憲法重要判例六法F

憲法についての条文・重要判例まとめ

カテゴリ: 憲法

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憲法目次Ⅲ

憲法目次Ⅳ


日本国憲法【全文】

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自 由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法 を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこ れを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
  日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安 全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地 位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


【平和的生存権の裁判規範性】

・札幌高判昭和51年8月5日
 平和的生存権と法律上の利益
被控訴人らは本件解除処分は航空自衛隊第三高射群基地の建設を目的とするものであるから、右基地周辺の住民である被控訴人らは、いわゆる基地公害 のほか一朝有事の際には直接の攻撃目標とされ、憲法前文等に根拠を有する「平和のうちに生存する権利」を具体的に侵害されるおそれがあるとして、単に生 命、身体、財産の安全等の利益にとどまらず、右平和的生存権の侵害を理由としても、本件解除処分の取消しを求める法律上の利益を有するものであると主張す る。
憲法前文は、その形式上憲法典の一部であつて、その内容は主権の所在、政体の形態並びに国政の運用に関する平和主義、自由主義、人権尊重主義等を 定めているのであるから、法的性質を有するものといわなければならない。ところで、前文第一項は、憲法制定の目的が平和主義の達成と自由の確保にあること を表明し、わが国の主権の所在が国民にあり、主権を有する日本国民が日本国憲法を確定するものであること及びわが国が国政の基本型態として代表制民主制を とることを規定しているところ、国民主権主義を基礎づける右民主権の存在の宣明は同時に憲法制定の根拠が国民の意思に依拠するものであることを具体的に確 定し、また、国政の基本原理である民主主義から基礎づけられた統治組織に関する型態としての代表民主制度については同項でこれに反する一切の憲法、法令及 び詔勅を排除する旨規定しているところから、右はいずれも一定の制度として確定され、その法的拘束力は絶対的なものであるといわなければならないものであ るが、国政の運用に関する主義原則は、規定の内容たる事項の性質として、また規定の形式の相違において、その法的性質には右と異なるものがあるといわなけ ればならない。前文第二項は、平和主義の原則について、第一項において憲法制定の動機として表明した、諸国民との協和による成果と自由のもたらす恵沢の確 保及び戦争の惨禍の積極的回避の決意を、総じて日本国民の平和への希求であると観念し、これを第一段では日本国民の安全と生存の保持、第二段では専制と隷 従、圧迫と偏狭の除去、第三段では恐怖と欠乏からの解放という各視点から、より多角的にとらえて平和の実現を志向することを明らかにし、更に前文第三項 は、日本国民としての右平和への希求を政治道徳の面から国の対外的施策にも生かすべきことを規定しているもので、これにより憲法は、自由、基本的人権尊 重、国際協調を含む平和をわが国の政治における指導理念とし、国政の方針としているものということができる。したがつて、右第二、第三項の規定は、これら 政治方針がわが国の政治の運営を目的的に規制するという意味では法的効力を有するといい得るにしても、国民主権代表制民主制と異なり、理念としての平和の 内容については、これを具体的かつ特定的に規定しているわけではなく、前記第二、第三項を受けるとみられる第四項の規定に照しても、右平和は崇高な理念な いし目的としての概念にとどまるものであることが明らかであつて、前文中に定める「平和のうちに生存する権利」も裁判規範として、なんら現実的、個別的内 容をもつものとして具体化されているものではないというほかないものである。



・札幌地裁昭和48年9月7日
森林法を憲法の秩序のなかで位置づけたうえで、その各規定を理解するときには、同法第三章第一節の保安林制度の目的も、たんに同法第二五条第一項各号に列 挙された個個の目的にだけ限定して解すべきではなく、右各規定は帰するところ、憲法の基本原理である民主主義、基本的人権尊重主義、平和主義の実現のため に地域住民の「平和のうちに生存する権利」(憲法前文)すなわち平和的生存権を保護しようとしているものと解するのが正当である。したがつて、もし被告の なんらかの森林上の処分によりその地域住民の右にいう平和的生存権が侵害され、また侵害される危険がある限り、その地域住民にはその処分の瑕疵を争う法律 上の利益がある。



・名古屋高裁平成20年4月17日
  本件差止請求等の根拠とされる平和的生存権について
  憲法前文に「平和のうちに生存する権利」と表現される平和的生存権は、例えば、「戦争と軍備及び戦争準備によって破壊されたり侵害ないし抑制 されることなく、恐怖と欠乏を免れて平和のうちに生存し、また、そのように平和な国と世界をつくり出していくことのできる核時代の自然権的本質をもつ基本 的人権である。」などと定義され、控訴人らも「戦争や武力行使をしない日本に生存する権利」、「戦争や軍隊によって他者の生命を奪うことに加担させられな い権利」、「他国の民衆への軍事的手段による加害行為と関わることなく、自らの平和的確信に基づいて平和のうちに生きる権利」、「信仰に基づいて平和を希 求し、すべての人の幸福を追求し、そのために非戦・非暴力・平和主義に立って生きる権利」などと表現を異にして主張するように、極めて多様で幅の広い権利 であるということができる。
  このような平和的生存権は、現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしには存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎に あってその享有を可能ならしめる基底的権利であるということができ、単に憲法の基本的精神や理念を表明したに留まるものではない。法規範性を有するという べき憲法前文が上記のとおり「平和のうちに生存する権利」を明言している上に、憲法9条が国の行為の側から客観的制度として戦争放棄や戦力不保持を規定 し、さらに、人格権を規定する憲法13条をはじめ、憲法第3章が個別的な基本的人権を規定していることからすれば、平和的生存権は、憲法上の法的な権利と して認められるべきである。そして、この平和的生存権は、局面に応じて自由権的、社会権的又は参政権的な態様をもって表れる複合的な権利ということがで き、裁判所に対してその保護・救済を求め法的強制措置の発動を請求し得るという意味における具体的権利性が肯定される場合があるということができる。例え ば、憲法9条に違反する国の行為、すなわち戦争の遂行、武力の行使等や、戦争の準備行為等によって、個人の生命、自由が侵害され又は侵害の危機にさらさ れ、あるいは、現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされるような場合、また、憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合に は、平和的生存権の主として自由権的な態様の表れとして、裁判所に対し当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができる場合 があると解することができ、その限りでは平和的生存権に具体的権利性がある。
  なお、「平和」が抽象的概念であることや、平和の到達点及び達成する手段・方法も多岐多様であること等を根拠に、平和的生存権の権利性や、具 体的権利性の可能性を否定する見解があるが、憲法上の概念はおよそ抽象的なものであって、解釈によってそれが充填されていくものであること、例えば「自 由」や「平等」ですら、その達成手段や方法は多岐多様というべきであることからすれば、ひとり平和的生存権のみ、平和概念の抽象性等のためにその法的権利 性や具体的権利性の可能性が否定されなければならない理由はないというべきである。


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日本国憲法   第一章 天皇

 

第一条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 

第二条  皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する。

 

第三条  天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

 

第四条  天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

○2  天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。

 

第五条  皇室典範 の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

 

第六条  天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。

○2  天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

 

 

【民事裁判権】

最判平成元年11月20日

天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であることにかんがみ、天皇には民事裁判権が及ばないものと解するのが相当である。

 

【天皇の基本的人権】

富山地平成10年12月16日

()(1) そこで県教育委員会による本件作品の特別観覧許可申請の不許可、県立美術館及び県教育委員会による本件図録の閲覧の拒否が、その他の原告らの有する知る権利に対する必要かつ合理的な範囲内の制限であるとして是認されるか否かについて検討する。

 (2) この点について、被告らは、まず、本件作品及び本件図録を非公開とした理由として、天皇も自然人として人格権を有しているところ、本件作品は昭和天皇のプライバシーの権利ないし肖像権を侵害するかその疑いがある旨主張する。

 ところで、憲法一三条は、いわゆるプライバシーの権利を保障しており、公権力がその人の意思に反して接触を強要し、その人の道徳的自立の存在に関わる情報を取得し、あるいは利用ないし対外的に開示することは原則的に禁止され、また、国民の私生活上の自由の一つとしていわゆる肖像権を保障しており、国民は、その承諾なしに、みだりにその容貌、姿態を撮影されない自由を有しているものと解される。そして、天皇も憲法第三章にいう国民に含まれ、したがって、憲法の保障する基本的人権の享有主体であり、天皇の地位の世襲制、天皇の象徴としての地位、天皇の職務からくる最小限の特別扱いのみが認められるものと解されるから、天皇にもプライバシーの権利や肖像権が保障されることとなる。ただし、天皇の象徴としての地位、天皇の職務からすると、天皇についてはプライバシーの権利や肖像権の保障は制約を受けることになるものと解するのが相当である。

 これを本件についてみると、本件作品は、前記第二、二、2のとおり、昭和天皇の肖像と東西の名画、解剖図、家具、裸婦などを組み合わせて構成されたものであること、さらに、本件作品は既に撮影された昭和天皇の写真を利用して製作されたものであるから、新たにその容貌等を撮影されない自由としての肖像権を侵害するか否かという問題にはならないこと、個人の私生活に関する情報を含まない単なる容貌等についての写真は右にいうプライバシーの権利が保障する個人の道徳的自立の存在に直接関わる情報ではないから、そのような写真を利用ないし対外的に開示しても直ちにプライバシーの権利の侵害になるとはいえないところ、本件作品において利用された昭和天皇の写真は何ら昭和天皇個人の私生活に関する情報を含まないものであり、かつ、その利用の仕方からしても昭和天皇個人の私生活に関する情報を開示するものではないと認められること(甲一五二、検甲一ないし四)、さらに、右にみたように、天皇の象徴としての地位、天皇の職務からすると、天皇についてはプライバシーの権利や肖像権の保障は制約を受けることを総合考慮すると、本件作品が昭和天皇のプライバシーの権利や肖像権を侵害するとか、その疑いがあるとは認められない。


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第七条  天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。

 国会を召集すること。

 衆議院を解散すること。

 国会議員の総選挙の施行を公示すること。

 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。

 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。

 栄典を授与すること。

 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。

 外国の大使及び公使を接受すること。

 儀式を行ふこと。

 

第八条  皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。

 

 

【内閣の助言と承認】

東京高裁昭和29年9月22日

衆議院の解散に関する上奏のときに全閣僚の意見の一致と署名がなく、解散詔書が発布されても、その後これが持回り閣議の方法により追完され、かつ解散詔書の伝達に関し閣議で全員が可決したときは、内閣の助言と承認があつたものと解してよい。

 

【法令の公布】

最大判昭和32年12月28日

法令の公布は、官報による以外の方法でされることを絶対に認めえないとまではいえないが、特に国家がこれに代る他の適当な方法で行うものであることが明らかな場合でない限り、公式令廃止後も通常官報をもつてされると解するのが相当である。

 

最大判昭和33年10月15日

「一般国民において知り得べき状態におかれたとき」とは

法令を官報により公布する場合においては、その法令を掲載した官報が印刷局より全国の各官報販売所に発送され、これを一般希望者がいずれかの官報販売所または印刷局官報課において、閲覧しまたは購読しようとすれば、それをなしえた最初の時点までには遅くとも公布されたものと解すべきである。

 

【衆議院の解散】

東京高判昭和29年9月22日

衆議院の解散は、憲法六九条の場合のみに行われるものではない。

憲法は、いかなる場合に解散を行えるかについて何らの規定も設けておらず、政治的裁量にゆだねられている。

解散権を形式上、天皇に帰属せしめ、政治上の責任を負う内閣の助言と承認のもとにこれを行使せしめるのが、7条の趣旨である。

 

*解散の効力

最判昭和29年4月22日

仮に解散が無効でその後に施行された選挙も法律上効力がないとしても、その選挙において行われた公職選挙法違反罪に刑事責任がないとはいえない。

 

最判昭和29年3月25日

衆議院の解散が無効であつても、解散に基づく選挙は、それ自体非合法な無効な選挙ではない。

 

*解散に対する司法審査

最大判昭和35年6月8日

本件解散無効に関する主要の争点は、本件解散は憲法六九条に該当する場合でないのに単に憲法七条に依拠して行われたが故に無効であるかどうか、本件解散に関しては憲法七条所定の内閣の助言と承認が適法に為されたかどうかの点にあることはあきらかである。

 しかし、現実に行われた衆議院の解散が、その依拠する憲法の条章について適用を誤つたが故に、法律上無効であるかどうか、これを行うにつき憲法上必要とせられる内閣の助言と承認に瑕疵があつたが故に無効であるかどうかのごときことは裁判所の審査権に服しないものと解すべきである。

 日本国憲法は、立法、行政、司法の三権分立の制度を確立し、司法権はすべて裁判所の行うところとし(憲法七六条一項)、また裁判所法は、裁判所は一切の法律上の争訟を裁判するものと規定し(裁判所法三条一項)、これによつて、民事、刑事のみならず行政事件についても、事項を限定せずいわゆる概括的に司法裁判所の管轄に属するものとせられ、さらに憲法は一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを審査決定する権限を裁判所に与えた(憲法八一条)結果、国の立法、行政の行為は、それが法律上の争訟となるかぎり、違憲審査を含めてすべて裁判所の裁判権に服することとなつたのである。

 しかし、わが憲法の三権分立の制度の下においても、司法権の行使についておのずからある限度の制約は免れないのであつて、あらゆる国家行為が無制限に司法審査の対象となるものと即断すべきでない。直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であつても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきである。この司法権に対する制約は、結局、三権分立の原理に由来し、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判に必然的に随伴する手続上の制約等にかんがみ、特定の明文による規定はないけれども、司法権の憲法上の本質に内在する制約と理解すべきものである。

 衆議院の解散は、衆議院議員をしてその意に反して資格を喪失せしめ、国家最高の機関たる国会の主要な一翼をなす衆議院の機能を一時的とは言え閉止するものであり、さらにこれにつづく総選挙を通じて、新な衆議院、さらに新な内閣成立の機縁を為すものであつて、その国法上の意義は重大であるのみならず、解散は、多くは内閣がその重要な政策、ひいては自己の存続に関して国民の総意を問わんとする場合に行われるものであつてその政治上の意義もまた極めて重大である。すなわち衆議院の解散は、極めて政治性の高い国家統治の基本に関する行為であつて、かくのごとき行為について、その法律上の有効無効を審査することは司法裁判所の権限の外にありと解すべきことは既に前段説示するところによつてあきらかである。そして、この理は、本件のごとく、当該衆議院の解散が訴訟の前提問題として主張されている場合においても同様であつて、ひとしく裁判所の審査権の外にありといわなければならない。

 本件の解散が憲法七条に依拠して行われたことは本件において争いのないところであり、政府の見解は、憲法七条によつて、―すなわち憲法六九条に該当する場合でなくとも、―憲法上有効に衆議院の解散を行い得るものであり、本件解散は右憲法七条に依拠し、かつ、内閣の助言と承認により適法に行われたものであるとするにあることはあきらかであつて、裁判所としては、この政府の見解を否定して、本件解散を憲法上無効なものとすることはできないのである。

 

 

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日本国憲法第9条 戦争の放棄

 

   第二章 戦争の放棄

 

第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

【憲法9条の意義・自衛権】

最大判昭和34年12月16日

憲法九条二項前段の規定の意義につき判断する。そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および九八条二項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち、九条一項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条二項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。

 

憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。

 

 そこで、右のような憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。

 

【戦争放棄の範囲】

札幌地判昭和48年9月7日

 第三、憲法の平和主義と同法第九条の解釈

  一、憲法前文の意義

   1 およそ一国の基本法たる憲法において、それを構成する各個の条項の記述に先だつて、前文としてその憲法制定の由来、動機、目的、あるいは基本的原理などが明記され、また宣言されていることは、しばしばみられるところである。

 わが国の現行憲法も、前文を四項にわけ、その第一項ないし第三項において「憲法の憲法」とでもいうべき基本原理を定めている。それは、国民主権主義と、基本的人権尊重主義と、そして平和主義である。

   2 平和主義については、まずその前文第一項第一段において、「日本国民は……諸国民との協和による成果とわが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、……この憲法を確定する。」と規定し、また、その第二項においては、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するものであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と規定し、そして、第三項において、「われらは、いずれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、……各国の責務であると信ずる。」旨述べたあと、最終第四項で、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」として前文を結んでいる。

 このような憲法の基本原理の一つである平和主義は、たんにわが国が、先の第二次世界大戦に敗れ、ポツダム宣言を受諾させられたという事情から受動的に、やむをえず戦争を放棄し、軍備を保持しないことにした、という消極的なものではなく、むしろ、その前文にもあるごとく、「われらとわれらの子孫のために……わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、……再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」(第一項)するにいたつた積極的なものである。すなわち、一方では、この平和への決意は、たんに今次太平洋戦争での惨禍をこうむつた体験から生じた戦争嫌悪の感情からくる平和への決意にとどまらず、それは、日清、日露戦争以来今次大戦までのすべてについて、その原因、ならびに、わが国の責任を冷静にかつ謙虚に反省し、さらに、その結果を、後世の子孫たちに残すことにより、将来ふたたび戦争をくり返さない、という戦争防止への情熱と、幸福な国民生活確立のための熱望に支えられた、理性的な平和への決意であり、そしてまた、他方において、一般に戦争というものが、たんに自国民だけではなく、広く世界の他の諸国民にも、限りない惨禍と、底知れない不幸をもたらすことは、必然的であつて、このような悲劇についての心底からの反省に基づき、今後そのような悲劇を、わが国民だけではなく、人類全体が決してこうむることのないように、みずから進んで世界の恒久平和を念願し、人類の崇高な理想を自覚して、積極的にそれを実現するように努めることの決意である。そして、この決意は、現在および将来の国民の心のなかに生き続け、真に日本の平和と安全を守り育てるものであり、究極的には、全世界の平和をもたらすことになるものである。

 このように、わが国は、平和主義に立脚し、世界に先んじて軍備を廃止する以上、自国の安全と存立を、他の諸外国のように、最終的には軍備と戦争によるというのではなく、国内、国外を問わず戦争原因の発生を未然に除去し、かつ、国際平和の維持強化を図る諸活動により、わが国の平和を維持していくという積極的な行動(憲法前文第二段)のなかで究極的には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」(同第二項第一段)のである。これは、なによりもわが国が、平和憲法のもとに国民の権利、自由を保障する民主主義国家として進むことにより、国内的に戦争原因を発生させないこと、さらに、平和と国家の繁栄を求めている世界の諸国のなかで、右のように、平和的な民主主義国家として歩むわが国の生存と安全を脅かすものはいないという確信、そしてまた、今日世界各国の国民が、人類の経験した過去のいついかなる時期にもまして、わが国と同様に、自国の平和と不可分の世界平和を念願し、世界各国の間において、平和を乱す対立抗争があつてはならない、という信念がいきわたつていること、最後に、国際連合の発足によつて、戦争防止と国際間の安全保障の可能性が芽ばえてきたこと、などに基礎づけられているものといえる。このことは、憲法が、その前文第二項第二段からとりわけ第三項において、自国のみならず世界各国に対しても、利己的な、偏狭な国家主義を排斥する旨宣言して、自国のことばかりにとらわれて、他国の立場を顧慮しようとしない独善的な態度を強くいましめていることからも明らかである。

 このような前文のなかからは、万が一にも、世界の国国のうち、平和を愛することのない、その公正と信義を信頼できないような国、または国家群が存在し、わが国が、その侵略の危険にさらされるといつた事態が生じたときにも、わが国みずからが軍備を保持して、再度、武力をもつて相戦うことを容認するような思想は、まつたく見出すことはできないといわなければならない。

   3 このような憲法前文での平和主義は、他の二つの基本原理である国民主権主義、および基本的人権尊重主義ともまた密接不可分に結びついているといわなければならない。

    (1) すなわち、憲法前文第一項は、前記した「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、」に続けて、「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確立する。」とし、さらに、「そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。」と平和主義と国民主権主義とを結びつけていることからも明らかである。このことは、過去の歴史上、戦争が、国民の生命財産を守るために国民の意思によつておこなわれたことよりも、しばしば、国民とは遊離した一部の者が支配する政府の独善と偏狭のために原因が形成され、ぼつ発したという事実に基づいて、そのような過ちを二度とくり返さないために、国民主権のもとに強く政府の行動を規制し、その独善と専行を排除することにより、平和の万全を確立しようとするものであり、他面、国民主権主義が、真に国民のためのものとして確立されるためには、そこには、平和主義が十全に確保されていなければならないとの思想に基礎づけられているものである。

    (2) 他方、前文第二項は、前記した平和主義の規定に続けて、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」ことを明記している。これは、この平和的生存権が、全世界の国民に共通する基本的人権そのものであることを宣言するものである。そしてそれは、たんに国家が、その政策として平和主義を掲げた結果、国民が平和のうちに生存しうるといつた消極的な反射的利益を意味するものではなく、むしろ、積極的に、わが国の国民のみならず、世界各国の国民にひとしく平和的生存権を確保するために、国家みずからが、平和主義を国家基本原理の一つとして掲げ、そしてまた、平和主義をとること以外に、全世界の諸国民の平和的生存権を確保する道はない、とする根本思想に由来するものといわなければならない。

 これらの思想は、また、国際連合憲章前文にもみられるところであり、さらに、第三回国連総会において採択された「人権に関する世界宣言」の前文に、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利との承認は、世界における自由、正義および平和の基礎をなしているので、人権の無視と軽べつとは、人類の良心をふみにじつた野蛮な行為を招来したのであり、また、人間が言論及び信仰の自由と恐怖及び欠乏からの自由(解放)を享有する世界の到来はあらゆる人たちの最高の熱望として宣言されて来た」、という文言によつても明らかにされているところであつて、わが国の憲法も、これらの思想と合致し、これをさらに徹底したものである。

 そして、この、社会において国民一人一人が平和のうちに生存し、かつ、その幸福を追及することのできる権利をもつことは、さらに、憲法第三章の各条項によつて、個別的な基本的人権の形で具体化され、規定されている。ここに憲法のいう平和主義と基本的人権尊重主義の二つの基本原理も、また、密接不可分に融合していることを見出すことができる。

   4 そして、国民主権主義が国民各自の基本的人権尊重と、これまた不可分に結びついていることは、改めて述べるまでもないことであつて、ここに三基本原理は、相互に融和した一体として、現行憲法の支柱をなしているものであつて、そのいずれか一つを欠いても、憲法体制の崩壊をもたらすことは、多言を要しないところである。

 前文の最後は、これらの憲法を貫く諸原理は、たんに美辞麗句に終ることのないように、日本国民みずからが、国家の名誉にかけて、全力をもつてこれらの崇高な理想と目的を達成することを、全世界の前に宣言したものである。

  二、憲法第九条の解釈

   1 憲法第九条の解釈は、前述の憲法の基本原理に基づいておこわなければならない。なぜならば、第九条を含めた憲法の各条項は、前記基本原理を具体化して個別的に表現したものにほかならないからである。

 憲法第九条第一項は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際粉争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と規定し、同条第二項は、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と規定している。

   2 まず第九条第一項についてみると、

    (1) 「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する」旨の文言は、前文掲記の平和主義を、第九条の規定にあたつても、再認確し、さらに、あらゆる国家が、正義と秩序を尊重し、平和を愛好するものであり、それを信頼するとともに、国際社会に正義と秩序が支配するならば、平和が保持されるとの確信のもとに、それを誠実に希求し、かつ、その目的のたあに、同項に以下の規定を置くとするものである。

    (2) 「国権の発動たる戦争」とは、国家行為としての戦争と同意義である。なお本項では国権の発動によらない戦争の存在を容認する趣旨ではない。

    (3) 「武力による威嚇又は武力の行使」ここにいう「武力」とは、実力の行使を目的とする人的および物的設備の組織体であるが、この意味では、後記第九条第二項にいう「戦力」と同じ意味である。「武力による威嚇」とは、戦争または戦闘行為に訴えることをほのめかしてなされる威嚇であり、「武力の行使」とは、国際法上認められている戦争行為にいたらない事実上の戦闘行為を意味する。

    (4) 「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」ここにおいて、国際紛争を解決する手段として放棄される戦争とは、不法な戦争、つまり侵略戦争を意味する。この「国際紛争を解決する手段として」という文言の意味を、およそいつさいの国際紛争を意味するものとして、憲法は第九条第一項で自衛戦争、制裁戦争をも含めたいかなる戦争をも放棄したものであるとする立場もあるが、もしそうであれば、本項において、とくに「国際紛争を解決する手段として」などと断る必要はなく、また、この文言は、たとえば、一九二八年の不戦条約にもみられるところであり、同条約では、当然に、自衛戦争、制裁戦争を除いたその他の不法な戦争、すなわち、侵略戦争を意味するものと解されており(このことは同条約に関してアメリカの国務長官が各国に宛てた書簡に明記されている。)、以後、国際連盟規約、国際連合憲章の解釈においても、同様の考えを前提としているから、前記した趣旨に解するのが相当と思われる。したがつて、本条項では、未だ自衛戦争、制裁戦争までは放棄していない。

   3 つぎに同条第二項についてみる。

    (1) 「前項の目的を達成するため」の「前項の目的」とは、第一項を規定するに至つた基本精神、つまり同項を定めるに至つた目的である「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求(する)」という目的を指す。この「前項の目的」なる文言を、たんに第一項の「国際紛争を解決する手段として」のみに限定して、そのための戦争、すなわち、不法な戦争、侵略戦争の放棄のみの目的と解すべきではない。なぜなら、それは、前記した憲法前文の趣旨に合致しないばかりか、後記するように、現行憲法の成立の歴史的経緯にも反し、しかも、本項の交戦権放棄の規定にも抵触するものであり、かつ、現行憲法には宣戦、講和などの戦争行為に関するいつさいの規定を置いていないことからも明らかである。

    (2) 「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」「陸海空軍」は、通常の観念で考えられる軍隊の形態であり、あえて定義づけるならば、それは「外敵に対する実力的な戦闘行動を目的とする人的、物的手段としての組織体」であるということができる。このゆえに、それは、国内治安を目的とする警察と区別される。「その他の戦力」は、陸海空軍以外の軍隊か、または、軍という名称をもたなくとも、これに準じ、または、これに匹敵する実力をもち、必要ある場合には、戦争目的に転化できる人的、物的手段としての組織体をいう。このなかにはもつぱら戦争遂行のための軍需生産設備なども含まれる。ここで、その他の戦力の意味をひろく戦争のための手段として役立ちうるいつさいの人的、物的勢力と解することは、近代社会に不可欠な経済、産業構造のかなりの部分がこれに含まれることになり妥当ではない。

 このようにして、本項でいつさいの「戦力」を保持しないとされる以上、軍隊、その他の戦力による自衛戦争、制裁戦争も、事実上おこなうことが不可能となつたものである。

    (3) 被告は、「外部からの不正な武力攻撃や侵略を防止するために必要最少限度の自衛力は憲法第九条第二項にいう戦力にはあたらない」旨主張する。しかしながら、憲法の同条項にいう「戦力」という用語を、通常一般に社会で用いられているのと意味を異にして憲法上独特の意味に解しなければならないなんらの根拠を見出すことができないうえ、前記と同様に、かような解釈は、憲法前文の趣旨にも、また憲法の制定の経緯にも反し、かつ、交戦権放棄の条項などにも抵触するものといわなければならない。

 とりわけ、自衛力は戦力でない、という被告のような考え方に立つと、現在世界の各国は、いずれも自国の防衛のために必要なものとしてその軍隊ならびに軍事力を保有しているのであるから、それらの国国は、いずれも戦力を保有していない、という奇妙な結論に達せざるをえないのであつて、結局、「戦力」という概念は、それが、自衛または制裁戦争を目的とするものであるか、あるいは、その他の不正または侵略戦争を目的とするものであるかにかかわらず、前記したように、その客観的性質によつてきめなければならないものである。

    (4) 「国の交戦権は、これを認めない。」 「交戦権」は、国際法上の概念として、交戦国が国家としてもつ権利で、敵の兵力を殺傷、破壊したり、都市を攻撃したり、占領地に軍政をしいたり、中立国に対しても一定の条件のもとに船舶を臨検、拿捕し、また、その貨物を没収したりなどする権利の総称をいう。この交戦権を、ひろく国家が戦争をする権利と解する立場は、第一項の「国権の発動たる戦争」と重複し、妥当ではない。

 またこの交戦権放棄の規定は、文章の形からいつても、(1)で記述した「前項の目的を達するため」の文言にはかからず、したがつて、その放棄は無条件絶対的である。このため、この「前項の目的」の解釈に際し、侵略戦争の放棄のみに限定し、自衛戦争および制裁戦争は放棄されていないとする立場、ならびに本項で自衛力は戦力に含まれないとして、自衛戦争を容認する被告の立場は、少なくとも、いかなる形にせよ戦争を承認する以上、その限度で、国際法上の交戦権もまた容認しなければ不合理であつて、これらの立場は、いずれも、この交戦権の絶対的放棄に抵触するものといわなければならない。

  三、右憲法解釈の実質的な裏づけ

 以上のような当裁判所の解釈は、つぎのような憲法成立の経緯、その他の事実によつても裏づけられるものである。

   1(1) 現行憲法が、第二次世界大戦でのわが国の敗戦の結果生まれたものであること、そして、この敗戦が、昭和二〇年(一九四五年)八月一〇日わが国がポツダム宣言を受諾したことによることはいうまでもない。

 ポツダム宣言は、その第六項において、「吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ」と、第七項では「右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ聯合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル根本的目的ノ達成ヲ確保スル迄占領セラルベシ」と、また、第九項で「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」と、そしてさらに、第一一項第一段に「日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且ツ公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコト許サルベシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ」と各明記している。

 このようなポツダム宣言のもとに、同年八月一五日、戦後の日本が再出発したのである。

    (2) かくして、新生日本となつたわが国において、昭和二一年三月六日政府から「憲法改正草案要綱」が発表されたのち、同年四月一〇日衆議院議員の総選挙がおこなわれ、ついで同月一七日「憲法改正案」が発表され、そして、同年五月一六日に召集された第九〇帝国議会(いわゆる制憲議会)に政府は右改正案を上程した。右議会の審議において、当時の内閣総理大臣吉田茂は同案に「戦争放棄」の規定を置くにいたつた動機について、つぎのように述べている。

 「政府が憲法改正の必要を認めまして、研究に着手しましてから、欧米その他の日本に対する感情、考え方に付て色々事態が明瞭になつて来ますると共に、日本の国際関係に於て容易ならざるものがあることを考えざるを得なくなつたのであります。先ず第一、日本の従来に於ける国家組織、この国家組織が再び世界の平和を脅かすが如き組織であると誤解されたのであります。日本を戦争に導いた原因、国情、組織等が世界の平和に非常な危険を感ぜしむるものありと誤解されたことであります。随て、又日本が再軍備をして世界の平和を紊す、攪乱することの危険がありはしないか、これは聯合国に於て最も懸念した所であります。故に先ず第一に聯合国と致しまして、日本に対して求むる所は日本の軍備の撤去であります。日本が再軍備が出来ないようにする。日本の軍備撤去と云うこと、世界の平和を脅かさざるような国体の組織にすると云うことが必要である。これは固より誤解から生じたのであります。……併しながらこの五箇年の間の戦の悲惨なる結果から見まして、斯の如く考え、又世界が平和を愛好すると云う精神から考えまして、日本に対する疑惑、懸念は又尤もと考えざるを得ないのであります。……斯くの如き疑惑の下にあつて、……日本が如何にして国体を維持し、国家を維持するかと云う事態に際会して考えて見ますると、日本の国体、日本の国家の基本法たる憲法を、まず平和主義、民主主義を徹底せしめて、日本憲法が毫も世界の平和を脅かすが如き危険の国柄でないと云うことを表明する必要を、政府と致しましては深く感得したのであります。」(逐条日本国憲法審議録第一巻四二、四三頁)

 また憲法第九条の規定に関しては同総理大臣はつぎのように説明をしている。

 「戦争抛棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定しては居りませぬが、第九条第二項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も抛棄したのであります。従来近年の戦争は多く自衛権の名に於て戦われたのであります。満洲事変然り、大東亜戦争亦然りであります。今日我が国に対する疑惑は、日本は好戦国である、何時再軍備をなして復讐戦をして世界の平和を脅かさないとも分からないというのが、日本に対する大なる疑惑であり、又誤解であります。先ず此の誤解を正すことが今日我々としてなすべき第一のことであると思うのであります。又この疑惑は誤解であるとは申しながら、全然根抵のない疑とも言われない節が既往の歴史を考えて見ますると多々あるのであります。故に我が国に於ては如何なる名義をもつてしても交戦権は先づ第一進んで抛棄する、抛棄することに依つて全世界の平和の確立の基礎を成す、全世界の平和愛好国の先頭に立つて、世界の平和確立に貢献する決意を先づ此の憲法において表明したいと思うのであります。」(前同審議録第二巻八二、八三頁)

 同様の趣旨は、国務大臣金森徳次郎の右議会での説明にもみられる。すなわち同国務大臣は、「第九条の規定は……本当に人類の目覚めの道を日本が第一歩を踏んで、模範を垂れる積りで進んで行かう、斯う云う勇断を伴つた規定である訳であります。……此の第一項に該当しまする部分、詰り不戦条約を明らかにするような規定は、世界の諸国の憲法中類例を若干見得るものであります。日本ばかりが先駆けて居ることではございませぬが併し其の第一項の規定、詰り或種の戦争はやらないと云うことをはつきり明言するだけではどうも十分なる目的は達し得ないのでありまして、諸国の憲法も之に類する定めは甚だ不十分であります。さうなりますると更に大飛躍を考へて、第二項の如き戦争に必要なる一切の手段及び戦争から生ずる交戦者の権利をなくすると云ふ所迄進んで、以て、此の画期的な道義を愛する思想を規定することが適当なこととなつたと思うのであります。」(前同審議録二巻二七頁)

 また国務大臣幣原喜重郎は右議会において戦争放棄の意義についてつぎのように述べている。「実際この改正案の第九条は戦争の抛棄を宣言し、わが国が全世界中最も徹底的な平和運動の先頭に立つて指導的地位を占むることを示すものであります。今日の時勢に尚国際関係を律する一つの原則として、或範囲内の武力制裁を合理化、合法化せむとする如きは、過去に於ける幾多の失敗を繰返えす所以でありまして、最早我が国の学ぶべきことではありませぬ。文明と戦争とは結局両立し得ないものであります。文明が速かに戦争を全滅しなければ、戦争が先ず文明を全滅することになるでありましよう。私は斯様な信念を持つて此の憲法改正案の起草の議に与つたのであります」(前同審議録第二巻二一、二二頁)

 以上のように、憲法改正案の提案者らは、制憲議会において、わが国は、完全な非武装主義に立脚して、戦争を放棄する旨言明している。したがつて、制憲議会およびこれを支える国民の意思は、永久平和主義、戦争放棄方式を憲法の基本原理の一つとして採用したことは明らかである。これら現行憲法成立経過の点からみても、前記一、二の解釈の正当であることが裏づけられる。

   2 そしてこのことは、また、旧大日本帝国憲法と現行憲法の規定のあり方を対比してみても明らかである。すなわち、かつて陸海軍を擁した旧憲法は、その第一一条において「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と、また第一二条では「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」と、さらに第一三条で「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講ジ及諸般ノ条約ヲ締結ス」と、そして第一四条で「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」と陸海軍の指揮、編成や戦争の開始および終結に関する手続などを定めていた。しかし現行憲法は、このような重要な事項に関して明文の規定を欠いていることはもちろん、それらを法律などに委任する旨の規定もまつたく置いていない。このことは現行憲法が前記のような歴史的経緯のもとに、自衛のための軍備の保有さえも排除した趣旨に解せざるをえないものといわなければならない。

   3 以上のような永久平和主義と戦争放棄に関するわが憲法の規定の渕源は、とくに、今世紀に入つて以来、世界の諸国がそれぞれの憲法や条約において取決めた幾多の戦争の禁止や制限に関する規定の流れのなかに求めることができる。

    (1) 諸外国の憲法における戦争放棄の規定の出現は、古く一八世紀にさかのぼるが、とくに今世紀に入つてからは、その数も著しく増大している。

 まずその先駆をなすものは、フランスの一七九一年の憲法(いわゆる大革命憲法)である。同憲法はその第六篇「フランス国民と他国民の関係」のなかで、「フランス国民は、征服の目的をもつていかなる戦争をも行うことを放棄し、またいかなる国民の自由に対しても決して武力を行使しない。」と規定した。これと同旨の規定は、その後、同国の一八四八年の憲法(いわゆる二月革命憲法)前文の五、一九四六年の憲法(いわゆる第四共和国憲法)前文にも引き継がれている。

