヴェルの一般論により,具体的なケースにおける権利制限の可否を決めることができないことも,また明らかである。

本件の場合にも,ピアノ伴奏を命じる校長の職務命令によって達せられようとしている公共の利益の具体的な内容は何かが問われなければならず,そのような利益と上記に見たようなものとしての上告人の「思想及び良心」の保護の必要との間で,慎重な考量がなされなければならないものと考える。ところで,学校行政の究極的目的が「子供の教育を受ける利益の達成」でなければならないことは,自明の事柄であって,それ自体は極めて重要な公共の利益であるが,そのことから直接に,音楽教師に対し入学式において「君が代」のピアノ伴奏をすることを強制しなければならないという結論が導き出せるわけではない。本件の場合,「公共の利益の達成」は,いわば,「子供の教育を受ける利益の達成」という究極の(一般的・抽象的な)目的のために,「入学式における『君が代』斉唱の指導」という中間目的が(学習指導要領により)設定され,それを実現するために,いわば,「入学式進行における秩序・紀律」及び「(組織決定を遂行するための)校長の指揮権の確保」を具体的な目的とした「『君が代』のピアノ伴奏をすること」という職務命令が発せられるという構造によって行われることとされているのである。そして,仮に上記の中間目的が承認されたとしても,そのことが当然に「『君が代』のピアノ伴奏を強制すること」の不可欠性を導くものでもない。公務員の基本的人権の制約要因たり得る公共の福祉ないし公共の利益が認められるか否かについては,この重層構造のそれぞれの位相に対応して慎重に検討されるべきであると考えるのであって,本件の場合,何よりも,上記の①「入学式進行における秩序・紀律」及び②「校長の指揮権の確保」という具体的な目的との関係において考量されることが必要であるというべきである。このうち上記①については,本件の場合,上告人は,当日になって突如ピアノ伴奏を拒否したわけではなく,また実力をもって式進行を阻止しようとしていたものでもなく,ただ,以前から繰り返し述べていた希望のとおりの不作為を行おうとしていたものにすぎなかった。従って,校長は,このような不作為を充分に予測できたのであり,現にそのような事態に備えて用意しておいたテープによる伴奏が行われることによって,基本的には問題無く式は進行している。ただ,確かに,それ以外の曲については伴奏をする上告人が,「君が代」に限って伴奏しないということが,参列者に一種の違和感を与えるかもしれないことは,想定できないではないが,問題は,仮に,上記1において見たように,本件のピアノ伴奏拒否が,上告人の思想・良心の直接的な表現であるとして位置付けられるとしたとき,このような「違和感」が,これを制約するのに充分な公共の福祉ないし公共の利益であるといえるか否かにある(なお,仮にテープを用いた伴奏が吹奏楽等によるものであった場合,生のピアノ伴奏と比して,どちらがより厳粛・荘厳な印象を与えるものであるかには,にわかには判断できないものがあるように思われる。)。また,上記②については,仮にこういった目的のために校長が発した職務命令が,公務員の基本的人権を制限するような内容のものであるとき,人権の重みよりもなおこの意味での校長の指揮権行使の方が重要なのか,が問われなければならないことになる。原審は,「思想・良心の自由も,公教育に携わる教育公務員としての職務の公共性に由来する内在的制約を受けることからすれば,本件職務命令が,教育公務員である控訴人の思想・良心の自由を制約するものであっても,控訴人においてこれを受忍すべきものであり,受忍を強いられたからといってそのことが憲法19条に違反するとはいえない。」というのであるが,基本的人権の制約要因たる公共の利益の本件における上記具体的構造を充分に踏まえた上での議論であるようには思われない。また,原審及び多数意見は,本件職務命令は,教育公務員それも音楽専科の教諭である上告人に対し,学校行事におけるピアノ伴奏を命じるものであることを重視するものと思われるが,入学式におけるピアノ伴奏が,音楽担当の教諭の職務にとって少なくとも付随的な業務であることは否定できないにしても,他者をもって代えることのできない職務の中枢を成すものであるといえるか否かには,なお疑問が残るところであり(付随的な業務であるからこそ,本件の場合テープによる代替が可能であったのではないか,ともいえよう。ちなみに,上告人は,本来的な職務である音楽の授業においては,「君が代」を適切に教えていたことを主張している。),多数意見等の上記の思考は,余りにも観念的・抽象的に過ぎるもののように思われる。これは,基本的に「入学式等の学校行事については,学校単位での統一的な意思決定とこれに準拠した整然たる活動が必要とされる」という理由から本件において上告人にピアノ伴奏を命じた校長の職務命令の合憲性を根拠付けようとする補足意見についても同様である。

以上見たように,本件において本来問題とされるべき上告人の「思想及び良心」とは正確にどのような内容のものであるのかについて,更に詳細な検討を加える必要があり,また,そうして確定された内容の「思想及び良心」の自由とその制約要因としての公共の福祉ないし公共の利益との間での考量については,本件事案の内容に即した,より詳細かつ具体的な検討がなされるべきである。このような作業を行ない,その結果を踏まえて上告人に対する戒告処分の適法性につき改めて検討させるべく,原判決を破棄し,本件を原審に差し戻す必要があるものと考える。

(裁判長裁判官那須弘平裁判官上田豊三裁判官藤田宙靖裁判官

堀籠幸男裁判官田原睦夫)

思想良心の自由(3-1)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】

憲法目次

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思想良心の自由(3-1)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】
思想良心の自由(3-2)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官那須弘平の補足意見】
思想良心の自由(3-3)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官藤田宙靖の反対意見】

要旨

判示事項

市立小学校の校長が音楽専科の教諭に対し入学式における国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏を行うよう命じた職務命令が憲法19条に違反しないとされた事例

裁判要旨

市立小学校の校長が職務命令として音楽専科の教諭に対し入学式における国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏を行うよう命じた場合において,(1)上記職務命令は「君が代」が過去の我が国において果たした役割に係わる同教諭の歴史観ないし世界観自体を直ちに否定するものとは認められないこと,(2)入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をする行為は,音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであり,当該教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難であって,前記職務命令は前記教諭に対し特定の思想を持つことを強制したりこれを禁止したりするものではないこと,(3)前記教諭は地方公務員として法令等や上司の職務上の命令に従わなければならない立場にあり,前記職務命令は,小学校教育の目標や入学式等の意義,在り方を定めた関係諸規定の趣旨にかなうものであるなど,その目的及び内容が不合理であるとはいえないことなど判示の事情の下では,前記職務命令は,前記教諭の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するということはできない。

(補足意見及び反対意見がある。)

 

 

判旨

理由

本件は,市立小学校の音楽専科の教諭である上告人が,入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏を行うことを内容とする校長の職務上の命令に従わなかったことを理由に被上告人から戒告処分を受けたため,上記命令は憲法19条に違反し,上記処分は違法であるなどとして,被上告人に対し,上記処分の取消しを求めている事案である。

原審の適法に確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。

(1) 上告人は,平成11年4月1日から日野市立A小学校に音楽専科の教諭として勤務していた。

(2) A小学校では,同7年3月以降,卒業式及び入学式において,音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」の斉唱が行われてきており,同校の校長(以下「校長」という。)は,同11年4月6日に行われる入学式(以下「本件入学式」という。)においても,式次第に「国歌斉唱」を入れて音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」を斉唱することとした。

(3) 同月5日,A小学校において本件入学式の最終打合せのための職員会議が開かれた際,上告人は,事前に校長から国歌斉唱の際にピアノ伴奏を行うよう言われたが,自分の思想,信条上,また音楽の教師としても,これを行うことはできない旨発言した。校長は,上告人に対し,本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を行うよう命じたが,上告人は,これに応じない旨返答した。

(4) 校長は,同月6日午前8時20分過ぎころ,校長室において,上告人に対し,改めて,本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を行うよう命じた(以下,校長の上記(3)及び(4)の命令を「本件職務命令」という。)が,上告人は,これに応じない旨返答した。

(5) 同日午前10時,本件入学式が開始された。司会者は,開式の言葉を述べ,続いて「国歌斉唱」と言ったが,上告人はピアノの椅子に座ったままであった。校長は,上告人がピアノを弾き始める様子がなかったことから,約5ないし10秒間待った後,あらかじめ用意しておいた「君が代」の録音テープにより伴奏を行うよう指示し,これによって国歌斉唱が行われた。

(6) 被上告人は,上告人に対し,同年6月11日付けで,上告人が本件職務命令に従わなかったことが地方公務員法32条及び33条に違反するとして,地方公務員法(平成11年法律第107号による改正前のもの)29条1項1号ないし3号に基づき,戒告処分をした。

上告代理人吉峯啓晴ほかの上告理由第2のうち本件職務命令の憲法19条違反をいう部分について

(1) 上告人は,「君が代」が過去の日本のアジア侵略と結び付いており,これを公然と歌ったり,伴奏することはできない,また,子どもに「君が代」がアジア侵略で果たしてきた役割等の正確な歴史的事実を教えず,子どもの思想及び良心の自由を実質的に保障する措置を執らないまま「君が代」を歌わせるという人権侵害に加担することはできないなどの思想及び良心を有すると主張するところ,このような考えは,「君が代」が過去の我が国において果たした役割に係わる上告人自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上の信念等ということができる。しかしながら,学校の儀式的行事において「君が代」のピアノ伴奏をすべきでないとして本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは,上告人にとっては,上記の歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが,一般的には,これと不可分に結び付くものということはできず,上告人に対して本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする本件職務命令が,直ちに上告人の有する上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないというべきである。

(2) 他方において,本件職務命令当時,公立小学校における入学式や卒業式において,国歌斉唱として「君が代」が斉唱されることが広く行われていたことは周知の事実であり,客観的に見て,入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をするという行為自体は,音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであって,上記伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものであり,特に,職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には,上記のように評価することは一層困難であるといわざるを得ない。

本件職務命令は,上記のように,公立小学校における儀式的行事において広く行われ,A小学校でも従前から入学式等において行われていた国歌斉唱に際し,音楽専科の教諭にそのピアノ伴奏を命ずるものであって,上告人に対して,特定の思想を持つことを強制したり,あるいはこれを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものでもなく,児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない。

(3) さらに,憲法15条2項は,「すべて公務員は,全体の奉仕者であって,一部の奉仕者ではない。」と定めており,地方公務員も,地方公共団体の住民全体の奉仕者としての地位を有するものである。こうした地位の特殊性及び職務の公共性にかんがみ,地方公務員法30条は,地方公務員は,全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し,かつ,職務の遂行に当たっては全力を挙げてこれに専念しなければならない旨規定し,同法32条は,上記の地方公務員がその職務を遂行するに当たって,法令等に従い,かつ,上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない旨規定するところ,上告人は,A小学校の音楽専科の教諭であって,法令等や職務上の命令に従わなければならない立場にあり,校長から同校の学校行事である入学式に関して本件職務命令を受けたものである。そして,学校教育法18条2号は,小学校教育の目標として「郷土及び国家の現状と伝統について,正しい理解に導き,進んで国際協調の精神を養うこと。」を規定し,学校教育法(平成11年法律第87号による改正前のもの)20条,学校教育法施行規則(平成12年文部省令第53号による改正前のもの)25条に基づいて定められた小学校学習指導要領(平成元年文部省告示第24号)第4章第2D(1)は,学校行事のうち儀式的行事について,「学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。」と定めるところ,同章第3の3は,「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と定めている。入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で国歌斉唱を行うことは,これらの規定の趣旨にかなうものであり,A小学校では従来から入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」の斉唱が行われてきたことに照らしても,本件職務命令は,その目的及び内容において不合理であるということはできないというべきである。

(4) 以上の諸点にかんがみると,本件職務命令は,上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえないと解するのが相当である。なお,上告人は,雅楽を基本にしながらドイツ和声を付けているという音楽的に不適切な「君が代」を平均律のピアノという不適切な方法で演奏することは音楽家としても教育者としてもできないという思想及び良心を有するとも主張するが,以上に説示したところによれば,上告人がこのような考えを有することから本件職務命令が憲法19条に反することとなるといえないことも明らかである。以上は,当裁判所大法廷判決(最高裁昭和28年(オ)第1241号同31年7月4日大法廷判決・民集10巻7号785頁,最高裁昭和44年(あ)第1501号同49年11月6日大法廷判決・刑集28巻9号393頁,最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁及び最高裁昭和44年(あ)第1275号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号1178頁)の趣旨に徴して明らかである。所論の点に関する原審の判断は,以上の趣旨をいうものとして,是認することができる。論旨は採用することができない。

その余の上告理由について

論旨は,違憲及び理由の不備をいうが,その実質は事実誤認若しくは単なる法令違反をいうもの又はその前提を欠くものであって,民訴法312条1項及び2項に規定する事由のいずれにも該当しない。

 

よって,裁判官藤田宙靖の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文

のとおり判決する。なお,裁判官那須弘平の補足意見がある。

 

憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

【最判平成8年3月19日 南税理士会政治献金事件】

要旨

税理士会が政党など政治資金規正法上の政治団体に金員を寄付することは、税理士会の目的の範囲外の行為であり、その寄付をするために会員から特別会費を徴収する旨の税理士会の総会決議は、会員の思想・信条の自由を考慮しておらず無効である

 

判旨

         主    文

一 原判決を破棄する。

二 上告人の請求中、被上告人の昭和五三年六月一六日の総会決議に基づく特別会費の納       入義務を上告人が負わないことの確認を求める部分につき、被上告人の控訴を棄却する。

三 その余の部分につき、本件を福岡高等裁判所に差し戻す。

四 第二項の部分に関する控訴費用及び上告費用は被上告人の負担とする。

         理    由

 上告代理人馬奈木昭雄、同板井優、同浦田秀徳、同加藤修、同椛島敏雅、同田中利美、同西清次郎、同藤尾順司、同吉井秀広の上告理由第一点、第四点、第五点、上告代理人上条貞夫、同松井繁明の上告理由、上告代理人諌山博の上告理由及び上告人の上告理由について

一 右各上告理由の中には、被上告人が政治資金規正法(以下「規正法」という。)上の政治団体へ金員を寄付することが彼上告人の目的の範囲外の行為であり、そのために本件特別会費を徴収する旨の本件決議は無効であるから、これと異なり、右の寄付が被上告人の目的の範囲内であるとした上、本件特別会費の納入義務を肯認した原審の判断には、法令の解釈を誤った違法があるとの論旨が含まれる。以下、右論旨について検討する。

二 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。

 1 被上告人は、税理士法(昭和五五年法律第二六号による改正前のもの。以下単に「法」という。)四九条に基づき、熊本国税局の管轄する熊本県、大分県、宮崎県及び鹿児島県の税理士を構成員として設立された法人であり、D税理士会連合会(以下「D税連」という。)の会員である(法四九条の一四第四項)。被上告人の会則には、被上告人の目的として法四九条二項と同趣旨の規定がある。

 2 E税理士政治連盟(以下「E税政」という。)は、昭和四四年一一月八日、税理士の社会的、経済的地位の向上を図り、納税者のための民主的税理士制度及び租税制度を確立するため必要な政治活動を行うことを目的として設立されたもので、被上告人に対応する規正法上の政治団体であり、F税理士政治連盟の構成員である。

 3 G税理士政治連盟、H税理士政治連盟、I税理士政治連盟及びJ税理士政治連盟(以下、一括して「K税政」という。)は、E税政傘下の都道府県別の独立した税政連として、昭和五一年七、八月にそれぞれ設立されたもので、規正法上の政治団体である。

 4 被上告人は、本件決議に先立ち、昭和五一年六月二三日、被上告人の第二〇回定期総会において、税理士法改正運動に要する特別資金とするため、全額をK税政へ会員数を考慮して配付するものとして、会員から特別会費五〇〇〇円を徴収する旨の決議をした。被上告人は、右決議に基づいて徴収した特別会費四七〇万円のうち四四六万円をK税政へ、五万円をE税政へそれぞれ寄付した。

 5 被上告人は、昭和五三年六月一六日、第二二回定期総会において、再度、税理士法改正運動に要する特別資金とするため、各会員から本件特別会費五〇〇〇円を徴収する、納期限は昭和五三年七月三一日とする、本件特別会費は特別会計をもって処理し、その使途は全額K税政へ会員数を考慮して配付する、との内容の本件決議をした。

 6 当時の被上告人の特別会計予算案では、本件特別会費を特別会計をもって処理し、特別会費収入を五〇〇〇円の九六九名分である四八四万五〇〇〇円とし、その全額をK税政へ寄付することとされていた。

 7 上告人は、昭和三七年一一月以来、被上告人の会員である税理士であるが、本件特別会費を納入しなかった。

 8 被上告人の役員選任規則には、役員の選挙権及び被選挙権の欠格事由として「選挙の年の三月三一日現在において本部の会費を滞納している者」との規定がある。

 9 被上告人は、右規定に基づき、本件特別会費の滞納を理由として、昭和五四年度、同五六年度、同五八年度、同六〇年度、同六二年度、平成元年度、同三年度の各役員選挙において、上告人を選挙人名簿に登載しないまま役員選挙を実施した。三 上告人の本件請求は、K税政へ被上告人が金員を寄付することはその目的の範囲外の行為であり、そのための本件特別会費を徴収する旨の本件決議は無効であるなどと主張して、被上告人との間で、上告人が本件特別会費の納入義務を負わないことの確認を求め、さらに、被上告人が本件特別会費の滞納を理由として前記のとおり各役員選挙において上告人の選挙権及び被選挙権を停止する措置を採ったのは不法行為であると主張し、被上告人に対し、これにより被った慰謝料等の一部として五〇〇万円と遅延損害金の支払を求めるものである。

四 原審は、前記二の事実関係の下において、次のとおり判断し、上告人の右各請求はいずれも理由がないと判断した。

 1 法四九条の一二の規定や同趣旨の被上告人の会則のほか、被上告人の法人としての性格にかんがみると、被上告人が、税理士業務の改善進歩を図り、納税者のための民主的税理士制度及び租税制度の確立を目指し、法律の制定や改正に関し、関係団体や関係組織に働きかけるなどの活動をすることは、その目的の範囲内の行為であり、右の目的に沿った活動をする団体が被上告人とは別に存在する場合に、被上告人が右団体に右活動のための資金を寄付し、その活動を助成することは、なお被上告人の目的の範囲内の行為である。

 2 K税政は、規正法上の政治団体であるが、被上告人に許容された前記活動を推進することを存立の本来的目的とする団体であり、その政治活動は、税理士の社会的、経済的地位の向上、民主的税理士制度及び租税制度の確立のために必要な活動に限定されていて、右以外の何らかの政治的主義、主張を掲げて活動するものではなく、また、特定の公職の候補者の支持等を本来の目的とする団体でもない。

 3 本件決議は、K税政を通じて特定政党又は特定政治家へ政治献金を行うことを目的としてされたものとは認められず、また、上告人に本件特別会費の拠出義務を肯認することがその思想及び信条の自由を侵害するもので許されないとするまでの事情はなく、結局、公序良俗に反して無効であるとは認められない。本件決議の結果、上告人に要請されるのは五〇〇〇円の拠出にとどまるもので、本件決議の後においても、上告人が税理士法改正に反対の立場を保持し、その立場に多くの賛同を得るように言論活動を行うことにつき何らかの制約を受けるような状況にもないから、上告人は、本件決議の結果、社会通念上是認することができないような不利益を被るものではない。

 4 上告人は、本件特別会費を滞納していたものであるから、役員選任規則に基づいて選挙人名簿に上告人を登載しないで役員選挙を実施した被上告人の措置、手続過程にも違法はない。

五 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

 1 税理士会が政党など規正法上の政治団体に金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する政治的要求を実現するためのものであっても、法四九条二項で定められた税理士会の目的の範囲外の行為であり、右寄付をするために会員から特別会費を徴収する旨の決議は無効であると解すべきである。すなわち、

  () 民法上の法人は、法令の規定に従い定款又は寄付行為で定められた目的の範囲内において権利を有し、義務を負う(民法四三条)。この理は、会社についても基本的に妥当するが、会社における目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、その目的を遂行する上に直接又は間接に必要な行為であればすべてこれに包含され(最高裁昭和二四年(オ)第六四号同二七年二月一五日第二小法廷判決・民集六巻二号七七頁、同二七年(オ)第一〇七五号同三〇年一一月二九日第三小法廷判決・民集九巻一二号一八八六頁参照)、さらには、会社が政党に政治資金を寄付することも、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためにされたものと認められる限りにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為とするに妨げないとされる(最高裁昭和四一年(オ)第四四四号同四五年六月二四日大法廷判決・民集二四巻六号六二五頁参照)。

  () しかしながら、税理士会は、会社とはその法的性格を異にする法人であって、その目的の範囲については会社と同一に論ずることはできない。

 税理士は、国税局の管轄区域ごとに一つの税理士会を設立すべきことが義務付けられ(法四九条一項)、税理士会は法人とされる(同条三項)。また、全国の税理士会は、D税連を設立しなければならず、D税連は法人とされ、各税理士会は、当然にD税連の会員となる(法四九条の一四第一、第三、四項)。

 税理士会の目的は、会則の定めをまたず、あらかじめ、法において直接具体的に定められている。すなわち、法四九条二項において、税理士会は、税理士の使命及び職責にかんがみ、税理士の義務の遵守及び税理士業務の改善進歩に資するため、会員の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的とするとされ(法四九条の二第二項では税理士会の目的は会則の必要的記載事項ともされていない。)、法四九条の一二第一項においては、税理士会は、税務行政その他国税若しくは地方税又は税理士に関する制度について、権限のある官公署に建議し、又はその諮問に答申することができるとされている。

 また、税理士会は、総会の決議並びに役員の就任及び退任を大蔵大臣に報告しなければならず(法四九条の一一)、大蔵大臣は、税理士会の総会の決議又は役員の行為が法令又はその税理士会の会則に違反し、その他公益を害するときは、総会の決議についてはこれを取り消すべきことを命じ、役員についてはこれを解任すべきことを命ずることができ(法四九条の一八)、税理士会の適正な運営を確保するため必要があるときは、税理士会から報告を徴し、その行う業務について勧告し、又は当該職員をして税理士会の業務の状況若しくは帳簿書類その他の物件を検査させることができる(法四九条の一九第一項)とされている。

 さらに、税理士会は、税理士の入会が間接的に強制されるいわゆる強制加入団体であり、法に別段の定めがある場合を除く外、税理士であって、かつ、税理士会に入会している者でなければ税理士業務を行ってはならないとされている(法五二条)。

 () 以上のとおり、税理士会は、税理士の使命及び職責にかんがみ、税理士の義務の遵守及び税理士業務の改善進歩に資するため、会員の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的として、法が、あらかじめ、税理士にその設立を義務付け、その結果設立されたもので、その決議や役員の行為が法令や会則に反したりすることがないように、大蔵大臣の前記のような監督に服する法人である。また、税理士会は、強制加入団体であって、その会員には、実質的には脱退の自由が保障されていない(なお、前記昭和五五年法律第二六号による改正により、税理士は税理士名簿への登録を受けた時に、当然、税理士事務所の所在地を含む区域に設立されている税理士会の会員になるとされ、税理士でない者は、この法律に別段の定めがある場合を除くほか、税理士業務を行ってはならないとされたが、前記の諸点に関する法の内容には基本的に変更がない。)。

 税理士会は、以上のように、会社とはその法的性格を異にする法人であり、その目的の範囲についても、これを会社のように広範なものと解するならば、法の要請する公的な目的の達成を阻害して法の趣旨を没却する結果となることが明らかである。

 () そして、税理士会が前記のとおり強制加入の団体であり、その会員である税理士に実質的には脱退の自由が保障されていないことからすると、その目的の範囲を判断するに当たっては、会員の思想・信条の自由との関係で、次のような考慮が必要である。

 税理士会は、法人として、法及び会則所定の方式による多数決原理により決定された団体の意思に基づいて活動し、その構成員である会員は、これに従い協力する義務を負い、その一つとして会則に従って税理士会の経済的基礎を成す会費を納入する義務を負う。しかし、法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。

 特に、政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、政党など規正法上の政治団体は、政治上の主義若しくは施策の推進、特定の公職の候補者の推薦等のため、金員の寄付を含む広範囲な政治活動をすることが当然に予定された政治団体であり(規正法三条等)、これらの団体に金員の寄付をすることは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題だからである。

 法は、四九条の一二第一項の規定において、税理士会が、税務行政や税理士の制度等について権限のある官公署に建議し、又はその諮問に答申することができるとしているが、政党など規正法上の政治団体への金員の寄付を権限のある官公署に対する建議や答申と同視することはできない。

 () そうすると、前記のような公的な性格を有する税理士会が、このような事柄を多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできないというべきであり(最高裁昭和四八年(オ)第四九九号同五〇年一一月二八日第三小法廷判決・民集二九巻一〇号一六九八頁参照)、税理士会がそのような活動をすることは、法の全く予定していないところである。税理士会が政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する要求を実現するためであっても、法四九条二項所定の税理士会の目的の範囲外の行為といわざるを得ない。

 2 以上の判断に照らして本件をみると、本件決議は、被上告人が規正法上の政治団体であるK税政へ金員を寄付するために、上告人を含む会員から特別会費として五〇〇〇円を徴収する旨の決議であり、被上告人の目的の範囲外の行為を目的とするものとして無効であると解するほかはない。

 原審は、K税政は税理士会に許容された活動を推進することを存立の本来的目的とする団体であり、その活動が税理士会の目的に沿った活動の範囲に限定されていることを理由に、K税政へ金員を寄付することも被上告人の目的の範囲内の行為であると判断しているが、規正法上の政治団体である以上、前判示のように広範囲な政治活動をすることが当然に予定されており、K税政の活動の範囲が法所定の税理士会の目的に沿った活動の範囲に限られるものとはいえない。因みに、K税政が、政治家の後援会等への政治資金、及び政治団体であるE税政への負担金等として相当額の金員を支出したことは、原審も認定しているとおりである。

六 したがって、原審の判断には法令の解釈適用を誤った違法があり、右の違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、その余の論旨について検討するまでもなく、原判決は破棄を免れない。そして、以上判示したところによれば、上告人の本件請求のうち、上告人が本件特別会費の納入義務を負わないことの確認を求める請求は理由があり、これを認容した第一審判決は正当であるから、この部分に関する被上告人の控訴は棄却すべきである。また、上告人の損害賠償請求については更に審理を尽くさせる必要があるから、本件のうち右部分を原審に差し戻すこととする。

 よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、四〇七条一項、九六条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

     最高裁判所第三小法廷

         裁判長裁判官    園   部   逸   夫

            裁判官    可   部   恒   雄

            裁判官    大   野   正   男

            裁判官    千   種   秀   夫

            裁判官    尾   崎   行   信

 

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-3)裁判官藤田八郎の反対意見・裁判官垂水克己の反対意見

憲法目次

憲法目次

憲法目次

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-1)

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-2) 裁判官栗山茂の意見・裁判官入江俊郎の意見

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-3)裁判官藤田八郎の反対意見・裁判官垂水克己の反対意見

【裁判官藤田八郎の反対意見】

 本件における被上告人の請求の趣意、並びにこれを容認した原判決の趣意は、上告人に対し、上告人がさきにした原判示の所為は、被上告人の名誉を傷つけ、被上告人に迷惑を及ぼした非行であるとして、これにつき被上告人に陳謝する旨の意を新聞紙上に謝罪広告を掲載する方法により表示することを命ずるにあることは極めて明らかである。しかして、本件において、上告人は、そのさきにした本件行為をもつて、被上告人の名誉を傷つける非行であるとは信ぜず、被上告人に対し陳謝する意思のごときは、毛頭もつていないことは本件弁論の全経過からみて、また、極めて明瞭である。

 かかる上告人に対し、国家が裁判という権力作用をもつて、自己の行為を非行なりとする倫理上の判断を公に表現することを命じ、さらにこれにつき「謝罪」「陳謝」という道義的意思の表示を公にすることを命ずるがごときことは、憲法一九条にいわゆる「良心の自由」をおかすものといわなければならない。けだし、憲法一九条にいう「良心の自由」とは単に事物に関する是非弁別の内心的自由のみならず、かかる是非弁別の判断に関する事項を外部に表現するの自由並びに表現せざるの自由をも包含するものと解すべきであり、このことは、憲法二〇条の「信教の自由」についても、憲法はただ内心的信教の自由を保障するにとどまらず、信教に関する人の観念を外部に表現し、または表現せざる自由をも保障するものであつて、往昔わが国で行われた「踏絵」のごとき、国家権力をもつて、人の信念に反して、宗教上の観念を外部に表現することを強制するごときことは、もとより憲法の許さないところであると、その軌を一にするものというべきである。従つて、本件のごとき人の本心に反して、事の是非善悪の判断を外部に表現せしめ、心にもない陳謝の念の発露を判決をもつて命ずるがごときことは、まさに憲法一九条の保障する良心の外的自由を侵犯するものであること疑を容れないからである。従前、わが国において、民法七二三条所定の名誉回復の方法として、訴訟の当事者に対し判決をもつて、謝罪広告の新聞紙への掲載を命じて来た慣例のあることは、多数説のとくとおりであるけれども、特に、明文をもつて、「良心の自由」を保障するに至つた新憲法下においてかかる弊習は、もはやその存続を許されないものと解すべきである。(そして、このことは、かかる判決が訴訟法上強制執行を許すか否かにはかかわらない。国家が権力をもつて、これを命ずること自体が良心の自由をおかすものというべきである。あたかも、婚姻予約成立の事実は認定せられても、当事者に対して、判決ををもつて、その履行―すなわち婚姻―を命ずることが、婚姻の本質上許されないと同様、強制執行の許否にかかわらず、判決自体の違法を招致するものと解すべきである)。 従つて、この点に関する論旨は理由あり、原判決が上告人に対し謝罪広告を以て、自己の行為の非行なることを認め陳謝の意を表することを命じた部分は破棄せらるべきである。

 

 

【裁判官垂水克己の反対意見】

 私は原判決が広告中に「謝罪」「陳謝」の意思を表明すべく命じた部分は憲法一

九条に違反し原判決は破棄せらるべきものと考える。

 一、判決と当事者の思想 裁判所が裁判をもつて訴訟当事者に対し一定の意思表示をなすべきことを命ずる場合に裁判所はその当事者が内心において如何なる思想信仰良心を持つているかは知ることもできないし、調査すべき事柄でもない。本件謝罪広告を命ずる判決をし又はこの判決を是認すべきか否かを判断するについても固より同じである。すなわち、かような判決をすべきかどうかを判断するについては上告人が、万一、場合によつてはこんな広告をすることは彼の思想信仰良心に反するとの理由からこれを欲しないかも知れないことも予想しなければならない。世の中には次のような思想の人もあり得るであろう―「今日多くの国家においては大多数の人々が労働の成果を少数者によつて搾取され、人間に値せぬ生活に苦しんでいる、これは重要生産手段の私有を認める資本主義の国家組織に原因するから、かかる組織の国家は地上からなくさなくてはならない、そのためには憲法改正の合法手段は先ず絶望であるから、手段を選ばずあらゆる合法・非合法手段、平和手段・暴力手段を用いてたたかい、かかる国家、その法律、国家機関、裁判、反対主義の敵に対しても、これを利用するのはよいが、屈服してはならない、これがわれわれの信条・道徳・良心である。」と。或は一部宗教家、無政府主義者のように、すべて人は一切他人を圧迫強制してはならない、国家、法律は圧力をもつて人を強制するものであるから、これに対しては、少くともできるだけ不服従の態度をとるべきである、という信条の人もあり得るであろう。かような人の内心の思想信仰良心の自由は法律、国権、裁判をもつてしても侵してはならないことは憲法一九条、二〇条の保障するところである。

 論者或はいうかもしれない「迷信や余りに普遍的妥当性のない考は思想でも信仰でもなく憲法の保障のほかにある」と。しかし、誰が迷信と断じ普遍的妥当性なしと決めるのか。一宗一主義は他宗他主義を迷信虚妄として排斥する。けれども、種々の思想、信条の自由活溌な発露、展開、論議こそ個人と人類の精神的発達、人格完成に貢献するゆえんであるとするのが、わが自由主義憲法の基本的精神なのであつて、憲法を攻撃する思想に対してさえ発表の機会を封ずることをせず思想は思想によつて争わしめようとするところに自由主義憲法の特色を見るのである。

 二、謝罪、陳謝とは上告人が、万一、前段設例のような信条の持主であると仮定するならば、本件裁判は彼の信条に反し彼の欲しない意思表明を強制することになるのではないか。この点を判断するには先ず「陳謝」ないし「謝罪」とは如何なる意味のものであるかを判定しなければならない。思うに一般に、「あやまる」、「許して下さい」、「陳謝」又は「遺憾」の意思表明とは(1)自分の行為若くは態度(作為・不作為)が宗教上、社会道徳上、風俗上若くは信条上の過誤であつた(善、正当、是、若くは直でなく悪、不当、非、若くは曲であつた、許されない規範違反であつた)ことの承認、換言すれば、自分の行為の正当性の否定である、或は(2)そのほか更に遡つて行為の原因となつた自分の考(信条を含む)が悪かつたことの承認、若くは一層進んで自分の人格上の欠陥の自認、ひいて劣等感の表明である、或は(3)なおこれに行為者が自分の考を改め将来同様の過誤をくり返さないことの言明を附加したものである。なお、記事や発言の「取消」というものがある。これには単なる訂正の意味のものもあるが、やはり前同様自己の記事や発言に瑕疵不当があつたとしてその正当性を否定する意味のものもある。

 本件広告は相当の配慮をもつて被上告人の申し立てた謝罪文を修正したものではあるが、原審は単に故意又は過失による不法行為としての名誉毀損を認めたに止まり刑法上の名誉毀損罪を認めたものではないから、本件広告に罪悪たることの自認を意味するものと解し得られる「謝罪」という文言を用いることは、或は上告人がその信条からいつて欲しないかも知れない。さすれば本件判決中、広告の標題に「謝罪」の文言を冠し、末尾に「ここに陳謝の意を表します」との文言を用いた部分は本人の信条に反し、彼の欲しないかも知れない意思表明の公表を強制するものであつて、憲法一九条に違反するものであるというのほかない。けだし同条は信条上沈黙を欲する者に沈黙する自由をも保障するものだからである。

 人は尋ねるかも知れない「それならば、当事者はどんな信条を持つているかも知れないから、裁判所はあらゆる当事者に対して或意思表示(例えば登記申請)をすべく命ずる裁判は一切できなくなるではないか、」と。固より左様でない。裁判所は法の世界で法律上の義務とせられるべき事項を命ずることはできるのである。しかし、行為者が自分の行為を宗教上、道徳風俗上、若くは信条上の規範違反である罪悪と自覚した上でなければできないような謝罪の意思表明の如きを判決で命ずることは、性質上法の世界外の内界の問題に立ち入ることであるから、たとえ裁判所がこれを民法七二三条による名誉回復に適当な処分と認めたとしても許されない訳なのである。

 三、法と道徳について法は人の行為についての国家の公権力による強制規範であり、行為とは意思の外部的表現である。人の考が一旦外部に現われて或行為(作為若くは不作為)と観られるに至つたときは社会ないし国家は関心なきを得ないので、法は或は行為を権利行為として保護し或は放任行為として干渉せず、或は表現(をすること又はしないこと)の自由の濫用とし、或は犯罪として刑罰を科し或は不法行為、債務不履行として賠償や履行を命じたりする。その場合に、法は行為が意思に基くか、又、如何なる意思に基くかをも探究する。もちろん、道徳が憲法以下の法の基本をなす部分が相当に大きく、この基本を取り去つては「個人の尊重」、「公共の福祉」、「権利の濫用」、「信義誠実」、「公序良俗」、「正当事由」、「正当行為」などという重要な概念が立処に理解できなくなるという関係ですでにこれらの概念は法概念と化していることは私もよく肯定するものである。しかし、法がこれら内心の状態を問題にしたり行為のかような道徳に由来する法律的意味を探究する場合にも、法はあくまで外部行為の価値を判定するに必要な限度において外部行為からうかがわれ得る内心の状態を問題とするに止まる。一定の行為が法の要求する一定の意思状態においてなされたものとして観られる以上、法はそれが何かの信条からなされたものかどうかを問わない。行為者の意思が財物奪取にあつたか殺害にあつたかは問題とされるが如何なる思想からしたかは問われない。無政府主義者が税制を否定し所得申告を欲しなくても法は彼の主義如何に拘わりなく申告と納税を強制する。かようにして法は作為・不作為に対しそれに相応する法律効果を付しこれによつて或結果の発生・不発生をもたらしその行為を処理しようとするものである。

 四、本件広告の内容謝罪の意思なき者に謝罪広告を命ずる裁判が合憲であるとの理由は出て来ない。けだし、謝罪は法の世界のほかなる宗教上、道徳風俗上若くは信条上の内心の善悪の判断をまつて始めてなされるものてあり、そして内心から自己の行為を悪と自覚した場合にのみ価値ある筈のものだからである。先ず、裁判所が上告人は判示所為をしたものでありその所為は不法行為たる名誉毀損に当ると認めた場合には、上告人の信条に拘わりなくこれによる義務の存在を確認させることができるのはもちろん、又、かかる所為をしたこと及びそれか名誉毀損に当ることを確認する旨の広告を上告人の意思に反してさせることもできることは疑いない。本件広告は単に「広告」と題し本文を「私は昭和二十七年十月一日施行された、云々、申訳もできないのはどうしたわけかと記載いたしましたが右放送及び記事は真実に相違して居り、貴下の名誉を傷け御迷惑をおかけいたしました。」と記載してなすべく命ずることも憲法一九条に違反するところなく妨げない、(客観的に、「真実に相違しておる」ことを確認させ、被害を与えたとの法律上の意味で「御迷惑をおかけしました」と言明すべき法的義務を課してもよい。)と考える、ところが本件広告には前に述べたように「謝罪」、「陳謝の意を表します」という文言を用いた部分があつてこの点は両当事者が重要な一点として争うところなのである。が、かような謝罪意思表明の義務は上告人の本件名誉毀損行為から法概念としての「善良の風俗」からでも生ずべき性質のものといえるであろうか。又、「かような謝罪の意思表明は名誉毀損の確認に附加されたところの、本件当事者双方の名誉を尊重した紳士的な社交儀礼上の挨拶に過ぎず、そしてそれは心にもない口先だけのものであつても被害者や世人はいずれその程度のものとして受けとる性質のものであるから、上告人も同様に受けとつてよいものである。」といえるてあろうか。私は疑なきを省ない。かような挨拶が被害者の名誉回復のために役立つとの面にのみに着眼し表意者が信条に反するために謝罪を欲しないため信条に反する意思表明を強制せられる場合のあることを顧みないで事を断ずるのは失当といわざるを得ない。私は本件広告中、右「謝罪」、「陳謝の意を表します」の文言があるのに、上告人が信条上欲しない場合でもこれをなすべきことを命ずる原判決は、性質上、上告人の思想及び良心の自由を侵すところがあり憲法一九条に違反するものと考える。これにはなお一つの理由を附加したい。それは本件判決が民訴法七三三条の代替執行の方法によつて強制執行をなし得るという点である。一説は本件判決は給付判決であつても夫婦同居を命ずる判決と同じく強制執行を許されないというが、夫婦同居判決のように強制執行のてきないことが自明なものならばその通りであるが、本件判決は理由中に別段本件広告については強制執行を許さない旨をことわつてなく、判決面ではそれを許しているものと解せられるものであり、そして本件広告が新聞紙に掲載せられたような場合に、読者は概ねそれが民事判決で命ぜられて余儀なくなされたもであることを知らずに、上告人が自発的にしたものであると誤解する公算が大きい。かくては上告人の信条に反し、そのの意思に出でない上告人の名における謝罪広告が公表せられることになり、夫婦同居判決が当事者の任意服従がないかぎり実現されずに終るのと違う結果を見るのである。されば論旨は理由があり、原判決が主文所掲広告の標題に冠した「謝罪」という文言とその末尾の「ここに陳謝の意を表します」との文言を表示すべく命じた部分は憲法一九条に違反するから原判決は破棄すべきものである。

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-2) 裁判官栗山茂の意見・裁判官入江俊郎の意見

 

憲法目次

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 【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-1)

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-2) 裁判官栗山茂の意見・裁判官入江俊郎の意見

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-3)裁判官藤田八郎の反対意見・裁判官垂水克己の反対意見

【裁判官栗山茂の意見】

 論旨は憲法一九条にいう「良心の自由」を倫理的内心の自由を意味するものと誤解して、原判決の同条違反を主張している。しかし憲法一九条の「良心の自由」は英語のフリーダム・オブ・コンシャンスの邦訳であつてフリーダム・オブ・コンシャンスは信仰選択の自由(以下「信仰の自由」と訳す。)の意味であることは以下にかかげる諸外国憲法等の用例で明である。

 先づアイルランド国憲法を見ると、同憲法四四条は「宗教」と題して「フリーダム・オブ・コンシャンス(「信仰の自由」)及び宗教の自由な信奉と履践とは公の秩序と道徳とに反しない限り各市民に保障される。」と規定している。次にアメリカ合衆国ではカリフオルニヤ州憲法(一条四節)は宗教の自由を保障しつつ「何人も宗教的信念に関する自己の意見のために証人若しくは陪審員となる資格がないとされることはない。しかしながらかように保障されたフリーダム・オブ・コンシャンス(「信仰の自由」)は不道徳な行為又は当州の平和若しくは安全を害するような行為を正当ならしむるものと解してはならない。」と規定している。そしてこのフリーダム・オブ・コンシャンス(「信仰の自由」)という辞句はキリスト教国の憲法上の用語とは限らないのであつて、インド国憲法二五条は、わざわざ「宗教の自由に対する権利」と題して「何人も平等にフリーダム・オブ・コンシャンス(「信仰の自由」)及び自由に宗教を信奉し、祭祀を行い、布教する権利を有する。」と規定し、更にビルマ国憲法も「宗教に関する諸権利」と題して二〇条で「すべての人は平等のフリーダム・オブ・コンシヤンス(「信仰の自由」)の権利を有し且宗教を自由に信奉し及び履践する権利を有する云々」と規定しており、イラク国憲法一三条は回教は国の公の宗教であると宣言して同教各派の儀式の自由を保障した後に完全なフリーダム・オブ・コンシャンス(「信仰の自由」)及び礼拝の自由を保障している。(ピズリー著各国憲法集二巻二一九頁。脚註に公認された英訳とある。)。英語のフリーダム・オブ・コンシヤンスは仏語のリベルテ・ド・コンシアンスであつて、フフンスでは現に宗教分離の一九〇五年の法律一条に「共和国はリベルテ・ド・コンシアンス(「信仰の自由」)を確保する。」と規定している。これは信仰選択の自由の確保であることは法律自体で明である。レオン、ヂユギはリベルテ・ド・コンシアンスを宗教に関し心の内で信じ若しくは信じない自由と説いている。(ヂュギ著憲法論五巻一九二五年版四一五頁)

 以上の諸憲法等の用例によると「信仰の自由」は広義の宗教の自由の一部として規定されていることがわかる。これは日本国憲法と異つて思想の自由を規定していないからである。日本国憲法はポツダム宣言(同宣言一〇項は「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」と規定している)の条件に副うて規定しているので思想の自由に属する本来の信仰の自由を一九条において思想の自由と併せて規定し次の二〇条で信仰の自由を除いた狭義の宗教の自由を規定したと解すべきである。かように信仰の自由は思想の自由でもあり又宗教の自由でもあるので国際連合の採択した世界人権宣言(一八条)及びユネスコの人権規約案(一三条)にはそれぞれ三者を併せて「何人も思想、信仰及び宗教の自由を享有する権利を有する」と規定している。以上のように日本国憲法で「信仰の自由」が二〇条の信教の自由から離れて一九条の思想の自由と併せて規定されて、それを「良心の自由」と訳したからといつて、日本国憲法だけが突飛に倫理的内心の自由を意味するものと解すべきではないと考える。憲法九七条に「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であると言つているように、憲法一九条にいう「良心の自由」もその歴史的背景をもつ法律上の用語として理解すべきである。されば所論は「原判決の如き内容の謝罪文を新聞紙に掲載せしむることは上告人の良心の自由を侵害するもので憲法一九条の規定に違反するものである。」と言うけれども、それは憲法一九条の「良心の自由」を誤解した主張であつて、原判決には上告人のいう憲法一九条の「良心の自由」を侵害する問題を生じないのである。

 

 

 

【裁判官入江俊郎の意見】

 一、上告理由三は、要するに本件判決により、上告人は強制的に本件のごとき内容の謝罪広告を新聞紙へ掲載せしめられるのであり、それは上告人の良心の自由を侵害するものであつて、憲法一九条違反であるというのである。しかしわたくしは、本件判決は、給付判決ではあるが、後に述べるような理由により、その強制執行は許されないものであると解する。しからば本件判決は上告人の任意の履行をまつ外は、その内容を実現させることのできないものであつて、従つて上告人は本件判決により強制的に謝罪広告を新聞紙へ掲載せしめられることにはならないのであるから、所論違憲の主張はその前提を欠くこととなり採るを得ない。上告理由三については、右を理由として上告を棄却すべきものであると思うのである。

 二、多数説は、原判決の是認した被上告人の本訴請求は、上告人をして、上告人がさきに公表した事実が虚偽且つ不当であつたことを広報機関を通じて発表すベきことを求めるに帰するとなし、また、上告人に屈辱的若しくは苦役的労務を科し又は上告人の有する意思決定の自由、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられないといい、結局本件判決が民訴七三三条の代替執行の手続によつて強制執行をなしうるものであることを前提とし、しかもこれを違憲ならずと判断しているのである。しかしわたくしは、本件判決の内容は多数説のいうようなものではなく、上告人に対し、上告人のさきにした本件行為を、相手方の名誉を傷つけ相手方に迷惑をかけた非行であるとして、これについて相手方の許しを乞う旨を、上告人の自発的意思表示の形式をもつて表示すべきことを求めていると解すべきものであると思う。そして、若しこのような上告人名義の謝罪広告が新聞紙に掲載されたならば、それは、上告人の真意如何に拘わりなく、恰も上告人自身がその真意として本件自己の行為が非行であることを承認し、これについて相手方の許しを乞うているものであると一般に信ぜられるに至ることは極めて明白であつて、いいかえれば、このような謝罪広告の掲載は、そこに掲載されたところがそのまま上告人の真意であるとせられてしまう効果(表示効果)を発生せしめるものといわねばならない。自己の行為を非行なりと承認し、これにつき相手方の許しを乞うということは、まさに良心による倫理的判断でなくて何であろうか。それ故、上告人が、本件判決に従つて任意にこのような意思を表示するのであれば問題はないが、いやしくも上告人がその良心に照らしてこのような判断は承服し得ない心境に居るにも拘らず、強制執行の方法により上告人をしてその良心の内容と異なる事柄を、恰もその良心の内容であるかのごとく表示せしめるということは、まさに上告人に対し、その承服し得ない倫理的判断の形成及び表示を公権力をもつて強制することと、何らえらぶところのない結果を生ぜしめるのであつて、それは憲法一九条の良心の自由を侵害し、また憲法一三条の個人の人格を無視することとならざるを得ないのである。

 三、もとより、憲法上の自由権は絶対無制限のものではなく、憲法上の要請その他公共の福祉のために必要已むを得ないと認めるに足る充分の根拠が存在する場合には、これに或程度の制約の加えられることは必ずしも違憲ではないであろう。しかし自由権に対するそのような制約も、制約を受ける個々の自由権の性質により、その態様又は程度には自ら相違がなければならぬ筈のものである。ところで古人も「三軍は帥を奪うべし。匹夫も志を奪うべからず」といつたが、良心の自由は、この奪うべからざる匹夫の志であつて、まさに民主主義社会が重視する人格尊重の根抵をなす基本的な自由権の一である。そして、たとえ国家が、個人が自己の良心であると信じているところが仮に誤つていると国家の立場において判断した場合であつても、公権力によつてなしうるところは、個人が善悪について何らかの倫理的判断を内心に抱懐していること自体の自由には関係のない限度において、国家が正当と判断した事実関係を実現してゆくことであつて、これを逸脱し、例えば本件判決を強制執行して、その者が承服しないところを、その者の良心の内容であるとして表示せしめるがごときことは、恐らくこれを是認しうべき何らの根拠も見出し得ないと思うのである。

 英、米、独、仏等では、現在名誉回復の方法として本件のごとき謝罪広告を求める判決を認めていないようである。すなわち英、米では名誉毀損の回復は損害賠償を原則とし、加害者の自発的な謝罪が賠償額の緩和事由となるとせられるに止会り、また独、仏では、加害者の費用をもつて、加害者の行為が、名誉毀損の行為であるとして原告たる被害者を勝訴せしめた判決文を新聞紙上に掲載せしめ又は加害者に対し新聞紙上に取消文を掲載せしめる等の方法が認められている。わが民法七二三条の適用としても、本件のような謝罪広告を求める判決のほかに、(一)加害者の費用においてする民事の敗訴判決の新聞紙等への掲載、(二)同じく刑事の名誉毀損罪の有罪判決の新聞紙等への掲載、(三)名誉毀損記事の取消等の方法が考えうるのであるが、このような方法であれば、これを加害者に求める判決の強制執行をしたからといつて、不当に良心の自由を侵害し、または個人の人格を無視したことにはならず違憲の問題は生じないと思われる。しかし、本件のような判決は、若し強制執行が許されるものであるとすれば、それはまさに公権力をもつて上告人に倫理的の判断の形成及び表示を強制するのと同様な結果を生ぜしめるに至ることは既に述べたとおりであり、また前記のごとく民法七二三条の名誉回復の為の適当な処分としては他にも種々の方法がありうるのであるから、これらを勘案すれば、本件判決を強制執行して良心の自由又は個人の人格に対する上述のような著しい侵害を敢えてしなければ、本件名誉回復が全きを得ないものとは到底認め得ない。即ち利益の比較較量の観点からいつても、これを是認しうるに足る充分の根拠を見出し得ず、結局それは名誉回復の方法としては行きすぎであり、不当に良心の自由を侵害し個人の人格を無視することとなつて、違憲たるを免れないと思うのである。(以上述べたところは、私見によれば、取消文の掲載又は国会、地方議会における懲罰の一方法としての「公開議場における陳謝」には妥当しない。前者については、取消文の文言にもよることではあるが、それが単に一旦発表した意思表示を発表せざりし以前の状態に戻す原状回復を趣旨とするものたるに止まる限り良心の自由とは関係なく、また後者は、これを強制執行する方法が認められていないばかりでなく、特別権力関係における秩序維持の為の懲戒罰である点において、一般権力関係における本件謝罪広告を求める判決の場合とは性質を異にするというべきだからである。)

 四、以上述べたとおり、わたくしは、本件判決が強制執行の許されるものであるとするならば、それは憲法一九条及び一三条に違反すると解するのであつて、従つて、多数説が、本件判決が民訴七三三条の代替執行の方法により強制執行をなしうるものであることを前提として、しかも本件判決を違憲でないとしたことには賛成できない。

 けれども、わたくしは以下述べるごとく、本件判決は強制執行はすべて許されないものであると解するのである。思うに、給付判決の請求と、強制執行の請求とは一応別個の事柄であり、従つて給付判決は常に必ず強制執行に適するものと限らないことは、多数説の説示の中にも示されているとおりであつて(給付判決であつても、強制執行の全く許されないものとしては、例えば夫婦同居の義務に関する判例があつた。)、本件判決が果して強制執行に適するものであるか否かは、本件判決の内容に照らし、更に審究を要する問題であろう。ところで、給付判決の中で強制執行に適さないと解せられる場合としては、(一)債務の性質からみて、強制執行によつては債務の本旨に適つた給付を実現し得ない場合、(二)債務の内容からみて、強制執行することが、債務者の人格又は身体に対する著しい侵害であつて、現代の法的理念に照らし、憲法上又は社会通念上、正当なものとして是認し得ない場合の二であろう。(一)の場合は主として、債務の性質が強制執行をするのに適当しているかどうかの観点から判断しうるけれども、(二)の場合は、強制執行をすること自体が、現代における文化の理念に照らして是認しうるかどうかの観点から判断することが必要となつてくる。そして、本件のごとき判決を強制執行することは、既に述べたように、不当に良心の自由を侵害し、個人の人格を無視することとなり違憲たるを免れないのであるから、まさに上記(二)の場合に該当し、民訴七三三条の代替執行たると、同七三四条の間接強制たるとを問わず、すべて強制執行を許さないものと解するを相当とするのである。また本件判決は、被害者が名誉回復の方法として本件のような謝罪広告の新聞紙への掲載を加害者に請求することを利益と信じ、裁判所がこれを民法七二三条の適当な処分と認めてなされたものであるから、これについて強制執行が認められないからといつて、それは給付判決として意味のないものとはいえないと思う。

 以上のべたごとく、本件判決は強制執行を許さないものであるから、違憲の問題を生ずる余地なく、所論は前提を欠き、上告棄却を免れない。

 

 

 

 

 

 

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】

憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-1)

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-2) 裁判官栗山茂の意見・裁判官入江俊郎の意見

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-3)裁判官藤田八郎の反対意見・裁判官垂水克己の反対意見


要旨

判示事項

一 謝罪広告を命ずる判決と強制執行

二 右判決は憲法第一九条に反しないか

裁判要旨

一 新聞紙に謝罪広告を掲載することを命ずる判決は、その広告の内容が単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明する程度のものにあつては、民訴第七三三条により代替執行をなし得る。

二 右判決は憲法第一九条に反しない。

 

 

判旨

 しかし、憲法二一条は言論の自由を無制限に保障しているものではない。そして本件において、原審の認定したような他人の行為に関して無根の事実を公表し、その名誉を毀損することは言論の自由の乱用であつて、たとえ、衆議院議員選挙の際、候補者が政見発表等の機会において、かつて公職にあつた者を批判するためになしたものであつたとしても、これを以て憲法の保障する言論の自由の範囲内に属すると認めることはできない。してみれば、原審が本件上告人の行為について、名誉毀損による不法行為が成立するものとしたのは何等憲法二一条に反するものでなく、所論は理由がない

 民法七二三条にいわゆる「他人の名誉を毀損した者に対して被害者の名誉を回復するに適当な処分」として謝罪広告を新聞紙等に掲載すべきことを加害者に命ずることは、従来学説判例の肯認するところであり、また謝罪広告を新聞紙等に掲載することは我国民生活の実際においても行われているのである。尤も謝罪広告を命ずる判決にもその内容上、これを新聞紙に掲載することが謝罪者の意思決定に委ねるを相当とし、これを命ずる場合の執行も債務者の意思のみに係る不代替作為として民訴七三四条に基き間接強制によるを相当とするものもあるべく、時にはこれを強制することが債務者の人格を無視し著しくその名誉を毀損し意思決定の自由乃至良心の自由を不当に制限することとなり、いわゆる強制執行に適さない場合に該当することもありうるであろうけれど、単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものにあつては、これが強制執行も代替作為として民訴七三三条の手続によることを得るものといわなければならない。そして原判決の是認した被上告人の本訴請求は、上告人が判示日時に判示放送、又は新聞紙において公表した客観的事実につき上告人名義を以て被上告人に宛て「右放送及記事は真相に相違しており、貴下の名誉を傷け御迷惑をおかけいたしました。ここに陳謝の意を表します」なる内容のもので、結局上告人をして右公表事実が虚偽且つ不当であつたことを広報機関を通じて発表すべきことを求めるに帰する。されば少くともこの種の謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる原判決は、上告人に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられないし、また民法七二三条にいわゆる適当な処分というべきであるから所論は採用できない。

 

 

【裁判官田中耕太郎の補足意見】

 上告論旨は、要するに、上告人が「現在でも演説の内容は真実であり上告人の言論は国民の幸福の為に為されたものと確信を持つている」から、謝罪文を新聞紙に掲載せしめることは上告人の良心の自由の侵害として憲法一九条の規定またはその趣旨に違反するものというにある。ところで多数意見は、憲法一九条にいわゆる良心は何を意味するかについて立ち入るところがない。それはただ、謝罪広告を命ずる判決にもその内容から見て種々なものがあり、その中には強制が債務者の人格を無視し著しくその名誉を毀損し意思決定の自由乃至良心の自由を不当に制限する強制執行に適しないものもあるが、本件の原判決の内容のものなら代替行為として民訴七三三条の手続によることを得るものと認め、上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものと解せられないものとしているにとどまる。

 私の見解ではそこに若干の論理の飛躍があるように思われる。

 この問題については、判決の内容に関し強制執行が債務者の意思のみに係る不代替行為として間接強制によるを相当とするかまたは代替行為として処置できるものであるかというようなことは、本件の判決の内容が憲法一九条の良心の自由の規定に違反するか否かを決定するために重要ではない。かりに本件の場合に名誉回復処分が間接強制の方法によるものであつたにしてもしかりとする。謝罪広告が間接にしろ強制される以上は、謝罪広告を命ずること自体が違憲かどうかの問題が起ることにかわりがないのである。さらに遡つて考えれば、判決というものが国家の命令としてそれを受ける者において遵守しなければならない以上は、強制執行の問題と別個に考えても同じ問題が存在するのである。

 私は憲法一九条の「良心」というのは、謝罪の意思表示の基礎としての道徳的の反省とか誠実さというものを含まないと解する。又それは例えばカントの道徳哲学における「良心」という概念とは同一ではない。同条の良心に該当するゲウイツセン(Gewissen)コンシアンス(Conscience)等の外国語は、憲法の自由の保障との関係においては、沿革的には宗教上の信仰と同意義に用いられてきた。しかし今日においてはこれは宗教上の信仰に限らずひろく世界観や主義や思想や主張をもつことにも推及されていると見なければならない。憲法の規定する

思想、良心、信教および学問の自由は大体において重複し合つている。

 要するに国家としては宗教や上述のこれと同じように取り扱うべきものについて、禁止、処罰、不利益取扱等による強制、特権、庇護を与えることによる偏頗な所遇というようなことは、各人が良心に従つて自由に、ある信仰、思想等をもつことに支障を招来するから、憲法一九条に違反するし、ある場合には憲法一四条一項の平等の原則にも違反することとなる。憲法一九条がかような趣旨に出たものであることは、これに該当する諸外国憲法の条文を見れば明瞭である

 憲法一九条が思想と良心とをならべて掲げているのは、一は保障の対照の客観的内容的方面、他はその主観的形式的方面に着眼したものと認められないことはない。 ところが本件において問題となつている謝罪広告はそんな場合ではない。もちろん国家が判決によつて当事者に対し謝罪という倫理的意味をもつ処置を要求する以上は、国家は命ぜられた当事者がこれを道徳的反省を以てすることを排斥しないのみか、これを望ましいことと考えるのである。これは法と道徳との調和の見地からして当然しかるべきである。しかし現実の場合においてはかような調和が必ずしも存在するものではなく、命じられた者がいやいやながら命令に従う場合が多い。もしかような場合に良心の自由が害されたというならば、確信犯人の処罰もできなくなるし、本来道徳に由来するすべての義務(例えば扶養の義務)はもちろんのこと、他のあらゆる債務の履行も強制できなくなる。又極端な場合には、表見主義の原則に従い法が当事者の欲したところと異る法的効果を意思表示に附した場合も、良心の自由に反し憲法違反だと結論しなければならなくなる。さらに一般に法秩序を否定する者に対し法を強制すること自体がその者の良心の自由を侵害するといわざるを得なくなる。

 謝罪広告においては、法はもちろんそれに道徳性(Moralitat)が伴うことを求めるが、しかし道徳と異る法の性質から合法性(Legalitat)即ち行為が内心の状態を離れて外部的に法の命ずるところに適合することを以て一応満足するのである。内心に立ちいたつてまで要求することは法の力を以てするも不可能である。この意味での良心の侵害はあり得ない。これと同じことは国会法や地方自治法が懲罰の一種として「公開議場における陳謝」を認めていること(国会法一二二条二号、地方自治法一三五条一項二号)についてもいい得られる。 謝罪する意思が伴わない謝罪広告といえども、法の世界においては被害者にとつて意味がある。というのは名誉は対社会的の観念であり、そうしてかような謝罪広告は被害者の名誉回復のために有効な方法と常識上認められるからである。この意味で単なる取消と陳謝との間には区別がない。もし上告理由に主張するように良心を解するときには、自己の所為について確信をもつているから、その取消をさせられることも良心の自由の侵害になるのである。 附言するが謝罪の方法が加害者に屈辱的、奴隷的な義務を課するような不適当な場合には、これは個人の尊重に関する憲法一三条違反の問題として考えられるべきであり、良心の自由に関する憲法一九条とは関係がないのである。 要するに本件は憲法一九条とは無関係であり、この理由からしてこの点の上告理由は排斥すべきである。憲法を解釈するにあたつては、大所高所からして制度や法条の精神の存するところを把握し、字句や概念の意味もこの精神からして判断しなければならない。私法その他特殊の法域の概念や理論を憲法に推及して、大局から判断をすることを忘れてはならないのである。

最大判平成14年9月11日・郵便法違憲訴訟 補足意見・意見等

 

憲法目次

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【 裁判官滝井繁男の補足意見】は,次のとおりである。

 私は,多数意見に同調するものであるが,福田裁判官,深澤裁判官の意見にかんがみ,多数意見の趣旨を補足しておきたい。

 多数意見は,憲法17条が規定する「法律の定めるところにより」の意義について,「公務員のどのような行為によりいかなる要件で損害賠償責任を負うかを立法府の政策判断にゆだねたものであって,立法府に無制限の裁量権を付与するといった法律に対する白紙委任を認めているものではない」と判示している。福田,深澤両裁判官は,この部分について,立法府に極めて広い裁量を認めているとの疑念を残す余地があると懸念しているのではないかと思われる。しかしながら,多数意見をそのように解するのは,適当ではない。

 多数意見は,上記引用部分に先立って,「国又は公共団体が公務員の行為による不法行為責任を負うことを原則とした上」としているのである。この部分と併せて読めば,憲法17条の趣旨は,国家無答責の考えを廃し,被害者の救済を全うするために国又は公共団体が賠償責任を負うべきことを前提にし,国又は公共団体の責任は,基本的には私人の不法行為責任と異なるものではないとの考えに立ちつつ,具体的な責任の範囲について,それぞれの行為が行われた具体的状況を勘案して,一定の政策目的によって例外的に加重若しくは軽減し,又は免除することのあり得ることを認めたものと解することができるのであって,福田,深澤両裁判官の懸念は当たらない。

 郵便法は,郵便の役務をなるべく安い料金で,あまねく,公平に提供することをその目的としていることから(法1条),その目的を達するために必要かつ合理的な限度で,郵便業務に伴う賠償責任を法律によって軽減又は免除することが許される場合もある。多数意見も,そのように,法が郵便物に関する損害賠償の対象及び範囲に特別の規定を設け得ることを前提としつつ,上記目的に照らしてその責任の免除又は制限の合理性と必要性を具体的に検討した上で,法68条,73条の規定には,上記合理性又は必要性が認められず,違憲無効となる部分があると判示したのである。私は,これに賛成するものである。

 

 

【 裁判官福田博,同深澤武久の意見】は,次のとおりである。

 私たちは,郵便法68条,73条の規定のうち,書留郵便物について郵便業務従事者の故意又は重大な過失により生じた損害,及び特別送達郵便物について軽過失により生じた損害に関して,それぞれ国の損害賠償責任を免除し,又は制限している部分を憲法17条に違反するとする多数意見の結論に賛成するものであるが,そのような結論に至る理由を異にするものである。

 1 多数意見は,憲法17条は公務員の不法行為による損害賠償責任を認めつつも,具体的な損害賠償を求める権利は法律の定めるところによると規定していることをもって,これは,「公務員のどのような行為によりいかなる要件で損害賠償責任を負うかを立法府の政策判断にゆだねたものであって,立法府に無制限の裁量権を付与するといった法律に対する白紙委任を認めているものではない」と述べている。

 2 しかし,郵便法68条,73条の合憲性を判断するに当たって,憲法17条は,字義どおり,公務員の不法行為に基づく損害賠償請求は,法律が具体的に定めるところにより,その賠償を求めることができると規定していると解すれば必要かつ十分であり,これに加えて立法府の白紙委任にわたらない範囲での裁量権を認めた規定であるかどうかを論ずる必要はないのである。なぜならば,このように論ずることは,憲法上の権利について,「法律の定めるところにより」とあれば直ちに国会の広範な立法「裁量権」が認められ,司法はそれを前提として「違憲立法審査権」を行使すれば足りるとの考えにつながるものであって,ひいては,国会の有する立法についての広範な「裁量の幅」を「裁量権」と表現し,これを違憲立法審査権の行使にいわば前置することにより,憲法81条によって司法に与えられた違憲立法審査権をいたずらに矮小化し,憲法に定められた三権分立に伴う司法の役割を十分に果たさない結果を招来することとなりかねないからである。憲法81条は,国民の信託を得て選任された議員によって構成される立法府が,一定の立法事実に政治的判断を行って具体的な法律を策定することについて,広い裁量の幅を有することを当然の前提としつつも,すべての立法についてそれが憲法に適合するものであるか否かの最終判断を司法にゆだねているのである。

 3 この意見の違いを単に概念的な相違の問題として片付けることはできない。憲法81条は,多くの近代民主主義諸国にならって三権分立による統治システムを採用し,選挙で選ばれたものでない裁判官によって構成される司法機関に対し,憲法解釈についての最終的な判断の責任を与えることにより,三権の間のチェックとバランスを図り,近代民主主義体制の維持に万全を期さんとしたものである。立法府が有する広範な「裁量権」の存在を前提として司法が限定的,抑制的に「違憲立法審査権」を行使すれば足りるとするのでは,最高裁判所が憲法に定める三権による統治システムの一つとして果たすべき役割を十分に果たしていないとの批判は避けられないことになる(この点については,最高裁平成11年(行ツ)第241号同12年9月6日大法廷判決・民集54巻7号1997頁における福田反対意見(同2013頁以下)参照。)。

 4 法律の憲法適合性を判断するに当たっては,裁判官は憲法についての法律知識と良心に従って解釈した基準に基づいて,策定された法律がその基準に適合するか否かを判断することを求められているのであって,それが立法府の有する「裁量権」の範囲内にあるか否かを審査することを求められているのではない。その判断は,立法過程において見られることのあるいわゆる政治的妥協ないし取引とは関係なく行われるべきものであり,さらに,裁判官自身の個人的信条とは離れて行われるべきものであることはもとより当然のことである。

 5 これを本件について見ると,郵便法は,なるべく安い料金で,あまねく,公平に郵便の役務を国民に提供することを目的としているところ,その目的自体は正当であり,具体的事案について国の損害賠償責任の制限規定の存在することが正当か否かを検討するに当たっては,そのような制限規定が上記の目的に照らして「役務の内容とその提供に見合って,客観的に見てバランスのとれたもの」,あるいは「釣り合っているもの」であれば,憲法17条の法意に合致し,違憲の問題は生じないというべきである。このような判断に当たっては,立法府の「裁量権」の広狭などを考慮する必要はない。本件では,特別送達郵便物についての損害賠償責任の問題が論ぜられており,損害賠償責任の免除ないし制限の規定が,そのような郵便物送達の目的と責任に「釣り合っている」ものであるか否かを精査すればよいのであって,かかる観点から見れば,そのような郵便物についてまで公務員に過失がある場合の損害賠償責任を免除し,又は制限する理由は見いだし得ないというべきである。多数意見は,併せて「書留」郵便物一般についても説示しており,これは厳密にいえば本件事案の外の問題ではあるが,大法廷判決でもあり,上記の考え方の延長線上にあるものとして同意することができる。

 6 以上,要すれば,最高裁判所の憲法判断は,立法府の「裁量権」の範囲とは関係なく,客観的に行われるべきものであり,多数意見の論理構成は,将来にわたって憲法17条についての司法の憲法判断姿勢を消極的なものとして維持する理由になりかねず,そのような理由付けに同調することはできない。

 

 

【裁判官横尾和子の意見】は,次のとおりである。

 私は,郵便法68条,73条の規定のうち,特別送達郵便物についての郵便業務従事者の故意又は過失による不法行為に基づく損害に関し,国の損害賠償責任を免除し,又は制限している部分を憲法17条に違反するとする多数意見の結論に賛成するものであるが,多数意見が特別送達郵便物以外の書留郵便物についての郵便業務従事者の故意又は重大な過失による不法行為に基づく損害に関し,国の損害賠償責任を免除し,又は制限している部分を同17条に違反するとする部分には,賛成することができない。その理由は,次のとおりである。

 郵便事業は,法1条の目的を達成するための様々な役務ないし要素の体系であり,取り扱う郵便物の範囲及び区分(郵便物の種類),郵便物についての通常取扱いの手順及び特殊取扱いの種類並びに料金の額及びその免除,軽減等の特別措置等について,財政,定員等の制約条件の下で取捨選択がされ,その結果が全体として法1条の目的に沿うものとなっているのである。そして,郵便物について郵便業務従事者の故意又は過失による不法行為に基づく損害に関しどの程度の賠償を行うかという点も,郵便事業の体系全体の中に位置付けられるべきものである。

 書留は,郵便物の引受けから配達までを記録し,より確実な送達を行う特殊取扱いであり,これに,郵便業務従事者が無過失である場合を含め,一定の範囲及び限度の賠償がされる保障が付されている。この損害保障の方式は,利用者に対し,賠償範囲は限定されているが,簡便な手続で賠償がされるという利点を提供するとともに,郵便事業の運営面では,定型的な事故処理を行い,また,賠償に要する総費用の見通しを得ることを可能にしているものである。このことを考慮すると,書留の取扱いについても,法68条,73条によって国の賠償責任を免除し,又は制限していることは,郵便法の目的達成の観点から合理性及び必要性があり,憲法17条が立法府に付与した裁量の範囲を逸脱するものではないと解するのが相当である。

 ただし,特別送達には,書留の取扱いとしての役務に加え,裁判書類等を送達し,送達の事実を公証する公権力の行使であるという側面があり,一般の郵便物におけるのとは異なる利益の実現が予定されている。この特別送達の有する公権力の行使としての性格にかんがみると,特別送達郵便物が書留郵便物全体のうちのごく一部にとどまるかどうかを問うまでもなく,軽過失による不法行為に基づく場合を含め,国の賠償責任が肯定されるべきである。

 

 

【裁判官上田豊三の意見】は,次のとおりである。

 私は,基本的には多数意見に同調するものであるが,多数意見のうち3(3)の部分及び4のうち「特別送達郵便物について,郵便業務従事者の・・・過失による不法行為に基づき損害が生じた場合に,国の損害賠償責任を免除し,又は制限している部分は違憲無効である」とする部分には賛成することができない。その理由は,次のとおりである。

 特別送達が民訴法上の送達の実施方法であり,国民の権利を実現する手続の進行に不可欠なものであるから,特別送達郵便物については,適正な手順に従い確実に受送達者に送達されることが特に強く要請されること,特別送達郵便物は,書留郵便物全体のうちのごく一部にとどまることがうかがわれる上に,書留料金に加えた特別の料金が必要とされていること,裁判関係の書類についていえば,特別送達郵便物の差出人は送達事務取扱者である裁判所書記官であり,その適正かつ確実な送達に直接の利害関係を有する訴訟当事者は自らかかわることのできる他の送付の手段を全く有していないことは,多数意見の述べるとおりである。しかしながら,特別送達郵便物も書留郵便物の一種として郵便制度を利用して配達されるものであり,そうである以上,郵便の役務をなるべく安い料金で,あまねく,公平に提供することにより,公共の福祉を増進しようとする郵便制度の目的を達成することとの調和が考慮されなければならない。そして,上記目的を達成するために,郵便業務従事者の軽過失による不法行為に基づき損害が生じたにとどまる場合には,法68条,73条に定める範囲,限度において国は損害賠償責任を負い,それ以外には損害賠償責任を負わないとすることも,憲法17条が立法府に付与した裁量の範囲を逸脱するものではないと解するのが相当である。したがって,特別送達郵便物についても,郵便業務従事者の故意又は重大な過失により損害が生じた場合に不法行為に基づく国の損害賠償責任を免除し,又は制限している部分が,憲法17条に違反し,無効であると解すべきである。

国家賠償請求権(1-1) 最大判平成14年9月11日・郵便法違憲訴訟

 

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要旨

 

判示事項

1 郵便法68条及び73条のうち書留郵便物について不法行為に基づく国の損害賠償責任を免除し又は制限している部分と憲法17条

2 郵便法68条及び73条のうち特別送達郵便物について国家賠償法に基づく国の損害賠償責任を免除し又は制限している部分と憲法17条

裁判要旨

1 郵便法68条及び73条の規定のうち,書留郵便物について,郵便の業務に従事する者の故意又は重大な過失によって損害が生じた場合に,不法行為に基づく国の損害賠償責任を免除し,又は制限している部分は,憲法17条に違反する。

2 郵便法68条及び73条の規定のうち,特別送達郵便物について,郵便の業務に従事する者の故意又は過失によって損害が生じた場合に,国家賠償法に基づく国の損害賠償責任を免除し,又は制限している部分は,憲法17条に違反する。

(1,2につき補足意見及び意見がある。)

 

 

判旨

 所論は,要するに,(1) 郵便法(以下「法」という。)68条,73条は,憲法17条に違反する,又は(2) 法68条,73条のうち,郵便の業務に従事する者(以下「郵便業務従事者」という。)の故意又は重大な過失によって損害が生じた場合にも国の損害賠償責任を否定している部分は,憲法17条に違反すると主張し,原判決には同条の解釈の誤りがあるというのである。

 1 憲法17条について

 憲法17条は,「何人も,公務員の不法行為により,損害を受けたときは,法律の定めるところにより,国又は公共団体に,その賠償を求めることができる。」と規定し,その保障する国又は公共団体に対し損害賠償を求める権利については,法律による具体化を予定している。これは,公務員の行為が権力的な作用に属するものから非権力的な作用に属するものにまで及び,公務員の行為の国民へのかかわり方には種々多様なものがあり得ることから,国又は公共団体が公務員の行為による不法行為責任を負うことを原則とした上,公務員のどのような行為によりいかなる要件で損害賠償責任を負うかを立法府の政策判断にゆだねたものであって,立法府に無制限の裁量権を付与するといった法律に対する白紙委任を認めているものではない。そして,公務員の不法行為による国又は公共団体の損害賠償責任を免除し,又は制限する法律の規定が同条に適合するものとして是認されるものであるかどうかは,当該行為の態様,これによって侵害される法的利益の種類及び侵害の程度,免責又は責任制限の範囲及び程度等に応じ,当該規定の目的の正当性並びにその目的達成の手段として免責又は責任制限を認めることの合理性及び必要性を総合的に考慮して判断すべきである。

2 法68条,73条の目的について

 (1) 法68条は,法又は法に基づく総務省令(平成11年法律第160号による郵便法の改正前は,郵政省令。以下同じ。)に従って差し出された郵便物に関して,① 書留とした郵便物の全部又は一部を亡失し,又はき損したとき,② 引換金を取り立てないで代金引換とした郵便物を交付したとき,③ 小包郵便物(書留としたもの及び総務省令で定めるものを除く。)の全部又は一部を亡失し,又はき損したときに限って,一定の金額の範囲内で損害を賠償することとし,法73条は,損害賠償の請求をすることができる者を当該郵便物の差出人又はその承諾を得た受取人に限定している。

 法68条,73条は,その規定の文言に照らすと,郵便事業を運営する国は,法68条1項各号に列記されている場合に生じた損害を,同条2項に規定する金額の範囲内で,差出人又はその承諾を得た受取人に対して賠償するが,それ以外の場合には,債務不履行責任であると不法行為責任であるとを問わず,一切損害賠償をしないことを規定したものと解することができる。

 (2) 法は,「郵便の役務をなるべく安い料金で,あまねく,公平に提供することによって,公共の福祉を増進すること」を目的として制定されたものであり(法1条),法68条,73条が規定する免責又は責任制限もこの目的を達成するために設けられたものであると解される。すなわち,郵便官署は,限られた人員と費用の制約の中で,日々大量に取り扱う郵便物を,送達距離の長短,交通手段の地域差にかかわらず,円滑迅速に,しかも,なるべく安い料金で,あまねく,公平に処理することが要請されているのである。仮に,その処理の過程で郵便物に生じ得る事故について,すべて民法や国家賠償法の定める原則に従って損害賠償をしなければならないとすれば,それによる金銭負担が多額となる可能性があるだけでなく,千差万別の事故態様,損害について,損害が生じたと主張する者らに個々に対応し,債務不履行又は不法行為に該当する事実や損害額を確定するために,多くの労力と費用を要することにもなるから,その結果,料金の値上げにつながり,上記目的の達成が害されるおそれがある。

 したがって,上記目的の下に運営される郵便制度が極めて重要な社会基盤の一つであることを考慮すると,法68条,73条が郵便物に関する損害賠償の対象及び範囲に限定を加えた目的は,正当なものであるということができる。

 3 本件における法68条,73条の合憲性について

 (1) 上告人は,上告人を債権者とする債権差押命令を郵便業務従事者が特別送達郵便物として第三債務者へ送達するに際して,これを郵便局内に設置された第三債務者の私書箱に投かんしたために送達が遅れ,その結果,債権差押えの目的を達することができなかったと主張して,被上告人に対し,損害賠償を求めている。 特別送達は,民訴法103条から106条まで及び109条に掲げる方法により送達すべき書類を内容とする通常郵便物について実施する郵便物の特殊取扱いであり,郵政事業庁(平成11年法律第160号による郵便法の改正前は,郵政省。以下同じ。)において,当該郵便物を民訴法の上記規定に従って送達し,その事実を証明するものである(法57条1項,66条)。そして,特別送達の取扱いは,書留とする郵便物についてするものとされている(法57条2項)。したがって,本件の郵便物については,まず書留郵便物として法68条,73条が適用されることとなるが,上記各条によれば,書留郵便物については,その亡失又はき損につき,差出人又はその承諾を得た受取人が法68条2項に規定する限度での賠償を請求し得るにすぎず,上告人が主張する前記事実関係は,上記各条により国が損害賠償責任を負う場合には当たらない。

 (2) 書留は,郵政事業庁において,当該郵便物の引受けから配達に至るまでの記録をし(法58条1項),又は一定の郵便物について当該郵便物の引受け及び配達について記録することにより(同条4項),郵便物が適正な手順に従い確実に配達されるようにした特殊取扱いであり,差出人がこれに対し特別の料金を負担するものである。そして,書留郵便物が適正かつ確実に配達されることに対する信頼は,書留の取扱いを選択した差出人はもとより,書留郵便物の利用に関係を有する者にとっても法的に保護されるべき利益であるということができる。

 ところで,上記のような記録をすることが定められている書留郵便物については,通常の職務規範に従って業務執行がされている限り,書留郵便物の亡失,配達遅延等の事故発生の多くは,防止できるであろう。しかし,書留郵便物も大量であり,限られた人員と費用の制約の中で処理されなければならないものであるから,郵便業務従事者の軽過失による不法行為に基づく損害の発生は避けることのできない事柄である。限られた人員と費用の制約の中で日々大量の郵便物をなるべく安い料金で,あまねく,公平に処理しなければならないという郵便事業の特質は,書留郵便物についても異なるものではないから,法1条に定める目的を達成するため,郵便業務従事者の軽過失による不法行為に基づき損害が生じたにとどまる場合には,法68条,73条に基づき国の損害賠償責任を免除し,又は制限することは,やむを得ないものであり,憲法17条に違反するものではないということができる。

 しかしながら,上記のような記録をすることが定められている書留郵便物について,郵便業務従事者の故意又は重大な過失による不法行為に基づき損害が生ずるようなことは,通常の職務規範に従って業務執行がされている限り,ごく例外的な場合にとどまるはずであって,このような事態は,書留の制度に対する信頼を著しく損なうものといわなければならない。そうすると,このような例外的な場合にまで国の損害賠償責任を免除し,又は制限しなければ法1条に定める目的を達成することができないとは到底考えられず,郵便業務従事者の故意又は重大な過失による不法行為についてまで免責又は責任制限を認める規定に合理性があるとは認め難い。

 なお,運送事業等の遂行に関連して,一定の政策目的を達成するために,事業者の損害賠償責任を軽減している法令は,商法,国際海上物品運送法,鉄道営業法,船舶の所有者等の責任の制限に関する法律,油濁損害賠償保障法など相当数存在する。これらの法令は,いずれも,事業者側に故意又は重大な過失ないしこれに準ずる主観的要件が存在する場合には,責任制限の規定が適用されないとしているが,このような法令の定めによって事業の遂行に支障が生じているという事実が指摘されているわけではない。このことからみても,書留郵便物について,郵便業務従事者の故意又は重大な過失によって損害が生じた場合に,被害者の犠牲において事業者を保護し,その責任を免除し,又は制限しなければ法1条の目的を達成できないとする理由は,見いだし難いといわなければならない。

 以上によれば,【要旨1】法68条,73条の規定のうち,書留郵便物について,郵便業務従事者の故意又は重大な過失によって損害が生じた場合に,不法行為に基づく国の損害賠償責任を免除し,又は制限している部分は,憲法17条が立法府に付与した裁量の範囲を逸脱したものであるといわざるを得ず,同条に違反し,無効であるというべきである。

 (3) 特別送達は,民訴法第1編第5章第3節に定める訴訟法上の送達の実施方法であり(民訴法99条),国民の権利を実現する手続の進行に不可欠なものであるから,特別送達郵便物については,適正な手順に従い確実に受送達者に送達されることが特に強く要請される。そして,特別送達郵便物は,書留郵便物全体のうちのごく一部にとどまることがうかがわれる上に,書留料金に加えた特別の料金が必要とされている。また,裁判関係の書類についていえば,特別送達郵便物の差出人は送達事務取扱者である裁判所書記官であり(同法98条2項),その適正かつ確実な送達に直接の利害関係を有する訴訟当事者等は自らかかわることのできる他の送付の手段を全く有していないという特殊性がある。さらに,特別送達の対象となる書類については,裁判所書記官(同法100条),執行官(同法99条1項),廷吏(裁判所法63条3項)等が送達を実施することもあるが,その際に過誤が生じ,関係者に損害が生じた場合,それが送達を実施した公務員の軽過失によって生じたものであっても,被害者は,国に対し,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償を請求し得ることになる。

 これら特別送達郵便物の特殊性に照らすと,法68条,73条に規定する免責又は責任制限を設けることの根拠である法1条に定める目的自体は前記のとおり正当であるが,特別送達郵便物については,郵便業務従事者の軽過失による不法行為から生じた損害の賠償責任を肯定したからといって,直ちに,その目的の達成が害されるということはできず,上記各条に規定する免責又は責任制限に合理性,必要性があるということは困難であり,そのような免責又は責任制限の規定を設けたことは,憲法17条が立法府に付与した裁量の範囲を逸脱したものであるといわなければならない。

 そうすると,【要旨2】(2)に説示したところに加え,法68条,73条の規定のうち,特別送達郵便物について,郵便業務従事者の軽過失による不法行為に基づき損害が生じた場合に,国家賠償法に基づく国の損害賠償責任を免除し,又は制限している部分は,憲法17条に違反し,無効であるというべきである。

 4 結論

 原判決は,法68条,73条の規定は憲法17条に違反せず,上告人が請求原因として主張する事実関係自体が法68条,73条に規定する国が損害賠償責任を負う場合に当たらないことを理由に,本件の事実関係についての審理を尽くすことなく,上告人の請求を棄却すべきものとした。しかしながら,前記のとおり,上記各条の規定のうち,特別送達郵便物について,郵便業務従事者の故意又は過失による不法行為に基づき損害が生じた場合に,国の損害賠償責任を免除し,又は制限している部分は違憲無効であるから,上記各条の存在を理由に上告人の請求を棄却すべきものとした原審の判断は,憲法17条の解釈を誤ったものである。論旨はその趣旨をいうものとして理由があり,原判決は破棄を免れない。

 上告人が主張する請求原因の要旨は,国家公務員である郵便業務従事者が,上告人を債権者とする債権差押命令を内容物とする特別送達郵便物を,過失により,民訴法に定める送達方法によらずに第三債務者の私書箱に投かんしたため,通常の業務の過程において法令の定める職務規範に従って送達されるべき時に上記差押命令が送達されず,上告人の法的利益が侵害され,その結果,債権差押えの目的を達することができなくなり損害を被ったというものであると解され,その主張自体が国家賠償法1条1項に基づく損害賠償を請求するためのものとして失当であるということはできないから,その請求の当否を判断するについては,更に事実関係等について審理を尽くすべきである。したがって,本件を原審に差し戻すこととする。

 よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官滝井繁男の補足意見,裁判官福田博,同深澤武久の意見,裁判官横尾和子,同上田豊三の各意見がある。

 

【最大判平成16年1月14日・参議院非拘束名簿式比例代表制の合憲性】

 

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要旨

判示事項

公職選挙法が参議院(比例代表選出)議員選挙につき採用している非拘束名簿式比例代表制の合憲性

裁判要旨

公職選挙法が参議院(比例代表選出)議員選挙につき採用している非拘束名簿式比例代表制は,憲法15条,43条1項に違反するとはいえない。

 

判旨

 1 本件は,公職選挙法の一部を改正する法律(平成12年法律第118号)による改正(以下「本件改正」という。)後の公職選挙法のうち参議院(比例代表選出)議員の選挙の仕組みに関する規定が憲法に違反し無効であるから,これに依拠してされた平成13年7月29日施行の参議院(比例代表選出)議員の選挙は無効であるとして提起された選挙無効訴訟である。

 2 原審の適法に確定した事実関係等によれば,本件改正の経緯は,次のとおりである。

 (1)

昭和25年に制定された公職選挙法は,その前身である参議院議員選挙法(昭和22年法律第11号)と同様に,参議院議員を全都道府県の区域を通じて選出される全国選出議員と都道府県単位の選挙区において選出される地方選出議員とに区分していたが,全国選出議員の選挙について,個人本位の選挙制度から政党本位の選挙制度に改めることを目的として,昭和57年法律第81号による公職選挙法の改正によりいわゆる拘束名簿式比例代表制が導入された。その結果,参議院議員は,比例代表選出議員と選挙区選出議員とから成ることとされた。

 (2) 昭和57年に導入された拘束名簿式比例代表制については,候補者の顔の見えない選挙である,参議院の政党化を殊更に進めている,名簿登載者の順位の決定過程が分かりにくいなどの批判があり,第8次選挙制度審議会が,平成2年7月,拘束名簿式比例代表制に代えて政党名又は候補者名で投票することができるいわゆる非拘束名簿式比例代表制の導入を提案するなど,しばしば議論の対象とされてきた。また,中央省庁の改革,国家公務員の定員削減等が行われている状況において,行政を監視すべき地位にある立法機関である参議院においても定数を削減して事務の効率化等を図る必要があるとの声が高まったのを受けて,参議院選挙制度改革に関する協議会等において参議院議員の定数削減について検討が進められた。これらの議論を踏まえて自由民主党,公明党及び保守党の与党3党が作成,提出した公職選挙法の改正案が国会において審議された結果,同12年10月,公職選挙法の一部を改正する法律(平成12年法律第118号)が成立し,これにより参議院の比例代表選出議員の選挙制度が従来の拘束名簿式比例代表制から非拘束名簿式比例代表制に改められるとともに,参議院議員の定数が10人(比例代表選出議員については4人)削減された。

 (3) 本件改正後の公職選挙法(以下「改正公選法」という。)は,比例代表選出議員については,従前どおり,全都道府県の区域を通じて選挙するものとしている(12条2項)。政党その他の政治団体は,当該政党その他の政治団体の名称(一の略称を含む。)及びその所属する者(当該政党その他の政治団体が推薦する者を含む。)の氏名を記載した参議院名簿を選挙長に届け出ることにより,その参議院名簿に記載されている参議院名簿登載者を当該選挙における候補者とすることができるものとし(86条の3第1項),参議院名簿には当選人となるべき順位を記載しないこととした。選挙人は,投票用紙に公職の候補者たる参議院名簿登載者1人の氏名を自書しなければならないが,参議院名簿登載者の氏名を自書することに代えて,一の参議院名簿届出政党等の届出に係る名称又は略称を自書することができるものとしている(46条3項)。当選人の決定については,① まず最初に,各参議院名簿届出政党等の得票数(当該参議院名簿届出政党等に係る各参議院名簿登載者の得票数を含むものをいう。)に基づき,それぞれの参議院名簿届出政党等の当選人の数を定め,② 各参議院名簿届出政党等の届出に係る参議院名簿登載者の間における当選人となるべき順位は,その得票数の最も多い者から順次に定めるが,得票数の同じ参議院名簿登載者が2人以上いる場合には,選挙長がくじでそれらの者の間における当選人となるべき順位を定めることとし,③ 各参議院名簿届出政党等の届出に係る参議院名簿登載者のうち,②により定められた当選人となるべき順位に従い,①により定められた当該参議院名簿届出政党等の当選人の数に相当する数の参議院名簿登載者を当選人とするものとしている(95条の3)。また,参議院名簿登載者個人の選挙運動を認めたことに伴い,参議院名簿登載者にも連座制の適用があるものとしている(251条の2ないし251条の4)。

 3 代表民主制の下における選挙制度は,選挙された代表者を通じて,国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映されることを目標とし,他方,政治における安定の要請をも考慮しながら,それぞれの国において,その国の実情に即して具体的に決定されるべきものであり,そこに論理的に要請される一定不変の形態が存在するわけではない。我が憲法もまた,上記の理由から,国会の両議院の議員の選挙について,議員は全国民を代表するものでなければならないという制約の下で,議員の定数,選挙区,投票の方法その他選挙に関する事項は法律で定めるべきものとし(43条,47条),両議院の議員の各選挙制度の仕組みの具体的決定を原則として国会の裁量にゆだねているのである。このように,国会は,その裁量により,衆議院議員及び参議院議員それぞれについて公正かつ効果的な代表を選出するという目標を実現するために適切な選挙制度の仕組みを決定することができるものであるから,国会が新たな選挙制度の仕組みを採用した場合には,その具体的に定めたところが,国会の上記のような裁量権を考慮しても,上記制約や法の下の平等などの憲法上の要請に反するためその限界を超えており,これを是認することができない場合に,初めてこれが憲法に違反することになるものと解すべきである(最高裁昭和49年(行ツ)第75号同51年4月14日大法廷判決・民集30巻3号223頁,最高裁昭和54年(行ツ)第65号同58年4月27日大法廷判決・民集37巻3号345頁,最高裁昭和56年(行ツ)第57号同58年11月7日大法廷判決・民集37巻9号1243頁,最高裁昭和59年(行ツ)第339号同60年7月17日大法廷判決・民集39巻5号1100頁,最高裁平成3年(行ツ)第111号同5年1月20日大法廷判決・民集47巻1号67頁,最高裁平成6年(行ツ)第59号同8年9月11日大法廷判決・民集50巻8号2283頁,最高裁平成9年(行ツ)第104号同10年9月2日大法廷判決・民集52巻6号1373頁,最高裁平成11年(行ツ)第8号同11年11月10日大法廷判決・民集53巻8号1577頁及び最高裁平成11年(行ツ)第241号同12年9月6日大法廷判決・民集54巻7号1997頁参照)。

 4 上記の見地に立って,上告理由について判断する。

 (1) 論旨は,改正公選法が採用した非拘束名簿式比例代表制の制度(以下「本件非拘束名簿式比例代表制」という。)は,参議院名簿登載者個人には投票したいが,その者の所属する参議院名簿届出政党等には投票したくないという投票意思を認めず,選挙人の真意にかかわらず参議院名簿登載者個人に対する投票をその者の所属する参議院名簿届出政党等に対する投票と評価し,比例代表選出議員が辞職した場合等には,当該議員の所属する参議院名簿届出政党等に対する投票意思のみが残る結果となる点において,国民の選挙権を侵害し,憲法15条に違反するものであり,また,本件非拘束名簿式比例代表制の下では,超過得票に相当する票は,選挙人が投票した参議院名簿登載者以外の参議院名簿登載者に投票した選挙人の投票意思を実現するために用いられ,各参議院名簿届出政党等の届出に係る参議院名簿登載者の間における投票の流用が認められることになるから,直接選挙とはいえず,憲法43条1項に違反するなどというのである。

 (2) 名簿式比例代表制は,各名簿届出政党等の得票数に応じて議席が配分される政党本位の選挙制度であり,本件非拘束名簿式比例代表制も,各参議院名簿届出政党等の得票数に基づきその当選人数を決定する選挙制度であるから,本件改正前の拘束名簿式比例代表制と同様に,政党本位の名簿式比例代表制であることに変わりはない。憲法は,政党について規定するところがないが,政党の存在を当然に予定しているものであり,政党は,議会制民主主義を支える不可欠の要素であって,国民の政治意思を形成する最も有力な媒体である。したがって,【要旨】国会が,参議院議員の選挙制度の仕組みを決定するに当たり,政党の上記のような国政上の重要な役割にかんがみて,政党を媒体として国民の政治意思を国政に反映させる名簿式比例代表制を採用することは,その裁量の範囲に属することが明らかであるといわなければならない。そして,名簿式比例代表制は,政党の選択という意味を持たない投票を認めない制度であるから,本件非拘束名簿式比例代表制の下において,参議院名簿登載者個人には投票したいが,その者の所属する参議院名簿届出政党等には投票したくないという投票意思が認められないことをもって,国民の選挙権を侵害し,憲法15条に違反するものとまでいうことはできない。また,名簿式比例代表制の下においては,名簿登載者は,各政党に所属する者という立場で候補者となっているのであるから,改正公選法が参議院名簿登載者の氏名の記載のある投票を当該参議院名簿登載者の所属する参議院名簿届出政党等に対する投票としてその得票数を計算するものとしていることには,合理性が認められるのであって,これが国会の裁量権の限界を超えるものとは解されない。

 

 もっとも,本件非拘束名簿式比例代表制の下においては,比例代表選出議員が辞職し又は離党しても,当該議員の得票数がその所属する参議院名簿届出政党等の得票数から控除されて当該参議院名簿届出政党等の当選人数が減じられることはない。

 

しかしながら,これらの場合に,当該参議院名簿登載者の得票数をその所属する参議院名簿届出政党等の得票数から除外し,改めて当選人数を確定し直すこととしたのでは,手続が複雑となりすぎる上,比例代表選出議員の辞職又は離党によってその所属する参議院名簿届出政党等の他の当選人の当選の効力が失われることとしたのでは,有権者の意思から離れる結果となるという批判を招きかねない。参議院名簿登載者の氏名を記載した投票をその所属する参議院名簿届出政党等に対する投票とみることに合理性があることは前記のとおりであるから,当選後において,比例代表選出議員の辞職又は離党の事態が生じたとしても,上記投票の効果が存続することが直ちに不合理であるとまではいえず,この点をもって国会の裁量権の限界を超えるものということはできない

 なお,本件非拘束名簿式比例代表制の下においては,当選した参議院名簿登載者が選挙犯罪を犯し刑に処せられ,又は当該参議院名簿登載者のために行われる選挙運動に関し総括主宰者等による選挙犯罪が行われ,当該総括主宰者等が刑に処せられた場合であっても,当該参議院名簿登載者の当選が無効となるにとどまり,当該参議院名簿登載者の所属する参議院名簿届出政党等に対する投票としての効果が残る結果となるが,このことが不合理であるとはいえないのは前述した辞職又は離党の場合と同じである。

 (3) また,【要旨】政党等にあらかじめ候補者の氏名を記載した参議院名簿を届け出させた上,選挙人が参議院名簿登載者の氏名又は参議院名簿届出政党等の名称等を記載して投票し,各参議院名簿届出政党等の得票数(当該参議院名簿届出政党等に係る参議院名簿登載者の得票数を含む。)の多寡に応じて各参議院名簿届出政党等の当選人数を定めた後,参議院名簿登載者の得票数の多寡に応じて各参議院名簿届出政党等の届出に係る参議院名簿登載者の間における当選人となるべき順位を定め,この順位に従って当選人を決定する方式は,投票の結果すなわち選挙人の総意により当選人が決定される点において,選挙人が候補者個人を直接選択して投票する方式と異なるところはない。同一参議院名簿届出政党等内において得票数の同じ参議院名簿登載者が2人以上いる場合には,それらの者の間における当選人となるべき順位は選挙長のくじで定められることになるが,この場合も,当選人の決定に選挙人以外の者の意思が介在するものではないから,上記の点をもって本件非拘束名簿式比例代表制による比例代表選挙が直接選挙に当たらないということはできず,憲法43条1項に違反するとはいえない。

 

 (4) 論旨はまた,本件非拘束名簿式比例代表制を導入した立法目的は不当なものであり,立法目的と手段との間に合理的関連性がなく,国会における審議経過も不当であるから,本件非拘束名簿式比例代表制は国会の裁量権の範囲を逸脱しているとも主張する。

 

 しかしながら,本件非拘束名簿式比例代表制は,2(2)で述べたように,本件改正前の拘束名簿式比例代表制に対しては,候補者の顔の見えない選挙である,参議院の政党化を殊更に進めている,名簿登載者の順位の決定過程が分かりにくいなどの批判があったことを受けて,上記制度の問題点を改め,政党本位の選挙制度を採りながら特定の名簿登載者の選択をも可能にするために導入されたものであり,その立法目的が正当でないとはいえず,本件非拘束名簿式比例代表制が上記立法目的に照らして合理性を欠く制度であるということはできず,その導入をもって国会の裁量権の限界を超えているということはできない。また,所定の手続にのっとって可決成立した法律の効力が国会における審議の内容,経過により左右される余地はないから,国会における審議経過の不当をいう論旨は失当である。

 

 (5) 以上と同旨の原審の判断は,正当として是認することができ,原判決が所論の憲法の原理や前文,43条,47条,99条等に違反するということはできない。論旨は採用することができない。

 

 よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。

 

(裁判長裁判官 町田 顯 裁判官 福田 博 裁判官 金谷利廣 裁判官 北川

弘治 裁判官 亀山継夫 裁判官 梶谷 玄 裁判官 深澤武久 裁判官 濱田邦

夫 裁判官 横尾和子 裁判官 上田豊三 裁判官 滝井繁男 裁判官 藤田宙靖

 裁判官 甲斐中辰夫 裁判官 泉 徳治 裁判官 島田仁郎)

【最大判平成11年11月10日(衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟)】

平成11(行ツ)8 民集53巻8号1577頁

 

憲法目次

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要旨

判示事項

一 公職選挙法が衆議院議員選挙につき採用している重複立候補制の合憲性

二 公職選挙法が衆議院議員選挙につき採用している比例代表制の合憲性

裁判要旨

一 所定の要件を充足する政党その他の政治団体に所属する候補者に限り衆議院小選挙区選出議員の選挙と衆議院比例代表選出議員の選挙とに重複して立候補することを認め、重複立候補者が前者の選挙において当選人とされなかった場合でも後者の選挙においては候補者名簿の順位に従って当選人となることができるなどと定めている公職選挙法の規定は、憲法一四条一項、一五条一項、三項、四三条一項、四四条に違反するとはいえない。

二 公職選挙法が衆議院議員選挙につき採用している比例代表制は、憲法一五条一項、三項、四三条一項に違反するとはいえない。

 

 

 一 原審の適法に確定した事実関係等によれば、第八次選挙制度審議会は、平成二年四月、衆議院議員の選挙制度につき、従来のいわゆる中選挙区制にはいくつかの問題があったので、これを根本的に改めて、政策本位、政党本位の新たな選挙制度を採用する必要があるとして、いわゆる小選挙区比例代表並立制を導入することなどを内容とする答申をし、その後の追加答申等も踏まえて内閣が作成、提出した公職選挙法の改正案が国会において審議された結果、同六年一月に至り、公職選挙法の一部を改正する法律(平成六年法律第二号)が成立し、その後、右法律が同年法律第一〇号及び第一〇四号によって改正され、これらにより衆議院議員の選挙制度が従来の中選挙区単記投票制から小選挙区比例代表並立制に改められたものである。右改正後の公職選挙法(以下「改正公選法」という。)は、衆議院議員の定数を五〇〇人とし、そのうち、三〇〇人を小選挙区選出議員、二〇〇人を比例代表選出議員とした(四条一項)上、各別にその選挙制度の仕組みを定め、総選挙については、投票は小選挙区選出議員及び比例代表選出議員ごとに一人一票とし、同時に選挙を行うものとしている(三一条、三六条)。このうち小選挙区選出議員の選挙(以下「小選挙区選挙」という。)については、全国に三〇〇の選挙区を設け、各選挙区において一人の議員を選出し(一三条一項、別表第一)、投票用紙には候補者一人の氏名を記載させ(四六条一項)、有効投票の最多数を得た者をもって当選人とするものとしている(九五条一項)。また、比例代表選出議員の選挙(以下「比例代表選挙」という。)については、全国に一一の選挙区を設け、各選挙区において所定数の議員を選出し(一三条二項、別表第二)、投票用紙には一の衆議院名簿届出政党等の名称又は略称を記載させ(四六条二項)、得票数に応じて各政党等の当選人の数を算出し、あらかじめ届け出た順位に従って右の数に相当する当該政党等の名簿登載者(小選挙区選挙において当選人となった者を除く。)を当選人とするものとしている(九五条の二第一項ないし第五項)。これに伴い、各選挙への立候補の要件、手続、選挙運動の主体、手段等についても、改正が行われた。

 本件は、改正公選法の衆議院議員選挙の仕組みに関する規定が憲法に違反し無効であるから、これに依拠してされた平成八年一〇月二〇日施行の衆議院議員総選挙のうち東京都選挙区における比例代表選挙は無効であると主張して提起された選挙無効訴訟である。

 二 代表民主制の下における選挙制度は、選挙された代表者を通じて、国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映されることを目標とし、他方、政治における安定の要請をも考慮しながら、それぞれの国において、その国の実情に即して具体的に決定されるべきものであり、そこに論理的に要請される一定不変の形態が存在するわけではない。我が憲法もまた、右の理由から、国会の両議院の議員の選挙について、およそ議員は全国民を代表するものでなければならないという制約の下で、議員の定数、選挙区、投票の方法その他選挙に関する事項は法律で定めるべきものとし(四三条、四七条)、両議院の議員の各選挙制度の仕組みの具体的決定を原則として国会の広い裁量にゆだねているのである。このように、国会は、その裁量により、衆議院議員及び参議院議員それぞれについて公正かつ効果的な代表を選出するという目標を実現するために適切な選挙制度の仕組みを決定することができるのであるから、国会が新たな選挙制度の仕組みを採用した場合には、その具体的に定めたところが、右の制約や法の下の平等などの憲法上の要請に反するため国会の右のような広い裁量権を考慮してもなおその限界を超えており、これを是認することができない場合に、初めてこれが憲法に違反することになるものと解すべきである(最高裁昭和四九年(行ツ)第七五号同五一年四月一四日大法廷判決・民集三〇巻三号二二三頁、最高裁昭和五四年(行ツ)第六五号同五八年四月二七日大法廷判決・民集三七巻三号三四五頁、最高裁昭和五六年(行ツ)第五七号同五八年一一月七日大法廷判決・民集三七巻九号一二四三頁、最高裁昭和五九年(行ツ)第三三九号同六〇年七月一七日大法廷判決・民集三九巻五号一一〇〇頁、最高裁平成三年(行ツ)第一一一号同五年一月二〇日大法廷判決・民集四七巻一号六七頁、最高裁平成六年(行ツ)第五九号同八年九月一一日大法廷判決・民集五〇巻八号二二八三頁及び最高裁平成九年(行ツ)第一〇四号同一〇年九月二日大法廷判決・民集五二巻六号一三七三頁参照)。

 三 右の見地に立って、上告理由について判断する。

 1 改正公選法八六条の二は、比例代表選挙における立候補につき、同条一項各号所定の要件のいずれかを備えた政党その他の政治団体のみが団体の名称と共に順位を付した候補者の名簿を届け出ることができるものとし、右の名簿の届出をした政党その他の政治団体(衆議院名簿届出政党等)のうち小選挙区選挙において候補者の届出をした政党その他の政治団体(候補者届出政党)はその届出に係る候補者を同時に比例代表選挙の名簿登載者とすることができ、両選挙に重複して立候補する者については右名簿における当選人となるべき順位を同一のものとすることができるという重複立候補制を採用している。重複立候補者は、小選挙区選挙において当選人とされた場合には、比例代表選挙における当選人となることはできないが、小選挙区選挙において当選人とされなかった場合には、名簿の順位に従って比例代表選挙の当選人となることができ、後者の場合に、名簿において同一の順位とされた者の間における当選人となるべき順位は、小選挙区選挙における得票数の当該選挙区における有効投票の最多数を得た者に係る得票数に対する割合の最も大きい者から順次に定めるものとされている(同法九五条の二第三ないし第五項)。同法八六条の二第一項各号所定の要件のうち一号、二号の要件は、同法八六条一項一号、二号所定の候補者届出政党の要件と同一であるから、これらの要件を充足する政党等に所属する者は小選挙区選挙及び比例代表選挙に重複して立候補することができるが、右政党等に所属しない者は、同法八六条の二第一項三号所定の要件を充足する政党その他の政治団体に所属するものにあっては比例代表選挙又は小選挙区選挙のいずれかに、その他のものにあっては小選挙区選挙に立候補することができるにとどまり、両方に重複して立候補することはできないものとされている。また、右の名簿に登載することができる候補者の数は、各選挙区の定数を超えることができないが、重複立候補者はこの計算上除外されるので、候補者届出政党の要件を充足した政党等は、右定数を超える数の候補者を名簿に登載することができることとなる(同条五項)。そして、衆議院名簿届出政党等のすることができる自動車、拡声機、ポスターを用いた選挙運動や新聞広告、政見放送等の規模は、名簿登載者の数に応じて定められている(同法一四一条三項、一四四条一項二号、一四九条二項、一五〇条五項等)。さらに、候補者届出政党は、小選挙区選挙の選挙運動をすることができるほか、衆議院名簿届出政党等でもある場合には、その小選挙区選挙に係る選挙運動が同法の許す態様において比例代表選挙に係る選挙運動にわたることを妨げないものとされている(同法一七八条の三第一項)。

 右のような改正公選法の規定をみると、立候補の機会において、候補者届出政党に所属する候補者は重複立候補をすることが認められているのに対し、それ以外の候補者は重複立候補の機会がないものとされているほか、衆議院名簿届出政党等の行うことができる選挙運動の規模において、重複立候補者の数が名簿登載者の数の制限の計算上除外される結果、候補者届出政党の要件を備えたものは、これを備えないものより規模の大きな選挙運動を行うことができるものとされているということができる。

 論旨は、右のような重複立候補制に係る改正公選法の規定は、重複立候補者が小選挙区選挙で落選しても比例代表選挙で当選することができる点において、憲法前文、四三条一項、一四条一項、一五条三項、四四条に違反し、また、重複立候補をすることができる者ないし候補者届出政党の要件を充足する政党等と重複立候補をすることができない者ないし右要件を充足しない政党等とを差別的に取り扱うものであり、選挙人の選挙権の十全な行使を侵害するものであって、憲法一五条一項、三項、四四条、一四条一項、四七条、四三条一項に違反し、さらに、選挙の時点で候補者名簿の順位が確定しないものであるから直接選挙といえず、憲法四三条一項、一五条一項、三項に違反するなどというのである。

 2 【要旨第一】重複立候補制を採用し、小選挙区選挙において落選した者であっても比例代表選挙の名簿順位によっては同選挙において当選人となることができるものとしたことについては、小選挙区選挙において示された民意に照らせば、議論があり得るところと思われる。しかしながら、前記のとおり、選挙制度の仕組みを具体的に決定することは国会の広い裁量にゆだねられているところ、同時に行われる二つの選挙に同一の候補者が重複して立候補することを認めるか否かは、右の仕組みの一つとして、国会が裁量により決定することができる事項であるといわざるを得ない。改正公選法八七条は重複立候補を原則として禁止しているが、これは憲法から必然的に導き出される原理ではなく、立法政策としてそのような選択がされているものであり、改正公選法八六条の二第四項が政党本位の選挙を目指すという観点からこれに例外を設けたこともまた、憲法の要請に反するとはいえない。重複して立候補することを認める制度においては、一の選挙において当選人とされなかった者が他の選挙において当選人とされることがあることは、当然の帰結である。したがって、重複立候補制を採用したこと自体が憲法前文、四三条一項、一四条一項、一五条三項、四四条に違反するとはいえない。

 もっとも、衆議院議員選挙において重複立候補をすることができる者は、改正公選法八六条一項一号、二号所定の要件を充足する政党その他の政治団体に所属する者に限られており、これに所属しない者は重複立候補をすることができないものとされているところ、被選挙権又は立候補の自由が選挙権の自由な行使と表裏の関係にある重要な基本的人権であることにかんがみれば、合理的な理由なく立候補の自由を制限することは、憲法の要請に反するといわなければならない。しかしながら、右のような候補者届出政党の要件は、国民の政治的意思を集約するための組織を有し、継続的に相当な活動を行い、国民の支持を受けていると認められる政党等が、小選挙区選挙において政策を掲げて争うにふさわしいものであるとの認識の下に、第八次選挙制度審議会の答申にあるとおり、選挙制度を政策本位、政党本位のものとするために設けられたものと解されるのであり、政党の果たしている国政上の重要な役割にかんがみれば、選挙制度を政策本位、政党本位のものとすることは、国会の裁量の範囲に属することが明らかであるといわなければならない。したがって、同じく政策本位、政党本位の選挙制度というべき比例代表選挙と小選挙区選挙とに重複して立候補することができる者が候補者届出政党の要件と衆議院名簿届出政党等の要件の両方を充足する政党等に所属する者に限定されていることには、相応の合理性が認められるのであって、不当に立候補の自由や選挙権の行使を制限するとはいえず、これが国会の裁量権の限界を超えるものとは解されない

 そして、行うことができる選挙運動の規模が候補者の数に応じて拡大されるという制度は、衆議院名簿届出政党等の間に取扱い上の差異を設けるものではあるが、選挙運動をいかなる者にいかなる態様で認めるかは、選挙制度の仕組みの一部を成すものとして、国会がその裁量により決定することができるものというべきである。一般に名簿登載者の数が多くなるほど選挙運動の必要性が増大するという面があることは否定することができないところであり、重複立候補者の数を名簿登載者の数の制限の計算上除外することにも合理性が認められるから、前記のような選挙運動上の差異を生ずることは、合理的理由に基づくものであって、これをもって国会の裁量の範囲を超えるとはいえない。これが選挙権の十全な行使を侵害するものでないことも、また明らかである。したがって、右のような差異を設けたことが憲法一五条一項、三項、四四条、一四条一項、四七条、四三条一項に違反するとはいえない。

 また、【要旨第二】政党等にあらかじめ候補者の氏名及び当選人となるべき順位を定めた名簿を届け出させた上、選挙人が政党等を選択して投票し、各政党等の得票数の多寡に応じて当該名簿の順位に従って当選人を決定する方式は、投票の結果すなわち選挙人の総意により当選人が決定される点において、選挙人が候補者個人を直接選択して投票する方式と異なるところはない。複数の重複立候補者の比例代表選挙における当選人となるべき順位が名簿において同一のものとされた場合には、その者の間では当選人となるべき順位が小選挙区選挙の結果を待たないと確定しないことになるが、結局のところ当選人となるべき順位は投票の結果によって決定されるのであるから、このことをもって比例代表選挙が直接選挙に当たらないということはできず、憲法四三条一項、一五条一項、三項に違反するとはいえない。

 3 論旨はまた、改正公選法の一三条二項及び別表第二の定める南関東選挙区の比例代表選挙の定数と同選挙区内の同条一項及び同法別表第一の定める小選挙区選挙の定数との合計数が五五となるのに対し、同東海選挙区のそれは五七となり、この合計数でみるならば、人口の多い南関東選挙区に人口の少ない東海選挙区より少ない定数が配分されるという逆転現象が生じており、これが憲法一四条一項、一五条一項、三項、四四条の各規定による投票価値の平等の要請に違反するとも主張する。

 しかしながら、所論のように選挙区割りを異にする二つの選挙の議員定数を一方の選挙の選挙区ごとに合計して当該選挙区の人口と議員定数との比率の平等を問題とすることには、合理性がないことが明らかであり、比例代表選挙の無効を求める訴訟においては、小選挙区選挙の仕組みの憲法適合性を問題とすることはできないというほかはない。そして、比例代表選挙についてみれば、投票価値の平等を損なうところがあるとは認められず、その選挙区割りに憲法に違反するところがあるとはいえない。したがって、改正公選法の一三条二項及び別表第二の規定が憲法一四条一項、一五条一項、三項、四四条に違反するとは認められない。

 4 以上と同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決が憲法前文、一三条、一四条一項、一五条一項、三項、四三条一項、四四条、四七条等に違反するとはいえず、所論の理由の食違いの違法もない。論旨は採用することができない。

 よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

 

 

(裁判長裁判官 山口 繁 裁判官 小野幹雄 裁判官 千種秀夫 裁判官 河合

伸一 裁判官 遠藤光男 裁判官 井嶋一友 裁判官 福田 博 裁判官 藤井正

雄 裁判官 元原利文 裁判官 金谷利廣 裁判官 北川弘治 裁判官 亀山継夫

 裁判官 奥田昌道 裁判官 梶谷 玄)

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-6)最大判平成11年11月10日 裁判官河合伸一、同遠藤光男、同福田博、同元原利文、同梶谷玄の反対意見

 

【最大判平成11年11月10日(衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟)】

平成11(行ツ)35・民集 第5381704

 

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憲法目次Ⅲ


衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-1)最大判平成11年11月10日 事実関係・要旨1

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-2)最大判平成11年11月10日 判旨・要旨2

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-3)最大判平成11年11月10日 裁判官河合伸一、同遠藤光男、同元原利文、同梶谷玄の反対意見

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-4)最大判平成11年11月10日 裁判官福田博の反対意見前半

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-5)最大判平成11年11月10日 裁判官福田博の反対意見後半

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-6)最大判平成11年11月10日 裁判官河合伸一、同遠藤光男、同福田博、同元原利文、同梶谷玄の反対意見

 

 

 

【判示三4についての裁判官河合伸一、同遠藤光男、同福田博、同元原利文、同梶

谷玄の反対意見】は、次のとおりである。

 私たちは、多数意見とは異なり、小選挙区選挙の候補者のうち、候補者届出政党に所属しない者と、これに所属する者との間に存在する選挙運動上の差別は、憲法に違反するものであり、本件選挙は違法であると考える。その理由は、以下のとおりである。

 一 選挙運動を行う権利の憲法上の意義

 代議制民主主義制度を採る我が憲法の下においては、国会議員を選出するに際しての国民の権利、すなわち選挙権を自由かつ平等に行使する権利は極めて重要な基本的人権であるから、これと表裏の関係にある被選挙権、すなわち国会議員に立候補する権利を自由かつ平等に行使することができることもまた重要な基本的人権であることは、いうをまたない。そして、被選挙権の内容には、当選を目的として選挙運動を行う権利が含まれていることは当然であるから、憲法は、合理的な理由がない限り、選挙運動を行うに当たり、すべての候補者が平等に取り扱われるべきことを要請しているということができる。 また、国会は、国権の最高機関として、自由かつ公平な選挙によって選出され、広く全国民を代表する議員によって構成されるべきものであるから、被選挙権の平等は、具体的な選挙制度の仕組みを定めるに当たり考慮すべき最も重要な基準の一つである

 二 選挙運動を行う権利と選挙制度の関係

 選挙運動を行う上で平等であるということは、選挙運動に当たり、候補者は、信条、性別、社会的身分等によっては差別されないことを意味するのであり、これには特定の政党又は政治団体に所属するか否かによって差別されないことも当然含まれるのである。

 ところが、改正公選法の衆議院議員の候補者の選挙運動に関する規定をみると、小選挙区選挙における立候補につき、同法八六条は、一項各号所定の要件のいずれかを備えた政党その他の政治団体が当該団体に所属する者を候補者として届け出る制度を採用し、これとともに、候補者となろうとする者又はその推薦人も候補者の届出をすることができるものとしている。そして、右の候補者の届出をした政党その他の政治団体(候補者届出政党)は、候補者本人のする選挙運動とは別に、一定の選挙運動を行うことができるほか、候補者本人はすることのできない政見放送をすることができるものとされている。

 多数意見は、改正公選法が、候補者と並んで候補者届出政党にも選挙運動を認めたことは、選挙制度を政策本位、政党本位のものとするという理由によるものであって合理性を是認することができ、これにより候補者届出政党に所属する候補者とこれに所属しない候補者との間に選挙運動の上で差異を生ずることは避け難いところであって、法に定める選挙運動上の差異は、候補者届出政党にも選挙運動を認めたことに伴って不可避的に生ずるということができる程度のものであるから、これが国会の裁量の範囲を超え、憲法に違反するとは認め難く、また、政見放送が候補者届出政党にのみ認められていることについても、この一事をもって、選挙運動に関する規定における候補者間の差異が合理性を有するとは到底考えられない程度に達しているとまでは断定し難いというのである。

 しかしながら、選挙制度を政策本位のものとすることが望ましいとしても、これを政党本位のものとすることについては、別途検討を要する問題がある。候補者届出政党が選挙運動を行うに当たり、その政党が掲げる政策の内容を具体的に説明し、その政党に属する候補者を当選させることが政策の実現に資するゆえんであるとして選挙人に働き掛けることは、政党に選挙運動を認めた直接の結果であって、特に問題とされる余地はない。しかし、候補者届出政党が更に一歩を進め、特定の小選挙区内で、その政党に所属して立候補した具体的な候補者の氏名を選挙人に示し、その候補者の当選を目的とする選挙運動を行うことは、とりもなおさず、その候補者が個人として行う選挙運動に、政党が個人のための選挙運動を上積みすることを意味し、政党に所属する候補者に、政党に所属しない候補者と比較して、質量共により大きな選挙運動の効果を享受させることになるのである。したがって、その較差の程度と内容によっては、憲法が要請する被選挙権の平等の原則に反するおそれを生じかねないのである

 三 改正公選法における選挙運動上の差異の内容とその程度

 そこで、小選挙区における候補者届出政党に所属する候補者と、これに所属しない候補者の選挙運動上の差異をみるため、候補者に認められる選挙運動の態様と、候補者届出政党のそれとを比較してみると、大要次のとおりであると認められる(以下、この項において、公職選挙法を「法」と、公職選挙法施行令を「令」と、公職選挙法施行規則を「規則」という。)。

 1 選挙事務所の設置

 (一) 候補者

 原則として一箇所を超えて設置することができない(法一三一条一項一号)。

 (二)候補者届出政党

 届け出た候補者に係る選挙区ごとに、原則として一箇所を超えて設置することができない(法一三一条一項一号)。

 候補者届出政党の選挙事務所においても、候補者本人の選挙運動に関する事務を取り扱うことができると解される。

 2 自動車、船舶及び拡声機の使用

 (一) 候補者

 主として選挙運動に使用される自動車又は船舶及び拡声機は、候補者一人について、原則として、自動車一台又は船舶一隻及び拡声機一そろいのほかは、使用することができない(法一四一条一項)。自動車又は船舶に乗車又は乗船することができる人数には制限があり(法一四一条の二第一項)、自動車の種類や構造にも制限がある(法一四一条七項、令一〇九条の三)。

 (二) 候補者届出政党

 候補者届出政党は、(一)にかかわらず、その届け出た候補者に係る選挙区を包括する都道府県ごとに、自動車一台又は船舶一隻及び拡声機一そろいを、主として選挙運動のために使用することができ、当該都道府県における当該候補者届出政党の届出候補者の数が三人を超える場合には、この超える数が一〇人を増すごとに、右の自動車又は船舶及び拡声機一の使用に加えて、自動車一台又は船舶一隻及び拡声機一そろいを使用することができる(法一四一条二項)。乗車、乗船人数及び自動車の種類や構造に制限はなく、候補者自身も乗車又は乗船することができると解される。

 3 文書図画の頒布

 (一) 候補者

 選挙運動のために使用する文書図画は、候補者一人につき、通常葉書三万五〇〇〇枚及び二種類以内のビラ七万枚のほかは、頒布することができない(法一四二条一項一号)。右のビラは、長さ二九・七センチメートル、幅二一センチメートルを超えてはならない(同条九項)。

 (二) 候補者届出政党

 候補者届出政党は、(一)にかかわらず、その届け出た候補者に係る選挙区を包括する都道府県ごとに、通常葉書は二万枚、ビラは四万枚を基数として、これらにそれぞれ当該都道府県における当該候補者届出政党の届出候補者の数を乗じて得た数以内の通常葉書又はビラを選挙運動のために頒布することができる。ただし、ビラについては、その届け出た候補者に係る選挙区ごとに四万枚以内で頒布するほかは、頒布することができない(法一四二条二項)。右のビラは、長さ四二センチメートル、幅二九・七センチメートルを超えてはならない(同条九項)。右の通常葉書又はビラには、候補者の氏名、写真、政見等も掲載することができると解される。

 4 文書図画の掲示

 (一) 候補者

 選挙運動のために使用する文書図画は、次のいずれかに該当するもののほかは、掲示することができない(法一四三条一項)。

 (1) 選挙事務所を表示するために、その場所において使用するポスター、立札、ちょうちん及び看板の類(同項一号)

 (2) 法一四一条の規定により選挙運動のために使用される自動車又は船舶に取り付けて使用するポスター、立札、ちょうちん及び看板の類(同項二号)

 (3) 候補者の使用するたすき、胸章及び腕章の類(同項三号)

 (4) 演説会場において、その演説会の開催中使用するポスター、立札、ちょうちん及び看板の類(同項四号)

 (5)個人演説会告知用ポスター(同項四号の二)

 (6) 前各号に掲げるものを除くほか、選挙運動のために使用するポスター(同項五号)

 右の(5)及び(6)のポスターについては枚数制限があり、法定の掲示場ごとに、候補者一人につき、それぞれ一枚に限る(法一四三条三項)。また、右(6)のポスターは、長さ四二センチメートル、幅三〇センチメートルを超えてはならない(法一四四条四項)。

 (二) 候補者届出政党

 候補者届出政党は、(一)の(1)、(2)、(4)及び(6)に該当する文書図画を掲示することができるが、(6)のポスターについては枚数制限があり、その届け出た候補者に係る選挙区を包括する都道府県ごとに、一〇〇〇枚に当該都道府県における当該候補者届出政党の届出候補者の数を乗じて得た数(ただし、その届け出た候補者に係る選挙区ごとに、一〇〇〇枚以内)に限る(法一四四条一項一号)。また、候補者届出政党が使用することができる(6)のポスターは、長さ八五センチメートル、幅六〇センチメートルを超えてはならない(同条四項)。

 ポスターには、届出候補者の氏名や写真も掲載することができると解される。

 5 新聞広告

 (一) 候補者

 候補者は、横九・六センチメートル、縦二段組以内の寸法で、いずれか一の新聞に、選挙運動期間中、五回を限り、選挙に関して広告をすることができる(法一四九条一項、規則一九条一項)。

 (二) 候補者届出政党

 候補者届出政党は、当該都道府県における当該候補者届出政党の届出候補者の数に応じて、横三八・五センチメートル以内、縦四段組以内から一六段組以内の寸法で、いずれか一の新聞に、選挙運動の期間中、八回から三二回までの回数を限り、選挙に関して広告をすることができる(法一四九条一項、規則一九条二項)。