 また同様に、侵略戦争の放棄については、ブラジルの一八九一年の憲法第八八条は「いかなる場合にも、ブラジル合衆国は直接にも又間接にも、自ら或は他国の同盟として征服の戦争には従事しない。」と規定し、同国の一九三四年の憲法も同旨の規定を置き、さらに、一九四六年の憲法第四条は、これに加えてその前段で、「ブラジルはその加盟する国際安全機関の定める仲裁若しくは紛争解決の平和的手段を採る余地がないか、又は失敗に帰した場合でなければ戦争に訴えない。」として、侵略戦争以外の戦争すなわち自衛戦争、制裁戦争にも厳重な制約を置き同様の趣旨の規定は同国の一九六七年の憲法第七条にも引き継がれている。

 他方、つぎに述べる一九二八年の不戦条約の戦争放棄条項を国内法化して憲法上の規定としているものもみられる。まず、スペインの一九三一年の憲法第六条は、「スペインは、国家の政策の手段としての戦争を放棄する。」と定め、続いて、フイリピンの一九三五年の憲法第二条第三節は、「フイリピンは国策遂行の手段としての戦争を放棄し、一般に受諾された国際法の諸原則を国内法の一部として採用する。」と規定し、一九四七年のビルマ憲法第二一一条、一九四九年のタイ憲法第六一条も同旨である。

 またこれとは別に、一九四七年のドイツ民主主義共和国憲法第五条第三項は、「いかなる市民も、他の国民の抑圧に仕える戦闘的行動に参加してはならない」と、同年のイタリア共和国憲法第一一条前段は、「イタリアは、他国民の自由を侵害する手段および国際紛争を解決する方法としての戦争を否認する。」と規定し、さらに、一九四八年の大韓民国憲法第六条、同国の一九六二年の憲法第四条「大韓民国は国際平和の維持に努力し、侵略戦争を否認する」の規定、一九四九年のドイツ連邦共和国憲法第二六条第一項「諸国間の平和な共同生活をみだすおそれがあり、かつその意図をもつて行われる行動、とくに侵略戦争の遂行を準備する行動は違憲とする。これらの行動は処罰する。」などの規定もある。

    (2) このような国内法上の戦争放棄の立法化の動向とともに、国際社会においても一九世紀後半から、次第に国家間の武力行使がもたらす惨禍を省み、これを防止するために国家主権を制限しようとする傾向がみられるようになつた。

 まず、一九一九年六月二八日成立した国際連盟規約(ヴエルサイユ平和条約第一編)は、その前文で、「締約国ハ戦争ニ訴ヘザルノ義務ヲ受諾シ」と明記し、さらに第一二ないし第一五条において各国が戦争に訴える前に、平和的な解決手段により争いの解決に努めるべき義務を定めて、戦争行為を制限した。その後、国際連盟は、一九二四年第五回総会でいわゆる「ジユネーブ議定書」を、また、一九二八年第八回総会でいわゆる「一般議定書」を各採択し、国際紛争の平和的処理のための調停、司法、仲裁などの手続を規定した。

 一九二八年フランス外務大臣ブリアンが発議し、これにアメリカ国務長官ケロッグが賛成して成文化された「戦争の放棄に関する条約」(いわゆる「不戦条約」)には、わが国をも含めて、世界のほとんどすべての国が加入した(もつとも当時右の不戦条約に加入していなかつたアルゼンチンほか三国の南米諸国も、これと同内容の「ラテンアメリカ不戦条約」には加入していた。)。

 同条約第一条は、「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス」と表明し、第二条で、「締約国ハ相互間ニ起ルコトアルベキ一切ノ紛争又ハ紛議ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段ニ依ルノ外之ガ処理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス」と規定し、明文をもつて、国際紛争の解決の手段としての戦争を禁止するに至つた。

 当時、右条約に加入していたわが国は、国際条約によつて侵略戦争を放棄し、自衛のためのみにその陸海軍を保有していたものとみなければならない。しかるに、昭和八年(一九三三年)に始まる満州事変を契機として、その後の日中事変、そして昭和一六年(一九四一年)に始まる第二次世界大戦への突入した歴史は未だ記憶に新らしく、そして、前述したとおり、戦後の現行憲法は、まさにかような歴史的事実をふまえて誕生するに至つたものであることを想起しなければならない。

    (3) かような幾多の戦争防止への努力も空しく、一九三九年から一九四五年の六年間にわたつた第二次世界大戦は、またしても世界各国にはかり知れない戦禍をもたらす結果となつた。一九四五年六月二六日、連合各国代表は国際連合憲章に合意した。右憲章前文では、「われらの一生のうち二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い……善良な隣人として互いに平和に生活し、国際の平和、安全を維持するために力を合わせる……」旨の決意が宣言された。そしてさらに、同憲章第二条第三項は「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によつて、国際の平和及び安全並びに正義を危くしないように解決しなければならない。」とし、同条第四項は「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」として、不法な戦争、侵略戦争、またはそれに至らない武力による威嚇、その行使を全面的に禁止し、さらに、その自衛権の行使についてさえも、同憲章第五一条は「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。」と一応容認はしているものの、さらに続けて「この自衛権の行使に当つて加盟国がとつた措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のため必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基づく権能及び責任に対してはいかなる影響も及ぼすものではない。」と規定している。

 このように現在では、世界各国のもつ自衛権の行使にすら幾多の制約が存在するものである。

    (4) このようにして、世界の潮流は、とりわけ今世紀に入つてからは、それまでの一九世紀的な国家主権の一内容としての自己保存権的自衛権の概念、そしてそれに基づく戦争行為の正当化の考え方を大きく変容させた。とくに、前記した第一次世界大戦後の不戦条約を契機として、自衛権を国家の自己保存権的色彩から脱却させ、たんに外部からの急迫不正な侵害に対する自国を防衛する権利としてのみ国際法上容認し、これを越えるいつさいの戦争行為を禁止したのである。

 しかしそれにもかかわらず、その後も、いくつかの国々においてときには「自衛」の名のもとに、ときには「自衛権の行使」と称して、戦火が絶えることなく、わずか二十有余年にして、ふたたび第二次世界大戦の惨禍に世界を巻込むに至つたことは、今ここであらためて述べるまでもない。

 そこで、前項で述べたように、第二次世界大戦後の国際連合憲章は、このような自衛権の濫用を厳しく規制するために、第五一条において自衛権の行使自体に強い制約措置を定めるに至つた。すなわち、<1>自衛権の行使を、「外国からの武力攻撃が発生した場合」のみに限定して、いわゆる先制的自衛行動を否認し(もつともこの点については若干の国際法学者からは異説が唱えられているが、世界の大多数の国々においてはこのように解されている)、<2>自衛権の行使は「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持について必要な措置をとるまでの間」に限定し、かつ、<3>加盟国がとつた自衛の「措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない」として、その報告義務を定めた。したがつて、これらの規定に従わない自衛行動は、国際法上正当な自衛権の行使とは認めることのできないものである。

 このような戦争行為の否認への流れは、まさに人類の歴史の赴くところといわなければならない。なるほど現在でもなお世界の各国が独立国として自衛権をもち、そしてこれに基づいて各国独自の軍事力を保持していることは現実の姿である。しかし、このような自衛権なるもの自体は、つねに本来その濫用の危険性をはらんでいるものであり、歴史は幾多の濫用の事実を教えていることもまた明らかである。わが国の憲法も、前述したように、このような潮流をふまえたうえで、これを越え、これに先駆けて「恒久の平和を念願し……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して……」「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占め……」、そして「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達することを誓」いながら、永久平和主義、戦争放棄の道を選んだのである。

  四、自衛権と軍事力によらない自衛行動

 もちろん、現行憲法が、以上のように、その前文および第九条において、いつさいの戦力および軍備をもつことを禁止したとしても、このことは、わが国が、独立の主権国として、その固有の自衛権自体までも放棄したものと解すべきでないことは当然である(昭和三四年一二月一六日付最高裁判所判決参照)。しかし、自衛権を保有し、これを行使することは、ただちに軍事力による自衛に直結しなければならないものではない。まず、国家の安全保障(それは究極的には国民各人の生命、身体、財産などその生活の安全を守ることにほかならない)というものは、いうまでもなく、その国の国内の政治、経済、社会の諸問題や、外交、国際情勢といつた国際問題と無関係であるはずがなく、むしろ、これらの諸問題の総合的な視野に立つてはじめてその目的を達成できるものである。そして、一国の安全保障が確保されるなによりも重要な基礎は、その国民の一人一人が、確固とした平和への決意とともに、国の平和問題を正しく認識、理解し、たえず独善と偏狭を排して近隣諸国の公正と信義を信頼しつつ、社会体制の異同を越えて、これらと友好を保ち、そして、前記した国内、国際諸問題を考慮しながら、安全保障の方法を正しく判断して、国民全体が相協力していくこと以外にありえないことは多言を要しない。そしてこのような立場に立つたとき、はじめて国の安全保障の手段として、あたかも、軍事力だけが唯一必要不可なものであるかのような、一面的な考え方をぬぐい去ることができるのであつて、わが国の憲法も、このような理念に立脚するものであることは勿論である。そして、このような見地から、国家の自衛権の行使方法についてみると、つぎのような採ることのできる手段がある。つまり甲第一七九号証、証人田畑茂二郎の尋問結果からは、自衛権の行使は、たんに平和時における外交交渉によつて外国からの侵害を未然に回避する方法のほか、危急の侵害に対し、本来国内の治安維持を目的とする警察をもつてこれを排除する方法、民衆が武器をもつて抵抗する群民蜂起の方法もあり、さらに、侵略国国民の財産没収とか、侵略国国民の国外追放といつた例もそれにあたると認められ、また証人小林直樹の尋問結果からは、非軍事的な自衛抵抗には数多くの方法があることも認めることができ、また人類の歴史にはかかる侵略者に対してその国民が、またその民族が、英知をしぼつてこれに抵抗をしてきた数多くの事実を知ることができ、そして、それは、さらに将来ともその時代、その情況に応じて国民の英知と努力によつてよりいつそう数多くの種類と方法が見出されていくべきものである。そして前記した国際連合も、その創立以来二十有余年の歴史のなかで、いくつかの国際粉争において適切な警察行動をとり、双方の衝突を未然に防止できた事実もこれに付加することができる。

 このように、自衛権の行使方法が数多くあり、そして、国家がその基本方針としてなにを選択するかは、まつたく主権者の決定に委ねられているものであつて、このなかにあつて日本国民は前来記述のとおり、憲法において全世界に先駆けていつさいの軍事力を放棄して、永久平和主義を国の基本方針として定立したのである。

憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

憲法目次Ⅳ

日本国憲法第2章 戦争の放棄 第9条 (2)砂川事件判決・百里基地訴訟判決

 

   第二章 戦争の放棄

 

第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 

○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

 

【砂川事件 最大判昭和34年12月16日】

 

一、先ず憲法九条二項前段の規定の意義につき判断する。

そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および九八条二項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。

すなわち、九条一項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条二項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。

国の交戦権は、これを認めない」と規定した。

かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。

憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。

しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。

すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。

そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。

 そこで、右のような憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。

従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。

 

二、次に、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反するかどうかであるが、その判断には、右駐留が本件日米安全保障条約に基くものである関係上、結局右条約の内容が憲法の前記条章に反するかどうかの判断が前提とならざるを得ない。

 しかるに、右安全保障条約は、日本国との平和条約(昭和二七年四月二八日条約五号)と同日に締結せられた、これと密接不可分の関係にある条約である。

すなわち、平和条約六条(a)項但書には「この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」とあつて、日本国の領域における外国軍隊の駐留を認めており、本件安全保障条約は、右規定によつて認められた外国軍隊であるアメリカ合衆国軍隊の駐留に関して、日米間に締結せられた条約であり、平和条約の右条項は、当時の国際連合加盟国六〇箇国中四〇数箇国の多数国家がこれに賛成調印している。

そして、右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。

それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきであるが、また、その成立に当つては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である。

 ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。

れ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする。

そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となつている場合であると否とにかかわらないのである。

 

三、よつて、進んで本件アメリカ合衆国軍隊の駐留に関する安全保障条約およびその三条に基く行政協定の規定の示すところをみると、右駐留軍隊は外国軍隊であつて、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となつてあだかも自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものでないことが明らかである。

 

またこの軍隊は、前述のような同条約の前文に示された趣旨において駐留するものであり、同条約一条の示すように極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに一または二以上の外部の国による教唆または干渉によつて引き起されたわが国における大規模の内乱および騒じようを鎮圧するため、わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなつており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならないことが窺えるのである。

 

 果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。

そしてこのことは、憲法九条二項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。

 (なお、行政協定は特に国会の承認を経ていないが、政府は昭和二七年二月二八日その調印を了し、同年三月上旬頃衆議院外務委員会に行政協定およびその締結の際の議事録を提出し、その後、同委員会および衆議院法務委員会等において、種々質疑応答がなされている。

そして行政協定自体につき国会の承認を経べきものであるとの議論もあつたが、政府は、行政協定の根拠規定を含む安全保障条約が国会の承認を経ている以上、これと別に特に行政協定につき国会の承認を経る必要はないといい、国会においては、参議院本会議において、昭和二七年三月二五日に行政協定が憲法七三条による条約であるから、同条の規定によつて国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決され、また、衆議院本会議において、同年同月二六日に行政協定は安全保障条約三条により政府に委任された米軍の配備規律の範囲を越え、その内容は憲法七三条による国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決されたのである。

しからば、以上の事実に徴し、米軍の配備を規律する条件を規定した行政協定は、既に国会の承認を経た安全保障条約三条の委任の範囲内のものであると認められ、これにつき特に国会の承認を経なかつたからといつて、違憲無効であるとは認められない。

 しからば、原判決が、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条二項前段に違反し許すべからざるものと判断したのは、裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し同条項および憲法前文の解釈を誤つたものであり、従つて、これを前提として本件刑事特別法二条を違憲無効としたことも失当であつて、この点に関する論旨は結局理由あるに帰し、原判決はその他の論旨につき判断するまでもなく、破棄を免かれない。

 よつて刑訴四一〇条一項本文、四〇五条一号、四一三条本文に従い、主文のとおり判決する。

 

 この判決は、裁判官田中耕太郎、同島保、同藤田八郎、同入江俊郎、同垂水克己、同河村大助、同石坂修一の補足意見および裁判官小谷勝重、同奥野健一、同高橋潔の意見があるほ

 

補足意見等略

 

 

【百里基地訴訟 最判平成元年6月20日】

 論旨は、憲法九条の規定ないし平和的生存権の保障が私法上の行為である本件売買契約に直接適用されないとしても、右規定等は民法九〇条の定める公序の内容を形成し、右規定等に違反する本件売買契約を含む本件土地取得行為は、結局公序良俗違反として無効である、というのである。

 本件売買契約は、前述のように、被上告人国が自衛隊基地の建設を目的ないし動機として締結した契約であつて、同被上告人は被上告人Dに対しこの契約を締結するに当たつて右の目的ないし動機を表示していることは明らかであるから、右の目的ないし動機は本件売買契約等が公序良俗違反となるか否かを決するについて考慮されるべき事項であるということができるので、以下自衛隊基地の建設という目的ないし動機によつて、本件売買契約等が公序良俗違反として無効となるか否かについて判断する。

 まず、憲法九条は、人権規定と同様、国の基本的な法秩序を宣示した規定であるから、憲法より下位の法形式によるすべての法規の解釈適用に当たつて、その指導原理となりうるものであることはいうまでもないが、憲法九条は、前判示のように私法上の行為の効力を直接規律することを目的とした規定ではないから、自衛隊基地の建設という目的ないし動機が直接憲法九条の趣旨に適合するか否かを判断することによつて、本件売買契約が公序良俗違反として無効となるか否かを決すべきではないのであつて、自衛隊基地の建設を目的ないし動機として締結された本件売買契約を全体的に観察して私法的な価値秩序のもとにおいてその効力を否定すべきほどの反社会性を有するか否かを判断することによつて、初めて公序良俗違反として無効となるか否かを決することができるものといわなければならない。すなわち、憲法九条の宣明する国際平和主義、戦争の放棄、戦力の不保持などの国家の統治活動に対する規範は、私法的な価値秩序とは本来関係のない優れて公法的な性格を有する規範であるから、私法的な価値秩序において、右規範がそのままの内容で民法九〇条にいう「公ノ秩序」の内容を形成し、それに反する私法上の行為の効力を一律に否定する法的作用を営むということはないのであつて、右の規範は、私法的な価値秩序のもとで確立された私的自治の原則、契約における信義則、取引の安全等の私法上の規範によつて相対化され、民法九〇条にいう「公ノ秩序」の内容の一部を形成するのであり、したがつて私法的な価値秩序のもとにおいて、社会的に許容されない反社会的な行為であるとの認識が、社会の一般的な観念として確立しているか否かが、私法上の行為の効力の有無を判断する基準になるものというべきである。

 そこで、自衛隊基地の建設という目的ないし動機が右に述べた意義及び程度において反社会性を有するか否かについて判断するに、自衛隊法及び防衛庁設置法は、昭和二九年六月憲法九条の有する意義及び内容について自衛のための措置やそのための実力組織の保持は禁止されないとの解釈のもとで制定された法律であつて、自衛隊は、右のような法律に基づいて設置された組織であるところ、本件売買契約が締結された昭和三三年当時、私法的な価値秩序のもとにおいては、自衛隊のために国と私人との間で、売買契約その他の私法上の契約を締結することは、社会的に許容されない反社会的な行為であるとの認識が、社会の一般的な観念として確立していたということはできない。したがつて、自衛隊の基地建設を目的ないし動機として締結された本件売買契約が、その私法上の契約としての効力を否定されるような行為であつたとはいえない。また、上告人らが平和主義ないし平和的生存権として主張する平和とは理念ないし目的としての抽象的概念であるから、憲法九条をはなれてこれとは別に、民法九〇条にいう「公ノ秩序」の内容の一部を形成することはなく、したがつて私法上の行為の効力の判断基準とはならないものというべきである。

 そうすると、本件売買契約を含む本件土地取得行為が公序良俗違反にはならないとした原審の判断は、是認することができる。論旨は、これと異なる見解に立つて原判決を論難するか、又は原判決の認定にそわない事実に基づいてその違法をいうものであつて、採用することができない。


 目次


外国人の基本的人権

 

【マクリーン事件】

・大判昭和53年10月4日 マクリーン事件

要旨

憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきであり、政治活動の自由についても、わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるものを除き、その保障が及ぶものと解する

 

 () 憲法二二条一項は、日本国内における居住・移転の自由を保障する旨を規定するにとどまり、外国人がわが国に入国することについてはなんら規定していないものであり、このことは、国際慣習法上、国家は外国人を受け入れる義務を負うものではなく、特別の条約がない限り、外国人を自国内に受け入れるかどうか、また、これを受け入れる場合にいかなる条件を付するかを、当該国家が自由に決定することができるものとされていることと、その考えを同じくするものと解される(最高裁昭和二九年(あ)第三五九四号同三二年六月一九日大法廷判決・刑集一一巻六号一六六三頁参照)。したがつて、憲法上、外国人は、わが国に入国する自由を保障されているものでないことはもちろん、所論のように在留の権利ないし引き続き在留することを要求しうる権利を保障されているものでもないと解すべきである。そして、上述の憲法の趣旨を前提として、法律としての効力を有する出入国管理令は、外国人に対し、一定の期間を限り(四条一項一号、二号、一四号の場合を除く。)特定の資格によりわが国への上陸を許すこととしているものであるから、上陸を許された外国人は、その在留期間が経過した場合には当然わが国から退去しなければならない。もつとも、出入国管理令は、当該外国人が在留期間の延長を希望するときには在留期間の更新を申請することができることとしているが(二一条一項、二項)、その申請に対しては法務大臣が「在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由があるときに限り」これを許可することができるものと定めている(同条三項)のであるから、出入国管理令上も在留外国人の在留期間の更新が権利として保障されているものでないことは、明らかである。

 右のように出入国管理令が原則として一定の期間を限つて外国人のわが国への上陸及び在留を許しその期間の更新は法務大臣がこれを適当と認めるに足りる相当の理由があると判断した場合に限り許可することとしているのは、法務大臣に一定の期間ごとに当該外国人の在留中の状況、在留の必要性・相当性等を審査して在留の許否を決定させようとする趣旨に出たものであり、そして、在留期間の更新事由が概括的に規定されその判断基準が特に定められていないのは、更新事由の有無の判断を法務大臣の裁量に任せ、その裁量権の範囲を広汎なものとする趣旨からであると解される。すなわち、法務大臣は、在留期間の更新の許否を決するにあたつては、外国人に対する出入国の管理及び在留の規制の目的である国内の治安と善良の風俗の維持、保健・衛生の確保、労働市場の安定などの国益の保持の見地に立つて、申請者の申請事由の当否のみならず、当該外国人の在留中の一切の行状、国内の政治・経済・社会等の諸事情、国際情勢、外交関係、国際礼譲など諸般の事情をしんしやくし、時宜に応じた的確な判断をしなければならないのであるが、このような判断は、事柄の性質上、出入国管理行政の責任を負う法務大臣の裁量に任せるのでなければとうてい適切な結果を期待することができないものと考えられる。このような点にかんがみると、出入国管理令二一条三項所定の「在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由」があるかどうかの判断における法務大臣の裁量権の範囲が広汎なものとされているのは当然のことであつて、所論のように上陸拒否事由又は退去強制事由に準ずる事由に該当しない限り更新申請を不許可にすることは許されないと解すべきものではない。

 () ところで、行政庁がその裁量に任された事項について裁量権行使の準則を定めることがあつても、このような準則は、本来、行政庁の処分の妥当性を確保するためのものなのであるから、処分が右準則に違背して行われたとしても、原則として当不当の問題を生ずるにとどまり、当然に違法となるものではない。処分が違法となるのは、それが法の認める裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつた場合に限られるのであり、また、その場合に限り裁判所は当該処分を取り消すことができるものであつて、行政事件訴訟法三〇条の規定はこの理を明らかにしたものにほかならない。もつとも、法が処分を行政庁の裁量に任せる趣旨、目的、範囲は各種の処分によつて一様ではなく、これに応じて裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつたものとして違法とされる場合もそれぞれ異なるものであり、各種の処分ごとにこれを検討しなければならないが、これを出入国管理令二一条三項に基づく法務大臣の「在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由」があるかどうかの判断の場合についてみれば、右判断に関する前述の法務大臣の裁量権の性質にかんがみ、その判断が全く事実の基礎を欠き又は社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかである場合に限り、裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつたものとして違法となるものというべきである。したがつて、裁判所は、法務大臣の右判断についてそれが違法となるかどうかを審理、判断するにあたつては、右判断が法務大臣の裁量権の行使としてされたものであることを前提として、その判断の基礎とされた重要な事実に誤認があること等により右判断が全く事実の基礎を欠くかどうか、又は事実に対する評価が明白に合理性を欠くこと等により右判断が社会通念に照らし著しく妥当性を欠くことが明らかであるかどうかについて審理し、それが認められる場合に限り、右判断が裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつたものとして違法であるとすることができるものと解するのが、相当である。

 () 以上の見地に立つて被上告人の本件処分の適否について検討する。

 前記の事実によれば、上告人の在留期間更新申請に対し被上告人が更新を適当と認めるに足りる相当な理由があるものとはいえないとしてこれを許可しなかつたのは、上告人の在留期間中の無届転職と政治活動のゆえであつたというのであり、原判決の趣旨に徴すると、なかでも政治活動が重視されたものと解される。

 思うに、憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきであり、政治活動の自由についても、わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるものを除き、その保障が及ぶものと解するのが、相当である。しかしながら、前述のように、外国人の在留の許否は国の裁量にゆだねられ、わが国に在留する外国人は、憲法上わが国に在留する権利ないし引き続き在留することを要求することができる権利を保障されているものではなく、ただ、出入国管理令上法務大臣がその裁量により更新を適当と認めるに足りる相当の理由があると判断する場合に限り在留期間の更新を受けることができる地位を与えられているにすぎないものであり、したがつて、外国人に対する憲法の基本的人権の保障は、右のような外国人在留制度のわく内で与えられているにすぎないものと解するのが相当であつて、在留の許否を決する国の裁量を拘束するまでの保障、すなわち、在留期間中の憲法の基本的人権の保障を受ける行為を在留期間の更新の際に消極的な事情としてしんしやくされないことまでの保障が与えられているものと解することはできない。在留中の外国人の行為が合憲合法な場合でも、法務大臣がその行為を当不当の面から日本国にとつて好ましいものとはいえないと評価し、また、右行為から将来当該外国人が日本国の利益を害する行為を行うおそれがある者であると推認することは、右行為が上記のような意味において憲法の保障を受けるものであるからといつてなんら妨げられるものではない。

 前述の上告人の在留期間中のいわゆる政治活動は、その行動の態様などからみて直ちに憲法の保障が及ばない政治活動であるとはいえない。しかしながら、上告人の右活動のなかには、わが国の出入国管理政策に対する非難行動、あるいはアメリカ合衆国の極東政策ひいては日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約に対する抗議行動のようにわが国の基本的な外交政策を非難し日米間の友好関係に影響を及ぼすおそれがないとはいえないものも含まれており、被上告人が、当時の内外の情勢にかんがみ、上告人の右活動を日本国にとつて好ましいものではないと評価し、また、上告人の右活動から同人を将来日本国の利益を害する行為を行うおそれがある者と認めて、在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由があるものとはいえないと判断したとしても、その事実の評価が明白に合理性を欠き、その判断が社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかであるとはいえず、他に被上告人の判断につき裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつたことをうかがわせるに足りる事情の存在が確定されていない本件においては、被上告人の本件処分を違法であると判断することはできないものといわなければならない。また、被上告人が前述の上告人の政治活動をしんしやくして在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由があるものとはいえないとし本件処分をしたことによつて、なんら所論の違憲の問題は生じないというべきである。

 

【不法在留者への基本的人権の保障】

・最判昭和25年12月28日

要旨

いやしくも人たることにより当然享有する人権は不法入国者と雖もこれを有するものと認むべきである

 

 

【政治犯罪人不引渡の原則と国際慣習法】

・最判昭和51年1月26日

要旨

いわゆる政治犯罪人不弘渡の原則は未だ確立した一般的な国際慣習法であると認められないとした原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし正当として是認することができる。



 目次

日本国憲法 第3章国民の権利及び義務 法人の人権享有主体性

 

【法人の人権享有主体性】

・最大判昭45年6月24日 八幡製鉄事件

要旨

憲法三章に定める国民の権利および義務の各条項は、性質上可能なかぎり、内国の法人にも適用されるものであるから、会社は、公共の福祉に反しないかぎり、政治的行為の自由の一環として、政党に対する政治資金の寄附の自由を有する。

 

判旨

・ところで、会社は、一定の営利事業を営むことを本来の目的とするものであるから、会社の活動の重点が、定款所定の目的を遂行するうえに直接必要な行為に存することはいうまでもないところである。しかし、会社は、他面において、自然人とひとしく、国家、地方公共団体、地域社会その他(以下社会等という。)の構成単位たる社会的実在なのであるから、それとしての社会的作用を負担せざるを得ないのであつて、ある行為が一見定款所定の目的とかかわりがないものであるとしても、会社に、社会通念上、期待ないし要請されるものであるかぎり、その期待ないし要請にこたえることは、会社の当然になしうるところであるといわなければならない。そしてまた、会社にとつても、一般に、かかる社会的作用に属する活動をすることは、無益無用のことではなく、企業体としての円滑な発展を図るうえに相当の価値と効果を認めることもできるのであるから、その意味において、これらの行為もまた、間接ではあつても、目的遂行のうえに必要なものであるとするを妨げない。災害救援資金の寄附、地域社会への財産上の奉仕、各種福祉事業への資金面での協力などはまさにその適例であろう。会社が、その社会的役割を果たすために相当を程度のかかる出捐をすることは、社会通念上、会社としてむしろ当然のことに属するわけであるから、毫も、株主その他の会社の構成員の予測に反するものではなく、したがつて、これらの行為が会社の権利能力の範囲内にあると解しても、なんら株主等の利益を害するおそれはないのである。

 以上の理は、会社が政党に政治資金を寄附する場合においても同様である。憲法は政党について規定するところがなく、これに特別の地位を与えてはいないのであるが、憲法の定める議会制民主主義は政党を無視しては到底その円滑な運用を期待することはできないのであるから、憲法は、政党の存在を当然に予定しているものというべきであり、政党は議会制民主主義を支える不可欠の要素なのである。そして同時に、政党は国民の政治意思を形成する最も有力な媒体であるから、政党のあり方いかんは、国民としての重大な関心事でなければならない。したがつて、その健全な発展に協力することは、会社に対しても、社会的実在としての当然の行為として期待されるところであり、協力の一態様として政治資金の寄附についても例外ではないのである。

 

・最判平成8年3月19日 南九州税理士会事件

要旨

一 税理士会が政党など政治資金規正法上の政治団体に金員を寄付することは、税理士会の目的の範囲外の行為である。

二 政党など政治資金規正法上の政治団体に金員の寄付をするために会員から特別会費を徴収する旨の税理士会の総会決議は無効である。

 

判旨

 1 税理士会が政党など規正法上の政治団体に金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する政治的要求を実現するためのものであっても、法四九条二項で定められた税理士会の目的の範囲外の行為であり、右寄付をするために会員から特別会費を徴収する旨の決議は無効であると解すべきである。すなわち、

  (一) 民法上の法人は、法令の規定に従い定款又は寄付行為で定められた目的の範囲内において権利を有し、義務を負う(民法四三条)。この理は、会社についても基本的に妥当するが、会社における目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、その目的を遂行する上に直接又は間接に必要な行為であればすべてこれに包含され(最高裁昭和二四年(オ)第六四号同二七年二月一五日第二小法廷判決・民集六巻二号七七頁、同二七年(オ)第一〇七五号同三〇年一一月二九日第三小法廷判決・民集九巻一二号一八八六頁参照)、さらには、会社が政党に政治資金を寄付することも、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためにされたものと認められる限りにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為とするに妨げないとされる(最高裁昭和四一年(オ)第四四四号同四五年六月二四日大法廷判決・民集二四巻六号六二五頁参照)。

  (二) しかしながら、税理士会は、会社とはその法的性格を異にする法人であって、その目的の範囲については会社と同一に論ずることはできない。

 税理士は、国税局の管轄区域ごとに一つの税理士会を設立すべきことが義務付けられ(法四九条一項)、税理士会は法人とされる(同条三項)。また、全国の税理士会は、日税連を設立しなければならず、日税連は法人とされ、各税理士会は、当然に日税連の会員となる(法四九条の一四第一、第三、四項)。

 税理士会の目的は、会則の定めをまたず、あらかじめ、法において直接具体的に定められている。すなわち、法四九条二項において、税理士会は、税理士の使命及び職責にかんがみ、税理士の義務の遵守及び税理士業務の改善進歩に資するため、会員の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的とするとされ(法四九条の二第二項では税理士会の目的は会則の必要的記載事項ともされていない。)、法四九条の一二第一項においては、税理士会は、税務行政その他国税若しくは地方税又は税理士に関する制度について、権限のある官公署に建議し、又はその諮問に答申することができるとされている。

 また、税理士会は、総会の決議並びに役員の就任及び退任を大蔵大臣に報告しなければならず(法四九条の一一)、大蔵大臣は、税理士会の総会の決議又は役員の行為が法令又はその税理士会の会則に違反し、その他公益を害するときは、総会の決議についてはこれを取り消すべきことを命じ、役員についてはこれを解任すべきことを命ずることができ(法四九条の一八)、税理士会の適正な運営を確保するため必要があるときは、税理士会から報告を徴し、その行う業務について勧告し、又は当該職員をして税理士会の業務の状況若しくは帳簿書類その他の物件を検査させることができる(法四九条の一九第一項)とされている。

 さらに、税理士会は、税理士の入会が間接的に強制されるいわゆる強制加入団体であり、法に別段の定めがある場合を除く外、税理士であって、かつ、税理士会に入会している者でなければ税理士業務を行ってはならないとされている(法五二条)。

 (三) 以上のとおり、税理士会は、税理士の使命及び職責にかんがみ、税理士の義務の遵守及び税理士業務の改善進歩に資するため、会員の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的として、法が、あらかじめ、税理士にその設立を義務付け、その結果設立されたもので、その決議や役員の行為が法令や会則に反したりすることがないように、大蔵大臣の前記のような監督に服する法人である。また、税理士会は、強制加入団体であって、その会員には、実質的には脱退の自由が保障されていない(なお、前記昭和五五年法律第二六号による改正により、税理士は税理士名簿への登録を受けた時に、当然、税理士事務所の所在地を含む区域に設立されている税理士会の会員になるとされ、税理士でない者は、この法律に別段の定めがある場合を除くほか、税理士業務を行ってはならないとされたが、前記の諸点に関する法の内容には基本的に変更がない。)。

 税理士会は、以上のように、会社とはその法的性格を異にする法人であり、その目的の範囲についても、これを会社のように広範なものと解するならば、法の要請する公的な目的の達成を阻害して法の趣旨を没却する結果となることが明らかである。

 (四) そして、税理士会が前記のとおり強制加入の団体であり、その会員である税理士に実質的には脱退の自由が保障されていないことからすると、その目的の範囲を判断するに当たっては、会員の思想・信条の自由との関係で、次のような考慮が必要である。

 税理士会は、法人として、法及び会則所定の方式による多数決原理により決定された団体の意思に基づいて活動し、その構成員である会員は、これに従い協力する義務を負い、その一つとして会則に従って税理士会の経済的基礎を成す会費を納入する義務を負う。しかし、法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。

 特に、政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、政党など規正法上の政治団体は、政治上の主義若しくは施策の推進、特定の公職の候補者の推薦等のため、金員の寄付を含む広範囲な政治活動をすることが当然に予定された政治団体であり(規正法三条等)、これらの団体に金員の寄付をすることは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題だからである。

 法は、四九条の一二第一項の規定において、税理士会が、税務行政や税理士の制度等について権限のある官公署に建議し、又はその諮問に答申することができるとしているが、政党など規正法上の政治団体への金員の寄付を権限のある官公署に対する建議や答申と同視することはできない。

 (五) そうすると、前記のような公的な性格を有する税理士会が、このような事柄を多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできないというべきであり(最高裁昭和四八年(オ)第四九九号同五〇年一一月二八日第三小法廷判決・民集二九巻一〇号一六九八頁参照)、税理士会がそのような活動をすることは、法の全く予定していないところである。税理士会が政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する要求を実現するためであっても、法四九条二項所定の税理士会の目的の範囲外の行為といわざるを得ない。

 2 以上の判断に照らして本件をみると、本件決議は、被上告人が規正法上の政治団体である南九各県税政へ金員を寄付するために、上告人を含む会員から特別会費として五〇〇〇円を徴収する旨の決議であり、被上告人の目的の範囲外の行為を目的とするものとして無効であると解するほかはない。

 

・最判平成14年4月25日 群馬司法書士会事件

要旨

阪神・淡路大震災により被災した兵庫県司法書士会に3000万円の復興支援拠出金を寄付することは群馬司法書士会の権利能力の範囲内の行為であり,そのために登記申請事件1件当たり50円の復興支援特別負担金を徴収する旨の同会の総会決議の効力は,同会の会員に対して及ぶ。

 

判旨

原審の適法に確定したところによれば,本件拠出金は,被災した兵庫県司法書士会及び同会所属の司法書士の個人的ないし物理的被害に対する直接的な金銭補てん又は見舞金という趣旨のものではなく,被災者の相談活動等を行う同司法書士会ないしこれに従事する司法書士への経済的支援を通じて司法書士の業務の円滑な遂行による公的機能の回復に資することを目的とする趣旨のものであったというのである。

 司法書士会は,司法書士の品位を保持し,その業務の改善進歩を図るため,会員の指導及び連絡に関する事務を行うことを目的とするものであるが(司法書士法14条2項),その目的を遂行する上で直接又は間接に必要な範囲で,他の司法書士会との間で業務その他について提携,協力,援助等をすることもその活動範囲に含まれるというべきである。

そして,3000万円という本件拠出金の額については,それがやや多額にすぎるのではないかという見方があり得るとしても,阪神・淡路大震災が甚大な被害を生じさせた大災害であり,早急な支援を行う必要があったことなどの事情を考慮すると,その金額の大きさをもって直ちに本件拠出金の寄付が被上告人の目的の範囲を逸脱するものとまでいうことはできない。

したがって,兵庫県司法書士会に本件拠出金を寄付することは,被上告人の権利能力の範囲内にあるというべきである。

 そうすると,被上告人は,本件拠出金の調達方法についても,それが公序良俗に反するなど会員の協力義務を否定すべき特段の事情がある場合を除き,多数決原理に基づき自ら決定することができるものというべきである。