 広告には、届出候補者の氏名や写真も掲載することができると解される。

 6 政見放送・経歴放送

 (一) 候補者

 候補者は、政見放送をすることができない(法一五一条の五)。

 候補者の経歴放送については、日本放送協会は、少なくとも、ラジオ放送によりおおむね一〇回、テレビジョン放送により一回、候補者の氏名、年齢、党派別、主要な経歴等を放送する(法一五一条一項、二項)。

 (二) 候補者届出政党

 候補者届出政党は、日本放送協会及び都道府県ごとに自治大臣が定める民間放送会社の放送設備により、届出候補者の数に応じて定められた時間数の政見放送を行うことができる(法一五〇条一項、四項、令一一一条の四第一項、第五項)。

 政見放送においては、届出候補者を出演させたりその紹介をしたりすることができると解される。

 7 演説会

 (一) 候補者

 候補者は、回数の制限なく、個人演説会を開催することができる(法一六一条一項、一六一条の二)。

 (二) 候補者届出政党

 候補者届出政党は、右とは別に、回数の制限なく、候補者を届け出た選挙区ごとに政党演説会を開催することができる(法一六一条一項、一六一条の二)。

 政党演説会においては、候補者への投票依頼等を行うことができると解される。

 以上のうち2ないし4及び7の選挙運動費用の一部が、候補者については公費負担とされているが、候補者届出政党には公費負担の定めがない。しかしながら、候補者届出政党となり得る要件は、政党助成法により法人格を取得して政党交付金の交付を受けることができる政党の要件とおおむね同一であること(政党助成法二条一項、三条、政党交付金の交付を受ける政党等に対する法人格の付与に関する法律三条一項、四条一項参照)、政党交付金の使途については制限がなく(政党助成法四条一項)、選挙運動にも使用することができることが留意されるべきである。

 四 較差の評価

 右によって較差の程度と内容を検証してみると、小選挙区選挙において候補者届出政党に認められている選挙運動のうち、候補者自身の選挙運動に上積みされると評価することができるものは、それだけで優に候補者本人に認められた選挙運動量に匹敵する程のものがあると考えられるところ、特に、改正公選法一五〇条一項が、小選挙区選挙において、候補者届出政党にのみ政見放送を認め、候補者を含むそれ以外の者には政見放送を認めないとしたことは、候補者届出政党に所属する候補者とこれに所属しない候補者との間に、質量共に大きな較差を設けたというべきである。

 政見放送についてこのような差異を設けた根拠については、選挙区が狭くなったこと、従前より多数の立候補が予測され、候補者に政見放送の機会を均等に提供することが困難になったこと、候補者届出政党は、選挙運動の対象区域が広く、ラジオ放送、テレビジョン放送の利用が不可欠であること等と説明されているが、これは、今日におけるラジオ放送又はテレビジョン放送の影響力の大きさや、全国各地に地方ラジオ放送局、地方テレビジョン放送局が普及している事実を軽視するものであって、到底正当な理由とはなり得ない。また、政見放送は、これのみを切り離して評価すべきものではなく、候補者届出政党に認められた他の選挙運動と不可分一体のものとして、候補者に認められた選挙運動との比較検討をすべきものである。

 以上を総合すると、候補者届出政党に所属する候補者の受ける利益は、候補者届出政党にも選挙運動を認めたことに伴って不可避的に生じる程度にすぎないというのは、あまりにも過小な評価といわざるを得ず、候補者届出政党に所属する候補者と、これに所属しない候補者との間の選挙運動上の較差は、合理性を有するとは到底いえない程度に達していると認めざるを得ない。

 五 候補者届出政党への参入の可能性

 1 候補者届出政党に所属する候補者となることが、右のごとく選挙運動上大きな効果を享受できることになるとしても、これから立候補をしようとする者が容易に政党その他の政治団体を結成し、あるいは既に所属する政党その他の政治団体の組織を変更することにより、候補者届出政党に所属する候補者になり得るのであれば、候補者届出政党に所属しないで立候補することは、選挙運動上の便益を受ける

ことを自ら放棄したとみることができるから、便益の較差を問題とする必要は生じないであろう。

 2 ところが、改正公選法において候補者届出政党となり得る要件は、国会議員を五人以上有するか、直近の国政選挙における得票総数が、有効投票総数の二パーセント以上であることと定められているのである。ほとんどの既成の政党がこの要件を満たすことには問題がないと思われるのに対し、右の要件を満たさない政党その他の政治団体が候補者届出政党となり得る途は全く閉ざされており、このことが次の選挙を目指し新たな政策を掲げて政治団体を結成することを著しく妨げる要因となっているのである。したがって、新たに立候補をしようとする者で候補者届出政党に所属しないものは、不利な条件下で選挙運動をすることに甘んじつつ候補者届出政党に所属する候補者以上の得票をすることを目標に努力するか、あるいは自己の有する結社の自由を事実上放棄し、不本意ながら候補者届出政党の要件を備える政党に加入し、その所属候補者として立候補することを余儀なくされることになるのである。

 六 結論

 以上のとおりであって、候補者届出政党への参入の窓口を閉ざしたまま、候補者届出政党に所属する候補者とこれに所属しない候補者との間で、右のごとく著しい選挙運動上の便益の較差を残したまま選挙を行うことは、候補者届出政党に所属しない候補者に、極めて不利な条件を課してレースへ参加することをやむなくさせることになると認めざるを得ない。

 したがって、改正公選法の小選挙区の選挙運動に関する規定は、候補者が法の定める一定の要件を備えた政党又は政治団体に所属しているか否かにより、合理的な理由なく、選挙運動の上で差別的な扱いをすることを容認するものであって、憲法一四条一項に反するとともに、国会の構成原理に反する違法があるというべきである。

 もっとも、本件訴訟の対象となった選挙区の選挙を無効としたとしても、それ以外の選挙区の選挙が当然に無効となるものではないこと、当該選挙を無効とする判決の結果、一時的にせよ憲法の予定しない事態が現出することになることなどにかんがみると、本件については、判示三3について述べた理由によるほか、以上の理由によっても、いわゆる事情判決の法理により、主文においてその違法を宣言するにとどめ、これを無効としないこととするのが相当である。

 

(裁判長裁判官 山口 繁 裁判官 小野幹雄 裁判官 千種秀夫 裁判官 河合

伸一 裁判官 遠藤光男 裁判官 井嶋一友 裁判官 福田 博 裁判官 藤井正

雄 裁判官 元原利文 裁判官 金谷利廣 裁判官 北川弘治 裁判官 亀山継夫

 裁判官 奥田昌道 裁判官 梶谷 玄)

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-5)最大判平成11年11月10日 裁判官福田博の反対意見後半

 

【最大判平成11年11月10日(衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟)】

平成11(行ツ)35・民集 第5381704

 

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衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-2)最大判平成11年11月10日 判旨・要旨2

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-3)最大判平成11年11月10日 裁判官河合伸一、同遠藤光男、同元原利文、同梶谷玄の反対意見

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-4)最大判平成11年11月10日 裁判官福田博の反対意見前半

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-5)最大判平成11年11月10日 裁判官福田博の反対意見後半

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-6)最大判平成11年11月10日 裁判官河合伸一、同遠藤光男、同福田博、同元原利文、同梶谷玄の反対意見

 

 

 七 平等原則を忠実に遵守した選挙区割りを行う中心的責任は、もとより国会自身にある。しかし、それを構成する現職の国会議員は、現存の選挙制度で当選してきているのであるから、選挙制度の改正に対し基本的に慎重な対応を行う傾向が強い。それゆえに、選挙制度が投票価値の不平等を内包している場合であっても、その是正に対する熱意は不足しがちである。三権分立を採る統治システムの中にあっては、そのような事態を是正する役割は行政及び司法にもあるが、司法が違憲立法審査権を与えられているとき、司法の果たす役割は極めて重大なものとなる。この点は、行政が、元来国会の影響を受けやすい立場にあることのみならず、我が国のように現職の国会議員を頂点とする議院内閣制の下にあっては、行政府の長が別途の選挙によって選出される大統領制などに比し、選挙区割りなど国会議員の利害に直接影響する問題について具体的に発言することがおのずから限定されている事情の下では、一層認識されるべきものである。

 八 司法は、長年にわたり、選挙制度に関する国会の広い裁量権の存在を基本とした理由付けの下に、衆・参両院の存在意義の相違等を理由として、衆議院議員選挙については最大較差三倍未満、参議院議員選挙のうち選挙区選出議員については最大較差六倍未満の較差(平等原則からのかい離)の発生を容認してきた。今回の多数意見も、平成一〇年判決に引き続き、改正公選法により行われた本件選挙についても、従来の判例が踏襲した判断の枠組み及びその考え方を変更する必要を見ないとしている

 しかし、今や衆・参両院議員の選挙制度は極めて似通ったものとなっており、衆議院議員選挙は小選挙区及び比例区の並立制により、また、参議院議員選挙は選挙区(小選挙区、中選挙区)及び比例代表の並立制により行われている(参議院では選挙区選挙を半数改選制により行うので、定員二人の選挙区は定員一人の小選挙区として行われ、それ以上の定員の選挙区は中選挙区となる。)。このような状況下にあっては、そもそも何ゆえに憲法が代表民主制の前提としている投票価値の平等といった重要原則からのかい離を認めるのかを理解し難いことのほか、国会が平等原則からのかい離の程度を衆・参両院について異ならしめ、それによって衆・参両院の差を際立たせようとしていることをどうして容認し続ける必要があるのか、私には全く理解できない。衆・参両院の差を設けることが望ましいという命題は、投票価値の不平等を通じて達成されてはならないのである。

 また、司法は、従来参議院議員選挙のうち選挙区選出議員については、地域性の要素が存在すると認定する(平成一〇年判決における多数意見は、選挙区選出議員について、都道府県を選挙区とすることは、都道府県が歴史的にも政治的、経済的、社会的にも独自の意義と実体を有し政治的に一つのまとまりを有する単位としてとらえ得ることに照らし、これを構成する住民の意見を集約的に反映させるという意義ないし機能を加味しようとしたものと解することができるから、合理性を欠くものとはいえないと述べている。)一方、今回は衆議院議員選挙のうち選挙区選挙において、「一人別枠制」(その違憲性は、裁判官河合伸一、同遠光男、同元原利文、同梶谷玄の反対意見により極めて明らかであるので、再説を要しない。)という形で導入された地域性の要素を是認するに至っている。しかし、そもそも憲法には平等原則の遵守や投票の秘密の程度などを地域性の要素によって操作することを認める規定などはないのである。選挙区の画定方法において、地域性によって平等原則の遵守の程度を異ならしめることまでを容認することは、すなわち平等原則の軽視に対し目を閉ざすことにほかならない

 九 我が国憲法の解釈は、我が国司法の積み重ねてきた判例に沿って行われればよいのであって、外国における経験などといったものは考慮する要がないといった議論があるが、そのような考え方はもちろん採ることができない。「代表民主制」とか「法の支配」とかいった概念は、民主主義制度を持つ多くの国における歴史と経験の積重ねに基づいて発展してきたものである。我が国の憲法もそのような経験に裏打ちされている。成熟した民主主義国家の会合といわれるG7を構成する諸外国を見ても、我が国のように平等原則からのかい離について寛容な国はない。そのうち米国、英国、フランス、ドイツにおいて投票価値の平等が尊重されていることについては、平成一〇年判決における裁判官尾崎行信、同福田博の追加反対意見に詳述したので、これを引用する。

 イタリアにおいては、一九九三年に上下両院につき従来の全面的な比例代表制から小選挙区比例代表並立制への転換が行われ(いずれも小選挙区七五パーセント、比例区二五パーセントの割合になっているが、下院については重複立候補が認められている。)、今回の我が国公職選挙法の改正に当たっても参考とされたといわれる。しかし、定数の較差について見ると、我が国と異なり、伝統的に人口比に応じた選挙区割りが厳格に行われているので、定数較差が政治的又は司法上の問題となったことはない(一〇年ごとに実施される国勢調査を基礎として、各選挙区の人口に比例して定数配分を行い、委任立法により確定する。)(注)。

(注) イタリアの下院議員定数は六三○人で、選挙区は全二七区からなり、原則として各州(全国で二○州)を一選挙区としつつ、人口の多い州について二又は三の選挙区を設け、議員定数は、各選挙区の人口に厳格に比例して配分される。

 各選挙区においては、原則として議員定数の七五パーセントが小選挙区、二五パーセントが比例代表区に割り当てられる。それぞれの選挙区の中に画定される小選挙区の区割りには詳細かつ厳格な基準が設けられており、各小選挙区の人口と当該選挙区内の全小選挙区の基準人口とのかい離は最大でも一五パーセント(最大較差に換算すれば一・三五倍)とされている。

 具体的には、全国の議員一人当たりの基準人口からのかい離は、議員一人当たりの人口が最小のモリーゼ選挙区と最大のフリウリ・ヴェネツィア・ジューリア選挙区について見てもそれぞれ一○パーセント未満にすぎず(最大較差は約一・一一倍となっている。)、特例が適用されるヴァッレ・ダオスタ選挙区(人口が少ないため小選挙区総定数四七五人のうちの議員一人を選出するための小選挙区選挙のみが行われ、比例区選挙権は与えられない。)についても最大較差換算で約一・四倍に収まっている。以上の結果、全国を小選挙区のレベルで比較しても、最大較差は約一・五倍の範囲にとどまっている(イタリア憲法五六条四項、五七条四項、一九五七年三月三○日付け大統領令第三六一号(下院選挙法単一法典)、一九九三年八月四日付け法律第二七七号(下院選挙に関する新規則)外参照)。

 カナダにおいては、連邦下院選挙についての各州内の選挙区は一〇年ごとに行われる国勢調査に基づき求められる基準人口に等しくなるよう再区分を行い、原則としてその偏差は、最大でも二五パーセント以内(最大較差に換算すれば一・六七倍まで)にとどまるよう選挙区の区割りを行うこととなっている(注)。

(注) カナダ連邦下院議員選挙の選挙区は、一九六四年の選挙区割委員会法及び一九七○年の選挙区割法に基づいて設置された各州(準州を含む。)の選挙区割委員会により画定されることになっており、一〇年ごとに行われる国勢調査に基づき各州内の選挙区間の人口が等しくなるよう選挙区の再区分が行われる。具体的には連邦下院議員定数(一九九七年の総選挙時は三○一議席)を基礎とし、各州の人口を各々の議員定数で割って得た基準住民数の上下二五パーセントを超えない範囲で選挙区の区割りが行われる(ただし、各州の選挙区割委員会が特別な事情があると認めた場合(投票の便など)にはごく一部の例外が認められるときがある。)。各州に割り当てられる連邦下院議員数は、一八六七年憲法五一条一項に従い、同じく一〇年ごとの国勢調査により、原則として各州の人口に応じ調整されるが、連邦制であるため、いくつかの例外が存在する。

 なお、恣意的な境界線が決定されることを防止するため、各州の選挙区割委員会は、政治的に中立な構成となるよう工夫されている。現実には、三人の構成員のうち、一人は州最高裁判所判事が任命され、他の二人は連邦下院議長により任命されている。委員会による区割案は各州で検討された後、連邦選挙管理委員長に提出され、最終的には連邦下院の承認を受けることとなっている。

 以上の各国について見れば、いずれも投票価値の平等の原則に関する我が国の考え方よりもはるかに厳格な考え方を採っていることが明らかである。

 我が国憲法に規定する平等原則が国会議員選挙においていかに軽んじられてきているか、また、実際にどこまで一対一の目標の近くまで是正を行うことが可能かを見極めるに当たっては、このような他国の例は大いに参考になる。

 一〇 我が国における累次の定数訴訟の根本的争点は、現代における人間の平等という概念をいかに理解するかに懸かっている。長きにわたる人間の歴史において、平等や自由は、神から王へ、王から諸侯貴族へ、更に少数有産階級へ、ついには一般市民へと、次第にその享受対象を拡大し、我が国で国民一般にまでこれが及んだのは、二十世紀中葉に至ってからである。しかも、対象の範囲のみならず平等の実質や程度も、文化経済の進展につれて今日においても、なおかつ変化し徹底し続けていることを忘れてはならない。

 平等原則が国家の政治制度に表現されたのが代表民主制であり、それが選挙制度において具体化されたのがいわゆる「一人一票」の原則であって、市民に「政治参加への平等な機会」を与えることこそ、長い歴史の実験を経て、現存する最も好ましい政治制度であると評価されている。その実施に当たっては、世界各国においてある程度の投票価値の較差が許容されることがあったが、社会一般における平等への希求の深化に応じ、差別を許容する程度は急速に狭められ、今日では、二倍の較差(これは要するに一人の投票に二人分の投票の価値を認めるものである。)は到底適法とは認められず、可能な限り一対一に近接しなければならないとするのが、文明社会における常識となっている。今や我が国の独自性とか累次の判例を口実に、人類の普遍的価値である平等を、世界的に広く要請され、受容されている水準から、遠く離れた位置に放置し続けることの許されない時代に達している。かねてから特殊な社会的背景を理由に「分離すれども平等」との主張を採り続けた立場を正した裁判の例(米国)を想起すれば、二十一世紀も間近な今日、「三倍又は六倍近くの投票価値の較差があってもなお平等」という宿年の論理を矯正するべき時期に至っていることは疑いをいれない。

 一一 憲法の定める三権分立は、三権のそれぞれの自律性を尊重しつつも、相互に的確にチェックし合うことを予定している

 国会がその構成員(議員)を選出する制度を策定する際、憲法の定める投票価値の平等の原則を軽視し、遵守しないのであれば、これを違憲と断ずるのは司法の責務である。長年にわたって寛容な態度をとってきたからといって、その違憲性から目を背けてはならない。憲法に定める平等原則に照らせば、今回の公職選挙法改正における小選挙区決定に当たっての定数較差是正の方針の程度はそもそも質的に不十分であるのみならず、恣意的な投票価値の操作である「一人別枠制」の導入と相まって、右改正の内容が憲法に違反することは極めて明らかである

 一二 したがって、本件選挙には、憲法に違反する定数配分規定に基づいて施行された瑕疵が存したことになるが、改正公選法による一回目の総選挙であったこともあり、多数意見の引用する昭和五一年四月一四日大法廷判決及び同六〇年七月一七日大法廷判決の判示するいわゆる事情判決の法理により、主文において本件訴訟の対象となった選挙区の選挙の違法を宣言するにとどめ、これを無効としないことが相当と考える

 

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-4)最大判平成11年11月10日 裁判官福田博の反対意見前半

 

【最大判平成11年11月10日(衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟)】

平成11(行ツ)35・民集 第5381704

 

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衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-1)最大判平成11年11月10日 事実関係・要旨

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-2)最大判平成11年11月10日 判旨・要旨2

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-3)最大判平成11年11月10日 裁判官河合伸一、同遠藤光男、同元原利文、同梶谷玄の反対意見

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-4)最大判平成11年11月10日 裁判官福田博の反対意見前半

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-5)最大判平成11年11月10日 裁判官福田博の反対意見後半

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-6)最大判平成11年11月10日 裁判官河合伸一、同遠藤光男、同福田博、同元原利文、同梶谷玄の反対意見

 

【判示三3についての裁判官福田博の反対意見】は、次のとおりである。

 一 私は、裁判官河合伸一、同遠藤光男、同元原利文、同梶谷玄の反対意見に共感するところが多いが、憲法に定める投票価値の平等は、極めて厳格に貫徹されるべき原則であり、選挙区割りを決定するに当たり全く技術的な理由で例外的に認められることのある平等からのかい離も、最大較差二倍を大幅に下回る水準で限定されるべきであるとの考えを持っているので、その理由等につき、あえて別途反対意見を述べることとした。なお、国会議員選挙における投票価値の平等の問題は、衆議院議員選挙のそれと参議院議員選挙のそれとが相互に密接に関連しているところ、参議院議員選挙については、多数意見の引用する平成一〇年九月二日大法廷判決(以下「平成一〇年判決」という。)における裁判官尾崎行信、同河合伸一、同遠藤光男、同福田博、同元原利文の反対意見及び裁判官尾崎行信、同福田博の追加反対意見において詳しく見解を述べているので、適宜これを引用することとする。

 二 国会は、全国民を代表する選挙された議員で組織された国の機関であり、国権の最高機関である(憲法四一条、四三条)。国権の最高機関たる理由は、国会の決定は、国民全体の中の意見や利害が議員の国会活動を通じて具体的に主張されこれを反映した結果である公算が極めて高く、いわば国民全体の自己決定権の行使の結果とみなし得るからである。すなわち、全国民が平等な選挙権をもって参加した自由かつ公正な選挙により自らの代表として選出した議員で構成されていることこそが、憲法の定める国会の高い権威の源泉なのである。憲法は、選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は法律でこれを定めるとしている(四七条)が、そのような法律を策定する際に認められる国会の裁量権は、当然のことながら、憲法の定めるいくつかの原則に従うことが前提である。法の下の平等により保障される有権者の投票価値の平等の原則(以下「平等原則」という。)に従うことはそのような前提の一つであって、事務処理上生ずることが不可避な較差など明白に合理的であることが立証されたごく一部の例外が極めて限定的に許されるにすぎない。平等原則は、秘密投票の保障(一五条四項)など、自由、平等、公正な選挙を確保するために憲法が定める他のいくつかの原則と同様に重要なものであって、選挙区、投票の方法など国会議員の選挙に関する事項を法律で定める際には、当然かつ厳格に遵守されるべきものである。それが理想論ではなく十分に実現可能なものであることは、代表民主制を有する諸外国の近年における動向を見ても明らかである(後記九参照)。

 三 平等原則は、全国の選挙人数を議員総定数で除して得た数値を基準値として、この基準値ごとに一人の議員を割り当てることにより最もよく実現される。このことは、小選挙区、中選挙区、比例区すべてに当てはまる。もし、過疎の地域にもその地域からの議員選出の機会を与えたいというのであれば、それは、その実現方法が他の地域について平等原則を満たす場合にのみ許される。例えば、過疎の地域に代表を選出する機会を与えるために、過密の地域に対し割り当てられる議員定数を人口比に見合って増加するのも一つの方法である。議員の総定数を固定したままで「過疎への配慮」を行うことは、すなわち「過密の軽視」に等しく、それはとりもなおさず、有権者の住所がどこにあるかで有権者の投票価値を差別することになる。そのような差別は、身分、収入、性別その他を理由として一部の有権者に優越的地位を与えた過去のシステムと基本的発想を同じくするものであって、憲法の規定に明らかに反し、近代民主制の基本である平等な投票権者による多数決の原理をゆがめることとなる。

 四 戦後我が国の国会議員選挙制度が制定された際、参議院議員選出のための選挙区選挙において、都道府県を選挙区とする制度が導入され、当初から最大二・六二倍の較差の存在が容認されたことが、今日においても衆・参両院議員選挙における平等原則軽視の風潮をもたらす端緒となったことは否めない。当初大きな疑念も差し挟まれないまま容認されたこの較差は、宮城県と鳥取県との間で生じたものであって、「過疎への配慮」とはおよそ無縁のものであった。しかし、そのような較差の存在を容認したことは、その後の大規模な人口移動によって生じた都市部への人口集中に基づく全く違う種類の較差の問題を、過疎への配慮などの名目の下に、長年にわたり放置することにつながったといえる。そして、この傾向は、参議院議員選挙にとどまらず、衆議院議員選挙のそれにも拡散したのである。そして、この問題に対しては、司法も、選挙制度策定において国会の有する広範な裁量権の範囲にとどまるものか否かを判断すれば足りるとの考えの下に寛容な態度をとり続けた。その結果、最高裁判所による累次の判決は、衆議院議員選挙については最大三倍、参議院議員選挙のうち選挙区選出議員については最大六倍までの投票価値の較差は国会の裁量権の範囲内として許容されるとの考えに基づいて行われていると一般に理解されるに至っている。

 五 衆・参両院議員選挙について近年行われた公職選挙法の改正は、いずれも平等原則を十分に遵守するために必要な是正を行っていない。今回問題となっている改正公選法について見れば、個人の投票価値は他人のそれと同一であるにもかかわらず、選挙区選挙について最大較差が二倍以上にならないことを改正の基本方針としている点で、そもそも質的に不十分なものであること(最大較差二倍とは、要するに一人の投票に二人分の投票価値を認めるということである。)、そして、それを所与のものとして、いわゆる「一人別枠制」(それは、正に投票価値についての明白かつ恣意的な操作である。)を導入し、平成二年一〇月実施の国勢調査によっても三〇〇の選挙区中二八の選挙区において一対二を超える例外を当初から設けていることの二点において、憲法が定める代表民主制の基本的前提である平等原則を遵守していない。そして、次に述べるようにそれを正当化する理由は存在しないのである。

 第一に、憲法は、選ばれる者(議員)が選ぶ者(有権者)の投票価値を意図的に操作し差別することを認めていない。繰り返しになるが、選挙制度策定に当たっては「過疎への配慮」は「過密の軽視」を伴ってはならないのである。有権者数に見合った選挙区の統合又は議員総定数の増加などの工夫を行うことにより、投票価値の平等を実現することは、選挙に関する法律を制定する際の前提条件である(後者の方法は統治機構のスリム化の要請には反するであろうが、そのような要請は憲法の定める平等原則の重要性に比すれば質的に大きく劣後する。)。

 第二に、都道府県制をあたかも連邦制を採る国の州の地位に対比することによって、都道府県に依拠する選挙区割りの持つ重要性を平等原則に優先させて認めようとする考えがあるが、これも採り得ない。我が国が連邦国家でないことは明らかであり、基本的に行政区画である都道府県間において平等原則を劣後させ定数較差の存在を認めるようなことは憲法に何の規定も見いだせない。連邦制を採り成文の憲法を持つ国にあっては、各州に人口ないし有権者数と見合わない代表権を認める場合には、憲法にそれを認める明文の規定がある。そのような明文の規定は我が国憲法には存在せず、行政区画である都道府県制度に依拠して選挙制度を策定することが国会の裁量権の範囲内にあるという論理から平等原則に反する選挙制度も許されるとするのはしょせん無理である。

 第三に、地方議会において、その地方自治の持つ特性ゆえに、平等原則がやや緩やかに適用される例が皆無ではないことをもって、国会についても同様の配慮を認めよという議論も、国会が一部地域ではなく全国民を代表する議員で構成される国権の最高機関であるという憲法の規定に合致しないことは明らかである。

 六 我が国は、長年にわたって高度成長を続け、その中に内在する矛盾を基本的に解決しなくても各種の問題に対応していくことができた。しかし、そのような余裕のあった時代は去り、また、全く新しい重要課題への対応も迫られている。厳しい環境の中にあって、国の内外における新たな重大問題に的確に対応していくためには、民意を正確に反映した立法府の存在、すなわち憲法に定める平等原則を忠実に遵守する選挙制度で選出された議員により構成される国会の存在が以前にも増して格段に重要となってきている。もちろん代表民主制の下において、有権者及び選出された議員の選択する政策が常に最善のものであるとは限らず、見通しの甘さや誤りも往々にして存在する。しかし、代表民主制の強みは、有権者の考えが変われば、それが議員選出を通じて政策の変更に反映されやすいことにある。有権者は、投票の際、前回の選挙において自らが投票し選出された議員の選択した政策がもはや最善のものではないと考えるに至ったときには、その投票態度を容易に変更する。議員もそのことを十分に承知し、有権者の多数が選択する政策を推進しようと心掛ける。換言すれば、代表民主制の基本とするところは、選挙を通じて議員を交代させ又はその政見に影響を及ぼすことにより、より的確に多数の有権者の支持する政策が選択されることを可能ならしめるものである。代表民主制を採用しても、有権者の持つ投票価値が平等でないのであれば、そのような選挙を通じ選出された議員で構成される国会は選挙時点における民意を正しく反映しないゆがんだ構成になる。その場合には、国会において多数決で行われる決定も多数の民意を反映していないこととなる可能性を生じ、我が国の直面する内外の問題への対応に誤りを生ずる可能性もなしとしない。憲法の意図する代表民主制はそのようなものではない。平等でない投票価値に基づく選挙は、憲法の規定に反するほか、有権者の政治不信及び政治離れにもつながる危険を有する

 

 

 

 

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-3)最大判平成11年11月10日 裁判官河合伸一、同遠藤光男、同元原利文、同梶谷玄の反対意見

 

【最大判平成11年11月10日(衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟)】

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衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-1)最大判平成11年11月10日 事実関係・要旨1

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-2)最大判平成11年11月10日 判旨・要旨2

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-3)最大判平成11年11月10日 裁判官河合伸一、同遠藤光男、同元原利文、同梶谷玄の反対意見

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-4)最大判平成11年11月10日 裁判官福田博の反対意見前半

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-5)最大判平成11年11月10日 裁判官福田博の反対意見後半

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-6)最大判平成11年11月10日 裁判官河合伸一、同遠藤光男、同福田博、同元原利文、同梶谷玄の反対意見

 

 

【判示三3についての裁判官河合伸一、同遠藤光男、同元原利文、同梶谷玄の反対

意見】は、次のとおりである。

 私たちは、多数意見とは異なり、本件区割規定は憲法に違反するものであって、本件選挙は違法であると考える。その理由は、以下のとおりである。

 一 投票価値の平等の憲法上の意義

 代議制民主主義制度を採る我が憲法の下においては、国会議員を選出するに当たっての国民の権利の内容、すなわち各選挙人の投票の価値が平等であるべきことは、憲法自体に由来するものというべきである。けだし、国民は代議員たる国会議員を介して国政に参加することになるところ、国政に参加する権利が平等であるべきものである以上、国政参加の手段としての代議員選出の権利もまた、常に平等であることが要請されるからである。

 そして、この要請は、国民の基本的人権の一つとしての法の下の平等の原則及び「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」と定める国会の構成原理からの当然の帰結でもあり、国会が具体的な選挙制度の仕組みを決定するに当たり考慮すべき最も重要かつ基本的な基準である。

 二 投票価値の平等の限界

 1 投票価値の平等を徹底するとすれば、本来、各選挙人の投票の価値が名実ともに同一であることが求められることになるが、具体的な選挙制度として選挙区選挙を採用する場合には、その選挙区割りを定めるに当たって、行政区画、面積の大小、交通事情、地理的状況等の非人口的ないし技術的要素を考慮せざるを得ないため、右要請に厳密に従うことが困難であることは否定し難い。しかし、たとえこれらの要素を考慮したことによるものではあっても、選挙区間における議員一人当たりの選挙人数又は人口の較差が二倍に達し、あるいはそれを超えることとなったときは、投票価値の平等は侵害されたというべきである。けだし、そうなっては、実質的に一人一票の原則を破って、一人が二票、あるいはそれ以上の投票権を有するのと同じこととなるからである。

 2 もっとも、投票価値の平等は、選挙制度の仕組みを定めるに当たっての唯一、絶対的な基準ではなく、国会としては、他の政策的要素をも考慮してその仕組みを定め得る余地がないわけではない。この場合、右の要素が憲法上正当に考慮するに値するものであり、かつ、国会が具体的に定めたところのものがその裁量権の行使として合理性を是認し得るものである限り、その較差の程度いかんによっては、たとえ投票価値の平等が損なわれたとしても、直ちに違憲とはいえない場合があり得るものというべきである。したがって、このような事態が生じた場合には、国会はいかなる目的ないし理由を斟酌してそのような制度を定めたのか、その目的ないし理由はいかなる意味で憲法上正当に考慮することができるのかを検討した上、最終的には、投票価値の平等が侵害された程度及び右の検討結果を総合して、国会の裁量権の行使としての合理性の存否をみることによって、その侵害が憲法上許容されるものか否かを判断することとなる。

 三 本件区割規定の違憲性

 1 本件区割規定に基づく選挙区間における人口の最大較差は、改正直近の平成二年一〇月実施の国勢調査によれば一対二・一三七、本件選挙直近の平成七年一〇月実施の国勢調査によれば一対二・三〇九に達し、また、その較差が二倍を超えた選挙区が、前者によれば二八、後者によれば六〇にも及んだというのであるから、本件区割規定は、明らかに投票価値の平等を侵害したものというべきである。

 2 そこで、国会はいかなる目的ないし理由を斟酌してこのような制度を定めたのか、右目的等が憲法上正当に考慮することができるものか否か、本件区割規定を採用したことが国会の裁量権の行使としての合理性を是認し得るか否かについて検討する。

 (一) 選挙区間の人口較差が二倍以上となったことの最大要因が区画審設置法三条二項に定めるいわゆる一人別枠方式を採用したことによるものであることは明らかである。けだし、平成二年一〇月実施の国勢調査を前提とすると、この方式を採用したこと自体により、都道府県の段階において最大一対一・八二二の較差(東京都の人口一一八五万五五六三人を定数二五で除した四七万四二二三人と、島根県の人口七八万一〇二一人を定数三で除した二六万〇三四〇人の較差)が生じているが、各都道府県において、更にこれを市区町村単位で再配分しなければならないことを考えると、既にその時点において、最大較差を二倍未満に収めることが困難であったことが明らかだからである。

 (二) もし仮に、一人別枠方式を採用することなく、小選挙区選出議員の定数三〇〇人全員につき最初から最大剰余方式(全国の人口を議員総定数で除して得た基準値でブロックの人口を除して数値を求め、その数値の整数部分と同じ数の議員数を各ブロックに配分し、それで配分し切れない残余の議員数については、右数値の小数点以下の大きい順に配分する方式)を採用したとするならば、平成二年一〇月実施の国勢調査を前提とすると、都道府県段階の最大較差は一対一・六六二(香川県の人口一〇二万三四一二人を定数二で除した五一万一七〇六人と、鳥取県の人口六一万五七二二人を定数二で除した三〇万七八六一人の較差)にとどまっていたことが明らかであるから、市区町村単位での再配分を考慮したとしても、なおかつ、その最大較差を二倍未満に収めることは決して困難ではなかったはずである。

 (三) 区画審設置法は、その一方において、選挙区間の人口較差が二倍未満になるように区割りをすることを基本とすべきことを定めておきながら(同法三条一項)、他方、一人別枠方式を採用している(同条二項)。しかしながら、前記のとおり、後者を採用したこと自体によって、前者の要請の実現が妨げられることとなったのであるから、この両規定は、もともと両立し難い規定であったといわざるを得ない。のみならず、第八次選挙制度審議会の審議経過をみてみると、同審議会における投票価値の平等に対する関心は極めて高く、同審議会としては、当初、「この改革により今日強く求められている投票価値の較差是正の要請にもこたえることが必要である。」旨を答申し、小選挙区選出議員全員について無条件の最大剰余方式を採用する方向を選択しようとしたところ、これによって定数削減を余儀なくされる都道府県の選出議員から強い不満が続出したため、一種の政治的妥協策として、一人別枠方式を採用した上、残余の定数についてのみ最大剰余方式を採ることを内容とした政府案が提出されるに至り、同審議会としてもやむなくこれを承認したという経過がみられる。このように、一人別枠方式は、選挙区割りの決定に当たり当然考慮せざるを得ない行政区画や地理的状況等の非人口的、技術的要素とは全く異質の恣意的な要素を考慮して採用されたものであって、到底その正当性を是認し得るものではない。

 (四) 多数意見は、一人別枠方式を採用したのは、「人口の少ない県に居住する国民の意見をも十分に国政に反映させることができるようにすることを目的とするもの」と解した上、いわゆる過疎地化現象を考慮して右のような選挙区割りを定めたことが投票価値の平等との関係において、なお国会の裁量権の範囲内であるとする。

 しかし、このような考え方は、次のような理由により、採り得ない。

 (1) 通信、交通、報道の手段が著しく進歩、発展した今日、このような配慮をする合理的理由は極めて乏しいものというべきである。

 (2) 一人別枠方式は、人口の少ない県に居住する国民の投票権の価値を、そうでない都道府県に居住する国民のそれよりも加重しようとするものであり、有権者の住所がどこにあるかによってその投票価値に差別を設けようとするものにほかならない。このように、居住地域を異にすることのみをもって、国民の国政参加権に差別を設けることは許されるべきではない。

 (3) いわゆる過疎地対策は、国政において考慮されるべき重要な課題ではあるが、それに対する各議員の取組は、投票価値の平等の下で選挙された全国民の代表としての立場でされるべきものであって、過疎地対策を理由として、投票価値の平等を侵害することは許されない。

 (4) 一人別枠方式と類似する制度として、参議院議員選挙法(昭和二二年法律第一一号)が地方選出議員の配分につき採用した各都道府県選挙区に対する定数二の一律配分方式を挙げることができるが、憲法自体が、参議院議員の任期を六年と定め、かつ、三年ごとの半数改選を定めたことにかんがみると、改選期に改選を実施しない選挙区が生じることを避けるため採用したものと解される右制度については、それなりの合理性が認められないわけでもない。しかし、衆議院議員の選挙については、憲法上このような制約は全く存しないのであるから、右のような方式を採ることについての合理的理由を見いだす余地はない。

 (五) 以上要するに、私たちは、過疎地対策として一人別枠方式を採用することにより投票価値の平等に影響を及ぼすことは、憲法上到底容認されるものではないと考えるものであるが、その点をしばらくおくとしても、過疎地対策としてのこの方式の実効性についても、甚だ疑問が多いことを、念のため指摘しておきたい

 (1) 平成二年一〇月実施の国勢調査を前提としてみた場合、小選挙区選出議員の定数三〇〇人全員につき最初から最大剰余方式を採用した場合の議員定数と比較してみて、一人別枠方式を採用したことによる恩恵を受けた都道府県は一五に達する。その内訳をみると、本来二人の割当てを受けるべきところ三人の割当てを受けた県が七(山梨、福井、島根、徳島、香川、高知、佐賀の各県)、三人の割当てを受けるべきところ四人の割当てを受けた県が四(岩手、山形、奈良、大分の各県)、四人の割当てを受けるべきところ五人の割当てを受けた県が三(三重、熊本、鹿児島の各県)、五人の割当てを受けるべきところ六人の割当てを受けた県が一(宮城県)、それぞれ生じているが、これらの過剰割当てが過疎地対策として現実にどれほどの意味を持ち得るのか、甚だ疑問といわざるを得ない。

 (2)右によっても明らかなとおり、一人別枠方式を採用したことにより恩恵を受けた都道府県のすべてが過疎地に当たるわけではなく、また、過疎地のすべてがその恩恵を受けているわけでもない。すなわち、人口二二四万人余の宮城県、同一八四万人余の熊本県がこの恩恵を受けているのに対し、人口一二〇万人以下の富山、石川、和歌山、鳥取、宮崎の五県はこの恩恵を受けていないのである。

 (3) 過疎地対策としての実効性をいうのであれば、最大剰余方式を採用したことによって、一人の定数配分すら受けられない都道府県が生じてしまう場合が想定されることになるが、平成二年一〇月実施の国勢調査を前提とする限り、人口の最も少ない鳥取県においてすら、最大剰余方式により定数二の配分が受けられるのであり、現に鳥取県は一人別枠方式による恩恵を受けていないのであるから、本件区割規定の前提となった一人別枠方式は、過疎地対策とは何らかかわり合いのないものというべきである。

 四 結論

 小選挙区制を採用することのメリットは幾つか挙げられているが、その一つとして、議員定数不均衡問題の解消が挙げられていることは周知のとおりである。つまり、小選挙区制の下においては、選挙区の区割りの画定のみに留意すればよく、中選挙区制を採用した場合のように当該選挙区に割り当てるべき議員定数を考慮する必要が一切ないところにその特色を有し、いわば小回りがきく制度であるところから、定数不均衡問題の解消に資し得るとされているのである。したがって、二倍未満の較差厳守の要請は、中選挙区制の場合に比し、より一層厳しく求められてしかるべきである。

 そうすると、本件区割規定に基づく選挙区間の最大較差は二倍をわずかに超えるものであったとはいえ、二倍を超える選挙区が、改正直近の国勢調査によれば二八、本件選挙直近の国勢調査によれば六〇にも達していたこと、このような結果を招来した原因が専ら一人別枠方式を採用したことにあること、一人別枠方式を採用すること自体に憲法上考慮することのできる正当性を認めることができず、かつ、国会の裁量権の行使としての合理性も認められないことなどにかんがみると、本件区割規定は憲法に違反するものというべきである。なお、その違憲状態は法制定の当初から存在していたのであるから、いわゆる「是正のための合理的期間」の有無を考慮する余地がないことはいうまでもない

 もっとも、本件訴訟の対象となった選挙区の選挙を無効としたとしても、それ以外の選挙区の選挙が当然に無効となるものではないこと、当該選挙を無効とする判決の結果、一時的にせよ憲法の予定しない事態が現出することになることなどにかんがみると、本件については、いわゆる事情判決の法理により、主文においてその違法を宣言するにとどめ、これを無効としないこととするのが相当である

 

 

 

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-2)最大判平成11年11月10日 判旨・要旨2

 

【最大判平成11年11月10日(衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟)】

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衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-1)最大判平成11年11月10日 事実関係・要旨1

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-2)最大判平成11年11月10日 判旨・要旨2

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-3)最大判平成11年11月10日 裁判官河合伸一、同遠藤光男、同元原利文、同梶谷玄の反対意見

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-4)最大判平成11年11月10日 裁判官福田博の反対意見前半

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-5)最大判平成11年11月10日 裁判官福田博の反対意見後半

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-6)最大判平成11年11月10日 裁判官河合伸一、同遠藤光男、同福田博、同元原利文、同梶谷玄の反対意見

 

 3(一) 憲法は、選挙権の内容の平等、換言すれば、議員の選出における各選挙人の投票の有する影響力の平等、すなわち投票価値の平等を要求していると解される。しかしながら、投票価値の平等は、選挙制度の仕組みを決定する唯一、絶対の基準となるものではなく、国会が正当に考慮することのできる他の政策的目的ないし理由との関連において調和的に実現されるべきものと解さなければならない。それゆえ、国会が具体的に定めたところがその裁量権の行使として合理性を是認し得るものである限り、それによって右の投票価値の平等が損なわれることになっても、やむを得ないと解すべきである

 そして、憲法は、国会が衆議院議員の選挙につき全国を多数の選挙区に分けて実施する制度を採用する場合には、選挙制度の仕組みのうち選挙区割りや議員定数の配分を決定するについて、議員一人当たりの選挙人数又は人口ができる限り平等に保たれることを最も重要かつ基本的な基準とすることを求めているというべきであるが、それ以外にも国会において考慮することができる要素は少なくない。とりわけ都道府県は、これまで我が国の政治及び行政の実際において相当の役割を果たしてきたことや、国民生活及び国民感情においてかなりの比重を占めていることなどにかんがみれば、選挙区割りをするに際して無視することのできない基礎的な要素の一つというべきである。また、都道府県を更に細分するに当たっては、従来の選挙の実績、選挙区としてのまとまり具合、市町村その他の行政区画、面積の大小、人口密度、住民構成、交通事情、地理的状況等諸般の事情が考慮されるものと考えられる。さらに、人口の都市集中化の現象等の社会情勢の変化を選挙区割りや議員定数の配分にどのように反映させるかという点も、国会が政策的観点から考慮することができる要素の一つである。このように、選挙区割りや議員定数の配分の具体的決定に当たっては、種々の政策的及び技術的考慮要素があり、これらをどのように考慮して具体的決定に反映させるかについて一定の客観的基準が存在するものでもないから、選挙区割りや議員定数の配分を定める規定の合憲性は、結局は、国会が具体的に定めたところがその裁量権の合理的行使として是認されるかどうかによって決するほかはない。そして、具体的に決定された選挙区割りや議員定数の配分の下における選挙人の有する投票価値に不平等が存在し、それが国会において通常考慮し得る諸般の要素をしんしゃくしてもなお、一般に合理性を有するものとは考えられない程度に達しているときは、右のような不平等は、もはや国会の合理的裁量の限界を超えていると推定され、これを正当化すべき特別の理由が示されない限り、憲法違反と判断されざるを得ないというべきである。

 以上は、前掲昭和五一年四月一四日、同五八年一一月七日、同六〇年七月一七日、平成五年一月二〇日の各大法廷判決の趣旨とするところでもあって、これを変更する要をみない。

 

 (二) 区画審設置法三条二項が前記のような基準を定めたのは、人口の多寡にかかわらず各都道府県にあらかじめ定数一を配分することによって、相対的に人口の少ない県に定数を多めに配分し、人口の少ない県に居住する国民の意見をも十分に国政に反映させることができるようにすることを目的とするものであると解される。しかしながら、同条は、他方で、選挙区間の人口較差が二倍未満になるように区割りをすることを基本とすべきことを基準として定めているのであり、投票価値の平等にも十分な配慮をしていると認められる。前記のとおり、選挙区割りを決定するに当たっては、議員一人当たりの選挙人数又は人口ができる限り平等に保たれることが、最も重要かつ基本的な基準であるが、国会はそれ以外の諸般の要素をも考慮することができるのであって、都道府県は選挙区割りをするに際して無視することができない基礎的な要素の一つであり、人口密度や地理的状況等のほか、人口の都市集中化及びこれに伴う人口流出地域の過疎化の現象等にどのような配慮をし、選挙区割りや議員定数の配分にこれらをどのように反映させるかという点も、国会において考慮することができる要素というべきである。そうすると、これらの要素を総合的に考慮して同条一項、二項のとおり区割りの基準を定めたことが投票価値の平等との関係において国会の裁量の範囲を逸脱するということはできない。

 そして、本件区割規定は、区画審設置法三条の基準に従って定められたものであるところ、その結果、選挙区間における人口の最大較差は、改正の直近の平成二年一〇月に実施された国勢調査による人口に基づけば一対二・一三七であり、本件選挙の直近の同七年一〇月に実施された国勢調査による人口に基づけば一対二・三〇九であったというのである。このように抜本的改正の当初から同条一項が基本とすべきものとしている二倍未満の人口較差を超えることとなる区割りが行われたことの当否については議論があり得るところであるが、右区割りが直ちに同項の基準に違反するとはいえないし、同条の定める基準自体に憲法に違反するところがないことは前記のとおりであることにかんがみれば、以上の較差が示す選挙区間における投票価値の不平等は、一般に合理性を有するとは考えられない程度に達しているとまではいうことができず、本件区割規定が憲法の選挙権の平等の要求に反するとは認められない。

 4(一) 改正公選法は、前記のように政党等を選挙に深くかかわらせることとしているが、これは、第八次選挙制度審議会の答申にあるとおり、選挙制度を政策本位、政党本位のものとするために採られたと解される。前記のとおり、衆議院議員の選挙制度の仕組みの具体的決定は、国会の広い裁量にゆだねられているところ、憲法は、政党について規定するところがないが、その存在を当然に予定しているものであり、政党は、議会制民主主義を支える不可欠の要素であって、国民の政治意思を形成する最も有力な媒体であるから、国会が、衆議院議員の選挙制度の仕組みを決定するに当たり、政党の右のような重要な国政上の役割にかんがみて、選挙制度を政策本位、政党本位のものとすることは、その裁量の範囲に属することが明らかであるといわなければならない。そして、選挙運動をいかなる者にいかなる態様で認めるかは、選挙制度の仕組みの一部を成すものとして、国会がその裁量により決定することができるものというべきである。

 もっとも、このように選挙制度を政策本位、政党本位のものとすることに伴って、小選挙区選挙においては、候補者届出政党に所属する候補者とこれに所属しない候補者との間に、選挙運動の上で実質的な差異を生ずる結果となっていることは否定することができない。そして、被選挙権又は立候補の自由が選挙権の自由な行使と表裏の関係にある重要な基本的人権であることにかんがみれば、憲法は、各候補者が選挙運動の上で平等に取り扱われるべきことを要求しているというべきであるが、合理的理由に基づくと認められる差異を設けることまで禁止しているものではない。すなわち、国会が正当に考慮することのできる政策的目的ないし理由を考慮して選挙運動に関する規定を定めた結果、選挙運動の上で候補者間に一定の取扱いの差異が生じたとしても、国会の具体的に決定したところが、その裁量権の行使として合理性を是認し得ず候補者間の平等を害するというべき場合に、初めて憲法の要請に反することになると解すべきである。

 (二) 【要旨第二】改正公選法の前記規定によれば、小選挙区選挙においては、候補者のほかに候補者届出政党にも選挙運動を認めることとされているのであるが、政党その他の政治団体にも選挙運動を認めること自体は、選挙制度を政策本位、政党本位のものとするという国会が正当に考慮し得る政策的目的ないし理由によるものであると解されるのであって、十分合理性を是認し得るのである。もっとも、改正公選法八六条一項一号、二号が、候補者届出政党になり得る政党等を国会議員を五人以上有するもの及び直近のいずれかの国政選挙における得票率が二パーセント以上であったものに限定し、このような実績を有しない政党等は候補者届出政党になることができないものとしている結果、選挙運動の上でも、政党等の間に一定の取扱い上の差異が生ずることは否めない。しかしながら、このような候補者届出政党の要件は、国民の政治的意思を集約するための組織を有し、継続的に相当な活動を行い、国民の支持を受けていると認められる政党等が、小選挙区選挙において政策を掲げて争うにふさわしいものであるとの認識の下に、政策本位、政党本位の選挙制度をより実効あらしめるために設けられたと解されるのであり、そのような立法政策を採ることには相応の合理性が認められ、これが国会の裁量権の限界を超えるとは解されない

 そして、候補者と並んで候補者届出政党にも選挙運動を認めることが是認される以上、候補者届出政党に所属する候補者とこれに所属しない候補者との間に選挙運動の上で差異を生ずることは避け難いところであるから、その差異が一般的に合理性を有するとは到底考えられない程度に達している場合に、初めてそのような差異を設けることが国会の裁量の範囲を逸脱するというべきである。自動車、拡声機、文書図画等を用いた選挙運動や新聞広告、演説会等についてみられる選挙運動上の差異は、候補者届出政党にも選挙運動を認めたことに伴って不可避的に生ずるということができる程度のものであり、候補者届出政党に所属しない候補者も、自ら自動車、拡声機、文書図画等を用いた選挙運動や新聞広告、演説会等を行うことができるのであって、それ自体が選挙人に政見等を訴えるのに不十分であるとは認められないことにかんがみれば、右のような選挙運動上の差異を生ずることをもって、国会の裁量の範囲を超え、憲法に違反するとは認め難い。もっとも、改正公選法一五〇条一項が小選挙区選挙については候補者届出政党にのみ政見放送を認め候補者を含むそれ以外の者には政見放送を認めないものとしたことは、政見放送という手段に限ってみれば、候補者届出政党に所属する候補者とこれに所属しない候補者との間に単なる程度の違いを超える差異を設ける結果となるものである。原審の確定したところによれば、このような差異が設けられた理由は、小選挙区制の導入により選挙区が狭くなったこと、従前よりも多数の立候補が予測され、これら多数の候補者に政見放送の機会を均等に提供することが困難になったこと、候補者届出政党は選挙運動の対象区域が広くラジオ放送、テレビジョン放送の利用が不可欠であることなどにあるとされているが、ラジオ放送又はテレビジョン放送による政見放送の影響の大きさを考慮すると、これらの理由をもってはいまだ右のような大きな差異を設けるに十分な合理的理由といい得るかに疑問を差し挟む余地があるといわざるを得ない。しかしながら、右の理由にも全く根拠がないものではないし、政見放送は選挙運動の一部を成すにすぎず、その余の選挙運動については候補者届出政党に所属しない候補者も十分に行うことができるのであって、その政見等を選挙人に訴えるのに不十分とはいえないことに照らせば、政見放送が認められないことの一事をもって、選挙運動に関する規定における候補者間の差異が合理性を有するとは到底考えられない程度に達しているとまでは断定し難いところであって、これをもって国会の合理的裁量の限界を超えているということはできないというほかはない。したがって、改正公選法の選挙運動に関する規定が憲法一四条一項に違反するとはいえない。

 

 5 以上と同旨の原審の判断は、是認することができ、原判決が所論の憲法の原

理や一四条一項、五五条、五七条一項、五九条二項等に違反するとはいえない。論

旨は採用することができない。

 

 よって、裁判官河合伸一、同遠藤光男、同福田博、同元原利文、同梶谷玄の反対

意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

 

 

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-1)最大判平成11年11月10日 事実関係・要旨1

 

【最大判平成11年11月10日(衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟)】

平成11(行ツ)35・民集 第5381704

 

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衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-1)最大判平成11年11月10日 事実関係・要旨1

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-2)最大判平成11年11月10日 判旨・要旨2

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-3)最大判平成11年11月10日 裁判官河合伸一、同遠藤光男、同元原利文、同梶谷玄の反対意見

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-4)最大判平成11年11月10日 裁判官福田博の反対意見前半

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-5)最大判平成11年11月10日 裁判官福田博の反対意見後半

衆議院小選挙区比例代表並立制選挙無効訴訟の合憲性(3-6)最大判平成11年11月10日 裁判官河合伸一、同遠藤光男、同福田博、同元原利文、同梶谷玄の反対意見

 

 

要旨

 

判示事項

一 公職選挙法が衆議院議員選挙につき採用している小選挙区制の合憲性

二 衆議院小選挙区選出議員の選挙において候補者届出政党に選挙運動を認める公職選挙法の規定の合憲性

裁判要旨

一 公職選挙法が衆議院議員選挙につき採用している小選挙区制は、憲法の国民代表の原理等に違反するとはいえない。

二 衆議院小選挙区選出議員の選挙において候補者届出政党に政見放送その他の選挙運動を認める公職選挙法の規定は、候補者届出政党に所属する候補者とこれに所属しない候補者との間に選挙運動の上で差異を生ずるものであるが、その差異が一般的に合理性を有するとは到底考えられない程度に達しているとは断定し難く、憲法一四条一項に違反するとはいえない。

(二につき反対意見がある。)

 

判旨

 一 原審の適法に確定した事実関係等によれば、第八次選挙制度審議会は、平成二年四月、衆議院議員の選挙制度につき、従来のいわゆる中選挙区制にはいくつかの問題があったので、これを根本的に改めて、政策本位、政党本位の新たな選挙制度を採用する必要があるとして、いわゆる小選挙区比例代表並立制を導入することなどを内容とする答申をし、その後の追加答申等も踏まえて内閣が作成、提出した公職選挙法の改正案が国会において審議された結果、同六年一月に至り、公職選挙法の一部を改正する法律(平成六年法律第二号)が成立し、その後、右法律が同年法律第一〇号及び第一〇四号によって改正され、これらにより衆議院議員の選挙制度が従来の中選挙区単記投票制から小選挙区比例代表並立制に改められたものである。右改正後の公職選挙法(以下「改正公選法」という。)は、衆議院議員の定数を五〇〇人とし、そのうち、三〇〇人を小選挙区選出議員、二〇〇人を比例代表選出議員とした(四条一項)上、各別にその選挙制度の仕組みを定め、総選挙については、投票は小選挙区選出議員及び比例代表選出議員ごとに一人一票とし、同時に選挙を行うものとしている(三一条、三六条)。このうち小選挙区選出議員の選挙(以下「小選挙区選挙」という。)については、全国に三〇〇の選挙区を設け、各選挙区において一人の議員を選出し(一三条一項、別表第一)、投票用紙には候補者一人の氏名を記載させ(四六条一項)、有効投票の最多数を得た者をもって当選人とするものとしている(九五条一項)。また、比例代表選出議員の選挙(以下「比例代表選挙」という。)については、全国に一一の選挙区を設け、各選挙区において所定数の議員を選出し(一三条二項、別表第二)、投票用紙には一の衆議院名簿届出政党等の名称又は略称を記載させ(四六条二項)、得票数に応じて各政党等の当選人の数を算出し、あらかじめ届け出た順位に従って右の数に相当する当該政党等の名簿登載者(小選挙区選挙において当選人となった者を除く。)を当選人とするものとしている(九五条の二第一項ないし第五項)。これに伴い、各選挙への立候補の要件、手続、選挙運動の主体、手段等についても、改正が行われた。 本件は、改正公選法の衆議院議員選挙の仕組みに関する規定が憲法に違反し無効であるから、これに依拠してされた平成八年一〇月二〇日施行の衆議院議員総選挙(以下「本件選挙」という。)のうち東京都第五区における小選挙区選挙は無効であると主張して提起された選挙無効訴訟である。

 二 代表民主制の下における選挙制度は、選挙された代表者を通じて、国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映されることを目標とし、他方、政治における安定の要請をも考慮しながら、それぞれの国において、その国の実情に即して具体的に決定されるべきものであり、そこに論理的に要請される一定不変の形態が存在するわけではない。我が憲法もまた、右の理由から、国会の両議院の議員の選挙について、およそ議員は全国民を代表するものでなければならないという制約の下で、議員の定数、選挙区、投票の方法その他選挙に関する事項は法律で定めるべきものとし(四三条、四七条)、両議院の議員の各選挙制度の仕組みの具体的決定を原則として国会の広い裁量にゆだねているのである。このように、国会は、その裁量により、衆議院議員及び参議院議員それぞれについて公正かつ効果的な代表を選出するという目標を実現するために適切な選挙制度の仕組みを決定することができるのであるから、国会が新たな選挙制度の仕組みを採用した場合には、その具体的に定めたところが、右の制約や法の下の平等などの憲法上の要請に反するため国会の右のような広い裁量権を考慮してもなおその限界を超えており、これを是認することができない場合に、初めてこれが憲法に違反することになるものと解すべきである(最高裁昭和四九年(行ツ)第七五号同五一年四月一四日大法廷判決・民集三〇巻三号二二三頁、最高裁昭和五四年(行ツ)第六五号同五八年四月二七日大法廷判決・民集三七巻三号三四五頁、最高裁昭和五六年(行ツ)第五七号同五八年一一月七日大法廷判決・民集三七巻九号一二四三頁、最高裁昭和五九年(行ツ)第三三九号同六〇年七月一七日大法廷判決・民集三九巻五号一一〇〇頁、最高裁平成三年(行ツ)第一一一号同五年一月二〇日大法廷判決・民集四七巻一号六七頁、最高裁平成六年(行ツ)第五九号同八年九月一一日大法廷判決・民集五〇巻八号二二八三頁及び最高裁平成九年 (行ツ)第一〇四号同一〇年九月二日大法廷判決・民集五二巻六号一三七三頁参照)。

 

 

 三 右の見地に立って、上告理由について判断する。

 1 前記のとおり、改正公選法一三条一項は、衆議院小選挙区選出議員の各選挙区において選出すべき議員の数をすべて一人とし、いわゆる小選挙区制を採ることを明らかにしている。同項及びこれを受けて小選挙区の区割りを具体的に定めた同法別表第一の定め(以下「本件区割規定」という。)は、前記平成六年法律第二号と同時に成立した衆議院議員選挙区画定審議会設置法(以下「区画審設置法」という。)により設置された衆議院議員選挙区画定審議会の勧告に係る区割り案どおりに制定されたものである。そして、区画審設置法附則二条三項で準用される同法三条は、同審議会が区割り案を作成する基準につき、一項において「各選挙区の人口の均衡を図り、各選挙区の人口・・・のうち、その最も多いものを最も少ないもので除して得た数が二以上とならないようにすることを基本とし、行政区画、地勢、交通等の事情を総合的に考慮して合理的に行わなければならない。」とした上、二項において「各都道府県の区域内の衆議院小選挙区選出議員の選挙区の数は、一に、衆議院小選挙区選出議員の定数に相当する数から都道府県の数を控除した数を人口に比例して各都道府県に配当した数を加えた数とする。」と規定しており、同審議会は右の基準に従って区割り案を作成したのである。したがって、改正公選法の小選挙区選出議員の選挙区の区割りは、右の二つの基準に従って策定されたということができる。前者の基準は、行政区画、地勢、交通等の事情を考慮しつつも、人口比例原則を重視して区割りを行い選挙区間の人口較差を二倍未満とすることを基本とするよう定めるものであるが、後者の基準は、区割りに先立ち、まず各都道府県に議員の定数一を配分した上で、残る定数を人口に比例して各都道府県に配分することを定めるものである。このように、後者の基準は、都道府県間においては人口比例原則に例外を設けて一定程度の定数配分上の不均衡が必然的に生ずることを予定しているから、前者の基準は、結局、その枠の中で全国的にできるだけ人口較差が二倍未満に収まるように区割りを行うべきことを定めるものと解される。 また、改正公選法八六条は、小選挙区選挙における立候補につき、同条一項各号所定の要件のいずれかを備えた政党その他の政治団体が当該団体に所属する者を候補者として届け出る制度を採用し、これとともに、候補者となろうとする者又はその推薦人も候補者の届出をすることができるものとしている。そして、右の候補者の届出をした政党その他の政治団体(候補者届出政党)は、候補者本人のする選挙運動とは別に、自動車、拡声機、文書図画等を用いた選挙運動や新聞広告、演説会等を行うことができる(同法一四一条二項、一四二条二項、一四九条一項、一六一条一項等)ほか、候補者本人はすることができない政見放送をすることができるものとされている(同法一五〇条一項)。

 

 論旨は、小選挙区制という制度は、死票率が高く、いわゆる多数代表制であって、憲法の国民代表の原理に抵触し、憲法五五条、五七条一項、五九条二項等の趣旨を没却するおそれがあり、多数支配の原則に矛盾し、憲法の認める立候補の自由、選挙の自由、結社の自由等が害されるから、違憲である、また、区画審設置法三条二項の定める基準に従って各都道府県にあらかじめ定数一を配分した結果、選挙区間の人口較差が二倍を超えたことは、憲法の定める平等選挙の原則に違反するから、本件区割規定は違憲無効である、さらに、候補者届出政党に所属する候補者とこれに所属しない候補者との選挙運動の機会が均等でないことは、憲法一四条一項の禁止する信条又は社会的身分による差別に当たるというのである(その余の論旨は、比例代表選挙に係る事項に関するものであって、小選挙区選挙の無効を求める本件においては、それ自体失当である。)。

 