これを本件についてみると,被上告人がいわゆる強制加入団体であること(同法19条)を考慮しても,本件負担金の徴収は,会員の政治的又は宗教的立場や思想信条の自由を害するものではなく,また,本件負担金の額も,登記申請事件1件につき,その平均報酬約2万1000円の0.2%強に当たる50円であり,これを3年間の範囲で徴収するというものであって,会員に社会通念上過大な負担を課するものではないのであるから,本件負担金の徴収について,公序良俗に反するなど会員の協力義務を否定すべき特段の事情があるとは認められないしたがって,本件決議の効力は被上告人の会員である上告人らに対して及ぶものというべきである。


 目次


第3章 国民の権利及び義務 私人間効力(1)

 

【私人間効力】

最大判昭和48年12月12日 三菱樹脂本採用拒否事件

要旨

憲法19条や同法14条の規定は、直接私人相互間の関係に適用されるものではないが、私人間における相互の社会的力関係の相違から生ずる事実上の私的支配関係において、右規定の保障する自由や平等に対する具体的な侵害またはそのおそれがあり、その態様、程度が社会的に許容しうる限度を超えるときは、場合により、私的自治に対する一般的制限規定である民法1条、90条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によって、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で右侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存する。

 

判旨

 一、まず、本件本採用拒否の理由とされた被上告人の秘匿等に関する上記第一の一の()の事実につき、これが被上告人の思想、信条に関係のある事実といいうるかどうかを考えるに、労働者を雇い入れようとする企業者が、労働者に対し、その者の在学中における右のような団体加入や学生運動参加の事実の有無について申告を求めることは、上告人も主張するように、その者の従業員としての適格性の判断資料となるべき過去の行動に関する事実を知るためのものであつて、直接その思想、信条そのものの開示を求めるものではないが、さればといつて、その事実がその者の思想、信条と全く関係のないものであるとすることは相当でない。

元来、人の思想、信条とその者の外部的行動との間には密接な関係があり、ことに本件において問題とされている学生運動への参加のごとき行動は、必ずしも常に特定の思想、信条に結びつくものとはいえないとしても、多くの場合、なんらかの思想、信条とのつながりをもつていることを否定することができないのである。

企業者が労働者について過去における学生運動参加の有無を調査するのは、その者の過去の行動から推して雇入れ後における行動、態度を予測し、その者を採用することが企業の運営上適当かどうかを判断する資料とするためであるが、このような予測自体が、当該労働者の過去の行動から推測されるその者の気質、性格、道徳観念等のほか、社会的、政治的思想傾向に基づいてされる場合もあるといわざるをえない。

件において上告人が被上告人の団体加入や学生運動参加の事実の有無についてした上記調査も、そのような意味では、必ずしも上告人の主張するように被上告人の政治的思想、信条に全く関係のないものということはできない。

しかし、そうであるとしても、上告人が被上告人ら入社希望者に対して、これらの事実につき申告を求めることが許されないかどうかは、おのずから別個に論定されるべき問題である。

 二、原判決は、前記のように、上告人が、その社員採用試験にあたり、入社希望者からその政治的思想、信条に関係のある事項について申告を求めるのは、憲法一九条の保障する思想、信条の自由を侵し、また、信条による差別待遇を禁止する憲法一四条、労働基準法三条の規定にも違反し、公序良俗に反するものとして許されないとしている。

 () しかしながら、憲法の右各規定は、同法第三章のその他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的に出たもので、もつぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない。

このことは、基本的人権なる観念の成立および発展の歴史的沿革に徴し、かつ、憲法における基本権規定の形式、内容にかんがみても明らかである。

のみならず、これらの規定の定める個人の自由や平等は、国や公共団体の統治行動に対する関係においてこそ、浸されることのない権利として保障されるべき性質のものであるけれども、私人間の関係においては、各人の有する自由と平等の権利自体が具体的場合に相互に矛盾、対立する可能性があり、このような場合におけるその対立の調整は、近代自由社会においては、原則として私的自治に委ねられ、ただ、一方の他方に対する侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を超える場合にのみ、法がこれに介入しその間の調整をはかるという建前がとられているのであつて、この点において国または公共団体と個人との関係の場合とはおのずから別個の観点からの考慮を必要とし、後者についての憲法上の基本権保障規定をそのまま私人相互間の関係についても適用ないしは類推適用すべきものとすることは、決して当をえた解釈ということはできないのである。

 () もつとも、私人間の関係においても、相互の社会的力関係の相違から、一方が他方に優越し、事実上後者が前者の意思に服従せざるをえない場合があり、このような場合に私的自治の名の下に優位者の支配力を無制限に認めるときは、劣位者の自由や平等を著しく侵害または制限することとなるおそれがあることは否み難いが、そのためにこのような場合に限り憲法の基本権保障規定の適用ないしは類推適用を認めるべきであるとする見解もまた、採用することはできない。

何となれば、右のような事実上の支配関係なるものは、その支配力の態様、程度、規模等においてさまざまであり、どのような場合にこれを国または公共団体の支配と同視すべきかの判定が困難であるばかりでなく、一方が権力の法的独占の上に立つて行なわれるものであるのに対し、他方はこのような裏付けないしは基礎を欠く単なる社会的事実としての力の優劣の関係にすぎず、その間に画然たる性質上の区別が存するからである。

すなわち、私的支配関係においては、個人の基本的な自由や平等に対する具体的な侵害またはそのおそれがあり、その態様、程度が社会的に許容しうる限度を超えるときは、これに対する立法措置によつてその是正を図ることが可能であるし、また、場合によつては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によつて、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存するのである。

そしてこの場合、個人の基本的な自由や平等を極めて重要な法益として尊重すべきことは当然であるが、これを絶対視することも許されず、統治行動の場合と同一の基準や観念によつてこれを律することができないことは、論をまたないところである。

 () ところで、憲法は、思想、信条の自由や法の下の平等を保障すると同時に、他方、二二条、二九条等において、財産権の行使、営業その他広く経済活動の自由をも基本的人権として保障している。

それゆえ、企業者は、かような経済活動の一環としてする契約締結の自由を有し、自己の営業のために労働者を雇傭するにあたり、いかなる者を雇い入れるか、いかなる条件でこれを雇うかについて、法律その他による特別の制限がない限り、原則として自由にこれを決定することができるのであつて、企業者が特定の思想、信条を有する者をそのゆえをもつて雇い入れることを拒んでも、それを当然に違法とすることはできないのである。

憲法一四条の規定が私人のこのような行為を直接禁止するものでないことは前記のとおりであり、また、労働基準法三条は労働者の信条によつて賃金その他の労働条件につき差別することを禁じているが、これは、雇入れ後における労働条件についての制限であつて、雇入れそのものを制約する規定ではない。

また、思想、信条を理由とする雇入れの拒否を直ちに民法上の不法行為とすることができないことは明らかであり、その他これを公序良俗違反と解すべき根拠も見出すことはできない。

   右のように、企業者が雇傭の自由を有し、思想、信条を理由として雇入れを拒んでもこれを目して違法とすることができない以上、企業者が、労働者の採否決定にあたり、労働者の思想、信条を調査し、そのためその者からこれに関連する事項についての申告を求めることも、これを法律上禁止された違法行為とすべき理由はない。

もとより、企業者は、一般的には個々の労働者に対して社会的に優越した地位にあるから、企業者のこの種の行為が労働者の思想、信条の自由に対して影響を与える可能性がないとはいえないが、法律に別段の定めがない限り、右は企業者の法的に許された行為と解すべきである。

また、企業者において、その雇傭する労働者が当該企業の中でその円滑な運営の妨げとなるような行動、態度に出るおそれのある者でないかどうかに大きな関心を抱き、そのために採否決定に先立つてその者の性向、思想等の調査を行なうことは、企業における雇傭関係が、単なる物理的労働力の提供の関係を超えて、一種の継続的な人間関係として相互信頼を要請するところが少なくなく、わが国におけるようにいわゆる終身雇傭制が行なわれている社会では一層そうであることにかんがみるときは、企業活動としての合理性を欠くものということはできない。

のみならず、本件において問題とされている上告人の調査が、前記のように、被上告人の思想、信条そのものについてではなく、直接には被上告人の過去の行動についてされたものであり、ただその行動が被上告人の思想、信条となんらかの関係があることを否定できないような性質のものであるというにとどまるとすれば、なおさらこのような調査を目して違法とすることはできないのである。

・最判昭和56年3月24日 日産自動車事件

要旨

会社がその就業規則中に定年年齢を男子60歳、女子55歳と定めた場合において、担当職務が相当広範囲にわたつていて女子従業員全体を会社に対する貢献度の上がらない従業員とみるべき根拠はなく、労働の質量が向上しないのに実質賃金が上昇するという不均衡は生じておらず、少なくとも60歳前後までは男女とも右会社の通常の職務であれば職務遂行能力に欠けるところはなく、一律に従業員として不適格とみて企業外へ排除するまでの理由はないなど、原判決の事情があつて、会社の企業経営上定年年齢において女子を差別しなければならない合理的理由が認められないときは、右就業規則中の定年年齢を男子より低く定めた部分は、性別のみによる不合理な差別を定めたものとして民法90条の規定により無効である。

 

判旨

上告会社の就業規則は男子の定年年齢を六〇歳、女子の定年年齢を五五歳と規定しているところ、右の男女別定年制に合理性があるか否かにつき、原審は、上告会社における女子従業員の担当職種、男女従業員の勤続年数、高齢女子労働者の労働能力、定年制の一般的現状等諸般の事情を検討したうえ、上告会社においては、女子従業員の担当職務は相当広範囲にわたつていて、従業員の努力と上告会社の活用策いかんによつては貢献度を上げうる職種が数多く含まれており、女子従業員各個人の能力等の評価を離れて、その全体を上告会社に対する貢献度の上がらない従業員と断定する根拠はないこと、しかも、女子従業員について労働の質量が向上しないのに実質賃金が上昇するという不均衡が生じていると認めるべき根拠はないこと、少なくとも六〇歳前後までは、男女とも通常の職務であれば企業経営上要求される職務遂行能力に欠けるところはなく、各個人の労働能力の差異に応じた取扱がされるのは格別、一律に従業員として不適格とみて企業外へ排除するまでの理由はないことなど、上告会社の企業経営上の観点から定年年齢において女子を差別しなければならない合理的理由は認められない旨認定判断したものであり、右認定判断は、原判決挙示の証拠関係及びその説示に照らし、正当として是認することができる。そうすると、原審の確定した事実関係のもとにおいて、上告会社の就業規則中女子の定年年齢を男子より低く定めた部分は、専ら女子であることのみを理由として差別したことに帰着するものであり、性別のみによる不合理な差別を定めたものとして民法九〇条の規定により無効であると解するのが相当である(憲法一四条一項、民法一条ノ二参照)。

 

・最判平成18年3月17日

要旨

入会部落の慣習に基づく入会集団の会則のうち,入会権者の資格を原則として男子孫に限定し,同入会部落の部落民以外の男性と婚姻した女子孫は離婚して旧姓に復しない限り入会権者の資格を認めないとする部分は,遅くとも平成4年以降においては,性別のみによる不合理な差別として民法90条の規定により無効である。

 

判旨

入会権は,一般に,一定の地域の住民が一定の山林原野等において共同して雑草,まぐさ,薪炭用雑木等の採取をする慣習上の権利であり(民法263条,294条),この権利は,権利者である入会部落の構成員全員の総有に属し,個々の構成員は,共有におけるような持分権を有するものではなく(最高裁昭和34年(オ)第650号同41年11月25日第二小法廷判決・民集20巻9号1921頁,最高裁平成3年(オ)第1724号同6年5月31日第三小法廷判決・民集48巻4号1065頁参照),入会権そのものの管理処分については入会部落の一員として参与し得る資格を有するのみである(最高裁昭和51年(オ)第424号同57年7月1日第一小法廷判決・民集36巻6号891頁参照)。

他方,入会権の内容である使用収益を行う権能は,入会部落内で定められた規律に従わなければならないという拘束を受けるものの,構成員各自が単独で行使することができる(前掲第一小法廷判決参照)。

このような入会権の内容,性質等や,原審も説示するとおり,本件入会地の入会権が家の代表ないし世帯主としての部落民に帰属する権利として当該入会権者からその後継者に承継されてきたという歴史的沿革を有するものであることなどにかんがみると,各世帯の構成員の人数にかかわらず各世帯の代表者にのみ入会権者の地位を認めるという慣習は,入会団体の団体としての統制の維持という点からも,入会権行使における各世帯間の平等という点からも,不合理ということはできず,現在においても,本件慣習のうち,世帯主要件を公序良俗に反するものということはできない。

しかしながら,本件慣習のうち,男子孫要件は,専ら女子であることのみを理由として女子を男子と差別したものというべきであり,遅くとも本件で補償金の請求がされている平成4年以降においては,性別のみによる不合理な差別として民法90条の規定により無効であると解するのが相当である。

その理由は,次のとおりである。

男子孫要件は,世帯主要件とは異なり,入会団体の団体としての統制の維持という点からも,入会権の行使における各世帯間の平等という点からも,何ら合理性を有しない。

このことは,A部落民会の会則においては,会員資格は男子孫に限定されていなかったことや,被上告人と同様に杣山について入会権を有する他の入会団体では会員資格を男子孫に限定していないものもあることからも明らかである。

上告人においては,上記1(4)エ,オのとおり,女子の入会権者の資格について一定の配慮をしているが,これによって男子孫要件による女子孫に対する差別が合理性を有するものになったということはできない。

そして,男女の本質的平等を定める日本国憲法の基本的理念に照らし,入会権を別異に取り扱うべき合理的理由を見いだすことはできないから,原審が上記3(3)において説示する本件入会地の入会権の歴史的沿革等の事情を考慮しても,男子孫要件による女子孫に対する差別を正当化することはできない。

東京地判昭和41年12月20日 住友セメント事件

要旨

女子労働者の結婚退職制を定めた労働協約、就業規則、労働契約は、労働法の公序を構成する性別による差別待遇の禁止ならびに公序を構成する結婚の自由の保障に違反し、いずれも民法九〇条違反として無効である。

 

判旨

一、雇傭関係及び結婚退職制

 原告主張一及び三の事実は当事者間に争がない。

 成立に争のない乙第二号証(念書の様式)及び<証拠>によれば、被告が昭和三三年四月会社の方針として爾後の女子職員の採用処遇につき被告主張の結婚退職制を定め、これに基き女子労働者を採用したことが認められ、この認定を左右すべき確証はない。原告が、本採用される前である昭和三五年八月一〇日「結婚したときは退職する。」旨の念書を差入れたことは当事者間に争がない。これによれば、被告は原告が結婚したときこれを解雇し得る旨の労働契約が成立したというべきである。右は労働者の退職に関する事項であるから、労基法にいう労働条件に該当する。

二、結婚退職制と公序との関係

 被告の主張によれば、結婚退職制は、慣行であつて、組合の承認により労働協約と同等の効力を有し、しからずとするも、労働者の規範意識に支持されて就業規則と同等の効力を有するから、被告はこれに基き原告と右契約をなしたというにある。

(一) 結婚退職制の法的内容

 このような労働協約又は就業規則と同等の効力を有する規範準則が存在するとしても、その内容は性別による差別待遇と結婚の自由に対する制限とを含むものである。

1 (性別による差別待遇)結婚退職制によると、結婚は男子労働者の解雇事由でなく、女子労働者のみの解雇事由であるから、右は労働条件につき性別による差別待遇をしたことに帰着する。

2 (結婚の自由の制限)結婚退職制によれば、女子労働者は雇傭関係継続中結婚しない旨を約したことに帰着するのであり、換言すれば、結婚に際しなお雇傭関係の継続を望んでいる女子労働者に対しても使用者からその終了を求め得るのである。右は女子労働者の結婚の自由を制限するものというべきである。その理由は次のとおりである。

 結婚後も主婦として活動するだけではなく、なお賃金労働者として職場にとどまり労働を継続する意思を有する女子労働者が多く存することは顕著な事実である。統計をみると、成立に争のない乙第七号証の二(労働省婦人少年局発行「婦人労働の実情・一九六二年」三八、三九頁)によれば、女子労働者の中に占める有夫者の割合は逐年上昇し昭和三七年において二一・七%を占め、なお昭和三六年一月から昭和三七年九月までの単純平均によれば非農林業就業者中雇傭者であつて配偶者のある女子は二一九万人に及ぶことが明らかである。かように多数の既婚女子労働者がなおその労働を継続する主たる理由が、自己の才能を生かし社会人としての経験を積み社会に貢献するにあると、生活費を得るにあるとを問わず、その労働を継続しようとする意思は尊重されるべきである。

 我国の現状にあつては、男子労働者の労働賃金のみによつてその妻子等の通常の生活の資をまかなえないことが屡々あるから、この場合この男子労働者と結婚した女子労働者はなお労働を継続する経済的必要がある。女子労働者はこの場合結婚退職制により解雇されても直ちに生活の資を求めて再就職せざるを得ない。ところが、前示乙第七号証の二(五八頁から六三頁まで)によると、既婚、したがつて学校新卒者に比し高年である女子労働者の就職の機会は狭められる一方、賃金額の決定についても、当該企業における勤続期間が重要な要素をなす年功賃金制の下では、仮に再就職の機会が得られたとしても、その労働条件は従前に比し著しく低下することが明らかである。したがつて、女子労働者は結婚に際しこの事実を予想すべきものといわなければならない。以上のような次第で女子労働者は結婚退職制の下では、結婚によりその意に反して労働賃金収入を全部失うか又は運がよくてもその相当部分を失うものである。かくして、結婚を退職事由と定めることは、女子労働者に対し結婚するか、又は自己の才能を生かしつつ社会に貢献し生活の資を確保するために従前の職に止まるかの選択を迫る結果に帰着し、かかる精神的、経済的理由により配偶者の選択、結婚の時期等につき結婚の自由を著しく制約するものと断ずべきである。

 近年若年労働力の需給関係が変化し全国的にみて求人数が求職数を大幅に上廻り、中学、高校新卒の女子もその例に洩れないことは顕著な事実である。しかし、この事実から推してかかる女子は結婚退職制を採用する企業とそうでない企業とを選択する自由があるとして前示結論を左右することはできない。すなわち、若年女子の労働力の需給関係は、地域及び企業により差があり、求職者はその意思に関係なく適性その他の精神的肉体的諸条件、住宅。家庭事情等により、求職の範囲を自ら制限されるのである。また、成立に争のない乙第六号証の二(労働省婦人少年局発行「女子事務職員実態調査報告。一九六一年五月」二六頁)によれば、女子の結婚退職規定を有する事業所は総数の八%(内訳。製造業は七・三%、金融保険業は二〇・二%)に及ぶことが明らかである。かような要因を考えるとき、女子求職者が前示のような選択の自由を有するとは到底いえない。また使用者が女子労働者の雇入に際し結婚退職制を明示した場合もこの結論を左右しない。

(二) 公の秩序

1 (性別による差別待遇の禁止)両性の本質的平等を実現すべく、国家と国民との関係のみならず、国民相互の関係においても性別を理由とする合理性なき差別待遇を禁止することは、法の根本原理である。憲法一四条は国家と国民との関係において、民法一条の二は国民相互の関係においてこれを直接明示する。労基法三条は国籍、信条又は社会的身分を理由とする。差別を禁止し、同法四条は性別を理由とする賃金の差別を禁止する。ところで、労基法上性別を理由として賃金以外の労働条件の差別を禁止する規定はなく、却つて、同法一九条、六一条ないし六八条等は女子の保護のため男子と異なる労働条件を定めている。したがつて、労基法は性別を理由とする労働条件の合理的差別を許容する一方、前示の根本原理に鑑み、性別を理由とする合理性を欠く差別を禁止するものと解せられる。以上述べたことから明らかなとおり、この禁止は労働法の公の秩序を構成し、労働条件に関する性別を理由とする合理性を欠く差別待遇を定める労働協約、就業規則、労働契約は、いずれも民法九〇条に違反しその効力を生じないというべきである。

2 (結婚の自由の保障)家庭は、国家社会の重要な一単位であり、法秩序の重要な一部である。適時に適当な配遇者を選択し家庭を建設し、正義衡平に従つた労働条件のもとに労働しつつ人たるに値する家族生活を維持発展させることは人間の幸福の一つである。かような法秩序の形成並びに幸福追求を妨げる政治的経済的社会的要因のうち合理性を欠くものを除去することも、また法の根本原理であつて、憲法一三条、二四条、二五条、二七条はこれを示す。したがつて、配偶者の選択に関する自由、結婚の時期に関する自由等結婚の自由は重要な法秩序の形成に関連しかつ基本的人権の一つとして尊重されるべく、これを合理的理由なく制限することは、国民相互の法律関係にあつても、法律上禁止されるものと解すべきである。以上の理由により、この禁止は公の秩序を構成し、これに反する労働協約、就業規則、労働契約はいずれも民法九〇条に違反し効力を生じないというべきである。

(三) 合理的理由による差別又は制限

1 (非能率)被告主張のように、男子職員と女子職員との職種を截然区別し女子職員を被告主張のような補助的事務のみに従事させることが合理的差別といえるか否かはしばらくおく。本件において被告の主張の前提として、既婚女子労働の非能率の責を一般的に女子のみに帰せしめるには、女子は結婚後労働能率が結婚前に比し一般に低下すること、その低下の程度は同一の条件の下における男子よりも甚しいこと、その原因は少くとも使用者側及び国家社会の側に存せず、専ら女子労働者の結婚という事実のみに存することを立証すべきである。この認定に当り、労基法四条の立法趣旨により、女子労働者は一般的平均的に低能率であるとの社会的偏見の排除が要請されること、同法六五条、六六条により既婚女子労働者は出産育児に関し休業請求権を有し、その限度での労務の不提供すなわち、使用者側からみれば非能率が許されていることは充分に尊重されなければならない。しかるとき、本件にあつては、<証拠>によるも右各事実を肯認するに足らず、その他この事実を認めるに足る証拠がない。しかも、前示の補助的事務の内容に徴すると、これに従事する女子労働者が結婚したからとて労働能率が当然に低下するとは推認できない。

 もし、既婚女子労働者の一部に労働能率の低下した者が生ずれば、監督者その他被告側において遅滞なくこれを発見確認できるものと推認される。この場合、被告は能率低下の原因を探究し、その責が被告に存せず、もつぱら当該女子労働者に存するときは、かかる者に対して労働協約又は、就業規則等に定める所要の処置を個別的にとれば足りるものと解される。

 したがつて、既婚女子労働者の非能率を理由に、勤務成績の優劣を問わず一律にこれを企業から排除することは合理性がない。

2 (賃金)結婚退職制の根拠として被告の主張する事実、すなわち被告において男女同一賃金制に徹しているので、補助的事務に従事する長期勤続の既婚、高年の女子職員に対し、より責任の重い事務に従事する男子職員と比較して不相当に高額の賃金を支払つているとの事実につき判断する。結婚退職制採用後である昭和三五年以降被告主張の年令別最低基本給及び中途採用者初任給につき約三割の男女の賃金格差が設けられたことは被告の自陳するところである。右の格差が勤務時間又は労務内容等の差に基く合理的なものであることの立証はない。したがつて、この点についての被告の主張は事実関係について前提を欠くものというべきである。しかも、仮に、被告主張のように長期勤続既婚女子職員がより責任の重い男子職員に比し高額の賃金を得、しかもこれにつき男子職員からその是正を求められるとの事態が存するとしても、右は主として勤続年数により機械的な昇給を伴う年功賃金制のもたらした結果であるから、むしろその是止のためには、男女を問わず各職員の職務ないし労働の価値に応じた合理的な賃金体系を制定することが適当であるといわなければならない。労基法三条の趣旨は、女子労働者が一般的平均的に低能率であること等過去の社会的偏見によつて不利益待遇をすることを禁止するけれども、性別によらず、職務、技能、能率等の差に応じた賃金格差を否定するものではない。かかる措置をとらないで、年功賃金制の有する若干の短所を理由として女子労働者を結婚と同時に一律に企業から排除し、もつて前示差別待遇を行ない、結婚の自由を制限することは、なんら合理性がない。

3 (その他の合理性)前示補助的事務の内容自体に徴しても、特定宗教における聖職者、巫女等と異なり、これに従事する者を独身者に限定しなければならない理由はない。その他結婚退職制に合理性を認めるに足りる資料はない。

(四) 結婚退職制は公の秩序に反する。

 以上述べたとおり、女子労働者のみにつき結婚を退職事由とすることは、性別を理由とする差別をなし、かつ、結婚の自由を制限するものであつて、しかもその合理的根拠を見出し得ないから、労働協約、就業規則、労働契約中かかる部分は、公の秩序に違反しその効力を否定されるべきものといわなければならない。

 結婚退職制につき、組合がこれを承認し多数の女子労働者がこれに賛同して退職し、原告もまたこれを熟知して雇傭されたとの被告の主張はそれ自体理由がない。けだし、民法九〇条は公の秩序等に反する一切の法律行為の効力を否定するものであつて、関係当事者がこれに同意したか否かを問わないからである。(法例二条参照)。


 目次


第3章 国民の権利及び義務 私人間効力(2)

 

【私人間効力】

・最判昭和49年7月19日 昭和女子大事件

要旨

一、私立大学において、その建学の精神に基づく校風と教育方針に照らし、学生が政治的目的の署名運動に参加し又は政治的活動を目的とする学外団体に加入するのを放任することは教育上好ましくないとする見地から、学則等により、学生の署名運動について事前に学校当局に届け出るべきこと及び学生の学外団体加入について学校当局の許可を受けるべきことを定めても、これをもつて直ちに学生の政治的活動の自由に対する不合理な規制ということはできない。

二、学校教育法施行規則一三条三項四号により学生の退学処分を行うにあたり、当該学生に対して学校当局のとつた措置が本人に反省を促すための補導の面において欠けるところがあつたとしても、それだけで退学処分が違法となるものではなく、その点をも含めた諸般の事情を総合的に観察して、退学処分の選択が社会通念上合理性を認めることができないようなものでないかぎり、その処分は、学長の裁量権の範囲内にあるものというべきである。

三、学生の思想の穏健中正を標榜する保守的傾向の私立大学の学生が、学則に違反して、政治的活動を目的とする学外団体に無許可で加入し又は加入の申込をし、かつ、無届で政治的目的の署名運動をした事案において、これに対する学校当局の措置が、学生の責任を追及することに急で、反省を求めるために説得に努めたとはいえないものであつたとしても、他方、右学生は、学則違反についての責任の自覚歩うすく、学外団体からの離脱を求める学校当局の要求に従う意思はなく、説諭に対して終始反発したうえ、週刊誌や学外集会等において公然と学校当局の措置を非難するような行動をしたなど判示の事情があるときは、学校教育法施行規則一三条三項四号により右学生に対してされた退学処分は、学長に認められた裁量権の範囲内にあるものとしてその効力を是認すべきである。

 

 

判旨

右生活要録の規定は、その文言に徴しても、被上告人大学の学生の選挙権若しくは請願権の行使又はその教育を受ける権利と直接かかわりのないものであるから、所論のうち右規定が憲法一五条、一六条及び二六条に違反する旨の主張は、その前提において既に失当である。また、憲法一九条、二一条、二三条等のいわゆる自由権的基本権の保障規定は、国又は公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障することを目的とした規定であつて、専ら国又は公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものでないことは、当裁判所大法廷判例(昭和四三年(オ)第九三二号同四八年一二月一二日判決・裁判所時報六三二号四頁)の示すところである。したがつて、その趣旨に徴すれば、私立学校である被上告人大学の学則の細則として

の性質をもつ前記生活要録の規定について直接憲法の右基本権保障規定に違反する

かどうかを論ずる余地はないものというべきである。

 

 ところで、大学は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究を目的とする公共的な施設であり、法律に格別の規定がない場合でも、その設置目的を達成するために必要な事項を学則等により一方的に制定し、これによつて在学する学生を規律する包括的権能を有するものと解すべきである。

特に私立学校においては、建学の精神に基づく独自の伝統ないし校風と教育方針とによつて社会的存在意義が認められ、学生もそのような伝統ないし校風と教育方針のもとで教育を受けることを希望して当該大学に入学するものと考えられるのであるから、右の伝統ないし校風と教育方針を学則等において具体化し、これを実践することが当然認められるべきであり、学生としてもまた、当該大学において教育を受けるかぎり、かかる規律に服することを義務づけられるものといわなければならない。

もとより、学校当局の有する右の包括的権能は無制限なものではありえず、在学関係設定の目的と関連し、かつ、その内容が社会通念に照らして合理的と認められる範囲においてのみ是認されるものであるが、具体的に学生のいかなる行動についていかなる程度、方法の規制を加えることが適切であるとするかは、それが教育上の措置に関するものであるだけに、必ずしも画一的に決することはできず、各学校の伝統ないし校風や教育方針によつてもおのずから異なることを認めざるをえないのである。

れを学生の政治的活動に関していえば、大学の学生は、その年令等からみて、一個の社会人として行動しうる面を有する者であり、政治的活動の自由はこのような社会人としての学生についても重要視されるべき法益であることは、いうまでもない。

しかし、他方、学生の政治的活動を学の内外を問わず全く自由に放任するときは、あるいは学生が学業を疎かにし、あるいは学内における教育及び研究の環境を乱し、本人及び他の学生に対する教育目的の達成や研究の遂行をそこなう等大学の設置目的の実現を妨げるおそれがあるのであるから、大学当局がこれらの政治的活動に対してなんらかの規制を加えること自体は十分にその合理性を首肯しうるところであるとともに、私立大学のなかでも、学生の勉学専念を特に重視しあるいは比較的保守的な校風を有する大学が、その教育方針に照らし学生の政治的活動はできるだけ制限するのが教育上適当であるとの見地から、学内及び学外における学生の政治的活動につきかなり広範な規律を及ぼすこととしても、これをもつて直ちに社会通念上学生の自由に対する不合理な制限であるということはできない。

 そこで、この見地から被上告人大学の前記生活要録の規定をみるに、原審の確定するように、同大学が学生の思想の穏健中正を標榜する保守的傾向の私立学校であることをも勘案すれば、右要録の規定は、政治的目的をもつ署名運動に学生が参加し又は政治的活動を目的とする学外の団体に学生が加入するのを放任しておくことは教育上好ましくないとする同大学の教育方針に基づき、このような学生の行動について届出制あるいは許可制をとることによつてこれを規制しようとする趣旨を含むものと解されるのであつて、かかる規制自体を不合理なものと断定することができないことは、上記説示のとおりである。

 

 思うに、大学の学生に対する懲戒処分は、教育及び研究の施設としての大学の内部規律を維持し、教育目的を達成するために認められる自律作用であつて、懲戒権者たる学長が学生の行為に対して懲戒処分を発動するにあたり、その行為が懲戒に値いするものであるかどうか、また、懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶべきかを決するについては、当該行為の軽重のほか、本人の性格及び平素の行状、右行為の他の学生に与える影響、懲戒処分の本人及び他の学生に及ぼす訓戒的効果、右行為を不問に付した場合の一般的影響等諸般の要素を考慮する必要があり、これらの点の判断は、学内の事情に通暁し直接教育の衝にあたるものの合理的な裁量に任すのでなければ、適切な結果を期しがたいことは、明らかである(当裁判所昭和二八年(オ)第五二五号同二九年七月三〇日第三小法廷判決・民集八巻七号一四六三頁、同昭和二八年(オ)第七四五号同二九年七月三〇日第三小法廷判決・民集八巻七号一五〇一頁参照)。

 もつとも、学校教育法一一条は、懲戒処分を行うことができる場合として、単に「教育上必要と認めるとき」と規定するにとどまるのに対し、これをうけた同法施行規則一三条三項は、退学処分についてのみ四個の具体的な処分事由を定めており、被上告人大学の学則三六条にも右と同旨の規定がある。

これは、退学処分が、他の懲戒処分と異なり、学生の身分を剥奪する重大な措置であることにかんがみ、当該学生に改善の見込がなく、これを学外に排除することが教育上やむをえないと認められる場合にかぎつて退学処分を選択すべきであるとの趣旨において、その処分事由を限定的に列挙したものと解される。

この趣旨からすれば、同法施行規則一三条三項四号及び被上告人大学の学則三六条四号にいう「学校の秩序を乱し、その他学生としての本分に反した」ものとして退学処分を行うにあたつては、その要件の認定につき他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮を要することはもちろんであるが、退学処分の選択も前記のような諸般の要素を勘案して決定される教育的判断にほかならないことを考えれば、具体的事案において当該学生に改善の見込がなくこれを学外に排除することが教育上やむをえないかどうかを判定するについて、あらかじめ本人に反省を促すための補導を行うことが教育上必要かつ適切であるか、また、その補導をどのような方法と程度において行うべきか等については、それぞれの学校の方針に基づく学校当局の具体的かつ専門的・自律的判断に委ねざるをえないのであつて、学則等に格別の定めのないかぎり、右補導の過程を経由することが特別の場合を除いては常に退学処分を行うについての学校当局の法的義務であるとまで解するのは、相当でない。

したがつて、右補導の面において欠けるところがあつたとしても、それだけで退学処分が違法となるものではなく、その点をも含めた当該事案の諸事情を総合的に観察して、その退学処分の選択が社会通念上合理性を認めることができないようなものでないかぎり、同処分は、懲戒権者の裁量権の範囲内にあるものとして、その効力を否定することはできないものというべきである。

 以上の事実関係からすれば、上告人らの前記生活要録違反の行為自体はその情状が比較的軽微なものであつたとしても、本件退学処分が右違反行為のみを理由として決定されたものでないことは、明らかである。

前記()()のように、上告人らには生活要録違反を犯したことについて反省の実が認められず、特に大学当局ができるだけ穏便に解決すべく説諭を続けている間に、上告人らが週刊誌や学外の集会等において公然と大学当局の措置を非難するような挙に出たことは、同人らがもはや同大学の教育方針に服する意思のないことを表明したものと解されてもやむをえないところであり、これらは処遇上無視しえない事情といわなければならない。

つとも、前記()の事実その他原判示にあらわれた大学当局の措置についてみると、説諭にあたつた関係教授らの言動には、上告人らの感情をいたずらに刺激するようなものもないではなく、補導の方法と程度において、事件を重大視するあまり冷静、寛容及び忍耐を欠いたうらみがあるが、原審の認定するところによれば、かかる大学当局の措置が上告人らを反抗的態度に追いやり、外部団体との接触を深めさせる機縁になつたものとは認められないというのであつて、そうである以上、上告人らの前記()()のような態度、行動が主して被上告人大学の責に帰すべき事由に起因したものであるということはできず、大学当局が右の段階で上告人らに改善の見込がないと判断したことをもつて著しく軽卒であつたとすることもできない。

また、被上告人大学が上告人らに対してD同からの脱退又はそれへの加入申込の取消を要求したからといつて、それが直ちに思想、信条に対する干渉となるものではないし、それ以外に、同大学が上告人らの思想、信条を理由として同人らを差別的に取り扱つたものであることは、原審の認定しないところである。

これらの諸点を総合して考えると、本件において、事件の発端以来退学処分に至るまでの間に被上告人大学のとつた措置が教育的見地から批判の対象となるかどうかはともかく、大学当局が、上告人らに同大学の教育方針に従つた改善を期待しえず教育目的を達成する見込が失われたとして、同人らの前記一連の行為を「学内の秩序を乱し、その他学生としての本分に反した」ものと認めた判断は、社会通念上合理性を欠くものであるとはいいがたく、結局、本件退学処分は、懲戒権者に認められた裁量権の範囲内にあるものとして、その効力を是認すべきである。

 

・東京地裁判平成7年3月23日

要旨

ゴルフクラブの会員及び法人会員の登録者にいわゆる国籍要件を課すことは、ゴルフクラブが、私的かつ任意の団体であることを前提にしても、今日の社会通念の下では合理的理由を見出し難い

 

判旨

そもそも、ゴルフクラブは、娯楽施設としてのゴルフ場の利用を通じて、会員の余暇活動の充実や会員相互の親睦を目的とする私的かつ任意の団体であるから、その内部関係については、私的自治の原則か広く適用される場面であるということができる。しかし、他方、今日ゴルフが特定の愛好家の間でのみ嗜まれる特殊な遊技であることを離れ、多くの国民が愛好する一般的なレジャーの一つとなっていることを背景として、会員権が市場に流通し、会員募集等にも公的規制がなされていることなどからみれば、ゴルフクラブは、一定の社会性をもった団体であることもまた否定できない。そうすると、ゴルフクラブは、自らの運営について相当広範な裁量権を有するものではあるが、いかなる者を会員にするかという点について、完全に自由な裁量を有するとまでいうことはできず、その裁量には一定の限界が存すると解すべきであり、その裁量を逸脱した場合には違法との評価を免れないというべきである。