 2 前記のとおり、衆議院議員の選挙制度の仕組みの具体的決定は、およそ議員は全国民を代表するものでなければならないという制約の下で、国会の裁量にゆだねられているのであり、国会が衆議院議員選挙の一つの方式として小選挙区制を選択したことについても、このような裁量の限界を超えるといわざるを得ない場合に、初めて憲法に違反することになるのである。

 【要旨第一】小選挙区制は、全国的にみて国民の高い支持を集めた政党等に所属する者が得票率以上の割合で議席を獲得する可能性があって、民意を集約し政権の安定につながる特質を有する反面、このような支持を集めることができれば、野党や少数派政党等であっても多数の議席を獲得することができる可能性があり、政権の交代を促す特質をも有するということができ、また、個々の選挙区においては、このような全国的な支持を得ていない政党等に所属する者でも、当該選挙区において高い支持を集めることができれば当選することができるという特質をも有するものであって、特定の政党等にとってのみ有利な制度とはいえない。小選挙区制の下においては死票を多く生む可能性があることは否定し難いが、死票はいかなる制度でも生ずるものであり、当選人は原則として相対多数を得ることをもって足りる点及び当選人の得票数の和よりその余の票数(死票数)の方が多いことがあり得る点において中選挙区制と異なるところはなく、各選挙区における最高得票者をもって当選人とすることが選挙人の総意を示したものではないとはいえないから、この点をもって憲法の要請に反するということはできない。このように、小選挙区制は、選挙を通じて国民の総意を議席に反映させる一つの合理的方法ということができ、これによって選出された議員が全国民の代表であるという性格と矛盾抵触するものではないと考えられるから、小選挙区制を採用したことが国会の裁量の限界を超えるということはできず、所論の憲法の要請や各規定に違反するとは認められない。

 

選挙の公正(2)・最判平成2年4月17日 雑民党事件

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【最判平成2年4月17日 (雑民党事件)】

要旨

政見放送において身体障害者に対するいわゆる差別用語を使用した発言部分が公職選挙法一五〇条の二に違反する場合、右部分がそのまま放送されなかつたとしても、不法行為法上、法的利益の侵害があつたとはいえない。

 

判旨

(1)上告人Aは、昭和五八年六月二六日実施の参議院(比例代表選出)議員選挙の際、被上告人日本放送協会の放送設備により上告人雑民党の政見の録画を行ったが、同被上告人は、録画した上告人Aの発言中「めかんち、ちんばの切符なんか、だれも買うかいな」という部分(以下「本件削除部分」という。)の音声を削除して同年六月一六日と同月二〇日にテレビジョン放送をした、(2)当時、身体障害者に対する侮蔑的表現であるいわゆる差別用語を使用することは社会的に許容されないということが広く認識されていた、というのであり、本訴における上告人らの主張は、同被上告人が本件削除部分の音声を削除してテレビジョン放送した行為が政見をそのまま放送される上告人らの権利を侵害する不法行為に当たる、というにある。

 以上の事実関係によれば、本件削除部分は、多くの視聴者が注目するテレビジョン放送において、その使用が社会的に許容されないことが広く認識されていた身体障害者に対する卑俗かつ侮蔑的表現であるいわゆる差別用語を使用した点で、他人の名誉を傷つけ善良な風俗を害する等政見放送としての品位を損なう言動を禁止した公職選挙法一五〇条の二の規定に違反するものである。そして、右規定は、テレビジョン放送による政見放送が直接かつ即時に全国の視聴者に到達して強い影響力を有していることにかんがみそのような言動が放送されることによる弊害を防止する目的で政見放送の品位を損なう言動を禁止したものであるから、右規定に違反する言動がそのまま放送される利益は法的に保護された利益とはいえず、したがつて、右言動がそのまま放送されなかつたとしても、不法行為法上、法的利益の侵害があったとはいえないと解すべきである。

 以上のとおりであるから、同被上告人が右規定に違反する本件削除部分の音声を削除して放送した行為は、上告人らの主張する不法行為に当たらないものというべきであり、不法行為の成立を否定した原審の判断は、結論において是認することができる。

 

 憲法二一条二項前段にいう検閲とは、行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解すべきところ(最高裁昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日大法廷判決・民集三八巻一二号一三〇八頁)、原審の適法に確定したところによれば、被上告人日本放送協会は、行政機関ではなく、自治省行政局選挙部長に対しその見解を照会したとはいえ、自らの判断で本件削除部分の音声を削除してテレビジョン放送をしたのであるから、右措置が憲法二一条二項前段にいう検閲に当たらないことは明らかであり、右措置が検閲に当たらないとした原審の判断は、結論において是認することができる。論旨は、採用することができない。

 

【園部逸夫の補足意見】

 私も、法廷意見と同様の理由により、被上告人日本放送協会が公職選挙法(以下「法」という。)一五〇条の二の規定に違反する本件削除部分の音声を削除して放送した行為(以下「本件削除行為」という。)は、上告人らの主張する不法行為に当たらないものと考える。ところで、法廷意見は、本件削除行為が、法一五〇条一項後段に違反するものであるかどうかについては、全く触れていない。それは、法廷意見が、上告人らの主張する不法行為の成否を判断するに当たって、この問題に触れる必要を認めなかったことを意味する。この点についても、私は、法廷意見と基本的に見解を同じくするものであり、本件削除行為が、被上告人日本放送協会の行為規範としての性格を有する法一五〇条一項後段に違反するかどうかは、上告人らの主張する不法行為の成否とは直接関わりがないと考える。したがって、この問題について判断することは、私の立場においても、法的には不必要な判断と言わなければならないが、この問題が、本件第一審以来の主要な争点であったことを顧慮し、一般論として、私の見解を述べる次第である。

 私は、法一五〇条一項後段の「この場合において、日本放送協会及び一般放送事業者は、その政見を録音し又は録画し、これをそのまま放送しなければならない。」という規定は、公職の候補者(以下「候補者」という。)自身による唯一の放送(放送法二条一号)が法一五〇条一項前段の定める政見放送であることからしても(法一五一条の五参照)、選挙運動における表現の自由及び候補者による放送の利用(いわゆるアクセス)という面において、極めて重要な意味を待つ規定であると考える。法は、一方において、候補者に対し、政見放送をするに当たっては、「その責任を自覚し」「他人若しくは他の政党その他の政治団体の名誉を傷つけ若しくは善良な風俗を害し又は特定の商品の広告その他営業に関する宣伝をする等いやしくも政見放送としての品位を損なう言動をしてはならない。」と定め(法一五〇条の二)、政見放送としての品位の保持を候補者自身の良識に基づく自律に任せ、他方において、候補者の政見放送の内容については、日本放送協会及び一般放送事業者(以下「日本放送協会等」という。)の介入を禁止しているのである。したがって、この限りにおいて、日本放送協会等は、事前に放送の内容に介入して番組を編集する責任から解放されているものと解さざるを得ない。候補者の政見放送に対する事前抑制を認める根拠として、遠くは電波法一〇六条一項、一〇七条、一〇八条、近くは法二三五条の三を挙げる見解があるが、これらの規定は、いずれも事後的な刑罰規定であって、これをもって事前抑制の根拠規定とすることは困難である。いうまでもなく、表現の自由とりわけ政治上の表現の自由は民主政治の根幹をなすものであるから、いかなる機関によるものであれ、一般的に政見放送の事前抑制を認めるべきではない。法一五〇条一頃後段は、民主政治にとって自明の原理を明確に規定したものというべきである。

 公職の選挙において、政見放送は、選挙人が候補者の政見を知るための重要な判断材料となっており、法一五〇条一項前段の規定は、日本放送協会等に対し、その放送設備により、公益のために、候補者にその政見を放送させることを要請している。そして、法一五〇条一項前段と後段の規定を合わせると、政見放送においては、日本放送協会等の役割は、候補者の政見を公衆ないし視聴者のために伝達すること以上に出るものではないと解するのが妥当であるから、政見放送の内容については、法的にも社会的にも責任を負うものではないと見るべきである。この点に関して、視聴者のすべてがこれらのことを了解しているとはいえない現状においては、視聴者が強い嫌悪感を抱くような内容の政見の録音又は録画については、日本放送協会等において、放送事業者の品位と信用を保持する見地から、その放送前に一定の事前抑制を講ずることを、緊急避難的措置として例外的に認めるべきであるとする見解がある。しかし、このような理論の適用を軽々に認めることは、結局、法律の規定に基づかない事前抑制を事実上放置することとなり、ひいては、日本放送協会等に過大な法的・社会的責任を負わせることとなるものであって妥当でないと考える。

 これを要するに、候補者の政見については、それがいかなる内容のものであれ、政見である限りにおいて、日本放送協会等によりその録音又は録画を放送前に削除し又は修正することは、法一五〇条一項後段の規定に違反する行為と見ざるを得ないのである。

選挙の公平 最判昭和56年6月15日(戸別訪問規制の合憲性)

 

 

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【最判昭和56年6月15日(戸別訪問規制の合憲性)】

要旨

公職選挙法138条1項は、憲法21条に違反しない。

 

判旨

 一 本件各公訴事実(被告人Aについては訴因変更後のもの)の要旨は、被告人Aは、昭和五一年一二月五日施行の衆議院議員総選挙に際し、島根県選挙区から立候補したBに投票を得させる目的で、同月三日頃、同選挙区の選挙人方五戸を戸々に訪問して同候補者のため投票を依頼し、被告人Cは、右選挙に際し、同様の目的で、同月一日頃から四日頃までの間、同選挙区の選挙人方七戸を戸々に訪問して同候補者のため投票を依頼し、もつていずれも戸別訪問をした、というのである。原判決は、被告人両名が戸別訪問をした事実を認めることができるとしながら、戸別訪問の禁止が憲法上許される合理的で必要やむをえない限度の規制であると考えることはできないから、これを一律に禁止した公職選挙法一三八条一項の規定は憲法二一条に違反するとし、同じ結論をとり被告人両名を無罪としていた第一審判決を維持し、検察官の控訴を棄却した。

 検察官の上告趣意は、原判決の判断につき、憲法二一条の解釈の誤りと判例違反を主張するものである。

 

 二 公職選挙法一三八条一項の規定が憲法二一条に違反するものでないことは、当裁判所の判例(最高裁昭和四三年(あ)第二二六五号同四四年四月二三日大法廷判決・刑集二三巻四号二三五頁、なお、最高裁昭和二四年(れ)第二五九一号同二五年九月二七日大法廷判決・刑集四巻九号一七九九頁参照)とするところである。

 

 戸別訪問の禁止は、意見表明そのものの制約を目的とするものではなく、意見表明の手段方法のもたらす弊害、すなわち、戸別訪問が買収、利害誘導等の温床になり易く、選挙人の生活の平穏を害するほか、これが放任されれば、候補者側も訪問回数等を競う煩に耐えられなくなるうえに多額の出費を余儀なくされ、投票も情実に支配され易くなるなどの弊害を防止し、もつて選挙の自由と公正を確保することを目的としているところ(最高裁昭和四二年(あ)第一四六四号同四二年一一月二一日第三小法廷判決・刑集二一巻九号一二四五頁、同四三年(あ)第五六号同四三年一一月一日第二小法廷判決・刑集二二巻一二号一三一九頁参照)、右の目的は正当であり、それらの弊害を総体としてみるときには、戸別訪問を一律に禁止することと禁止目的との間に合理的な関連性があるということができる。そして、戸別訪問の禁止によつて失われる利益は、それにより戸別訪問という手段方法による意見表明の自由が制約されることではあるが、それは、もとより戸別訪問以外の手段方法による意見表明の自由を制約するものではなく、単に手段方法の禁止に伴う限度での間接的、付随的な制約にすぎない反面、禁止により得られる利益は、戸別訪問という手段方法のもたらす弊害を防止することによる選挙の自由と公正の確保であるから、得られる利益は失われる利益に比してはるかに大きいということができる。以上によれば、戸別訪問を一律に禁止している公職選挙法一三八条一項の規定は、合理的で必要やむをえない限度を超えるものとは認められず、憲法二一条に違反するものではない。したがつて、戸別訪問を一律に禁止するかどうかは、専ら選挙の自由と公正を確保する見地からする立法政策の問題であつて、国会がその裁量の範囲内で決定した政策は尊重されなければならないのである。

 

 このように解することは、意見表明の手段方法を制限する立法について憲法二一条との適合性に関する判断を示したその後の判例(最高裁昭和四四年(あ)第一五〇一号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁)の趣旨にそうところであり、前記昭和四四年四月二三日の大法廷判例は今日においてもなお維持されるべきである。

 

 三 そうすると、原判決は、憲法二一条の解釈を誤るとともに当裁判所の判例と相反する判断をしたものであつて、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を免れない。論旨は理由がある。

 よつて、刑訴法四一〇条一項本文により原判決を破棄し、同法四一三条本文にしたがい本件を原審である広島高等裁判所に差し戻すこととし、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

 検察官瀧岡順一 公判出席

  昭和五六年六月一五日

     最高裁判所第二小法廷

         裁判長裁判官    宮   崎   梧   一

            裁判官    栗   本   一   夫

            裁判官    木   下   忠   良

            裁判官    鹽   野   宜   慶

選挙権の保障(2-5)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 判示第4についての裁判官泉徳治の反対意見

 

憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

選挙権の保障(2-1)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟)

選挙権の保障(2-2)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟)確認の訴えについて・国家賠償について

選挙権の保障(2-3)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 裁判官福田博の補足意見

選挙権の保障(2-4)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 裁判官横尾和子,同上田豊三の反対意見

選挙権の保障(2-5)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 判示第4についての裁判官泉徳治の反対意見

 

【判示第4についての裁判官泉徳治の反対意見】は,次のとおりである。

 私は,多数意見のうち,国家賠償請求の認容に係る部分に反対し,それ以外の部分に賛同するものである。

 

多数意見は,公職選挙法が,本件選挙当時,在外国民の投票を認めていなかったことにより,上告人らが本件選挙において選挙権を行使することができなかったことによる精神的苦痛を慰謝するため,国は国家賠償法に基づき上告人らに各5000円の慰謝料を支払うべきであるという。しかし,私は,上告人らの上記精神的苦痛は国家賠償法による金銭賠償になじまないので,本件選挙当時の公職選挙法の合憲・違憲について判断するまでもなく,上告人らの国家賠償請求は理由がないものとして棄却すべきであると考える。

 国民が,憲法で保障された基本的権利である選挙権の行使に関し,正当な理由なく差別的取扱いを受けている場合には,民主的な政治過程の正常な運営を維持するために積極的役割を果たすべき裁判所としては,国民に対しできるだけ広く是正・回復のための途を開き,その救済を図らなければならない。

 本件国家賠償請求は,金銭賠償を得ることを本来の目的とするものではなく,公職選挙法が在外国民の選挙権の行使を妨げていることの違憲性を,判決理由の中で認定することを求めることにより,間接的に立法措置を促し,行使を妨げられている選挙権の回復を目指しているものである。上告人らは,国家賠償請求訴訟以外の方法では訴えの適法性を否定されるおそれがあるとの思惑から,選挙権回復の方法としては迂遠な国家賠償請求を,あえて付加したものと考えられる。

 一般論としては,憲法で保障された基本的権利の行使が立法作用によって妨げられている場合に,国家賠償請求訴訟によって,間接的に立法作用の適憲的な是正を図るという途も,より適切な権利回復のための方法が他にない場合に備えて残しておくべきであると考える。また,当該権利の性質及び当該権利侵害の態様により,特定の範囲の国民に特別の損害が生じているというような場合には,国家賠償請求訴訟が権利回復の方法としてより適切であるといえよう。

 しかしながら,本件で問題とされている選挙権の行使に関していえば,選挙権が基本的人権の一つである参政権の行使という意味において個人的権利であることは疑いないものの,両議院の議員という国家の機関を選定する公務に集団的に参加するという公務的性格も有しており,純粋な個人的権利とは異なった側面を持っている。しかも,立法の不備により本件選挙で投票をすることができなかった上告人らの精神的苦痛は,数十万人に及ぶ在外国民に共通のものであり,個別性の薄いものである。したがって,上告人らの精神的苦痛は,金銭で評価することが困難であり,金銭賠償になじまないものといわざるを得ない。英米には,憲法で保障された権利が侵害された場合に,実際の損害がなくても名目的損害(nominal damages)の賠償を認める制度があるが,我が国の国家賠償法は名目的損害賠償の制度を採用していないから,上告人らに生じた実際の損害を認定する必要があるところ,それが困難なのである。

 そして,上告人らの上記精神的苦痛に対し金銭賠償をすべきものとすれば,議員定数の配分の不均衡により投票価値において差別を受けている過小代表区の選挙人にもなにがしかの金銭賠償をすべきことになるが,その精神的苦痛を金銭で評価するのが困難である上に,賠償の対象となる選挙人が膨大な数に上り,賠償の対象となる選挙人と,賠償の財源である税の負担者とが,かなりの部分で重なり合うことに照らすと,上記のような精神的苦痛はそもそも金銭賠償になじまず,国家賠償法が賠償の対象として想定するところではないといわざるを得ない。金銭賠償による救済は,国民に違和感を与え,その支持を得ることができないであろう。 

 当裁判所は,投票価値の不平等是正については,つとに,公職選挙法204条の選挙の効力に関する訴訟で救済するという途を開き,本件で求められている在外国民に対する選挙権行使の保障についても,今回,上告人らの提起した予備的確認請求訴訟で取り上げることになった。このような裁判による救済の途が開かれている限り,あえて金銭賠償を認容する必要もない。

 前記のとおり,選挙権の行使に関しての立法の不備による差別的取扱いの是正について,裁判所は積極的に取り組むべきであるが,その是正について金銭賠償をもって臨むとすれば,賠償対象の広範さ故に納税者の負担が過大となるおそれが生じ,そのことが裁判所の自由な判断に影響を与えるおそれもないとはいえない。裁判所としては,このような財政問題に関する懸念から解放されて,選挙権行使の不平等是正に対し果敢に取り組む方が賢明であると考える。

 

(裁判長裁判官 町田 顯 裁判官 福田 博 裁判官 濱田邦夫 裁判官 横尾

和子 裁判官 上田豊三 裁判官 滝井繁男 裁判官 藤田宙靖 裁判官 甲斐中

辰夫 裁判官 泉 徳治 裁判官 島田仁郎 裁判官 才口千晴 裁判官 今井 

功 裁判官 中川了滋 裁判官 堀籠幸男)

 

選挙権の保障(2-4)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 裁判官横尾和子,同上田豊三の反対意見

 

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選挙権の保障(2-1)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟)

選挙権の保障(2-2)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟)確認の訴えについて・国家賠償について

選挙権の保障(2-3)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 裁判官福田博の補足意見

選挙権の保障(2-4)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 裁判官横尾和子,同上田豊三の反対意見

選挙権の保障(2-5)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 判示第4についての裁判官泉徳治の反対意見

 

【裁判官横尾和子,同上田豊三の反対意見】は,次のとおりである。

 私たちは,本件上告をいずれも棄却すべきであると考えるが,その理由は次のとおりである。

 1 憲法は,その前文において,「日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,・・・ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する。そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する。」として,国民主権主義を宣言している。

 これを受けて,「公務員を選定し,及びこれを罷免することは,国民固有の権利である。」(憲法15条1項),「公務員の選挙については,成年者による普通選挙を保障する。」(同条3項)と規定し,公務員の選挙権が国民固有の権利であることを明確にしている。

 一方,国会が衆議院及び参議院の両議院から構成されること(憲法42条),両議院は全国民を代表する選挙された議員で組織されること(憲法43条1項)を規定するとともに,両議院の議員の定数,議員及びその選挙人の資格,選挙区,投票の方法その他選挙に関する事項は,これを法律で定めるべきものとし(憲法43条2項,44条,47条),両議院の議員の各選挙制度の仕組みについての具体的な決定を原則として国会の裁量にゆだねているのである。もっとも,議員及び選挙人の資格を法律で定めるに当たっては,人種,信条,性別,社会的身分,門地,教育,財産又は収入によって差別してはならないことを明らかにしている(憲法44条ただし書)。

 そして,国会が両議院の議員の各選挙制度の仕組みを具体的に決定するに当たっては,選挙人である国民の自由に表明する意思により選挙が混乱なく,公明かつ適正に行われるよう,すなわち公正,公平な選挙が混乱なく実現されるために必要とされる事項を考慮しなければならないのである。我が国の主権の及ばない国や地域(そこには様々な国や地域が存在する。)に居住していて,我が国内の市町村の区域内に住所を有していない国民(在外国民。在外国民にも二重国籍者や海外永住者などいろいろな種類の人たちがいる。)も,国民である限り選挙権を有していることはいうまでもないが,そのような在外国民が選挙権を行使する,すなわち投票をするに当たっては,国内に居住する国民の場合に比べて,様々な社会的,技術的な制約が伴うので,在外国民にどのような投票制度を用意すれば選挙の公正さ,公平さを確保し,混乱のない選挙を実現することができるのかということも国会において正当に考慮しなければならない事項であり,国会の裁量判断にゆだねられていると解すべきである。 

 換言すれば,両議院の議員の各選挙制度をどのような仕組みのものとするのか,すなわち,選挙区として全国区制,中選挙区制,小選挙区制,比例代表制のうちいずれによるのかあるいはいずれかの組合せによるのか,組合せによるとしてどのような方法によるのか,各選挙区の内容や区域・区割りはどうするのか,議員の総定数や選挙区への定数配分をどうするのか,選挙人名簿制度はどのようなものにするのか,投票方式はどうするのか,候補者の政見等を選挙人へ周知させることも含めて選挙運動をどのようなものとするのかなどなど,選挙人の自由な意思が公明かつ適正に選挙に反映され,混乱のない公正,公平な選挙が実現されるよう,選挙制度の仕組みに関する様々な事柄を選択し,決定することは国会に課せられた責務である。そして,そのような選挙制度の仕組みとの関連において,また,様々な社会的,技術的な制約が伴う中にあって,我が国の主権の及ばない国や地域に居住している在外国民に対し,どのような投票制度を用意すれば選挙の公正さ,公平さを確保し,混乱のない選挙を実現することができるのかということも,国会において判断し,選択し,決定すべき事柄であり,国会の裁量判断にゆだねられた事項である(この点,我が国の主権の及ぶ我が国内に居住している国民の選挙権の行使を制限する場合とは趣を異にするといわなければならない。我が国内に居住している国民の選挙権又はその行使を制限することは,自ら選挙の公正を害する行為をした者等の選挙権について一定の制限をすることは別として,原則として許されず,国民の選挙権又はその行使を制限するためには,そのような制限をすることがやむを得ないと認められる事由がなければならず,そのような制限をすることなしには選挙の公正を確保しつつ選挙権の行使を認めることが事実上不能ないし著しく困難であると認められる場合でない限り,上記のやむを得ない事由があるとはいえず,このような事由なしに国民の選挙権の行使を制限することは,憲法に違反するといわざるを得ない,とする多数意見に同調するものである。)。

 2 両議院の議員の各選挙制度の仕組みについては,公職選挙法がこれを定めている。従来,選挙人名簿に登録されていない者及び登録されることができない者は投票することができないとされ,選挙人名簿への登録は,当該市町村の区域内に住所を有する年齢満20年以上の国民で,その者に係る当該市町村の住民票が作成された日から引き続き3か月以上当該市町村の住民基本台帳に記録されている者について行うこととされており,在外国民は,我が国のいずれの市町村においても住民基本台帳に記録されないため,両議院議員の選挙においてその選挙権を行使する,すなわち投票をすることができなかった。

 平成6年の公職選挙法の一部改正により,それまで長年にわたり中選挙区制の下で行われていた衆議院議員の選挙についても,小選挙区比例代表並立制が採用されることになった。そして,平成10年法律第47号による公職選挙法の一部改正により,新たに在外選挙人名簿の制度が創設され,在外国民に在外選挙人名簿に登録される途を開き,これに登録されている者は,両議院議員の選挙において投票することができるようになった。もっとも,上記改正後の公職選挙法附則8項において,当分の間は,両議院の比例代表選出議員の選挙に限ることとされたため,衆議院小選挙区選出議員及び参議院選挙区選出議員の選挙はその対象とならないこととされている。このように両議院の比例代表選出議員の選挙に限って在外国民に投票の機会を認めたことの理由につき,12日ないし17日という限られた選挙運動期間中に在外国民へ候補者個人に関する情報を伝達することが極めて困難であること等を勘案したものであると説明されている。

 3 上記のとおり,我が国においては,従来,在外国民には両議院議員の選挙に関し投票の機会が与えられていなかったところ,平成10年の改正により,両議院の比例代表選出議員の選挙について投票の機会を与えることにし,衆議院小選挙区選出議員及び参議院選挙区選出議員の選挙については,在外国民への候補者個人に関する情報を伝達することが極めて困難であること等を勘案して,当分の間,投票の機会を与えないこととしたというのである。

 国会のこれらの選択は,選挙制度の仕組みとの関連において在外国民にどのような投票制度を用意すれば選挙の公正さ,公平さを確保し,混乱のない選挙を実現することができるのかという,国会において正当に考慮することのできる事項を考慮した上での選択ということができ,正確な候補者情報の伝達,選挙人の自由意思による投票環境の確保,不正の防止等に関し様々な社会的,技術的な制約の伴う中でそれなりの合理性を持ち,国会に与えられた裁量判断を濫用ないし逸脱するものではなく,平成10年に至って新たに在外選挙人名簿の制度を創設し,それまではこのような制度を設けていなかったことをも含めて,いまだ上告人らの主張する憲法の各規定や条約に違反するものではなく,違憲とはいえないと解するのが相当である。

 4 私たちは,本件の主位的確認請求に係る訴えは不適法であり,予備的確認請求に係る訴えは適法であるとする多数意見に同調するものであるが,公職選挙法附則8項の規定のうち在外選挙制度の対象となる選挙を当分の間両議院の比例代表選出議員の選挙に限定している部分も違憲とはいえないと解するので,本件の予備的確認請求は理由がなく,これを棄却すべきものと考える。本件の予備的確認請求に係る訴えを却下すべきものとした原審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があることになるが,本件の予備的確認請求を求めている上告人らからの上告事件である本件においては,いわゆる不利益変更禁止の原則により,この部分に係る本件上告を棄却すべきである。

 また,在外選挙制度を設けなかったことなどの立法上の不作為が違憲であることを理由とする国家賠償請求については,そのような不作為は違憲ではないと解するので,理由がなく,その請求を棄却すべきであるところ,原審はこれと結論を同じくするものであるから,この部分に関する本件上告も棄却すべきである。

 

選挙権の保障(2-3)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 裁判官福田博の補足意見

 

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選挙権の保障(2-1)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟)

選挙権の保障(2-2)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟)確認の訴えについて・国家賠償について

選挙権の保障(2-3)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 裁判官福田博の補足意見

選挙権の保障(2-4)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 裁判官横尾和子,同上田豊三の反対意見

選挙権の保障(2-5)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 判示第4についての裁判官泉徳治の反対意見

 

【裁判官福田博の補足意見】は,次のとおりである。

 私は,法廷意見に賛成するものであるが,法廷意見に関して,在外国民の選挙権の剥奪又は制限に対する国家賠償について,消極的な見解を述べる反対意見が表明されたこと(泉裁判官)と,在外国民の選挙権の剥奪又は制限は基本的に国会の裁量に係る部分があり,現行の制度はいまだ違憲の問題を生じていないとする反対意見が表明されたこと(横尾裁判官及び上田裁判官)にかんがみ,若干の考えを述べておくこととしたい。

 1 選挙権の剥奪又は制限と国家賠償について

 在外国民の選挙権が剥奪され,又は制限されている場合に,それが違憲であることが明らかであるとしても,国家賠償を認めることは適当でないという泉裁判官の意見は,一面においてもっともな内容を含んでおり,共感を覚えるところも多い。特に,代表民主制を基本とする民主主義国家においては,国民の選挙権は国民主権の中で最も中核を成す権利であり,いやしくも国が賠償金さえ払えば,国会及び国会議員は国民の選挙権を剥奪又は制限し続けることができるといった誤解を抱くといったような事態になることは絶対に回避すべきであるという私の考えからすれば,選挙権の剥奪又は制限は本来的には金銭賠償になじまない点があることには同感である。

 しかし,そのような感想にもかかわらず,私が法廷意見に賛成するのは主として次の2点にある。

 第1は,在外国民の選挙権の剥奪又は制限が憲法に違反するという判決で被益するのは,現在も国外に居住し,又は滞在する人々であり,選挙後帰国してしまった人々に対しては,心情的満足感を除けば,金銭賠償しか救済の途がないという事実である。上告人の中には,このような人が現に存在するのであり,やはりそのような人々のことも考えて金銭賠償による救済を行わざるを得ない。

 第2は,-この点は第1の点と等しく,又はより重要であるが-国会又は国会議員が作為又は不作為により国民の選挙権の行使を妨げたことについて支払われる賠償金は,結局のところ,国民の税金から支払われるという事実である。代表民主制の根幹を成す選挙権の行使が国会又は国会議員の行為によって妨げられると,その償いに国民の税金が使われるということを国民に広く知らしめる点で,賠償金の支払は,額の多寡にかかわらず,大きな意味を持つというべきである。 2 在外国民の選挙権の剥奪又は制限は憲法に違反せず,国会の裁量の範囲に収まっているという考えには全く賛同できない。

 現代の民主主義国家は,そのほとんどが代表民主制を国家の統治システムの基本とするもので,一定年齢に達した国民が平等かつ自由かつ定時に(解散により行われる選挙を含む。以下同じ。)選挙権を行使できることを前提とし,そのような選挙によって選ばれた議員で構成される議会が国権の最高機関となり,行政,司法とあいまって,三権分立の下に国の統治システムを形成する。我が国も憲法の規定によれば,そのような代表民主制国家の一つであるはずであり,代表民主制の中核である立法府は,平等,自由,定時の選挙によって初めて正当性を持つ組織となる。民主主義国家が目指す基本的人権の尊重にあっても,このような三権分立の下で,国会は,国権の最高機関として重要な役割を果たすことになる。

 国会は,平等,自由,定時のいずれの側面においても,国民の選挙権を剥奪し制限する裁量をほとんど有していない。国民の選挙権の剥奪又は制限は,国権の最高機関性はもとより,国会及び国会議員の存在自体の正当性の根拠を失わしめるのである。国民主権は,我が国憲法の基本理念であり,我が国が代表民主主義体制の国であることを忘れてはならない。

 在外国民が本国の政治や国の在り方によってその安寧に大きく影響を受けることは,経験的にも随所で証明されている。

 代表民主主義体制の国であるはずの我が国が,住所が国外にあるという理由で,一般的な形で国民の選挙権を制限できるという考えは,もう止めにした方が良いというのが私の感想である。

 

 

選挙権の保障(2-2)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟)確認の訴えについて・国家賠償について

 

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選挙権の保障(2-1)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟)

選挙権の保障(2-2)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟)確認の訴えについて・国家賠償について

選挙権の保障(2-3)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 裁判官福田博の補足意見

選挙権の保障(2-4)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 裁判官横尾和子,同上田豊三の反対意見

選挙権の保障(2-5)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 判示第4についての裁判官泉徳治の反対意見


 第3 確認の訴えについて

 1 本件の主位的確認請求に係る訴えのうち,本件改正前の公職選挙法が別紙当事者目録1記載の上告人らに衆議院議員の選挙及び参議院議員の選挙における選挙権の行使を認めていない点において違法であることの確認を求める訴えは,過去の法律関係の確認を求めるものであり,この確認を求めることが現に存する法律上の紛争の直接かつ抜本的な解決のために適切かつ必要な場合であるとはいえないから,確認の利益が認められず,不適法である

 2 また,本件の主位的確認請求に係る訴えのうち,本件改正後の公職選挙法が別紙当事者目録1記載の上告人らに衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙における選挙権の行使を認めていない点において違法であることの確認を求める訴えについては,他により適切な訴えによってその目的を達成することができる場合には,確認の利益を欠き不適法であるというべきところ,本件においては,後記3のとおり,予備的確認請求に係る訴えの方がより適切な訴えであるということができるから,上記の主位的確認請求に係る訴えは不適法であるといわざるを得ない。

 3 本件の予備的確認請求に係る訴えは,公法上の当事者訴訟のうち公法上の法律関係に関する確認の訴えと解することができるところ,その内容をみると,公職選挙法附則8項につき所要の改正がされないと,在外国民である別紙当事者目録1記載の上告人らが,今後直近に実施されることになる衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙及び参議院議員の通常選挙における選挙区選出議員の選挙において投票をすることができず,選挙権を行使する権利を侵害されることになるので,そのような事態になることを防止するために,同上告人らが,同項が違憲無効であるとして,当該各選挙につき選挙権を行使する権利を有することの確認をあらかじめ求める訴えであると解することができる。

 選挙権は,これを行使することができなければ意味がないものといわざるを得ず,侵害を受けた後に争うことによっては権利行使の実質を回復することができない性質のものであるから,その権利の重要性にかんがみると,具体的な選挙につき選挙権を行使する権利の有無につき争いがある場合にこれを有することの確認を求める訴えについては,それが有効適切な手段であると認められる限り,確認の利益を肯定すべきものである。そして,本件の予備的確認請求に係る訴えは,公法上の法律関係に関する確認の訴えとして,上記の内容に照らし,確認の利益を肯定することができるものに当たるというべきである。なお,この訴えが法律上の争訟に当たることは論をまたない。

 そうすると,本件の予備的確認請求に係る訴えについては,引き続き在外国民である同上告人らが,次回の衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙及び参議院議員の通常選挙における選挙区選出議員の選挙において,在外選挙人名簿に登録されていることに基づいて投票をすることができる地位にあることの確認を請求する趣旨のものとして適法な訴えということができる

 

 4 そこで,本件の予備的確認請求の当否について検討するに,前記のとおり,公職選挙法附則8項の規定のうち,在外選挙制度の対象となる選挙を当分の間両議院の比例代表選出議員の選挙に限定する部分は,憲法15条1項及び3項,43条1項並びに44条ただし書に違反するもので無効であって,別紙当事者目録1記載の上告人らは,次回の衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙及び参議院議員の通常選挙における選挙区選出議員の選挙において,在外選挙人名簿に登録されていることに基づいて投票をすることができる地位にあるというべきであるから,本件の予備的確認請求は理由があり,更に弁論をするまでもなく,これを認容すべきものである。

 

 第4 国家賠償請求について

 国家賠償法1条1項は,国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民に損害を加えたときに,国又は公共団体がこれを賠償する責任を負うことを規定するものである。したがって,国会議員の立法行為又は立法不作為が同項の適用上違法となるかどうかは,国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背したかどうかの問題であって,当該立法の内容又は立法不作為の違憲性の問題とは区別されるべきであり,仮に当該立法の内容又は立法不作為が憲法の規定に違反するものであるとしても,そのゆえに国会議員の立法行為又は立法不作為が直ちに違法の評価を受けるものではない。しかしながら,立法の内容又は立法不作為が国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合や,国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を執ることが必要不可欠であり,それが明白であるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合などには,例外的に,国会議員の立法行為又は立法不作為は,国家賠償法1条1項の規定の適用上,違法の評価を受けるものというべきである。最高裁昭和53年(オ)第1240号同60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻7号1512頁は,以上と異なる趣旨をいうものではない。

 在外国民であった上告人らも国政選挙において投票をする機会を与えられることを憲法上保障されていたのであり,この権利行使の機会を確保するためには,在外選挙制度を設けるなどの立法措置を執ることが必要不可欠であったにもかかわらず,前記事実関係によれば,昭和59年に在外国民の投票を可能にするための法律案が閣議決定されて国会に提出されたものの,同法律案が廃案となった後本件選挙の実施に至るまで10年以上の長きにわたって何らの立法措置も執られなかったのであるから,このような著しい不作為は上記の例外的な場合に当たり,このような場合においては,過失の存在を否定することはできない。このような立法不作為の結果,上告人らは本件選挙において投票をすることができず,これによる精神的苦痛を被ったものというべきである。したがって,本件においては,上記の違法な立法不作為を理由とする国家賠償請求はこれを認容すべきである。

 そこで,上告人らの被った精神的損害の程度について検討すると,本件訴訟において在外国民の選挙権の行使を制限することが違憲であると判断され,それによって,本件選挙において投票をすることができなかったことによって上告人らが被った精神的損害は相当程度回復されるものと考えられることなどの事情を総合勘案すると,損害賠償として各人に対し慰謝料5000円の支払を命ずるのが相当である。そうであるとすれば,本件を原審に差し戻して改めて個々の上告人の損害額について審理させる必要はなく,当審において上記金額の賠償を命ずることができるものというべきである。そこで,上告人らの本件請求中,損害賠償を求める部分は,上告人らに対し各5000円及びこれに対する平成8年10月21日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で認容し,その余は棄却することとする。

 

 第5 結論

 以上のとおりであるから,本件の主位的確認請求に係る各訴えをいずれも却下すべきものとした原審の判断は正当として是認することができるが,予備的確認請求に係る訴えを却下すべきものとし,国家賠償請求を棄却すべきものとした原審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。そして,以上に説示したところによれば,本件につき更に弁論をするまでもなく,上告人らの予備的確認請求は理由があるから認容すべきであり,国家賠償請求は上告人らに対し各5000円及びこれに対する遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容し,その余は棄却すべきである。論旨は上記の限度で理由があり,条約違反の論旨について判断するまでもなく,原判決を主文第1項のとおり変更すべきである。

 

 よって,裁判官横尾和子,同上田豊三の反対意見,判示第4についての裁判官泉徳治の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官福田博の補足意見がある。

 

選挙権の保障(2-1)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟)

 

憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次

選挙権の保障(2-1)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟)

選挙権の保障(2-2)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟)確認の訴えについて・国家賠償について

選挙権の保障(2-3)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 裁判官福田博の補足意見

選挙権の保障(2-4)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 裁判官横尾和子,同上田豊三の反対意見

選挙権の保障(2-5)最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟) 判示第4についての裁判官泉徳治の反対意見


【最大判平成17年9月14日(在外国民選挙権訴訟)】

要旨

1 平成8年10月20日に施行された衆議院議員の総選挙当時,公職選挙法(平成10年法律第47号による改正前のもの)が,国外に居住していて国内の市町村の区域内に住所を有していない日本国民が国政選挙において投票をするのを全く認めていなかったことは,憲法15条1項,3項,43条1項,44条ただし書に違反する。

2 公職選挙法附則8項の規定のうち,国外に居住していて国内の市町村の区域内に住所を有していない日本国民に国政選挙における選挙権の行使を認める制度の対象となる選挙を当分の間両議院の比例代表選出議員の選挙に限定する部分は,遅くとも,本判決言渡し後に初めて行われる衆議院議員の総選挙又は参議院議員の通常選挙の時点においては,憲法15条1項,3項,43条1項,44条ただし書に違反する。

3 国外に居住していて国内の市町村の区域内に住所を有していない日本国民が,次回の衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙及び参議院議員の通常選挙における選挙区選出議員の選挙において,在外選挙人名簿に登録されていることに基づいて投票をすることができる地位にあることの確認を求める訴えは,公法上の法律関係に関する確認の訴えとして適法である。

4 国外に居住していて国内の市町村の区域内に住所を有していない日本国民は,次回の衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙及び参議院議員の通常選挙における選挙区選出議員の選挙において,在外選挙人名簿に登録され ていることに基づいて投票をすることができる地位にある。

5 国会議員の立法行為又は立法不作為は,その立法の内容又は立法不作為が国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合や,国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を執ることが必要不可欠であり,それが明白であるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合などには,例外的に,国家賠償法1条1項の適用上,違法の評価を受ける。

6 国外に居住していて国内の市町村の区域内に住所を有していない日本国民に国政選挙における選挙権行使の機会を確保するためには,上記国民に上記選挙権の行使を認める制度を設けるなどの立法措置を執ることが必要不可欠であったにもかかわらず,上記国民の国政選挙における投票を可能にするための法律案が廃案となった後,平成8年10月20日の衆議院議員総選挙の施行に至るまで10年以上の長きにわたって国会が上記投票を可能にするための立法措置を執らなかったことは,国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるものというべきであり,国は,上記選挙において投票をすることができなかったことにより精神的苦痛を被った上記国民に対し,慰謝料各5000円の支払義務を負う。

(1,2,4~6につき,補足意見,反対意見がある。)

 

判旨

 第1 事案の概要等

 1 本件は,国外に居住していて国内の市町村の区域内に住所を有していない日本国民(以下「在外国民」という。)に国政選挙における選挙権行使の全部又は一部を認めないことの適否等が争われている事案である(以下,在外国民に国政選挙における選挙権の行使を認める制度を「在外選挙制度」という。)。

 2 在外国民の選挙権の行使に関する制度の概要

 (1) 在外国民の選挙権の行使については,平成10年法律第47号によって公職選挙法が一部改正され(以下,この改正を「本件改正」という。),在外選挙制度が創設された。しかし,その対象となる選挙について,当分の間は,衆議院比例代表選出議員の選挙及び参議院比例代表選出議員の選挙に限ることとされた(本件改正後の公職選挙法附則8項)。本件改正前及び本件改正後の在外国民の選挙権の行使に関する制度の概要は,それぞれ以下のとおりである。

 (2) 本件改正前の制度の概要

 本件改正前の公職選挙法42条1項,2項は,選挙人名簿に登録されていない者及び選挙人名簿に登録されることができない者は投票をすることができないものと定めていた。そして,選挙人名簿への登録は,当該市町村の区域内に住所を有する年齢満20年以上の日本国民で,その者に係る当該市町村の住民票が作成された日から引き続き3か月以上当該市町村の住民基本台帳に記録されている者について行うこととされているところ(同法21条1項,住民基本台帳法15条1項),在外国民は,我が国のいずれの市町村においても住民基本台帳に記録されないため,選挙人名簿には登録されなかった。その結果,在外国民は,衆議院議員の選挙又は参議院議員の選挙において投票をすることができなかった。

 (3) 本件改正後の制度の概要

 本件改正により,新たに在外選挙人名簿が調製されることとなり(公職選挙法第4章の2参照),「選挙人名簿に登録されていない者は,投票をすることができない。」と定めていた本件改正前の公職選挙法42条1項本文は,「選挙人名簿又は在外選挙人名簿に登録されていない者は,投票をすることができない。」と改められた。本件改正によって在外選挙制度の対象となる選挙は,衆議院議員の選挙及び参議院議員の選挙であるが,当分の間は,衆議院比例代表選出議員の選挙及び参議院比例代表選出議員の選挙に限ることとされたため,その間は,衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙はその対象とならない(本件改正後の公職選挙法附則8項)。

 3 本件において,在外国民である別紙当事者目録1記載の上告人らは,被上告人に対し,在外国民であることを理由として選挙権の行使の機会を保障しないことは,憲法14条1項,15条1項及び3項,43条並びに44条並びに市民的及び政治的権利に関する国際規約(昭和54年条約第7号)25条に違反すると主張して,主位的に,①本件改正前の公職選挙法は,同上告人らに衆議院議員の選挙及び参議院議員の選挙における選挙権の行使を認めていない点において,違法(上記の憲法の規定及び条約違反)であることの確認,並びに②本件改正後の公職選挙法は,同上告人らに衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙における選挙権の行使を認めていない点において,違法(上記の憲法の規定及び条約違反)であることの確認を求めるとともに,予備的に,③同上告人らが衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙において選挙権を行使する権利を有することの確認を請求している。

 また,別紙当事者目録1記載の上告人ら及び平成8年10月20日当時は在外国民であったがその後帰国した同目録2記載の上告人らは,被上告人に対し,立法府である国会が在外国民が国政選挙において選挙権を行使することができるように公職選挙法を改正することを怠ったために,上告人らは同日に実施された衆議院議員の総選挙(以下「本件選挙」という。)において投票をすることができず損害を被ったと主張して,1人当たり5万円の損害賠償及びこれに対する遅延損害金の支払を請求している。

 4 原判決は,本件の各確認請求に係る訴えはいずれも法律上の争訟に当たらず不適法であるとして却下すべきものとし,また,本件の国家賠償請求はいずれも棄却すべきものとした。所論は,要するに,在外国民の国政選挙における選挙権の行使を制限する公職選挙法の規定は,憲法14条,15条1項及び3項,22条2項,43条,44条等に違反すると主張するとともに,確認の訴えをいずれも不適法とし,国家賠償請求を認めなかった原判決の違法をいうものである。

 

 

 第2 在外国民の選挙権の行使を制限することの憲法適合性について

 1 国民の代表者である議員を選挙によって選定する国民の権利は,国民の国政への参加の機会を保障する基本的権利として,議会制民主主義の根幹を成すものであり,民主国家においては,一定の年齢に達した国民のすべてに平等に与えられるべきものである。

 憲法は,前文及び1条において,主権が国民に存することを宣言し,国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動すると定めるとともに,43条1項において,国会の両議院は全国民を代表する選挙された議員でこれを組織すると定め,15条1項において,公務員を選定し,及びこれを罷免することは,国民固有の権利であると定めて,国民に対し,主権者として,両議院の議員の選挙において投票をすることによって国の政治に参加することができる権利を保障している。そして,憲法は,同条3項において,公務員の選挙については,成年者による普通選挙を保障すると定め,さらに,44条ただし書において,両議院の議員の選挙人の資格については,人種,信条,性別,社会的身分,門地,教育,財産又は収入によって差別してはならないと定めている。以上によれば,憲法は,国民主権の原理に基づき,両議院の議員の選挙において投票をすることによって国の政治に参加することができる権利を国民に対して固有の権利として保障しており,その趣旨を確たるものとするため,国民に対して投票をする機会を平等に保障しているものと解するのが相当である。

 憲法の以上の趣旨にかんがみれば,自ら選挙の公正を害する行為をした者等の選挙権について一定の制限をすることは別として,国民の選挙権又はその行使を制限することは原則として許されず,国民の選挙権又はその行使を制限するためには,そのような制限をすることがやむを得ないと認められる事由がなければならないというべきである。そして,そのような制限をすることなしには選挙の公正を確保しつつ選挙権の行使を認めることが事実上不能ないし著しく困難であると認められる場合でない限り,上記のやむを得ない事由があるとはいえず,このような事由なしに国民の選挙権の行使を制限することは,憲法15条1項及び3項,43条1項並びに44条ただし書に違反するといわざるを得ない。また,このことは,国が国民の選挙権の行使を可能にするための所要の措置を執らないという不作為によって国民が選挙権を行使することができない場合についても,同様である。

 在外国民は,選挙人名簿の登録について国内に居住する国民と同様の被登録資格を有しないために,そのままでは選挙権を行使することができないが,憲法によって選挙権を保障されていることに変わりはなく,国には,選挙の公正の確保に留意しつつ,その行使を現実的に可能にするために所要の措置を執るべき責務があるのであって,選挙の公正を確保しつつそのような措置を執ることが事実上不能ないし著しく困難であると認められる場合に限り,当該措置を執らないことについて上記のやむを得ない事由があるというべきである。

 2 本件改正前の公職選挙法の憲法適合性について

 前記第1の2(2)のとおり,本件改正前の公職選挙法の下においては,在外国民は,選挙人名簿に登録されず,その結果,投票をすることができないものとされていた。これは,在外国民が実際に投票をすることを可能にするためには,我が国の在外公館の人的,物的態勢を整えるなどの所要の措置を執る必要があったが,その実現には克服しなければならない障害が少なくなかったためであると考えられる。

 記録によれば,内閣は,昭和59年4月27日,「我が国の国際関係の緊密化に伴い,国外に居住する国民が増加しつつあることにかんがみ,これらの者について選挙権行使の機会を保障する必要がある」として,衆議院議員の選挙及び参議院議員の選挙全般についての在外選挙制度の創設を内容とする「公職選挙法の一部を改正する法律案」を第101回国会に提出したが,同法律案は,その後第105回国会まで継続審査とされていたものの実質的な審議は行われず,同61年6月2日に衆議院が解散されたことにより廃案となったこと,その後,本件選挙が実施された平成8年10月20日までに,在外国民の選挙権の行使を可能にするための法律改正はされなかったことが明らかである。世界各地に散在する多数の在外国民に選挙権の行使を認めるに当たり,公正な選挙の実施や候補者に関する情報の適正な伝達等に関して解決されるべき問題があったとしても,既に昭和59年の時点で,選挙の執行について責任を負う内閣がその解決が可能であることを前提に上記の法律案を国会に提出していることを考慮すると,同法律案が廃案となった後,国会が,10年以上の長きにわたって在外選挙制度を何ら創設しないまま放置し,本件選挙において在外国民が投票をすることを認めなかったことについては,やむを得ない事由があったとは到底いうことができない。そうすると,本件改正前の公職選挙法が,本件選挙当時,在外国民であった上告人らの投票を全く認めていなかったことは,憲法15条1項及び3項,43条1項並びに44条ただし書に違反するものであったというべきである。

 

 3 本件改正後の公職選挙法の憲法適合性について

 本件改正は,在外国民に国政選挙で投票をすることを認める在外選挙制度を設けたものの,当分の間,衆議院比例代表選出議員の選挙及び参議院比例代表選出議員の選挙についてだけ投票をすることを認め,衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙については投票をすることを認めないというものである。この点に関しては,投票日前に選挙公報を在外国民に届けるのは実際上困難であり,在外国民に候補者個人に関する情報を適正に伝達するのが困難であるという状況の下で,候補者の氏名を自書させて投票をさせる必要のある衆議院小選挙区選出議員の選挙又は参議院選挙区選出議員の選挙について在外国民に投票をすることを認めることには検討を要する問題があるという見解もないではなかったことなどを考慮すると,初めて在外選挙制度を設けるに当たり,まず問題の比較的少ない比例代表選出議員の選挙についてだけ在外国民の投票を認めることとしたことが,全く理由のないものであったとまでいうことはできない。しかしながら,本件改正後に在外選挙が繰り返し実施されてきていること,通信手段が地球規模で目覚ましい発達を遂げていることなどによれば,在外国民に候補者個人に関する情報を適正に伝達することが著しく困難であるとはいえなくなったものというべきである。また,参議院比例代表選出議員の選挙制度を非拘束名簿式に改めることなどを内容とする公職選挙法の一部を改正する法律(平成12年法律第118号)が平成12年11月1日に公布され,同月21日に施行されているが,この改正後は,参議院比例代表選出議員の選挙の投票については,公職選挙法86条の3第1項の参議院名簿登載者の氏名を自書することが原則とされ,既に平成13年及び同16年に,在外国民についてもこの制度に基づく選挙権の行使がされていることなども併せて考えると遅くとも,本判決言渡し後に初めて行われる衆議院議員の総選挙又は参議院議員の通常選挙の時点においては,衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙について在外国民に投票をすることを認めないことについて,やむを得ない事由があるということはできず,公職選挙法附則8項の規定のうち,在外選挙制度の対象となる選挙を当分の間両議院の比例代表選出議員の選挙に限定する部分は,憲法15条1項及び3項,43条1項並びに44条ただし書に違反するものといわざるを得ない

選挙権の保障(1-2)最判昭和60年11月21日(在宅投票制度廃止訴訟)

憲法目次

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【最判昭和60年11月21日(在宅投票制度廃止訴訟)】

要旨

一 国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらずあえて当該立法を行うというごとき例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の適用上、違法の評価を受けるものではない。

二 在宅投票制度を廃止しこれを復活しなかつた立法行為は、国家賠償法一条一項にいう違法な行為に当たらない。

 

判旨

 1 公職選挙法の一部を改正する法律(昭和二七年法律第三〇七号)の施行前においては、公職選挙法及びその委任を受けた公職選挙法施行令は、疾病、負傷、妊娠若しくは身体の障害のため又は産褥にあるため歩行が著しく困難である選挙人(公職選挙法施行令五五条二項各号に掲げる選挙人を除く。以下「在宅選挙人」という。)について、投票所に行かずにその現在する場所において投票用紙に投票の記載をして投票をすることができるという制度(以下「在宅投票制度」という。)を定めていたところ、昭和二六年四月の統一地方選挙において在宅投票制度が悪用され、そのことによる選挙無効及び当選無効の争訟が続出したことから、国会は、右の公職選挙法の一部を改正する法律により在宅投票制度を廃止し、その後在宅投票制度を設けるための立法を行わなかつた(以下この廃止行為及び不作為を「本件立法行為」と総称する。)。

 2 上告人は、明治四五年一月二日生まれの日本国民で、大正一三年以来小樽市内に居住し、公職選挙法九条の規定による選挙権を有していた者であるが、昭和六年に自宅の屋根で雪降ろしの作業中に転落して腰部を打撲したのが原因で歩行困難となり、同二八年の参議院議員選挙の際には車椅子で投票所に行き投票したものの、同三〇年ころからは、それまで徐々に進行していた下半身の硬直が悪化して歩行が著しく困難になつたのみならず、車椅子に乗ることも著しく困難となり、担架等によるのでなければ投票所に行くことができなくなつて、同四三年から同四七年までの間に施行された合計八回の国会議員、北海道知事、北海道議会議員、小樽市長又は小樽市議会議員の選挙に際して投票をすることができなかつた。

 二 上告人の本訴請求は、在宅投票制度は在宅選挙人に対し投票の機会を保障するための憲法上必須の制度であり、これを廃止して復活しない本件立法行為は、在宅選挙人の選挙権の行使を妨げ、憲法一三条、一五条一項及び三項、一四条一項、四四条、四七条並びに九三条の規定に違反するもので、国会議員による違法な公権力の行使であり、上告人はそれが原因で前記八回の選挙において投票をすることができず、精神的損害を受けたとして、国家賠償法一条一項の規定に基づき被上告人に対し右損害の賠償を請求するものである。

 三 国家賠償法一条一項は、国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民に損害を加えたときに、国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずることを規定するものである。したがつて、国会議員の立法行為(立法不作為を含む。以下同じ。)が同項の適用上違法となるかどうかは、国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背したかどうかの問題であつて、当該立法の内容の違憲性の問題とは区別されるべきであり、仮に当該立法の内容が憲法の規定に違反する廉があるとしても、その故に国会議員の立法行為が直ちに違法の評価を受けるものではない

 そこで、国会議員が立法に関し個別の国民に対する関係においていかなる法的義務を負うかをみるに、憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国会は、国民の間に存する多元的な意見及び諸々の利益を立法過程に公正に反映させ、議員の自由な討論を通してこれらを調整し、究極的には多数決原理により統一的な国家意思を形成すべき役割を担うものである。そして、国会議員は、多様な国民の意向をくみつつ、国民全体の福祉の実現を目指して行動することが要請されているのであつて、議会制民主主義が適正かつ効果的に機能することを期するためにも、国会議員の立法過程における行動で、立法行為の内容にわたる実体的側面に係るものは、これを議員各自の政治的判断に任せ、その当否は終局的に国民の自由な言論及び選挙による政治的評価にゆだねるのを相当とする。さらにいえば、立法行為の規範たるべき憲法についてさえ、その解釈につき国民の間には多様な見解があり得るのであつて、国会議員は、これを立法過程に反映させるべき立場にあるのである。憲法五一条が、「両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。」と規定し、国会議員の発言・表決につきその法的責任を免除しているのも、国会議員の立法過程における行動は政治的責任の対象とするにとどめるのが国民の代表者による政治の実現を期するという目的にかなうものである、との考慮によるのである。このように、国会議員の立法行為は、本質的に政治的なものであつて、その性質上法的規制の対象になじまず、特定個人に対する損害賠償責任の有無という観点から、あるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的には許されないものといわざるを得ない。ある法律が個人の具体的権利利益を侵害するものであるという場合に、裁判所はその者の訴えに基づき当該法律の合憲性を判断するが、この判断は既に成立している法律の効力に関するものであり、法律の効力についての違憲審査がなされるからといつて、当該法律の立法過程における国会議員の行動、すなわち立法行為が当然に法的評価に親しむものとすることはできないのである。

 以上のとおりであるから、国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであつて、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違法の評価を受けないものといわなければならない

 

 四 これを本件についてみるに、前記のとおり、上告人は、在宅投票制度の設置は憲法の命ずるところであるとの前提に立つて、本件立法行為の違法を主張するのであるが、憲法には在宅投票制度の設置を積極的に命ずる明文の規定が存しないばかりでなく、かえつて、その四七条は「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。」と規定しているのであつて、これが投票の方法その他選挙に関する事項の具体的決定を原則として立法府である国会の裁量的権限に任せる趣旨であることは、当裁判所の判例とするところである(昭和三八年(オ)第四二二号同三九年二月五日大法廷判決・民集一八巻二号二七〇頁、昭和四九年(行ツ)第七五号同五一年四月一四日大法廷判決・民集三〇巻三号二二三頁参照)。

 そうすると、在宅投票制度を廃止しその後前記八回の選挙までにこれを復活しなかつた本件立法行為につき、これが前示の例外的場合に当たると解すべき余地はなく、結局、本件立法行為は国家賠償法一条一項の適用上違法の評価を受けるものではないといわざるを得ない。

 

 五 以上のとおりであるから、上告人の本訴請求はその余の点について判断するまでもなく棄却を免れず、本訴請求を棄却した原審の判断は結論において是認することができる。論旨は、原判決の結論に影響を及ぼさない点につき原判決を非難するものであつて、いずれも採用することができない。

選挙権の保障(1-1)・札幌地裁小樽支昭和49年12月9日

 

憲法目次

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【札幌地裁小樽支昭和49年12月9日】

要旨

身体障害者の在宅投票制度の廃止は、国民主権の原理の表現たる公務員の罷免権および選挙権の保障ならびに平等原則に違背し、憲法一五条・四四条・一四条に違反する。

 

判旨

 

第三 在宅投票制度廃止の憲法間題

 一 憲法は、その前文において「・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国我がこれを亭受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。・・・」と述べ、さらに、第一条において、「・・・主権の存する日本国民・・・」と規定し、人類普遍の原理としての国民主権をその基本原理とすることを宣言している。そして、憲法は、国民主権の現れとして、第一五条第一項において、公務員の選定、罷免が国民固有の権利であることを、同条第三項において、公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障することを定めている。すなわち、憲法は、国民は、主権者であるが、原則として自ら直接その主権を行使して国または、地方公共団体の政治の運営、事務の執行に当るのでなく、直接もしくは間接に国民の信託を受けた公務員においてその衝に当るべき建前をとつているのであり、公務員の選定罷免の権利およびそれの重要な内容をなす公務員の選挙の権利すなわち選挙権は、まさに、憲法の基本原理である国民主権の表現として、国民の最も重要な基本的権利に属するものであつて、選挙権について成年者による普通選挙の保障されている所以の一もここに存するものと解される。ところで、憲法は、第一四条第一項において、国民の法の下の平等の原則を掲げ、国民が人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において差別されないことを規定しており、これまた民主主義の理念に立ち、基本的人権について最大の尊重をうたう憲法として欠くことのできない基本的原則に属する。(もとより同条項はいかなる場合にも国民の形式的一律平等を要求するものではないけれども、取扱いの差別が容認されるためには、これを正当とする合理的理由を必要とするこというまでもない。)そして、法の下の平等の原則は、前記公務員の選挙についても適用あるべきこと疑いなく、前掲憲法第一五条第三項が公務員の選挙について成年者による普通選挙を保障するのは、右原則からしても当然の帰結ということができる。さらに、憲法は、第四一条、第四二条、第四三条第一項において、国権の最高機関として国会を置き、国会の両議院は全国民を代表する選挙された議員で組織すると定め、いわゆる議会制民主主義を採用し、したがつて、両議院の議員の選挙は、国民主権の表現として最も重要な行為に属するのであり、これについて前掲憲法第一五条第一項、第三項、第一四条第一項の適用あるべきことは当然であるところ、その重要性に鑑み、憲法は、第四四条において、「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。」としつつ、「但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない。」と規定して平等選挙の趣旨を貫くべきことを特に明示しているのである

以上によつて観れば、憲法は、国会の両議院の議員の選挙についてはもとより、公務員の選挙について、選挙権を国民の最も重要な基本的権利の一として最大の尊重を要するものとしていること疑いを容れない。

したがつて、憲法の右趣意に鑑みれば、選挙権の有無、内容について、これをやむを得ないとする合理的理由なく差別することは、憲法上前述の国民主権の表現である公務員の選定罷免権および選挙権の保障ならびに法の下の平等の原則に違背することを免れない。そしてこのことは、単に選挙権の有無、内容について形式的に論ずれば足りるものではない憲法第四七条は、「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。」として、右事項の定めを法律に委任しているが、立法機関が右事項を定めるにあたつては、かかる普通平等選挙の原則に適合した制度を設けなければならず、法律による具体的な選挙制度の定めによつて、一部の者について、法律の規定上は選挙権が与えられていてもその行使すなわち投票を行なうことが不可能あるいは著しく困難となり、その投票の機会が奪われる結果となることは、これをやむを得ないとする合理的理由の存在しない限り許されないものと解すべきであり、右合理的理由の存否については、選挙権のもつ国民の基本的権利としての重要性を十分に名慮しつつ慎重、厳格に剥断する必要がある。

 二 しかるところ、公職選挙法は、本件改正前後を通じ、投票の方法につき、「選挙入は、選挙の当日、自ら投票所に行き・・・投票をしなければならない。」(第四四条第一項)、一選挙人は、投票所において、投票用紙に当該選挙の公職の候補者一人の氏名を自書して、これを投票箱に入れなければならない。」(第四六条第一項)と定め、いわゆる投票現場自書主義を採用する。しかし、この方法の下では、形式的にはすべての有権者に対し投票の機会が保障されるものであるけれども、選挙の意思と能力を有しながら、身体障害等により、選挙の当日投票所に行くことが不司能あるいは著しく困難な者にとつて、投票を行なうことが不可能あるいは著しく困難になることも否定し難い。されば、先進諸外国の立法例においても多くが病者、身体障害者等について何らかの形の在宅投票制度を設けているのである。