 そこで、本件についてみるに、前記認定事実によれば、本件ゴルフクラブでは日本国籍を有しない者は原則として会員及び法人会員の登録者となることができない取扱いをしていたところ、原告らは、法人会員である丸名工芸の登録者は原告であることの確認等を求める前訴を提起したが、原告がプレーイング・メンバーとして特典的施設利用を受けられる旨勧誘されて契約した経緯に照らして、原告のプレーイング・メンバーとしての地位を確認する本件和解が成立したものである。しかるに、丸名工芸は、登録者を武内からプレーイング・メンバーである原告に変更することを申請してきたため、本件ゴルフクラブの理事会は、本件和解成立以後特段の事情変更のないこと及び原告が日本国籍を有していないことを考慮して、右変更を承認しないとの結論に至り、被告がこれを拒否したものと認められる。

 右の不承認の理由であるが、まず、本件和解成立以後特段の事情変更がないとの点については、なる程、登録者が原告であることの確認等を求めて提起した前訴が、原告のプレーイング・メンバーとしての地位を確認する本件和解の成立により終了してから一年を経ずして、本件の登録者変更申請がなされたものであるから、いささか蒸し返しの感は免れないけれども、本件和解においてプレーイング・メンバーである原告を登録者へ変更申請することを封じたものであれば格別、先に判示したとおり、本件和解は将来同一法人内の登録者変更申請がなされる余地を残したものと認めざるを得ないことからすれば、本件和解成立以後特段の事情変更がなかったからといって、変更申請を不承認とする合理的理由になると解することはできない。

 次いて、原告が日本国籍を有しないとの点については、まず、憲法の法の下の平等の規定(一四条)は、専ら国又は公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人間の法律関係に直接適用されるものではないと解すべきである。そして、私人間における権利の調整は、原則として私的自治にゆだねられるが、個人の基本的な自由や平等が侵害され、その侵害の態様、 度が右憲法の規定の趣旨に照らして社会的に許容し得る限界を超えるときは、民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等によって適切な調整が図られるべきである。

 この観点から本件をみるに、本件ゴルフクラブの会員及び法員会員の登録者の資格条件として日本国籍者であることを課すことについては、ゴルフクラブの前記特質を前提にしても、今日の社会通念の下ては合理的理由を見出し難く、いわゆる在日韓国人である原告の生い立ちと境遇に思いを至すとき、日本国籍を有しないことを理由に原告を登録者とする変更申請を承認しなかったことは、憲法一四条の規定の趣旨に照らし、社会的に許容し得る限界を超えるものとして、違法との評価を免れないというべきである。

 以上、要するに、本件の登録者の変更を認めなかった被告の判断には、裁量を逸脱した違法があると断ぜざるを得ない。

 

札幌池判平成14年11月11日

要旨

1 公衆浴場の経営会社が外国人の入浴を一律に拒否するという方法により外国人及び外国人に見える者の入浴を拒否することは,人種差別にあたるとして,前記経営会社の不法行為の成立が肯定された事例

2 前記入浴拒否が地方公共団体の地域内で行われている場合に,判示認定の諸活動を行った当該地方公共団体の不法行為の成立が否定された事例

 

判旨

(1) 原告らは,被告Aによる本件入浴拒否は,憲法14条1項,国際人権B規約26条,人種差別撤廃条約5条(f),6条及び公衆浴場法に反して違法である旨主張する。しかし,憲法14条1項は,公権力と個人との間の関係を規律するものであって,原告らと被告Aとの間のような私人相互の間の関係を直接規律するものではないというべきであり,実質的に考えても,同条項を私人間に直接適用すれば,私的自治の原則から本来自由な決定が許容される私的な生活領域を不当に狭めてしまう結果となる。また,国際人権B規約及び人種差別撤廃条約は,国内法としての効力を有するとしても,その規定内容からして,憲法と同様に,公権力と個人との間の関係を規律し,又は,国家の国際責任を規定するものであって,私人相互の間の関係を直接規律するものではない。そして,公衆浴場法は,公衆衛生を保持するために公衆浴場の配置基準を定め,公衆浴場業の営業を許可制とするものであって,本件入浴拒否のような,公衆浴場の公衆衛生の保持とは直接関係のない行為についての適法性を判断する根拠とはなりえない。したがって,原告らの上記主張は採用することができない。

(2) 私人相互の関係については,上記のとおり,憲法14条1項,国際人権B規約,人種差別撤廃条約等が直接適用されることはないけれども,私人の行為によって他の私人の基本的な自由や平等が具体的に侵害され又はそのおそれがあり,かつ,それが社会的に許容しうる限度を超えていると評価されるときは,私的自治に対する一般的制限規定である民法1条,90条や不法行為に関する諸規定等により,私人による個人の基本的な自由や平等に対する侵害を無効ないし違法として私人の利益を保護すべきである。そして,憲法14条1項,国際人権B規約及び人種差別撤廃条約は,前記のような私法の諸規定の解釈にあたっての基準の一つとなりうる。

これを本件入浴拒否についてみると,本件入浴拒否は,Oの入口には外国人の入浴を拒否する旨の張り紙が掲示されていたことからして,国籍による区別のようにもみえるが,外見上国籍の区別ができない場合もあることや,第2入浴拒否においては,日本国籍を取得した原告Jが拒否されていることからすれば,実質的には,日本国籍の有無という国籍による区別ではなく,外見が外国人にみえるという,人種,皮膚の色,世系又は民族的若しくは種族的出身に基づく区別,制限であると認められ,憲法14条1項,国際人権B規約26条,人種差別撤廃条約の趣旨に照らし,私人間においても撤廃されるべき人種差別にあたるというべきである。

ところで,被告Aには,Oに関して,財産権の保障に基づく営業の自由が認められている。しかし,Oは,公衆浴場法による北海道知事の許可を受けて経営されている公衆浴場であり,公衆衛生の維持向上に資するものであって,公共性を有するものといえる。そして,その利用者は,相応の料金の負担により,家庭の浴室にはない快適さを伴った入浴をし,清潔さを維持することができるのであり,公衆浴場である限り,希望する者は,国籍,人種を問わず,その利用が認められるべきである。もっとも,公衆浴場といえども,他の利用者に迷惑をかける利用者に対しては,利用を拒否し,退場を求めることが許されるのは当然である。したがって,被告Aは,入浴マナーに従わない者に対しては,入浴マナーを指導し,それでも入浴マナーを守らない場合は,被告小樽市や警察等の協力を要請するなどして,マナー違反者を退場させるべきであり,また,入場前から酒に酔っている者の入場や酒類を携帯しての入場を断るべきであった。たしかに,これらの方法の実行が容易でない場合があることは否定できないが,公衆浴場の公共性に照らすと,被告Aは,可能な限りの努力をもって上記方法を実行すべきであったといえる。そして,その実行が容易でない場合があるからといって,安易にすべての外国人の利用を一律に拒否するのは明らかに合理性を欠くものというべきである。しかも,入浴を希望した原告らについては,他の利用者に迷惑をかけるおそれは全く窺えなかったものである。

したがって,外国人一律入浴拒否の方法によってなされた本件入浴拒否は,不合理な差別であって,社会的に許容しうる限度を超えているものといえるから,違法であって不法行為にあたる。

被告Aは,原告らがOを訪れたのは,入浴拒否の事実をマスコミを通じて世間にアピールし,又は,被告Aに抗議するためであったから,原告らが本件入浴拒否により侵害された利益の実体に照らして被告Aの経済的自由と比較衡量すれば,本件入浴拒否が社会的に許容される限界を超えていたとまではいえない旨主張するが,原告らは,被告Aの入浴拒否に抗議し,その事実を社会に認知してもらうという目的をもっていたとしても,拒否されずに入浴することを望んでいたことに変わりはなく,本件入浴拒否によって不合理な差別を受けたことは否定できないから,原告らが上記のような目的をもっていたことによって本件入浴拒否の違法性がなくなるわけではない。

 

 

・最判平成3年6月21日修徳高校パーマ退学訴訟

要旨

(私立)高校間の在学関係を右のように解した場合、憲法の自由権的基本権保障規定の効力が右在学関係にも及ぶかが問題となるが、憲法の自由権的基本権保障規定は国又は公共団体と個人との関係を規律するものであるから、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものではないが、私立学校は、現行法制上、公教育の一翼を担う重要な役割を果たし、その公的役割にかんがみて国又は地方公共団体から財政的な補助を受けているのであるから、一般条項である民法一条、同法九〇条等に照らして同校の校則の効力を判断する際に、憲法の趣旨は私人間においても保護されるべき法益を示すものとして尊重されなければならない。

 しかし、それと同時に、子どもと親は私学選択の自由を有し、それに対応する私学設置の自由及び私学教育の自由が尊重されるべきことも法の要求するところであるから、両者の調和は、私立学校の性質、在学関係の性格、制約される利益の性質等に応じて具体的に検討する必要があるのであり、原告の主張が私立学校の在学関係においても国公立学校と全く同様の形で基本的人権保障の効力が貫かれるべきであるとの趣旨とすれば、それは採用できない。

 

 

判旨

() 裁判所の判断

 (1) 校則制定の法的根拠

 高等学校は、生徒の教育を目的とする団体として、その目的を達成するために必要な事項を学則等により制定し、これによって在学する生徒を規律する権能を有し、他方、生徒は、当該学校に入学し、生徒としての身分を取得することによって、自らの意思に基づき当該学校の規律に服することを承認することになる。勿論、学校設置者の右権能に基づく学則等の規定は、在学関係を設定する目的と関連し、かつ、その内容が社会通念に照らして合理的なものであることを要し、学則等の規定の内容が合理的なものであるときは、その違反に対しては、教育上必要と認められるときに限り制裁を科すことができ(学校教育法一一条)、これによって学則等の実効性を担保することも許されるのであり、制裁が生徒の権利や自由を制限するというだけで、直ちに右規定が無効になるということはできない。

 本件においては、原告は、修徳高校に入学することで、包括的に自己の教育を同校に託し、その生徒としての地位を取得したのであり、修徳高校は、法律に格別の規定がない場合でも、その設置目的を達成するために必要な事項を学則等により一方的に制定し、これによって在学する生徒を規律する包括的権能を有するものと解され、右包括的権能は、在学関係設定の目的と関連し、かつ、その内容が社会通念に照らして合理的といえる範囲において認められる。

 (2) 私人間における憲法の自由権的基本権保障規定の効力

 原告、修徳高校間の在学関係を右のように解した場合、憲法の自由権的基本権保障規定の効力が右在学関係にも及ぶかが問題となるが、憲法の自由権的基本権保障規定は国又は公共団体と個人との関係を規律するものであるから、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものではないが、私立学校は、現行法制上、公教育の一翼を担う重要な役割を果たし、その公的役割にかんがみて国又は地方公共団体から財政的な補助を受けているのであるから、一般条項である民法一条、同法九〇条等に照らして同校の校則の効力を判断する際に、憲法の趣旨は私人間においても保護されるべき法益を示すものとして尊重されなければならない。

 しかし、それと同時に、子どもと親は私学選択の自由を有し、それに対応する私学設置の自由及び私学教育の自由が尊重されるべきことも法の要求するところであるから、両者の調和は、私立学校の性質、在学関係の性格、制約される利益の性質等に応じて具体的に検討する必要があるのであり、原告の主張が私立学校の在学関係においても国公立学校と全く同様の形で基本的人権保障の効力が貫かれるべきであるとの趣旨とすれば、それは採用できない。

 (3) パーマ禁止校則の効力

 パーマを掛けることを禁止する校則について検討するに、右校則の目的は、高校生にふさわしい髪型を維持し、また、非行を防止することにあると認められるが、修徳高校は、内外両面とも清潔・高潔な品性を備えた人物を育てることを目的とし、そのために清潔かつ質素で流行を負うことなく、華美に流されない生徒にふさわしい態度を保持することを目指しているのであるから、高校生にふさわしい髪型を確保するためにパーマを禁止することは、右目的実現に不必要な措置とは断言できず、右のような私立学校における独自の校風と教育方針は私学教育の自由の一内容として尊重されるべきである。

 もっとも、個人の髪型は、個人の自尊心あるいは美的意識と分かちがたく結びつき、特定の髪型を強制することは、身体の一部に対する直接的な干渉となり、強制される者の自尊心を傷つける恐れがあるから、髪型決定の自由が個人の人格価値に直結することは明らかであり、個人が頭髪について髪型を自由に決定しうる権利は、個人が一定の重要な私的事柄について、公権力から干渉されることなく自ら決定することができる権利の一内容として憲法一三条により保障されていると解される。しかし、右校則は特定の髪型を強制するものではない点で制約の度合いは低いといえるのであり、また、原告が修徳高校に入学する際、パーマが禁止されていることを知っていたことを併せ考えるならば、右髪型決定の自由の重要性を考慮しても、右校則は、髪型決定の自由を不当に制限するものとはいえない。

 右のとおり、一方、在学関係設定の目的の実現のために右校則を制定する必要性を否定できず、他方で、右校則は髪型決定の自由を不当に制限するものとまではいえないのであるから、これを無効ということはできない。

 (4) 運転免許取得制限校則の効力

 運転免許の取得を制限する校則について検討するに、右校則の目的は交通事故から生徒の生命身体を守り、非行化を防止し、もって勉学に専念する時間を確保するところにあると認められ、生徒が自ら死傷し、あるいは他人を死傷させた場合、在学関係設定の目的の実現に重大な支障をきたすことは明らかであり、しかも、運転免許の取得を制限すれば事故発生率が減少することは期待できるのであるから、在学関係設定の目的の実現のために、右校則を制定する必要性は否定できない。

 もっとも、普通自動車の運転免許を取得して、自動車を運転することは、社会生活上尊重されるべき法益ということができる。しかし、運転免許取得の自由と個人の人格との結びつきは間接的なものにとどまるのであるし、学校は就職希望者で免許の必要な者には個別的に免許を取得する余地を認め、また、原告は修徳高校に入学する際、運転免許取得につき制限があることを知っていたのであるから、右校則は運転免許取得の自由を不当に制限するものとはいえない。

 右のとおり、一方、在学関係設定の目的の実現のために右校則を制定する必要性を否定できず、他方で、右校則は運転免許取得の自由を不当に制限するものとはいえないのであるから、これを無効ということはできない。

 なお、原告は、道路交通法が一八歳以上の国民に運転免許を取得する権利を与えていることを理由に、修徳高校の運転免許の取得制限が越権的規制である旨主張するが、道路交通法規が一定の年齢以上の者に運転免許の取得を許容している趣旨は、道路における交通の円滑性と安全性を保持するためであるのに対し、本件の運転免許取得制限は、生徒の教育のためであって、両者の各規定は、規制の趣旨、目的を異にするものであるから、両者を同一に論ずることはできず、原告の主張は採用できない。

 (5) その他の原告の主張に対する判断

 原告は、生活指導の領域における決定は、第一次的には子どもと親が自己決定権の一内容として決定権限を留保しているのであり、また、生活指導は、教育実践の中で専門的能力を形成されていく教育活動であるから、教師による生活指導は基本的に指導助言活動でなければならないとの理解に立ち、生活指導の領域にわたる運転免許取得制限校則及びパーマ禁止校則の無効を主張し、加えて、運転免許取得制限校則については学校は校外生活を直接規制できないとして、その無効を主張する。

 確かに、運転免許取得制限及びパーマ禁止は、教育的専門事項ではなく、生活指導としての面を有するが、生活指導は生徒の人格の完成に資するものであり、かつ、家庭あるいは地域社会の教育機能が低下している今日においては、学校が家庭等での生活指導の不十分な面を補わざるを得ない面があることも否定できなのであるから、教科教育のみならず生活指導についても、子どもあるいは親の権能を不当に侵害しない限り、学校がそれを行う権限を有するものと解される。

 しかも、本件においては、原告及び原告の父親は入学に際し、内容は若干異なるにせよ運転免許の取得が制限されていること及びパーマが禁止されていることを認識していたのであるし、前記のとおり、本件運転免許取得制限校則及びパーマ禁止校則は運転免許取得の自由あるいは髪型決定の自由を不当に制限したものとはいえないから、右各校則が子どもあるいは親の権能を不当に侵害したとは認められず、したがって原告の主張は採用できない。

 また、専門的能力の観点からする生活指導の適格性については、生活指導が教育的専門事項ではないことは勿論であるが、学校内の事情に加え、生徒の家庭環境等を含む学校外の教育事情についても専門的な知識と経験を有する学校、教師にその適格性を認めることができる。

 原告は、生徒に対する懲戒は、当該行為が生徒集団に対する教育、指導の成立を危うくし、他の生徒の学習権を侵害するような場合及び当該行為を懲戒の対象とすることが本人の利益を確保するために必要な場合にのみ正当化され、後者の場合は何が本人の利益かの判断が困難であるから非強制的な助言指導により目的を達成すべきであるとの理解に立ち、本件運転免許取得制限校則及びパーマ禁止校則に違反することは、他の生徒の権利を侵害するものではないから、懲戒の根拠たり得ないと主張し、また、校則違反を懲戒処分に直結させていること自体が違法である旨主張する。

 しかし、懲戒処分及び事実上の懲戒は、学校の内部規律を維持し、教育目的を達成するために認められる自律作用であるから、教育目的を達成するために必要かつ合理的な制約であるなら、右制約に違反したことを理由に懲戒を行うことができるというべきであって、前記のとおり、本件運転免許取得制限校則及びパーマ禁止校則は無効ということはできないのであるから、右各校則に違反することは、懲戒の根拠となり得るものというべきである。

 また、いかなる行為によって教育目的の達成が阻害されるかの判断は各学校の判断に委ねられ、学校の規律の弛緩自体がひいては生徒の学習権等を阻害することにつながるとの判断に立って、現実の学習権侵害等が発生する以前の段階において懲戒権を行使することも、同様に一つの選択として是認される。



 目次


第3章 国民の権利及び義務 公務員の人権(1)

 

【公務員の労働基本権】

 

【第1期】

政令201号事件 最大判昭和28年4月8日

要旨

 国民の権利はすべて公共の福祉に反しない限りにおいて立法その他の国政の上で最大の尊重をすることを必要とするのであるから、憲法二八条が保障する勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利も公共の福祉のために制限を受けるのは已を得ないところである。殊に国家公務員は、国民全体の奉仕者として(憲法一五条)公共の利益のために勤務し、且つ職務の遂行に当つては全力を挙げてこれに専念しなければならない(国家公務員法九六条一項)性質のものであるから、団結権団体交渉権等についても、一般の勤労者とは違つて特別の取扱を受けることがあるのは当然である。従来の労働組合法又は労働関係調整法において非現業官吏が争議行為を禁止され、又警察官等が労働組合結成権を認められなかつたのはこの故である。同じ理由により、本件政令第二〇一号が公務員の争議を禁止したからとて、これを以て憲法二八条に違反するものということはできない。

 また憲法二五条一項は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るよう国政を運営すべきことを国家の責務としして宣言したものである(当裁判所昭和二三年(れ)二〇五号同年九月二九日大法廷判決、刑集二巻一〇号一二三五頁)。公務員がその争議行為を禁止されたからとてその当然の結果として健康で文化的な最低限度の生活を営むことができなくなるというわけのものではないから、本件政令が憲法二五条に違反するという主張も採用し難い。

 

・最判昭和30年6月22日 三鷹事件

要旨

国家公務員は国民全体の奉仕者であるから、昭和二三年政令二〇一号(昭和二三年七月二二日附内閣総理大臣宛聯合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令)がその争議行為を禁止しても、憲法二八条に違反しない。

 

 目次

第3章 国民の権利及び義務 公務員の人権(2)

 

【公務員の労働基本権】

 

【第2期】

全逓東京中郵事件 最大判昭和41年10月26日

要旨

憲法二八条の保障する労働基本権は、さきに述べたように、何らの制約も許されない絶対的なものではなく、国民生活全体の利益の保障という見地からの制約を当然に内包しているものと解すべきである。いわゆる五現業および三公社の職員の行なう業務は、多かれ少なかれ、また、直接と間接との相違はあつても、等しく国民生活全体の利益と密接な関連を有するものであり、その業務の停廃が国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれがあることは疑いをいれない。他の業務はさておき、本件の郵便業務についていえば、その業務が独占的なものであり、かつ、国民生活全体との関連性がきわめて強いから、業務の停廃は国民生活に重大な障害をもたらすおそれがあるなど、社会公共に及ぼす影響がきわめて大きいことは多言を要しない。それ故に、その業務に従事する郵政職員に対してその争議行為を禁止する規定を設け、その禁止に違反した者に対して不利益を課することにしても、その不利益が前に述べた基準に照らして必要な限度をこえない合理的なものであるかぎり、これを違憲懸無効ということはてきない。

 

判旨

一 憲法二八条は、いわゆる労働基本権、すなわち、勤労者の団結する権利および団体交渉その他の団体行動をする権利を保障している。

この労働基本権の保障の狙いは、憲法二五条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、勤労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、一方で、憲法二七条の定めるところによつて、勤労の権利および勤労条件を保障するとともに、他方で、憲法二八条の定めるところによつて、経済上劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段として、その団結権、団体交渉権、争議権等を保障しようとするものである。

 このように、憲法自体が労働基本権を保障している趣旨にそくして考えれば、実定法規によつて労働基本権の制限を定めている場合にも、労働基本権保障の根本精神にそくしてその制限の意味を考察すべきであり、ことに生存権の保障を基本理念とし、財産権の保障と並んで勤労者の労働権・団結権・団体交渉権・争議権の保障をしている法体制のもとでは、これら両者の間の調和と均衡が保たれるように、実定法規の適切妥当な法解釈をしなければならない。

 右に述べた労働基本権は、たんに私企業の労働者だけについて保障されるのではなく、公共企業体の職員はもとよりのこと、国家公務員やを方公務員も、憲法二八条にいう勤労者にほかならない以上、原則的には、その保障を受けるべきものと解される。

「公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」とする憲法一五条を根拠として、公務員に対して右の労働基本権をすべて否定するようなことは許されない。

ただ、公務員またはこれに準ずる者については、後に述べるように、その担当する職務の内容に応じて、私企業における労働者と異なる制約を内包しているにとどまると解すべきである。

 労働基本権のうちで、団体行動の一つである争議をする権利についていえば、勤労者がする争議行為は、正当な限界をこえないかぎり、憲法の保障する権利の行使にほかならないから、正当な事由に基づくものとして、債務不履行による解雇、損害賠償等の問題を生ずる余地がなく、また、違法性を欠くものとして、不法行為責任を生ずることもない。

労組法七条で、労働者が労働組合の正当な行為をしたことの故をもつて、使用者がこれを解雇し、その他これに対して不利益な取扱いをすることを禁止し、また、同八条で、同盟罷業その他の争議行為であつて正当なものによつて損害をうけたことの故をもつて、使用者が労働組合またはその組合員に対して、損害賠償を請求することができない旨を規定しているのは、右に述べた当然のことを明示的にしたものと解される。

このような見地からすれば、同盟罷業その他の争議行為であつて労組法の目的を達成するためにした正当なものが刑事制裁の対象とならないことは、当然のことである。

労組法一条二項で、刑法三五条の規定は、労働組合の団体交渉その他の行為であつて労組法一条一項に掲げる目的を達成するためにした正当なものについて適用があるとしているのは、この当然のことを注意的に規定したものと解すべきである。

また、同条二項但書で、いかなる場合にも、暴力の行使は、労働組合の正当な行為と解釈されてはならないと規定しているが、これは争議行為の正当性の一つの限界を示し、この限界をこえる行為は、もはや刑事免責を受けないことを明らかにしたものというべきである。

 

二 右に述べたように、勤労者の団結権・団体交渉権・争議権等の労働基本権は、すべての勤労者に通じ、その生存権保障の理念に基づいて憲法二八条の保障するところであるが、これらの権利であつて、もとより、何らの制約も許されない絶対的なものではないのであつて、国民生活全体の利益の保障という見地からの制約を当然の内在的制約として内包しているものと解釈しなければならない。

しかし、具休的にどのような制約が合憲とされるかについては、諸般の条件、ことに左の諸点を考慮に入れ、慎重に決定する必要がある。

 (1) 労働基本権の制限は、労働基本権を尊重確保する必要と国民生活全体の利益を維持増進する必要とを比較衡量して、両者が適正な均衡を保つことを目途として決定すべきであるが、労働基本権が勤労者の生存権に直結し、それを保障するための重要な手段である点を考慮すれば、その制限は、合理性の認められる必要最小限度のものにとどめなければならない。

 (2) 労働基本権の制限は、勤労者の提供する職務または業務の性質が公共性の強いものであり、したがつてその職務または業務の停廃が国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれのあるものについて、これを避けるために必要やむを得ない場合について考慮されるべきである。

 (3) 労働基本権の制限違反に伴う法律効果、すなわち、違反者に対して課せられる不利益については、必要な限度をこえないように、十分な配慮がなされなければならない。

とくに、勤労者の争議行為等に対して刑事制裁を科することは、必要やむを得ない場合に限られるべきであり、同盟罷業、怠業のような単純な不作為を刑罰の対象とするについては、特別に慎重でなければならない。

けだし、現行法上、契約上の債務の単なる不履行は、債務不履行の問題として、これに契約の解除、損害賠償責任等の民事的法律効果が伴うにとどまり、刑事上の問題としてこれに刑罰が科せられないのが原則である。

このことは、人権尊重の近代的思想からも、刑事制裁は反社会性の強いもののみを対象とすべきであるとの刑事政策の理想からも、当然のことにほかならない。

それは債務が雇傭契約ないし労働契約上のものである場合でも異なるところがなく、労務者がたんに労務を供給せず(罷業)もしくは不完全にしか供給しない(怠業)ことがあつても、それだけでは、一般的にいつて、刑事制裁をもつてこれに臨むべき筋合ではない。

 (4) 職務または業務の性質上からして、労働基本権を制限することがやむを得ない場合には、これに見合う代償措置が講ぜられなければならない。

 以上に述べたところは、労働基本権の制限を目的とする法律を制定する際に留意されなければならないばかりでなく、すでに制定されている法律を解釈適用するに際しても、十分に考慮されなければならない。

・最大判昭和44年4月2日 都教組事件

要旨

A教職員組合が、文部省の企図した公立学校教職員に対する勤務評定の実施に反対するため、一日の一せい休暇闘争を行なうにあたり、被告人らが組合の幹部としてした闘争指令の配布、趣旨伝達等、争議行為に通常随伴する行為に対しては、地方公務員法六一条四号所定の刑事罰をもつてのぞむことは許されない。

 

判旨

地公法三七条、六一条四号の各規定が所論のように憲法に違反するものであるかどうかについてみると、地公法三七条一項には、「職員は、地方公共団体の機関が代表する使用者としての住民に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能力を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又は遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。」と規定し、同法六一条四号には、「何人たるを問わず、第三十七条第一項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者」は三年以下の懲役または一〇万円以下の罰金に処すべき旨を規定している。

これらの規定が、文字どおりに、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止し、これらの争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為(以下、あおり行為等という。

)をすべて処罰する趣旨と解すべきものとすれば、それは、前叙の公務員の労働基本権を保障した憲法の趣旨に反し、必要やむをえない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最小限度にとどめなければならないとの要請を無視し、その限度をこえて刑罰の対象としているものとして、これらの規定は、いずれも、違憲の疑を免れないであろう。

 しかし、法律の規定は、可能なかぎり、憲法の精神にそくし、これと調和しうるよう、合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、これらの規定の表現にのみ拘泥して、直ちに違憲と断定する見解は採ることができない。

すなわち、地公法は地方公務員の争議行為を一般的に禁止し、かつ、あおり行為等を一律的に処罰すべきものと定めているのであるが、これらの規定についても、その元来の狙いを洞察し労働基本権を尊重し保障している憲法の趣旨と調和しうるように解釈するときは、これらの規定の表現にかかわらず、禁止されるべき争議行為の種類や態様についても、さらにまた、処罰の対象とされるべきあおり行為等の態様や範囲についても、おのずから合理的な限界の存することが承認されるはずである。

 かように、一見、一切の争議行為を禁止し、一切のあおり行為等を処罰の対象としているように見える地公法の前示各規定も、右のような合理的な解釈によつて、規制の限界が認められるのであるから、その規定の表現のみをみて、直ちにこれを違憲無効の規定であるとする所論主張は採用することができない。

地方公務員の争議行為についてみるに、地公法三七条一項は、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止しているから、これに違反してした争議行為は、右条項の法文にそくして解釈するかぎり、違法といわざるをえないであろう。

しかし、右条項の元来の趣旨は、地方公務員の職務の公共性にかんがみ、地方公務員の争議行為が公共性の強い公務の停廃をきたし、ひいては国民生活全体の利益を害し、国民生活にも重大な支障をもたらすおそれがあるので、これを避けるためのやむをえない措置として、地方公務員の争議行為を禁止したものにほかならない。

ところが、地方公務員の職務は、一般的にいえば、多かれ少なかれ、公共性を有するとはいえ、さきに説示したとおり、公共性の程度は強弱さまざまで、その争議行為が常に直ちに公務の停廃をきたし、ひいて国民生活全体の利益を害するとはいえないのみならず、ひとしく争議行為といつても、種々の態様のものがあり、きわめて短時間の同盟罷業または怠業のような単純な不作為のごときは、直ちに国民全体の利益を害し、国民生活に重大な支障をもたらすおそれがあるとは必ずしもいえない。

地方公務員の具体的な行為が禁止の対象たる争議行為に該当するかどうかは、争議行為を禁止することによつて保護しようとする法益と、労働基本権を尊重し保障することによつて実現しようとする法益との比較較量により、両者の要請を適切に調整する見地から判断することが必要である。

そして、その結果は、地方公務員の行為が地公法三七条一項に禁止する争議行為に該当し、しかも、その違法性の強い場合も勿論あるであろうが、争議行為の態様からいつて、違法性の比較的弱い場合もあり、また、実質的には、右条項にいう争議行為に該当しないと判断すべき場合もあるであろう。

 また、地方公務員の行為が地公法三七条一項の禁止する争議行為に該当する違法な行為と解される場合であつても、それが直ちに刑事罰をもつてのぞむ違法性につながるものでないことは、同法六一条四号が地方公務員の争議行為そのものを処罰の対象とすることなく、もつぱら争議行為のあおり行為等、特定の行為のみを処罰の対象としていることからいつて、きわめて明瞭である。

かえつて、同法三七条二項は、職員で同条一項に違反する行為をしたものは、地方公共団体に対して保有する任命上または雇用上の権利をもつて対抗することができないという不利益を課しているにすぎないことを注意すべきである。

したがつて、地方公務員のする争議行為については、それが違法な行為である場合に、公務員としての義務違反を理由として、当該職員を懲戒処分の対象者とし、またはその職員に民事上の責任を負わせることは、もとよりありうべきところであるが、争議行為をしたことそのことを理由として刑事制裁を科することは、同法の認めないところといわなければならない。

 ところで、地公法六一条四号は、争議行為をした地方公務員自体を処罰の対象とすることなく、違法な争議行為のあおり行為等をした者にかぎつて、これを処罰することにしているのであるが、このような処罰規定の定め方も、立法政策としての当否は別として、一般的許されないとは決していえない。

ただ、それは、争議行為自体が違法性の強いものであることを前提とし、そのような違法な争議行為等のあおり行為等であつてはじめて、刑事罰をもつてのぞむ違法性を認めようとする趣旨と解すべきであつて、前叙のように、あおり行為等の対象となるべき違法な争議行為が存しない以上、地公法六一条四号が適用される余地はないと解すべきである。

(もつとも、あおり行為等は、争議行為の前段階における行為であるから、違法な争議行為を想定して、あおり行為等をした場合には、仮りに予定の違法な争議行為が実行されなかつたからといつて、あおり行為等の刑責は免れえないものといわなければならない。

 つぎに、あおり行為等の意義および要件については、意見の分かれるところであるが、一般に「あおり」の意義については、違法行為を実行させる目的で、文書、図画、言動により、他人に対し、その実行を決意させ、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えることをいうと解してよいであろう(昭和三三年(あ)第一四一三号、同三七年二月二一日大法廷判決、刑集一六巻二号一〇七頁参照)。

しかし、地公法でいう争議行為等のあおり行為等がすべて一律に処罰の対象とされうべきものであるかどうかについては、慎重な考慮を要する。

問題は、結局、公務員についても、その労働基本権を尊重し保障しようとする憲法上の要請と、公務員については、その職務の公共性にかんがみ、争議行為を禁止すべきものとする要請との二つの相矛盾する要請を、現行法の解釈のうえで、どのように調整すべきかの点にあり、労働基本権尊重の憲法の精神からいつて、争議行為禁止違反に対する制裁、とくに刑事罰をもつてする制裁は、極力限定されるべきであつて、この趣旨は、法律の解釈適用にあたつても、十分尊重されなければならない。

そして、地公法自体は、地方公務員の争議行為そのものは禁止しながら、右禁止に違反して争議行為をした者を処罰の対象とすることなく、争議行為のあおり行為等にかぎつて、これを処罰すべきものとしているのであるが、これらの規定の中にも、すでに前叙の調整的な考え方が現われているということができる。

しかし、さらに進んで考えると、争議行為そのものに種々の態様があり、その違法性が認められる場合にも、その強弱に程度の差があるように、あおり行為等にもさまざまの態様があり、その違法性が認められる場合にも、その違法性の程度には強弱さまざまのものがありうる。

それにもかかわらず、これらのニユアンスを一切否定して一律にあおり行為等を刑事罰をもつてのぞむ違法性があるものと断定することは許されないというべきである。

ことに、争議行為そのものを処罰の対象とすることなく、あおり行為等にかぎつて処罰すべきものとしている地公法六一条四号の趣旨からいつても、争議行為に通常随伴して行なわれる行為のごときは、処罰の対象とされるべきものではない。

それは、争議行為禁止に違反する意味において違法な行為であるということができるとしても、争議行為の一環としての行為にほかならず、これらのあおり行為等をすべて安易に処罰すべきものとすれば、争議行為者不処罰の建前をとる前示地公法の原則に矛盾することにならざるをえないからである。

したがつて、職員団体の構成員たる職員のした行為が、たとえ、あおり行為的な要素をあわせもつとしても、それは、原則として、刑事罰をもつてのぞむ違法性を有するものとはいえないというべきである。


 目次

第3章 国民の権利及び義務 公務員の人権(3)

 

 【公務員の労働基本権】

【第2期】

全司法仙台事件 最大判昭和44年4月2日

要旨

1 国家公務員法九八条五項、一一〇条一項一七号は憲法二八条、前文、一一条、九七条、一八条に、国家公務員法一一〇条一項一七号は憲法二一条、三一条に違反しない。

2 A労組B支部が、新安保条約に反対するため、勤務時間内にくいこむ職場大会を開催するにあたり、裁判所職員でなく、かつまた裁判所職員の団体に関係もない被告人甲らと、裁判所職員であり、同支部執行委員長の職にあつた被告人乙とが共謀のうえ、同支部分会役員に対し右職場大会への参加協力を要求し、または裁判所職員に対し右職場大会への参加をしようようしたときは、甲らおよび乙は、いずれも国家公務員法一一〇条一項一七号にいう同法九八条五項前段に規定する違法な行為の遂行をあおつた者にあたる。

 

 

判旨

 よつて案ずるに、国公法九八条五項は、「職員は、政府が代表する使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなし、又は政府の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。

又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。

」と規定し、同法一一〇条一項一七号は、「何人たるを問わず第九十八条第五項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者」は、三年以下の懲役または一〇万円以下の罰金に処すべき旨を規定している。

これらの規定が、文字どおりに、すべての国家公務員の一切の争議行為を禁止し、これらの争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為(以下、あおり行為等という。

)をすべて処罰する趣旨と解すべきものとすれば、公務員の労働基本権保障の趣旨に反し、必要やむをえない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最少限度にとどめなければならないとの要請を無視して刑罰の対象としているものとして、これらの規定は、いずれも、違憲の疑いを免れない。

しかし、法律の規定は、可能なかぎり、憲法の精神に即し、これと調和しうるよう合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、これらの規定の表現にのみ拘泥して、直ちにこれを違憲と断定する見解は採ることができない。

 右のように限定的に解釈するかぎり、前示国公法九八条五項はもとより、同法一一〇条一項一七号も、憲法二八条に違反するものということができず、また、憲法の前文、一一条、九七条、一八条に違反するものともいえないことは、当裁判所大法廷の判例(とくに昭和三九年(あ)第二九六号、同四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁、昭和四一年(あ)第四〇一号、同四四年四月二日大法廷判決参照)の趣旨に照らし、明らかであるから、これらの規定自体を違憲とする所論は、その理由がなく、したがつて、原判決が右国公法一一〇条一項一七号を適用したことを非難する論旨も、採用することができない。

 

【第3期】

最大判昭和48年4月25日 全農林警職法事件

要旨

一 国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの)九八条五項、一一〇条一項一七号は憲法二八条に、国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの)一一〇条一項一七号は憲法一八条、二一条、三一条に違反しない。

二 国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの)一一〇条一項一七号にいう「あおり」とは、同法九八条五項前段に規定する違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生じさせるような、または、すでに生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えることをいい、「企て」とは、右違法行為を共謀し、そそのかし、または、あおる行為の遂行を計画準備することであつて、違法行為発生の危険性が具体的に生じたと認めうる状態に達したものをいう。

三 国家公務員法(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの)九八条五項、一一〇条一項一七号は、公務員の争議行為のうち同法によつて違法とされるものとされないものとを区別し、さらに違法とされる争議行為についても違法性の強いものと弱いものとを区別したうえ、刑事制裁を科さるのはそのうち違法性の強い争議行為に限るものとし、あるいは、あおり行為等につき、争議行為の企画、共謀、説得、慫慂、指令等を争議行為にいわゆる通常随伴するものとして争議行為自体と同一視し、これを刑事制裁の対象から除くものとする趣旨ではない。

四 私企業の労働者であると、公務員を含むその他の勤労者であるとを問わず、使用者に対する経済的地位の向上の要請とは直接関係のない警察官職務執行法の改正に対する反対のような政治的目的のために争議行為を行なうことは、憲法二八条とは無関係なものである。

 

判旨

憲法二八条は、「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利」、すなわちいわゆる労働基本権を保障している。

この労働基本権の保障は、憲法二五条のいわゆる生存権の保障を基本理念とし、憲法二七条の勤労の権利および勤労条件に関する基準の法定の保障と相まつて勤労者の経済的地位の向上を目的とするものである。

このような労働基本権の根本精神に即して考えると、公務員は、私企業の労働者とは異なり、使用者との合意によつて賃金その他の労働条件が決定される立場にないとはいえ、勤労者として、自己の労務を提供することにより生活の資を得ているものである点において一般の勤労者と異なるところはないから、憲法二八条の労働基本権の保障は公務員に対しても及ぶものと解すべきである。

ただ、この労働基本権は、右のように、勤労者の経済的地位の向上のための手段として認められたものであつて、それ自体が目的とされる絶対的なものではないから、おのずから勤労者を含めた国民全体の共同利益の見地からする制約を免れないものであり、このことは、憲法一三条の規定の趣旨に徴しても疑いのないところである(この場合、憲法一三条にいう「公共の福祉」とは、勤労者たる地位にあるすべての者を包摂した国民全体の共同の利益を指すものということができよう。)。

以下、この理を、さしあたり、本件において問題となつている非現業の国家公務員(非現業の国家公務員を以下単に公務員という。)について詳述すれば、次のとおりである。

 (一) 公務員は、私企業の労働者と異なり、国民の信託に基づいて国政を担当する政府により任命されるものであるが、憲法一五条の示すとおり、実質的には、その使用者は国民全体であり、公務員の労務提供義務は国民全体に対して負うものである。

もとよりこのことだけの理由から公務員に対して団結権をはじめその他一切の労働基本権を否定することは許されないのであるが、公務員の地位の特殊性と職務の公共性にかんがみるときは、これを根拠として公務員の労働基本権に対し必要やむをえない限度の制限を加えることは、十分合理的な理由があるというべきである。

けだし、公務員は、公共の利益のために勤務するものであり、公務の円滑な運営のためには、その担当する職務内容の別なく、それぞれの職場においてその職責を果すことが必要不可缺であつて、公務員が争議行為に及ぶことは、その地位の特殊性および職務の公共性と相容れないばかりでなく、多かれ少なかれ公務の停廃をもたらし、その停廃は勤労者を含めた国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼすか、またはその虞れがあるからである。

 次に公務員の勤務条件の決定については、私企業における勤労者と異なるものがあることを看過することはできない。

すなわち利潤追求が原則として自由とされる私企業においては、労働者側の利潤の分配要求の自由も当然に是認せられ、団体を結成して使用者と対等の立場において団体交渉をなし、賃金その他の労働条件を集団的に決定して協約を結び、もし交渉が妥結しないときは同盟罷業等を行なつて解決を図るという憲法二八条の保障する労働基本権の行使が何らの制約なく許されるのを原則としている。

これに反し、公務員の場合は、その給与の財源は国の財政とも関連して主として税収によつて賄われ、私企業における労働者の利潤の分配要求のごときものとは全く異なり、その勤務条件はすべて政治的、財政的、社会的その他諸般の合理的な配慮により適当に決定されなければならず、しかもその決定は民主国家のルールに従い、立法府において論議のうえなされるべきもので、同盟罷業等争議行為の圧力による強制を容認する余地は全く存しないのである。

これを法制に即して見るに、公務員については、憲法自体がその七三条四号において「法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること」は内閣の事務であると定め、その給与は法律により定められる給与準則に基づいてなされることを要し、これに基づかずにはいかなる金銭または有価物も支給することはできないとされており(国公法六三条一項参照)、このように公務員の給与をはじめ、その他の勤務条件は、私企業の場合のごとく労使間の自由な交渉に基づく合意によつて定められるものではなく、原則として、国民の代表者により構成される国会の制定した法律、予算によつて定められることとなつているのである。

その場合、使用者としての政府にいかなる範囲の決定権を委任するかは、まさに国会みずからが立法をもつて定めるべき労働政策の問題である。

したがつて、これら公務員の勤務条件の決定に関し、政府が国会から適法な委任を受けていない事項について、公務員が政府に対し争議行為を行なうことは、的はずれであつて正常なものとはいいがたく、もしこのような制度上の制約にもかかわらず公務員による争議行為が行なわれるならば、使用者としての政府によつては解決できない立法問題に逢着せざるをえないこととなり、ひいては民主的に行なわれるべき公務員の勤務条件決定の手続過程を歪曲することともなつて、憲法の基本原則である議会制民主主義(憲法四一条、八三条等参照)に背馳し、国会の議決権を侵す虞れすらなしとしないのである。

 さらに、私企業の場合と対比すると、私企業においては、極めて公益性の強い特殊のものを除き、一般に使用者にはいわゆる作業所閉鎖(ロツクアウト)をもつて争議行為に対抗する手段があるばかりでなく、労働者の過大な要求を容れることは、企業の経営を悪化させ、企業そのものの存立を危殆ならしめ、ひいては労働者自身の失業を招くという重大な結果をもたらすことともなるのであるから、労働者の要求はおのずからその面よりの制約を免れず、ここにも私企業の労働者の争議行為と公務員のそれとを一律同様に考えることのできない理由の一が存するのである。

た、一般の私企業においては、その提供する製品または役務に対する需給につき、市場からの圧力を受けざるをえない関係上、争議行為に対しても、いわゆる市場の抑制力が働くことを必然とするのに反し、公務員の場合には、そのような市場の機能が作用する余地がないため、公務員の争議行為は場合によつては一方的に強力な圧力となり、この面からも公務員の勤務条件決定の手続をゆがめることとなるのである。

 (ロ) このように、その争議行為等が、勤労者をも含めた国民全体の共同利益の保障という見地から制約を受ける公務員に対しても、その生存権保障の趣旨から、法は、これらの制約に見合う代償措置として身分、任免、服務、給与その他に関する勤務条件についての周到詳密な規定を設け、さらに中央人事行政機関として準司法機関的性格をもつ人事院を設けている。

ことに公務員は、法律によつて定められる給与準則に基づいて給与を受け、その給与準則には俸給表のほか法定の事項が規定される等、いわゆる法定された勤務条件を享有しているのであつて、人事院は、公務員の給与、勤務時間その他の勤務条件について、いわゆる情勢適応の原則により、国会および内閣に対し勧告または報告を義務づけられている。

そして、公務員たる職員は、個別的にまたは職員団体を通じて俸給、給料その他の勤務条件に関し、人事院に対しいわゆる行政措置要求をし、あるいはまた、もし不利益な処分を受けたときは、人事院に対し審査請求をする途も開かれているのである。

このように、公務員は、労働基本権に対する制限の代償として、制度上整備された生存権擁護のための関連措置による保障を受けているのである。

 (三) 以上に説明したとおり、公務員の従事する職務には公共性がある一方、法律によりその主要な勤務条件が定められ、身分が保障されているほか、適切な代償措置が講じられているのであるから、国公法九八条五項がかかる公務員の争議行為およびそのあおり行為等を禁止するのは、勤労者をも含めた国民全体の共同利益の見地からするやむをえない制約というべきであつて、憲法二八条に違反するものではないといわなければならない。

 しかしながら、国公法九八条五項、一一〇条一項一七号の解釈に関して、公務員の争議行為等禁止の措置が違憲ではなく、また、争議行為をあおる等の行為に高度の反社会性があるとして罰則を設けることの合理性を肯認できることは前述のとおりであるから、公務員の行なう争議行為のうち、同法によつて違法とされるものとそうでないものとの区別を認め、さらに違法とされる争議行為にも違法性の強いものと弱いものとの区別を立て、あおり行為等の罪として刑事制裁を科されるのはそのうち違法性の強い争議行為に対するものに限るとし、あるいはまた、あおり行為等につき、争議行為の企画、共謀、説得、慫慂、指令等を争議行為にいわゆる通常随伴するものとして、国公法上不処罰とされる争議行為自体と同一視し、かかるあおり等の行為自体の違法性の強弱または社会的許容性の有無を論ずることは、いずれも、とうてい是認することができない。

けだし、いま、もし、国公法一一〇条一項一七号が、違法性の強い争議行為を違法性の強いまたは社会的許容性のない行為によりあおる等した場合に限つてこれに刑事制裁を科すべき趣旨であると解するときは、いうところの違法性の強弱の区別が元来はなはだ暖昧であるから刑事制裁を科しうる場合と科しえない場合との限界がすこぶる明確性を欠くこととなり、また同条項が争議行為に「通常随伴」し、これと同一視できる一体不可分のあおり等の行為を処罰の対象としていない趣旨と解することは、一般に争議行為が争議指導者の指令により開始され、打ち切られる現実を無視するばかりでなく、何ら労働基本権の保障を受けない第三者がした、このようなあおり等の行為までが処罰の対象から除外される結果となり、さらに、もしかかる第三者のしたあおり等の行為は、争議行為に「通常随伴」するものでないとしてその態様のいかんを問わずこれを処罰の対象とするものと解するときは、同一形態のあおり等をしながら公務員のしたものと第三者のしたものとの間に処罰上の差別を認めることとなつて、ただに法文の「何人たるを問わず」と規定するところに反するばかりでなく、衡平を失するものといわざるをえないからである。

いずれにしても、このように不明確な限定解釈は、かえつて犯罪構成要件の保障的機能を失わせることとなり、その明確性を要請する憲法三一条に違反する疑いすら存するものといわなければならない。

 目次


第3章 国民の権利及び義務 公務員の人権(4)

 

【公務員の労働基本権】

【第3期】

・最大判昭和52年5月4日 全逓名古屋中郵事件

要旨

一 公共企業体等労働関係法一七条一項は、憲法二八条に違反しない。

二 公共企業体等労働関係法一七条一項違反の争議行為には、労働組合法一条二項の適用はない。

三 公共企業体等労働関係法一七条一項違反の争議行為が犯罪構成要件に該当し、違法性があり、責任がある場合であつても、それが同盟罷業、怠業その他単なる労務不提供のような不作為を内容とするものであつて、同条項が存在しなければ正当な争議行為として処罰を受けることのないようなものであるときには、争議行為の単純参加者に限り、その罰則による処罰を阻却される。

四 郵政職員が争議行為として行つた勤務時間内二時間の職場大会に参加を呼びかけた本件行為は、郵便法七九条一項の罪の幇助罪による処罰を阻却されない。

五 公共企業体等労働関係法一七条一項違反の争議行為に際しこれに付随して行われた犯罪構成要件該当行為について違法性阻却事由の有無を判断するにあたつては、その行為が同条項違反の争議行為に際しこれに付随して行われたものであるという事実を含めて、行為の具体的状況その他諸般の事情を考慮に入れ、それが法秩序全体の見地から許容されるべきものであるか否かを考察しなければならない。

六 公共企業体等労働関係法一七条一項違反の争議行為に参加を呼びかけるため行われた本件建造物侵入行為は、刑法上の違法性を欠くものではない。

 

 

判旨

 憲法二八条は、「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利」、すなわち、いわゆる労働基本権を保障している。

この労働基本権の保障は、憲法二五条のいわゆる生存権の保障を基本理念とし、憲法二七条の勤労の権利及び勤労条件に関する基準の法定の保障と相まつて勤労者の経済的地位の向上を目的とするものである。

このような労働基本権の根本精神に即して考えると、国家公務員の身分を有しない三公社の職員も、その身分を有する五現業の職員も、自己の労務を提供することにより生活の資を得ている点においては、一般の勤労者と異なるところがないのであるから、共に憲法二八条にいう勤労者にあたるものと解される。

 しかしながら、ここで、T事件判決が、非現業の国家公務員につき、これを憲法二八条の勤労者にあたるとしつつも、その憲法上の地位の特殊性から労働基本権の保障が重大な制約を受けている旨を説示していることに、留意しなければならないであろう。

すなわち、「公務員の場合は、その給与の財源は国の財政とも関連して主として税収によつて賄われ、私企業における労働者の利潤の分配要求のごときものとは全く異なり、その勤務条件はすべて政治的、財政的、社会的その他諸般の合理的な配慮により適当に決定されなければならず、しかもその決定は民主国家のルールに従い、立法府において論議のうえなされるべきもので、同盟罷業等争議行為の圧力による強制を容認する余地は全く存しないのである。

これを法制に即して見るに、公務員については、憲法自体がその七三条四号において『法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること』は内閣の事務であると定め、その給与は法律により定められる給与準則に基づいてなされることを要し、これに基づかずにはいかなる金銭または有価物も支給することはできないとされており(国公法六三条一項参照)、このように公務員の給与をはじめ、その他の勤務条件は、私企業の場合のごとく労使間の自由な交渉に基づく合意によつて定められるものではなく、原則として、国民の代表者により構成される国会の制定した法律、予算によつて定められることとなつているのである。

その場合、使用者としての政府にいかなる範囲の決定権を委任するかは、まさに国会みずからが立法をもつて定めるべき労働政策の問題である。

したがつて、これら公務員の勤務条件の決定に関し、政府が国会から適法な委任を受けていない事項について、公務員が政府に対し争議行為を行うことは、的はずれであつて正常なものとはいいがたく、もしこのような制度上の制約にもかかわらず、公務員による争議行為が行われるならば、使用者としての政府によつては解決できない立法問題に逢着せざるをえないこととなり、ひいては民主的に行われるべき公務員の勤務条件決定の手続過程を歪曲することともなつて、憲法の基本原則である議会制民主主義(憲法四一条、八三条等参照)に背馳し、国会の議決権を侵す虞れすらなしとしないのである。

」これを要するに、非現業の国家公務員の場合、その勤務条件は、憲法上、国民全体の意思を代表する国会において法律、予算の形で決定すべきものとされており、労使間の自由な団体交渉に基づく合意によつて決定すべきものとはされていないので、私企業の労働者の場合のような労使による勤務条件の共同決定を内容とする団体交渉権の保障はなく、右の共同決定のための団体交渉過程の一環として予定されている争議権もまた、憲法上、当然に保障されているものとはいえないのである。

 右の理は、公労法の適用を受ける五現業及び三公社の職員についても、直ちに又は基本的に妥当するものということができる。

それは、五現業の職員は、現業の職務に従事している国家国務員なのであるから、勤務条件の決定に関するその憲法上の地位は上述した非現業の国家公務員のそれと異なるところはなく、また、三公社の職員も、国の全額出資によつて設立、運営される公法人のために勤務する者であり、勤務条件の決定に関するその憲法上の地位の点では右の非現業の国家公務員のそれと基本的に同一であるからである。

三公社は、このような公法人として、その法人格こそ国とは別であるが、その資産はすべて国のものであつて、憲法八三条に定める財政民主主義の原則上、その資産の処分、運用が国会の議決に基づいて行われなければならないことはいうまでもなく、その資金の支出を国会の議決を経た予算の定めるところにより行うことなどが法律によつて義務づけられた場合には、当然これに服すべきものである。

そして、三公社の職員の勤務条件は、直接、間接の差はあつても、国の資産の処分、運用と密接にかかわるものであるから、これを国会の意思とは無関係に労使間の団体交渉によつて共同決定することは、憲法上許されないところといわなければならないのである。

 もつとも、現行の法制度をみると、公労法一条一項は、「この法律は、公共企業体及び国の経営する企業の職員の労働条件に関する苦情又は紛争の友好的且つ平和的調整を図るように団体交渉の慣行と手続とを確立することによつて、公共企業体及び国の経営する企業の正常な運営を最大限に確保し、もつて公共の福祉を増進し、擁護することを目的とする。

」と規定し、その一七条一項において、同法が適用される職員と労働組合の争議行為及びそのあおり等の行為を禁止しながら、四条において、職員に対し団結権を付与しているほか、八条において、五現業及び三公社の管理運営に関する事項を除き当局側との団体交渉権、労働協約締結権を認めている。

しかしながら、このような労働協約締結権を含む団体交渉権の付与は、憲法二八条の当然の要請によるものではなく、国会が、憲法二八条の趣旨をできる限り尊重しようとする立法上の配慮から、財政民主主義の原則に基づき、その議決により、財政に関する一定事項の決定権を使用者としての政府又は三公社に委任したものにほかならない。

そして、五現業及び三公社は、法律上、資金の支出を国会の議決を経た予算の定めるところにより行うことが義務づけられ、職員の給与については特に国会の議決を経た当該年度の予算中の給与総額を超えることができないものとされているとともに、公労法一六条によつて、予算上又は資金上不可能な資金の支出を内容とするいかなる協定も国会が承認するまでは政府を拘束せず、その承認によつて初めて資金の支出が許容されるものと定められており、その団体交渉権は、私企業におけるそれに比して、重大な制約を受けているが、これは、国会が、右の財政民主主義の原則に基づき、政府又は三公社に対する委任に特別の留保を付したことを意味するものと解すべきである。

 

・最判平成12年3月17日 全農林(82秋季年末闘争)事件

要旨

昭和五七年度の人事院勧告の不実施を契機としてその完全実施等の要求を掲げて行われたストライキに関与したことを理由としてされた農林水産省職員らに対する停職六月ないし三月の各懲戒処分は、右ストライキが当局の事前警告を無視して二度にわたり敢行された大規模なものであり、右職員らが、右ストライキを指令した労働組合の幹部としてその実施に指導的な役割を果たし、過去に停職、減給等の懲戒処分を受けた経歴があるなどの原判示の事実関係の下においては、著しく妥当性を欠き懲戒権者の裁量権の範囲を逸脱したものとはいえない。

 

判旨

昭和五七年度の人事院勧告の不実施を契機としてその完全実施等の要求を掲げて行われたストライキに関与したことを理由としてされた農林水産省職員らに対する停職六月ないし三月の各懲戒処分は、右ストライキが当局の事前警告を無視して二度にわたり敢行された大規模なものであり、右職員らが、右ストライキを指令した労働組合の幹部としてその実施に指導的な役割を果たし、過去に停職、減給等の懲戒処分を受けた経歴があるなどの原判示の事実関係)

 

右事実関係の下においては、本件ストライキの当時、国家公務員の労働基本権の制約に対する代償措置がその本来の機能を果たしていなかったということができないことは、原判示のとおりであるから、右代償措置が本来の機能を果たしていなかったことを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。論旨は採用することができない。

 

右事実関係の下においては、上告人らに対する本件各懲戒処分が著しく妥当性を欠くものとはいえず、懲戒権者の裁量権の範囲を逸脱したものとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は右と異なる見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

 

 

最大判昭和51年5月21日 旭川学力テスト事件

要旨

一、地方公務員法三七条一項は憲法二八条に、地方公務員法六一条四号は憲法一八条、二八条に違反しない。

二、地方公務員法六一条四号は、地方公務員の争議行為に違法性の強いものと弱いものとを区別して前者のみが右法条にいう争議行為にあたるものとし、また、右争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、又はあおる等の行為のうちいわゆる争議行為に通常随伴する行為を刑事制裁の対象から除外する趣旨と解すべきではない。

三、昭和三六年度全国中学校一せい学力調査実施のため中学校に赴こうとするテスト立会人らを道路上で阻止した本件行為(判文参照)につき、道路交通法一二〇条一項九号、七六条四項二号に該当するとしながら、正当な団体行動権の行使にあたることを理由に違法性が阻却されるとした原判決は、法令の解釈適用を誤り、かつ、これを破棄しなければ著しく正義に反する場合にあたる。

 

判旨

 1 地公法三七条一項の争議行為等禁止の合憲性 地方公務員も憲法二八条の勤労者として同条による労働基本権の保障を受けるが、地方公共団体の住民全体の奉仕者として、実質的にはこれに対して労務提供義務を負うという特殊な地位を有し、かつ、その労務の内容は、公務の遂行すなわち直接公共の利益のための活動の一環をなすという公共的性質を有するものであつて、地方公務員が争議行為に及ぶことは、右のようなその地位の特殊性と職務の公共性と相容れず、また、そのために公務の停廃を生じ、地方住民全体ないしは国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼすか、又はそのおそれがある点において、国家公務員の場合と選ぶところはない。

そして、地方公務員の勤務条件が、法律及び地方公共団体の議会の制定する条例によつて定められ、また、その給与が地方公共団体の税収等の財源によつてまかなわれるところから、専ら当該地方公共団体における政治的、財政的、社会的その他諸般の合理的な配慮によつて決定されるべきものである点においても、地方公務員は国家公務員と同様の立場に置かれており、したがつてこの場合には、私企業における労働者の場合のように団体交渉による労働条件の決定という方式が当然には妥当せず、争議権も、団体交渉の裏づけとしての本来の機能を発揮する余地に乏しく、かえつて議会における民主的な手続によつてされるべき勤務条件の決定に対して不当な圧力を加え、これをゆがめるおそれがあることも、前記大法廷判決が国家公務員の場合について指摘するとおりである。

それ故、地方公務員の労働基本権は、地方公務員を含む地方住民全体ないしは国民全体の共同利益のために、これと調和するように制限されることも、やむをえないところといわなければならない。

 ところで、他方、右大法廷判決は、国家公務員の労働基本権が国民全体の共同利益のために制約を受ける場合においても、その間に均衡が保たれる必要があり、したがつて右制約に見合う代償措置が講じられなければならないとして、国家公務員の勤務関係における法制上の具体的措置を検討し、国家公務員につき、その身分、任免、服務、給与その他に関する勤務条件についてその利益を保障するような定めがされていること、及び公務員による公正かつ妥当な勤務条件の享受を保障する手段としての人事院の存在とその職務権限を指摘し、これを労働基本権制限の合憲性を肯定する一理由としているので、この点を地方公務員の場合についてみると、地公法上、地方公務員にもまた国家公務員の場合とほぼ同様な勤務条件に関する利益を保障する定めがされている(殊に給与については、地公法二四条ないし二六条など)ほか、人事院制度に対応するものとして、これと類似の性格をもち、かつ、これと同様の、又はこれに近い職務権限を有する人事委員会又は公平委員会の制度(同法七条ないし一二条)が設けられているのである。

もつとも、詳細に両者を比較検討すると、人事委員会又は公平委員会、特に後者は、その構成及び職務権限上、公務員の勤務条件に関する利益の保護のための機構として、必ずしも常に人事院の場合ほど効果的な機能を実際に発揮しうるものと認められるかどうかにつき問題がないではないけれども、なお中立的な第三者的立場から公務員の勤務条件に関する利益を保障するための機構としての基本的構造をもち、かつ、必要な職務権限を与えられている(同法二六条、四七条、五〇条)点においては、人事院制度と本質的に異なるところはなく、その点において、制度上、地方公務員の労働基本権の制約に見合う代償措置としての一般的要件を満たしているものと認めることができるのである。

 右の次第であるから、地公法三七条一項前段において地方公務員の争議行為等を禁止し、かつ、同項後段が何人を問わずそれらの行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為をすることを禁止したとしても、地方住民全体ないしは国民全体の共同利益のためのやむをえない措置として、それ自体としては憲法二八条に違反するものではないといわなければならない。

 2 地公法六一条四号の罰則の合憲性 次に、地公法六一条四号の罰則の合憲性についてみるのに、ここでも、国公法一一〇条一項一七号の罰則の合憲性について前記大法廷判決が述べているところが、そのまま妥当する。

 原判決は、地公法の右規定が同法三七条一項の争議行為の遂行それ自体を処罰の対象とせず、その共謀、そそのかし、あおり等の行為のみを処罰すべきものとしているのは、憲法上労働基本権に対して刑罰の制裁を伴う制約を課することは原則として許されないことを考慮した結果とみるべきものであるとの見地から、右の共謀等の行為の意義を限定的に解釈すべきものと論じているのであるが、しかし、公務員の争議行為が国民全体又は地方住民全体の共同利益のために制約されるのは、それが業務の正常な運営を阻害する集団的かつ組織的な労務不提供等の行為として反公共性をもつからであるところ、このような集団的かつ組織的な行為としての争議行為を成り立たせるものは、まさにその行為の遂行を共謀したり、そそのかしたり、あおつたりする行為であつて、これら共謀等の行為は、争議行為の原動力をなすもの、換言すれば、全体としての争議行為の中でもそれなくしては右の争議行為が成立しえないという意味においていわばその中核的地位を占めるものであり、このことは、争議行為がその都度集団行為として組織され、遂行される場合ばかりでなく、すでに組織体として存在する労働組合の内部においてあらかじめ定められた団体意思決定の過程を経て決定され、遂行される場合においても異なるところはないのである、それ故、法が、共謀、そそのかし、あおり等の行為のもつ右のような性格に着目してこれを社会的に責任の重いものと評価し、当該組合に所属する者であると否とを問わず、このような行為をした者に対して違法な争議行為の防止のために特に処罰の必要性を認め、罰則を設けることには十分合理性があり、これをもつて憲法一八条、二八条に違反するものとすることができないことは、前記大法廷判決の判示するとおりであるといわなければならない。

 また、原判決は、労働組合が行う争議行為は、組合幹部による闘争方針の企画、立案に始まり、民主的な組織内における自由な討議、討論を経て決定され、次いで上部機関から下部機関ないしは各組合員に対する指令、指示の発出、伝達となり、その間組合機関や組合員相互間のさまざまな行為が集積した結果として遂行されるのが通常であり、争議遂行過程におけるこれらの一連の行為は、集団的行為としての争議行為に不可欠か又は通常随伴する行為であるところ、これらの行為は多くは争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、又はあおる行為等に該当することとなるから、これらの行為者を罰することは、実質的には刑罰をもつて争議行為を全面的かつ一律に禁止することとなつて不当であると論じているが、国公法や地公法の上記各規定にいう争議行為の遂行の共謀、そそのかし、あおり等の行為は、将来における抽象的、不確定的な争議行為についてのそれではなく、具体的、現実的な争議行為に直接結びつき、このような争議行為の具体的危険性を生ぜしめるそれを指すのであつて、このような共謀、そそのかし、あおり等の行為こそが一般的に法の禁止する争議行為の遂行を現実化させる直接の働きをするものなのであるから、これを刑罰の制裁をもつて阻止することには、なんら原判決のいうような不当はないのである。

‍‍ 原判決は、更に、組合の執行役員等が、組合大会の決議等に従つて指令を発するような行為は、組合規約上の義務の遂行としてされるものにすぎず、争議行為に不可欠か又は通常随伴するものとして一般組合員の争議参加行為とその可罰的評価を異にすべきものではないとも論じているが、組合の内部規約上の義務の履行としてされているかどうかは、当然にはそそのかし、あおり等の行為者の刑事責任の有無に影響すべきものでなく、右の議論は、ひつきよう、労働組合という組織体における通常の意思決定手続に基づいて決定、遂行される違法な争議行為については、実際上、当該組合の何人に対しても個人的な責任を問うことができないということに帰着するのであつて、とうてい容認することのできないところといわなければならない。

‍‍ したがつて、地公法六一条四号の規定の解釈につき、争議行為に違法性の強いものと弱いものとを区別して、前者のみが同条同号にいう争議行為にあたるものとし、更にまた、右争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、又はあおる等の行為についても、いわゆる争議行為に通常随伴する行為は単なる争議参加行為と同じく可罰性を有しないものとして右規定の適用外に置かれるべきであると解しなければならない理由はなく、このような解釈を是認することはできないのである。

いわゆるAa事件についての当裁判所の判決(昭和四一年(あ)第四〇一号同四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁)は、上記判示と抵触する限度において、変更すべきものである。

そうすると、原判決の上記見解は、憲法一八条、二八条及地公法六一条四号の解釈を誤つたものといわなければならない。

第3章 国民の権利及び義務 公務員の人権(5)

  目次

【公務員の政治活動の自由】

▼ 世田谷補足意見


▼ 世田谷反対意見


▼ 堀越事件

 

・最大判昭和49年11月6日 猿払事件

要旨

国家公務員法一〇二条一項、人事院規則一四-七第五項一号・六項一三号および公職選挙法一四六条一項に各違反する文書の配布は、たとえ裁量権のない機械的職務に従事する非管理職の国家公務員により同僚に対して数枚配布された場合であつても、そのような事情は犯情に影響するにとどまり、国家公務員法一一〇条一項一九号および公職選挙法二四三条五号の各罪の違法性を失わせるものではなく、このように解しても憲法二一条・三一条に違反しない。

 

判旨

憲法二一条の保障する表現の自由は、民主主義国家の政治的基盤をなし、国民の基本的人権のうちでもとりわけ重要なものであり、法律によつてもみだりに制限することができないものである。そして、およそ政治的行為は、行動としての面をもつほかに、政治的意見の表明としての面をも有するものであるから、その限りにおいて、憲法二一条による保障を受けるものであることも、明らかである。国公法一〇二条一項及び規則によつて公務員に禁止されている政治的行為も多かれ少なかれ政治的意見の表明を内包する行為であるから、もしそのような行為が国民一般に対して禁止されるのであれば、憲法違反の問題が生ずることはいうまでもない。

 しかしながら、国公法一〇二条一項及び規則による政治的行為の禁止は、もとより国民一般に対して向けられているものではなく、公務員のみに対して向けられているものである。ところで、国民の信託による国政が国民全体への奉仕を旨として行われなければならないことは当然の理であるが、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」とする憲法一五条二項の規定からもまた、公務が国民の一部に対する奉仕としてではなく、その全体に対する奉仕として運営されるべきものであることを理解することができる。公務のうちでも行政の分野におけるそれは、憲法の定める統治組織の構造に照らし、議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な遂行を期し、もつぱら国民全体に対する奉仕を旨とし、政治的偏向を排して運営されなければならないものと解されるのであつて、そのためには、個々の公務員が、政治的に、一党一派に偏することなく、厳に中立の立場を堅持して、その職務の遂行にあたることが必要となるのである。すなわち、行政の中立的運営が確保され、これに対する国民の信頼が維持されることは、憲法の要請にかなうものであり、公務員の政治的中立性が維持されることは、国民全体の重要な利益にほかならないというべきである。したがつて、公務員の政治的中立性を損うおそれのある公務員の政治的行為を禁止することは、それが合理的で必要やむをえない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるといわなければならない。 (二) 国公法一〇二条一項及び規則による公務員に対する政治的行為の禁止が右の合理的で必要やむをえない限度にとどまるものか否かを判断するにあたつては、禁止の目的、、この目的と禁止される政治的行為との関連性、政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止することにより失われる利益との均衡の三点から検討することが必要である。 そこで、まず、禁止の目的及びこの目的と禁止される行為との関連性について考えると、もし公務員の政治的行為のすべてが自由に放任されるときは、おのずから公務員の政治的中立性が損われ、ためにその職務の遂行ひいてはその属する行政機関の公務の運営に党派的偏向を招くおそれがあり、行政の中立的運営に対する国民の信頼が損われることを免れない。また、公務員の右のような党派的偏向は、逆に政治的党派の行政への不当な介入を容易にし、行政の中立的運営が歪められる可能性が一層増大するばかりでなく、そのような傾向が拡大すれば、本来政治的中立を保ちつつ一体となつて国民全体に奉仕すべき責務を負う行政組織の内部に深刻な政治的対立を醸成し、そのため行政の能率的で安定した運営は阻害され、ひいては議会制民主主義の政治過程を経て決定された国の政策の忠実な遂行にも重大な支障をきたすおそれがあり、このようなおそれは行政組織の規模の大きさに比例して拡大すべく、かくては、もはや組織の内部規律のみによつてはその弊害を防止することができない事態に立ち至るのである。したがつて、このような弊害の発生を防止し、行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するため、公務員の政治的中立性を損うおそれのある政治的行為を禁止することは、まさしく憲法の要請に応え、公務員を含む国民全体の共同利益を擁護するための措置にほかならないのであつて、その目的は正当なものというべきである。また、右のような弊害の発生を防止するため、公務員の政治的中立性を損うおそれがあると認められる政治的行為を禁止することは、禁止目的との間に合理的な関連性があるものと認められるのであつて、たとえその禁止が、公務員の職種・職務権限、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無等を区別することなく、あるいは行政の中立的運営を直接、具体的に損う行為のみに限定されていないとしても、右の合理的な関連性が失われるものではない。 次に、利益の均衡の点について考えてみると、民主主義国家においては、できる限り多数の国民の参加によつて政治が行われることが国民全体にとつて重要な利益であることはいうまでもないのであるから、公務員が全体の奉仕者であることの一面のみを強調するあまり、ひとしく国民の一員である公務員の政治的行為を禁止することによつて右の利益が失われることとなる消極面を軽視することがあつてはならない。しかしながら、公務員の政治的中立性を損うおそれのある行動類型に属する政治的行為を、これに内包される意見表明そのものの制約をねらいとしてではなく、その行動のもたらす弊害の防止をねらいとして禁止するときは、同時にそれにより意見表明の自由が制約されることにはなるが、それは、単に行動の禁止に伴う限度での間接的、付随的な制約に過ぎず、かつ、国公法一〇二条一項及び規則の定める行動類型以外の行為により意見を表明する自由までをも制約するものではなく、他面、禁止により得られる利益は、公務員の政治的中立性を維持し、行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するという国民全体の共同利益なのであるから、得られる利益は、失われる利益に比してさらに重要なものというべきであり、その禁止は利益の均衡を失するものではない。

 (三) 以上の観点から本件で問題とされている規則五項三号、六項一三号の政治的行為をみると、その行為は、特定の政党を支持する政治的目的を有する文書を掲示し又は配布する行為であつて、政治的偏向の強い行動類型に属するものにほかならず、政治的行為の中でも、公務員の政治的中立性の維持を損うおそれが強いと認められるものであり、政治的行為の禁止目的との間に合理的な関連性をもつものであることは明白である。また、その行為の禁止は、もとよりそれに内包される意見表明そのものの制約をねらいとしたものではなく、行動のもたらす弊害の防止をねらいとしたものであつて、国民全体の共同利益を擁護するためのものであるから、その禁止により得られる利益とこれにより失われる利益との間に均衡を失するところがあるものとは、認められない。したがつて、国公法一〇二条一項及び規則五項三号、六項一三号は、合理的で必要やむをえない限度を超えるものとは認められず、

憲法二一条に違反するものということはできない。

 

【最判平成24年12月7日 国公法世田谷事件事件

平成22年(あ)第957号 ・厚生労働大臣官房総括課長補佐の場合】

要旨

1 国家公務員法(平成19年法律第108号による改正前のもの)110条1項19号,国家公務員法102条1項,人事院規則14-7第6項7号による政党の機関紙の配布の禁止は,憲法21条1項,15条,19条,31条,41条,73条6号に違反しない。

2 管理職的地位にあり,その職務の内容や権限に裁量権のある一般職国家公務員が行った本件の政党の機関紙の配布は,それが,勤務時間外に,国ないし職場の施設を利用せず,公務員としての地位を利用することなく,公務員により組織される団体の活動としての性格を有さず,公務員による行為と認識し得る態様によることなく行われたものであるとしても,当該公務員及びその属する行政組織の職務の遂行の政治的中立性が損なわれるおそれが実質的に認められ,国家公務員法102条1項,人事院規則14-7第6項7号により禁止された行為に当たる。

(1,2につき補足意見,2につき反対意見がある。)

 