我国においても、改正前の公職選挙法は、右投票現場自書主義の原則の例外として、一般の不存者投票手続のほかに、前記事情のある者のために在宅投票制度を設けていたところ、前記改正によりこれを廃止するに至つたのである。そこで、一旦設けられていた在宅投票制度を廃止し、その結果特定の病院、施設等に入つている者を除き、従来右制度によつて投票の機械を有していた前記身体障害等の事情ある者をして実質上投票を不司能あるいは著しく困難ならしめることとなつた右改正措置に、これをやむを得ないとする合理的理由があつたかどうかが検討されなければならない。

 三 ところで、被告は、在宅投票制度を廃止した改正法律は、「選挙入の資格」について規定したものではなく、従前在宅投票をしていた者が制度の廃止に伴い投票することが困難となつたとしても、実質的に選挙人の資格を奪うのと同視しうるものではないと主張する。しかしながら、投票は選挙権行使の唯一の刑式で、抽象的に選挙人の資格すなわち選挙権が保障されていても、具体的な選挙制度を定めるにあたつて、事実上投票が不可能あるいは著しく困難となる場合は、これを実質的にみれば、選挙権を奪うのと等しいものと解すべきである

 また、被告は、憲法第一四条第一項は、政治的関係における差別を禁止しているが、在宅投票制度を認めるかどうかは投票の方法に関する事柄であつて、右制度を認めることまで保障しているものではないと主張するけれども、投票の方法の定め方如何は、選挙権の保障と重大な関連をもち、投票の方法の定め方如伺によつては実質的に選挙権を奪う結果になることもありうることなどに鑑みれば、国民の法の下の平等の原則は、当然に、投票の方法を定める場合においても要謂されるものと解すべきであるから、被告の右主張は、いずれもこれを採用することはできない

 四 さらに、被告は憲法第四七条は、投票の方法その他選挙に関する事項を法神で定める旨規定しているが、これは、選挙に関する事項の決定は原則として立法府である国会の裁量的権限に委ねられているものと解せられ、その範囲は決して狭くない。裁判所は、右事項について、立法府の裁量的判断を尊重するのを建前とし、ただ、立法府がその裁量権を逸脱しその立法的措置が著しく不合理であることが明白である場合に限つて、これを違憲としうると主張し、(1)最高裁判所大法廷昭和三九年二月五日判決・民集一八巻二号二七〇頁、(2)同昭和四七年一一月二二日判決・刑集二六巻九号五八六頁を引用する。

 しかしながら、憲法の右法条が選挙に関する事項について自ら規定せず、法律の定めに委ねたのは、元来選挙の方法に関する事項は、その重要性に加え、技術的要素が多く、細目は時代に応じて変更する必要があるので、その詳細についてまで憲法において規定するのは適当でないとされたからであり、そこに立法機関の裁量が働く余地があるけれども、右の立法機関のP量は憲法上の他の諸規定諸原則に反しない限度でなさるべきは当然であり、憲法が右事項について法律で定めると規定したことの一事をもつて、立法府の裁量の範囲が一段と広くなるものと解すべき根拠はない。

 また、選挙に関する事項について、裁判所は、立法府がその裁量権を逸脱しその立法的措置が著しく不合理であることが明白である場合に限つて違憲としうるとの被告の前記主張は、裁判所の違憲審査権に関するいわゆる明白の原則として論ぜられるところであるが、右原則は、(イ)法律に表明された主権者たる国民の意思には、憲法との矛盾がきわめて明白でない限り反対すべきではないとの民主政の理論、および、(ロ)裁判所、事実上立法となるような憲法解釈を行なつて国会の権能を侵害すべきではない、との権力分立理論にその根拠をおくと解されるところ、当裁判所も、右明白の原則の根拠となる考え方は十分尊重に値いし、違憲性判断の対象となる事項によつては右原則に従うベき場合も存するものと考える。しかしながら、およそ選挙権という民主政の根幹をなす重要な基本権について、立法府の広汎な裁量的判断を尊重すべきことを強調する結果、司法審査の及ぶ範囲を前記主張のように極めて限定的に解するに至るならば、選挙権の行使を不当に制約する疑いのある立法がなされた場合に、その復元について選挙に訴えることそのものが制約され、民主政の過程にこれを期待すること自体不可能とならざるを得ないのであるから、かかる場合、被告の主張するような司法の自己制限の立場を採ることは、かえつて、憲法の基本原理たる民主政の基礎をおびやかすことにもなるのであつて、憲法の基本原理を実質的に維持する見地からみて相当ではないといわなければならない。したがつて、本件のような選挙権そのものの実質的侵害が問題とされている事案においては、被告主張の明白の原則は採用しがたい。

 

 右事実によると、その正確な数字はこれを把握し難いが、相当程度在宅投票制度が悪用され、選挙違反および違反による当選あるいは選挙無効l件が多発したものと推察される。してみると、選挙は、自由公正に行なわれるべきであつて、当選あるいは選挙無効の結果を回避すべきことはいうまでもないから、少なくとも、右結果からは、当時なんらかの是正措置をとる必要があつたものと解され、改正法律がかかる弊害除去を目的としたこと自体はもとより正当であつたと評価しなければならない(事実、改正後の選挙犯罪、選挙争訟が減少したことは、前記認定のとおりである。)。

 三 しかしながら、立法目的が正当であつても、上来説示のとおり国民主権の原理の下で国民の最も重要な基本的権利に属する公務員の選挙権については、普通平等選挙の原則から、一部の者の選挙権の行使を不可能あるいは著しく困難にするような選挙権の制約は、必要やむを得ないとする合理的理由のある場合に限るべきであり、この見地からすれば、右制約の程度も最小限度にとどめなければならない。そして在宅投票制度の廃止によりその選挙権の行使が不可能あるいは著しく困難となる者の存することは、上記のとおりであるから、弊害除去の目的のため在宅投票制度を廃止する場合に、右措置が合理性があると評価されるのは、右弊害除去という同じ立法目的を達成できるより制限的でない他の選びうる手段が存せずもしくはこれを利用できない場合に限られるものと解すべきであつて、被告において右のようなより制限的でない他の選びうる手段が存せずもしくはこれを利用できなかつたことを主張・立証しない限り、右制度を廃止した法律改正は、違憲の措置となることを免れないものというベきである。

 このいきさつに照らすと、当時の国会において、前記悪用の原因の第一としてあげた同居の親族の介入による弊害の是正方法について仔細に検討された形跡は見当らず、また、同第二の証明書濫発の点については、審議の過程でその指摘もなされており、この点は、郵便による投票の方法の下でも、対象者の範囲をなんらかの方法によつて確定する必要がある以上、その手段として医師等の証明書による場合、それが濫発されて、なお弊害の原因となりうることは想定されるけれども、右証明書濫発の点は、同居の親族の介入を認めた在宅投票制度においては、前掲悪用の実態をみるかぎり、右第一の原因と関連して発生した現象と解されるところ、右審議経過をみると、単に、第二の原因の存在が指摘されたにとどまり、この点について、右第一の原因との関連において検討がなされたものと見ることは困難であり、また、右第三の原因は、たといこれによつて弊害が生じたとしても、在宅投票制度廃止に連なる理由となし難いこと多言を要しないから、この点の検討がなされたか否かは、在宅投票制度全体を廃止した改正の当否の判定について大勢を左右するものでない。結局、国会において、在宅投票制度全体を廃止することなく上記弊害を除去する方法がとりえないか否かについて十分な検討がなされた形跡は見あたらないし、投票制度に伴う技術的問題を含む諸種の事情を検討して右方法がとりえないものであつたことを窺わせるような論議ないし資料が右審議過程に提出された形跡も見あたらない。

 六 以上検討したところによれば、上記弊害の是正という立法目的を達成するために在宅投票制度全体を廃するのではなく、より制限的でない他の手段が利用できなかつたとの事情について、被告の主張・立証はないものというべきであるから、その余の点につき判断するまでもなく、右法律改正に基づき、原告のような身体障害者の投票を不可能あるいは著しく困難にした国会の立法措置は、前記立法目的達成の手段としてその裁量の限度をこえ、これをやむを得ないとする合理的理由を欠くものであつて、国民主権の原理の表現としての公務員の選定罷免権および選挙権の保障ならびに平等原則に背き、憲法第一五条第一項、第三項、第四四条、第一四条第一項に違反するものといわなければならない。

 (原告は、国会の右法律改正のほか、在宅投票制度を復活しないことによる違憲をも主張するが叙上のとおり右法律改正・施行そのものによつてすでに原告の選挙権行使が侵害されたというべきであるから、右主張については判断を要しない。)

第五 国会の過失

 国会の立法行為も国家賠償法第一条第一項の適用を受け、同条項にいう「公務員の故意、過失」は、合議制機関の行為の場合、必ずしも、国会を構成する個々の国会議員の故意、過失を問題にする必要はなく、国会議員の統一的意思活動たる国会自体の故意、過失を論ずるをもつて足りるものと解すべきである。本件において、国会が法律改正によつて違憲の結果を生ずることを認識していたことを認めるに足りる証拠はない。しかし、国会は国権の最高機関として立法を行ない、そのため、両議院に国政調査権が与えられ(憲法第六二条)、その組織、機構等において他の立法機関に類をみない程度に完備していることは公知の事実であるから、立法をなすにあたつては違憲という重大な結果を生じないよう慎重に審議、検討すべき高度の注意義務を負うところ、本件法律改正の審議経過は右にみたとおりであり、かかる違憲の法律改正を行なつたことは、その公権力行使にあたり、右注意義務に違背する過失があつたものと解するのが相当である

連座制の合憲性 最判平成9年3月13日

 

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【最判平成9年3月13日】

要旨

一 公職選挙法二五一条の三の規定は、憲法前文、一条、一五条、二一条、三一条に違反しない。

二 会社の代表取締役乙が、公職の候補者甲を当選させる目的の選挙運動を会社を挙げて行おうと企図し、従業員の朝礼及び下請業者との会食において甲にあいさつをさせ、投票及び投票の取りまとめを依頼するなどの選挙運動をする計画を会社の幹部らに表明した上、これを了承した右幹部らのうち丙及び丁に各人の役割等の概括的な指示をし、丙及び丁は、他の幹部や関係従業員に指示するなどして、朝礼及び会食の手配と設営、後援者名簿用紙の配布等の個々の選挙運動を実行させ、要請に応じた甲の出席した朝礼及び会食の席上、乙が会社として甲を応援する趣旨のあいさつをし、甲自らも同社の従業員又は下請業者らの応援を求める旨のあいさつをしたなど判示の事実関係の下においては、乙、丙及び丁は、公職選挙法二五一条の三第一項に規定する組織的選挙運動管理者等に当たる。

 

判旨

 公職選挙法(以下「法」という。)二五一条の三第一項は、同項所定の組織的選挙運動管理者等が、買収等の所定の選挙犯罪を犯し禁錮以上の刑に処せられた場合に、当該候補者等であった者の当選を無効とし、かつ、これらの者が法二五一条の五に定める時から五年間当該選挙に係る選挙区(選挙区がないときは、選挙の行われる区域)において行われる当該公職に係る選挙に立候補することを禁止する旨を定めている。右規定は、いわゆる連座の対象者を選挙運動の総括主宰者等重要な地位の者に限っていた従来の連座制ではその効果が乏しく選挙犯罪を十分抑制することができなかったという我が国における選挙の実態にかんがみ、公明かつ適正な公職選挙を実現するため、公職の候補者等に組織的選挙運動管理者等が選挙犯罪を犯すことを防止するための選挙浄化の義務を課し、公職の候補者等がこれを防止するための注意を尽くさず選挙浄化の努力を怠ったときは、当該候補者等個人を制裁し、選挙の公明、適正を回復するという趣旨で設けられたものと解するのが相当である。法二五一条の三の規定は、このように、民主主義の根幹をなす公職選挙の公明、適正を厳粛に保持するという極めて重要な法益を実現するために定められたものであって、その立法目的は合理的である。また、右規定は、組織的選挙運動管理者等が買収等の悪質な選挙犯罪を犯し禁錮以上の刑に処せられたときに限って連座の効果を生じさせることとして、連座制の適用範囲に相応の限定を加え、立候補禁止の期間及びその対象となる選挙の範囲も前記のとおり限定し、さらに、選挙犯罪がいわゆるおとり行為又は寝返り行為によってされた場合には免責することとしているほか、当該候補者等が選挙犯罪行為の発生を防止するため相当の注意を尽くすことにより連座を免れることのできるみちも新たに設けているのである。そうすると、このような規制は、これを全体としてみれば、前記立法目的を達成するための手段として必要かつ合理的なものというべきである。したがって、法二五一条の三の規定は、憲法前文、一条、一五条、二一条及び三一条に違反するものではない。以上のように解すべきことは、最高裁昭和三六年(オ)第一〇二七号同三七年三月一四日大法廷判決・民集一六巻三号五三〇頁、最高裁昭和三六年(オ)策一一〇六号同三七年三月一四日大法廷判決・民集一六巻三号五三七頁及び最高裁昭和二九年(あ)第四三九号同三〇年二月九日大法廷判決・刑集九巻二号二一七頁の趣旨に徴して明らかである。右と同旨の原審の判断は正当として是認することができる。

 そして、法二五一条の三第一項所定の組織的選挙運動管理者等の概念は、同項に定義されたところに照らせば、不明確で漠然としているということはできず、この点に関する所論違憲の主張は、その前提を欠くものといわざるを得ない(最高裁平成八年(行ツ)第一七四号同年一一月二六日第三小法廷判決参照)。その余の論旨は、違憲をいうが、その実質は、原審の裁量に属する審理上の措置又は原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎない。論旨は採用することができない。

 

 所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。右の事実を含め原審の適法に確定した事実関係によれば、() 株式会社ミサワホーム青森(以下「本件会社」という。)の代表取締役であったAは、上告人を当選させる目的の選挙運動を本件会社を挙げて行おうと企図し、従業員の朝礼及び下請業者の慰労会に名を借りた会食の席に上告人を招いて同人に立候補のあいさつをさせ、従業員や下請業者等に対して投票及び投票の取りまとめを依頼するなどの選挙運動をすることを計画して、これを本件会社の幹部らに表明し、その結果、少なくともB建設部長、C開発部次長、D総務部長、E建設部次長及びF同部課長らがこれを了承した、() 右計画の下、Aは、B及びCに対し、選挙運動の方法や各人の役割等の概括的な指示をした、() これを受けて、B及びCは、朝礼及び慰労会の手配と設営、総決起大会への出席、後援者名簿用紙、ポスター等の配布と回収などの個々の選挙運動について、D、E、Fや、各営業所のチームリーダー、その他関係従業員に指示するなどして、これらを実行させ、また、自らも慰労会の招待状の起案や上告人の都合の確認に当たるなどした、() 上告人は、右要請に応じて、朝礼及び慰労会に出席した、() その席上、Aは、上告人を会社として応援する趣旨のあいさつをし、上告人自らも、本件会社の従業員又は下請業者らの応援を求める旨のあいさつをしたというのである。

 右事実によれば、Aを総括者とする前記六人の者及び同人らの指示に従った関係従業員らは、上告人を当選させる目的の下、役割を分担し、協力し合い、本件会社の指揮命令系統を利用して、選挙運動を行ったものであって、これは、法二五一条の三第一項に規定する組織による選挙運動に当たるということができる(原審は、少なくとも前記六人において「組織」を形成していたとするが、右と同旨をいうものと解される。)。そして、Aが同項所定の「当該選挙運動の計画の立案若しくは調整」を行う者に、B及びCが「選挙運動に従事する者の指揮若しくは監督」を行う者に各該当し、これらの者が「組織的選挙運動管理者等」に当たることも明らかであり、上告人が、選挙運動が組織により行われることについて、Aとの間で、相互に明示又は黙示に了解し合っていたことも明白であるから、上告人が、右選挙運動につき、組織の総括者的立場にあった者との間に意思を通じたものというべきである。所論は、同項所定の「組織」とは、規模がある程度大きく、かつ一定の継続性を有するものに限られ、「組織的選挙運動管理者等」も、総括主宰者及び出納責任者に準ずる一定の重要な立場にあって、選挙運動全体の管理に携わる者に限られるというが、前記立法の趣旨及び同条の文言に徴し、所論のように限定的に解すべき理由はなく、また、「意思を通じ」についても、所論のように、組織の具体的な構成、指揮命令系統、その組織により行われる選挙運動の内容等についてまで、認識、了解することを要するものとは解されない。

 以上と同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、右と異なる見解に基づいて原判決を論難するか、又は原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。

選挙権・被選挙権の性質(2)【最大判昭和43年12月4日】

 

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【最大判昭和43年12月4日】

要旨

一 労働組合は、憲法第二八条による労働者の団結権保障の効果として、その目的を達成するために必要であり、かつ、合理的な範囲内においては、その組合員に対する統制権を有する。

二 公職の選挙に立候補する自由は、憲法第一五条第一項の保障する重要な基本的人権の一つと解すべきである。

三 労働組合が、地方議会議員の選挙にあたり、いわゆる統一候補を決定し、組合を挙げて選挙運動を推進している場合において、統一候補の選にもれた組合員が、組合の方針に反して立候補しようとするときは、これを断念するよう勧告または説得することは許されるが、その域を超えて、立候補を取りやめることを要求し、これに従わないことを理由に統制違反者として処分することは、組合の統制権の限界を超えるものとして許されない。

 

判旨

 所論は、原判決は憲法二八条、一五条一項の解釈を誤り、労働組合の統制権の範囲を不当に拡張し、かつ、立候補の自由を不当に軽視し、よつて労働組合が右自由を制限し得るものとした違法がある、というにある。

 (1) おもうに、労働者の労働条件を適正に維持し、かつ、これを改善することは、憲法二五条の精神に則り労働者に人間に値いする生存を保障し、さらに進んで、一層健康で文化的な生活への途を開くだけでなく、ひいては、その労働意欲を高め、国の産業の興隆発展に寄与するゆえんでもある。然るに、労働者がその労働条件を適正に維持し改善しようとしても、個々にその使用者たる企業者に対立していたのでは、一般に企業者の有する経済的実力に圧倒され、対等の立場においてその利益を主張し、これを貫徹することは困難である。そこで、労働者は、多数団結して労働組合等を結成し、その団結の力を利用して必要かつ妥当な団体行動をすることによつて、適正な労働条件の維持改善を図つていく必要がある。憲法二八条は、この趣旨において、企業者対労働者、すなわち、使用者対被使用者という関係に立つ者の間において、経済上の弱者である労働者のために、団結権、団体交渉権および団体行動権(いわゆる労働基本権)を保障したものであり、如上の趣旨は、当裁判所のつとに判例とするところである(最判昭和二二年(れ)第三一九号、同二四年五月一八日大法廷判決、刑集三巻六号七七二頁)。そして、労働組合法は、憲法二八条の定める労働基本権の保障を具体化したもので、その目的とするところは、「労働者が使用者との交渉において対等の立場に立つことを促進することにより労働者の地位を向上させること、労働者がその労働条件について交渉するために自ら代表者を選出することその他の団体行動を行うために自主的に労働組合を組織し、団結することを擁護すること並びに使用者と労働者との関係を規制する労働協約を締結するための団体交渉をすること及びその手続を助成すること」にある(労働組合法一条一項)。

 右に述べたように、労働基本権を保障する憲法二八条も、さらに、これを具体化した労働組合法も、直接には、労働者対使用者の関係を規制することを目的としたものであり、労働者の使用者に対する労働基本権を保障するものにほかならない。ただ、労働者が憲法二八条の保障する団結権に基づき労働組合を結成した場合において、その労働組合が正当な団体行動を行なうにあたり、労働組合の統一と一体化を図り、その団結力の強化を期するためには、その組合員たる個々の労働者の行動についても、組合として、合理的な範囲において、これに規制を加えることが許されなければならない(以下、これを組合の統制権とよぶ。)。およそ、組織的団体においては、一般に、その構成員に対し、その目的に即して合理的な範囲内での統制権を有するのが通例であるが、憲法上、団結権を保障されている労働組合においては、その組合員に対する組合の統制権は、一般の組織的団体のそれと異なり、労働組合の団結権を確保するために必要であり、かつ、合理的な範囲内においては、労働者の団結権保障の一環として、憲法二八条の精神に由来するものということができる。この意味において、憲法二八条による労働者の団結権保障の効果として、労働組合は、その目的を達成するために必要であり、かつ、合理的な範囲内において、その組合員に対する統制権を有するものと解すべきである。

 (2) ところで、労働組合は、元来、「労働者が主体となつて自主的に労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図ることを主たる目的として組織する団体又はその連合団体」である(労働組合法二条)。そして、このような労働組合の結成を憲法および労働組合法で保障しているのは、社会的・経済的弱者である個々の労働者をして、その強者である使用者との交渉において、対等の立場に立たせることにより、労働者の地位を向上させることを目的とするものであることは、さきに説示したとおりである。しかし、現実の政治・経済・社会機構のもとにおいて、労働者がその経済的地位の向上を図るにあたつては、単に対使用者との交渉においてのみこれを求めても、十分にはその目的を達成することができず、労働組合が右の目的をより十分に達成するための手段として、その目的達成に必要な政治活動や社会活動を行なうことを妨げられるものではない。

 この見地からいつて、本件のような地方議会議員の選挙にあたり、労働組合が、その組合員の居住地域の生活環境の改善その他生活向上を図るうえに役立たしめるため、その利益代表を議会に送り込むための選挙活動をすること、そして、その一方策として、いわゆる統一候補を決定し、組合を挙げてその選挙運動を推進することは、組合の活動として許されないわけではなく、また、統一候補以外の組合員であえて立候補しようとするものに対し、組合の所期の目的を達成するため、立候補を思いとどまるよう勧告または説得することも、それが単に勧告または説得にとどまるかぎり、組合の組合員に対する妥当な範囲の統制権の行使にほかならず、別段、法の禁ずるところとはいえない。しかし、このことから直ちに、組合の勧告または説得に応じないで個人的に立候補した組合員に対して、組合の統制をみだしたものとして、何らかの処分をすることができるかどうかは別個の問題である。この問題に応えるためには、まず、立候補の自由の意義を考え、さらに、労働組合の組合員に対する統制権と立候補の自由との関係を検討する必要がある。

 (3) 憲法一五条一項は、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」と規定し、選挙権が基本的人権の一つであることを明らかにしているが、被選挙権または立候補の自由については、特に明記するところはない

 ところで、選挙は、本来、自由かつ公正に行なわれるべきものであり、このことは、民主主義の基盤をなす選挙制度の目的を達成するための基本的要請である。この見地から、選挙人は、自由に表明する意思によつてその代表者を選ぶことにより、自ら国家(または地方公共団体等)の意思の形成に参与するのであり、誰を選ぶかも、元来、選挙人の自由であるべきであるが、多数の選挙人の存する選挙においては、これを各選挙人の完全な自由に放任したのでは選挙の目的を達成することが困難であるため、公職選挙法は、自ら代表者になろうとする者が自由な意思で立候補し、選挙人は立候補者の中から自己の希望する代表者を選ぶという立候補制度を採用しているわけである。したがつて、もし、被選挙権を有し、選挙に立候補しようとする者がその立候補について不当に制約を受けるようなことがあれば、そのことは、ひいては、選挙人の自由な意思の表明を阻害することとなり、自由かつ公正な選挙の本旨に反することとならざるを得ない。この意味において、立候補の自由は、選挙権の自由な行使と表裏の関係にあり、自由かつ公正な選挙を維持するうえで、きわめて重要である。このような見地からいえば、憲法一五条一項には、被選挙権者、特にその立候補の自由について、直接には規定していないが、これもまた、同条同項の保障する重要な基本的人権の一つと解すべきである。さればこそ、公職選挙法に、選挙人に対すると同様、公職の候補者または候補者となろうとする者に対する選挙に関する自由を妨害する行為を処罰することにしているのである(同法二二五条一号三号参照)。

 (4) さきに説示したように、労働組合は、その目的を達成するために必要な政治活動等を行なうことを妨げられるわけではない。したがつて、本件の地方議会議員の選挙にあたり、いわゆる統一候補を決定し、組合を挙げて選挙運動を推進することとし、統一候補以外の組合員で立候補しようとする組合員に対し、立候補を思いとどまるように勧告または説得することも、その限度においては、組合の政治活動の一環として、許されるところと考えてよい。また、他面において、労働組合が、その団結を維持し、その目的を達成するために、組合員に対し、統制権を有することも、前叙のとおりである。しかし、労働組合が行使し得べき組合員に対する統制権には、当然、一定の限界が存するものといわなければならない。殊に、公職選挙における立候補の自由は、憲法一五条一項の趣旨に照らし、基本的人権の一つとして、憲法の保障する重要な権利であるから、これに対する制約は、特に慎重でなければならず、組合の団結を維持するための統制権の行使に基づく制約であつても、その必要性と立候補の自由の重要性とを比較衡量して、その許否を決すべきであり、その際、政治活動に対する組合の統制権のもつ前叙のごとき性格と立候補の自由の重要性とを十分考慮する必要がある。

 原判決の確定するところによると、本件労働組合員たるCが組合の統一候補の選にもれたことから、独自に立候補する旨の意思を表示したため、被告人ら組合幹部は、後藤に対し、組合の方針に従つて右選挙の立候補を断念するよう再三説得したが、後藤は容易にこれに応ぜず、あえて独自の立場で立候補することを明らかにしたので、ついに説得することを諦め、組合の決定に基づいて本件措置に出でたというのである。このような場合には、統一候補以外の組合員で立候補しようとする者に対し、組合が所期の目的を達成するために、立候補を思いとどまるよう、勧告または説得をすることは、組合としても、当然なし得るところである。しかし、当該組合員に対し、勧告または説得の域を超え、立候補を取りやめることを要求し、これに従わないことを理由に当該組合員を統制違反者として処分するがごときは、組合の統制権の限界を超えるものとして、違法といわなければならない。然るに、原判決は、「労働組合は、その組織による団結の力を通して、組合員たる労働者の経済的地位の向上を図ることを目的とするものであり、この組合の団結力にこそ実に組合の生存がかかつているのであつて、団結の維持には統制を絶対に必要とすることを考えると、労働組合が右目的達成のための必要性から統一候補を立てるような方法によつて政治活動を行うような場合、その方針に反し、組合の団結力を阻害しまたは反組合的な態度をもつて立候補しようとし、また立候補した組合員があるときにおいて、かかる組合員の態度、行動の如何を問わず、組合の統制権が何等およばないとすることは労働組合の本質に照し、必ずしも正当な見解ともいい難い」として、本件統制権の発動は、不当なものとは認めがたく、本件行為はすべて違法性を欠くと判示している。

 右判示の中には、労働組合がその行なう政治活動について、右のような強力な統制権を有することの根拠は明示していないが、[労働組合の本質に照し」て、右結論を引き出しているところがらみれば、憲法二八条に基づいて、労働組合の団結権およびその帰結としての統制権を導き出し、しかも、これを労働組合が行なう政治活動についても当然に行使し得るものとの見地に立つているものと解される。そうとすれば、右の解釈判断は、さきに説示したとおり、憲法の解釈を誤り、統制権を不当に拡張解釈したものとの非難を避けがたく、論旨は、結局、理由があるに帰し、原判決は、この点において、破棄を免れない。

選挙権・被選挙権の性質(1)【最大判昭和30年2月9日】

 

憲法目次

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【最大判昭和30年2月9日】

要旨

公職選挙法第二五二条は憲法第一四条、第四四条に違反せず、かつ国民の参政権を不当に奪うものではない。

 

判旨

 公職選挙法の規定によれば、一般犯罪の処刑者と、いわゆる選挙犯罪(同法二五二条一項、二項所定の罪)の処刑者との間において、選挙権被選挙権停止の処遇について、所論のような差違のあることは論旨主張のとおりである。論旨は、同法がひとしく犯罪の処刑者について、国民主権につながる重大な基本的人権の行使に関して、右のごとく差別して待遇することは、憲法一四条及び四四条の趣旨に反し、不当に国民の参政権を奪い、憲法の保障する基本的人権をおかすものである。よつて原判決が本件に適用した公職選挙法二五二条一項及び三項の規定は、ともに憲法に違反するものであると主張する。

 しかしながら、同法二五二条所定の選挙犯罪は、いずれも選挙の公正を害する犯罪であつて、かかる犯罪の処刑者は、すなわち現に選挙の公正を害したものとして、選挙に関与せしめるに不適当なものとみとめるべきであるから、これを一定の期間、公職の選挙に関与することから排除するのは相当であつて、他の一般犯罪の処刑者が選挙権被選挙権を停止されるとは、おのずから別個の事由にもとずくものである。されば選挙犯罪の処刑者について、一般犯罪の処刑者に比し、特に、厳に選挙権被選挙権停止の処遇を規定しても、これをもつて所論のように条理に反する差別待遇というべきではないのである。(殊に、同条三項は、犯罪の態容その他情状によつては、第一項停止に関する規定を適用せず、またはその停止期間を短縮する等、具体的案件について、裁判によつてその処遇を緩和するの途をも開いているのであつて、一概に一般犯罪処刑者に比して、甚しく苛酷の待遇と論難することはあたらない。)

 国民主権を宣言する憲法の下において、公職の選挙権が国民の最も重要な基本的権利の一であることは所論のとおりであるが、それだけに選挙の公正はあくまでも厳粛に保持されなければならないのであつて、一旦この公正を阻害し、選挙に関与せしめることが不適当とみとめられるものは、しばらく、被選挙権、選挙権の行使から遠ざけて選挙の公正を確保すると共に、本人の反省を促すことは相当であるからこれを以て不当に国民の参政権を奪うものというべきではない

 されば、所論公職選挙法の規定は憲法に違反するとの論旨は採用することはできない。

 

 【裁判官井上登、同真野毅及び同岩松三郎の意見】は、次のとおりである。

 公職選挙法二五二条一項、三項の規定が憲法一四条、同四四条但書に違反するものでない(論旨第一点に対する判示参照)とする多数意見の見解そのものには敢えて反対するものではない。しかし公職選挙法二五二条一項の規定はその明文上明らかなように同条項所定の公職選挙法違反の罪を犯した者が同条項所定の刑に処せられたということを法律事実として、その者が同条項所定の期間公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権を有しないという法律効果の発生することを定めているに過ぎない。すなわち右の選挙権及び被選挙権停止の効果は前示法律事実の存することによつて法律上当然に発生するところなのであつて、右刑を言渡す判決において本条項を適用しその旨を宣告することによつて裁判の効力として発生せしめられるものではないのである。尤も同条三項には「裁判所は情状に因り刑の言渡と同時に第一項に規定する者に対し同項の五年間又は刑の執行猶予中の期間選挙権及び被選挙権を有しない旨の規定を適用せず若しくはその期間を短縮する旨を宣告……することができる」と規定されているので、漫然とそれを通読すれば、恰も裁判所は右刑の言渡と同時に常に必らず第一項の規定をその判決において適用すべきか否かを判断しなければならないものの如く考えられるかも知れない。しかし、その法意は第一項の規定の適用により法律上当然発生すべき法律効果を単に排除し得べきことを定めたものに過ぎないものであつて、裁判所が右刑の言渡をなす判決において先ず自ら第一項を適用してこれによつて同項所定の法律効果を発生せしむべきか否かを判断しなければならないことを規定したものではないのである。この事は右第一項と第三項との規定を対比しても容易に了解し得るばかりでなく、第三項には前示の如く、「……適用せず」とあるのに引続いて「若しくはその期間を短縮する旨を宣告……することができる」と併規されているのであつて、これによつて第一項の規定の適用により当然発生すべき法律効果たる所定の期間を改めて短縮し得ることを明確にしていることに徴して明らかであり、(この場合判決においてまず第一項の規定を適用して一応五年間選挙権及び被選挙権を停止することとした上で、更に第三項を適用して改めてその期間を短縮し得ることを規定したものでないことは勿論である。)同条第二項の規定が所定の法律事実の存することによつて、判決による宣告を待つまでもなく、法律上当然に第一項所定の五年の期間が十年となることを定めていることによつても明白であろう。これを要するに公職選挙法二五二条一項の規定は同条項所定の公職選挙法違反事件において裁判所が判決で適用すべき法文ではなく、選挙の実施に当り当該処刑者が選挙権及び被選挙権を有するか否かを決するに際してその適用が考慮さるべきものに外ならない。されば、仮りに右条項が所論の理由により違憲であり、無効であるとしても選挙の実施に際し同条項該当者として選挙権及び被選挙権を有しないものとして措置された場合にその行政処分に対しこれを云為するは格別、同条項の適用そのものが全然問題とならない本件公職選挙法違反事件において、しかも同条項を現に適用してもいない原判決に対して、同条項の違憲を云為して法令違反ありというのは的なきに矢を射るの類に外ならない。この点に関する所論は上告適法の理由に当らないといわなければならない。

 また同条三項の規定は同条一項所定の選挙法違反事件において同条項所定の刑を言渡す裁判所がこれを放置すれば同条項所定の法律効果が法律上当然に発生するから、情状を斟酌してその緩和措置を講じ得べきことを定めたものであり、現に原判決においても右第三項の規定を適用して被告人等に対して第一項所定の期間を二年に短縮する旨を宣告している。すなわち被告人等は原審が右第三項の規定を適用して前示の措置に出でなかつたとすれば、同条第一項の規定により法律上当然に裁判確定の日から五年間選挙権及び被選挙権を有しないものとせらるべかりしところを、原審が右第三項の規定を適用したことによつて三年の停止期間を免除せられたのであつて、これによつて被告人等は利益を受けこそすれ何等の不利益をも被つてはいないのである。それ故右第三項の規定が違憲であり同条項を適用した原判決を違法と主張する所論は結局被告人等の為めに不利益に原判決の変更を求めるに帰し、上告適法の理由とならない。

 されば論旨第一点はすべて上告適法の理由に該当しないのであつて、その理由の有無に関して審判することを要しないものといわなければならない。

 

 

【上告趣意第一点に対する裁判官斎藤悠輔、同入江俊郎の意見】は、次のとおりである。

 本論旨が上告適法の理由とならないことは、井上、真野、岩松各裁判官の意見のとおりである。仮りに上告理由となるものとしても、論旨は、選挙権、被選挙権が国民主権につながる重大な基本権であり、憲法上法律を以てしても侵されない普遍、永久且つ固有の人権であることを前提としている。なるほど、日本国憲法前文において、主権が国民に存することを宣言し、また、同法一五条一項、三項において、公務員を選定することは、国民固有の権利であり、公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する旨規定している。従つて、選挙権については、国民主権につながる重大な基本権であるといえようが、被選挙権は、権利ではなく、権利能力であり、国民全体の奉仕者である公務員となり得べき資格である。

 そして、同法四四条本文は、両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定めると規定し、両議院の議員の選挙権、被選挙権については、わが憲法上他の諸外国と異り、すべて法律の規定するところに委ねている。されば、両権は、わが憲法上法律を以てしても侵されない普遍、永久且つ固有の人権であるとすることはできない。むしろ、わが憲法上法律は、選挙権、被選挙権並びにその欠格条件等につき憲法一四条、一五条三項、四四条但書の制限に反しない限り、時宜に応じ自由且つ合理的に規定し得べきものと解さなければならない。それ故、所論前提は是認できない。その他公職選挙法二五二条の規定(選挙犯罪に因る処刑者に対する選挙権及び被選挙権の停止)が憲法一四条、四四条但書に違反しないことについては、多数説に賛同する。

憲法目次Ⅲ

憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ



22  [居住・移転及び職業選択の自由、外国移住及び国籍離脱の自由] 

① 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。           

② 何人も、外国に移住し、又は国籍(こくせき)を離脱(りだつ)する自由を侵されない。         

職業選択の自由

最大判昭和50年4月30日 (薬事法事件)

 

最大判昭和30年1月26日

最判平成元年1月20日

最判平成元年3月7日

 

最判平成4年12月15日

 

23               [学問の自由] 

 学問の自由は、これを保障する。              

 

大学の自治

最大判昭和38年5月22日 (大学ポポロ事件)

 

 

24               [家庭生活における個人の尊厳と両性の平等] 

① 婚姻(こんいん)は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持(いじ)されなければならない。           

② 配偶者(はいぐうしゃ)の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚(りこん)並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳(そんげん)と両性の本質的平等に立脚(りっきゃく)して、制定されなければならない。     

 

 

 

25               [生存権、国の社会的使命] 

① すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。           

② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。              

 

生存権

最大判昭和57年7月7日 (堀木訴訟)

大阪高裁昭和50年11月10日 (堀木訴訟控訴審判決)

最判平成19年9月28日    (学生無年金訴訟)

福岡高裁平22年6月14日

東京高裁平成22年5月27日

 

26               [教育を受ける権利、義務教育] 

① すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。  

② すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償(むしょう)とする。  

 

最大判昭和51年5月21日 (旭川学力テスト訴訟)

最判平成5年3月16日   (第1次家永教科書事件)

最大判昭和39年2月26日 

 

27               [勤労の権利義務、勤労条件の基準、児童酷使の禁止] 

① すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。  

② 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。       

③ 児童は、これを酷使してはならない。    

 

労働基本権

最大判昭和43年12月4日 (三井美唄労組事件)

 

公務員の労働基本権

 

 

28               [勤労者の団結権]

勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。    

 

 

29               [財産権] 

① 財産権は、これを侵してはならない。    

② 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。       

③ 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。  

 

 

財産権

最大判昭和62年4月22日 (森林法事件)

最大判平成14年2月13日 (証券取引法事件)

最大判昭和53年7月12日 (国有農地売払特措法事件)

 

損失補償制度

最大判昭和44年11月27日 (河原附近地制限令事件)

最大判昭和28年12月23日 (農地改革事件)

東京池判昭和59年5月18日 (予防接種被害東京訴訟第1審判決)

 

30               [納税の義務]

国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。

 

31  [法定の手続の保障] 

何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。              

 

最大判昭和50年9月10日(徳島市公安条例事件)

最大判昭和60年10月23日(福岡県青少年保護育成条例事件)

 

最大判昭和37年11月28日

 

行政過程におけるデュープロセス

最大判昭和47年11月22日 (川崎民商事件)

最大判平成4年7月1日    (成田新法事件)

 

 

 

32 [裁判を受ける権利] 

何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。       

 

裁判を受ける権利・審理の非公開

最大決平成10年12月1日 (寺西判事補事件)

 

33  [逮捕の要件] 

 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となってゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。

 

最決昭和52年8月9日 (別件逮捕・勾留)

 

 

34条[抑留・拘禁の要件、不法拘禁に対する保障] 

 何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。

 

最判昭和53年7月10日(杉山事件)

最判平成3年5月10日 (浅井事件)

 

 

35               [住居の不可侵]

① 何人も、その住居、書類及び所持品については、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第33条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。

② 捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。    

 

令状記載事項の特定性

最大決昭和33年7月29日

 

緊急逮捕前の捜索・差押え

最大判昭和36年6月7日

 

所持品検査と違法収取証拠

最判昭和53年6月20日

 

行政調査・令状主義

最大判昭和47年11月22日

最大判平成4年7月1日

 

強制採尿

最決昭和55年10月23日

 

通話内容の検証

最決平成11年12月16日

 

 

36               [拷問及び残虐刑の禁止]

 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。              

 

死刑の合憲性

最大判昭和23年3月12日

最決昭和60年7月19日

 

37               [刑事被告人の権利] 

① すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。

② 刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手段により証人を求める権利を有する。     

③ 刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。         

 

公平な裁判所

最大判昭和23年5月5日

 

迅速な裁判の保障

最大判昭和47年12月20日

 

被告人の証人尋問権

最判平成17年4月14日

 

弁護人依頼権

最判昭和54年7月24日

 

38               [供述の不強要、自白の証拠能力]

① 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。    

② 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることはできない。

③ 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。              

 

不利益供述の拒否・黙秘権

最大判昭和32年2月20日

最大判昭和47年11月22日

最判平成16年4月13日

 

刑事免責制度

最大判平成7年2月22日 ロッキード事件

 

自白の証拠能力・証明力

最大判昭和45年11月25日

最大判昭和33年5月28日

 

 

 

39               [遡及処罰の禁止・一事不再理] 

 何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。

 

 

最判昭和33年4月30日

 

 

40               [刑事補償] 

 何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。

 

無罪の裁判の意義

最決平成3年3月29日

最大決定昭和31年12月24日

社会的身分による差別(2-5)尊属殺・尊属傷害致死重罰規定の合憲・反対意見

 目次


社会的身分による差別(2-1)尊属殺重罰規定の合憲性
社会的身分による差別(2-2)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官田中二郎の意見
社会的身分による差別(2-3)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官下村三郎の意見・裁判官色川幸太郎の意見
社会的身分による差別(2-4)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官大隅健一郎の意見
社会的身分による差別(2-5)尊属殺重罰規定の合憲性・裁判官下田武三の反対意見

【最大判昭和48年4月4日・尊属殺違憲判決】

 

 裁判官下田武三の反対意見は、次のとおりである。

 わたくしは、憲法一四条一項の規定する法の下における平等の原則を生んだ歴史的背景にかんがみそもそも尊属・卑属のごとき親族的の身分関係は、同条にいう社会的身分には該当しないものであり、したがつて、これに基づいて刑法上の差別を設けることの当否は、もともと同条項の関知するところではないと考えるものである。しかし、本判決の多数意見は、尊属・卑属の身分関係に基づく刑法上の差別も同条項の意味における差別的取扱いにあたるとの前提に立つて、尊属殺に関する刑法二〇〇条の規定の合憲性につき判断を加えているので、いまわたくしも、右の点についての詳論はしばらくおき、かりに多数意見の右の前提に立つこととしても、なおかつ、安易に同条の合憲性を否定した同意見の結論に賛成することができないのであつて、以下にその理由を述べることとする。

 一、まず、多数意見に従つて、刑法一九九条の普通殺の規定のほかに、尊属殺に関する刑法二〇〇条をおくことが、憲法一四条一項の意味における差別的取扱いにあたると解した場合、同意見がかかる取扱いをもつてあながち合理的な根拠を欠くものと断ずることはできないとし、したがつて尊属殺に関する刑法二〇〇条は、このゆえをもつてしてはただちに違憲であるとはいえないとする点は、相当と思料されるのであるが、多数意見がさらに進んで、同条はその法定刑が極端に重きに失するから、もはや合理的根拠に基づく差別的取扱いとしてこれを正当化することができないとし、このゆえをもつて同条は憲法一四条一項に違反して無効であるとする結論に対しては、わたくしは、とうてい同調することができないのである。

 すなわち右の点に関する多数意見の骨子は、尊属殺に対し刑法二〇〇条が定める刑は死刑および無期懲役刑のみであつて、普通殺に対する同法一九九条の法定刑に比し、刑の選択の範囲が極めて限られており、その結果、尊属殺をおかした卑属に科しうる刑の範囲もおのずから限定されることとなり、とくにいかなる場合にも執行猶予を付することができないこととなるなど、量刑上著しい不便が存することを強調し、かかる法定刑の設定については、「十分納得すべき説明がつきかねる」というにあるものと解される。

 しかしながら、そもそも法定刑をいかに定めるかは、本来、立法府の裁量に属する事項であつて、かりにある規定と他の規定との間に法定刑の不均衡が存するごとく見えることがあつたとしても、それは原則として立法政策当否の問題たるにとどまり、ただちに憲法上の問題を生ずるものでないことは、つとに当裁判所昭和二三年(れ)第一〇三三号同年一二月一五日大法廷判決・刑集二巻一三号一七八三頁の示すとおりである。

 そして、多数意見も説くとおり、尊属の殺害は、それ自体人倫の大本に反し、かかる行為をあえてした者の背倫理性は、高度の社会的道義的非難に値するものであつて、刑法二〇〇条は、かかる所為は通常の殺人の場合より厳重に処罰し、もつて強くこれを禁圧しようとするものにほかならないから、その法定刑がとくに厳しいことはむしろ理の当然としなければならない。

 もつとも、多数意見も、尊属殺の場合に法定刑が加重されること自体を問題とするものではなく、ただ、加重の程度が極端に過ぎるとするものであるが、極端であるか否かは要するに価値判断にかかるものであり、抽象的にこれを論ずることは、専断、咨意を導入するおそれがある。けだし、かかる価値判断に際しては、国民多数の意見を代表する立法府が、法律的観点のみからでなく、国民の道徳・感情、歴史・伝統、風俗・習慣等各般の見地から、多くの資料に基づき十分な討議を経て到達した結論ともいうべき実定法規を尊重することこそ、憲法の根本原則たる三権分立の趣旨にそうものというべく、裁判所がたやすくかかる事項に立ち入ることは、司法の謙抑の原則にもとることとなるおそれがあり、十分慎重な態度をもつて処する要があるものとしなければならない。

 二、いま刑法における尊属殺の規定の沿革をかえりみるに、現行刑法はいわゆる旧刑法(明治一三年太政官布告第三六号)を改正したものであるが、その改正の一重要眼目は、一般に法定刑の範囲を広め、裁判官の裁量によつて妥当な刑を科する余地を拡大するにあつたのであり、この趣旨にそい、現行法の二〇〇条は、旧法三六二条一項が尊属殺の刑を死刑のみに限り、かつまた、その三六五条が、右の罪については宥恕・不論罪すなわち刑の減免等に関する規定の適用を一切禁じていたのをあらため、尊属殺の法定刑に新たに無期懲役刑を加え、かつ、減免規定等の適用をも可能としたものであつて、旧法に比し著しく刑を緩和したあとが認められるのである。しかも、当時の帝国議会議事録によれば、一部議員からは、孝道奨励のため法定刑を依然死刑のみに限定すべき旨の強硬な主張があり、長時間の討議の末、ようやくこの主張を斥けて現行法の成立となつたことを知りうるのである。刑法二〇〇条の法定刑は極端に重いとする多数意見が必ずしもあたらないことは、このような沿革に徴しても明らかであり、したがつてまた、同条をこの理由をもつてただちに違憲とずるその結論も、前提を欠くに帰するのではあるまいか。

 さらに、多数意見も指摘するとおり、昭和二二年、第一回国会において、刑法の規定を新憲法の理念に適合せしめるため、その一部改正が行なわれた際にも、同法二〇〇条は、ことさらにその改正から除外されたのであつて、右は当時立法府が本条をもつて憲法に適合するものと判断したことによると認むべきである。爾来わずかに四半世紀を経過したに過ぎないのであるが、その間多数意見の指摘するとおり、同条のもとにおける量刑上の困難が論議され、さらに同条の違憲論すら公にされ、最近には同条の削除を含む改正刑法草案も発表されるに至つたのは事実であるが(もつとも右草案はいまだ試案の域を出でないものである。)、今日なお同条についての立法上の措置が実現していないことは、立法府が、現時点において、同条の合憲性はもとより、立法政策当否の観点からも、なお同条の存置を是認しているものと解すべきである。かかる経緯をも考慮するときは、司法の謙抑と立法府の判断の尊重の必要は、刑法二〇〇条の場合において一段と大であるといわなければならない。

 しかるに、多数意見のこの点に関する判示は極めて簡単であり、「尊属殺の法定刑は、尊属に対する敬愛や報恩という自然的情愛ないし普遍的倫理の維持尊重の観点のみをもつてしては説明がつきかねる」とするのであつて、これのみでは恣意を排除した客観性のある結論とはいいがたいように思われる。

 もつとも、多数意見の指摘するように、尊属殺重罰規定が時代とともに緩和せられつつある内外の立法傾向については、わたくしも決して眼を閉じようとするものでなく、かつ、将来の立法論としてなら、わたくしにも意見がないわけではないが(現行刑法二〇〇条に、同条の法定刑の下限たる無期懲役刑と普通殺に関する同法一九九条の下限たる三年の懲役刑との間に位置する中間的な有期懲役刑を追加設定し、現行法の尊属殺重罰を多少緩和するとともに、あわせて科刑上の困難を解決することは、立法論としては十分考慮に値するところであろう。)、もとより裁判官としては立法論をいう立場にはなく、将来いかなる時期にいかなる内容の尊属殺処罰規定を制定あるいは改廃すべきかの判断は、あげて立法府の裁量に委ねるのを相当と考えるものである。刑事法の基本法規たる刑法の重要規定につき、前述のごとき沿革のあることをも顧慮することなく、前回の改正よりさして長い年月も過ぎない現在、何故裁判所が突如として違憲の判断を下さなければならないかの理由を解するに苦しまざるをえないのである。

 三、なお、本判決には、尊属殺を重く罰する刑法二〇〇条の立法目的自体を違憲とする意見も付されているので、この点につき一言したい。これは同時に同条の法定刑につき「十分納得すべき説明」が可能であることの論証ともなるものと考える。

 そもそも親子の関係は、人智を超えた至高精妙な大自然の恵みにより発生し、人類の存続と文明伝承の基盤をなすものであり、最も尊ぶべき人間関係のひとつであつて、その間における自然の情愛とたくまざる秩序とは、人類の歴史とともに古く、古今東西の別の存しないところのものである(そして、そのことは、擬制的な親子関係たる養親子関係、ひいては配偶者の尊属との関係についても、程度の差こそあれ、本質的には同様である。)。かかる自然発生的な、情愛にみち秩序のある人間関係が尊属・卑属の関係であり、これを、往昔の奴隷制や貴族・平民の別、あるいは士農工商四民の制度のごとき、憲法一四条一項の規定とは明らかに両立しえない、不合理な人為的社会的身分の差別と同一に論ずることは、とうていできないといわなければならない。

 そこで、多数意見もいうように、かかる自然的情愛ないし普遍的倫理の維持尊重の観点に立つて、尊属に対する敬愛報恩を重視すべきものとし、この点に立脚して、立法上の配慮を施すことはなんら失当とするところではなく、その具体化として現行の刑法二〇〇条程度の法定刑を規定することは、同条の立法目的実現の手段として決して不合理なものとは考えられないのである。

 そして、このような尊属に対する敬愛・尊重が、人類の歴史とともに始まつた自然発生的なものであり、かつ合理的で普遍性を有するものである以上、刑法二〇〇条の規定をもつて、歴史上の一時期における存在に過ぎない封建道徳をいまさら鼓吹助長するための手段であるかのごとく論難するのあたらないことは多言を要せず、また右規定は、もとより親不孝なる刑事法上の特別の行為類型を設けて、その違反を処罰しようとするものではないから、「孝道」を法的に強制するものとして非難するのあたらないことも言をまたない。なお、刑法二〇〇条の立法にあたつて、当初、旧家族制度との関連が考慮されていたことは歴史的の事実と見られるところ、同条が家族制度と一体不離の関係をなすものでないことはもちろんであり、とくにかかる制度の廃止された新憲法下の今日において、同制度との関連より生ずべき弊害なるものを、強いて憂える必要もありえないところである。さらにまた、親族関係のうち卑属の尊属に対する関係のみを取り出して特別規定の設けられていることを問題とする見解もあるが、同じく近親であつても、夫婦相互間、兄弟姉妹間等における親愛、緊密の情は、卑属の尊属に対する報恩、尊敬の念とは性質を異にするものであつて、たやすくこれを同一視して論ずることができないものであることはいうまでもなく、また本件で争われているのは、尊属殺を定めた刑法二〇〇条の合憲性であるから、これが合理的な差別といいうるか否かの点を問えば足りるのであつて、他に尊属殺と同様に強く非難さるべき行為類型が存するか否かは、本件の論点とは直接の関係がないものといわなければならない。

 四、なお多数意見は、刑法二〇〇条のもとにおける科刑上の困難を強調するのであるが、たしかに現実の事案についての具体的判断を任務とする裁判とは異なり、立法は将来の事象についての予測に立脚するものであるから、特殊例外の事案について、立法府の策定した実定法規をもつてしては、適切な量刑に困難を感ずることがありうることは否定しえないところであり、本件のごときもまさにその例外的事例ということができるのであつて、被告人のおかれた悲惨な境遇を深く憐れむ点において、わたくしもまた決して人後に落ちるものではない。しかしながら、情状の酌量は法律の許容する範囲内で行なうことが裁判官の職責であり、その範囲内でいかに工夫をこらしてもなお妥当な結果に導きえない場合が生じたとすれば、これに対しては、現行法制のむとにおいては、恩赦、仮釈放等、行政当局の適切な措置にまつほかはないのであつて、多数意見のごとく、憐憫に値する被告人の所為であり、かつ、科刑上も難点の存するがゆえに、ただちにさかのぼつてその処罰規定自体を違憲、無効と断ずることによりこれに対処せんとするがごときは、事理において本末転倒の嫌いがあるものといわざるをえないのである。

 五、最後に、田中裁判官は、その意見のうちに、違憲立法審査権に関するわたくしの見解に触れておられるので、この点につき、さらに補足することとしたい。わたくしは、ある法律の規定を「立法府が合憲と判断した以上、これに対する裁判所の介入は、もはや許さるべきでない」とするものでもなく、また「国会の多数の意見に従つて制定された法律であることのゆえのみをもつてただちに常に合憲と断定する」ものでもない。いうまでもなく、憲法は、最高裁判所に対し、一切の法令および処分の憲法に適合するか否かを決定する最終的権限を与えており(憲法八一条)、この点において、司法は立法および行政に対し優位に立つものとされているところ、わたくしは、司法がこのような優位に立つものであるがゆえに、またそのゆえにこそ、裁判所としては、この権限の行使にあたり、慎重の上にも慎重を期さなければならないと考えるものである。とくに道徳的規範と密接な関係を有する刑法の規定について、違憲審査を行なうに際しては、裁判所の判断のいかんは、ただに当該事案の当事者の利益にかかわるのみでなく、広く世道人心に深刻な影響を及ぼす可能性があるだけに、最も慎重を期する要があるものと考えるのである。

 現今尊属殺の問題のほか、たとえば死刑の存廃、安楽死幇助の可否等刑法上の諸問題をめぐつて、内外に多くの論議が行なわれており、なかには戦後の思想的混乱に乗じて行き過ぎの議論の行なわれるのを見るのであるが、かかる時代に、刑法の関連法規について、裁判所が違憲立法審査権を行使するにあたつては、もとより時流に動かされることなく、よろしく長期的視野に立つて、これら法規の背後に流れる人類普遍の道徳原理に深く思いをいたし、周到かつ慎重な判断を下すべきことが要請されるものといわなければならない。また、これらの問題についての判断は、国民感情、伝統、風俗、習慣等を十分考慮に入れ、さらに宗教、医学、心理学その他各般の分野にわたる見解と資料を参酌して綜合的に行なうことを必要とするものであるから、広く国民各層、各界の意見を代表し、反映する立場にある立法府の判断は、裁判所としても十分これを尊重することが、三権分立の根本趣旨に適合するものといわなければならない。

 さらに、立法上の措置がまつたく予見されていない時期においてならばともかく、現在のように、法制審議会を中心として、刑法改正案作成の作業が進捗中であり、これに基づき、さして遠からざる将来に、政府原案が作成され、国会提出の運びとなることが予想され、しかもその場合、これを受けた立法府における討議の帰趨は、いまだまつたく予見することができない時期において、にわかに裁判所が、立法府の検討に予断を与え、あるいは立法の先取りをなすものとも見られるおそれのある判断を下すことは、はたして司法の謙抑の原則に反することなきやを深く憂えざるをえないのである。

 以上の次第により、結論として、わたくしは、尊属殺に関する刑法二〇〇条の立法目的が憲法に違反するとされる各裁判官の意見(目的違憲説)にも、また立法目的は合憲であるとされながら、その目的達成の手段としての刑の加重方法が違憲であるとされる多数意見(手段違憲説)のいずれにも同調することができないものであつて、同条の規定は、その立法目的においても、その目的達成の手段においても、ともに十分の合理的根拠を有するものであつて、なんら憲法違反のかどはないと考えるものである。よつて本件上告趣意中違憲をいう点は理由がないものと思料し、その余はいずれも適法な上告理由にあたらないのであるから、本件上告は、これを棄却すべきものと考える。

社会的身分による差別(2-4)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官大隅健一郎の意見

 目次


社会的身分による差別(2-1)尊属殺重罰規定の合憲性
社会的身分による差別(2-2)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官田中二郎の意見
社会的身分による差別(2-3)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官下村三郎の意見・裁判官色川幸太郎の意見
社会的身分による差別(2-4)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官大隅健一郎の意見
社会的身分による差別(2-5)尊属殺重罰規定の合憲性・裁判官下田武三の反対意見

【最大判昭和48年4月4日・尊属殺違憲判決】

 

【裁判官大隅健一郎の意見】は、次のとおりである。

 私は、刑法二〇〇条の規定が憲法一四条一項に違反して無効であるとする本判決の結論には賛成であるが、その理由には同調しがたいので、その点について意見を述べる。

 (一)多数意見によると、普通殺人に関する刑法一九九条のほかに尊属殺人についてその刑を加重する同法二〇〇条をおくことは、憲法一四条一項の意味における差別的取扱いにあたるが、憲法の右条項は、事柄の性質に即応した合理的な根拠に基づくものでないかぎり、差別的な取扱いをすることを禁止する趣旨と解すべきであるから、刑法二〇〇条が憲法の右条項に違反するかどうかは、その差別的取扱いが合理的な根拠に基づくものであるかどうかによつて決せられるところ、尊属殺人は背倫理性がとくに強いから、右のような差別的取扱いをすることが、ただちに合理的根拠を欠くものとはいえない、しかし、刑法二〇〇条は、尊属殺人の法定刑を死刑および無期懲役に限つている点において、その立法目的達成のために必要な限度を遙かに超え、普通殺人の法定刑に比し著しく不合理な差別的取扱いをするものであつて、憲法一四条一項に違反する、というのである。

 私は、このうち、刑法二〇〇条の規定をおくことが憲法一四条一項の意味における差別的取扱いにあたるとする点、憲法一四条一項のもとでも合理的な根拠に基づく差別は許されるとする点には異論はないが、尊属殺人につきその刑を加重する刑法二〇〇条の規定をおくこと自体が憲法上許された合理的差別であるとする点には、賛成することができない。

 (二)多数意見が、尊属殺人という特別の罪を設け、その刑を加重すること自体がただちに不合理な差別的取扱いにあたらないとする理由は、(1)親族は、婚姻と血縁とを主たる基盤とし、互いに自然的な敬愛と親密の情によつて結ばれていると同時に、その間おのずから長幼の別や責任の分担に伴う一定の秩序が存し、(2)通常、卑属は、父母、祖父母等の直系尊属に養育されて成人するのみならず、尊属は、社会的にも卑属の所為につき法律上、道義上責任を負うのであつて、尊属に対する尊重報恩は、社会生活上の基本的道義というべく、自己または配偶者の直系尊属を殺害するがごとき行為はかかる結合の破壊であり、高度の社会的道義的非難を受けるべきもので、尊属に対する尊重報恩のような自然的情愛ないし普遍的倫理の維持は、刑法上の保護に値するものである、というにある。

 このうち、(1)において述べているところは、直系の尊属と卑属との間においてのみ存する関係ではなくして、夫婦や兄弟姉妹等の間にもひとしく認められる関係であつて、それが尊属殺人についてのみ特別の差別的取扱いをすることの合理的根拠となりえないことは、ほとんどいうをまたないであろう。したがつて、多数意見が尊属殺人につき特別の差別的取扱いをすることを不合理でないとする理由は、(2)において述べるところに帰するものといわなければならない。

 (三)おもうに、刑法二〇〇条設置の思想的背景には、中国古法制に渕源しわが国の律令制度や徳川幕府の法制に見られる尊属殺重罰の思想があるものと解されるほか、とくに同条が配偶者の尊属に対する罪をも包含している点は、日本国憲法により廃止された「家」の制度と深い関連を有するものと認められ、また、諸外国の立法例をみても、近代においては親殺し重罰の思想はしだいにその影をひそめ、尊属殺重罰の規定を初めから有しない国が少なくないのみならず、かつてこれを有した国においても近時しだいにこれを廃止しまたは緩和しつつあるのが現状であることは、本判決の述べているとおりである。すでに、このことが、刑法二〇〇条の規定の根底にある尊属殺重罰の思想ないし多数意見がその合理的根拠として述べる尊属に対する尊重報恩なる道徳観念が、必ずしも普遍性を有するものではなく、特定の歴史的社会的状況のもとに存立するものであることを窺わしめるに足りるのである。そして、刑法二〇〇条は、被害者が加害者またはその配偶者の直系尊属であるということのみにより、尊属殺人を普通殺人に比してとくに重く罰しようとするものであるから、直系尊属は、直系尊属であるということだけで、常に無条件に尊重されるべきものとしているのであつて、一種の身分制道徳の見地に立つものといえる。すなわち、それは、主として尊属卑属間における権威服従ないし尊卑の身分的秩序を重んずる戸主中心の旧家族制度的道徳観念を背景とし、これに基づく家族間の倫理および社会的秩序の維持をはかることを目的とするものと考えられる。その意味で、それは、国民に対し法の下における平等を保障する憲法一四条一項の精神にもとるものであり、この憲法の理念に基づいて行なわれた昭和二二年法律第一二四号による刑法の一部改正に際し、当然削除さるべき規定であつたといわなければならない。

 もとより、直系尊属と卑属とは、通常、互いに自然的敬愛と親密の情によつて結ばれており(この自然的情愛は普遍的なものであるが、多数意見のように、これと同意見のいわゆる尊属に対する尊重報恩の倫理とを同視することは、妥当でない。)、かつ、子が親を重んじ大切にすることは子の守るべき道徳であるが、しかし、それは個人の尊厳と人格の平等の原則の上に立つて自覚された強いられない道徳であるべきであり(それは、多数意見のいうように受けた恩義に対する報償的なものではなく、人情の自然に基づく心情の発露であると思う。)、当事者の自発的な遵守にまつべきものであつて、法律をもつて強制すべき性質のものではない。もちろん、道徳的規範が法律的規範の内容となりえないものでないことはいうまでもないが、子の親に対する右のごとき道徳は、法律をもつて強制するに適しないばかりでなく、これを強制することは、尊属は尊属であるがゆえにとくにこれを重んずべきものとし、法律をもつて合理的理由のない一種の身分的差別を設けるものであつて、すでに述べたとおり、憲法一四条一項の精神と相容れないものといわなければならないのである。