判旨

本法102条1項は,「職員は,政党又は政治的目的のために,寄附金その他の利益を求め,若しくは受領し,又は何らの方法を以てするを問わず,これらの行為に関与し,あるいは選挙権の行使を除く外,人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。

」と規定しているところ,同項は,行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持することをその趣旨とするものと解される。

すなわち,憲法15条2項は,「すべて公務員は,全体の奉仕者であって,一部の奉仕者ではない。」と定めており,国民の信託に基づく国政の運営のために行われる公務は,国民の一部でなく,その全体の利益のために行われるべきものであることが要請されている。

その中で,国の行政機関における公務は,憲法の定める我が国の統治機構の仕組みの下で,議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策を忠実に遂行するため,国民全体に対する奉仕を旨として,政治的に中立に運営されるべきものといえる。

そして,このような行政の中立的運営が確保されるためには,公務員が,政治的に公正かつ中立的な立場に立って職務の遂行に当たることが必要となるものである。

このように,本法102条1項は,公務員の職務の遂行の政治的中立性を保持することによって行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持することを目的とするものと解される。

他方,国民は,憲法上,表現の自由(21条1項)としての政治活動の自由を保障されており,この精神的自由は立憲民主政の政治過程にとって不可欠の基本的人権であって,民主主義社会を基礎付ける重要な権利であることに鑑みると,上記の目的に基づく法令による公務員に対する政治的行為の禁止は,国民としての政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度にその範囲が画されるべきものである。

このような本法102条1項の文言,趣旨,目的や規制される政治活動の自由の重要性に加え,同項の規定が刑罰法規の構成要件となることを考慮すると,同項にいう「政治的行為」とは,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが,観念的なものにとどまらず,現実的に起こり得るものとして実質的に認められるものを指し,同項はそのような行為の類型の具体的な定めを人事院規則に委任したものと解するのが相当である。

そして,その委任に基づいて定められた本規則も,このような同項の委任の範囲内において,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められる行為の類型を規定したものと解すべきである。

上記のような本法の委任の趣旨及び本規則の性格に照らすと,本件罰則規定に係る本規則6項7号については,同号が定める行為類型に文言上該当する行為であって,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものを同号の禁止の対象となる政治的行為と規定したものと解するのが相当である。

このような行為は,それが一公務員のものであっても,行政の組織的な運営の性質等に鑑みると,当該公務員の職務権限の行使ないし指揮命令や指導監督等を通じてその属する行政組織の職務の遂行や組織の運営に影響が及び,行政の中立的運営に影響を及ぼすものというべきであり,また,こうした影響は,勤務外の行為であっても,事情によってはその政治的傾向が職務内容に現れる蓋然性が高まることなどによって生じ得るものというべきである。

そして,上記のような規制の目的やその対象となる政治的行為の内容等に鑑みると,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるかどうかは,当該公務員の地位,その職務の内容や権限等,当該公務員がした行為の性質,態様,目的,内容等の諸般の事情を総合して判断するのが相当である。

具体的には,当該公務員につき,指揮命令や指導監督等を通じて他の職員の職務の遂行に一定の影響を及ぼし得る地位(管理職的地位)の有無,職務の内容や権限における裁量の有無,当該行為につき,勤務時間の内外,国ないし職場の施設の利用の有無,公務員の地位の利用の有無,公務員により組織される団体の活動としての性格の有無,公務員による行為と直接認識され得る態様の有無,行政の中立的運営と直接相反する目的や内容の有無等が考慮の対象となるものと解される。

そこで,進んで本件罰則規定が憲法21条1項,15条,19条,31条,41条,73条6号に違反するかを検討する。

この点については,本件罰則規定による政治的行為に対する規制が必要かつ合理的なものとして是認されるかどうかによることになるが,これは,本件罰則規定の目的のために規制が必要とされる程度と,規制される自由の内容及び性質,具体的な規制の態様及び程度等を較量して決せられるべきものである(最高裁昭和52年(オ)第927号同58年6月22日大法廷判決・民集37巻5号793頁等)。

そこで,まず,本件罰則規定の目的は,前記のとおり,公務員の職務の遂行の政治的中立性を保持することによって行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持することにあるところ,これは,議会制民主主義に基づく統治機構の仕組みを定める憲法の要請にかなう国民全体の重要な利益というべきであり,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められる政治的行為を禁止することは,国民全体の上記利益の保護のためであって,その規制の目的は合理的であり正当なものといえる。

方,本件罰則規定により禁止されるのは,民主主義社会において重要な意義を有する表現の自由としての政治活動の自由ではあるものの,前記アのとおり,禁止の対象とされるものは,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められる政治的行為に限られ,このようなおそれが認められない政治的行為や本規則が規定する行為類型以外の政治的行為が禁止されるものではないから,その制限は必要やむを得ない限度にとどまり,前記の目的を達成するために必要かつ合理的な範囲のものというべきである。

そして,上記の解釈の下における本件罰則規定は,不明確なものとも,過度に広汎な規制であるともいえないと解される。

また,既にみたとおり,本法102条1項が人事院規則に委任しているのは,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められる政治的行為の行為類型を規制の対象として具体的に定めることであるから,同項が懲戒処分の対象と刑罰の対象とで殊更に区別することなく規制の対象となる政治的行為の定めを人事院規則に委任しているからといって,憲法上禁止される白紙委任に当たらないことは明らかである。

なお,このような禁止行為に対しては,服務規律違反を理由とする懲戒処分のみではなく,刑罰を科すことをも制度として予定されているが,これは常に刑罰を科すという趣旨ではなく,国民全体の上記利益を損なう影響の重大性等に鑑みて禁止行為の内容,態様等が懲戒処分等では対応しきれない場合も想定されるためであり,あり得べき対応というべきであって,刑罰を含む規制であることをもって直ちに必要かつ合理的なものであることが否定されるものではない。

以上の諸点に鑑みれば,本件罰則規定は憲法21条1項,15条,19条,31条,41条,73条6号に違反するものではないというべきであり,このように解することができることは,当裁判所の判例(最高裁昭和44年(あ)第1501号同49年11月6日大法廷判決・刑集28巻9号393頁,最高裁昭和52年(オ)第927号同58年6月22日大法廷判決・民集37巻5号793頁,最高裁昭和57年(行ツ)第156号同59年12月12日大法廷判決・民集38巻12号1308頁,最高裁昭和56年(オ)第609号同61年6月11日大法廷判決・民集40巻4号872頁,最高裁昭和61年(行ツ)第11号平成4年7月1日大法廷判決・民集46巻5号437頁,最高裁平成10年(分ク)第1号同年12月1日大法廷決定・民集52巻9号1761頁)の趣旨に徴して明らかである。

次に,本件配布行為が本件罰則規定の構成要件に該当するかを検討するに,本件配布行為が本規則6項7号が定める行為類型に文言上該当する行為であることは明らかであるが,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものかどうかについて,前記諸般の事情を総合して判断する。

前記のとおり,被告人は,厚生労働省大臣官房統計情報部社会統計課長補佐であり,庶務係,企画指導係及び技術開発係担当として部下である各係職員を直接指揮するとともに,同課に存する8名の課長補佐の筆頭課長補佐(総括課長補佐)として他の課長補佐等からの業務の相談に対応するなど課内の総合調整等を行う立場にあり,国家公務員法108条の2第3項ただし書所定の管理職員等に当たり,一般の職員と同一の職員団体の構成員となることのない職員であったものであって,指揮命令や指導監督等を通じて他の多数の職員の職務の遂行に影響を及ぼすことのできる地位にあったといえる。

このような地位及び職務の内容や権限を担っていた被告人が政党機関紙の配布という特定の政党を積極的に支援する行動を行うことについては,それが勤務外のものであったとしても,国民全体の奉仕者として政治的に中立な姿勢を特に堅持すべき立場にある管理職的地位の公務員が殊更にこのような一定の政治的傾向を顕著に示す行動に出ているのであるから,当該公務員による裁量権を伴う職務権限の行使の過程の様々な場面でその政治的傾向が職務内容に現れる蓋然性が高まり,その指揮命令や指導監督を通じてその部下等の職務の遂行や組織の運営にもその傾向に沿った影響を及ぼすことになりかねない。

したがって,これらによって,当該公務員及びその属する行政組織の職務の遂行の政治的中立性が損なわれるおそれが実質的に生ずるものということができる。

そうすると,本件配布行為が,勤務時間外である休日に,国ないし職場の施設を利用せずに,それ自体は公務員としての地位を利用することなく行われたものであること,公務員により組織される団体の活動としての性格を有しないこと,公務員であることを明らかにすることなく,無言で郵便受けに文書を配布したにとどまるものであって,公務員による行為と認識し得る態様ではなかったことなどの事情を考慮しても,本件配布行為には,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められ,本件配布行為は本件罰則規定の構成要件に該当するというべきである。

そして,このように公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められる本件配布行為に本件罰則規定を適用することが憲法21条1項,31条に違反しないことは,前記イにおいて説示したところに照らし,明らかというべきである。


 目次


【最判平成24年12月7日 国公法世田谷事件・続】

▼ 最判平成24年12月7日 国公法世田谷事件


【裁判官千葉勝美の補足意見】

最高裁昭和49年11月6日大法廷判決・刑集28巻9号393頁(いわゆ

る猿払事件大法廷判決)との整合性について

(1) 猿払事件大法廷判決の法令解釈の理解等

猿払事件大法廷判決は,国家公務員の政治的行為に関し本件罰則規定の合憲性と適用の有無を判示した直接の先例となるものである。そこでは,特定の政党を支持する政治的目的を有する文書の掲示又は配布をしたという行為について,本件罰則規定に違反し,これに刑罰を適用することは,たとえその掲示又は配布が,非管理職の現業公務員でその職務内容が機械的労務の提供にとどまるものにより,勤務時間外に,国の施設を利用することなく,職務を利用せず又はその公正を害する意図なく,かつ,労働組合活動の一環として行われた場合であっても憲法に違反しない,としており,本件罰則規定の禁止する「政治的行為」に限定を付さないという法令解釈を示しているようにも読めなくはない。しかしながら,判決による司法判断は,全て具体的な事実を前提にしてそれに法を適用して事件を処理するために,更にはそれに必要な限度で法令解釈を展開するものであり,常に採用する法理論ないし解釈の全体像を示しているとは限らない。上記の政治的行為に関する判示部分も,飽くまでも当該事案を前提とするものである。すなわち,当該事案は,郵便局に勤務する管理職の地位にはない郵政事務官で,地区労働組合協議会事務局長を務めていた者が,衆議院議員選挙に際し,協議会の機関決定に従い,協議会を支持基盤とする特定政党を支持する目的をもって,同党公認候補者の選挙用ポスター6枚を自ら公営掲示場に掲示し,また,その頃4回にわたり,合計184枚のポスターの掲示を他に依頼して配布したというものである。このような行為の性質・態様等については,勤務時間外に国の施設を利用せずに行われた行為が中心であるとはいえ,当該公務員の所属組織による活動の一環として当該組織の機関決定に基づいて行われ,当該地区において公務員が特定の政党の候補者の当選に向けて積極的に支援する行為であることが外形上一般人にも容易に認識されるものであるから,当該公務員の地位・権限や職務内容,勤務時間の内外を問うまでもなく,実質的にみて「公務員の職務の遂行の中立性を損なうおそれがある行為」であると認められるものである。このような事案の特殊性を前提にすれば,当該ポスター掲示等の行為が本件罰則規定の禁止する政治的行為に該当することが明らかであるから,上記のような「おそれ」の有無等を特に吟味するまでもなく(「おそれ」は当然認められるとして)政治的行為該当性を肯定したものとみることができる。猿払事件大法廷判決を登載した最高裁判所刑集28巻9号393頁の判決要旨五においても,「本件の文書の掲示又は配布(判文参照)に」本件罰則規定を適用することは憲法21条,31条に違反しない,とまとめられているが,これは,判決が摘示した具体的な本件文書の掲示又は配布行為を対象にしており,当該事案を前提にした事例判断であることが明確にされているところである。そうすると,猿払事件大法廷判決の上記判示は,本件罰則規定自体の抽象的な法令解釈について述べたものではなく,当該事案に対する具体的な当てはめを述べたものであり,本件とは事案が異なる事件についてのものであって,本件罰則規定の法令解釈において本件多数意見と猿払事件大法廷判決の判示とが矛盾・抵触するようなものではないというべきである。

(2) 猿払事件大法廷判決の合憲性審査基準の評価

なお,猿払事件大法廷判決は,本件罰則規定の合憲性の審査において,公務員の職種・職務権限,勤務時間の内外,国の施設の利用の有無等を区別せずその政治的行為を規制することについて,規制目的と手段との合理的関連性を認めることができるなどとしてその合憲性を肯定できるとしている。この判示部分の評価については,いわゆる表現の自由の優越的地位を前提とし,当該政治的行為によりいかなる弊害が生ずるかを利益較量するという「厳格な合憲性の審査基準」ではなく,より緩やかな「合理的関連性の基準」によったものであると説くものもある。しかしながら,近年の最高裁大法廷の判例においては,基本的人権を規制する規定等の合憲性を審査するに当たっては,多くの場合,それを明示するかどうかは別にして,一定の利益を確保しようとする目的のために制限が必要とされる程度と,制限される自由の内容及び性質,これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を具体的に比較衡量するという「利益較量」の判断手法を採ってきており,その際の判断指標として,事案に応じて一定の厳格な基準(明白かつ現在の危険の原則,不明確ゆえに無効の原則,必要最小限度の原則,LRAの原則,目的・手段における必要かつ合理性の原則など)ないしはその精神を併せ考慮したものがみられる。もっとも,厳格な基準の活用については,アプリオリに,表現の自由の規制措置の合憲性の審査基準としてこれらの全部ないし一部が適用される旨を一般的に宣言するようなことをしないのはもちろん,例えば,「LRA」の原則などといった講学上の用語をそのまま用いることも少ない。また,これらの厳格な基準のどれを採用するかについては,規制される人権の性質,規制措置の内容及び態様等の具体的な事案に応じて,その処理に必要なものを適宜選択して適用するという態度を採っており,さらに,適用された厳格な基準の内容についても,事案に応じて,その内容を変容させあるいはその精神を反映させる限度にとどめるなどしており(例えば,最高裁昭和58年6月22日大法廷判決・民集37巻5号793頁(「よど号乗っ取り事件」新聞記事抹消事件)は,「明白かつ現在の危険」の原則そのものではなく,その基本精神を考慮して,障害発生につき「相当の蓋然性」の限度でこれを要求する判示をしている。),基準を定立して自らこれに縛られることなく,柔軟に対処しているのである(この点の詳細については,最高裁平成4年7月1日大法廷判決・民集46巻5号437頁(いわゆる成田新法事件)についての当職[当時は最高裁調査官]の最高裁判例解説民事篇・平成4年度235頁以下参照。)。

この見解を踏まえると,猿払事件大法廷判決の上記判示は,当該事案については,公務員組織が党派性を持つに至り,それにより公務員の職務遂行の政治的中立性が損なわれるおそれがあり,これを対象とする本件罰則規定による禁止は,あえて厳格な審査基準を持ち出すまでもなく,その政治的中立性の確保という目的との間に合理的関連性がある以上,必要かつ合理的なものであり合憲であることは明らかであることから,当該事案における当該行為の性質・態様等に即して必要な限度での合憲の理由を説示したにとどめたものと解することができる(なお,判文中には,政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止されることにより失われる利益との均衡を検討することを要するといった利益較量論的な説示や,政治的行為の禁止が表現の自由に対する合理的でやむを得ない制限であると解されるといった説示も見られるなど,厳格な審査基準の採用をうかがわせるものがある。)。ちなみに,最高裁平成10年12月1日大法廷決定・民集52巻9号1761頁(裁判官分限事件)も,裁判所法52条1号の「積極的に政治運動をすること」の意味を十分に限定解釈した上で合憲性の審査をしており,厳格な基準によりそれを肯定したものというべきであるが,判文上は,その目的と禁止との間に合理的関連性があると説示するにとどめている。これも,それで足りることから同様の説示をしたものであろう。

そうであれば,本件多数意見の判断の枠組み・合憲性の審査基準と猿払事件大法廷判決のそれとは,やはり矛盾・抵触するものでないというべきである。

本件罰則規定の限定解釈の意義等

本件罰則規定をみると,当該規定の文言に該当する国家公務員の政治的行為を文理上は限定することなく禁止する内容となっている。本件多数意見は,ここでいう「政治的行為」とは,当該規定の文言に該当する政治的行為であって,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが,現実的に起こり得るものとして実質的に認められるものを指すという限定を付した解釈を示した。これは,いわゆる合憲限定解釈の手法,すなわち,規定の文理のままでは規制範囲が広すぎ,合憲性審査におけるいわゆる「厳格な基準」によれば必要最小限度を超えており,利益較量の結果違憲の疑いがあるため,その範囲を限定した上で結論として合憲とする手法を採用したというものではない。

そもそも,規制される政治的行為の範囲が広範であるため,これを合憲性が肯定され得るように限定するとしても,その仕方については,様々な内容のものが考えられる。これを,多数意見のような限定の仕方もあるが,そうではなく,より類型的に,「いわゆる管理職の地位を利用する形で行う政治的行為」と限定したり,「勤務時間中,国の施設を利用して行う行為」と限定したり,あるいは,「一定の組織の政治的な運動方針に賛同し,組織の一員としてそれに積極的に参加する形で行う政治的行為」と限定するなど,事柄の性質上様々な限定が考え得るところであろう。しかし,司法部としては,これらのうちどのような限定が適当なのかは基準が明らかでなく判断し難いところであり,また,可能な複数の限定の中から特定の限定を選び出すこと自体,一種の立法的作用であって,立法府の裁量,権限を侵害する面も生じかねない。加えて,次のような問題もある。

国家公務員法は,専ら憲法73条4号にいう官吏に関する事務を掌理する基準を定めるものであり(国家公務員法1条2項),我が国の国家組織,統治機構を定める憲法の規定を踏まえ,その国家機構の担い手の在り方を定める基本法の一つである。本法102条1項は,その中にあって,公務員の服務についての定めとして,政治的行為の禁止を規定している。このような国家組織の一部ともいえる国家公務員の服務,権利義務等をどう定めるかは,国の統治システムの在り方を決めることでもあるから,憲法の委任を受けた国権の最高機関である国会としては,国家組織全体をどのようなものにするかについての基本理念を踏まえて対処すべき事柄であって,国家公務員法が基本法の一つであるというのも,その意味においてである。このような基本法についての合憲性審査において,その一部に憲法の趣旨にそぐわない面があり,全面的に合憲との判断をし難いと考えた場合に,司法部がそれを合憲とするために考え得る複数の限定方法から特定のものを選び出して限定解釈をすることは,全体を違憲とすることの混乱や影響の大きさを考慮してのことではあっても,やはり司法判断として異質な面があるといえよう。憲法が規定する国家の統治機構を踏まえて,その担い手である公務員の在り方について,一定の方針ないし思想を基に立法府が制定した基本法は,全体的に完結した体系として定められているものであって,服務についても,公務員が全体の奉仕者であることとの関連で,公務員の身分保障の在り方や政治的任用の有無,メリット制の適用等をも総合考慮した上での体系的な立法目的,意図の下に規制が定められているはずである。したがって,その一部だけを取り出して限定することによる悪影響や体系的な整合性の破綻の有無等について,慎重に検討する姿勢が必要とされるところである。本件においては,司法部が基本法である国家公務員法の規定をいわばオーバールールとして合憲限定解釈するよりも前に,まず対象となっている本件罰則規定について,憲法の趣旨を十分に踏まえた上で立法府の真に意図しているところは何か,規制の目的はどこにあるか,公務員制度の体系的な理念,思想はどのようなものか,憲法の趣旨に沿った国家公務員の服務の在り方をどう考えるのか等々を踏まえて,国家公務員法自体の条文の丁寧な解釈を試みるべきであり,その作業をした上で,具体的な合憲性の有無等の審査に進むべきものである(もっとも,このことは,司法部の違憲立法審査は常にあるいは本来慎重であるべきであるということを意味するものではない。国家の基本法については,いきなり法文の文理のみを前提に大上段な合憲,違憲の判断をするのではなく,法体系的な理念を踏まえ,当該条文の趣旨,意味,意図をまずよく検討して法解釈を行うべきであるということである。)。

多数意見が,まず,本件罰則規定について,憲法の趣旨を踏まえ,行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持するという規定の目的を考慮した上で,慎重な解釈を行い,それが「公務員の職務遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められる行為」を政治的行為として禁止していると解釈したのは,このような考え方に基づくものであり,基本法についての司法判断の基本的な姿勢ともいえる。

なお,付言すると,多数意見のような解釈適用の仕方は,米国連邦最高裁のブランダイス判事が,1936年のアシュワンダー対テネシー渓谷開発公社事件判決において,補足意見として掲げた憲法問題回避の準則であるいわゆるブランダイス・ルールの第4準則の「最高裁は,事件が処理可能な他の根拠が提出されているならば,訴訟記録によって憲法問題が適正に提出されていても,それの判断を下さないであろう。」,あるいは,第7準則の「連邦議会の制定法の有効性が問題とされたときは,合憲性について重大な疑念が提起されている場合でも,当最高裁は,その問題が回避できる当該法律の解釈が十分に可能か否かをまず確認することが基本的な原則である。」(以上のブランダイス・ルールの内容の記載は,渋谷秀樹「憲法判断の条件」講座憲法学6・141頁以下による。)という考え方とは似て非なるものである。ブランダイス・ルールは,周知のとおり,その後,Rescue Army v.Municipal Court of City of Los Angeles,331 U.S. 549 (1947)の法廷意見において採用され米国連邦最高裁における判例法理となっているが,これは,司法の自己抑制の観点から憲法判断の回避の準則を定めたものである。しかし,本件の多数意見の採る限定的な解釈は,司法の自己抑制の観点からではなく,憲法判断に先立ち,国家の基本法である国家公務員法の解釈を,その文理のみによることなく,国家公務員法の構造,理念及び本件罰則規定の趣旨・目的等を総合考慮した上で行うという通常の法令解釈の手法によるものであるからである。


 目次


【最判平成24年12月7日 国公法世田谷事件・反対意見】

▼ 最判平成24年12月7日 国公法世田谷事件


【裁判官須藤正彦の反対意見】

私は,一般職の国家公務員が勤務外で行った政治的行為は,本法102条1項の政治的行為に該当しないと解するので,多数意見とは異なり,被告人は無罪と考える。その理由は以下のとおりである。

公務員の政治的行為の解釈について

(1) 私もまた,多数意見と同様に,本法102条1項の政治的行為とは,国民の政治的活動の自由が民主主義社会を基礎付ける重要な権利であること,かつ,同項の規定が本件罰則規定の構成要件となることなどに鑑み,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められる(観念的なものにとどまらず,現実的に起こり得るものとして認められる)ものを指すと解するのが相当と考え

る。

(2) すなわち,まず,公務員の政治的行為とその職務の遂行とは元来次元を異にする性質のものであり,例えば公務員が政党の党員となること自体では無論公務員の職務の遂行の政治的中立性が損なわれるとはいえない。公務員の政治的行為によってその職務の遂行の政治的中立性が損なわれるおそれが生ずるのは,公務員の政治的行為と職務の遂行との間で一定の結び付き(牽連性)があるがゆえであり,しかもそのおそれが観念的なものにとどまらず,現実的に起こり得るものとして実質的に認められるものとなるのは,公務員の政治的行為からうかがわれるその政治的傾向がその職務の遂行に反映する機序あるいはその蓋然性について合理的に説明できる結び付きが認められるからである。そうすると,公務員の職務の遂行の政治的中立性が損なわれるおそれが実質的に生ずるとは,そのような結び付きが認められる場合を指すことになる。進んで,この点について敷えんして考察するに,以下のとおり,多数意見とはいささか異なるものとなる。

勤務外の政治的行為

(1) しかるところ,この「結び付き」について更に立ち入って考察すると,問題は,公務員の政治的行為がその行為や付随事情を通じて勤務外で行われたと評価される場合,つまり,勤務時間外で,国ないし職場の施設を利用せず,公務員の地位から離れて行動しているといえるような場合で,公務員が,いわば一私人,一市民として行動しているとみられるような場合である。その場合は,そこからうかがわれる公務員の政治的傾向が職務の遂行に反映される機序あるいは蓋然性について合理的に説明できる結び付きは認められないというべきである。

(2) 確かに,このように勤務外であるにせよ,公務員が政治的行為を行えば,そのことによってその政治的傾向が顕在化し,それをしないことに比べ,職務の遂行の政治的中立性を損なう潜在的可能性が明らかになるとは一応いえよう。また,職務の遂行の政治的中立性に対する信頼も損なわれ得るであろう。しかしながら,公務員組織における各公務員の自律と自制の下では,公務員の職務権限の行使ないし指揮命令や指導監督等の職務の遂行に当たって,そのような政治的傾向を持ち込むことは通常考えられない。また,稀に,そのような公務員が職務の遂行にその政治的傾向を持ち込もうとすることがあり得るとしても,公務員組織においてそれを受け入れるような土壌があるようにも思われない。そうすると,公務員の政治的行為が勤務外で行われた場合は,職務の遂行の政治的中立性が損なわれるおそれがあるとしても,そのおそれは甚だ漠としたものであり,観念的かつ抽象的なものにとどまるものであるといえる。

結局,この場合は,当該公務員の管理職的地位の有無,職務の内容や権限における裁量の有無,公務員により組織される団体の活動としての性格の有無,公務員による行為と直接認識され得る態様の有無,行政の中立的運営と直接相反する目的や内容の有無等にかかわらず──それらの事情は,公務員の職務の遂行の政治的中立性に対する国民の信頼を損なうなどの服務規律違反を理由とする懲戒処分の対象となるか否かの判断にとって重要な考慮要素であろうが──その政治的行為からうかがわれる政治的傾向がその職務の遂行に反映する機序あるいはその蓋然性について合理的に説明できる結び付きが認められず,公務員の政治的中立性が損なわれるおそれが実質的に生ずるとは認められないというべきである。この点,勤務外の政治的行為についても,事情によっては職務の遂行の政治的中立性を損なう実質的おそれが生じ得ることを認める多数意見とは見解を異にするところである。

(3) ちなみに,念のためいえば,「勤務外」と「勤務時間外」とは意味を異にする。本規則4項は,本法又は本規則によって禁止又は制限される政治的行為は,「職員が勤務時間外において行う場合においても,適用される」と規定しているところであるが,これは,勤務時間外でも勤務外とは評価されず,上記の結び付きが認められる場合(例えば,勤務時間外に,国又は職場の施設を利用して政治的行為を行うような場合に認められ得よう。)にはその政治的行為が規制されることを規定したものと解される。

必要やむを得ない規制について

(1) ところで,本法102条1項が政治的行為の自由を禁止することは,表現の自由の重大な制約となるものである。しかるところ,民主主義に立脚し,個人の尊厳(13条)を基本原理とする憲法は,思想及びその表現は人の人たるのゆえんを表すものであるがゆえに表現の自由を基本的人権の中で最も重要なものとして保障し(21条),かつ,このうち政治的行為の自由を特に保障しているものというべきである。そのことは,必然的に,異なった価値観ないしは政治思想,及びその発現としての政治的行為の共存を保障することを意味しているといってよいと思われる。そのことからすると,憲法は,自分にとって同意できない他人の政治思想に対して寛容で(時には敬意をさえ払う),かつ,それに基づく政治的行為の存在を基本的に認めないしは受忍すること,いわば「異見の尊重」をすることが望ましいとしているともいえよう。当然のことながら,本件で問題となっている一般職の公務員もまた,憲法上,公務員である前に国民の一人として政治に無縁でなく政治的な信念や意識を持ち得る以上,前述の意味での政治的行為の自由を享受してしかるべきであり,したがって,憲法は,公務員が多元的な価値観ないしは政治思想を有すること,及びその発現として政治的行為をすることを基本的に保障しているものというべきである。

(2) 以上の表現の自由を尊重すべきものとする点は多数意見と特に異なるところはないと思われ,また,同意見が述べるとおり,本法102条1項の規制は,公務員の職務の遂行の政治的中立性を保持することによって行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持することを目的とするものであるが,公務員の政治的行為の自由が上記のように憲法上重大な性質を有することに照らせば,その目的を達するための公務員の政治的行為の規制は必要やむを得ない限度に限られるというべきである。そうすると,問題は,本法102条1項の政治的行為の解釈が前記のようなものであれば,このような必要やむを得ない規制となるかどうかである。そこで更に検討するに,まず,刑罰は国権の作用による最も峻厳な制裁で公務員の政治的行為の自由の規制の程度の最たるものであって,処罰の対象とすることは極力謙抑的,補充的であるべきことが求められることに鑑みれば,この公務員の政治的行為禁止違反という犯罪は,行政の中立的運営を保護法益とし,これに対する信頼自体は独立の保護法益とするものではなく,それのみが損なわれたにすぎない場合は行政内部での服務規律違反による懲戒処分をもって必要にして十分としてこれに委ねることとしたものと解し,加うるに,公務員の職務の遂行の政治的中立性が損なわれるおそれが実質的に認められるときにその法益侵害の危険が生ずるとの考えのもとに,本法102条1項の政治的行為を上記のものと解することによって,処罰の対象は相当に限定されることになるのである。のみならず,そのおそれが実質的に生ずるとは,公務員の政治的行為からうかがわれる政治的傾向がその職務の遂行に反映する機序あるいはその蓋然性について合理的に説明できる結び付きが認められる場合を指し,しかも,勤務外の政治的行為にはその結び付きは認められないと解するのであるから,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められる場合は一層限定されることになる。結局,以上の解釈によれば,本件罰則規定については,政党その他の政治的団体の機関紙たる新聞その他の刊行物の配布は,上記の要件及び範囲の下で大幅に限定されたもののみがその構成要件に該当するのであるから,目的を達するための必要やむを得ない規制であるということが可能であると思われる。(3) ところで,本法102条1項の政治的行為の上記の解釈は,憲法の趣旨の下での本件罰則規定の趣旨,目的に基づく厳格な構成要件解釈にほかならない。したがって,この解釈は,通常行われている法解釈にすぎないものではあるが,他面では,一つの限定的解釈といえなくもない。しかるところ,第1に,公務員の政治的行為の自由の刑罰の制裁による規制は,公務員の重要な基本的人権の大なる制約である以上,それは職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものを指すと解するのは当然であり,したがって,規制の対象となるものとそうでないものとを明確に区別できないわけではないと思われる。第2に,そのようにおそれが実質的に認められるか否かということは,公務員の政治的行為からうかがわれる政治的傾向が職務の遂行に反映する機序あるいは蓋然性について合理的に説明できる結び付きがあるか否かということを指すのであり,そのような判断は一般の国民からみてさほど困難なことではない上,勤務外の政治的行為はそのような結び付きがないと解されるのであるから,規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめる相当に明確な指標の存在が認められ,したがって,一般の国民にとって具体的な場合に規制の対象となるかどうかを判断する基準を本件罰則規定から読み取ることができるといえる(最高裁昭和57年(行ツ)第156号同59年12月12日大法廷判決・民集38巻12号1308頁(札幌税関検査違憲訴訟事件)参照)。以上よりすると,本件罰則規定は,上記の厳格かつ限定的である解釈の限りで,憲法21条,31条等に反しないというべきである。

(4) もっとも,上記のような限定的解釈は,率直なところ,文理を相当に絞り込んだという面があることは否定できない。また,本法102条1項及び本規則に対しては,規制の対象たる公務員の政治的行為が文理上広汎かつ不明確であるがゆえに,当該公務員が文書の配布等の政治的行為を行う時点において刑罰による制裁を受けるのか否かを具体的に予測することが困難であるから,犯罪構成要件の明確性による保障機能を損ない,その結果,処罰の対象にならない文書の配布等の政治的行為も処罰の対象になるのではないかとの不安から,必要以上に自己規制するなどいわゆる萎縮的効果が生じるおそれがあるとの批判があるし,本件罰則規定が,懲戒処分を受けるべきものと犯罪として刑罰を科せられるべきものとを区別することなくその内容についての定めを人事院規則に委任していることは,犯罪の構成要件の規定を委任する部分に関する限り,憲法21条,31条等に違反し無効であるとする見解もある(最高裁昭和44年(あ)第1501号同49年11月6日大法廷判決・刑集28巻9号393頁(猿払事件)における裁判官大隅健一郎ほかの4人の裁判官の反対意見参照)。このような批判の存在や,我が国の長い歴史を経ての国民の政治意識の変化に思いを致すと(なお,公務員の政治的行為の規制について,地方公務員法には刑罰規定はない。また,欧米諸国でも調査し得る範囲では刑罰規定は見受けられない。),本法102条1項及び本規則については,更なる明確化やあるべき規制範囲・制裁手段について立法的措置を含めて広く国民の間で一層の議論が行われてよいと思われる。 結論

被告人の本件配布行為は,政治的傾向を有する行為ではあることは明らかであるところ,被告人は,厚生労働大臣官房の社会統計課の筆頭課長補佐(総括課長補佐)で,本法108条の2第3項ただし書所定の管理職員等に当たり,指揮命令や指導監督等の裁量権を伴う職務権限の行使などの場面で他の多数の職員の職務の遂行に影響を及ぼすことのできる地位にあるといえるが,勤務時間外である休日に,国ないし職場の施設を利用せず,かつ,公務員としての地位を利用することも,公務員であることを明らかにすることもなく,しかも,無言で郵便受けに文書を配布したにとどまるものであって,いわば,一私人,一市民として行動しているとみられるから,それは勤務外のものであると評価される。そうすると,被告人の本件配布行為からうかがわれる政治的傾向が被告人の職務の遂行に反映する機序あるいは蓋然性について合理的に説明できる結び付きは認めることができず,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるとはいえないというべきである。したがって,被告人が上記のとおり管理職的地位にあること,その職務の内容や権限において裁量権があること等を考慮しても,被告人の本件配布行為は本件罰則規定の構成要件に該当しないというべきである。しかるに,第1審判決及び原判決は,被告人の本件配布行為が本法102条1項の政治的行為に該当するとするものであって,いずれも法令の解釈を誤ったものであるから,これを破棄するのが相当であり,被告人を無罪とすべきである。

 目次

▼ 堀越事件千葉補足意見

▼ 堀越事件須藤意見


▼ 最判平成24年12月7日 国公法世田谷事件


【最判平成24年12月7日 堀越事件

 平成22()762 社会保険事務所の年金審査官の場合】

 

要旨

1 国家公務員法102条1項の「政治的行為」とは,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが,観念的なものにとどまらず,現実的に起こり得るものとして実質的に認められる政治的行為をいう。

2 人事院規則14-7第6項7号,13号に掲げる政治的行為は,それぞれが定める行為類型に文言上該当する行為であって,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものをいう。

3 国家公務員法(平成19年法律第108号による改正前のもの)110条1項19号,国家公務員法102条1項,人事院規則14-7第6項7号,13号による政党の機関紙の配布及び政治的目的を有する文書の配布の禁止は,憲法21条1項,31条に違反しない。

4 管理職的地位になく,その職務の内容や権限に裁量の余地のない一般職国家公務員が,職務と全く無関係に,公務員により組織される団体の活動としての性格を有さず,公務員による行為と認識し得る態様によることなく行った本件の政党の機関紙及び政治的目的を有する文書の配布は,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものとはいえず,国家公務員法102条1項,人事院規則14-7第6項7号,13号により禁止された行為に当たらない。

(1~4につき補足意見,1,2,4につき意見がある。)

 

判旨

本法102条1項は,「職員は,政党又は政治的目的のために,寄附金その他の利益を求め,若しくは受領し,又は何らの方法を以てするを問わず,これらの行為に関与し,あるいは選挙権の行使を除く外,人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。」と規定しているところ,同項は,行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持することをその趣旨とするものと解される。すなわち,憲法15条2項は,「すべて公務員は,全体の奉仕者であって,一部の奉仕者ではない。」と定めており,国民の信託に基づく国政の運営のために行われる公務は,国民の一部でなく,その全体の利益のために行われるべきものであることが要請されている。その中で,国の行政機関における公務は,憲法の定める我が国の統治機構の仕組みの下で,議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策を忠実に遂行するため,国民全体に対する奉仕を旨として,政治的に中立に運営されるべきものといえる。そして,このような行政の中立的運営が確保されるためには,公務員が,政治的に公正かつ中立的な立場に立って職務の遂行に当たることが必要となるものである。このように,本法102条1項は,公務員の職務の遂行の政治的中立性を保持することによって行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持することを目的とするものと解される。

他方,国民は,憲法上,表現の自由(21条1項)としての政治活動の自由を保障されており,この精神的自由は立憲民主政の政治過程にとって不可欠の基本的人権であって,民主主義社会を基礎付ける重要な権利であることに鑑みると,上記の目的に基づく法令による公務員に対する政治的行為の禁止は,国民としての政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度にその範囲が画されるべきものである。

このような本法102条1項の文言,趣旨,目的や規制される政治活動の自由の重要性に加え,同項の規定が刑罰法規の構成要件となることを考慮すると,同項にいう「政治的行為」とは,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが,観念的なものにとどまらず,現実的に起こり得るものとして実質的に認められるものを指し,同項はそのような行為の類型の具体的な定めを人事院規則に委任したものと解するのが相当である。そして,その委任に基づいて定められた本規則も,このような同項の委任の範囲内において,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められる行為の類型を規定したものと解すべきである。上記のような本法の委任の趣旨及び本規則の性格に照らすと,本件罰則規定に係る本規則6項7号,13号(5項3号)については,それぞれが定める行為類型に文言上該当する行為であって,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものを当該各号の禁止の対象となる政治的行為と規定したものと解するのが相当である。このような行為は,それが一公務員のものであっても,行政の組織的な運営の性質等に鑑みると,当該公務員の職務権限の行使ないし指揮命令や指導監督等を通じてその属する行政組織の職務の遂行や組織の運営に影響が及び,行政の中立的運営に影響を及ぼすものというべきであり,また,こうした影響は,勤務外の行為であっても,事情によってはその政治的傾向が職務内容に現れる蓋然性が高まることなどによって生じ得るものというべきである。

そして,上記のような規制の目的やその対象となる政治的行為の内容等に鑑みると,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるかどうかは,当該公務員の地位,その職務の内容や権限等,当該公務員がした行為の性質,態様,目的,内容等の諸般の事情を総合して判断するのが相当である。具体的には,当該公務員につき,指揮命令や指導監督等を通じて他の職員の職務の遂行に一定の影響を及ぼし得る地位(管理職的地位)の有無,職務の内容や権限における裁量の有無,当該行為につき,勤務時間の内外,国ないし職場の施設の利用の有無,公務員の地位の利用の有無,公務員により組織される団体の活動としての性格の有無,公務員による行為と直接認識され得る態様の有無,行政の中立的運営と直接相反する目的や内容の有無等が考慮の対象となるものと解される。

そこで,進んで本件罰則規定が憲法21条1項,31条に違反するかを検討する。この点については,本件罰則規定による政治的行為に対する規制が必要かつ合理的なものとして是認されるかどうかによることになるが,これは,本件罰則規定の目的のために規制が必要とされる程度と,規制される自由の内容及び性質,具体的な規制の態様及び程度等を較量して決せられるべきものである(最高裁昭和52年(オ)第927号同58年6月22日大法廷判決・民集37巻5号793頁等)。そこで,まず,本件罰則規定の目的は,前記のとおり,公務員の職務の遂行の政治的中立性を保持することによって行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持することにあるところ,これは,議会制民主主義に基づく統治機構の仕組みを定める憲法の要請にかなう国民全体の重要な利益というべきであり,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められる政治的行為を禁止することは,国民全体の上記利益の保護のためであって,その規制の目的は合理的であり正当なものといえる。他方,本件罰則規定により禁止されるのは,民主主義社会において重要な意義を有する表現の自由としての政治活動の自由ではあるものの,前記アのとおり,禁止の対象とされるものは,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められる政治的行為に限られ,このようなおそれが認められない政治的行為や本規則が規定する行為類型以外の政治的行為が禁止されるものではないから,その制限は必要やむを得ない限度にとどまり,前記の目的を達成するために必要かつ合理的な範囲のものというべきである。そして,上記の解釈の下における本件罰則規定は,不明確なものとも,過度に広汎な規制であるともいえないと解される。なお,このような禁止行為に対しては,服務規律違反を理由とする懲戒処分のみではなく,刑罰を科すことをも制度として予定されているが,これは,国民全体の上記利益を損なう影響の重大性等に鑑みて禁止行為の内容,態様等が懲戒処分等では対応しきれない場合も想定されるためであり,あり得べき対応というべきであって,刑罰を含む規制であることをもって直ちに要かつ合理的なものであることが否定されるものではない。

以上の諸点に鑑みれば,本件罰則規定は憲法21条1項,31条に違反するものではないというべきであり,このように解することができることは,当裁判所の判例(最高裁昭和44年(あ)第1501号同49年11月6日大法廷判決・刑集28巻9号393頁,最高裁昭和52年(オ)第927号同58年6月22日大法廷判決・民集37巻5号793頁,最高裁昭和57年(行ツ)第156号同59年12月12日大法廷判決・民集38巻12号1308頁,最高裁昭和56年(オ)第609号同61年6月11日大法廷判決・民集40巻4号872頁,最高裁昭和61年(行ツ)第11号平成4年7月1日大法廷判決・民集46巻5号437頁,最高裁平成10年(分ク)第1号同年12月1日大法廷決定・民集52巻9号1761頁)の趣旨に徴して明らかである。

次に,本件配布行為が本件罰則規定の構成要件に該当するかを検討するに,本件配布行為が本規則6項7号,13号(5項3号)が定める行為類型に文言上該当する行為であることは明らかであるが,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものかどうかについて,前記諸般の事情を総合して判断する。

前記のとおり,被告人は,社会保険事務所に年金審査官として勤務する事務官であり,管理職的地位にはなく,その職務の内容や権限も,来庁した利用者からの年金の受給の可否や年金の請求,年金の見込額等に関する相談を受け,これに対し,コンピューターに保管されている当該利用者の年金に関する記録を調査した上,その情報に基づいて回答し,必要な手続をとるよう促すという,裁量の余地のないものであった。そして,本件配布行為は,勤務時間外である休日に,国ないし職場の施設を利用せずに,公務員としての地位を利用することなく行われたものである上,公務員により組織される団体の活動としての性格もなく,公務員であることを明らかにすることなく,無言で郵便受けに文書を配布したにとどまるものであって,公務員による行為と認識し得る態様でもなかったものである。これらの事情によれば,本件配布行為は,管理職的地位になく,その職務の内容や権限に裁量の余地のない公務員によって,職務と全く無関係に,公務員により組織される団体の活動としての性格もなく行われたものであり,公務員による行為と認識し得る態様で行われたものでもないから,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものとはいえない。そうすると,本件配布行為は本件罰則規定の構成要件に該当しないというべきである。

以上のとおりであり,被告人を無罪とした原判決は結論において相当である。

 


 目次

▼ 堀越事件

▼ 堀越事件・須藤意見


 ▼ 最判平成24年12月7日 猿払・国公法世田谷事件


【最判平成24年12月17日 堀越事件 補足意見】

【裁判官千葉勝美の補足意見】

最高裁昭和49年11月6日大法廷判決・刑集28巻9号393頁(いわゆ

る猿払事件大法廷判決)との整合性について

(1) 猿払事件大法廷判決の法令解釈の理解等

猿払事件大法廷判決は,国家公務員の政治的行為に関し本件罰則規定の合憲性と適用の有無を判示した直接の先例となるものである。そこでは,特定の政党を支持する政治的目的を有する文書の掲示又は配布をしたという行為について,本件罰則規定に違反し,これに刑罰を適用することは,たとえその掲示又は配布が,非管理職の現業公務員でその職務内容が機械的労務の提供にとどまるものにより,勤務時間外に,国の施設を利用することなく,職務を利用せず又はその公正を害する意図なく,かつ,労働組合活動の一環として行われた場合であっても憲法に違反しない,としており,本件罰則規定の禁止する「政治的行為」に限定を付さないという法令解釈を示しているようにも読めなくはない。しかしながら,判決による司法判断は,全て具体的な事実を前提にしてそれに法を適用して事件を処理するために,更にはそれに必要な限度で法令解釈を展開するものであり,常に採用する法理論ないし解釈の全体像を示しているとは限らない。上記の政治的行為に関する判示部分も,飽くまでも当該事案を前提とするものである。すなわち,当該事案は,郵便局に勤務する管理職の地位にはない郵政事務官で,地区労働組合協議会事務局長を務めていた者が,衆議院議員選挙に際し,協議会の機関決定に従い,協議会を支持基盤とする特定政党を支持する目的をもって,同党公認候補者の選挙用ポスター6枚を自ら公営掲示場に掲示し,また,その頃4回にわたり,合計184枚のポスターの掲示を他に依頼して配布したというものである。このような行為の性質・態様等については,勤務時間外に国の施設を利用せずに行われた行為が中心であるとはいえ,当該公務員の所属組織による活動の一環として当該組織の機関決定に基づいて行われ,当該地区において公務員が特定の政党の候補者の当選に向けて積極的に支援する行為であることが外形上一般人にも容易に認識されるものであるから,当該公務員の地位・権限や職務内容,勤務時間の内外を問うまでもなく,実質的にみて「公務員の職務の遂行の中立性を損なうおそれがある行為」であると認められるものである。このような事案の特殊性を前提にすれば,当該ポスター掲示等の行為が本件罰則規定の禁止する政治的行為に該当することが明らかであるから,上記のような「おそれ」の有無等を特に吟味するまでもなく(「おそれ」は当然認められるとして)政治的行為該当性を肯定したものとみることができる。猿払事件大法廷判決を登載した最高裁判所刑集28巻9号393頁の判決要旨五においても,「本件の文書の掲示又は配布(判文参照)に」本件罰則規定を適用することは憲法21条,31条に違反しない,とまとめられているが,これは,判決が摘示した具体的な本件文書の掲示又は配布行為を対象にしており,当該事案を前提にした事例判断であることが明確にされているところである。そうすると,猿払事件大法廷判決の上記判示は,本件罰則規定自体の抽象的な法令解釈について述べたものではなく,当該事案に対する具体的な当てはめを述べたものであり,本件とは事案が異なる事件についてのものであって,本件罰則規定の法令解釈において本件多数意見と猿払事件大法廷判決の判示とが矛盾・抵触するようなものではないというべきである。

(2) 猿払事件大法廷判決の合憲性審査基準の評価

なお,猿払事件大法廷判決は,本件罰則規定の合憲性の審査において,公務員の職種・職務権限,勤務時間の内外,国の施設の利用の有無等を区別せずその政治的行為を規制することについて,規制目的と手段との合理的関連性を認めることができるなどとしてその合憲性を肯定できるとしている。この判示部分の評価については,いわゆる表現の自由の優越的地位を前提とし,当該政治的行為によりいかなる弊害が生ずるかを利益較量するという「厳格な合憲性の審査基準」ではなく,より緩やかな「合理的関連性の基準」によったものであると説くものもある。しかしながら,近年の最高裁大法廷の判例においては,基本的人権を規制する規定等の合憲性を審査するに当たっては,多くの場合,それを明示するかどうかは別にして,一定の利益を確保しようとする目的のために制限が必要とされる程度と,制限される自由の内容及び性質,これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を具体的に比較衡量するという「利益較量」の判断手法を採ってきており,その際の判断指標として,事案に応じて一定の厳格な基準(明白かつ現在の危険の原則,不明確ゆえに無効の原則,必要最小限度の原則,LRAの原則,目的・手段における必要かつ合理性の原則など)ないしはその精神を併せ考慮したものがみられる。もっとも,厳格な基準の活用については,アプリオリに,表現の自由の規制措置の合憲性の審査基準としてこれらの全部ないし一部が適用される旨を一般的に宣言するようなことをしないのはもちろん,例えば,「LRA」の原則などといった講学上の用語をそのまま用いることも少ない。また,これらの厳格な基準のどれを採用するかについては,規制される人権の性質,規制措置の内容及び態様等の具体的な事案に応じて,その処理に必要なものを適宜選択して適用するという態度を採っており,さらに,適用された厳格な基準の内容についても,事案に応じて,その内容を変容させあるいはその精神を反映させる限度にとどめるなどしており(例えば,最高裁昭和58年6月22日大法廷判決・民集37巻5号793頁(「よど号乗っ取り事件」新聞記事抹消事件)は,「明白かつ現在の危険」の原則そのものではなく,その基本精神を考慮して,障害発生につき「相当の蓋然性」の限度でこれを要求する判示をしている。),基準を定立して自らこれに縛られることなく,柔軟に対処しているのである(この点の詳細については,最高裁平成4年7月1日大法廷判決・民集46巻5号437頁(いわゆる成田新法事件)についての当職[当時は最高裁調査官]の最高裁判例解説民事篇・平成4年度235頁以下参照。)。

この見解を踏まえると,猿払事件大法廷判決の上記判示は,当該事案については,公務員組織が党派性を持つに至り,それにより公務員の職務遂行の政治的中立性が損なわれるおそれがあり,これを対象とする本件罰則規定による禁止は,あえて厳格な審査基準を持ち出すまでもなく,その政治的中立性の確保という目的との間に合理的関連性がある以上,必要かつ合理的なものであり合憲であることは明らかであることから,当該事案における当該行為の性質・態様等に即して必要な限度での合憲の理由を説示したにとどめたものと解することができる(なお,判文中には,政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止されることにより失われる利益との均衡を検討することを要するといった利益較量論的な説示や,政治的行為の禁止が表現の自由に対する合理的でやむを得ない制限であると解されるといった説示も見られるなど,厳格な審査基準の採用をうかがわせるものがある。)。ちなみに,最高裁平成10年12月1日大法廷決定・民集52巻9号1761頁(裁判官分限事件)も,裁判所法52条1号の「積極的に政治運動をすること」の意味を十分に限定解釈した上で合憲性の審査をしており,厳格な基準によりそれを肯定したものというべきであるが,判文上は,その目的と禁止との間に合理的関連性があると説示するにとどめている。これも,それで足りることから同様の説示をしたものであろう。

そうであれば,本件多数意見の判断の枠組み・合憲性の審査基準と猿払事件大法廷判決のそれとは,やはり矛盾・抵触するものでないというべきである。

本件罰則規定の限定解釈の意義等

本件罰則規定をみると,当該規定の文言に該当する国家公務員の政治的行為を文理上は限定することなく禁止する内容となっている。本件多数意見は,ここでいう「政治的行為」とは,当該規定の文言に該当する政治的行為であって,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが,現実的に起こり得るものとして実質的に認められるものを指すという限定を付した解釈を示した。これは,いわゆる合憲限定解釈の手法,すなわち,規定の文理のままでは規制範囲が広すぎ,合憲性審査におけるいわゆる「厳格な基準」によれば必要最小限度を超えており,利益較量の結果違憲の疑いがあるため,その範囲を限定した上で結論として合憲とする手法を採用したというものではない。

そもそも,規制される政治的行為の範囲が広範であるため,これを合憲性が肯定され得るように限定するとしても,その仕方については,様々な内容のものが考えられる。これを,多数意見のような限定の仕方もあるが,そうではなく,より類型的に,「いわゆる管理職の地位を利用する形で行う政治的行為」と限定したり,「勤務時間中,国の施設を利用して行う行為」と限定したり,あるいは,「一定の組織の政治的な運動方針に賛同し,組織の一員としてそれに積極的に参加する形で行う政治的行為」と限定するなど,事柄の性質上様々な限定が考え得るところであろう。しかし,司法部としては,これらのうちどのような限定が適当なのかは基準が明らかでなく判断し難いところであり,また,可能な複数の限定の中から特定の限定を選び出すこと自体,一種の立法的作用であって,立法府の裁量,権限を侵害する面も生じかねない。加えて,次のような問題もある。

国家公務員法は,専ら憲法73条4号にいう官吏に関する事務を掌理する基準を定めるものであり(国家公務員法1条2項),我が国の国家組織,統治機構を定める憲法の規定を踏まえ,その国家機構の担い手の在り方を定める基本法の一つである。本法102条1項は,その中にあって,公務員の服務についての定めとして,政治的行為の禁止を規定している。このような国家組織の一部ともいえる国家公務員の服務,権利義務等をどう定めるかは,国の統治システムの在り方を決めることでもあるから,憲法の委任を受けた国権の最高機関である国会としては,国家組織全体をどのようなものにするかについての基本理念を踏まえて対処すべき事柄であって,国家公務員法が基本法の一つであるというのも,その意味においてである。このような基本法についての合憲性審査において,その一部に憲法の趣旨にそぐわない面があり,全面的に合憲との判断をし難いと考えた場合に,司法部がそれを合憲とするために考え得る複数の限定方法から特定のものを選び出して限定解釈をすることは,全体を違憲とすることの混乱や影響の大きさを考慮してのことではあっても,やはり司法判断として異質な面があるといえよう。憲法が規定する国家の統治機構を踏まえて,その担い手である公務員の在り方について,一定の方針ないし思想を基に立法府が制定した基本法は,全体的に完結した体系として定められているものであって,服務についても,公務員が全体の奉仕者であることとの関連で,公務員の身分保障の在り方や政治的任用の有無,メリット制の適用等をも総合考慮した上での体系的な立法目的,意図の下に規制が定められているはずである。したがって,その一部だけを取り出して限定することによる悪影響や体系的な整合性の破綻の有無等について,慎重に検討する姿勢が必要とされるところである。本件においては,司法部が基本法である国家公務員法の規定をいわばオーバールールとして合憲限定解釈するよりも前に,まず対象となっている本件罰則規定について,憲法の趣旨を十分に踏まえた上で立法府の真に意図しているところは何か,規制の目的はどこにあるか,公務員制度の体系的な理念,思想はどのようなものか,憲法の趣旨に沿った国家公務員の服務の在り方をどう考えるのか等々を踏まえて,国家公務員法自体の条文の丁寧な解釈を試みるべきであり,その作業をした上で,具体的な合憲性の有無等の審査に進むべきものである(もっとも,このことは,司法部の違憲立法審査は常にあるいは本来慎重であるべきであるということを意味するものではない。国家の基本法については,いきなり法文の文理のみを前提に大上段な合憲,違憲の判断をするのではなく,法体系的な理念を踏まえ,当該条文の趣旨,意味,意図をまずよく検討して法解釈を行うべきであるということである。)。

多数意見が,まず,本件罰則規定について,憲法の趣旨を踏まえ,行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持するという規定の目的を考慮した上で,慎重な解釈を行い,それが「公務員の職務遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められる行為」を政治的行為として禁止していると解釈したのは,このような考え方に基づくものであり,基本法についての司法判断の基本的な姿勢ともいえる。

なお,付言すると,多数意見のような解釈適用の仕方は,米国連邦最高裁のブランダイス判事が,1936年のアシュワンダー対テネシー渓谷開発公社事件判決において,補足意見として掲げた憲法問題回避の準則であるいわゆるブランダイス・ルールの第4準則の「最高裁は,事件が処理可能な他の根拠が提出されているならば,訴訟記録によって憲法問題が適正に提出されていても,それの判断を下さないであろう。」,あるいは,第7準則の「連邦議会の制定法の有効性が問題とされたときは,合憲性について重大な疑念が提起されている場合でも,当最高裁は,その問題が回避できる当該法律の解釈が十分に可能か否かをまず確認することが基本的な原則である。」(以上のブランダイス・ルールの内容の記載は,渋谷秀樹「憲法判断の条件」講座憲法学6・141頁以下による。)という考え方とは似て非なるものである。ブランダイス・ルールは,周知のとおり,その後,Rescue Army v.Municipal Court of City of Los Angeles331 U.S. 549 (1947)の法廷意見において採用され米国連邦最高裁における判例法理となっているが,これは,司法の自己抑制の観点から憲法判断の回避の準則を定めたものである。しかし,本件の多数意見の採る限定的な解釈は,司法の自己抑制の観点からではなく,憲法判断に先立ち,国家の基本法である国家公務員法の解釈を,その文理のみによることなく,国家公務員法の構造,理念及び本件罰則規定の趣旨・目的等を総合考慮した上で行うという通常の法令解釈の手法によるものであるからである。

本件における本件罰則規定の構成要件該当性の処理

本件配布行為は,本件罰則規定に関する上記の法令解釈によれば,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められない以上,それだけで構成要件該当性が否定される。この点について,原審は,本件配布行為の内容等に鑑みて,本件罰則規定を適用することが違憲となるとして,被告人を無罪とすべきであるとしている。これは,本件のような政治的行為についてまで,刑罰による規制を及ぼすことの問題を考慮した上での判断であり,実質的には,本件の多数意見と同様に,当該公務員の職務の遂行の政治的中立性に与える影響が小さいことを実質的な根拠としていると解され,その苦心は理解できるところではある。しかしながら,表現の自由の規制立法の合憲性審査に際し,このような適用違憲の手法を採用することは,個々の事案や判断主体によって,違憲,合憲の結論が変わり得るものであるため,その規制範囲が曖昧となり,恣意的な適用のおそれも生じかねず,この手法では表現の自由に対する威嚇効果がなお大きく残ることになろう。個々の事案ごとの政治的行為の個別的な評価を超えて,本件罰則規定の一般的な法令解釈を行った上で,その構成要件該当性を否定することが必要であると考えるゆえんである。

 目次


▼ 堀越事件千葉補足意見


▼ 堀越事件


 ▼ 最判平成24年12月7日 猿払・国公法世田谷事件


【最判平成24年12月7日 堀越事件・意見】

【裁判官須藤正彦の意見】

公務員の政治的行為の解釈について

(1) 私もまた,多数意見と同様に,本法102条1項の政治的行為とは,国民の政治的活動の自由が民主主義社会を基礎付ける重要な権利であること,かつ,同項の規定が本件罰則規定の構成要件となることなどに鑑み,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められる(観念的なものにとどまらず,現実的に起こり得るものとして認められる)ものを指すと解するのが相当と考える。

(2) すなわち,まず,公務員の政治的行為とその職務の遂行とは元来次元を異にする性質のものであり,例えば公務員が政党の党員となること自体では無論公務員の職務の遂行の政治的中立性が損なわれるとはいえない。公務員の政治的行為によってその職務の遂行の政治的中立性が損なわれるおそれが生ずるのは,公務員の政治的行為と職務の遂行との間で一定の結び付き(牽連性)があるがゆえであり,しかもそのおそれが観念的なものにとどまらず,現実的に起こり得るものとして実質的に認められるものとなるのは,公務員の政治的行為からうかがわれるその政治的傾向がその職務の遂行に反映する機序あるいはその蓋然性について合理的に説明できる結び付きが認められるからである。そうすると,公務員の職務の遂行の政治的中立性が損なわれるおそれが実質的に生ずるとは,そのような結び付きが認められる場合を指すことになる。進んで,この点について敷えんして考察するに,以下のとおり,多数意見とはいささか異なるものとなる。

勤務外の政治的行為

(1) しかるところ,この「結び付き」について更に立ち入って考察すると,問題は,公務員の政治的行為がその行為や付随事情を通じて勤務外で行われたと評価される場合,つまり,勤務時間外で,国ないし職場の施設を利用せず,公務員の地位から離れて行動しているといえるような場合で,公務員が,いわば一私人,一市民として行動しているとみられるような場合である。その場合は,そこからうかがわれる公務員の政治的傾向が職務の遂行に反映される機序あるいは蓋然性について合理的に説明できる結び付きは認められないというべきである。

(2) 確かに,このように勤務外であるにせよ,公務員が政治的行為を行えば,そのことによってその政治的傾向が顕在化し,それをしないことに比べ,職務の遂行の政治的中立性を損なう潜在的可能性が明らかになるとは一応いえよう。また,職務の遂行の政治的中立性に対する信頼も損なわれ得るであろう。しかしながら,公務員組織における各公務員の自律と自制の下では,公務員の職務権限の行使ないし指揮命令や指導監督等の職務の遂行に当たって,そのような政治的傾向を持ち込むことは通常考えられない。また,稀に,そのような公務員が職務の遂行にその政治的傾向を持ち込もうとすることがあり得るとしても,公務員組織においてそれを受け入れるような土壌があるようにも思われない。そうすると,公務員の政治的行為が勤務外で行われた場合は,職務の遂行の政治的中立性が損なわれるおそれがあるとしても,そのおそれは甚だ漠としたものであり,観念的かつ抽象的なものにとどまるものであるといえる。

結局,この場合は,当該公務員の管理職的地位の有無,職務の内容や権限における裁量の有無,公務員により組織される団体の活動としての性格の有無,公務員による行為と直接認識され得る態様の有無,行政の中立的運営と直接相反する目的や内容の有無等にかかわらず──それらの事情は,公務員の職務の遂行の政治的中立性に対する国民の信頼を損なうなどの服務規律違反を理由とする懲戒処分の対象となるか否かの判断にとって重要な考慮要素であろうが──その政治的行為からうかがわれる政治的傾向がその職務の遂行に反映する機序あるいはその蓋然性について合理的に説明できる結び付きが認められず,公務員の政治的中立性が損なわれるおそれが実質的に生ずるとは認められないというべきである。この点,勤務外の政治的行為についても,事情によっては職務の遂行の政治的中立性を損なう実質的おそれが生じ得ることを認める多数意見とは見解を異にするところである。

(3) ちなみに,念のためいえば,「勤務外」と「勤務時間外」とは意味を異にする。本規則4項は,本法又は本規則によって禁止又は制限される政治的行為は,「職員が勤務時間外において行う場合においても,適用される」と規定しているところであるが,これは,勤務時間外でも勤務外とは評価されず,上記の結び付きが認められる場合(例えば,勤務時間外に,国又は職場の施設を利用して政治的行為を行うような場合に認められ得よう。)にはその政治的行為が規制されることを規定したものと解される。

必要やむを得ない規制について

(1) ところで,本法102条1項が政治的行為の自由を禁止することは,表現の自由の重大な制約となるものである。しかるところ,民主主義に立脚し,個人の尊厳(13条)を基本原理とする憲法は,思想及びその表現は人の人たるのゆえんを表すものであるがゆえに表現の自由を基本的人権の中で最も重要なものとして保障し(21条),かつ,このうち政治的行為の自由を特に保障しているものというべきである。そのことは,必然的に,異なった価値観ないしは政治思想,及びその発現としての政治的行為の共存を保障することを意味しているといってよいと思われる。そのことからすると,憲法は,自分にとって同意できない他人の政治思想に対して寛容で(時には敬意をさえ払う),かつ,それに基づく政治的行為の存在を基本的に認めないしは受忍すること,いわば「異見の尊重」をすることが望ましいとしているともいえよう。当然のことながら,本件で問題となっている一般職の公務員もまた,憲法上,公務員である前に国民の一人として政治に無縁でなく政治的な信念や意識を持ち得る以上,前述の意味での政治的行為の自由を享受してしかるべきであり,したがって,憲法は,公務員が多元的な価値観ないしは政治思想を有すること,及びその発現として政治的行為をすることを基本的に保障しているものというべきである。

(2) 以上の表現の自由を尊重すべきものとする点は多数意見と特に異なるところはないと思われ,また,同意見が述べるとおり,本法102条1項の規制は,公務員の職務の遂行の政治的中立性を保持することによって行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持することを目的とするものであるが,公務員の政治的行為の自由が上記のように憲法上重大な性質を有することに照らせば,その目的を達するための公務員の政治的行為の規制は必要やむを得ない限度に限られるというべきである。そうすると,問題は,本法102条1項の政治的行為の解釈が前記のようなものであれば,このような必要やむを得ない規制となるかどうかである。

そこで更に検討するに,まず,刑罰は国権の作用による最も峻厳な制裁で公務員の政治的行為の自由の規制の程度の最たるものであって,処罰の対象とすることは極力謙抑的,補充的であるべきことが求められることに鑑みれば,この公務員の政治的行為禁止違反という犯罪は,行政の中立的運営を保護法益とし,これに対する信頼自体は独立の保護法益とするものではなく,それのみが損なわれたにすぎない場合は行政内部での服務規律違反による懲戒処分をもって必要にして十分としてこれに委ねることとしたものと解し,加うるに,公務員の職務の遂行の政治的中立性が損なわれるおそれが実質的に認められるときにその法益侵害の危険が生ずるとの考えのもとに,本法102条1項の政治的行為を上記のものと解することによって,処罰の対象は相当に限定されることになるのである。

のみならず,そのおそれが実質的に生ずるとは,公務員の政治的行為からうかがわれる政治的傾向がその職務の遂行に反映する機序あるいはその蓋然性について合理的に説明できる結び付きが認められる場合を指し,しかも,勤務外の政治的行為にはその結び付きは認められないと解するのであるから,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められる場合は一層限定されることになる。

結局,以上の解釈によれば,本件罰則規定については,政党その他の政治的団体の機関紙たる新聞その他の刊行物の配布は,上記の要件及び範囲の下で大幅に限定されたもののみがその構成要件に該当するのであるから,目的を達するための必要やむを得ない規制であるということが可能であると思われる。

(3) ところで,本法102条1項の政治的行為の上記の解釈は,憲法の趣旨の下での本件罰則規定の趣旨,目的に基づく厳格な構成要件解釈にほかならない。したがって,この解釈は,通常行われている法解釈にすぎないものではあるが,他面では,一つの限定的解釈といえなくもない。しかるところ,第1に,公務員の政治的行為の自由の刑罰の制裁による規制は,公務員の重要な基本的人権の大なる制約である以上,それは職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものを指すと解するのは当然であり,したがって,規制の対象となるものとそうでないものとを明確に区別できないわけではないと思われる。第2に,そのようにおそれが実質的に認められるか否かということは,公務員の政治的行為からうかがわれる政治的傾向が職務の遂行に反映する機序あるいは蓋然性について合理的に説明できる結び付きがあるか否かということを指すのであり,そのような判断は一般の国民からみてさほど困難なことではない上,勤務外の政治的行為はそのような結び付きがないと解されるのであるから,規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめる相当に明確な指標の存在が認められ,したがって,一般の国民にとって具体的な場合に規制の対象となるかどうかを判断する基準を本件罰則規定から読み取ることができるといえる(最高裁昭和57年(行ツ)第156号同59年12月12日大法廷判決・民集38巻12号1308頁(札幌税関検査違憲訴訟事件)参照)。

以上よりすると,本件罰則規定は,上記の厳格かつ限定的である解釈の限りで,

憲法21条,31条に反しないというべきである。

(4) もっとも,上記のような限定的解釈は,率直なところ,文理を相当に絞り込んだという面があることは否定できない。また,本法102条1項及び本規則に対しては,規制の対象たる公務員の政治的行為が文理上広汎かつ不明確であるがゆえに,当該公務員が文書の配布等の政治的行為を行う時点において刑罰による制裁を受けるのか否かを具体的に予測することが困難であるから,犯罪構成要件の明確性による保障機能を損ない,その結果,処罰の対象にならない文書の配布等の政治的行為も処罰の対象になるのではないかとの不安から,必要以上に自己規制するなどいわゆる萎縮的効果が生じるおそれがあるとの批判があるし,本件罰則規定が,懲戒処分を受けるべきものと犯罪として刑罰を科せられるべきものとを区別することなくその内容についての定めを人事院規則に委任していることは,犯罪の構成要件の規定を委任する部分に関する限り,憲法21条,31条等に違反し無効であるとする見解もある(最高裁昭和44年(あ)第1501号同49年11月6日大法廷判決・刑集28巻9号393頁(猿払事件)における裁判官大隅健一郎ほかの4人の裁判官の反対意見参照)。このような批判の存在や,我が国の長い歴史を経ての国民の政治意識の変化に思いを致すと(なお,公務員の政治的行為の規制について,地方公務員法には刑罰規定はない。また,欧米諸国でも調査し得る範囲では刑罰規定は見受けられない。),本法102条1項及び本規則については,更なる明確化やあるべき規制範囲・制裁手段について立法的措置を含めて広く国民の間で一層の議論が行われてよいと思われる。

結論

被告人の本件配布行為は政治的傾向を有する行為ではあることは明らかであるが,勤務時間外である休日に,国ないし職場の施設を利用せず,かつ,公務員としての地位を利用することも,公務員であることを明らかにすることもなく,しかも,無言で郵便受けに文書を配布したにとどまるものであって,被告人は,いわば,一私人,一市民として行動しているとみられるから,それは勤務外のものであると評価される。そうすると,被告人の本件配布行為からうかがわれる政治的傾向が被告人の職務の遂行に反映する機序あるいは蓋然性について合理的に説明できる結び付きは認めることができず,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるとはいえないというべきである。したがって,被告人の管理職的地位の有無,その職務の内容や権限における裁量の有無等を検討するまでもなく,被告人の本件配布行為は本件罰則規定の構成要件に該当しないというべきである。被告人を無罪とした原判決は,以上述べた理由からして,結論において相当である。


 目次


第3章 国民の権利及び義務 公務員の人権(6)寺西判事補事件・最大決平成10年12月1日

【公務員の政治活動の自由】

 

【裁判官】

最大決平成10年12月1日 寺西判事補事件

要旨

一 裁判所法52条1号にいう「積極的に政治運動をすること」とは、組織的、計画的又は継続的な政治上の活動を能動的に行う行為であって裁判官の独立及び中立・公正を害するおそれがあるものをいい、具体的行為の該当性を判断するに当たっては、行為の内容、行為の行われるに至った経緯、行われた場所等の客観的な事情のほか、行為をした裁判官の意図等の主観的な事情をも総合的に考慮して決するのが相当である。

二 裁判官が積極的に政治運動をすることを禁止する裁判所法52条1号の規定は、憲法21条1項に違反しない。

三 裁判官が、その取扱いが政治的問題となっていた法案を廃案に追い込もうとする党派的な運動の一環として開かれた集会において、会場の一般参加者席から、裁判官であることを明らかにした上で、「当初、この集会において、盗聴法と令状主義というテーマのシンポジウムにパネリストとして参加する予定であったが、事前に所長から集会に参加すれば懲戒処分もあり得るとの警告を受けたことから、パネリストとしての参加は取りやめた。自分としては、仮に法案に反対の立場で発言しても、裁判所法に定める積極的な政治運動に当たるとは考えないが、パネリストとしての発言は辞退する。」との趣旨の発言をした行為は、判示の事実関係の下においては、右集会の参加者に対し、右法案が裁判官の立場からみて令状主義に照らして問題のあるものであり、その廃案を求めることは正当であるという同人の意見を伝えるものというべきであり、右集会の開催を決定し右法案を廃案に追い込むことを目的として共同して行動している諸団体の組織的、計画的、継続的な反対運動を拡大、発展させ、右目的を達成させることを積極的に支援しこれを推進するものであって、裁判所法五二条一号が禁止している「積極的に政治運動をすること」に該当する。

 

判旨

 四 「積極的に政治運動をすること」の意義及びその禁止の合憲性

 1 憲法は、近代民主主義国家の採る三権分立主義を採用している。その中で、司法は、法律上の紛争について、紛争当事者から独立した第三者である裁判所が、中立・公正な立場から法を適用し、具体的な法が何であるかを宣言して紛争を解決することによって、国民の自由と権利を守り、法秩序を維持することをその任務としている。このような司法権の担い手である裁判官は、中立・公正な立場に立つ者でなければならず、その良心に従い独立してその職権を行い、憲法と法律にのみ拘束されるものとされ(憲法七六条三項)、また、その独立を保障するため、裁判官には手厚い身分保障がされている(憲法七八条ないし八○条)のである。裁判官は、独立して中立・公正な立場に立ってその職務を行わなければならないのであるが、外見上も中立・公正を害さないように自律、自制すべきことが要請される。司法に対する国民の信頼は、具体的な裁判の内容の公正、裁判運営の適正はもとより当然のこととして、外見的にも中立・公正な裁判官の態度によって支えられるからである。したがって、裁判官は、いかなる勢力からも影響を受けることがあってはならず、とりわけ政治的な勢力との間には一線を画さなければならない。そのような要請は、司法の使命、本質から当然に導かれるところであり、現行憲法下における我が国の裁判官は、違憲立法審査権を有し、法令や処分の憲法適合性を審査することができ、また、行政事件や国家賠償請求事件などを取り扱い、立法府や行政府の行為の適否を判断する権限を有しているのであるから、特にその要請が強いというべきである。職務を離れた私人としての行為であっても、裁判官が政治的な勢力にくみする行動に及ぶときは、当該裁判官に中立・公正な裁判を期待することはできないと国民から見られるのは、避けられないところである。身分を保障され政治的責任を負わない裁判官が政治の方向に影響を与えるような行動に及ぶことは、右のような意味において裁判の存立する基礎を崩し、裁判官の中立・公正に対する国民の信頼を揺るがすばかりでなく、立法権や行政権に対する不当な干渉、侵害にもつながることになるということができる。

 これらのことからすると、裁判所法五二条一号が裁判官に対し「積極的に政治運動をすること」を禁止しているのは、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにその目的があるものと解される