 以上のようにして、私は、尊属殺なる特別の罪を認め、その刑を加重する刑法二〇〇条の規定を設けること自体が憲法一四条一項に違反する不合理な差別的取扱いにあたると解するものであつて、その法定刑が不当に重いかどうかを問題とするまでもないと考えるのである。

 四 なお、上述のように、私は、尊属に対する卑属の殺害行為についてのみその刑を加重する刑法二〇〇条の規定は憲法一四条一項に違反するものと解するが、このような一方的なものでなく、夫婦相互間ならびに親子等の直系親族相互間の殺害行為(配偶者殺し、親殺し、子殺し等)につき近親殺というべき特別の罪を設け、その刑を加重することは、その加重の程度が合理的な範囲を超えないかぎり、必ずしも右の憲法の条項に反するものではないと考えることを附言しておきたい。もつとも、そのような規定を設けることの要否ないし適否については私は消極的意見であるが、それは法律政策の問題である。

 

 

 

社会的身分による差別(2-3)尊属殺・尊属傷害致死重罰規定の合憲・裁判官下村三郎の意見・裁判官色川幸太郎の意見

 目次


社会的身分による差別(2-1)尊属殺重罰規定の合憲性
社会的身分による差別(2-2)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官田中二郎の意見
社会的身分による差別(2-3)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官下村三郎の意見・裁判官色川幸太郎の意見
社会的身分による差別(2-4)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官大隅健一郎の意見
社会的身分による差別(2-5)尊属殺重罰規定の合憲性・裁判官下田武三の反対意見

【最大判昭和48年4月4日・尊属殺違憲判決】

【裁判官下村三郎の意見】は、次のとおりである。

 

 わたくしは、本判決が、原判決を破棄し、刑法一九九条を適用して、被告人を懲役二年六月に処し、三年間刑の執行を猶予した結論には賛成であるが、多数意見が原判決を破棄すべきものとした事由には同調し難いものがあるので、次にその理由を述べる。

 憲法は、その一四条一項において、国民に対し法の下の平等を保障することを宣明した。これは、国民が、それぞれ平等の立場において、相互に敬愛し、扶助し、協力して平和な国家の建設に貢献すべきことを期待したものであるということができる。そして、その趣旨に従つて、民法においては、家、家督相続、戸主等の制度が廃止されるなど、各法律にも所要の改正が加えられたが、刑法二〇〇条のような規定もなお残存しており、その存置を支持する者も多く、当裁判所も、従来、尊属殺人と普通殺人とを各別に規定し、尊属殺人につき刑を加重していることは、身分による差別的取扱いではあるが、合理的な根拠に基づくものとして憲法一四条一項に違反するとはいえないと判断して来たのである。しかし、その後の時世の推移、国民思想の変遷、尊属殺人事件の実情等に鑑みれば、尊属卑属間の相互敬愛、扶助、協力等の関係の保持は、これを自然の情愛の発露、道義、慣行等に委せるのが相当であり、尊属殺人について特別の処罰規定を存置し、尊属殺人の発生を防遏しようとする必要は最早なくなり、かような規定を存置することが却つて妥当な量刑をする妨げとなる場合もあるに至つたといわなければならない。かように解すれば、普通殺人に対し特に尊属殺人に対する処罰規定を存置し、その刑を加重することは、その合理的な根拠を失なうこととなり、刑法二〇〇条は憲法一四条一項に違反し無効なものというべきである。したがつて、刑法二〇〇条は憲法に違反しないとして被告人の本件所為に対し刑法二〇〇条を適用している原判決は、憲法一四条一項の解釈を誤つたものにほかならず、かつ、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、これを破棄すべきものとすべきであると考える。

 

 

【裁判官色川幸太郎の意見】は次のとおりである。

 一、多数意見は、これを要約すると、刑法二〇〇条が、尊属殺人を普通殺人と区別して規定しているのは、一般的にいうと、身分による差別的取扱いであるが、しかし、尊属殺人は背倫理性が顕著であるから、かかる所為を禁圧する目的で特別の罪を設けてその刑を加重することは、憲法上許される合理的な差別であり、ただちには違憲とはいえない、もつとも右法条は、加重の程度が極端であつて、右のごとき立法目的達成の手段としては甚だしく均衡を失するが故に、憲法一四条一項に違反する、と説示している。右のうち、刑法二〇〇条が身分による差別的取扱いの規定であるとする点、および、これが憲法一四条一項に違反するとの結論には私も賛成であるが、尊属殺人につき普通殺人と異なる特別の罪を規定することが、憲法上許容された範囲の合理的差別であるという見解には、同調することができないのである。

 二、右に見るごとく、多数意見は尊属殺人が普通殺人に比して、それ自体、特に重い非難に値するものであるとなし、その一点に、右両者の間の差別的取扱いの合理性を見出そうとしているのであり、その論理はおよそ次のように展開されている。

  (1) 尊属と卑属(以下概括して親と子と略称する。)は婚姻と血縁とを主たる基盤とした親族である。

  (2) 親族は自然の敬愛と親密の情で結ばれている結合である。

  (3) その結合には長幼の別や責任の分担に伴う秩序が存する。

  (4) 親は子を養育成長せしめ、また子の行為につき法律上、道義上の責任を負う。

  (5) 親に対する尊属報恩は社会生活上の基本的道義であり普遍的倫理である。

  (6) 前記情愛と右の倫理は刑法上の保護に値する。

  (7) 尊属殺人は前記結合の破壊であり人倫の大本に反する。

  (8) 尊属殺人はこのように高度の社会的道義的非難を受けるものであるゆえ、これを量刑の情状とすることは不合理ではなく、そうである以上、一歩進めて類型化し、これを法律上の加重要件とすることは当然許される。以上である。

 三、これを要するに、多数意見は、子の親に対する殺人をもつて、普通殺人とは比ぶべくもない背倫理性ありとする所以を、その行為が、自然的愛情を紐帯とし一定の秩序のある親族結合の破壊であり、かつ親に対する忘恩の所業であるという二点に求めたわけである。しかし、「婚姻と血縁とを主たる基盤とし互いに自然的な親密の情によつて結ばれている」親族は、ひとり親子だけではない。夫婦しかり、兄弟姉妹またしかりなのである。夫婦はもともと他人同志が結ばれたものではあるが、その間の自然的情愛は血のつながる親子に比してはたして劣るといえるであろうか。いわんや夫婦とその一方の親との関係とでは、いずれが強く結ばれているかいうまでもあるまい。しかも夫婦関係は親子関係と並んで否むしろ一層強い意味合をもつて、社会の根源的な基礎構造を形成しているのである(のみならず、子が成人し独立したのちには、後者の関係はほとんど分解し、社会の基礎構造たる実質を失うのが常であろう。過去一〇年間におけるいわゆる核家族の激増ぶりは欧米をも凌ぐものがあるといわれている。それは、良いか悪いか、好ましいか、好ましくないかの問題を超えた、現代社会の必然的傾向なのである。)。多数意見は、親族の間柄における「長幼の別や責任の分担に伴う一定の秩序」を強調する。しかしこれまた、親と子の関係だけに特有なものではない。夫婦には親子の間よりも明らかな「責任の分担」が存在し、また、兄弟姉妹にはいうまでもなく長幼の別がある。それらの親族関係には「一定の秩序」が厳存するのである。だから、その間に殺人行為があつたならば、それが「かかる結合の破壊」であること、もとよりいうをまたない筈であるのに、これについて普通殺人とは別異な罪が特に定められているわけではない。それのみか、親子間においても、子が被害者の場合には同様なのである。近時頻発している親の子に対する殺人などは、まさに、自然の情愛に基づく結合の破壊であり、また、その大部分は許し難い非人間的な犯罪であるけれども、わが国には従来この種の殺人について加重規定のなかつたのはもちろん、かかる立法への要請さえ絶えて聞かないところである。以上のように考えてくると、多数意見の指摘する、背倫理性が特に重いとする所以は、これを主として上告後段の理由、すなわち親に対する忘恩の所業であるとするところに求めるほかないであろう。

 四、この点につき、多数意見は、私の理解するところでは、親は子を育て、その上、子の「所為につき法律上、道義上の責任を負う」のであるから、子は、これに対し「報恩」の念を持つ義務があり、この恩に酬ゆる意味で親を尊重することが「社会生活上の基本的道義」であり「普遍的倫理」だとしているごとくである。しかし、はたしてそういう考え方がそのまま承認され得るものであろうか。

 (イ)まず、親が子の所為につき社会的に責任を負う、という意味を検討してみたい。こと、法律上の責任に関するかぎり、仮に誤りでないとしても、その立言は、甚だしく不正確である。いうまでもなく刑法は責任原則で貫かれている。なに人も、自己の行為によつてのみ、刑罰を科せられるにとどまり、他人の行為で罰せられるごときことはあり得ないのである。行政刑法においてはなるほど両罰規定があるけれども、その本質は監督上の不作為責任の追究であり、純然たる他人の行為による刑事責任ではない。いわゆる両罰が科せられるのは使用者その他監督者なるが故であつて、親なるが故の責任を問う規定は存在しないのである。罪九族に及んだのは、遠い昔の話であり、近代刑法のおよそ想像もできないところに属する。もつとも、民事上は、不法行為法の分野においてのみではあるが、親の監督責任を認める場合(民法七一四条)もないわけではない。しかしそれは、子が未成年であり、かつ行為の責任を弁識できないときで、しかもその親が監督上の義務を怠つたというきわめて例外の場合に限られているのである。被害者の救済という見地からは問題の存するところであるかも知れないが、それはそれとして、民事上でもまた、自己責任が原則だということができよう。

 道義上の責任について説くところは、一応もつとものようでもあるが、しかし道義上の責任を負うべきか否かは子の所為の態様にもよるし、また、各人の責任観念のいかんで左右される、きわめて個性的な、結局は各人の考えによるものである。万人にひとしく適用されるような社会的倫理規範はないのであるし、責任を強く感じないからといつて一概に非難はできないものがあろう。むしろ、子の所業につき親を厳しく糾弾したのは実は近代以前に見られた社会事象であつて、個人の独立と人格の尊厳を基調とする現代の道理の感覚からすれば、その風潮は、抑制こそ望ましく、決して助長鼓吹さるべきものではないのである。

 (ロ)多数意見は、親による養育とそれに対する「報恩」を説いている。たしかに親が子を一人前に育てあげることには並並ならぬ労苦を伴うものであり、時としては自己犠牲さえも敢えていとわないのが親のあり方である。子が親の庇護と養育の努力に感謝の念をいだくのはまことに自然ではあるが、これを「恩」であると名づけ、子が親の「恩」に酬ゆることこそ社会生活上の「基本的道義」「普遍的倫理」であり、一旦これに背く場合には、社会的にはもとより法律的にも重い非難が加えられてしかるべきだとすることは(多数意見の説示はきわめて簡潔であるが、敷衍すれば上述のとおりであろう。)まさしく、旧来の孝の観念から、いささかも脱却していないことを示すものにほかならない。そしてまた、多数意見は、その強調する右の徳目が旧来の孝と異なるものであるとはいつていないのであるから、右のごとく措定して、以下、議論を進めることは、当然許されると考える。

 ところで、孝はいうまでもなく儒教において最も重しとされた道徳である。古代儒教の説いた孝は、やや変容は受けたものの、「忠」とならんで徳川時代の武家社会を支配するゆるぎなき根幹の道徳となり、さらに、徳川末期には、心学の普及などに伴い、農工商の庶民にもある程度浸潤するところがあつた。もつとも結局においては、一部富裕な階級を除き、一般町民や農民を完全に把握するにはいたらず、孝の観念を基調とする家族制度も庶民層の間においてはついに確立しなかつたといわれている。ところが明治初頭、政府の重要な教化政策としてとりあげられ、国民に対し、あらゆる方をもつて徹底せしめられた結果、封建的な孝という徳目は、あたかも万古不易の普遍的倫理であるかのごとく考えられるにいたつたのである。だが、それは錯覚にしかすぎず、要するに、歴史的な一定時期の、特殊な家族制度を背景としてつちかわれ、そしてまた逆に、かかる家族制度の精神的な支柱を形成していたものであり、決して、古今東西を通じて変るところなき自然法道徳ではないというべきである。

 刑法二〇〇条の立法趣旨が、封建的時代からの伝承にかかる家族制度の維持、強化にあつたことは、配偶者の直系尊属に対して犯された場合をも尊属殺人とする最初の提案、すなわち明治三四年刑法改正案につき、その趣旨を明らかにした公的な「参考書」(法典調査会編)と称する文献や、その後現行法となつた明治四〇年改正案に関する政府の刑法改正理由書中に歴歴として見ることができ、またその当時における指導的な刑法体系書の明らかに指摘するところであつた。かくのごとき家族制度が、すでに、憲法の趣旨に背馳するものとして否定された今日、孝をもつて刑法の基礎観念としようとするものであるならば、時代錯誤と評せられてもやむを得ないのではあるまいか。

 (ハ)憲法との関連においては、なお、いうべきことがある。儒教にいう孝は、子に独立の存在を認めていない。そこにおける親と子の間は、相互に独立した人格対人格の関係とはおよそ対蹠的な、権威と服従の支配する世界にほかならず、尊卑の別(現行民法が折角の改正にもかかわらず、尊属卑属の称呼を踏襲したことには批判の余地があるであろう。)は永久に存在し、越ゆべからざるその間の身分的秩序の厳守が絶対的な要請とされている。一言でつくせば、孝は親に対する子の隷従の道徳なのである。親の恩は山よりも高く海よりも深しとし、これに無定量、無限定の奉仕の誠をささげ、親を絶対者として尊重服従し、己れをむなしくし力をつくして親に仕える、それが儒教における孝であつて、そのきわみは親、親たらずとも子、子たらざるべからずという孝となる。これは中国廿四孝の説話に余すところなく描かれているところである。現代の常識に反した、このような盲目的な絶対服従を内容とする孝が、個人の尊厳と平等を基底とする民主主義的倫理と相いれないものであることは多言を要しないところであろう。そしてこの後者の倫理こそが、憲法の基調をなすものであると考えたとき、多数意見の立脚地そのものに根本的な疑問を感ぜざるを得ない。

 かくいうからといつて、私は、親を重んじこれを大事にすることが、子にとつて守るべき重要な道徳であることを毛頭否定するものではない。しかしながら、もともと道徳は、独立した人格の、自発にかかる内面的な要請ないし決定によつて遵守せられてこそ、はじめて高い精神的価値をもつものであるから、法律をもつて道徳を強制せんとするのは道徳の真価を損うことなしとしないのである。もつとも、法律を通じての道徳の高揚も、策として已むを得ない場合があり、一概に両分野を峻別することのみ主張するわけではない。ただ、仮にその必要があるとしても、道徳的価値を保護法益とする立法にあたつて、何よりも留意されなければならないことは、その道徳が憲法の精神に適合するか否かを慎重に吟味することの必要性である。当該道徳が、憲法の建前とする個人の尊厳と人間の平等の原理に背反するものであるときは、その立法化はもとより許されないところというべきである。孝の道徳はなるほど日本の、ある意味では、美わしい伝統であるかも知れない。然し自然の愛情と相互扶助を基調とする近代的な親子関係(これが憲法の予定する親子関係であろう。)にまで昇華していない、廃絶された筈の古い家族制度と結びついたままの道徳を、ひたすら温存し、保護し、強化しよう

 とする法律(刑法二〇〇条がその一つであるが)は、憲法によつて否定されなければならない運命にあると考えるのである。

 (二)なお、ついでながら親の「恩」について一言しておきたい。恩を受けたからそれ故に反対給付として忠勤を励むというギブアンドテークの関係は、洋の東西を問わず、封建時代における主君と武士との関係に見受けられるのであるが、子が親を敬愛しこれを大事にしなければならないという感情ないし道徳感は、それとは質を異にした、人間の情として自然に流れ出てくるところのものではないであろうか(儒教にしても古代のそれの教える孝は、給付、反対給付の関係ではないように思われる。)。本当の孝は恩を受けたからそれに酬ゆるという、水臭いものであつてはなるまい。第一、親が子のために心を砕くのも、親としては、恩を売つて他日その反対給付を受けようという底意のあつてのことでは、まず、ないのである。それは報償を期待することのない、子を思う惻惻たる自然の人情の発露なのである。法律の面からいつても、親の子に対する「監護及び教育」は、親の権利であるとともに義務であり(民法八二〇条)、子を一人前の社会人に育てあげることは親の職分にほかならず、それなればこそ、養育の費用も、子に特別な財産がある場合を除いては、当然親の負担に帰するのである。「子供の育成及び教育は、両親の自然の権利であり、かつ何よりも両親に課せられている義務である」(ドイツ連邦共和国基本法六条二項)。それであるから、これを恩と考えるべきものとなし、親に対する「報恩」を子の至高の義務であると断じて、ここに刑法二〇〇条の主たる存在理由を求めようとするのは、現行法の建前にも合わず、所詮は無理というものであろう。

 五 多数意見は、量刑に際して被害者が親であることを重視するのは当然であるし、そうである以上、これを類型化し、法律上、刑の加重要件とする規定を設けても合理性を欠く差別的取扱いにはならないと説く。しかし被害者が親であるという、ただそれだけのことをもつて、量刑上不利に扱うことは、結局違憲のそしりを免れることはできない。理由としては、上述したところをすべて援用すれば足りると考える。

 親に格別咎むべきところがないにかかわらず、子が放縦無頼の極、これを殺害するにいたつたような場合には、それこそ社会の健全な情緒的感覚をさかなでするものであつて、その際、裁判所においてこれを情状重しとするに何の躊躇もあり得ないであろう。しかしこれは親殺しであるという一事のみに依拠した判断ではない。量刑における情状の勘酌は、極めて具体的、特殊的でなければならないのであり、この場合、その特別な背景が考慮されたにすぎないと考えるべきである。過去における尊属殺人事件の量刑の実際を見ても、多数意見のいうとおり、他の犯罪と併合罪の関係になつたときは格別、「尊属殺の罪のみにより法定刑を科せられる事例はほとんどなく、その大部分が減軽を加えられており、なかでも現行法上許される二回の減軽を加えられる例が少なくないのみか、その処断刑の下限である懲役三年六月の刑を宣告される場合も決して稀ではない」のであるから、被害者が親であるというだけで、従来、重い刑が科せられたわけではない。多数意見の前述の見解は、過去の実例に徴したとき、説いてつくさざるものあるを感ずる。

 六 以上、私は、多数意見に同調し難いとする、私なりのいくつかの理由を率直に披瀝した。しかし、本判決の有する劃期的な意義はこれを評価するに吝かではないのであつて、私は、多数意見が、当審の多年に亘つて固持した見解を一擲し、刑法二〇〇条をもつて違憲であるとしたその勇断には深く敬意を表したいと考える。ただ、百尺竿頭さらに一歩をすすめ、親であり子であることの故に、刑法上差別して扱うこと自体、憲法に副わぬ立法である、とまで踏みきらなかつたところに、なお遺憾の念を禁じ得ないものがあるのである(刑法二〇〇条は合憲であるという下田裁判官の反対意見については特に言及しなかつたが、上述した私見は、移してもつてその批判になるであろう。下田裁判官の意見は、差別の合理性を主張する点においても、裁判所の謙抑を説く点においても、あまりに憲法の原点を離れ去つた感があり、これには到底賛成することができない。)。

社会的身分による差別(2-2)尊属殺・尊属傷害致死重罰規定の合憲・意見

 目次


社会的身分による差別(2-1)尊属殺重罰規定の合憲性
社会的身分による差別(2-2)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官田中二郎の意見
社会的身分による差別(2-3)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官下村三郎の意見・裁判官色川幸太郎の意見
社会的身分による差別(2-4)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官大隅健一郎の意見
社会的身分による差別(2-5)尊属殺重罰規定の合憲性・裁判官下田武三の反対意見

【最大判昭和48年4月4日・尊属殺違憲判決】

【裁判官田中二郎の意見】は、次のとおりである。

 

判旨

 私は、本判決が、尊属殺人に関する刑法二〇〇条を違憲無効であるとして、同条を適用した原判決を破棄し、普通殺人に関する刑法一九九条を適用して被告人を懲役二年六月に処し、三年間刑の執行を猶予した、その結論には賛成であるが、多数意見が刑法二〇〇条を違憲無効であるとした理由には同調することができない。すなわち、多数意見は、要するに、刑法二〇〇条において普通殺人と区別して尊属殺人に関する特別の罪を定め、その刑を加重すること自体は、ただちに違憲とはいえないとし、ただ、その刑の加重の程度があまりにも厳しい点において、同条は、憲法一四条一項に違反するというのである。これに対して、私は、普通殺人と区別して尊属殺人に関する規定を設け、尊属殺人なるがゆえに差別的取扱いを認めること自体が、法の下の平等を定めた憲法一四条一項に違反するものと解すべきであると考える。したがつて、私のこの考え方からすれば、本件には直接の関係はないが、尊属殺人に関する刑法二〇〇条の規定のみならず、尊属傷害致死に関する刑法二〇五条二項、尊属遺棄に関する刑法二一八条二項および尊属の逮捕監禁に関する刑法二二〇条二項の各規定も、被害者が直系尊属なるがゆえに特に加重規定を設け差別的取扱いを認めたものとして、いずれも違憲無効の規定と解すべきであるということとなり、ここにも差異を生ずる。ただ、ここでは、尊属殺人に関する刑法二〇〇条を違憲無効と解すべき理由のみについて、私の考えるところを述べることとする。それは、次のとおりである。

 一 日本国憲法一三条の冒頭に、「すべて国民は、個人として尊重される」べきことを規定しているが、これは、個人の尊厳を尊重することをもつて基本とし、すべての個人について人格価値の平等を保障することが民主主義の根本理念であり、民主主義のよつて立つ基礎であるという基本的な考え方を示したものであつて、同一四条一項に、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と規定しているのも、右の基本的な考え方に立ち、これと同一の趣旨を示したものと解すべきである。右の条項には、人種、信条、性別などが列記されているが、多数意見も認めているように、これらの列記は、単にその主要なものの例示的列記にすぎず、したがつて、これらの列記事項に直接該当するか否かにかかわらず、個人の尊厳と人格価値の平等の尊重・保障という民主主義の根本理念に照らして不合理とみられる差別的取扱いは、すべて右条項の趣旨に違反するものとして、その効力を否定すべきものと考えるのである。

 近代国家の憲法がひとしく右の意味での法の下の平等を尊重・確保すべきものとしたのは、封建時代の権威と隷従の関係を打破し、人間の個人としての尊厳と平等を回復し、個人がそれぞれ個人の尊厳の自覚のもとに平等の立場において相協力して、平和な社会・国家を形成すべきことを期待したものにほかならない。

 日本国憲法の精神もここにあるものと解すべきであろう。

 もつとも、私も、一切の差別的取扱いが絶対に許されないなどと考えているわけではない。差別的取扱いが合理的な理由に基づくものとして許容されることがあることは、すでに幾多の最高裁判所の判決の承認するところである。問題は、何がそこでいう合理的な差別的取扱いであるのか、その「合理的な差別」と「合理的でない差別」とを区別すべき基準をどこに求めるべきかの点にある。そして、この点について、私は、さきに述べたように、憲法の基調をなす民主主義の根本理念に鑑み、個人の尊厳と人格価値の平等を尊重すべきものとする憲法の根本精神に照らし、これと矛盾抵触しない限度での差別的取扱いのみが許容されるものと考えるのである。したがつて、本件においては、尊属殺人に関し、普通殺人と区別して特別の規定を設けることが、右の基準に照らし、果たして「合理的な差別」といえるかどうかについて、検討する必要があるわけである。

 二 ところで、多数意見は、(1)尊属殺人について、普通殺人と区別して特別の規定を設けることには合理的根拠があるから、憲法一四条一項には違反しないとし、ただ、(2)刑法二〇〇条の定める法定刑があまりにも厳しすぎる点において、憲法一四条一項に違反するというのである。しかし、右の(1)の見解は果たして正当といい得るであろうか、これはすこぶる問題である。また、かりに、(1)の見解が是認され得るとした場合において、(2)の見解が果たして十分の説得力を有するものといい得るであろうか。この点についても、いささか疑問を抱かざるを得ないのである。順次、私の疑問とするところを述べることとする。

 (1) 刑法二〇〇条の尊属殺人に関する規定が設けられるに至つた思想的背景には、封建時代の尊属殺人重罰の思想があるものと解されるのみならず、同条が卑属たる本人のほか、配偶者の尊属殺人をも同列に規定している点からみても、同条は、わが国において旧憲法時代に特に重視されたといわゆる「家族制度」との深い関連をもつていることを示している。ところが、日本国憲法は、封建制度の遺制を排除し、家族生活における個人の尊厳と両性の本質的平等を確立することを根本の建前とし(憲法二四条参照)、この見地に立つて、民法の改正により、「家」、「戸主」、「家督相続」等の制度を廃止するなど、憲法の趣旨を体して所要の改正を加えることになつたのである。この憲法の趣旨に徴すれば、尊属がただ尊属なるがゆえに特別の保護を受けるべきであるとか、本人のほか配偶者を含めて卑属の尊属殺人はその背徳性が著しく、特に強い道義的非難に値いするとかの理由によつて、尊属殺人に関する特別の規定を設けることは、一種の身分制道徳の見地に立つものというべきであり、前叙の旧家族制度的倫理観に立脚するものであつて、個人の尊厳と人格価値の平等を基本的な立脚点とする民主主義の理念と抵触するものとの疑いが極めて濃厚であるといわなければならない。諸外国の立法例において、尊属殺人重罰の規定が次第に影をひそめ、これに関する規定を有していたものも、これを廃止ないし緩和する傾向にあるのも、右の民主主義の根本理念の滲透・徹底に即応したものということができる。最近のわが国の改正刑法草案がこの種の規定を設けていないのも、この流れにそつたものにほかならない。

 私も、直系尊属と卑属とが自然的情愛と親密の情によつて結ばれ、子が親を尊敬し尊重することが、子として当然守るべき基本的道徳であることを決して否定するものではなく、このような人情の自然に基づく心情の発露としての自然的・人間的情愛(それは、多数意見のいうような「受けた恩義」に対する「報償」といつたものではない。)が親子を結ぶ絆としていよいよ強められることを強く期待するものであるが、それは、まさしく、個人の尊厳と人格価値の平等の原理の上に立つて、個人の自覚に基づき自発的に遵守されるべき道徳であつて、決して、法律をもつて強制されたり、特に厳しい刑罰を科することによつて遵守させようとしたりすべきものではない。尊属殺人の規定が存するがゆえに「孝」の徳行が守られ、この規定が存しないがゆえに「孝」の徳行がすたれるというような考え方は、とうてい、納得することができない。尊属殺人に関する規定は、上述の見地からいつて、単に立法政策の当否の問題に止まるものではなく、憲法を貫く民主主義の根本理念に牴触し、直接には憲法一四条一項に違反するものといわなければならないのである。

 (2) 右に述べたように、私は、尊属殺人に関し、普通殺人と区別して特別の規定を設けること自体が憲法一四条一項に牴触するものと考えるのであるが、かりに、多数意見が説示しているように、このこと自体が憲法一四条一項に牴触するものではないという考え方に立つべきものとすれば、尊属殺人に対して、どのような刑罰をもつて臨むべきかは、むしろ、立法政策の問題だと考える方が筋が通り、説得力を有するのではないかと思う。

 多数意見は、「尊属の殺害は通常の殺人に比して一般に高度の社会的道義的非難を受けて然るべきであるとして、このことをその処罰に反映させても、あながち不合理であるとはいえない」としながら、「尊属殺の法定刑は、それが死刑または無期懲役刑に限られている点においてあまりにも厳しいものというべく、(中略)尊属に対する敬愛や報恩という自然的情愛ないし普遍的倫理の維持尊重の観点のみをもつてしては、これにつき十分納得すべき説明がつきかねるところであり、合理的根拠に基づく差別的取扱いとして正当化することはとうていできない」というのである。しかし、もし、尊属殺害が通常の殺人に比して一般に高度の社会的道義的非難を受けて然るべきであるとしてこれを処罰に反映させても不合理ではないという観点に立つとすれば、尊属殺害について通常の殺人に比して厳しい法定刑を定めるのは当然の帰結であつて、処断刑三年半にまで減軽することができる現行の法定刑が厳しきに失し、その点においてただちに違憲であるというのでは、論理の一貫性を欠くのみならず、それは、法定刑の均衡という立法政策の当否の問題であつて、刑法二〇〇条の定める法定刑が苛酷にすぎるかどうかは、憲法一四条一項の定める法の下の平等の見地からではなく、むしろ憲法三六条の定める残虐刑に該当するかどうかの観点から、合憲か違憲かの判断が加えられて然るべき問題であると考えるのである。

 三 日本国憲法の制定に伴つて行なわれた刑法の改正に際し、「忠孝」という徳目を基盤とする規定のうち、「忠」に関する規定を削除しながら、「孝」に関する規定を存置したのは、憲法の根本理念および憲法一四条一項の正しい理解を欠いたためであると考えざるを得ない。そして、昭和二五年一〇月一一日の最高裁判所大法廷判決(刑集四巻一〇号二〇三七頁)が、尊属傷害致死に関する刑法二〇五条二項は憲法一四条に違反しない旨の判断を示した(その趣旨は刑法二〇〇条にもそのままあてはまるものと解される。)のも、私には、とうてい、理解することができない。ところで、右に述べたような最高裁判所の指導的判決のもとで、刑法二〇〇条が実際上どのように運用されてきたかということも、右の規定の存在意義を反省するうえに若干の参考となるであろう。

 そこで、尊属殺人事件についての第一審判決の科刑の実情をみるに、統計の示すところによれば、昭和二七年から昭和四四年に至る一八年間の尊属殺人事件総数六二一件のうち、死刑の言渡がされたものは僅かに五件(〇・八一%)、無期懲役刑の言渡がされたものは六一件(九・八二%)にすぎず、大多数は減軽措置により一五年以下の懲役刑の言渡がされており、なかでも、五年以下の懲役刑の言渡がされたものが一六四件(二六・四%)に達し、最高の率を示している。このことは、多数意見が、尊属殺人は一般殺人に比して一般に高度の社会的道義的非難を受けて然るべきであるとしているのにかかわらず、現実には、本件の場合ほど極端な例はないにしても、やむにやまれぬ事情のもとに行なわれた犯行として強い社会的道義的非難を加えることの妥当でない事例が少なくないことを示している。のみならず、刑法二〇〇条の存在が具体的事案に即した量刑を著しく困難にし、裁判官を苦慮させ、時には、あえて、同条の違憲無効を断ぜざるを得ない破目に陥らせているのが実情である。最高裁判所自体も、昭和三二年二月二〇日の大法廷判決(刑集一一巻二号八二四頁)において、冷遇に苦しめられ、亡夫の父母等を殺害しようとした未亡人に刑法二〇〇条を適用した原判決を破棄し、同条の「配偶者の直系尊属」とは現に生存する配偶者のそれを指すものとし、刑法二〇〇条の適用を否定せざるを得なかつたのである。その結論は妥当として支持すべきものであろうが、同条の解釈としては問題のあるところで、右の結論を引き出すためには、根本に立ち帰つて、刑法二〇〇条そのものの合憲性について検討を加えるべきではなかつたかと思う。たしかに、尊属殺人のなかには、天人ともに許さない悪逆非道なものがあり、極刑をもつて臨まざるを得ないような事案もあるであろう。しかし、それは、必ずしも尊属殺人なるがゆえをもつて特別の取扱いをすることを根拠づけ又はこれを合理化するものではなく、同様の事案は普通殺人についても、しばしば、みられるのであるから、その処罰には普通殺人に関する法定刑で事足りるのであつて、改正刑法草案が尊属殺人に関する規定を廃止しているのも、こういう見地に立つものにほかならない。

 四 多数意見が尊属殺人について合理的な程度の加重規定を設けることは違憲でないとの判断を示したのは、それを違憲であるとする判断を示すことの社会的影響について深く憂慮したためではないかと想像されるが、殺人は、尊属殺人であろうと普通殺人であろうと、最も強い道義的非難に値いする犯罪であることはいうまでもないところであつて、尊属殺人に関する規定が違憲無効であるとする判断が示されたからといつて、この基本的な道徳が軽視されたとか、反道徳的な行為に対する非難が緩和されたとかと、受けとられるとは思わない。それは、むしろ、国民の一般常識又は道徳観を軽視した結果であつて、杞憂にすぎないといつてよいであろう。

 五 最後に、下田裁判官の反対意見について、一言附け加えておきたい。

 下田裁判官の反対意見は、その結論および理由の骨子ともに、私の賛成しがたいところであるが、そのことは、すでに述べたところがら明らかであるから、ここに重ねて述べることを省略し、ここでは、下田裁判官のとられる裁判所の違憲審査権に関する考え方についてのみ私の意見を述べることとする。

 右の点に関する下田裁判官の意見は、国民多数の意見を代表する立法府が制定した実定法規はこれを尊重することが「憲法の根本原則たる三権分立の趣旨にそう」ものであり、裁判所がたやすくかかる事項に立ち入ることは、「司法の謙抑の原則にもとる」こととなるおそれがあるという考え方を基礎とするもので、刑法二〇〇条についても、昭和二二年に刑法の一部改正が行なわれた際、ことさらにその改正から除外されたのであつて、右は、「当時立法府が本条をもつて憲法に適合するものと判断したことによると認むべきである」とされ、その後種々の論議が重ねられたにかかわらず、「今日なお同条についての立法上の措置を実現していないことは、立法府が、現時点において、同条の合憲性はもとより、立法政策当否の観点からも、なお同条の存置を是認しているものと解すべきである」とし、「かかる経緯をも考慮するときは、司法の謙抑と立法府の判断の尊重の必要は、刑法二〇〇条の場合において一段と大であるといわなければならない」とされ、さらに、立法論としても、「将来いかなる時期にいかなる内容の尊属殺処罰規定を制定あるいは改廃すべきかの判断は、あげて立法府の裁量に委ねるのを相当と考えるものである」と述べておられる。

 私も、事柄の性質によつては、立法府に相当広範な裁量権が認められる場合があること、そして、その裁量権の範囲内においては、立法政策の問題として、裁判所としても、これを尊重することを要し、これに介入することができないものとすべき場合が少なくないことを認めるに吝かではないし、裁判所が安易にそのような事項に立ち入つてその当否を判断すべきでないことも、下田裁判官の主張されるとおりであると思う。また、立法府が制定した法律の規定は、可能な限り、憲法の精神に即し、これと調和し得るよう合理的に解釈されるべきであつて、その字句の表現のみに捉われて軽々に違憲無効の判断を下すべきでないことも、かねて私の主張してきたところで、当裁判所の判例のとる基本的な態度でもあるのである。ところが、下田裁判官の意見は、「憲法の根本原則たる三権分立の趣旨」と「司法の謙抑の原則」をふりかざし、立法府の裁量的判断に委ねられるべき範囲を不当に拡張し、しかも、立法府が合憲と判断した以上、これに対する裁判所の介入は、もはや許されるべきでないかのごとき口吻を示されている。その真意のほどは必ずしも明らかではないが、本件について下田裁判官の主張されるところに限つてみても、私には、とうてい、賛成することができないのである。

 およそ立法府として(行政府についても同様のことがいえる。)、その行為が違憲であることを意識しながら、あえてこれを強行するというようなことは、ナチ政権下の違憲立法のごとき、いわば革命的行為をあえてしょうとするような場合は別として、わが国においては、通常、あり得ないことであり、また、あつてはならないことである。しかし、現実には、立法府の主観においては合憲であるとの判断のもとにされた立法についても、これを客観的にみた場合に、果たして合憲といえるかどうかが問題となる場合もあり得るのであつて、その場合の合憲か違憲かの審理判断を裁判所の重要な権限として認めようとするのが裁判所の違憲立法審査制の本来の狽いなのである。したがつて、裁判所の違憲立法審査権が明文で認められている現行憲法のもとでは、立法府自体が合憲であると判断したということは、裁判所の違憲立法審査権の行使を否定しこれを拒否する理由となし得るものでないことはいうまでもない。殊に、現在のように、基本的人権の尊重確保の要請と公共の福祉の実現の要請とをどのように調整すべきかの問題について、政治的・思想的な価値観の対立に基づき、重点の置きどころを異にし、利害の対立もからんで、見解の著しい差異が見られる時代においては、国会の多数の意見に従つて制定された法律であることのゆえのみをもつてただちに常に合憲であると断定するわけにはいかないのである。もちろん、法律には、一応、「合憲性の推定」は与えられてよいが、それが果たして合憲であるかどうかは、まさに裁判所の審理判断を通して決せられるべき問題にほかならない。したがつて、司法の謙抑の原則のみを強調し、裁判所の違憲立法審査権の行使を否定したり、これを極度に制限しようとしたりする態度は、わが現行憲法の定める三権分立制の真の意義の誤解に基づき、裁判所に与えられた最も重要な権能である違憲立法審査権を自ら放棄するにも等しいものであつて、憲法の正しい解釈とはいいがたく、とうてい賛成することができないのである。

 裁判官小川信雄、同坂本吉勝は、裁判官田中二郎の右意見に同調する。

社会的身分による差別(2-1)尊属殺・尊属傷害致死重罰規定の合憲性

 目次


社会的身分による差別(2-1)尊属殺重罰規定の合憲性
社会的身分による差別(2-2)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官田中二郎の意見
社会的身分による差別(2-3)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官下村三郎の意見・裁判官色川幸太郎の意見
社会的身分による差別(2-4)尊属殺重罰規定の合憲・裁判官大隅健一郎の意見
社会的身分による差別(2-5)尊属殺重罰規定の合憲性・裁判官下田武三の反対意見

【最大判昭和48年4月4日・尊属殺違憲判決】

要旨

刑法二〇〇条は、尊属殺の法定刑を死刑または無期懲役のみに限つている点で、普通殺に関する刑法一九九条の法定刑に比し著しく不合理な差別扱をするものであり、憲法一四条一項に違反する。

 

判旨

 よつて案ずるに、憲法一四条一項は、国民に対し法の下の平等を保障した規定であつて、同項後段列挙の事項は例示的なものであること、およびこの平等の要請は、事柄の性質に即応した合理的な根拠に基づくものでないかぎり、差別的な取扱いをすることを禁止する趣旨と解すべきことは、当裁判所大法廷判決(昭和三七年(オ)第一四七二号同三九年五月二七日・民集一八巻四号六七六頁)の示すとおりである。そして、刑法二〇〇条は、自己または配偶者の直系尊属を殺した者は死刑または無期懲役に処する旨を規定しており、被害者と加害者との間における特別な身分関係の存在に基づき、同法一九九条の定める普通殺人の所為と同じ類型の行為に対してその刑を加重した、いわゆる加重的身分犯の規定であつて(最高裁昭和三〇年(あ)第三二六三号同三一年五月二四日第一小法廷判決・刑集一〇巻五号七三四頁)、このように刑法一九九条のほかに同法二〇〇条をおくことは、憲法一四条一項の意味における差別的取扱いにあたるというべきである。そこで、刑法二〇〇条が憲法の右条項に違反するかどうかが問題となるのであるが、それは右のような差別的取扱いが合理的な根拠に基づくものであるかどうかによつて決せられるわけである。

 当裁判所は、昭和二五年一〇月以来、刑法二〇〇条が憲法一三条、一四条一項、二四条二項等に違反するという主張に対し、その然らざる旨の判断を示している。もつとも、最初に刑法二〇〇条が憲法一四条に違反しないと判示した大法廷判決(昭和二四年(れ)第二一〇五号同二五年一〇月二五日・刑集四巻一〇号二一二六頁)も、法定刑が厳に過ぎる憾みがないではない旨を括弧書において判示していたほか、情状特に憫諒すべきものがあつたと推測される事案において、合憲性に触れることなく別の理由で同条の適用を排除した事例も存しないわけではない(最高裁昭和二八年(あ)第一一二六号同三二年二月二〇日大法廷判決・刑集一一巻二号八二四頁、同三六年(あ)第二四八六号同三八年一二月二四日第三小法廷判決・刑集一七巻一二号二五三七頁)。また、現行刑法は、明治四〇年、大日本帝国憲法のもとで、第二三回帝国議会の協賛により制定されたものであつて、昭和二二年、日本国憲法のもとにおける第一回国会において、憲法の理念に適合するようにその一部が改正された際にも、刑法二〇〇条はその改正から除外され、以来今日まで同条に関し格別の立法上の措置は講ぜられていないのであるが、そもそも同条設置の思想的背景には、中国古法制に渕源しわが国の律令制度や徳川幕府の法制にも見られる尊属殺重罰の思想が存在すると解されるほか、特に同条が配偶者の尊属に対する罪をも包含している点は、日本国憲法により廃止された「家」の制度と深い関連を有していたものと認められるのである。さらに、諸外国の立法例を見るに、右の中国古法制のほかローマ古法制などにも親殺し厳罰の思想があつたもののごとくであるが、近代にいたつてかかる思想はしだいにその影をひそめ、尊属殺重罰の規定を当初から有しない国も少なくない。そして、かつて尊属殺重罰規定を有した諸国においても近時しだいにこれを廃止しまたは緩和しつつあり、また、単に尊属殺のみを重く罰することをせず、卑属、配偶者等の殺害とあわせて近親殺なる加重要件をもつ犯罪類型として規定する方策の講ぜられている例も少なからず見受けられる現状である。最近発表されたわが国における「改正刑法草案」にも、尊属殺重罰の規定はおかれていない。

 このような点にかんがみ、当裁判所は、所論刑法二〇〇条の憲法適合性につきあらためて検討することとし、まず同条の立法目的につき、これが憲法一四条一項の許容する合理性を有するか否かを判断すると、次のように考えられる。

 刑法二〇〇条の立法目的は、尊属を卑属またはその配偶者が殺害することをもつて一般に高度の社会的道義的非難に値するものとし、かかる所為を通常の殺人の場合より厳重に処罰し、もつて特に強くこれを禁圧しようとするにあるものと解される。ところで、およそ、親族は、婚姻と血縁とを主たる基盤とし、互いに自然的な敬愛と親密の情によつて結ばれていると同時に、その間おのずから長幼の別や責任の分担に伴う一定の秩序が存し、通常、卑属は父母、祖父母等の直系尊属により養育されて成人するのみならず、尊属は、社会的にも卑属の所為につき法律上、道義上の責任を負うのであつて、尊属に対する尊重報恩は、社会生活上の基本的道義というべく、このような自然的情愛ないし普遍的倫理の維持は、刑法上の保護に値するものといわなければならない。しかるに、自己または配偶者の直系尊属を殺害するがごとき行為はかかる結合の破壊であつて、それ自体人倫の大本に反し、かかる行為をあえてした者の背倫理性は特に重い非難に値するということができる

 このような点を考えれば、尊属の殺害は通常の殺人に比して一般に高度の社会的道義的非難を受けて然るべきであるとして、このことをその処罰に反映させても、あながち不合理であるとはいえない。そこで、被害者が尊属であることを犯情のひとつとして具体的事件の量刑上重視することは許されるものであるのみならず、さらに進んでこのことを類型化し、法律上、刑の加重要件とする規定を設けても、かかる差別的取扱いをもつてただちに合理的な根拠を欠くものと断ずることはできず、したがつてまた、憲法一四条一項に違反するということもできないものと解する。

 さて、右のとおり、普通殺のほかに尊属殺という特別の罪を設け、その刑を加重すること自体はただちに違憲であるとはいえないのであるが、しかしながら、刑罰加重の程度いかんによつては、かかる差別の合理性を否定すべき場合がないとはいえない。すなわち、加重の程度が極端であつて、前示のごとき立法目的達成の手段として甚だしく均衡を失し、これを正当化しうべき根拠を見出しえないときは、その差別は著しく不合理なものといわなければならず、かかる規定は憲法一四条一項に違反して無効であるとしなければならない

 この観点から刑法二〇〇条をみるに、同条の法定刑は死刑および無期懲役刑のみであり、普通殺人罪に関する同法一九九条の法定刑が、死刑、無期懲役刑のほか三年以上の有期懲役刑となつているのと比較して、刑種選択の範囲が極めて重い刑に限られていることは明らかである。もつとも、現行刑法にはいくつかの減軽規定が存し、これによつて法定刑を修正しうるのであるが、現行法上許される二回の減軽を加えても、尊属殺につき有罪とされた卑属に対して刑を言い渡すべきときには、処断刑の下限は懲役三年六月を下ることがなく、その結果として、いかに酌量すべき情状があろうとも法律上刑の執行を猶予することはできないのであり、普通殺の場合とは著しい対照をなすものといわなければならない。

 もとより、卑属が、責むべきところのない尊属を故なく殺害するがごときは厳重に処罰すべく、いささかも仮借すべきではないが、かかる場合でも普通殺人罪の規定の適用によつてその目的を達することは不可能ではない。その反面、尊属でありながら卑属に対して非道の行為に出で、ついには卑属をして尊属を殺害する事態に立ち至らしめる事例も見られ、かかる場合、卑属の行為は必ずしも現行法の定める尊属殺の重刑をもつて臨むほどの峻厳な非難には値しないものということができる。

 量刑の実状をみても、尊属殺の罪のみにより法定刑を科せられる事例はほとんどなく、その大部分が減軽を加えられており、なかでも現行法上許される二回の減軽を加えられる例が少なくないのみか、その処断刑の下限である懲役三年六月の刑の宣告される場合も決して稀ではない。このことは、卑属の背倫理性が必ずしも常に大であるとはいえないことを示すとともに、尊属殺の法定刑が極端に重きに失していることをも窺わせるものである。

 このようにみてくると、尊属殺の法定刑は、それが死刑または無期懲役刑に限られている点(現行刑法上、これは外患誘致罪を除いて最も重いものである。)においてあまりにも厳しいものというべく、上記のごとき立法目的、すなわち、尊属に対する敬愛や報恩という自然的情愛ないし普遍的倫理の維持尊重の観点のみをもつてしては、これにつき十分納得すべき説明がつきかねるところであり、合理的根拠に基づく差別的取扱いとして正当化することはとうていできない。

 以上のしだいで、刑法二〇〇条は、尊属殺の法定刑を死刑または無期懲役刑のみに限つている点において、その立法目的達成のため必要な限度を遥かに超え、普通殺に関する刑法一九九条の法定刑に比し著しく不合理な差別的取扱いをするものと認められ、憲法一四条一項に違反して無効であるとしなければならず、したがつて、尊属殺にも刑法一九九条を適用するのほかはない。この見解に反する当審従来の判例はこれを変更する

 

 

【裁判官岡原昌男の補足意見】

 一、本判決の多数意見は、刑法二〇〇条が普通殺のほかに尊属殺という特別の罪を設け、その刑を加重すること自体はただちに違憲とはいえないけれども、その加重の程度があまりにも厳しい点において同条は憲法一四条一項に違反するというのであるが、これに対し、(一)刑法二〇〇条が尊属殺という特別の罪を設けていることがそもそも違憲であるとする意見、および(二)刑法二〇〇条は、尊属殺という罪を設けている点においても、刑の加重の程度においても、なんら憲法一四条一項に違反するものではないとする反対意見も付されているので、わたくしは、多数意見に加わる者のひとりとして、これらの点につき若干の所信を述べておきたい。

 二、右(一)の見解は、要するに、刑法二〇〇条は、(1)親子のほか、夫婦、兄弟姉妹その他の親族の結合のうち、卑属の尊属に対する関係のみを取りあげている点、および(2)日本国憲法の基本理念に背馳する特異な身分制道徳の維持存続を目的とすると認められる点において、憲法一四条一項の許容する合理的差別を設けるものとはいえないとするのである。

 しかし、まず(1)についていえば、本件で当裁判所のなすべきことは、本件具体的争訟における憲法上の論点、すなわち現行の実定法たる刑法二〇〇条の合憲性についての判断であつて、親族間の殺人につきいかなる立法をすることがもつとも適切妥当であるかの考察ではない。多数意見は、このことを当然の前提とし、あえて同条の立法政策としての当否に触れることなく、同条の合憲性のみを検討したうえ、同条の設ける差別は、憲法上、それ自体としてまつたく正当化できないものとはいえないとするにとどめたのである。(1)の点を、実定法の合憲性が争われている本件憲法訴訟における判断の理由に加えることは適切でないものと考える。

 つぎに、(2)で説かれる諸点は、いずれも正当であり、わたくしも、刑法二〇〇条が、往時の「家」の制度におけるがごとき尊属卑属間の権威服従関係を極めて重視する思想を背景とし、これに基づく家族間の倫理および社会的秩序の維持存続をはかるものたる性格を有することを認めるにやぶさかでない。しかしながら、わたくしは、刑法二〇〇条のかかる性格は、尊属殺なる罪を設け、その刑を加重するところに示されているのではなく、その法定刑が極端に重い刑のみに限られている点に露呈されていると考えるのであり、多数意見が、尊属殺の法定刑は「尊属に対する敬愛や報恩という自然的情愛ないし普遍的倫理の維持尊重の観点のみをもつてしてはこれにつき十分納得すべき説明がつきかねる」としているのもまた同様の見地に立つて言外にこの理を示すものにほかならないと解する。換言すれば、(2)を論ずる各意見の趣旨にはいずれも賛同を惜しまないけれども、これをもつて刑法二〇〇条が尊属殺を設けること自体の違憲性の根拠とすることは当たらず、同条の法定刑の不合理性の根拠として取り扱うべきものと考えるのである。

 三、さらに、(二)の反対意見は、主として、刑法二〇〇条の法定刑は極端に重いものと解すべきか否かの点で多数意見と見解を異にするのであるが、その論述のうち、立法の沿革および裁判所の憲法判断のあり方等についての言及に関して一言したい。

 同意見の指摘する立法の沿革は歴史的事実として明らかなところである。また、国の立法権は国権の最高機関たる国会に属すること(憲法四一条)、および国会議員は憲法を尊重し擁護する義務を負う(憲法九九条)から、立法府たる国会は法律の制定にあたり憲法に適合するようその内容を定めているはずであり、旧憲法下において制定された法律中、今日まで改廃されていない規定についても、立法府は暗黙のうちにこれらが日本国憲法に適合すると判断しているものと考えて然るべきことも右意見が説くとおりである。そして、裁判所は、具体的争訟において特定の法規の合憲性が争われた場合に、これにつき審査をする権限を有するのであるが、当該法規の内容の当否が立法政策の当否の問題であるにとどまると認められるかぎり、かかる法規を違憲とすることが許されないこともちろんである。さらに法規の内容の当否が立法政策当否の範囲にとどまるか否かを判断するにあたつては、裁判所は前記のような憲法適合性についての立法府の判断を尊重することが三権分立制度の下における違憲立浅審査権行便のあり方として望ましいということができよう。

 しかし、ことがらによつては、憲法上の効力が争われる特定の法規の内容が、立法の沿革、運用の実情、社会の通念、諸国法制のすう勢その他諸般の状況にかんがみ、かなりの程度に問題を有し、その当否が必ずしも立法政策当否の範囲にとどまらないのではないかとの疑問を抱かせる場合がないとはいえない。さらにまた、たとえば刑法のように社会生活上の強行規範として価値観と密接な関係を有する基本法規にあつては、時代の進運、社会情勢の変化等に伴い、当初なんら問題がないと考えられた規定が現在においては憲法上の問題を包蔵するにいたつているのではないかと疑われることもありうるところである。このような場合、裁判所は、もはや前記謙抑の立場に終始することを許されず、憲法により付託されている違憲立法審査の権限を行使し、当該規定の憲法適合性に立ち入つて検討を加えるべく、その結果、もし当該規定の不合理性が憲法の特定の条項の許容する限度を超え、立法府の裁量の範囲を逸脱しているものと認めたならば、当該規定の違憲を宣明する責務を有するのである。

 本判決の多数意見が、刑法二〇〇条の合憲性に関する当裁判所の先例のほか、同条の立法の沿革、諸外国立法例、近時の立法傾向等に触れ、これらの点にかんがみ、同条の憲法適合性につきあらためて考察する旨を述べたのち、はじめて実質的な判断に入つているのは、右のような見地に立つて、専断恣意を排除しつつ慎重な検討が加えられたことを示すものにほかならない。また、多数意見が、同条を違憲とするにあたり、その法定刑につき「十分納得すべき説明がつきかねる」としているのは、説明できないゆえんを説明するの煩を避けたもので、ことがらの性質上やむをえないところであるのみならず、その言外に含蓄するところは前述のごとくであつて、その判断は十分な根拠を有するものと解すべく、決して軽々に違憲の判断がなされたものではないのである。

 反対意見が多数意見と結論を異にしたことは、立脚点の相違に基づき、やむをえないとしても、多数意見をもつて慎重を欠く判断であるかのごとくいう点には、必ずしも承服しがたいものがある。

社会的身分による差別(1) 社会的身分の意義

 目次

 

【社会的身分の意義】

【最大判昭和25年10月11日】

憲法一四条一項の解釈よりすれば、親子の関係は、同条項において差別待遇の理由としてかかぐる、社会的身分その他いずれの事由にも該当しない。

 

 

 

【最大判昭和39年5月27日】

要旨

町長が町条例に基づき、過員整理の目的で行なつた町職員に対する待命処分は、五五歳以上の高齢者であることを一応の基準としたうえ、その該当者につきさらに勤務成績等を考慮してなされたものであるときは、憲法第一四条第一項および地方公務員法第一三条に違反しない。

 

判旨

 思うに、憲法一四条一項及び地方公務員法一三条にいう社会的身分とは、人が社会において占める継続的な地位をいうものと解されるから、高令であるということは右の社会的身分に当らないとの原審の判断は相当と思われるが、右各法条は、国民に対し、法の下の平等を保障したものであり、右各法条に列挙された事由は例示的なものであつて、必ずしもそれに限るものではないと解するのが相当であるから、原判決が、高令であることは社会的身分に当らないとの一事により、たやすく上告人の前示主張を排斥したのは、必ずしも十分に意を尽したものとはいえない。しかし、右各法条は、国民に対し絶対的な平等を保障したものではなく、差別すべき合理的な理由なくして差別することを禁止している趣旨と解すべきであるから、事柄の性質に即応して合理的と認められる差別的取扱をすることは、なんら右各法条の否定するところではない。

 

 

【東京高決平成5年6月23日】

要旨

嫡出でない子の相続分を嫡出である子の相続分の二分の一とする民法九〇〇条四号ただし書の規定は憲法一四条一項に違反する。

 

判旨

 二 当裁判所の判断

1 当裁判所は、民法九〇〇条四号但書前段の規定は、憲法一四条一項の規定に違反し、無効であると解する。その理由は、次のとおりである。

 (一) 憲法一四条一項所定の「社会的身分」とは、出生によって決定される社会的な地位又は身分をいうと解されるところ、嫡出子か嫡出子でないかは、本人を懐胎した母が、本人の父と法律上の婚姻をしているかどうかによって決定される(民法七七二条)事柄であるから、子の立場から見れば、正に出生によって決定される社会的な地位又は身分ということができる。そうだとすると、民法九〇〇条四号但書前段の規定は、嫡出子と非嫡出子とを相続分において区別して取り扱うものであることが明らかであるから、憲法一四条一項にいう「社会的身分による経済的又は社会的関係における差別的取扱い」に当たるというべきである。

 そして、憲法一四条一項の法の下における平等の要請は、事柄の性質に即応した合理的な根拠に基づくものでないかぎり、差別的な取扱いをすることを禁止する趣旨と解すべきであるから、民法九〇〇条四号但書前段の規定による嫡出子と非嫡出子との間の差別的な取扱いが、はたして合理的な根拠に基づくものであるかどうかが問われることになる。

 (二) ところで、社会的身分を理由とする差別的取扱いは、個人の意思や努力によってはいかんともしがたい性質のものであり、個人の尊厳と人格価値の平等の原理を至上のものとした憲法の精神(憲法一三条、二四条二項)にかんがみると、当該規定の合理性の有無の審査に当たっては、立法の目的(右規定所定の差別的な取扱いの目的)が重要なものであること、及びその目的と規制手段との間に事実上の実質的関連性があることの二点が論証されなければならないと解される。 そこで、以下右の二点について検討を加える。

 (三) 立法の目的の重要性について

 民法九〇〇条四号但書前段の立法の目的は、正当な婚姻を奨励尊重することにあり、いいかえれば、適法な婚姻に基づく家族関係を保護することにあると説かれているが、ここで念頭に置かれているのは、いわゆる「妾の子」に対して「妻の子」の利益を保護することにより、結果的に法律婚を尊重しようという旧家族制度に由来する沿革的思想にほかならない。

 もっとも、右規定の立案に際しては、憲法の原則である個人の尊厳と平等の立場から問題が提起されたが、他方では、非嫡出子に相続権を与えること自体に対する反対論があり、正当の婚姻を重んずるという建前から旧民法の規定による差別的取扱いがいわば妥協の産物としてそのまま存置される形となった。そして、右のような賛否両論を踏まえて、民法の一部を改正する法律(昭和二二年法律第二二二号)が成立するに際しては、その審議の経緯にかんがみ、衆議院において、「本法は、可及的速やかに、将来において更に改正する必要があることを認める。」旨の附帯決議がなされた。

 その後、昭和五四年七月一七日付けで法務省民事局参事官室から公表された相続に関する民法改正要綱試案の二において、非嫡出子の相続分の平等化が図られたが、当時の世論調査の結果等にかんがみ、時期尚早としてこの部分の改正は見送られた経緯がある。なお、右試案と同時に公表された説明中には、非嫡出子の相続分の平等化を図る根拠として、次のとおり述べられている。

 「試案は、非嫡出子は、嫡出でないことについてみずから何の責任もないのに、現行法のように、その相続分を、親を同じくする嫡出子の二分の一として区別することは、法の下の平等の理念に照らし問題があること、及び両者の相続分を同等としても、配偶者の相続分には変わりがなく、法律婚主義と直接抵触するものでもないこと等の理由により、非嫡出子の相続分は、嫡出子の相続分と同等とするのが適当であるとする意見によったものである。」

 当裁判所は、適法な婚姻に基づく家族関係を保護するという立法の目的それ自体は、憲法二四条の趣旨に照らし、現今においてもなお、尊重されるべきであり、これが重要なものであることを肯定する。

 しかしながら、嫡出子と非嫡出子との相続分を同等としても、これにより配偶者の相続分はなんらの影響を受けるものではないし、仮りに、配偶者の側に実質的な不平等が生ずることがあるにしても、寄与分の制度を活用することにより是正可能であることが留意されるべきである(なお、生みの親の心情からしても、遺産の分配につき嫡出子と非嫡出子との間に分け隔てされることを当然とする者はいないのではないかと考えられるし、相続制度の対極にある父母に対する扶養の観点からしても、嫡出子も非嫡出子も双方平等に義務を負っていることが指摘され得る。)。

 もとより、適法な婚姻に基づく家族関係の保護が、尊重されるべき理念であることはいうまでもないが、他方で、非嫡出子の個人の尊厳も等しく保護されなければならないのであって、後者の犠牲の下で前者を保護するような立法は極力回避すべきであろう(因みに、本件記録によれば、抗告人は非嫡出子であるという理由だけで、これまで屡々他人から白眼視されただけでなく、本件の係争法条である民法九〇〇条四号但書前段を盾に相続関係人から極めて冷ややかな遇いを受けたことが認められる。そして、抗告人と同様の立場にある者の多くが、右と同じような仕打ちを受けていることは、半ば公知の事実でもあることからすれば、まさに、同法条は、結果的にしろ、非嫡出子に対する差別心を人々の心に生じさせ、かつ助長する役割を果しているともいえるのであり、このような現実は軽視されてよいとは決していえない。)。

 そして、この点に関する近時の諸外国における立法の動向を見ると、非嫡出子について権利の平等化を強く志向する傾向にあることが窺われ、さらに、国際連合による「市民的及び政治的権利に関する国際規約」二四条一項の規定の精神及び我が国において未だ批准していないものの、近々批准することが予定されている「児童の権利に関する条約」二条二項の精神等にかんがみれば、適法な婚姻に基づく家族関係の保護という理念と非嫡出子の個人の尊厳という理念は、その双方が両立する形で問題の解決が図られなければならないと考える。

 (四) 目的と規制手段との間の実質的関連性について

 民法九〇〇条四号但書前段の規制が非嫡出子の相続分を嫡出子のそれの二分の一とすることにより、すなわち、妻の子の利益を妾の子のそれよりも重視することにより、結果的に法律婚家族の利益が一定限度で保護されていること自体は、否定しがたい。その意味では、右の規制と立法目的との間には、一応の相関関係があるといえる。

 しかしながら、右の規制があるからといって、婚外子の出現を抑止することはほとんど期待できない上、非嫡出子から見れば、父母が適法な婚姻関係にあるかどうかはまったく偶然なことに過ぎず、自己の意思や努力によってはいかんともしがたい事由により不利益な取扱いを受ける結果となることが留意されるべきである。これは、たとえていえば、正に「親の因果が子に報い」式の仕打ちであり、人は自己の非行のみによって罰又は不利益を受けるという近代法の基本原則にも背反していることが見逃されてはならない。

 次に、民法九〇〇条四号但書前段の規制は、一律に非嫡出子の相続分を嫡出子のそれの二分の一としているから、たとえば、母が法律婚による嫡出子を儲けて離婚した後、再婚し、子を儲けた場合に、再婚が事実上の婚姻にすぎなかったときは、母の相続に関しても、嫡出子と非嫡出子とが差別される結果となり、同号但書前段が本来意図している法律婚家族の保護(その実質がいわゆる妾の子よりも妻の子を保護することにあることは前叙のとおりである)を越えてしまう結果を招来すること、このような場合には、いいかえれば、規制の範囲が立法の目的に対して広きにすぎることが指摘されなければならない。

 以上のとおり、民法九〇〇条四号但書前段の規制は、目的に対して広すぎるという意味で正確性に欠けるだけではなく、婚外子の出現を抑止することに関しほとんど無力であるという意味で、適法な婚姻に基づく家族関係の保護という立法目的を達成するうえで事実上の実質的関連性を有するといえるかどうかも、はなはだ疑わしいといわざるを得ないのである。

 (五) そうだとすると、民法九〇〇条四号但書前段の差別的取扱いは、必ずしも合理的な根拠に基づくものとはいい難いから、憲法一四条一項の規定に違反するものと判断せざるを得ない。

 2 以上の見地に立って原審判の当否を検討するに、原審判が相続人の相続分を算定するに当たり、民法九〇〇条四号但書前段の規定を適用したのは違法であるから、原審判中の該当部分を以下のとおり改める。

 

 

【最判昭和30年8月18日 業務上横領】

要旨

刑法二五三条の業務上他人の物を占有するということは、犯罪者の属性による刑法上の身分であるが、憲法一四条にいわゆる社会的身分と解することはできない。

 

判旨

刑法二五三条の業務上横領罪につき同二五二条の単純横領罪に比しその刑が加重されているのは業務上占有する他人の物を横領することが単純横領に比し反社会性が顕著で犯情が重いとされるからである。そして業務上他人の物を占有するということは、犯罪者の属性による刑法上の身分であるが、憲法一四条にいわゆる社会的身分と解することはできない。

 

 

【最大判昭和26年8月1日・常習賭博】

要旨

刑法一八六条の賭博常習者は、憲法一四条にいわゆる「社会的身分」ではない。

 

判旨

 刑法一八六条の常習賭博罪が同一八五条の単純賭博罪に比し、賭博常習者という身分によつて刑を加重していることは所論のとおりである。そして右加重の理由は賭博を反覆する習癖にあるのであつて、即ち常習賭博は単純賭博に比しその反社会性が顕著で、犯情が重いとされるからである。そして、賭博常習者というのは、賭博を反覆する習癖・即ち犯罪者の属性による刑法上の身分であるが、憲法一四条にいわゆる社会的身分と解することはできない。されば刑法一八六条の規定をもつて憲法一四条に違反するものであるとの論旨は到底これを採用することができない。

 

 

【最判昭和24年6月16日 傷害詐欺事件】

要旨

判決中に「被告人は土木請負業関根組の最高幹部であつた」と判示したからといって、それは本人の経歴を示したものにすぎず、直ちに被告人に対してその社会的身分または門地によって差別的取扱いをしたものと解することはできない。

 

判旨

「被告人は土木請負業関根組の最高幹部であつたが」の判示は単に被告人の経歴を示したに過ぎないもので、所論のようにこれを判決の前提又は背景としたものでないこと明白であるから、かような判示をしたからといつて、直に原判決が被告人に対してその身分門地によつて差別的取扱をしたとはいえない。

性別による差別(4)女性の再婚禁止期間・国籍法・入会権

 目次

【親族関係】

 

【広島高裁平成3年11月28日 女性の再婚禁止期間違憲訴訟】

要旨

女性に対してのみ再婚禁止期間を定めた民法733条は、憲法13条・14条1項・24条の規定の一義的な文言に違反するとまでいえず、民法733条の立法をし、これを廃止または改正しない国会議員の行為および同条を廃止または改正するための法律案を国会に提出しない内閣の行為に国家賠償法上の違法性はない。

 

判旨

2 民法七三三条の憲法適合性について

() 憲法一四条一項、二四条二項について

 憲法は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した家族関係を理想とし、婚姻及び家族に関する事項に関しては、法律は右の点に立脚して制定されなければならないとし(同法二四条二項)、民法は、これを承けて、一夫一婦制を定め、その上に立ちつつ、妻が婚姻中に懐胎した子は夫の子と推定し、また婚姻成立の日から二百日後又は婚姻の解消若しくは取消の日から三百日以内に生まれた子は婚姻中に懐胎したものと推定する(民法七七二条)ことによって、社会構成の基礎となる夫婦を中心とする家族関係を明確にし、これによって家庭生活の平穏を保護し、子の福祉を図っているところである。

 ところで、右法制の下においては、現に民法七三三条が採用しているような女が再婚する場合には一定の再婚禁止期間を設けるというような立法措置が併せて講じられない場合には、女が前婚の解消又は取消の日から三〇〇日以内で、かつ後婚成立の日から二〇〇日後に産んだ子については、嫡出の推定が重複することとなるところ、かかる父性の混同が生ずるような事態が法制上当然生ずることは、家族関係を不明確にし、国家、社会の基盤となる家庭を不安定ならしめる点から望ましくないばかりか、出生子の利益を損ない、後婚の家庭生活の平穏をも妨げることとなるから、父性の混同を防止し、女が再婚した場合における出生子の利益や後婚の家庭生活の平穏を保護するため、現に民法が採用しているような再婚禁止期間の制度その他の何らかの立法措置が必要であることはいうまでもない。

 そうして民法七三三条は「女は、前婚の解消又は取消の日から六箇月を経過した後でなければ、再婚をすることができない。」と定め、女子についてのみ再婚禁止期間を設けていて、再婚の要件について男女を区別しているところ、憲法一四条一項は、すべての人をすべての点について法上平等に取り扱うことまでを要求しているものではなく、個人的特性に基づく差異があるときは、その差異に応じた合理的な差別は許されるところであるとしても、同項は、特に人種・信条、社会的身分又は門地と並んで性別を掲げて、これにより政治的、経済的又は社会的関係において差別することを禁じていること、また、同法二四条二項はこれを受けて、前示のとおり、「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」ことを謳っているのであるから、女にのみ再婚禁止期間を設けてその婚姻の自由を制約することは、それが前示の父性の混同を防止し、出生子の利益や後婚の家庭生活の平穏を保護するという目的を達成するために必要やむを得ない手段でなければならず、そうでないにもかかわらず再婚禁止期間を設けた場合には、再婚に関して女子についてのみ不合理な差別を強いるものとして違憲の疑いが生じかねないところである。

() 憲法二四条一項について

 憲法二四条一項は「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」旨規定しているが、この規定が婚姻の要件として両性の合意以外の要件を定めることを一切禁止する趣旨であるとは解されず、現に民法では、婚姻は戸籍法の定めるところによってこれを届け出ることによって成立するものとされ(同法七三九条)、婚姻適齢が設けられ(同法七三一条)、未成年者の婚姻については父母の同意が要件とされ(同法七三七条)、重婚が禁止され(同法七三二条)、近親婚が禁止される(同法七三四条)などしているのであるから、女子について再婚禁止期間を設けることが直ちに憲法の右条項に違反するものではないことはいうまでもない。

() 憲法一三条について

 控訴人らは、民法七三三条が憲法一三条に違反するとも主張する。しかし、同条の規定は、個人の尊重を国政の基本とすることを宣明した規定にすぎないから、民法七三三条の規定が法の下の平等を定めた憲法一四条一項の規定には違反しないのに、同法一三条の規定には違反するという事態は到底想定できないところである。」

 

 

 

【最判平成7年12月5日 女性の再婚禁止期間違憲訴訟】

要旨

再婚禁止期間について男女間に差異を設ける民法733条は、合理的根拠に基づくもので、憲法14条1項に違反せず、同規定を改廃しない国会ないし国会議員の行為は、国家賠償法1条1項の適用上、違法の評価を受けるものではない。

 

判旨

 国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではなく、国会ないし国会議員の立法行為(立法の不作為を含む。)は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというように、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の適用上、違法の評価を受けるものでないことは、当裁判所の判例とするところである(最高裁昭和五三年(オ)第一二四〇号同六〇年一一月二一日第一小法廷判決・民集三九巻七号一五一二頁、最高裁昭和五八年(オ)第一三三七号同六二年六月二六日第二小法廷判決・裁判集民事一五一号一四七頁)。

 これを本件についてみると、上告人らは、再婚禁止期間について男女間に差異を設ける民法七三三条が憲法一四条一項の一義的な文言に違反すると主張するが、合理的な根拠に基づいて各人の法的取扱いに区別を設けることは憲法一四条一項に違反するものではなく、民法七三三条の元来の立法趣旨が、父性の推定の重複を回避し、父子関係をめぐる紛争の発生を未然に防ぐことにあると解される以上、国会が民法七三三条を改廃しないことが直ちに前示の例外的な場合に当たると解する余地のないことが明らかである。したがって、同条についての国会議員の立法行為は、国家賠償法一条一項の適用上、違法の評価を受けるものではないというべきである。

 そして、立法について固有の権限を有する国会ないし国会議員の立法行為が違法とされない以上、国会に対して法律案の提出権を有するにとどまる内閣の法律案不提出等の行為についても、これを国家賠償法一条一項の適用上違法とする余地はないといわなければならない。

 

 

 

【国籍法関係】

・父系女系優先主義

【東京地判昭和56年3月30日】

国民の要件 父系優先血統主義について・東京地判昭和56年3月30日
国民の要件 父系優先血統主義について(2)・東京地判昭和56年3月30日(続)

 

 

【最判平成14年11月22日】

要旨

国籍法2条1号が、子が日本人の父から出生後に認知されたことにより出生時にさかのぼって法律上の父子関係が存在するものとは認めず、出生後の認知だけでは日本国籍の生来的な取得を認めないものとしていることには、合理的根拠があり、憲法14条1項に違反しない。

 

判旨

 2 憲法一〇条は、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」と規定している。これは、国籍は国家の構成員の資格であり、元来、何人が自国の国籍を有する国民であるかを決定することは、国家の固有の権限に属するものであり、国籍の得喪に関する要件をどのように定めるかは、それぞれの国の歴史的事情、伝統、環境等の要因によって左右されるところが大きいところから、日本国籍の得喪に関する要件をどのように定めるかを法律にゆだねる趣旨であると解される。このようにして定められた国籍の得喪に関する法律要件における区別が、憲法一四条一項に違反するかどうかは、その区別が合理的な根拠に基づくものということができるかどうかによって判断すべきである。なぜなら、この規定は、法の下の平等を定めているが、絶対的平等を保障したものではなく、合理的理由のない差別を禁止する趣旨のものであって、法的取扱いにおける区別が合理的な根拠に基づくものである限り、何らこの規定に違反するものではないからである(最高裁昭和三七年(オ)第一四七二号同三九年五月二七日大法廷判決・民集一八巻四号六七六頁、最高裁平成三年(ク)第一四三号同七年七月五日大法廷決定・民集四九巻七号一七八九頁)。

 3 法二条一号は、日本国籍の生来的な取得についていわゆる父母両系血統主義を採用したものであるが、単なる人間の生物学的出自を示す血統を絶対視するものではなく、子の出生時に日本人の父又は母と法律上の親子関係があることをもって我が国と密接な関係があるとして国籍を付与しようとするものである。そして、生来的な国籍の取得はできる限り子の出生時に確定的に決定されることが望ましいところ、出生後に認知されるか否かは出生の時点では未確定であるから、法二条一号が、子が日本人の父から出生後に認知されたことにより出生時にさかのぼって法律上の父子関係が存在するものとは認めず、出生後の認知だけでは日本国籍の生来的な取得を認めないものとしていることには、合理的根拠があるというべきである。

 以上によれば、法二条一号は憲法一四条一項に違反するものではない。

 

 

【最大判平成20年6月4日】

国籍法3条1項の合憲性(1) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決
国籍法3条1項の合憲性(2) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官泉徳治の補足意見・裁判官今井功の補足意見
国籍法3条1項の合憲性(3) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官田原睦夫の補足意見・裁判官近藤崇晴の補足意見
国籍法3条1項の合憲性(4) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官藤田宙靖の意見
国籍法3条1項の合憲性(5) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官横尾和子,同津野修,同古田佑紀の反対意見
国籍法3条1項の合憲性(6) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官甲斐中辰夫,同堀籠幸男の反対意見

 

【入会権】

【最判平成18年3月17日】

要旨

1 A入会部落の慣習に基づく入会集団の会則のうち入会権者の資格要件を一家の代表者としての世帯主に限定する部分は,現在においても,公序良俗に反するものということはできない。

2 A入会部落の慣習に基づく入会集団の会則のうち,入会権者の資格を原則として男子孫に限定し,同入会部落の部落民以外の男性と婚姻した女子孫は離婚して旧姓に復しない限り入会権者の資格を認めないとする部分は,遅くとも平成4年以降においては,性別のみによる不合理な差別として民法90条の規定により無効である。

 

判旨

入会権は、一般に、一定の地域の住民が一定の山林原野等において共同して雑草、まぐさ、薪炭用雑木等の採取をする慣習上の権利であり(民法263条、294条)、この権利は、権利者である入会部落の構成員全員の総有に属し、個々の構成員は、共有におけるような持分権を有するものではなく(最高裁昭和34年()第650号同41年11月25日第二小法廷判決・民集20巻9号1921頁、最高裁平成3年()第1724号同6年5月31日第三小法廷判決・民集48巻4号1065頁参照)、入会権そのものの管理処分については入会部落の一員として参与し得る資格を有するのみである(最高裁昭和51年()第424号同57年7月1日第一小法廷判決・民集36巻6号891頁参照)。他方、入会権の内容である使用収益を行う権能は、入会部落内で定められた規律に従わなければならないという拘束を受けるものの、構成員各自が単独で行使することができる(前掲第一小法廷判決参照)。このような入会権の内容、性質等や、原審も説示するとおり、本件入会地の入会権が家の代表ないし世帯主としての部落民に帰属する権利として当該入会権者からその後継者に承継されてきたという歴史的沿革を有するものであることなどにかんがみると、各世帯の構成員の人数にかかわらず各世帯の代表者にのみ入会権者の地位を認めるという慣習は、入会団体の団体としての統制の維持という点からも、入会権行使における各世帯間の平等という点からも、不合理ということはできず、現在においても、本件慣習のうち、世帯主要件を公序良俗に反するものということはできない。

 しかしながら、本件慣習のうち、男子孫要件は、専ら女子であることのみを理由として女子を男子と差別したものというべきであり、遅くとも本件で補償金の請求がされている平成4年以降においては、性別のみによる不合理な差別として民法90条の規定により無効であると解するのが相当である。その理由は、次のとおりである。

 男子孫要件は、世帯主要件とは異なり、入会団体の団体としての統制の維持という点からも、入会権の行使における各世帯間の平等という点からも、何ら合理性を有しない。このことは、A部落民会の会則においては、会員資格は男子孫に限定されていなかったことや、被上告人と同様に杣山について入会権を有する他の入会団体では会員資格を男子孫に限定していないものもあることからも明らかである。被上告人においては、上記1(4)エ、オのとおり、女子の入会権者の資格について一定の配慮をしているが、これによって男子孫要件による女子孫に対する差別が合理性を有するものになったということはできない。そして、男女の本質的平等を定める日本国憲法の基本的理念に照らし、入会権を別異に取り扱うべき合理的理由を見いだすことはできないから、原審が上記3(3)において説示する本件入会地の入会権の歴史的沿革等の事情を考慮しても、男子孫要件による女子孫に対する差別を正当化することはできない。

 性別による差別(3)・京都地裁平成22年5月27日


 目次

 

【京都地裁平成22年5月27日】

要旨

労働者災害補償保険法による障害補償給付の支給に関する処分が,障害等級表(労働者災害補償保険法施行規則別表第1)の憲法14条1項に違反する部分に基づいてされたことを理由に,違法であるとして取り消された事例


判旨

(1) 本件における憲法判断の対象等

前記第2の1(4)エのように,障害等級表は,外ぼうの著しい醜状障害については女性を第7級,男性を第12級と,外ぼうの醜状障害については女性を第12級,男性を第14級としており,男女に等級の差を設けている。もっとも,労働省労働基準局長通達である認定基準(乙3)によって,男性のほとんど顔面全域にわたる瘢痕で人に嫌悪の感を抱かせる程度のものについては,第7級の12を準用することとされており,これは,同じ省内での判断として,厚生労働省令における障害等級表の定めを補完し,障害等級表と一体となって,その内容に従った運用をもたらすものといえるから,上記の認定基準によって,上記の程度の外ぼうの醜状障害についての障害補償給付に関しては,男女の差はないといえる。

したがって,本件では,厚生労働大臣が,障害等級表において,ほとんど顔面全域にわたる瘢痕で人に嫌悪の感を抱かせる程度に達しない外ぼうの醜状障害について,男女に差を設け,差別的取扱いをしていること(以下,「本件差別的取扱い」という。)が,憲法判断の対象となる。

(2) 本件における合憲性の判断基準等

ア憲法14条1項

憲法14条1項は,法の下の平等を定めた規定であり,事柄の性質に即応した合理的な根拠に基づくものでない限り,差別的な取扱いをすることを禁止する趣旨と解される(最高裁判所昭和39年5月27日大法廷判決・民集18巻4号676頁,最高裁判所昭和48年4月4日大法廷判決・刑集27巻3号265頁参照)。

イ障害等級表の策定に関する裁量と憲法14条1項

法は,障害補償給付について,厚生労働省令で定める障害等級に応じて支給する旨を規定しているから(法15条1項),障害等級表の策定については厚生労働省令の定め(規則の定め)にゆだねられており,厚生労働大臣には,障害等級表の策定についての裁量権が与えられているが,上記アの憲法14条1項の趣旨に照らせば,そのような裁量権を考慮してもなお当該差別的取扱いに合理的根拠が認められなかったり,合理的な程度を超えた差別的取扱いがされているなど,当該差別的取扱いが裁量判断の限界を超えている場合には,合理的理由のない差別として,同項に違反するものと解される。

ウ障害補償給付についての裁量権の範囲

次に,厚生労働大臣の裁量の範囲に関し,法による障害補償給付の性質について検討する。

そもそも,労働者災害補償は,安全配慮義務違反を根拠に使用者に損害賠償を求める場合と異なり,使用者の帰責事由を要せず,被災労働者の過失にかかわらず,また,個別の損害の立証を要せず,定型的,定率的な損害のてん補がされるという性質を有する。もとより,被災労働者は,安全配慮義務違反の要件を立証して使用者に民事上の請求をすることも可能である。

このような性質から考えると,被災者にどの程度の損失をてん補するかは,その時々の労働環境や労働市場等の動向などの経済的・社会的条件,国の財政事情等の不確定要素を総合考量した上での専門的技術的考察及びそれに基づいた政策的判断を要するという面がある。とりわけ,障害等級表の策定については,解剖学的,生理学的観点から労働能力の喪失の程度を分類し,格付けを行う必要があり,複雑多様な高度の専門的技術的考察が必要であるといえる。そうすると,障害補償給付を受ける権利への制約に関する厚生労働大臣の裁量は,表現行為や経済活動などの人権への制約場面に比し,比較的広範であると解される。

エ判断基準と立証責任

以上によれば,本件においては,障害等級表の策定に関する厚生労働大臣の比較的広範な裁量権の存在を前提に,本件差別的取扱いについて,その策定理由に合理的根拠があり,かつ,その差別が策定理由との関連で著しく不合理なものではなく,厚生労働大臣に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えていないと認められる場合には合憲であるということができる。

他方,行政処分の取消訴訟において,処分の適法性を立証する責任は,基本的に,処分をした行政庁の側にあると解され,本件では,被告が本件処分の適法性を立証しなければならないところ,本件処分が本件差別的取扱いを内容とする障害等級表の定めに基づいてされていることは明らかであるから,本件処分の適法性の前提として,本件差別的取扱いが憲法に違反しないことが必要であり,したがって,被告は,本件差別的取扱いの合憲性について立証しなければならないものと解される。

よって,以下(3)では,この立証責任の配分に従い,基本的には,本件差別的取扱いの合憲性に関する被告の主張の当否を検討していくこととする。

(3) 被告の主張の検討

被告は,外ぼうの醜状障害が第三者に対して与える嫌悪感,障害を負った本人が受ける精神的苦痛,これらによる就労機会の制約の程度について,男性に比べ女性の方が大きいという事実的・実質的な差異があり,これが本件差別的取扱いの合理的根拠となる旨主張し,上記差異の根拠として,以下の点を挙げているので,これらについて検討する。

ア労働力調査についての主張

() 被告の主張の概要

被告は,労働力調査における産業別女性比率や産業別雇用者数によると(乙6,7),女性の就労実態として,接客等の応接を要する職種への従事割合が男性に比して高いといえる旨主張している。

() 産業と職業の相違について

しかし,上記の産業別女性比率や産業別雇用者数における「産業」とは,調査期間中に就業者が実際に仕事をしていた勤め先・業主の主な事業の種類を日本標準産業分類に基づいて分類したものであり(甲13の2),労働力調査において当該就業者が実際にしていた仕事の種類であるとされる「職業」とは異なるものである。

したがって,上記のような産業別女性比率や産業別雇用者数から,女性の職種,ひいては女性の就労実態を直ちには導き出せないし,接客等の応接を要する職種に女性が多く従事していることも導き出せないと解される。例えば,被告の挙げる「医療・福祉」について,当該産業に従事する者の中に,接客を要することのない一般事務に従事する者も一定の割合で存在すると考えられること,「教育,学習支援業」について,産業別女性比率は51.7%であるが(乙7),その中に含まれると考えられる職業としての「教員」及び「個人教師(学習指導)」についての雇用者数の女性比率は48.1%で(乙14),男女比率がほぼ逆転していることなどからも,産業別の数値が職業の実態に必ずしもつながらないことを示しているといえる。なお,被告は,事業の種類からでも接客等の応接を要することが多い従業員の割合の大小などをおおむね把握できるなどとも主張しているが,何ら具体的な根拠が示されておらず,上記の判断は左右されない。

() 産業別雇用者数の関係

被告は,産業別雇用者数に関し,サービス業全体についての女性の雇用者数の増加が男性より大きく,これが接客等の応接を要する職業に女性が多く従事していることの根拠となる旨主張しているが,労働力調査におけるサービス業全体の中には,「サービス業(他に分類されないもの)」として,専門サービス業としての土木建築サービス業,学術・開発研究機関,廃棄物処理業,自動車整備業,機械等修理業などが含まれている(甲13の1)。したがって,上記()のようにそもそも産業別の数値から職業の実態を直ちに導き出せないことをひとまずおき,被告の主張に沿って考えたとしてもなお,サービス業全体についての女性の雇用者数の増加が男性よりも多いことが,接客等の応接を要する職種に女性が男性より多く従事していることの根拠となるとはいえない。

イ国勢調査についての主張

() 被告の主張の概要等

被告は,国勢調査における職業小分類別の雇用者数のデータを整理した別紙(被告指定代理人作成の乙14)を分析すると,女性の就労実態として,接客等の応接を要する職種への従事割合が男性に比して高いといえる旨主張している。

確かに,被告の主張するとおり,「保健医療従事者」及び「社会福祉専門職業従事者」に占める女性の割合は81.5%,「飲食店主」及び「接客・給仕職業従事者」に占める女性の割合は69.5%であり,男性よりも女性の方が多い。他方,被告も認めるとおり,被告が接客等の応接を要する職業として主張する産業である「教育,学習支援業」及び「卸売・小売業」について,被告がこれら産業に該当する職業として別紙で整理した職業(前者について「教員」及び「個人教師(学習指導)」,後者について「小売店主」,「卸売店主」,「販売店員」,「商品訪問・移動販売従事者」,「再生資源卸売・回収従事者」,「商品販売外交員」及び「商品仲立人」)における女性の割合は,それぞれ,48.1%,41.9%であり,男性よりも低くなっている。また,被告の主張する接客等の応接を要すると考えられる職業小分類について,女性雇用者数が総雇用者数に占める割合は別紙のとおり56.7%(「自動車運転者」を加えると51.3%),同職業小分類の雇用者数が男女の各雇用者総数に占める割合は別紙のとおり女性が38.5%,男性が22.6%(「自動車運転者」を加えると女性38.8%,男性28.2%)である。

() 分析

まず,本件差別的取扱いの合理性を根拠付けるべき男女の職業に関する差異というのは,外ぼうの醜状障害によって生じる第三者の嫌悪感及び障害を受けた本人の精神的苦痛により就労機会が制約され,損失てん補が必要であると一般的にいえるような職業についての差異である必要がある。

そうすると,被告の主張する「接客等の応接を要する職業」のみならず,本人の精神的苦痛による就労機会の制約の面からは,多くの不特定の他人と接する,あるいはそのような不特定の他人の目に触れる機会の多い職業も含めて考えるのが相当である。

別紙に記載されているその他の職業でも,少なくとも,「法務従事者」,「経営専門職業従事者」,「音楽家,舞台芸術家」,「販売類似職業従事者」(不動産仲介・売買人,保険代理人・外交員,外交員(商品,保険,不動産を除く)など),「生活衛生サービス職業従事者」(理容師(助手を含む),美容師(助手を含む),浴場従事者,クリーニング職,洗張職)は,上記の職業に含めて考えるべきであるし,「その他のサービス職業従事者」,「保安職業従事者」の中にも,上記の職業に含まれるものがあると考えられる。

そこで,被告の主張する「接客等の応接を要する職業」に,上記の「法務従事者」,「経営専門職業従事者」,「音楽家,舞台芸術家」,「販売類似職業従事者」,「生活衛生サービス職業従事者」を加えた職業に従事する女性と男性の数(別紙記載のもの)を合計すると,女性は695万1000人,男性は593万5100人で,女性雇用者数が総雇用者数に占める割合は53.9%,同職業小分類の雇用者数が男女の各雇用者総数に占める割合は女性が33.5%,男性が22.0%である。

さらに,これに「その他のサービス職業従事者」,「保安職業従事者」を加えた職業に従事する女性と男性の数(別紙記載のもの)を合計すると,女性は778万8200人,男性は716万2100人で,女性雇用者数が総雇用者数に占める割合は52.1%,同職業小分類の雇用者数が男女の各雇用者総数に占める割合は女性が37.6%,男性が26.5%である。

() 検討

以上のように,国勢調査の結果を分析すると,外ぼうの醜状障害により損失てん補が必要であると一般的にいえるような職業について,女性雇用者数が総雇用者数に占める割合も,同職業小分類の雇用者数が男女の各雇用者総数に占める各割合も,男性に比べ女性の方が大きいということができるが,採用する職業小分類に応じてその差の程度は区々であるということができる。そうすると,国勢調査の結果は,事実的・実質的な差異の根拠になり得るとはいえるものの,その根拠としては顕著なものであるともいい難いところである。

ウ精神的苦痛自体の差異についての主張

被告は,化粧品の売上げや広告費に関する統計から,女性が男性に比して自己の外ぼう等に高い関心を持つ傾向があることが窺われ,外ぼう等に関する関心が高い者の方が醜状の及ぼす精神的苦痛の程度が大きいと考えられるから,外ぼうの醜状障害による精神的苦痛の程度について男女の間に明らかな差異があると主張している。

確かに,証拠(乙15~17)を検討するまでもなく,皮膚用化粧品や仕上用化粧品の需要が男性に比して圧倒的に女性に多いこと,女性用の化粧品やファッション,アクセサリーについてのマスコミにおける広告費が大きな数を占めていることは明らかであり,近年男性の自己の外ぼうに対する関心が高まってきているとの証拠(甲17~38)があることを考慮しても,なお,一般的に,女性の自己の外ぼうに対する関心が男性に比して高いということができる。そうすると,外ぼうの醜状障害による精神的苦痛の程度について,男女の間に差異があるとの社会通念があることに結びつくとはいえるし,当裁判所の認識もこれを否定するものではない。他方,外ぼうへの関心が低い人でも,男性であっても,実際に外ぼうに醜状障害を受けた場合に大きな精神的苦痛を感じることもあり得ると考えられる。実際に,原告が,外ぼうの醜状障害によって大きな精神的苦痛を感じていることも,同人の陳述書(甲40)及び本人尋問の結果等から明らかである。

したがって,外ぼうへの関心の有無・程度や男女の性別が,外ぼうの醜状障害による精神的苦痛の程度と強い相関関係に立っているとまではいえない。

エ裁判例に関する主張

被告は,外ぼうの醜状障害に関する逸失利益等が問題となった交通事故に関する裁判例により,外ぼうの醜状障害により受ける影響について男女間に事実的・実質的な差異があるという社会通念の存在が根拠付けられている旨主張している。

確かに,被告の指摘する裁判例(乙8~12)において,外ぼうの醜状障害により受ける影響について男女間に差異があることを前提とするような記述が見受けられるが,その記述自体の合理的根拠は必ずしも明らかではなく,これらの記述が,上記のような差異に関する社会通念の存在の強い根拠となるものとはいえない。

オまとめ

以上のとおり,国勢調査の結果は,外ぼうの醜状障害が第三者に対して与える嫌悪感,障害を負った本人が受ける精神的苦痛,これらによる就労機会の制約,ひいてはそれに基づく損失てん補の必要性について,男性に比べ女性の方が大きいという事実的・実質的な差異につき,顕著ではないものの根拠になり得るといえるものである。また,外ぼうの醜状障害により受ける影響について男女間に事実的・実質的な差異があるという社会通念があるといえなくはない。そうすると,本件差別的取扱いについて,その策定理由に根拠がないとはいえない。

しかし,本件差別的取扱いの程度は,男女の性別によって著しい外ぼうの醜状障害について5級の差があり,給付については,女性であれば1年につき給付基礎日額の131日分の障害補償年金が支給されるのに対し,男性では給付基礎日額の156日分の障害補償一時金しか支給されないという差がある。これに関連して,障害等級表では,年齢,職種,利き腕,知識,経験等の職業能力的条件について,障害の程度を決定する要素となっていないところ(認定基準。乙3),性別というものが上記の職業能力的条件と質的に大きく異なるものとはいい難く,現に,外ぼうの点以外では,両側の睾丸を失ったもの(第7級の13)以外には性別による差が定められていない。そうすると,著しい外ぼうの醜状障害についてだけ,男女の性別によって上記のように大きな差が設けられていることの不合理さは著しいものというほかない。また,そもそも統計的数値に基づく就労実態の差異のみで男女の差別的取扱いの合理性を十分に説明しきれるか自体根拠が弱いところであるうえ,前記社会通念の根拠も必ずしも明確ではないものである。その他,本件全証拠や弁論の全趣旨を省みても,上記の大きな差をいささかでも合理的に説明できる根拠は見当たらず,結局,本件差別的取扱いの程度については,上記策定理由との関連で著しく不合理なものであるといわざるを得ない。

(4) 小括

以上によれば,本件では,本件差別的取扱いの合憲性,すなわち,差別的取扱いの程度の合理性,厚生労働大臣の裁量権行使の合理性は,立証されていないから,前記(2)ウのように裁量権の範囲が比較的広範であることを前提としても,なお,障害等級表の本件差別的取扱いを定める部分は,合理的理由なく性別による差別的取扱いをするものとして,憲法14条1項に違反するものと判断せざるを得ない。

そして,本件処分は,上記の憲法14条1項に違反する障害等級表の部分を前提に,これに従ってされたものである以上,原告の主張する条約違反の点(前記第2の2(1)(原告の主張)エ)を検討するまでもなく,本件処分は原則として違法であるといわざるを得ない。

結論

以上のとおり,本件処分は障害等級表の憲法14条1項に違反する部分に基づいてされたもので,違法である。したがって,本件処分は取り消されるべきであり,原告の請求は理由があるから,主文のとおり判決する。

性別による差別(2)最判昭和56年3月24日・日産自動車事件・東京地判昭和41年12月20日・住友セメント事件

 

 目次

 

【労働関係】

 

【最判昭和56年3月24日・日産自動車事件】

要旨

定年年齢を一律に男子60歳女子55歳と定めた就業規則は性別のみによる不合理な差別を定めたものであり民法90条により無効である。

 

判旨

上告会社の就業規則は男子の定年年齢を六〇歳、女子の定年年齢を五五歳と規定しているところ、右の男女別定年制に合理性があるか否かにつき、原審は、上告会社における女子従業員の担当職種、男女従業員の勤続年数、高齢女子労働者の労働能力、定年制の一般的現状等諸般の事情を検討したうえ、上告会社においては、女子従業員の担当職務は相当広範囲にわたつていて、従業員の努力と上告会社の活用策いかんによつては貢献度を上げうる職種が数多く含まれており、女子従業員各個人の能力等の評価を離れて、その全体を上告会社に対する貢献度の上がらない従業員と断定する根拠はないこと、しかも、女子従業員について労働の質量が向上しないのに実質賃金が上昇するという不均衡が生じていると認めるべき根拠はないこと、少なくとも六〇歳前後までは、男女とも通常の職務であれば企業経営上要求される職務遂行能力に欠けるところはなく、各個人の労働能力の差異に応じた取扱がされるのは格別、一律に従業員として不適格とみて企業外へ排除するまでの理由はないことなど、上告会社の企業経営上の観点から定年年齢において女子を差別しなければならない合理的理由は認められない旨認定判断したものであり、右認定判断は、原判決挙示の証拠関係及びその説示に照らし、正当として是認することができる。そうすると、原審の確定した事実関係のもとにおいて、上告会社の就業規則中女子の定年年齢を男子より低く定めた部分は、専ら女子であることのみを理由として差別したことに帰着するものであり、性別のみによる不合理な差別を定めたものとして民法九〇条の規定により無効であると解するのが相当である(憲法一四条一項、民法一条ノ二参照)。

 

 

【東京地判昭和41年12月20日・住友セメント事件】

要旨

私企業における結婚退職制は、性別による差別であり、公の秩序に違反し無効である。

 

判旨

1 (性別による差別待遇)結婚退職制によると、結婚は男子労働者の解雇事由でなく、女子労働者のみの解雇事由であるから、右は労働条件につき性別による差別待遇をしたことに帰着する。

2 (結婚の自由の制限)結婚退職制によれば、女子労働者は雇傭関係継続中結婚しない旨を約したことに帰着するのであり、換言すれば、結婚に際しなお雇傭関係の継続を望んでいる女子労働者に対しても使用者からその終了を求め得るのである。右は女子労働者の結婚の自由を制限するものというべきである。その理由は次のとおりである。

結婚後も主婦として活動するだけではなく、なお賃金労働者として職場にとどまり労働を継続する意思を有する女子労働者が多く存することは顕著な事実である。統計をみると、成立に争のない乙第七号証の二(労働省婦人少年局発行「婦人労働の実情。一九六二年」三八、三九頁)によれば、女子労働者の中に占める有夫者の割合は逐年上昇し昭和三七年において二一・七%を占め、なお昭和三六年一月から昭和三七年九月までの単純平均によれば非農林業就業者中雇傭者であつて配偶者のある女子は二一九万人に及ぶことが明らかである。かように多数の既婚女子労働者がなおその労働を継続する主たる理由が、自己の才能を生かし社会人としての経験を積み社会に貢献するにあると、生活費を得るにあるとを問わず、その労働を継続しようとする意思は尊重されるべきである。

我国の現状にあつては、男子労働者の労働賃金のみによつてその妻子等の通常の生活の資をまかなえないことが屡々あるから、この場合この男子労働者と結婚した女子労働者はなお労働を継続する経済的必要がある。女子労働者はこの場合結婚退職制により解雇されても直ちに生活の資を求めて再就職せざるを得ない。ところが、前示乙第七号証の二(五八頁から六三頁まで)によると、既婚、したがつて学校新卒者に比し高年である女子労働者の就職の機会は狭められる一方、賃金額の決定についても、当該企業における勤続期間が重要な要素をなす年功賃金制の下では、仮に再就職の機会が得られたとしても、その労働条件は従前に比し著しく低下することが明らかである。したがつて、女子労働者は結婚に際しこの事実を予想すべきものといわなければならない。以上のような次第で女子労働者は結婚退職制の下では、結婚によりその意に反して労働賃金収入を全部失うか又は運がよくてもその相当部分を失うものである。かくして、結婚を退職事由と定めることは、女子労働者に対し結婚するか、又は自己の才能を生かしつつ社会に貢献し生活の資を確保するために従前の職に止まるかの選択を迫る結果に帰着し、かかる精神的、経済的理由により配偶者の選択、結婚の時期等につき結婚の自由を著しく制約するものと断ずべきである。近年若年労働力の需給関係が変化し全国的にみて求人数が求職数を大幅に上廻り、中学、高校新卒の女子もその例に洩れないことは顕著な事実である。しかし、この事実から推してかかる女子は結婚退職制を採用する企業とそうでない企業とを選択する自由があるとして前示結論を左右することはできない。すなわち、若年女子の労働力の需給関係は、地域及び企業により差があり、求職者はその意思に関係なく適性その他の精神的肉体的諸条件、住宅・家庭事情等により、求職の範囲を自ら制限されるのである。また、成立に争のない乙第六号証の二(労働省婦人少年局発行「女子事務職員実態調査報告・一九六一年五月」二六頁)によれぱ、女子の結婚退職規定を有する事業所は総数の八%(内訳・製造業は七・三%、金融保険業は二〇・二%)に及ぶことが明らかである。かような要因を考えるとき、女子求職者が前示のような選択の自由を有するとは到底いえない。また使用者が女子労働者の雇入に際し結婚退職制を明示した場合もこの結論を左右しない。

(二) 公の秩序

1 (性別による差別待遇の禁止)両性の本質的平等を実現すべく、国家と国民との関係のみならず、国民相互の関係においても性別を理由とする合理性なき差別待遇を禁止すろことは、法の根本原理である。憲法一四条は国家と国民との関係において、民法一条の二は国民相互の関係においてこれを直接明示する。労基法三条は国籍、信条又は社会的身分を理由とする差別を禁止し、同法四条は性別を理由とする賃金の差別を禁止する。ところで、労基法上性別を理由として賃金以外の労働条件の差別を禁止する規定はなく、却つて、同法一九条、六一条ないし六八条等は女子の保護のため男子と異なる労働条件を定めている。したがつて、労基法は性別を理由とする労働条件の合理的差別を許容する一方、前示の根本原理に鑑み、性別を理由とする合理性を欠く差別を禁止するものと解せられる。以上述べたことから明らかなとおり、この禁止は労働法の公の秩序を構成し、労働条件に関する性別を理由とする合理性を欠く差別待遇を定める労働協約、就業規則、労働契約は、いずれも民法九〇条に違反しその効力を生じないというべきである。

2(結婚の自由の保障)家庭は、国家社会の重要な一単位であり、法秩序の重要な一部である。適時に適当な配遇者を選択し家庭を建設し、正義衡平に従つた労働条件のもとに労働しつつ人たるに値する家族生活を維持発展させることは人間の幸福の一つである。かような法秩序の形成並びに幸福追求を妨げる政治的経済的社会的要因のうち合理性を欠くものを除去することも、また法の根本原理であつて、憲法一三条、二四条、二五条、二七条はこれを示す。したがつて、配偶者の選択に関する自由、結婚の時期に関する自由等結婚の自由は重要な法秩序の形成に関連しかつ基本的人権の一つとして尊重されるべく、これを合理的理由なく制限することは、国民相互の法律関係にあつても、法律上禁止されるものと解すべきである。以上の理由により、この禁止は公の秩序を構成し、これに反する労働協約、就業規則、労働契約はいずれも民法九○条に違反し効力を生じないというべきである。

 

 

 

【仙台高裁平成4年1月10日】

要旨

共働きの女子職員の夫に扶養控除対象限度額を超える所得のある場合家族手当等を支給しない旨の給与規定が無効とされた事例

 

判旨

六 本件手当等が労基法一一条の賃金であることは右のとおりであるから、これらは同法四条による直接規制を受けるものといわなければならない。

 労基法四条は、憲法一四条一項の理念に基づきこれを私企業等の労使関係における賃金について具体的に規律具現した条文であり、かつまたこれに違反したときは労基法一一九条一号による刑事罰の対象となるなど、いずれにしても、明らかに強行規定であり、公序に関する規定であると解される。したがって、一般的に、労基法四条に違反する就業規則及びこれによる労働契約の賃金条項は民法九〇条(一条ノ二)により無効であるといわなければならない。

  控訴人銀行は本件規程三六条二項本文後段を根拠にして、男子行員に対しては、妻に収入(所得税法上の扶養控除対象限度額を超える所得)があっても、本件手当等を支給してきたが、被控訴人のような共働きの女子行員に対しては、生計維持者であるかどうかにかかわらず、実際に子を扶養するなどしていても夫に収入(右限度額を超える所得)があると本件手当等の支給をしていないというのだから、このような取扱いは男女の性別のみによる賃金の差別扱いであると認めざるを得ない。

 控訴人銀行は本件規程三六条二項本文後段及びこれによる本件手当等対象者認定上の取扱いは社会通念に則った規定であり、社会的許容性の範囲内にあるから、民法九〇条の公序良俗に反するものではない旨その合理性を主張する。

 社会通念、社会的許容性とか公序良俗という概念は、もともと不確定概念で、宗教、民族の違いなどのほか、国内でも時(代)と地域(都市、地方など)により認識や理解に相違のあることは否定できない。しかしながら、これら概念は不確定なるが故に発展的動態において捉えねばならない。そうでないと、旧態は旧態のままで社会の進歩発展は望み得ないことになるからである。それは私的自治の支配する私企業の労使関係における賃金等労働条件を規律する法的基準としても同様である。そして、たとえ控訴人銀行の本店のある岩手県盛岡市をはじめ東北地方の平均的住民の観念が、本件規程三六条二項本文後段の定めまたはその趣旨を、その制定当時、さらにはその以前から現在に至るも当り前のこととして容認し、これに依拠した取扱いを許容しているとしても、日本国憲法一四条一項(法の下の平等)は、性別により政治的、経済的または社会的関係において差別されない旨定め、男女不二たるべく、男女平等の理念を示している。労基法四条男女同一賃金の原則は右憲法の理念に基づく具体的規律規定である。そして、それは理念ではあっても達成可能な理念であるから、この理念達成という趣旨に悖るような観念は、「社会通念」「社会的許容性」「公の秩序善良の風俗」として、前記規程条項及びこれによる取扱いの法的評価の基準とすることはできないものといわなければならない。

  したがって、本件規程三六条二項本文後段の取扱いをめぐり、これまで労使間で異議が挟まれることもなく過ごされて来たし、労働基準監督署などからも違法の指摘を受けることなく過ぎてきたとしても、同条項本文後段による右のような取扱いを、社会通念に則り、社会的許容性の範囲内であり、公序良俗に反しないなどという訳にはいかない。また、同条項本文後段の規定が自治省の「住民基本台帳事務処理要領」及び「世帯主の認定基準」で示された「夫が不具廃疾等のため無収入で妻が主として世帯の生計を維持している場合は、妻が世帯主」であるとする事例に比較して妻が世帯主である場合を「夫に収入があっても所得税法上の扶養控除対象限度額以下であれば妻が世帯主である」というまでに緩和しているから、社会通念に合致し、社会的許容限度内であるなどとも結論づけられない。夫婦のどちらが生計維持者であるかを具体的に認定するとなると、家庭のプライバシーにわたることに立ち入って調査しなければならなくなるため、予め画一的に規定しておく必要があるといっても、これまた、調査対象行員において、右認定に必要な程度の家庭内情況の開示を拒絶するものとはとうてい思案できないし、また必要な限度ならばやむを得ないことでもある。

  その他本件規程三六条二項本文後段の規定及びこれによる本件手当等の男女差別扱いをして、合理性があるとするような特別の事情も見当たらないので、結局右条項及びこれによる控訴人銀行と被控訴人間の労働契約の本件手当等の給付関係条項は強行規定である労基法四条に違反し、民法九〇条(一条ノ二)により無効であるといわなければならない。

 

 

性別による差別(1)刑事法関係

 

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【刑事法関係】

【最判昭和28年6月24日・刑法177条】

要旨

強姦罪を定めた刑法一七七条は、憲法一四条一項に違反しない。

 

判旨

 刑法一七七条は、「暴行又ハ脅迫ヲ以テ十三歳以上ノ婦女ヲ姦淫シタル者ハ強姦ノ罪ト為シ二年以上ノ有期懲役ニ処ス十三歳ニ満タサル婦女ヲ姦淫シタル者亦同シ」と規定し、強姦罪の成立には刑法上その客体を婦女のみに限つていること並びに憲法一四条一項は、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と規定していることは、所論のとおりである。しかし、右憲法一四条一項の規定が、国民を政治的、経済的又は社会的関係において原則として平等に取り扱うべきことを規定したのは、基本的権利義務に関し国民の地位を主体の立場から観念したもので、国民がその関係する各個の法律関係においてそれぞれの対象の差に従い異る取扱を受けることまで禁ずる趣旨を包含するものでないこと、並びに、国民の各人には経済的、社会的その他種々な事実的差異が現存するのであるから、一般法規の制定又はその適用においてその事実的差異から生ずる不均等があることは免れ難いところであり、従つて、その不均等が一般社会観念上合理的な根拠のある場合には平等の原則に違反するものといえないことは、夙に当法廷の判例とするところである。(前者につき判例集四巻一〇号二〇四〇頁後者につき同巻六号九六一頁参照)。

 そして、刑法が前記規定を設けたのは、男女両性の体質、構造、機能などの生理的、肉体的等の事実的差異に基き且つ実際上強姦が男性により行われることを普通とする事態に鑑み、社会的、道徳的見地から被害者たる「婦女」を特に保護せんがためであつて、これがため「婦女」に対し法律上の特権を与え又は犯罪主体を男性に限定し男性たるの故を以て刑法上男性を不利益に待遇せんとしたものでないことはいうまでもないところであり、しかも、かゝる事実的差異に基く婦女のみの不均等な保護が一般社会的、道徳的観念上合理的なものであることも多言を要しないところである。されば、刑法一七七条の規定は、憲法一四条に反するものとはいえない。それ故、本論旨も採用できない。

 

【最判昭和32年6月8日・尼崎市売春等取締条例事件】

要旨

尼崎市売春取締条例(昭和二七年条例四号)三条は、報酬を受け、もしくは受ける約束で性交またはこれと類似の行為をするものを処罰するのであり、女性のみを処罰の対象とするものではないから、憲法一四条に違反しない。

 

判旨

所論尼崎市売春等取締条例三条は、「売春をした者は五、〇〇〇円以下の罰金又は拘留に処する(一項)、常習として売春をした者は三月以下の懲役又は五、〇〇〇円以下の罰金に処する(二項)」と規定しているのであるが、この売春の意義に関し、同二条は「この条例で売春とは報酬を受け若しくは受ける約束で不特定の相手方と性交又は性交類似行為をすることをいう」と規定しているのであつて、この所罰の対象となるものは必ずしも女性のみに限らないこと原判示のとおりであるから、女性のみを処罰の対象とするが故に同条が憲法一四条に違反するとの論旨は、ひつきょう右条例二条の趣旨を正解せざるにもとずくものと云わなければならない。

 また同条例には、売春行為の相手方となるものを処罰する規定を欠くことは所論のとおりであるけれども、右条例三条は、「報酬を受け若しくは受ける約束で」性交又はこれと類似の行為をするものを処罰するのであり、(この行為者に関するかぎり男女を差別しないことは前述のとおりである)すなわち「報酬を受け若しくは受ける約束で」ということは同条による処罰要件であつて、対価を払つて、その相手方となるものとはもとより、行為の態様を異にすることであり、かかる要件の有無によつて一方を処罰し、他方を処罰しないとするのも、一に刑事政策上の理由にもとずくものに過ぎず、所論のように、男尊女卑の思想に出でて、性別の故に、かかる区別をしたものでないことはきわめて、明瞭である。所論違憲の主張は、所詮その前提を欠くものというの外なく論旨は刑訴四〇五条の上告理由に当らない。

 

【最判昭和37年12月18日・買収防止法】

要旨

売春防止法5条は、女性のみを処罰の対象とするものでないから、憲法14条に違反しない。

 

判旨

 所論は、売春防止法五条は女性のみを対象として売春の予備的行為を処罰するものであつて、両性の本質的平等に反する規定であり、憲法一四条に違反する旨主張するが、売春防止法五条は女性のみを処罰の対象とするものではないから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、適法な上告理由に当らない。

2 信条による差別


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【最判昭和30年11月22日レッドパージ事件】

要旨

連合軍占領下における紡績会社の共産党員である従業員の解雇が、その従業員の企業の生産を阻害すべき具体的言動を根拠とするものであつて、解雇当時の事情の下でこれを単なる抽象的危虞に基づく解雇として非難することができないものと認められる場合には、このような解雇を共産党員であることもしくは単に共産主義を信奉すること自体を理由とするものということはできないから、憲法一四条違反の問題とはなりえない。

 

判旨

本件解雇は、上告人等が共産党員若しくはその同調者であること自体を理由として行われたものではなく、右解雇は、原判決摘示のような上告人等の具体的言動をもつて、被上告人会社の生産を現実に阻害し若しくはその危険を生ぜしめる行為であるとし、しかも、労働協約の定めにも違反する行為であるとして、これを理由になされたものである、というのである。そして、原審の認定するような本件解雇当時の事情の下では、被上告会社が上告人等の右言動を現実的な企業破壊的活動と目して、これを解雇の理由としたとしても、これをもつて何等具体的根拠に基かない単なる抽象的危虞に基く解雇として強いて非難し得ないものといわねばならない。してみると、右解雇は、もはや、上告人等が共産党員であること若しくは上告人等が単に共産主義を信奉するということ自体を理由として行われたものではないというべきであるから、本件解雇については、憲法一四条、基準法三条違反の問題はおこり得ない。右と同趣旨に出た原判決は正当であり、論旨は、右解雇が具体的現実的根拠を伴わない抽象的な危虞に基く解雇であることを前提とするものであつて、採用の限りでない。

 

 

【大阪地裁昭和44年12月26日・日中旅行者事件】

要旨

憲法一四条にいう信条は、政治的信条を含むものであるが、それは政治的基本信念にとどまらず国の具体的な政治の方向についての実践的な志向を有する政治的意見をも含む。

 

判旨

(一)そもそも信条は主として宗教的な信仰ないし信念を意味するものであるが、そのほかにも社会ないし世界に関する根本的な考え方、見方即ち世界観または人生観といわれるような信念をも含むものである。民主主義は個人の尊厳をその根本原理とするものであるから、その根本的な考え方、見方はそれが宗教的信仰に基づくものであると否とを問わずそれをどこまでも尊重すべきものとしそれを理由とする差別的取扱を不合理とみるのである。しかし信条についてはそれ以上に出て政治的意見即ち個々の具体的な政治問題についての意見ないし主張をも含むものと解すべきではない。各人は政治的な信念の自由を有し、また政治的意見の自由を有するが、政治的意見は人生観や世界観と違つて常に国の具体的な政治の方向について実践的な志向を有するものである。したがつて特定の政治的立場をとる憲法体制はその政治的立場そのものを破壊しようとする政治的意見を持つ者に対しては自らの存立を防衛するために多かれ少なかれ差別的取扱をする必要に迫られることがある。その場合にそうした政治的意見を信条に含まれると解し、それによる差別的取扱が全面的に禁止されると解することは、憲法そのものを暴力で破壊しようとする意見を主張する者を国の統治組織から排除することさえできなくなるのであつて、これは憲法の自殺を要求することにほかならず、極めて不条理である。そして憲法一四条の直接適用を受ける公務員関係を律する国家公務員法二七条および地方公務員法一三条によると、そこでは信条と政治的意見とを区別し、信条についてはその差別的取扱を全面的に禁止するが、政治的意見については原則として差別的取扱を禁止し、ただ憲法またはその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体を結成し、またはこれに加入した者については官職につく能力がないものとして例外的に差別的取扱を認めているのであつて、このことは信条の中には政治的意見は含まれず、したがつて政治的意見による差別も合理的理由がある限り許されるものとする立法者の態度を明らかにするものであり、右態度は憲法一四条に適合し是認されるべきである。これを要するに憲法一四条にいう信条とは専ら宗教的倫理的ないしは政治的な基本的信念を指すものであつて政治的意見はそれに含まれないと解すべきであり、したがつて合理的な理由がある限り政治的意見による差別は憲法上許される。そして右差別はこれを禁止すべきであるか、またどのような方法と程度において禁止するかはすべて立法に委ねられているものと解すべきである。

(二) 労基法三条は憲法一四条の定める法の下の平等の原理を私人間の関係としての労働関係に適用したものであるから、特別な理由のない限り、そこに規定された信条は憲法一四条所定の信条と同一であり、原則として政治的意見を含まないと解すべきである。そしてその理由は前記国家公務員法および地方公務員法(以下、両公務員法という。)の場合よりも一層強いものである。それは、まず両公務員法においては前記のとおり例外を認めながらも原則としては政治的意見による差別的取扱を禁ずる旨を定めているが労基法には政治的意見による差別的取扱を禁ずる旨の規定がないこと、そして私人間の関係である労働関係においては労働者の政治的意見の自由が尊重されるべきであるのと同じく使用者の政治的意見の自由も尊重されなければならず、ここでは労働者の政治的意見の自由と使用者のそれとが矛盾衝突する場合を生ずるが、私人間の雇用関係は契約に基づく結合であるから、労働者と使用者との間にそうした矛盾衝突を生じた場合には一方を尊重して他方を否定することによつてではなく、双方を等しく尊重することによつて、即ちこの場合についていえば解雇の方法を以て双方を隔離することにより解決するほかはないこと等によつて明らかである。したがつて憲法一四条の直接適用を受ける公務員関係を律する両公務員法にいう信条に政治的意見が含まれないとすれば、一層強い理由を以て私人間の関係を律する労基法三条所定の信条には政治的意見を含まないと解すベきである。そうだとすると仮に使用者が労働者の政治的意見を理由として差別的取扱をしたとしても、それだけでは直ちに労基法三条に違反するものではなく、そして右にいう差別的取扱に解雇を含むものとすれば、政治的意見による解雇もそれだけで直ちに同条の違反になるとは限らない。

(三) 思想、良心および表現の自由が認められ、かつ営業の自由が認められる以上、特定のイデオロギーの承認、支持を存立の条件とする事業を営む自由も当然に認められる。これらの事業にあつては、それぞれのイデオロギーが存立の条件であるから、その存立を保持するためには、右イデオロギーを否定し破壊しようとする者をその事業から排除することが必要となる場合がある。たとえば、特定の宗教的イデオロギーの宣布をその目的とする事業がその宗教的イデオロギーを否定する者即ち異端者または宗教否定論者をその事業から排除し、平和主義の宣伝を目的とする事業が戦争主張者ないし軍国主義者をその事業から排除し、出産調節による人口問題の解決を目的とする事業が出産調節反対者をその事業から排除したりする場合がこれに当る。これらの場合右排除が信条による差別的取扱として一般に禁止されるとすると、これらの事業の存立そのものが否定されることになり、それらの事業を営むこと自体許されないという結果になるのであるが、このような解釈は憲法の精神の適合しない。これらの場合の排除は信条によるものではなく、その実践的、具体的発現としての宗教的非宗教的な意見によるもので、右意見は信条に含まれないとみるベきである。事業の存立が特定の政治的イデオロギーである場合もこれと同一に考えるベきである。各人が政治的意見の自由を有する以上、特定の政治的イデオロギーの承認、支持を存立の条件とする事業を営むことも自由であり、右事業においてその存立の条件とされる政治的イデオロギーを否定ないし破壊し、これによつて事業の存立そのものを著しく妨害しようとする者を、そうした政治的意見を理由として、その事業から排除することは常に必ずしも労基法三条に違反するものではなく、仮にこれが違反するとすれば同条はそのような事業の存立そのものを許さない趣旨と解するほかはないが、このような解釈が不合理であることは明白である。右排除が解雇という方法をとつたとしても同様である。同条は信条による解雇を禁じているが、このことは常に必ずしも政治的意見による解雇を禁じているものではない。これを要するに特定の政治的イデオロギーの承認、支持を存立のための不可欠な条件とする事業にあつては、このような政治的意見による解雇が合理的な理由を持つと解される場合が多い。

(四) これを本件についてみると、申請人らおよび会社の日中友好に関する態度はいずれも個々の具体的な政治問題についての意見ないしは主張で優れて実践的な志向を有するものであるから前記意味における政治的意見というベく、しかも会社はその政治的意見を存立の条件としているものであるから、右条件と相容れない政治的意見を特つ申請人らを解雇することは憲法一四条、労基法三条に違反するものではなく、かつ十分に合理的根拠があるものということができる。

 

 

【最判昭和48年12月12日・三菱樹脂事件】

要旨

憲法一四条や一九条の規定は、直接私人相互間の関係に適用されるものではないから、企業者が特定の思想・信条を有する労働者をその故をもつて雇入れることを拒んでも、それを当然に違法とすることはできず、労働者を雇入れようとする企業者が、その採否決定に当り、労働者の思想・信条を調査し、そのためその者からこれに関連する事項についての申告を求めることは、違法とはいえない。

 

判旨

(一)…憲法の右各規定は、同法第三章のその他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的に出たもので、もつぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない。このことは、基本的人権なる観念の成立および発展の歴史的沿革に徴し、かつ、憲法における基本権規定の形式、内容にかんがみても明らかである。のみならず、これらの規定の定める個人の自由や平等は、国や公共団体の統治行動に対する関係においてこそ、侵されることのない権利として保障されるべき性質のものであるけれども、私人間の関係においては、各人の有する自由と平等の権利自体が具体的場合に相互に矛盾、対立する可能性があり、このような場合におけるその対立の調整は、近代自由社会においては、原則として私的自治に委ねられ、ただ、一方の他方に対する侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を超える場合にのみ、法がこれに介入しその間の調整をはかるという建前がとられているのであつて、この点において国または公共団体と個人との関係の場合とはおのずから別個の観点からの考慮を必要とし、後者についての憲法上の基本権保障規定をそのまま私人相互間の関係についても適用ないしは類推適用すべきものとすることは、決して当をえた解釈ということはできないのである。

 () もつとも、私人間の関係においても、相互の社会的力関係の相違から、一方が他方に優越し、事実上後者が前者の意思に服従せざるをえない場合があり、このような場合に私的自治の名の下に優位者の支配力を無制限に認めるときは、劣位者の自由や平等を著しく侵害または制限することとなるおそれがあることは否み難いが、そのためにこのような場合に限り憲法の基本権保障規定の適用ないしは類推適用を認めるべきであるとする見解もまた、採用することはできない。何となれば、右のような事実上の支配関係なるものは、その支配力の態様、程度、規模等においてさまざまであり、どのような場合にこれを国または公共団体の支配と同視すべきかの判定が困難であるばかりでなく、一方が権力の法的独占の上に立つて行なわれるものであるのに対し、他方はこのような裏付けないしは基礎を欠く単なる社会的事実としての力の優劣の関係にすぎず、その間に画然たる性質上の区別が存するからである。すなわち、私的支配関係においては、個人の基本的な自由や平等に対する具体的な侵害またはそのおそれがあり、その態様、程度が社会的に許容しうる限度を超えるときは、これに対する立法措置によつてその是正を図ることが可能であるし、また、場合によつては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によつて、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存するのである。そしてこの場合、個人の基本的な自由や平等を極めて重要な法益として尊重すべきことは当然であるが、これを絶対視することも許されず、統治行動の場合と同一の基準や観念によつてこれを律することができないことは、論をまたないところである。

 () ところで、憲法は、思想、信条の自由や法の下の平等を保障すると同時に、他方、二二条、二九条等において、財産権の行使、営業その他広く経済活動の自由をも基本的人権として保障している。それゆえ、企業者は、かような経済活動の一環としてする契約締結の自由を有し、自己の営業のために労働者を雇傭するにあたり、いかなる者を雇い入れるか、いかなる条件でこれを雇うかについて、法律その他による特別の制限がない限り、原則として自由にこれを決定することができるのであつて、企業者が特定の思想、信条を有する者をそのゆえをもつて雇い入れることを拒んでも、それを当然に違法とすることはできないのである。憲法一四条の規定が私人のこのような行為を直接禁止するものでないことは前記のとおりであり、また、労働基準法三条は労働者の信条によつて賃金その他の労働条件につき差別することを禁じているが、これは、雇入れ後における労働条件についての制限であつて、雇入れそのものを制約する規定ではない。また、思想、信条を理由とする雇入れの拒否を直ちに民法上の不法行為とすることができないことは明らかであり、その他これを公序良俗違反と解すべき根拠も見出すことはできない。

 右のように、企業者が雇傭の自由を有し、思想、信条を理由として雇入れを拒んでもこれを目して違法とすることができない以上、企業者が、労働者の採否決定にあたり、労働者の思想、信条を調査し、そのためその者からこれに関連する事項についての申告を求めることも、これを法律上禁止された違法行為とすべき理由はない。もとより、企業者は、一般的には個々の労働者に対して社会的に優越した地位にあるから、企業者のこの種の行為が労働者の思想、信条の自由に対して影響を与える可能性がないとはいえないが、法律に別段の定めがない限り、右は企業者の法的に許された行為と解すべきである。また、企業者において、その雇傭する労働者が当該企業の中でその円滑な運営の妨げとなるような行動、態度に出るおそれのある者でないかどうかに大きな関心を抱き、そのために採否決定に先立つてその者の性向、思想等の調査を行なうことは、企業における雇傭関係が、単なる物理的労働力の提供の関係を超えて、一種の継続的な人間関係として相互信頼を要請するところが少なくなく、わが国におけるようにいわゆる終身雇傭制が行なわれている社会では一層そうであることにかんがみるときは、企業活動としての合理性を欠くものということはできない。のみならず、本件において問題とされている上告人の調査が、前記のように、被上告人の思想、信条そのものについてではなく、直接には被上告人の過去の行動についてされたものであり、ただその行動が被上告人の思想、信条となんらかの関係があることを否定できないような性質のものであるというにとどまるとすれば、なおさらこのような調査を目して違法とすることはできないのである。

 右の次第で、原判決が、上告人において、被上告人の採用のための調査にあたり、その思想、信条に関係のある事項について被上告人から申告を求めたことは法律上許されない違法な行為であるとしたのは、法令の解釈、適用を誤つたものといわなければならない。

 人種による差別(3) 最判平成17年1月26日・最判平成16年11月29日・札幌地裁平成14年11月11日

  目次

【最判平成17年1月26日・外国人公務員東京都管理職選考受験訴訟上告審判決】

要旨

普通地方公共団体が、原則として日本国籍保有者の就任を想定する「公権力行使等地方公務員」の職と、これに昇任するに必要な職務経験を積むために経るべき職とを包含する一体的な管理職の任用制度を構築したうえで、日本国民たる職員に限り管理職に昇任できるとする措置を執ることは、合理的な理由に基づいて日本国民たる職員と在留外国人たる職員とを区別するもので、労働基準法3条にも憲法14条1項にも違反しない。

 

判旨

 (1) 地方公務員法は、一般職の地方公務員(以下「職員」という。)に本邦に在留する外国人(以下「在留外国人」という。)を任命することができるかどうかについて明文の規定を置いていないが(同法19条1項参照)、普通地方公共団体が、法による制限の下で、条例、人事委員会規則等の定めるところにより職員に在留外国人を任命することを禁止するものではない。普通地方公共団体は、職員に採用した在留外国人について、国籍を理由として、給与、勤務時間その他の勤務条件につき差別的取扱いをしてはならないものとされており(労働基準法3条、112条、地方公務員法58条3項)、地方公務員法24条6項に基づく給与に関する条例で定められる昇格(給料表の上位の職務の級への変更)等も上記の勤務条件に含まれるものというべきである。しかし、上記の定めは、普通地方公共団体が職員に採用した在留外国人の処遇につき合理的な理由に基づいて日本国民と異なる取扱いをすることまで許されないとするものではない。また、そのような取扱いは、合理的な理由に基づくものである限り、憲法14条1項に違反するものでもない。

 管理職への昇任は、昇格等を伴うのが通例であるから、在留外国人を職員に採用するに当たって管理職への昇任を前提としない条件の下でのみ就任を認めることとする場合には、そのように取り扱うことにつき合理的な理由が存在することが必要である。

 (2) 地方公務員のうち、住民の権利義務を直接形成し、その範囲を確定するなどの公権力の行使に当たる行為を行い、若しくは普通地方公共団体の重要な施策に関する決定を行い、又はこれらに参画することを職務とするもの(以下「公権力行使等地方公務員」という。)については、次のように解するのが相当である。すなわち、公権力行使等地方公務員の職務の遂行は、住民の権利義務や法的地位の内容を定め、あるいはこれらに事実上大きな影響を及ぼすなど、住民の生活に直接間接に重大なかかわりを有するものである。それゆえ、国民主権の原理に基づき、国及び普通地方公共団体による統治の在り方については日本国の統治者としての国民が最終的な責任を負うべきものであること(憲法1条、15条1項参照)に照らし、原則として日本の国籍を有する者が公権力行使等地方公務員に就任することが想定されているとみるべきであり、我が国以外の国家に帰属し、その国家との間でその国民としての権利義務を有する外国人が公権力行使等地方公務員に就任することは、本来我が国の法体系の想定するところではないものというべきである。

 そして、普通地方公共団体が、公務員制度を構築するに当たって、公権力行使等地方公務員の職とこれに昇任するのに必要な職務経験を積むために経るべき職とを包含する一体的な管理職の任用制度を構築して人事の適正な運用を図ることも、その判断により行うことができるものというべきである。そうすると、普通地方公共団体が上記のような管理職の任用制度を構築した上で、日本国民である職員に限って管理職に昇任することができることとする措置を執ることは、合理的な理由に基づいて日本国民である職員と在留外国人である職員とを区別するものであり、上記の措置は、労働基準法3条にも、憲法14条1項にも違反するものではないと解するのが相当である。そして、この理は、前記の特別永住者についても異なるものではない。

 (3) これを本件についてみると、前記事実関係等によれば、昭和63年4月に上告人に保健婦として採用された被上告人は、東京都人事委員会の実施する平成6年度及び同7年度の管理職選考(選考種別Aの技術系の選考区分医化学)を受験しようとしたが、東京都人事委員会が上記各年度の管理職選考において日本の国籍を有しない者には受験資格を認めていなかったため、いずれも受験することができなかったというのである。そして、当時、上告人においては、管理職に昇任した職員に終始特定の職種の職務内容だけを担当させるという任用管理を行っておらず、管理職に昇任すれば、いずれは公権力行使等地方公務員に就任することのあることが当然の前提とされていたということができるから、上告人は、公権力行使等地方公務員の職に当たる管理職のほか、これに関連する職を包含する一体的な管理職の任用制度を設けているということができる。

 そうすると、上告人において、上記の管理職の任用制度を適正に運営するために必要があると判断して、職員が管理職に昇任するための資格要件として当該職員が日本の国籍を有する職員であることを定めたとしても、合理的な理由に基づいて日本の国籍を有する職員と在留外国人である職員とを区別するものであり、上記の措置は、労働基準法3条にも、憲法14条1項にも違反するものではない。

 

 

【最判平成16年11月29日・アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件】

要旨

財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定の締結後、旧日本軍の軍人軍属又はその遺族であったが日本国との平和条約により日本国籍を喪失した大韓民国に在住する韓国人に対して、何らかの措置を講ずることなく、戦傷病者戦没者遺族等援護法附則2項、恩給法9条1項3号の各規定を存置したことは、憲法14条1項に違反しない。

 

判旨

財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(昭和40年条約第27号)の締結後、旧日本軍の軍人軍属又はその遺族であったが日本国との平和条約により日本国籍を喪失した大韓民国に在住する韓国人に対して何らかの措置を講ずることなく戦傷病者戦没者遺族等援護法附則2項、恩給法9条1項3号の各規定を存置したことが憲法14条1項に違反するということができないことは、当裁判所の大法廷判決(最高裁昭和37年(オ)第1472号同39年5月27日大法廷判決・民集18巻4号676頁、最高裁昭和37年(あ)第927号同39年11月18日大法廷判決・刑集18巻9号579頁等)の趣旨に徴して明らかである(最高裁平成10年(行ツ)第313号同13年4月5日第一小法廷判決・裁判集民事202号1頁、前掲平成13年11月16日第二小法廷判決、最高裁平成12年(行ツ)第191号同14年7月18日第一小法廷判決・裁判集民事206号833頁参照)。

 

 

【札幌地裁平成14年11月11日・小樽市外国人入浴拒否事件】

要旨

憲法14条1項、国際人権B規約及びあらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約は、私法の諸規定の解釈の基準となりうるところ、私人が経営する公衆浴場が外国人一律入浴拒否の方法で行った本件入浴拒否は、不合理な差別であり社会的に許容しうる限度を超えているから違法であり不法行為に当たる。

 

判旨

  (1) 原告らは、被告Aによる本件入浴拒否は、憲法14条1項、国際人権B規約26条、人種差別撤廃条約5条(f)、6条及び公衆浴場法に反して違法である旨主張する。しかし、憲法14条1項は、公権力と個人との間の関係を規律するものであって、原告らと被告Aとの間のような私人相互の間の関係を直接規律するものではないというべきであり、実質的に考えても、同条項を私人間に直接適用すれば、私的自治の原則から本来自由な決定が許容される私的な生活領域を不当に狭めてしまう結果となる。また、国際人権B規約及び人種差別撤廃条約は、国内法としての効力を有するとしても、その規定内容からして、憲法と同様に、公権力と個人との間の関係を規律し、又は、国家の国際責任を規定するものであって、私人相互の間の関係を直接規律するものではない。そして、公衆浴場法は、公衆衛生を保持するために公衆浴場の配置基準を定め、公衆浴場業の営業を許可制とするものであって、本件入浴拒否のような、公衆浴場の公衆衛生の保持とは直接関係のない行為についての適法性を判断する根拠とはなりえない。したがって、原告らの上記主張は採用することができない。

  (2) 私人相互の関係については、上記のとおり、憲法14条1項、国際人権B規約、人種差別撤廃条約等が直接適用されることはないけれども、私人の行為によって他の私人の基本的な自由や平等が具体的に侵害され又はそのおそれがあり、かつ、それが社会的に許容しうる限度を超えていると評価されるときは、私的自治に対する一般的制限規定である民法1条、90条や不法行為に関する諸規定等により、私人による個人の基本的な自由や平等に対する侵害を無効ないし違法として私人の利益を保護すべきである。そして、憲法14条1項、国際人権B規約及び人種差別撤廃条約は、前記のような私法の諸規定の解釈にあたっての基準の一つとなりうる

  これを本件入浴拒否についてみると、本件入浴拒否は、Oの入口には外国人の入浴を拒否する旨の張り紙が掲示されていたことからして、国籍による区別のようにもみえるが、外見上国籍の区別ができない場合もあることや、第2入浴拒否においては、日本国籍を取得した原告Jが拒否されていることからすれば、実質的には、日本国籍の有無という国籍による区別ではなく、外見が外国人にみえるという、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づく区別、制限であると認められ、憲法14条1項、国際人権B規約26条、人種差別撤廃条約の趣旨に照らし、私人間においても撤廃されるべき人種差別にあたるというべきである。

  ところで、被告Aには、Oに関して、財産権の保障に基づく営業の自由が認められている。しかし、Oは、公衆浴場法による北海道知事の許可を受けて経営されている公衆浴場であり、公衆衛生の維持向上に資するものであって、公共性を有するものといえる。そして、その利用者は、相応の料金の負担により、家庭の浴室にはない快適さを伴った入浴をし、清潔さを維持することができるのであり、公衆浴場である限り、希望する者は、国籍、人種を問わず、その利用が認められるべきである。もっとも、公衆浴場といえども、他の利用者に迷惑をかける利用者に対しては、利用を拒否し、退場を求めることが許されるのは当然である。したがって、被告Aは、入浴マナーに従わない者に対しては、入浴マナーを指導し、それでも入浴マナーを守らない場合は、被告小樽市や警察等の協力を要請するなどして、マナー違反者を退場させるべきであり、また、入場前から酒に酔っている者の入場や酒類を携帯しての入場を断るべきであった。たしかに、これらの方法の実行が容易でない場合があることは否定できないが、公衆浴場の公共性に照らすと、被告Aは、可能な限りの努力をもって上記方法を実行すべきであったといえる。そして、その実行が容易でない場合があるからといって、安易にすべての外国人の利用を一律に拒否するのは明らかに合理性を欠くものというべきである。しかも、入浴を希望した原告らについては、他の利用者に迷惑をかけるおそれは全く窺えなかったものである。

  したがって、外国人一律入浴拒否の方法によってなされた本件入浴拒否は、不合理な差別であって、社会的に許容しうる限度を超えているものといえるから、違法であって不法行為にあたる。

 

 

【最判平成14年7月18日・恩給請求事件】

要旨

恩給法9条1項3号の国籍条項は、昭和27年4月28日の平和条約の発効によって日本国籍を喪失した在日韓国人である旧軍人に、普通恩給を受ける権利を認めないが、日韓請求権協定(昭和40年条約27号)締結後、彼らが日本国からも大韓民国からも何らの補償もされないまま推移したとしても、同条項を存置したことは、いまだ立法府の裁量の範囲を逸脱したとはいえず、本件処分当時においても同条項が憲法14条に違反するに至っていたとはいえない。

 

判旨

 憲法一四条一項は、法の下の平等を定めているが、この規定は合理的理由のない差別を禁止する趣旨のものであって、各人に存する経済的、社会的その他種々の事実関係上の差異を理由としてその法的取扱いに区別を設けることは、その区別が合理性を有する限り、何らこの規定に違反するものでない。このことは、当裁判所の判例の趣旨とするところである(最高裁昭和三七年(あ)第九二七号同三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五七九頁、最高裁昭和三七年(オ)第一四七二号同三九年五月二七日大法廷判決・民集一八巻四号六七六頁等)。

 ところで、我が国は、昭和二七年四月二八日に発効した日本国との平和条約(以下「平和条約」という。)により、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄し(二条(a))、これらの地域の施政を行っている当局及び住民の日本国における財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とするものとされた(四条(a)前段)。そして、平和条約の発効により、それまで日本の国内法上で朝鮮人としての法的地位を有していた者は、日本国籍を喪失したものと解される。その後、昭和二八年八月一日施行の恩給法の一部を改正する法律(同年法律第一五五号)により、旧軍人等及びその遺族に対する恩給の支給が復活したが、その時点においてこれらの者は日本の国籍を喪失していたから、恩給法九条一項三号により恩給の受給資格を有しないこととなったものである。

 以上の経緯に照らせば、平和条約の発効まで日本の国内法上で朝鮮人としての法的地位を有していた旧軍人等について恩給法九条一項三号の例外を設けず、これらの者が同法の適用から除外されたのは、それまで日本の国内法上で朝鮮人としての法的地位を有していた人々の請求権の処理は平和条約により日本国政府と朝鮮の施政当局との特別取極の主題とされたことから、上記旧軍人等に対する補償問題もまた両政府間の外交交渉によって解決されることが予定されたことに基づくものと解されるのであり、そのことには十分な合理的根拠があるというべきである。したがって、恩給法九条一項三号に基づき、日本の国籍を有する旧軍人等と平和条約の発効により日本の国籍を喪失し大韓民国の国籍を取得することとなった旧軍人等との間に区別が生じたとしても、それは上記のような根拠に基づくものである以上、同号の規定が憲法一四条に違反するものとはいえない。

 また、その後、日本国と大韓民国との間において、平和条約に基づく特別取極に相当するものとして、昭和四〇年六月二二日、財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(昭和四〇年条約第二七号。以下「日韓請求権協定」という。)が締結されたが、日本国政府は、同協定二条二項(a)に該当する在日韓国人である旧軍人等の補償請求については同協定により解決済みであるとの立場をとり、他方で、大韓民国政府は、同項(a)に該当する在日韓国人である旧軍人等については、大韓民国の国内法による補償の対象から除外した。このため、これらの在日韓国人である旧軍人等に対しては、日本国からも大韓民国からも何らの補償もされないまま推移することとなった。しかしながら、旧軍人等の普通恩給は、旧軍人等の生活を援助するとともにその戦争犠牲ないし戦争損害に対する補償という性質を有するものであるところ、社会保障上の施策において在留外国人をどのように処遇するかについては、国は、特別の条約の存しない限り、当該外国人の属する国との外交関係、変動する国際情勢、国内の政治・経済・社会的諸事情等に照らしながら、その政治的判断によりこれを決定することができるものであるし、戦争犠牲ないし戦争損害に対する補償の要否及び在り方は、事柄の性質上、財政、経済、社会政策等の国政全般にわたった総合的政策判断を待って初めて決し得るものであって、これらについては、国家財政、社会経済、戦争によって国民が被った被害の内容、程度等に関する盗料を基礎とする立法府の裁量的判断にゆだねられたものと解される。そして、日韓請求権協定の締結後の経過や国際情勢の推移等にかんがみると、恩給法九条一項三号の規定を削除することも含めていわゆる在日韓国人の旧軍人等に対して何らかの措置を講ずることとするか否かは、大韓民国やその他の国々との間の高度な政治、外交上の問題であるということができ、その決定に当たっては、複雑かつ高度に政策的な考慮と判断が要求されるところといわなければならない。これらのことからすれば、いわゆる在日韓国人の旧軍人等に対して何らかの措置を講ずることなく恩給法九条一項三号を存置したとしても、いまだ上記のような立法府の裁量の範囲を逸脱したものとまではいうことができず、本件処分当時においても、同号が憲法一四条に違反するに至っていたものとすることはできない。

 

 

【東京地裁平成14年6月28日】

要旨

外国人による国家賠償請求について相互主義を定めた国家賠償法6条は、日本国民に対して国家賠償による救済を認めない国の国民に対し、日本国が積極的に救済を与える必要がないという衡平の観念に基づいており、また、外国における日本国民の救済拡充にも資するものであり、その趣旨及び内容に一定の合理性が認められるから、憲法17条・14条1項、98条2項に違反しない。

 

判旨

憲法141項は、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と規定しているところ、この規定の趣旨は、特段の事情の認められない限り、外国人に対しても類推されるべきものと解される(最高裁判所昭和391118日大法廷判決・刑集189579頁)。

  しかしながら、憲法141項は、合理的理由のない差別を禁止する趣旨の規定であって、法律の規定において、各人に存する経済的、社会的その他種々の事実関係上の差異を理由としてその法的取扱いに区別を設けることは、その立法趣旨が合理的根拠を欠くとか、立法趣旨に照らして合理的な内容とはいえない区別であって、不合理な差別であると認められる場合でない限り、同項の規定に違反しないというべきである。

  そして、国家賠償法6条が外国人による国家賠償請求について相互の保証を要することとした趣旨は、前記イのとおりであり、その趣旨及び内容に一定の合理性が認められることからすれば、同条の規定が憲法141項に違反するということはできない。

1 人種による差別(2)

 

【東京高裁昭和61年8月25日・外国人登録法違反被告事件】

要旨

外国人登録法の指紋押なつ制度は、憲法一三条、一四条、三一条に違反しない。

 

判旨

 (一) 法の下の平等

 憲法一四条一項は、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と規定しており、これは、国民に対し法の下の平等を保障したものであって、同項後段列挙の事項は例示的なものであるということができる(最高裁判所昭和三九年五月二七日大法廷判決・民集一八巻四号六七六頁、同裁判所昭和四八年四月四日大法廷判決・刑集二七巻三号二六五頁参照)。

 そうして、法の下の平等を定めた憲法一四条の趣旨は、特段の事情の認められない限り、外国人に対しても類推されるものと解すべきである(最高裁判所昭和三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五七九頁参照)。

 しかしながら、各人には種々の事実関係上の差異が存するものであるから、法規の制定又はその適用の面において、右のような事実関係上の差異から生ずる不均等が各人の間にあることは免れ難いところであり、その不均等が一般社会観念上合理的な根拠に基づき必要と認められるものである場合には、これをもって憲法一四条の法の下の平等の原則に反するものとはいえない(前記最高裁判所昭和三九年一一月一八日大法廷判決等参照)。

 (二) 国民と外国人との相違

 国民について居住関係及び身分関係を明確にすることを目的とする住民基本台帳法及び戸籍法が指紋押なつ制度を採用していないのに、本邦に在留する外国人について居住関係及び身分関係を明確にすることを目的とする外登法がこれを採用していることは所論の指摘するとおりである。

 しかしながら、国民と外国人との区別は憲法自体が認めているものである。国民は、国籍によってわが国に結びつけられ、わが国の構成要素を成す者であるが、国民でない人、すなわち外国人は、わが国の構成要素をなす者ではない。前記のように、国際慣習法上、国家は外国人を受け入れる義務を負うものではなく、特別の条約がない限り、外国人を自国内に受け入れるかどうか、また、これを受け入れる場合にいかなる条件を付するかを、当該国家が自由に決定することができるものとされているのである。すなわち、国民はわが国に居住する権利を保障されているが、他の国には日本国民を受け入れる一般的義務はないのであって他の国に居住する権利を保障されているものではなく、これに対し、外国人は、憲法上、わが国に入国し、在留する権利を保障されているものではない(最高裁判所昭和五三年一〇月四日大法廷判決・民集三二巻七号一二二三頁参照)。わが国がその主権の及ぶ者を管理するにあたり、わが国とその者との基本的な関係を確実に把握する必要があるが、国民については、戸籍に記載される資格をもつ者を国籍のある者に限り、かつ、国籍のある者すべてを戸籍に記載することとする戸籍制度を設けて、出生、死亡、婚姻などの個人の身分関係だけではなく、国家と国民との法的関係すなわち国籍関係を明確ならしめることとし、これと並んで住民に関する記録を正確かつ統一的に行う住民基本台帳制度を設けているのに対し、外国人については、外国人登録制度を設けて、外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめようとしているのであるが、これは前記のような国民と外国人との地位の基本的な相違に基づくものであって、もとより憲法一四条に違反するものではない(最高裁判所昭和三〇年一二月一四日大法廷判決・刑集九巻一三号二七五六頁、同裁判所昭和三四年七月二四日第二小法廷判決・刑集一三巻八号一二一二頁参照)。そうして、指紋押なつ制度を国民の場合について設けていないのに外国人の場合について設けている法規上の不均等は、前記のように国民がわが国の構成員であるのに対し外国人は、そうではなく、わが国に入国し、在留する権利を有せず、また、前記1、(二)、(4)、(ホ)のとおり一般に国民に比してわが国社会との密着性が乏しいことなどに照らし、一般社会通念上合理的な根拠に基づく必要なものであると認められる。

 更に、被告人のようないわゆる定住外国人の場合においても、わが国との関係は国民の場合とは基本的に異なるものであることは前記のとおりであり、また、わが国に長期にわたり在留する者の中にもわが国の社会との密着性が国民と近い者からはるかに相違する者まで様々なものが含まれており、このうちどのような要件を備える者をいわゆる定住外国人ないし定着居住者としてその余の外国人居住者と区別し、その居住関係及び身分関係を明確にするのにどのような制度を設けるのが相当適切であるかを決するのは、広範な調査に基づき、国内の政治・経済・社会等の諸事情、国際情勢、外国関係、国際礼譲など諸般の事清を斟酌して国益保持の見地からなされるべき合目的的判断であって(最高裁判所昭和五三年一〇月四日大法廷判決・民集三二巻七号一二二三頁参照)、これは立法府の合理的な裁量に委ねられているというべきである。したがって、外登法が指紋押なつ制度をいわゆる定住外国人とその余の外国人を区別することなく外国人に一律に適用すべきものとしていることが、いわゆる定住外国人と国民とを合理的な根拠がないのに差別的に取り扱うものであるとはいえない。

 

 

 

【大阪高裁昭和63年4月19日・大阪外登証不携帯事件控訴審判決】

要旨

外国人登録法の外国人登録証明書常時携帯制度は、憲法一三条・一四条・二二条に違反しない。

 

判旨

 日本国民について、その居住関係及び身分関係を明確にすることを目的としている住民基本台帳法及び戸籍法が外登法法上の外登証常時携帯制度に準ずる制度を設けていないことは所論指摘のとおりである。しかしながら、法規の制定・適用等の面で何らかの不均等があつても、その不均等が社会通念上合理的な根拠に基づくものであり、かつ、必要なものと認められる以上は、これをもつて憲法一四条に反するものといえないことは当然であるところ、国民と外国人との区別は憲法自体が認めているものであつて、両者の間にはその法的地位に基本的な相違があるから、その居住関係及び身分関係を明確にすることを目的とする点で共通するとはいえ、外国人に対する関係で外国人登録制度を設け、登録証明書の携帯等を義務付けることに前示のような必要性・合理性が存する限り、市民的及び政治的権利に関する国際規約二六条等の趣旨を十分考慮に容れても、所論のいう憲法一四条違反の問題を生じないことは言をまたないところである。

 

 

【最判平成元年3月2日・障害福祉年金国籍要件違憲訴訟上告審判決】

要旨

国民年金法(昭和56年法律86号改正前)81条1項が受ける同法56条1項但書の規定および昭和34年11月1日より後に帰化によって日本国籍を取得した者に対し、同法81条1項の障害福祉年金の支給をしないことは、立法府の裁量の範囲に属する事柄で、その合理性を否定することができず、憲法25条・14条に違反しない。

 

判旨

  事実関係

 一 原審の適法に確定したところによれば、本件の事実関係は次のとおりである。 上告人は、昭和九年六月二五日大阪市で出生し、幼少のころ罹患したはしかによつて失明し、昭和三四年一一月一日において昭和五六年法律第八六号による改正前の国民年金法(以下「法」という。)別表に定める一級に該当する程度の廃疾の状態にあつた。上告人は、昭和三四年一一月一日においては大韓民国籍であつたところ、昭和四五年一二月一六日帰化によつて日本国籍を取得した。上告人は、法八一条一項の障害福祉年金の受給権者であるとして、被上告人に対し右受給権の裁定を請求したところ、被上告人は、昭和四七年八月二一日同請求を棄却する旨の処分(以下「本件処分」という。)をした。本件処分の理由は、上告人は昭和三四年一一月一日において日本国民でなかつたから法八一条一項の障害福祉年金の受給権を有しないというものであつた。

 二 法八一条一項は、昭和一四年一一月一日以前に生まれた者が、昭和三四年一一月一日以前になおつた傷病により、昭和三四年一一月一日において法別表に定める一級に該当する程度の廃疾の状態にあるときは、法五六条一項本文の規定にかかわらず、その者に同条の障害福祉年金を支給する旨規定しているが、法五六条一項ただし書は廃疾認定日において日本国民でない者に対しては同条の障害福祉年金を支給しない旨規定しており、法八一条一項の障害福祉年金の支給に関しても当然に法五六条一項ただし書の規定の適用があるから、法八一条一項の障害福祉年金は、廃疾の認定日である昭和三四年一一月一日において日本国民でない者に対しては支給されないものと解すべきである。

 三 そこで、まず、法八一条一項が受ける法五六条一項ただし書の規定(以下「国籍条項」という。)及び昭和三四年一一月一日より後に帰化によつて日本国籍を取得した者に対し法八一条一項の障害福祉年金の支給をしないことが、憲法二五条の規定に違反するかどうかについて判断する。

 

■裁判所の判断

 憲法二五条は、いわゆる福祉国家の理念に基づき、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みうるよう国政を運営すべきこと(一項)並びに社会的立法及び社会的施設の創造拡充に努力すべきこと(二項)を国の責務として宣言したものであるが、同条一項は、国が個々の国民に対して具体的・現実的に右のような義務を有することを規定したものではなく、同条二項によつて国の責務であるとされている社会的立法及び社会的施設の創造拡充により個々の国民の具体的・現実的な生活権が設定充実されてゆくものであると解すべきこと、そして、同条にいう「健康で文化的な最低限度の生活」なるものは、きわめて抽象的・相対的な概念であつて、その具体的内容は、その時々における文化の発達の程度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるとともに、同条の規定の趣旨を現実の立法として具体化するに当たつては、国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするから、同条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するに適しない事柄であるというべきことは、当裁判所大法廷判決(昭和二三年(れ)第二〇五号同年九月二九日判決・刑集二巻一〇号一二三五頁、昭和五一年(行ツ)第三〇号同五七年七月七日判決・民集三六巻七号一二三五頁)の判示するところである。

 そこで、本件で問題とされている国籍条項が憲法二五条の規定に違反するかどうかについて考えるに、国民年金制度は、憲法二五条二項の規定の趣旨を実現するため、老齢、障害又は死亡によつて国民生活の安定が損なわれることを国民の共同連帯によつて防止することを目的とし、保険方式により被保険者の拠出した保険料を基として年金給付を行うことを基本として創設されたものであるが、制度発足当時において既に老齢又は一定程度の障害の状態にある者、あるいは保険料を必要期間納付することができない見込みの者等、保険原則によるときは給付を受けられない者についても同制度の保障する利益を享受させることとし、経過的又は補完的な制度として、無拠出制の福祉年金を設けている。法八一条一項の障害福祉年金も、制度発足時の経過的な救済措置の一環として設けられた全額国庫負担の無拠出制の年金であつて、立法府は、その支給対象者の決定について、もともと広範な裁量権を有しているものというべきである。加うるに、社会保障上の施策において在留外国人をどのように処遇するかについては、国は、特別の条約の存しない限り、当該外国人の属する国との外交関係、変動する国際情勢、国内の政治・経済・社会的諸事情等に照らしながら、その政治的判断によりこれを決定することができるのであり、その限られた財源の下で福祉的給付を行うに当たり、自国民を在留外国人より優先的に扱うことも、許されるべきことと解される。したがつて、法八一条一項の障害福祉年金の支給対象者から在留外国人を除外することは、立法府の裁量の範囲に属する事柄と見るべきである。

 また、経過的な性格を有する右障害福祉年金の給付に関し、廃疾の認定日である制度発足時の昭和三四年一一月一日において日本国民であることを要するものと定めることは、合理性を欠くものとはいえない。昭和三四年一一月一日より後に帰化により日本国籍を取得した者に対し法八一条一項の障害福祉年金を支給するための措置として、右の者が昭和三四年一一月一日に遡り日本国民であつたものとして扱うとか、あるいは国籍条項を削除した昭和五六年法律第八六号による国民年金法の改正の効果を遡及させるというような特別の救済措置を講ずるかどうかは、もとより立法府の裁量事項に属することである。 そうすると、国籍条項及び昭和三四年一一月一日より後に帰化によつて日本国籍を取得した者に対し法八一条一項の障害福祉年金の支給をしないことは、憲法二五条の規定に違反するものではないというべく、以上は当裁判所大法廷判決(昭和五一年(行ツ)第三〇号同五七年七月七日判決・民集三六巻七号一二三五頁、昭和五〇年(行ツ)第一二〇号同五三年一〇月四日判決・民集三二巻七号一二二三頁)の趣旨に徴して明らかというべきである。

 

 四 次に、国籍条項及び昭和三四年一一月一日より後に帰化によつて日本国籍を取得した者に対し法八一条一項の障害福祉年金の支給をしないことが、憲法一四条一項の規定に違反するかどうかについて考えるに、憲法一四条一項は法の下の平等の原則を定めているが、右規定は合理的理由のない差別を禁止する趣旨のものであつて、各人に存する経済的、社会的その他種々の事実関係上の差異を理由としてその法的取扱いに区別を設けることは、その区別が合理性を有する限り、何ら右規定に違反するものではないのである(最高裁昭和三七年(あ)第九二七号同三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五七九頁、同昭和三七年(オ)第一四七二号同三九年五月二七日大法廷判決・民集一八巻四号六七六頁参照)。ところで、法八一条一項の障害福祉年金の給付に関しては、廃疾の認定日に日本国籍がある者とそうでない者との間に区別が設けられているが、前示のとおり、右障害福祉年金の給付に関し、自国民を在留外国人に優先させることとして在留外国人を支給対象者から除くこと、また廃疾の認定日である制度発足時の昭和三四年一一月一日において日本国民であることを受給資格要件とすることは立法府の裁量の範囲に属する事柄というべきであるから、右取扱いの区別については、その合理性を否定することができず、これを憲法一四条一項に違反するものということはできない。

 

 五 さらに、国籍条項が憲法九八条二項に違反するかどうかについて判断する。 所論の社会保障の最低基準に関する条約(昭和五一年条約第四号。いわゆるILO第一〇二号条約)六八条1の本文は「外国人居住者は、自国民居住者と同一の権利を有する。」と規定しているが、そのただし書は「専ら又は主として公の資金を財源とする給付又は給付の部分及び過渡的な制度については、外国人及び自国の領域外で生まれた自国民に関する特別な規則を国内の法令で定めることができる。」と規定しており、全額国庫負担の法八一条一項の障害福祉年金に係る国籍条項が同条約に違反しないことは明らかである。また、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(昭和五四年条約第六号)九条は「この規約の締約国は、社会保険その他の社会保障についてのすべての者の権利を認める。」と規定しているが、これは、締約国において、社会保障についての権利が国の社会政策により保護されるに値するものであることを確認し、右権利の実現に向けて積極的に社会保障政策を推進すべき政治的責任を負うことを宣明したものであつて、個人に対し即時に具体的権利を付与すべきことを定めたものではない。このことは、同規約二条1が締約国において「立法措置その他のすべての適当な方法によりこの規約において認められる権利の完全な実現を漸進的に達成する」ことを求めていることからも明らかである。したがつて、同規約は国籍条項を直ちに排斥する趣旨のものとはいえない。さらに、社会保障における内国民及び非内国民の均等待遇に関する条約(いわゆるILO第一一八号条約)は、わが国はいまだ批准しておらず、国際連合第三回総会の世界人権宣言、同第二六回総会の精神薄弱者の権利宣言、同第三〇回総会の障害者の権利宣言及び国際連合経済社会理事会の一九七五年五月六日の障害防止及び障害者のリハビリテーシヨンに関する決議は、国際連合ないしその機関の考え方を表明したものであつて、加盟国に対して法的拘束力を有するものではない。以上のように、所論の条約、宣言等は、わが国に対して法的拘束力を有しないか、法的拘束力を有していても国籍条項を直ちに排斥する趣旨のものではないから、国籍条項がこれらに抵触することを前提とする憲法九八条二項違反の主張は、その前提を欠くというべきである。

1 人種による差別(1) 外国人登録例・名古屋高裁昭和46年4月30日・トヨタ自工純血訴訟事件・東京高裁昭和60年8月26日・台湾人元日本兵戦死傷補償請求事件控訴審判決等

 

 目次

 

最大判昭和30年12月14日

要旨

外国人登録令(昭和二二年勅令二〇七号)は、憲法一四条に違反しない。

 

判旨

 外国人登録令は、外国人に対する諸般の取扱の適正を期することを目的として立法されたもので、人種の如何を問わず、わが国に入国する外国人のすべてに対し、取扱上必要な手続を定めたものであり、そしてこのような規制は、諸外国においても行はれていることであつて何等人種的に差別待遇をする趣旨に出たものでないから論旨は理由がない

 

 

【最判昭和34年7月24日】

要旨

外国人登録法は、憲法一四条および三六条に違反しない。

 

判旨

外国人登録法は、本邦に在留する外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もつて在留外国人の公正な管理に資することを目的とする法律であつて人種や社会的身分の如何を問わず、わが国に在留する外国人のすべてに対し、管理上必要な手続を定めたものであり、そしてこのような規制は、諸外国においても行われていることであつて、何ら人種的にまた社会的身分により差別待遇をする趣旨に出たものでなく同法律が憲法一四条に違反しないことは、外国人登録令(昭和二二年勅令第二〇七号)が憲法一四条に違反しない旨を判示した昭和三〇年一二月一四日大法廷判決(刑集九巻一三号二七五六頁)の趣旨に徴し明白であるから、同一四条違反を主張する論旨は理由がない

 

 

【最判昭和38年4月5日】

要旨

日本国民のなかに内地人・朝鮮人・台湾人の区別を設けていた共通法は、憲法一四条に違反しない。

 

判旨

 原判決は、日華条約によつて国籍異動の生ずる人的範囲は日本が台湾等を領有した後において、日本国法上台湾人としての法的地位を有した者であるとして居る。ところで右国籍異動の人的範囲が、如何なる時点において台湾人としての法的地位を有して居た者を指称するものであるかについては原判決において直接明示する処がない。然し原判決が上告人嘉子について昭和二十七年二月十二日台湾人たる身分を取得したと判断して居るところからすれば、右の基準時点は平和条約発効の時として居るものとしか考えられない。従つて原判決は平和条約発効の時において日本国法上台湾人たる法的地位を有して居た者が国籍異動の人的範囲であるとして居る訳である。

 確かに共通法は日本国民中に内地人、朝鮮人、台湾人と云う身分上の差別を設けて居た。台湾等及び朝鮮は、内地と異る異法地域とされ、台湾人・朝鮮人はそれぞれ台湾戸籍、朝鮮戸籍に登載されると共に、その身分上の地位は法律上諸般の制約を受けたのであり、その権利義務の上で内地人とは差別された取扱を受けて居た。然し昭和二十二年五月三日施行せられた日本国憲法第十四条第一項はすべて国民は法の下に平等であるとし、如何なる法的差別も認めないことを明示したのである。されば日本国民の中に内地人、朝鮮人の区別を設け、その間に法律上権利義務について差別を設けることは日本国憲法施行後は許されないものである。されば共通法が内地人、台湾人、朝鮮人について、法律上の権利義務に差別を設けて居る限りにおいて、憲法第十四条第一項に違背するもであり無効のものである。

 従つて昭和二十二年五月三日以降においては、その権利義務に差別あるものとしての内地人、台湾人、朝鮮人の区別は効力を失つたものである。共通法上の内地人、台湾人、朝鮮人の区別は単に登載されて居る戸籍の区別であるに過ぎないのである。

 

 

【最判昭和39年11月18日】

要旨

・日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基づく行政協定の実施に伴う関税法等の臨時特例に関する法律(昭和33年法律68号改正前の昭和27年法律112号)6条・11条・12条は、憲法14条1項に違反しない。

・憲法一四条の法の下の平等の原則は、特別の事情のない限り外国人に対しても類推されるべきものである。

 

判旨

 すなわち、憲法一四条は「すべて国民は、法の下に平等であつて、……」と規定し、直接には日本国民を対象とするものではあるが、法の下における平等の原則は、近代民主主義諸国の憲法における基礎的な政治原理の一としてひろく承認されており、また既にわが国も加入した国際連合が一九四八年の第三回総会において採択した世界人権宣言の七条においても、「すべて人は法の前において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。……」と定めているところに鑑みれば、わが憲法一四条の趣旨は、特段の事情の認められない限り、外国人に対しても類推さるべきものと解するのが相当である。他面、憲法一四条は法の下の平等の原則を認めいてるが、各人には経済的、社会的その他種々の事実関係上の差異が存するものであるから、法規の制定またはその適用の面において、右のような事実関係上の差異から生ずる不均等が各人の間にあることは免れ難いところであり、その不均等が一般社会観念上合理的な根拠に基づき必要と認められるものである場合には、これをもつて憲法一四条の法の下の平等の原則に反するものといえないことは、当裁判所の判例とするところである(昭和二四年(れ)第一八九〇号、同二五年六月七日大法廷判決、刑集四巻六号九五六頁、昭和三一年(あ)第六三五号、同三三年三月一二日大法廷判決、刑集一二巻三号五〇一頁等)。

 

 

【東京高裁昭和40年1月29日】

要旨

在留外国人に対して登録証明書の携帯を義務付けた外国人登録法一三条一項・一八条一項七号は、憲法一四条に違反しない。

 

判旨

 論旨は、外国人登録法第一三条第一項・第一八条第一項第七号は日本国憲法第一四条に違反するというのであるが、外国人登録法第一三条第一項が在留外国人に対して日本人には要求していない登録証明書の携帯を義務づけ、かつその違反を同法第一八条第一項第七号によつて処罰することとしているからといつて日本国憲法第一四条に違反するといえないことは、昭和三四年七月二四日最高裁判所第二小法廷判決(刑集一三券八号一二一二頁)の説示しているところによつて明らか

 

 

【名古屋高裁昭和46年4月30日・トヨタ自工純血訴訟事件】

要旨

株式会社の原始定款が役員の資格を日本人に限定しているとしても、憲法一四条の規定に違反し私法的自治の原則を逸脱したものとはいえない。

 

判旨

  () およそ日本国憲法第三章以下の各条項において規定する国民の権利および自由、即ちいわゆる基本的人権は本来国家および公共団体に対する関係において一般国民に保障された権利であつて右各条項は国家および公共団体等の国家機関が立法、行政等の国政上で右基本的人権を侵害してはならない旨を規定しているものであり、それ故憲法第一四条の規定もまた右の国家機関が国政上で一般国民に対し不合理な差別的取扱をすることを禁止したものであるにとどまり、直接に私人相互間の法律関係における差別的取扱をも規律せんとするものではないことはその沿革および解釈上自明のことといわなければならない。而して私法上の法律関係であることが明らかな本件総会決議の内容が右憲法第一四条の規定により直接に無効とされることはその性質上ありえないものというべきであるから、原告の憲法違反の所論はそれ自体失当というべきである。

  () しかしもとより憲法は国家の最高法規であつて、法秩序全体を支配する根本規範である以上、日本国憲法が右の如く国民に対し諸々の基本的人権を保障し立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする旨明言していることはとりもなおさずこれらの基本的人権が侵害せられないことを以つて国家の法秩序全体を支配する最高の価値としたことを意味するものにほかならないから、私人相互間の法律関係といえども何んらの合理的理由のない不当な差別的取扱を内容とし、それが憲法第一四条の規定の精神に違背するに至るものであるときは、それはもはや私法的自治の原則の範囲を逸脱して民法第九〇条にいわゆる公の秩序、善良の風俗に違反する結果、無効とせられるに至ることは当然である。また他面商法第二五四条第二項は会社は定款を以つてするも取締役が株主たることを要する旨を定めることができないと規定し、同法二八〇条はこれを監査役にも準用しているところ、右規定は昭和二五年法律第一六七号により改正追加せられたものでその趣旨とするところは、右改正以前において取締役が大株主のみに限定されていた弊害を除去するとともに、いわゆる企業の所有と経営の分離を法律的にも承認し取締役および監査役を株主中から選任することを要しないものとして広く会社の具体的運営の任にあたる者に広く適材を求めんとするにあるものと解される。而して右規定は取締役および監査役の資格を株主に限定することを禁止するにとどまり、各株式会社においてその他これが資格要件を定款を以つて規定することの一切を禁止する趣旨をも含むものではなく、それは原則として各株式会社の自治に委ねられていることがらであると解せられ、ただその資格制限が法の精神に違背するとか、あるいは株式会社の本質に違反する等合理的根拠のないものであるときにはじめて前記のとおりその資格制限は株式会社自治の原則を逸脱し無効とせられるに至るものというべきである。

  () 従つて結局のところ本件総会決議の有効無効の判断は専らその内容たる被告会社の取締役および監査役は日本国籍を有する者に限る旨の資格制限が右の意味において、私法的自治の原則ないし株式会社自治の原則を逸脱した合理的根拠のないもので、民法第九〇条に違反しているかどうかによつて決せられるものということができる。そして株主総会決議は株式会社における意思決定機関たる株主総会の意思決定たることをその本質とすることは前記のとおりであるところ、右株主総会決議の動機、目的は、もとより当該決議案を提出した代表取締役やあるいは株主総会において右決議案に賛成した多数株主等の右決議をなすに至つた動機目的とは全く別異の観念であるとともに、それを法律的に把握し、確定することは性質上不可能な事柄に属するものであるから、右総会決議自体の動機、目的が特にその決議の内容として明示せられている場合等の特段の事情がない限り、株主総会決議の内容自体には何んら法令又は定款違反の瑕疵がなく、単にその決議をなすに至つた動機、目的に公序良俗違反の不法があるにとどまる場合には、当該決議を無効たらしめるものではなく(最高裁判所昭和三五年一月一二日判決、商事法務研究第一六七号第一八頁参照)、即ち原則として株主総会決議についてはそれをなすに至つた動機、目的はその効力に対し何んらの影響を及ぼすものではないものと解するのが相当であり、従つて右の如き動機目的が特にその内容として明示せられていることの認められない本件総会決議の効力を検討するに当つては右決議の内容およびその効果を客観的に考察すれば足るものということができる。

  () そこで翻つて憲法第一四条の規定の趣旨についてみると、同条第一項は「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない。」旨規定しているところ、ここにいう国民とは日本国民を意味しまた人種とは国家の所属員たる資格を意味する国籍なる概念とは区別された人間の生物学的、人類学的な種別を意味するものであることは日本国憲法の規定自体において、基本的人権の保障される主体として「何人も」(憲法第一八条等)という用語と「すべて国民は」(同法第二五条等)という用語とを一応の基準にもとづいて使い分けていることよりすれば、その規定の文理上明らかであるというべく、従つて右法の下の平等を規定する憲法第一四条は直接には日本国民に対してこれを保障しているものと解するのが相当であるが、もとより右規定が外国人に対して法の下の平等の保障を否定している趣旨であるものと解すべきでないことは当然であつて、外国人に対しても、いわゆる参政権のようにその権利の性質上日本国民との間におのずから差別のあるものは別にしても、でき得る限り日本国民と同様の平等な取扱を尊重しこれを保障すべきことは近代法の予想するところであるとともに、いわゆる自然法と国際原理協調主義とをその基調としている日本国憲法もまたそれを当然要請しているものとみるべきであるが、現下の世界体制が未だ国家という単位を法的、経済的体制の基礎においている以上、外国人の当該国家に対する関係はその一般国民の国家に対する関係が全面的且つ恒久的な結合関係であるのとは本質的に相違し、専ら場所的居住関係をその重要な要素として成り立ついわば片面的関係とでもいうべきものであり、このことからしても、外国人に対しすべての面に亘つて一般国民と同等に取扱われるべきことを要請されているものとみることはできないとともにさらにまた私人相互の関係においては、外国人が一般国民からこれと同等に取扱われるべきことを国家が強行法的に実現し保障しているものとみることはできず、そこには国家が容認しえない私人相互の私法的自治の支配する領域の存在することも認めなければならないところであり、特に現在の国際経済社会も各国の国民経済を単位としそれを前提として営まれているものであるから、日本の各国内企業がその企業内における外国人の経済活動に対してある程度の制約を課することもまた各国内企業のそれぞれの自主的な判断に委ねられるべき事柄であることを承認しなければならず、ただそれが私法的自治の原則を逸脱した合理的根拠のないものであるときにはじめてそこに国家が介入してその私人が法的に無効とされるに至るものと解せられる。そしてかような観点に立つてみるとき、一般に各株式会社においてその取締役および監査役の資格につきこれを日本国籍を有する者に限る旨をその定款に規定した場合、それがいわゆる原始定款によるものであれば、これはいまだ当該株式会社の自主的な判断に委ねられる領域に属するものであつて私法的自治の原則ないし株式会社自治の原則を逸脱した不合理な外国人に対する差別的取扱であるとしてこれを無効とすることは相当ではないと解すべきである。

 

 

【東京高裁昭和60年8月26日・台湾人元日本兵戦死傷補償請求事件控訴審判決】

要旨

戦傷病者戦没者遺族等援護法および恩給法がいずれもその受給資格を日本国籍を有する者に限定していることは、合理的理由の差別であるとまではいえないから、第二次大戦下において戦死傷し、日本国と中華民国との間の平和条約の発効により日本国籍を喪失した台湾人およびその遺族らが右各法による給付を受けられないとしても憲法一四条に違反するものでなく、また、援護または恩給給付の具体的内容は、国会および政府によつて決定されるべき事項であり、その決定をまたずに直ちに憲法一四条に基づき具体的請求権を行使し得るものでもない。

 

判旨

(一) 憲法一四条は、直接には日本国民を対象とするものではあるが、特段の事情の認められない限り外国人に対しても類推されるべきものと解するのが相当である(最高裁昭和三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五七九頁参照)。しかし、同条は、絶対的平等を保障したものではなく、合理的な理由のない差別を禁止したものと解すべきであり、事柄の性質に応じて合理的と認められる差別的取扱いをすることは同条の禁ずるところではない。ところで、援護法上の援護、恩給法上の元軍人軍属及びその遺族に対する恩給の支給は、広義には戦争による被害の補償とみられるのであつて、さきに説示したように、戦争被害に対する補償や救済のための措置は、国の立法と法律の施行に委ねられており、これらについては当局の裁量権があるわけであるから、それが著しく合理性を欠き、裁量の範囲を逸脱しているとみられる場合を除いては補償、救済の対象者、内容等の面で差等を生じても、憲法一四条違反の問題は生じないといつてよい。

(二) 援護法は、制定当初「この法律は、軍人軍属の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基き、軍人軍属であつた者又はこれらの者の遺族を援護することを目的とする。」(一条)と規定し、右にいう軍人とは、「恩給法の特例に関する件(昭和二一年勅令第六八号)第一条に規定する軍人及び準軍人並びに内閣総理大臣の定める者以外のもとの陸軍又は海軍部内の公務員又は公務員に準ずべき者」をいい、軍属とは、「もとの陸軍又は海軍部内の有給の嘱託員、雇員、よう人、工員又は鉱員」をいう(二条一項)旨規定していた。この規定内容に成立に争いのない甲第二九、三〇号証、第三四ないし第三九号証(第三五号証は前出)をあわせ考慮すると、援護法は、今次戦争終了時まで恩給法(大正一二年法律第四八号)による年金等の支給を受ける権利を有しながら、前記昭和二一年二月一日勅令六八号によつて恩給の停止、制限を受けていた元軍人、準軍人等及び軍属として戦地勤務を命じられ、戦争又は軍事関連業務に従事していた者等、国との間に特別権力関係もしくは使用関係のあつた者の公務上の負傷、疾病もしくは死亡に関して、これらの者又はその遺族に年金等を支給することにより、国が使用者としての立場から戦争公務災害に対して救済措置を講じ、文官恩給等との不均衡を是正しようとすることを目的として立法されたものと認められるので、その趣旨は、国が使用者としての立場から戦争犠牲者に補償しようとするところにあると解される。他方恩給法による恩給等の支給が退職者の稼動能力の減耗に対する補償という性格を有することは疑いない。

(三) このような、援護法の国家補償的性格並びに恩給法の稼動能力の減耗に対する補償的性格に着目するならば、控訴人らの戦死傷の事実はまさに両法による援護、補償の要件に当たるといつて差支えない。もつとも、援護法、恩給法はいずれも老令、廃疾又は生計の担い手の死亡に対して、その本人又は遺族の生活を援助するという生活保障的性格をも有するのであつて、このような生活保障的部分については、現に日本国籍を有せず、日本国内に居住しない控訴人らが保障の対象にならないのは当然であるが、このことは控訴人らが援護法、恩給法によるすべての給付の対象から除外される理由にはならないといわなければならない。

法の下の平等の意味 最大判昭和25年10月11日・最大判昭和39年5月27日・最大判昭和39年11月18日

 目次

 

最大判昭和25年10月11日

要旨

憲法一四条は、人格の価値がすべての人間につき平等であり、人種・宗教・性別・社会的身分等の差異により特権を有したり特別の不利益の待遇を受けてはならないという大原則を示したものであつて、法がこの原則の範囲内で、各人の年令・自然的素質・職業・人と人との特別の関係等の事情を考慮して、道徳・正義・合目的性等の要求から具体的規定をすることを妨げるものではない。

 

判旨

 おもうに憲法一四条が法の下における国民平等の原則を宣明し、すべて国民が人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係上差別的取扱を受けない旨を規定したのは、人格の価値がすべての人間について同等であり、従つて人種、宗教、男女の性、職業、社会的身分等の差異にもとずいて、あるいは特権を有し、あるいは特別に不利益な待遇を与えられてはならぬという大原則を示したものに外ならない。奴隷制や貴族等の特権が認められず、又新民法において、妻の無能力制、戸主の特権的地位が廃止せられたごときは、畢竟するにこの原則に基くものである。しかしながら、このことは法が、国民の基本的平等の原則の範囲内において、各人の年令、自然的素質、職業、人と人との間の特別の関係等の各事情を考慮して、道徳、正義、合目的性等の要請より適当な具体的規定をすることを妨げるものではない。刑法において尊属親に対する殺人、傷害致死等が一般の場合に比して重く罰せられているのは、法が子の親に対する道徳的義務をとくに重要視したものであり、これ道徳の要請にもとずく法による具体的規定に外ならないのである。

 

 

最大判昭和39年5月27日

要旨

町長が町職員定員条例による定員を超過する職員を整理するに当り、五五才以上の高齢者であることを一応の基準としたうえ、更に該当者の勤務成績を考慮して待命処分を命じたことは、事柄の性質上高齢者を不合理に差別したとはいえないから、憲法一三条・憲法一四条および地方公務員法一三条に違反するものではない。

 

判旨

 思うに、憲法一四条一項及び地方公務員法一三条にいう社会的身分とは、人が社会において占める継続的な地位をいうものと解されるから、高令であるということは右の社会的身分に当らないとの原審の判断は相当と思われるが、右各法条は、国民に対し、法の下の平等を保障したものであり、右各法条に列挙された事由は例示的なものであつて、必ずしもそれに限るものではないと解するのが相当であるから、原判決が、高令であることは社会的身分に当らないとの一事により、たやすく上告人の前示主張を排斥したのは、必ずしも十分に意を尽したものとはいえない。しかし、右各法条は、国民に対し絶対的な平等を保障したものではなく、差別すべき合理的な理由なくして差別することを禁止している趣旨と解すべきであるから、事柄の性質に即応して合理的と認められる差別的取扱をすることは、なんら右各法条の否定するところではない

 本件につき原審が確定した事実を要約すれば、被上告人立山町長は、地方公務員法に基づき制定された立山町待命条例により与えられた権限、すなわち職員にその意に反して臨時待命を命じ又は職員の申出に基づいて臨時待命を承認することができる旨の権限に基づき、立山町職員定員条例による定員を超過する職員の整理を企図し、合併前の旧町村の町村長、助役、収入役であつた者で年令五五歳以上のものについては、後進に道を開く意味でその退職を望み、右待命条例に基づく臨時待命の対象者として右の者らを主として考慮し、右に該当する職員約一〇名位(当時建設課長であつた上告人を含む)に退職を勧告した後、上告人も右に該当する者であり、かつ勤務成績が良好でない等の事情を考慮した上、上告人に対し本件待命処分を行つたというのであるから、本件待命処分は、上告人が年令五五歳以上であることを一の基準としてなされたものであることは、所論のとおりである。

 ところで、昭和二九年法律第一九二号地方公務員法の一部を改正する法律附則三項は、地方公共団体は、条例で定める定員をこえることとなる員数の職員については、昭和二九年度及び昭和三〇年度において、国家公務員の例に準じて条例の定めるところによつて、職員にその意に反し臨時待命を命ずることができることにしており、国家公務員については、昭和二九年法律第一八六号及び同年政令第一四四号によつて、過員となる職員で配置転換が困難な事情にあるものについては、その意に反して臨時待命を命ずることができることにしているのであり、前示立山町待命条例ならびに被上告人立山町長が行つた本件待命処分は、右各法令に根拠するものであることは前示のとおりである。しかして、一般に国家公務員につきその過員を整理する場合において、職員のうちいずれを免職するかは、任命権者が、勤務成績、勤務年数その他の事実に基づき、公正に判断して定めるべきものとされていること(昭和二七年人事院規則一一―四、七条四項参照)にかんがみても、前示待命条例により地方公務員に臨時待命を命ずる場合においても、何人に待命を命ずるかは、任命権者が諸般の事実に基づき公正に判断して決定すべきもの、すなわち、任命権者の適正な裁量に任せられているものと解するのが相当である。これを本件についてみても、原判示のごとき事情の下において、任命権者たる被上告人が、五五歳以上の高令であることを待命処分の一応の基準とした上、上告人はそれに該当し(本件記録によれば、上告人は当時六六歳であつたことが明らかである)、しかも、その勤務成績が良好でないこと等の事情をも考慮の上、上告人に対し本件待命処分に出たことは、任命権者に任せられた裁量権の範囲を逸脱したものとは認められず、高令である上告人に対し他の職員に比し不合理な差別をしたものとも認められないから、憲法一四条一項及び地方公務員法一三条に違反するものではない。されば、本件待命処分は右各法条に違反するものではないとの原審の判断は、結局正当であり、原判決には所論のごとき違法はなく、論旨は採用のかぎりでない。

 

 

最大判昭和39年11月18日

要旨

・各人について存する経済的・社会的事実関係上の差異から生ずる不均等な扱が、一般社会通念上合理的な根拠に基づいて必要と認められる場合には、その取扱は憲法一四条に違反しない。

・憲法一四条の法の下の平等の原則は、特別の事情のない限り外国人に対しても類推されるべきものである。

 

 

判旨

 すなわち、憲法一四条は「すべて国民は、法の下に平等であつて、……」と規定し、直接には日本国民を対象とするものではあるが、法の下における平等の原則は、近代民主主義諸国の憲法における基礎的な政治原理の一としてひろく承認されており、また既にわが国も加入した国際連合が一九四八年の第三回総会において採択した世界人権宣言の七条においても、「すべて人は法の前において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。……」と定めているところに鑑みれば、わが憲法一四条の趣旨は、特段の事情の認められない限り、外国人に対しても類推さるべきものと解するのが相当である。他面、憲法一四条は法の下の平等の原則を認めいてるが、各人には経済的、社会的その他種々の事実関係上の差異が存するものであるから、法規の制定またはその適用の面において、右のような事実関係上の差異から生ずる不均等が各人の間にあることは免れ難いところであり、その不均等が一般社会観念上合理的な根拠に基づき必要と認められるものである場合には、これをもつて憲法一四条の法の下の平等の原則に反するものといえないことは、当裁判所の判例とするところである(昭和二四年(れ)第一八九〇号、同二五年六月七日大法廷判決、刑集四巻六号九五六頁、昭和三一年(あ)第六三五号、同三三年三月一二日大法廷判決、刑集一二巻三号五〇一頁等)。

 ところで、所論日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定の実施に伴う関税法等の臨時特例に関する法律(昭和三三年法律第六八号による改正前の昭和二七年法律第一一二号、以下特例法という。)は、同法六条、一一条、一二条等の規定により、合衆国軍隊の公用物品等のわが国への輸入については、それが合衆国軍隊、その構成員、軍属、これらの者の家族等の用に供するためのものである限りにおいては、関税を課さないが、これをその他の者が日本国内において譲り受けようとする場合には、当該譲受を輸入とみなして関税法を適用する旨を定めたものであるところ、右諸規定は、前記安全保障条約に基づく行政協定一一条が合衆国軍隊、その構成員等の用に供する物品等のわが国への輸入につき関税を課さない旨を規定しているところに照応し、同条の規定を実施するため制定されたものにほかならない。そして、前記安全保障条約および行政協定が違憲無効と認められないことは、当裁判所の判例とするところであり(昭和三四年(あ)第七一〇号、同年一二月一六日大法廷判決、刑集一三巻一三号三二二五頁)、また、憲法九八条二項は、わが国が締結した条約と確立された国際法規はこれを誠実に遵守すべきことを定めており、さらに、外国軍隊が条約によりまたは同意を得て他国に駐在する場合、その外国軍隊の機能を全うさせる必要上、これに対しこの種の特権を認めることは、一般に承認された国際慣行と認められる。しからば、このような諸点を総合して観察すれば、特例法が、合衆国軍隊、その構成員等に対し所論の特権を認めたことは、十分合理的な根拠があると認められるのであつて、右特例法の諸規定は憲法一四条に違反するものということはできない。それ故、所論憲法一四条違反の主張は理由がない。

平等権 総論

 目次


14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。

3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

 

(1)趣旨

*1項前段は、近代憲法の基本原則である平等原則を規定する。

*1項後段は、前項の平等原則を例示的に示す。

*2項は、貴族制度を廃止することを規定している。世襲の天皇制はこれの例外とされる。

*3項は、栄典を伴う特権を禁止している。

 

*平等原則とは、事実的・実質的差異を前提とした相対的平等を意味し、合理的根拠を欠く別異取扱いが禁止される。

 人権の根拠である個人の尊厳は、各個人の自由とそれぞれの自由の平等を要請する。

 近代市民革命では、自由・平等の2つの理念が深く結びつきあって、身分制社会を打破し、近代立憲主義を確立していった。

 しかし、自由と平等は相反する側面も有する。19世紀から20世紀において、すべての個人を法的に均等に取り扱い自由な活動を保障する機会の平等・形式的平等は、資本主義社会の進展に伴い社会・経済的不公平の拡大をもたらした。そこで、20世紀以降の社会福祉国家においては、社会的・経済的な弱者に対して、現実の不公平を解消するために実質的平等・結果の平等を一定程度要請することが必要となった。

 もっとも、実質的平等の実現は、14条を根拠に、現実の具体的な権利が認められるのではなく、社会権の保障にかかわる問題とされる。ただし、社会権を保障するための施策や積的差別是正措置の合理性を考慮するにあたって、実質的平等の実現が考慮されている。

 

(2)主体

*平等権は、他の人権と同じく生まれながらにして有する権利である。したがって、日本国民に保障されることには争いがない。

*外国人に対しても、人権の前憲法的性格から、平等原則は、権利の性質上適用可能な事項については特段の事情がない限り平等権が保障される。

*天皇及び皇族に対しては、憲法自体が想定する皇位の世襲と職務の特殊性から必要最小限度の特例が認められ、それ以外の事項については平等権が保障される。

 

(3)法の下の平等

「法の下」とは、平等権が憲法上の権利として立法上も要請される観点から、法律の適用のみの平等(立法者非拘束説)ではなく、立法者を拘束し、法律の内容そのものが平等であること(立法者拘束説)を要請すると解される。

 

「平等」とは、各人の事情の相違を考慮せずに同一の処遇を要請する絶対的平等は現実的でなくかえって個々人の自由・平等取扱いを損なうので、人間の具体的な差異があることを前提に、その差異に相応した法的取扱いをみとめつつ、その差異に相応した法的取扱いの比率の均衡を要求するものである。恣意的・合理的根拠を欠く差別は許されないが、合理的根拠を有する別異取扱いは憲法上許容される。

 

(4)1項前段と後段の関係

本条1項後段に掲げられた人種・信条等の差別禁止事由は、歴史的に存在した不合理な差別事由を例示として列挙したものと解される。もっとも、歴史的に存在した不合理な差別として、その性質ごとに厳格な判断を要求しているとの特別の意味を読み込む見解も有力である。

 

(5)違憲審査基準

①本条1項後段列挙事由のつき人種・信条・門地による差月、あるいは精神的自由権ないし憲法上それに関連・同視できる程度の重要な権利(選挙権等に)については、不合理性が想定され、あるいは重要な権利にかかわるものとして慎重な審査が要求されるので、立法目的が必要不可欠なもので、立法目的達成手段が必要最小限度のものであるかという厳格な審査基準を適用し

②経済的自由の積極規制目的や社会経済的規制立法などの立法裁量を広く認める事項については、立法裁量を尊重し、立法目的が正当で、目的と手段との間に合理的な関連性を有するかという緩やかな基準を適用し、

③本条1項後段列挙事由のつき性別や社会的身分による差別・経済的自由のうち消極目的については、その性質上一定の慎重な判断が要請されるとして、目的が重要で、手段との間に実質的関連性があることを要求する厳格な合理性の基準を適用する

との見解が学説上有力である。

 

判例は、事柄の性質に即応した合理的な根拠に基づく別異取扱いであるか否かを検討する。

 

 

 

 

(6)人種とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身(人種差別撤廃条約1条)

 

(7)信条とは、宗教・信仰のみならず、思想・世界観等を含む一切の信条をいう。

 

(8)性別

 

(9)社会的身分とは、広く人が社会おいて、一時的ではなしに占めている施設

 

(10)門地とは、家系・血統等の家柄を指す。

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