  なお、国家公務員法一〇二条及びこれを受けた人事院規則一四―七は、行政府に属する一般職の国家公務員の政治的行為を一定の範囲で禁止している。これは、行政の分野における公務が、憲法の定める統治組織の構造に照らし、議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な遂行を期し、専ら国民全体に対する奉仕を旨とし、政治的偏向を排して運営されなければならず、そのためには、個々の公務員が政治的に、一党一派に偏することなく、厳に中立の立場を堅持して、その職務の遂行に当たることが必要となることを考慮したことによるものと解される(最高裁昭和四四年(あ)第一五〇一号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁参照)。これに対し、裁判所法五二条一号が裁判官の積極的な政治運動を禁止しているのは、右に述べたとおり、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにその目的があると解されるのであり、右目的の重要性及び裁判官は単独で又は合議体の一員として司法権を行使す

る主体であることにかんがみれば、裁判官に対する政治運動禁止の要請は、一般職

の国家公務員に対する政治的行為禁止の要請より強いものというべきである。また、国家公務員法一〇二条及び人事院規則一四―七は、一般職の国家公務員が禁止される政治的行為について、同条が自ら規定しているもののほかは、同規則六項が具体的に列挙したものに限定され、政治的色彩が強いと思われる行為であっても、具体的列挙事項のいずれにも該当しないものは、同条の禁止する「政治的行為」には当たらないものとし、しかも、同規則六項は、五号から七号までに定めるものを除き、同規則五項の定義する「政治的目的」をもってする行為のみを「政治的行為」と規定している。これは、右禁止規定の違反行為が懲戒事由となるほか刑罰の対象ともなり得るものである(同法一一〇条一項一九号)ことから、懲戒権者等のし意的な解釈運用を排するために、あえて限定列挙方式が採られているものと解される。これに対し、裁判官の禁止される「積極的に政治運動をすること」については、このような限定列挙をする規定はなく、その意味はあくまで右文言自体の解釈に懸かっている。裁判官の場合には、強い身分保障の下、懲戒は裁判によってのみ行われることとされているから、懲戒権者のし意的な解釈により表現の自由が事実上制約されるという事態は予想し難いし、違反行為に対し刑罰を科する規定も設けられていないことから、右のような限定列挙方式が採られていないものと解される。これらのことを考えると、裁判所法五二条一号の「積極的に政治運動をすること」の意味は、国家公務員法の「政治的行為」の意味に近いと解されるが、これと必ずしも同一ではないというのが相当である。

  以上のような見地に立って考えると、「積極的に政治運動をすること」とは、組織的、計画的又は継続的な政治上の活動を能動的に行う行為であって、裁判官の独立及び中立・公正を害するおそれがあるものが、これに該当すると解され、具体的行為の該当性を判断するに当たっては、その行為の内容、その行為の行われるに至った経緯、行われた場所等の客観的な事情のほか、その行為をした裁判官の意図等の主観的な事情をも総合的に考慮して決するのが相当である。

 

 2 憲法二一条一項の表現の自由は基本的人権のうちでもとりわけ重要なものであり、その保障は裁判官にも及び、裁判官も一市民として右自由を有することは当然である。しかし、右自由も、もとより絶対的なものではなく、憲法上の他の要請により制約を受けることがあるのであって、前記のような憲法上の特別な地位である裁判官の職にある者の言動については、おのずから一定の制約を免れないというべきである。裁判官に対し「積極的に政治運動をすること」を禁止することは、必然的に裁判官の表現の自由を一定範囲で制約することにはなるが、右制約が合理的で必要やむを得ない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるといわなければならず、右の禁止の目的が正当であって、その目的と禁止との間に合理的関連性があり、禁止により得られる利益と失われる利益との均衡を失するものでないなら、憲法二一条一項に違反しないというべきである。そして、右の禁止の目的は、前記のとおり、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにあり、この立法目的は、もとより正当である。また、裁判官が積極的に政治運動をすることは前記のように裁判官の独立及び中立・公正を害し、裁判に対する国民の信頼を損なうおそれが大きいから、積極的に政治運動をすることを禁止することと右の禁止目的との間に合理的な関連性があることは明らかである。さらに、裁判官が積極的に政治運動をすることを、これに内包される意見表明そのものの制約をねらいとしてではなく、その行動のもたらす弊害の防止をねらいとして禁止するときは、同時にそれにより意見表明の自由が制約されることにはなるが、それは単に行動の禁止に伴う限度での間接的、付随的な制約にすぎず、かつ、積極的に政治運動をすること以外の行為により意見を表明する自由までをも制約するものではない。他面、禁止により得られる利益は、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するなどというものであるから、得られる利益は失われる利益に比して更に重要なものというべきであり、その禁止は利益の均衡を失するものではない。そして、「積極的に政治運動をすること」という文言が文面上不明確であるともいえないことは、前記1に示したところから明らかである。したがって、裁判官が「積極的政治運動をすること」を禁止することは、もとより憲法二一条一項に違反するものではない。

 そうすると、抗告人の本件言動が裁判所法五二条一号所定の「積極的に政治運動をすること」に該当すると解される限り、これを禁止することは、憲法二一条一項に違反しないというべきである。

 抗告人は、諸外国において裁判官の政治的行為の自由は広く認められているなどと主張するが、本件においては、本件言動が我が国の裁判官の行為として裁判所法五二条一号に違反したとみられるか否か、その禁止が我が国の憲法二一条一項に違反するか否かが問題であり、歴史的経緯や社会的諸条件等を異にする諸外国における法規制やその運用の実態は、一つの参考資料とはなり得ても、これをそのまま我が国に当てはめることはできない。のみならず、どこの国においても裁判官の政治的な行動には程度の差こそあれ裁判の本質に基づく一定の限界を認めているのであって、裁判所法五二条一号が特異な規定であるとはいえない。なお、同号は、以上のような理由により憲法二一条一項に違反しないものである以上、市民的及び政治的権利に関する国際規約一九条に違反するといえないことも明らかである。

 

 五 本件言動の裁判所法五二条一号該当性

 特定の法律を制定するか否かの判断は、国の唯一の立法機関である国会の専権に属するものであるところ、裁判官が、一国民として法律の制定に反対の意見を持ち、その意見を裁判官の独立及び中立・公正を疑わしめない場において表明することまでも禁止されるものではないが、前記事実関係によれば、本件集会は、単なる討論集会ではなく、初めから本件法案を悪法と決め付け、これを廃案に追い込むことを目的とするという党派的な運動の一環として開催されたものであるから、そのような場で集会の趣旨に賛同するような言動をすることは、国会に対し立法行為を断念するよう圧力を掛ける行為であって、単なる個人の意見の表明の域を超えることは明らかである。このように、本件言動は、本件法案を廃案に追い込むことを目的として共同して行動している諸団体の組織的、計画的、継続的な反対運動を拡大、発展させ、右目的を達成させることを積極的に支援しこれを推進するものであり、裁判官の職にある者として厳に避けなければならない行為というべきであって、裁判所法五二条一号が禁止している「積極的に政治運動をすること」に該当するものといわざるを得ない。

  なお、例えば、裁判官が審議会の委員等として立法作業に関与し、賛成・反対の意見を述べる行為は、立法府や行政府の要請に基づき司法に携わる専門家の一人としてこれに協力する行為であって、もとより裁判所法五二条一号により禁止されるものではない。裁判官が職名を明らかにして論文、講義等において特定の立法の動きに反対である旨を述べることも、その発表の場所、方法等に照らし、それが特定の政治運動を支援するものではなく、一人の法律実務家ないし学識経験者としての個人的意見の表明にすぎないと認められる限りにおいては、同号により禁止されるものではないということができる。また、裁判所は、司法制度の運営に当たる立場にあり、規則制定権を有していることなどにかんがみると、司法制度に関する法令の制定改廃についても、一定の意見を述べることができるものと解される。しかし、本件において抗告人が行ったように、特定の法案を廃案に追い込むことを目的とする団体の党派的運動を積極的に支援するような行動をすることは、これらとは質の異なる行為であるといわざるを得ない。

 

 六 懲戒事由該当性及び懲戒の選択

 裁判所法四九条にいう「職務上の義務」は、裁判官が職務を遂行するに当たって遵守すべき義務に限られるものではなく、純然たる私的行為においても裁判官の職にあることに伴って負っている義務をも含むものと解され、積極的に政治運動をしてはならないという義務は、職務遂行中と否とを問わず裁判官の職にある限り遵守すべき義務であるから、右の「職務上の義務」に当たる。したがって、抗告人には同条所定の懲戒事由である職務上の義務違反があったということができる。

 

 そして、本件言動の内容、その後の抗告人の態度その他記録上認められる一切の

事情にかんがみれば、抗告人を戒告することが相当である。


 目次


【公務員の人権】

【政治活動の自由・自衛隊】

 

・最判平成7年7月6日 陸上自衛隊三二普通科連隊等(懲戒免職)事件

要旨

自衛官が、沖縄返還協定紛砕等を掲げて開催された政治的集会において、その制服や官職を利用してそれによる宣伝効果をねらい、不特定多数の者に対して要求書及び声明文を読み上げて、一方的かつ過激な表現をもって国の政策を公然と批判し、これに従わない態度を明らかにするとともに、自衛隊をひぼう中傷したなど判示の事実関係の下においては、右行為を懲戒処分の対象とすることは、憲法二一条に違反するものとはいえない。

 

判旨

 1 憲法二一条の保障する表現の自由は、民主主義社会における重要な基本的人権の一つとして特に尊重されなければならないものであり、これをみだりに制限することは許されないが、表現の自由といえども国民全体の共同の利益を擁護するため必要かつ合理的な制限を受けることは、憲法の許容するところであるというべきである。そして、行政の中立かつ適正な運営が確保され、これに対する国民の信頼が維持されることは、憲法の要請にかなうものであり、国民全体の共同の利益にほかならないものというべきところ、自衛隊の任務(法三条)及び組織の特性にかんがみると、隊員相互の信頼関係を保持し、厳正な規律の維持を図ることは、自衛隊の任務を適正に遂行するために必要不可欠であり、それによって、国民全体の共同の利益が確保されることになるというべきである。したがって、このような国民全体の利益を守るために、隊員の表現の自由に対して必要かつ合理的な制限を加えることは、憲法二一条の許容するところであるということができる。以上は、当審大法廷判決(最高裁昭和四四年(あ)第一五〇一号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁、最高裁昭和六一年(行ツ)第一一号平成四年七月一日大法廷判決・民集四六巻五号四三七頁)の趣旨に徴して明らかである。

 2 原審の適法に確定した事実関係によれば、上告人らが昭和四七年四月二七日に防衛庁正門付近において行った行為及び同月二八日にa公園で開催された「四・二八沖縄返還協定粉砕、自衛隊沖縄派兵阻止、日帝の釣魚台略奪阻止、入管二法粉砕中央総決起集会」において行った行為は、自衛官の制服や官職を利用し、それによる宣伝効果を狙ったものであるとの評価を免れない上、上告人らが不特定多数の者に対して読み上げた要求書及び声明の内容並びにその演説における上告人らの主張は、議会制民主主義の政治過程を経て決定された国の政策につき、「いままさに日本帝国主義が、再びアジア人民への圧迫と殺りくに乗り出さんとしている」「われわれは、もはやこの帝国主義支配者どもの横暴と圧政に、絶対に耐えることはできない」「帝国主義佐藤政府は、われらを侵略と人民弾圧のせん兵とせんがために、四次防と沖縄派兵を必死になって強行しようとしている」などの一方的かつ過激な表現をもって公然と批判するとともに、右政策決定を前提とする上司の命令に服しようとしない態度を明らかにし、あるいは、「自衛隊兵士は、兵営監獄の中で抑圧され、差別され、あらゆる屈従を強いられてきた」などとして自衛隊をひぼう中傷するものであるということができる。自衛官が、その制服や官職を利用し、それによる宣伝効果を狙って、国の政策を公然と批判し、これに従わない態度を明らかにするようなことは、本来政治的中立を保ちつつ一体となって国民全体に奉仕すべき責務を負う自衛隊の内部に深刻な政治的対立を醸成し、そのため職務の能率的で安定した運営が阻害され、ひいては議会制民主主義の政治過程を経て決定された国の政策の遂行にも重大な支障を来すおそれがあるものというべきである。しかも、前記のような表現をもって隊員が自衛隊を公然とひぼう中傷することは、隊員相互の信頼関係を破壊し、自衛隊の規律を乱すものといわざるを得ない。右の弊害を防止するためにこれを懲戒処分の対象とするときは、上告人らの表現の自由が一定の制約を受けることにはなるが、それは、隊員の身分を保有する限りにおいて、その職務を適正に遂行するために課せられた制約にすぎず、右の弊害の重大さと比較すれば、利益の均衡を失するものとはいえない。

 そうすると、上告人らの右各行為を懲戒処分の対象として、その表現の自由を制約することは、前記のような国民全体の利益を守るために必要かつ合理的な措置であるということができ、右制約が憲法二一条に違反するものといえないことは、前記各大法廷判決の趣旨に徴して明らかである。

 

 

【非管理・現業公務員】

【最判昭和55年12月23日 全逓プラカード事件】

要旨

郵便外務を職務とする一般職の国家公務員が、メーデーの集団示威行進に際し約三〇分間にわたり、「アメリカのベトナム侵略に加担する佐藤内閣打倒」と記載された横断幕を掲げて行進する行為は、特定の内閣に反対する政治的目的を有する文書を掲示したものとして人事院規則一四‐七第五項四号、第六項一三号に該当する。

 

判旨

法一〇二条一項、規則五項四号、六項一三号の規定の違背を理由として法八二条の規定により懲戒処分を行うことが憲法二一条に違反するものでないことは、当裁判所の判例(最高裁昭和四四年(あ)第一五〇一号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁)の趣旨に徴して明らかである。

・・・

そこで、進んで、本訴請求の当否について判断するに、被上告人はメーデーにお

ける集団示威行進に際し約三〇分間にわたり、「アメリカのベトナム侵略に加担す

る佐藤内閣打倒」と記載された横断幕を掲げて行進したというのであるから、被上

告人の右行為は特定の内閣に反対する政治的目的を有する文書を掲示したものとし

て規則五項四号、六項一三号に該当し法一〇二条一項に違反するものと解するのが

相当である。

 

 

【旭川地裁昭和43年3月25日・猿払事件第一審判決】

要旨

1 機械的労務の提供をするにとどまる現業公務員が勤務時間外に、国の施設を利用することなく、かつ職務を利用し公正を害する意図なしに行った人事院規則14―7第6項の行為で労働組合活動の一環として行われた行為に対し、国家公務員法110条1項19号(同法102条1項・人事院規則14―7違反の罪)が適用されるときは、これが適用される限度において同号は憲法21条・31条に違反する。

2 非管理職である現業公務員で、その職務内容が機械的労務の提供に止まる者が、勤務時間外に国の施設を利用することなく、かつ職務を利用しもしくはその公正を害する意図なしに行った人事院規則14―7第6項13号の行為で、かつ労働組合活動の一環として行われたと認められる所為に刑事罰を加えることをその適用範囲内に予定している国家公務員法110条1項19号は、このような行為に適用される限度において、行為に対する制裁としては、合理的にして最少限度の域を超えたものと認めざるをえないので、右公務員の所為に、国家公務員法110条1項19号が適用される限度において、同号は、憲法21条・31条に違反する。

3.非管理職である現業公務員であってその職務内容が機械的労務の提供にとどまるものが、勤務時間外に、国の施設を利用することなく、かつ職務を利用せず、またはその公正を害する意図なくして行った人事院規則6項13号の行為で、労働組合活動の一環として行われたと認められるものに刑罰を科することを定める国家公務員法110条1項19号は、このような行為に適用される限度において、行為に対する制載としては合理的にして必要最小限の域を超え、憲法21条、31条に違反する。

第3章 国民の権利及び義務 刑事施設被収容者の人権(1)最大判昭和58年6月22日・よど号ハイジャック新聞記事抹消事件等

  目次

【新聞紙閲読の自由】

【最大判昭和58年6月22日・よど号ハイジャック新聞記事抹消事件】

要旨

一 監獄法三条二項、監獄法施行規則八六条一項の各規定は、未決勾留により拘禁されている者の新聞紙、図書等の閲読の自由を監獄内の規律及び秩序維持のため制限する場合においては、具体的事情のもとにおいて当該閲読を許すことにより右の規律及び秩序の維持上放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性があると認められるときに限り、右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な範囲においてのみ閲読の自由の制限を許す旨を定めたものとして、憲法一三条、一九条、二一条に違反しない。

二 いわゆる公安事件関係の被拘禁者らによる拘置所内の規律及び秩序に対するかなり激しい侵害行為が当時相当頻繁に行われていたなど原判示の事情のもとにおいては、公安事件関係の被告人として未決勾留により拘禁されている者の購読する新聞紙の記事中いわゆる赤軍派学生によつて行われた航空機乗取り事件に関する部分について、拘置所長が原判示の期間その全部を抹消する措置をとつたことに違法があるとはいえない。

 

判旨

 未決勾留は、刑事訴訟法の規定に基づき、逃亡又は罪証隠滅の防止を目的として、被疑者又は被告人の居住を監獄内に限定するものであつて、右の勾留により拘禁された者は、その限度で身体的行動の自由を制限されるのみならず、前記逃亡又は罪証隠滅の防止の目的のために必要かつ合理的な範囲において、それ以外の行為の自由をも制限されることを免れないのであり、このことは、未決勾留そのものの予定するところでもある。また、監獄は、多数の被拘禁者を外部から隔離して収容する施設であり、右施設内でこれらの者を集団として管理するにあたつては、内部における規律及び秩序を維持し、その正常な状態を保持する必要があるから、この目的のために必要がある場合には、未決勾留によつて拘禁された者についても、この面からその者の身体的自由及びその他の行為の自由に一定の制限が加えられることは、やむをえないところというべきである(その制限が防禦権との関係で制約されることもありうるのは、もとより別論である。)。そして、この場合において、これらの自由に対する制限が必要かつ合理的なものとして是認されるかどうかは、右の目的のために制限が必要とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を較量して決せられるべきものである(最高裁昭和四〇年(オ)第一四二五号同四五年九月一六日大法廷判決・民集二四巻一〇号一四一〇頁)。

 本件において問題とされているのは、東京拘置所長のした本件新聞記事抹消処分による上告人らの新聞紙閲読の自由の制限が憲法に違反するかどうか、ということである。そこで検討するのに、およそ各人が、自由に、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成・発展させ、社会生活の中にこれを反映させていくうえにおいて欠くことのできないものであり、また、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも、必要なところである。それゆえ、これらの意見、知識、情報の伝達の媒体である新聞紙、図書等の閲読の自由が憲法上保障されるべきことは、思想及び良心の自由の不可侵を定めた憲法一九条の規定や、表現の自由を保障した憲法二一条の規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであり、また、すべて国民は個人として尊重される旨を定めた憲法一三条の規定の趣旨に沿うゆえんでもあると考えられる。しかしながら、このような閲読の自由は、生活のさまざまな場面にわたり、極めて広い範囲に及ぶものであつて、もとより上告人らの主張するようにその制限が絶対に許されないものとすることはできず、それぞれの場面において、これに優越する公共の利益のための必要から、一定の合理的制限を受けることがあることもやむをえないものといわなければならない。そしてこのことは、閲読の対象が新聞紙である場合でも例外ではない。この見地に立つて考えると、本件におけるように、未決勾留により監獄に拘禁されている者の新聞紙、図書等の閲読の自由についても、逃亡及び罪証隠滅の防止という勾留の目的のためのほか、前記のような監獄内の規律及び秩序の維持のために必要とされる場合にも、一定の制限を加えられることはやむをえないものとして承認しなければならない。しかしながら、未決勾留は、前記刑事司法上の目的のために必要やむをえない措置として一定の範囲で個人の自由を拘束するものであり、他方、これにより拘禁される者は、当該拘禁関係に伴う制約の範囲外においては、原則として一般市民としての自由を保障されるべき者であるから、監獄内の規律及び秩序の維持のためにこれら被拘禁者の新聞紙、図書等の閲読の自由を制限する場合においても、それは、右の目的を達するために真に必要と認められる限度にとどめられるべきものである。したがつて、右の制限が許されるためには、当該閲読を許すことにより右の規律及び秩序が害される一般的、抽象的なおそれがあるというだけでは足りず、被拘禁者の性向、行状、監獄内の管理、保安の状況、当該新聞紙、図書等の内容その他の具体的事情のもとにおいて、その閲読を許すことにより監獄内の規律及び秩序の維持上放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性があると認められることが必要であり、かつ、その場合においても、右の制限の程度は、右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべきものと解するのが相当である。

 ところで、監獄法三一条二項は、在監者に対する文書、図画の閲読の自由を制限することができる旨を定めるとともに、制限の具体的内容を命令に委任し、これに基づき監獄法施行規則八六条一項はその制限の要件を定め、更に所論の法務大臣訓令及び法務省矯正局長依命通達は、制限の範囲、方法を定めている。これらの規定を通覧すると、その文言上はかなりゆるやかな要件のもとで制限を可能としているようにみられるけれども、上に述べた要件及び範囲内でのみ閲読の制限を許す旨を定めたものと解するのが相当であり、かつ、そう解することも可能であるから、右法令等は、憲法に違反するものではないとしてその効力を承認することができるというべきである。

 

 

【喫煙の自由】

・最大判昭和45年9月16日・喫煙禁止違憲訴訟

要旨

監獄法施行規則九六条中未決勾留により拘禁された者に対し喫煙を禁止する規定は、憲法一三条に違反しない。

 

判旨

在監者に対する喫煙を禁止した監獄法施行規則九六条は、未決勾留により拘禁された者の自由および幸福追求についての基本的人権を侵害するものであつて、憲法一三条に違反するというにある。

 しかしながら、未決勾留は、刑事訴訟法に基づき、逃走または罪証隠滅の防止を目的として、被疑者または被告人の居住を監獄内に限定するものであるところ、監獄内においては、多数の被拘禁者を収容し、これを集団として管理するにあたり、その秩序を維持し、正常な状態を保持するよう配慮する必要がある。このためには、被拘禁者の身体の自由を拘束するだけでなく、右の目的に照らし、必要な限度において、被拘禁者のその他の自由に対し、合理的制限を加えることもやむをえないところである。

 そして、右の制限が必要かつ合理的なものであるかどうかは、制限の必要性の程度と制限される基本的人権の内容、これに加えられる具体的制限の態様との較量のうえに立つて決せられるべきものというべきである。

 これを本件についてみると、原判決(その引用する第一審判決を含む。)の確定するところによれば、監獄の現在の施設および管理態勢のもとにおいては、喫煙に伴う火気の使用に起因する火災発生のおそれが少なくなく、また、喫煙の自由を認めることにより通謀のおそれがあり、監獄内の秩序の維持にも支障をきたすものであるというのである。右事実によれば、喫煙を許すことにより、罪証隠滅のおそれがあり、また、火災発生の場合には被拘禁者の逃走が予想され、かくては、直接拘禁の本質的目的を達することができないことは明らかである。のみならず、被拘禁者の集団内における火災が人道上重大な結果を発生せしめることはいうまでもない。他面、煙草は生活必需品とまでは断じがたく、ある程度普及率の高い嗜好品にすぎず、喫煙の禁止は、煙草の愛好者に対しては相当の精神的苦痛を感ぜしめるとしても、それが人体に直接障害を与えるものではないのであり、かかる観点よりすれば、喫煙の自由は、憲法一三条の保障する基本的人権の一に含まれるとしても、あらゆる時、所において保障されなければならないものではない。したがつて、このような拘禁の目的と制限される基本的人権の内容、制限の必要性などの関係を総合考察すると、前記の喫煙禁止という程度の自由の制限は、必要かつ合理的なものであると解するのが相当であり、監獄法施行規則九六条中未決勾留により拘禁された者に対し喫煙を禁止する規定が憲法一三条に違反するものといえないことは明らかである。

 

 

・大阪地裁昭和33年8月20日

要旨

監獄収容関係はいわゆる特別権力関係に属するものであるが、がんらい拘禁は法律によつてのみ成立する関係であり、その法律による被拘禁者の基本的人権に対する制限は、監獄という営造物設定の目的に照し必要最小限度の合理的制限にとどめるべきものである。

 

【接見の自由】

・東京高裁平成7年8月10日

要旨

1 外部者がした接見申出に対する拘置所長の不許可処分が右外部者及び在監者の双方に対する処分であるとした上で国家賠償法1条の違法性が判断された事例

2 雑誌編集者と在監者との接見を不許可とした拘置所長の判断が、社会通念に照らして著しく妥当を欠くものといえず、裁量権の範囲を逸脱・濫用した違法があるとはいえないとされた事例

 

判旨

被勾留者の接見に関する法律の定めとして、(一)刑事訴訟法八〇条は、勾留されている被告人は弁護人等同法三九条一項に規定する者以外の者と法令の範囲内で接見することができると規定し、(二)監獄法四五条一項は、「在監者ニ接見センコトヲ請フ者アルトキハ之ヲ許ス」と、同条二項は、「受刑者及ビ監置ニ処セラレタル者ニハ其親族ニ非サル者卜接見ヲ為サシムルコトヲ得ス但特ニ必要アリト認ムル場合ハ此限ニ在ラス」と規定し、「受刑者及ビ監置ニ処セラレタル者」以外の在監者である被勾留者の接見につき許可制度を採用することを明らかにした上、広く被勾留者との接見を許すこととしている。

 右の各規定に前記1で説示したところを併せ考えると、被勾留者には一般市民としての自由が保障されるので、監獄法四五条は、被勾留者と外部の者との接見は原則としてこれを許すものとし、例外的に、これを許すと支障を来す場合があることを考慮して、(1)逃亡又は罪証隠滅のおそれが生ずる場合にはこれを防止するために必要かつ合理的な範囲において右の接見に制限を加えることができ、また、(2)これを許すと監獄内の規律又は秩序の維持上放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性が認められる場合には、右の障害発生の防止のために必要な限度で右の接見に合理的な制限を加えることができる、としているものと解される。

本件各接見不許可処分の適否について検討するに、拘置所という特殊な集団的拘禁施設の特質を考慮すると、死刑判決を受けた被勾留者と外部者との接見を許可するか否かは、拘置所内の実情に通暁し、直接その衝にあたる拘置所長による個々の場合の具体的状況のもとにおける裁量的判断にまつべき点が少なくないから、障害発生の相当の蓋然性があるとした拘置所長の認定に合理的な根拠があり、その防止のため接見の制限が必要であるとした判断に合理的が認められる限り、拘置所長の右処分は適法として是認すべきものと解するのが相当である。

 

第3章 国民の権利及び義務 刑事施設被収容者の人権(2)

  目次

【信書の発受の自由】

・受刑者の信書発信の自由 最判平成18年3月23日

要旨

1 監獄法46条2項は,具体的事情の下で,受刑者のその親族でない者との間の信書の発受を許すことにより監獄内の規律及び秩序の維持,受刑者の身柄の確保,受刑者の改善,更生の点において放置することのできない程度の障害が生ずる相当のがい然性があると認められるときに限り,この障害の発生防止のために必要かつ合理的な範囲においてのみ上記信書の発受の制限が許されることを定めたものとして,憲法21条,14条1項に違反しない。

2 刑務所長が受刑者の新聞社あての信書の発信を不許可としたことは,刑務所長が,具体的事情の下で,上記信書の発信を許すことにより刑務所内の規律及び秩序の維持,受刑者の身柄の確保,受刑者の改善,更生の点において放置することのできない程度の障害が生ずる相当のがい然性があるかどうかについて考慮していないこと,上記信書が,国会議員に対して送付済みの請願書等の取材等を求める旨の内容を記載したものであり,その発信を許すことによって刑務所内に上記の障害が生ずる相当のがい然性があるということができないことなど判示の事情の下においては,裁量権の範囲を逸脱し,又は裁量権を濫用したものとして,国家賠償法1条1項の適用上違法となる。

 

 

判旨

監獄法46条2項の解釈上,受刑者のその親族でない者との間の信書の発受は,その必要性が広く認められ,前記第1の要件及び範囲でのみその制限が許されると解されるところ,前記事実関係によれば,熊本刑務所長は,受刑者のその親族でない者との間の信書の発受は特に必要があると認められる場合に限って許されるべきものであると解した上で,本件信書の発信については,権利救済又は不服申立て等のためのものであるとは認められず,その必要性も認められないと判断して,これを不許可としたというのであるから,同刑務所長が,上告人の性向,行状,熊本刑務所内の管理,保安の状況,本件信書の内容その他の具体的事情の下で,上告人の本件信書の発信を許すことにより,同刑務所内の規律及び秩序の維持,上告人を含めた受刑者の身柄の確保,上告人を含めた受刑者の改善,更生の点において放置することのできない程度の障害が生ずる相当のがい然性があるかどうかについて考慮しないで,本件信書の発信を不許可としたことは明らかというべきである。しかも,前記事実関係によれば,本件信書は,国会議員に対して送付済みの本件請願書等の取材,調査及び報道を求める旨の内容を記載したC新聞社あてのものであったというのであるから,本件信書の発信を許すことによって熊本刑務所内に上記の障害が生ずる相当のがい然性があるということができないことも明らかというべきである。そうすると,熊本刑務所長の本件信書の発信の不許可は,裁量権の範囲を逸脱し,又は裁量権を濫用したものとして監獄法46条2項の規定の適用上違法であるのみならず,国家賠償法1条1項の規定の適用上も違法というべきである。これと異なる原審の判断には,監獄法46条2項及び国家賠償法1条1項の解釈適用を誤った違法があり,この違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである。これと同旨をいう論旨は理由がある。

そして,熊本刑務所長は,前記のとおり,本件信書の発信によって生ずる障害の有無を何ら考慮することなく本件信書の発信を不許可としたのであるから,熊本刑務所長に過失があることも明らかというべきである。

 

 

【死刑確定者の信書発信の自由 最判平成11年2月26日】

要旨

東京拘置所に収容されている死刑確定者が新聞社にあてて投稿文を発送することの許可を求めたのに対し、東京拘置所長が、死刑確定者の心情の安定にも十分配慮して、死刑の執行に至るまでの間、社会から厳重に隔離してその身柄を確保するとともに、拘置所内の規律及び秩序が放置することができない程度に害されることがないようにするために、これを制限することが必要かつ合理的であるか否かを判断して不許可とした処分には、原判示の事実関係の下においては、裁量の範囲逸脱した違法があるとはいえず、右処分は適法である。

 

 

判旨

死刑確定者の拘禁の趣旨、目的、特質にかんがみれば、監獄法四六条一項に基づく死刑確定者の信書の発送の許否は、死刑確定者の心情の安定にも十分配慮して、死刑の執行に至るまでの間、社会から厳重に隔離してその身柄を確保するとともに、拘置所内の規律及び秩序が放置することができない程度に害されることがないようにするために、これを制限することが必要かつ合理的であるか否かを判断して決定すべきものであり、具体的場合における右判断は拘置所長の裁量にゆだねられているものと解すべきである。原審の適法に確定したところによれば、被上告人東京拘置所長は東京拘置所の採用している準則に基づいて右裁量権を行使して本件発信不許可処分をしたというのであるが、同準則は許否の判断を行う上での一般的な取扱いを内部的な基準として定めたものであって、具体的な信書の発送の許否は、前記のとおり、監獄法四六条一項の規定に基づき、その制限が必要かつ合理的であるか否かの判断によって決定されるものであり、本件においてもそのような判断がされたものと解される。そして、原審の適法に確定した事実関係の下においては、同被上告人のした判断に右裁量の範囲を逸脱した違法があるとはいえないから、本件発信不許可処分は適法なものというべきである。

 

河合裁判所反対意見

 1 他人に対して自己の意思や意見、感情を表明し、伝達することは、人として最も基本的な欲求の一つであって、その手段としての発信の自由は、憲法の保障する基本的人権に含まれ、少なくともこれに近接して由来する権利である。死刑確定者といえども、刑の執行を受けるまでは、人としての存在を否定されるものではないから、基本的にはこの権利を有するものとしなければならない。もとより、この権利も絶対のものではなく、制限される場合もあり得るが、それは一定の必要性・合理性が存する場合に限られるべきである。

 すなわち、死刑確定者の発信については、その権利の性質上、原則は自由であり、一定の必要性・合理性が認められる場合にのみ例外的に制限されるものと解すべきであって、監獄法四六条及び五〇条の規定も、この趣旨に解されることは明らかである。

しかるに、東拘基準は、この原則と例外を逆転し、わずかの場合を除き、死刑確定者の発信を、それを制限することの具体的必要性や合理性を問うことなく、一般的に許さないとしているのであって、右の権利の性質に矛盾し、法の規定にも反するものといわねばならない。

 

 

 しかし、拘置所長の右裁量権の行使が合理的なものでなければならないことは、多言するまでもない。したがって、拘置所長が、拘禁の目的が阻害され、あるいは監獄内の規律・秩序が害されることを理由に、右裁量権の行使として、死刑確定者の発信を制限する場合でも、そのような障害発生の一般的・抽象的なおそれがあるというだけでは足りず、対象たる文書の内容、あて先、被拘禁者の性向や行状その他の関係する具体的事情の下において、その発信を許すことにより拘禁の目的の遂行又は監獄内の規律・秩序の保持上放置することのできない障害が生ずる相当の蓋然性があることを具体的に認定することを要し、かつ、その認定に合理的根拠が認められなければならない。さらに、その場合においても、制限の程度・内容は、拘置所長がその障害発生の防止のために必要と判断し、かつ、その判断に合理性が認められる範囲にとどまるべきものである(注)。

 

 4 拘置所長の右認定・判断は、本来個々の文書ごとにされるべきものであるが、対象たる文書の性質等によっては、ある程度の類型的認定・判断が可能なものもあるであろう。したがって、そのような文書につき、右の類型的な認定・判断に基づいてあらかじめ取扱基準を設けておき、発信の許可を求められた文書が右類型に属する場合には、その基準によってこれを取り扱うという措置も、まったく許されないものとはいえない。しかし、そのような取扱いが拘置所長の裁量権の合理的行使として是認されるためには、右3で述べた障害発生の相当の蓋然性があることの具体的認定とその認定の合理的根拠の存在、並びに、その基準の定める程度・内容の制限が必要であるとの判断とその判断の合理性が、当該類型的取扱いが対象とする死刑確定者の文書のすべてを通じて、認められなければならない。

 5 東拘基準は、死刑確定者が発信を求める文書のうち、前述の除外文書以外の一般文書のすべてを対象として、これを許さないとするものである。 右に述べたところからすれば、そのような類型的取扱いが拘置所長の裁量権の行使として是認されるためには、(イ)拘置所長が、「死刑確定者に一般文書の発出を許せば、個々の文書の内容やあて先、その発信を求める理由や動機、個々の死刑確定者の個性や気質、日常の行状など、具体的事情の如何を問わず、常に、拘禁の目的の遂行又は監獄内規律・秩序の保持上放置できない障害が生ずる相当の蓋然性がある」と認定したこと、(ロ)その拘置所長の認定に合理的な根拠があると認められること、(ハ)拘置所長が、「そのような障害発生を防止するためには、死刑確定者の一般文書の発出をすべて不許可とする措置が必要である」と判断したこと、及び、(ニ)拘置所長のその判断に合理性が認められること、という要件がそろわなければならない。

しかし、東拘基準を設定し、あるいはこれを維持するに当たり、東京拘置所長において、右(イ)及び(ハ)の認定・判断をしたか否かは明らかでなく、たとえそのような認定・判断をしていたとしても、それについて右(ロ)及び(ニ)の要件が満たされているとはとうてい認めることができない。本件記録によっても、これらの諸点について具体的な主張・立証は全くされておらず、原判決も何らの認定・判断を示していない。

したがって、東拘基準による類型的取扱いを拘置所長の合理的裁量権の行使として、是認することはできない。

 四 被上告人東京拘置所長は、本件文書の発出の許否を決するにあたっては、本来、前記三3の認定・判断をするべきであった。

 しかるに、そのような具体的認定・判断をしたとの事実は全く主張・立証されておらず、原審もまた確定していないところであって、同被上告人は単に東拘基準を適用したのみで本件処分をしたと解するほかはない。そして、東拘基準及びこれに基づく類型的取扱いを是認できないことは右に述べたとおりであるから、結局、上告人の本件文書の発出を許可しなかった本件処分は、何らの合理的理由なしに上告人の発信の権利を制限したものとして、違法といわざるを得ない。

 したがって、これを適法とした原判決は法律の適用を誤ったものであるから、その余の論旨について判断するまでもなく、これを破棄し、更に審理をさせるため本件を原審に差し戻すべきものである。

 

東京高裁平成8年10月30日

要旨

死刑確定者が戸外運動の制限につき救済を求めるために国際連合人権委員会

あてに発信しようとした書面について、拘置所長がした発信不許可処分が違

法であるとして国家賠償が認容された事例

 

 

判旨

死刑確定者といえども、憲法上認められる基本的人権が死刑確定者の拘禁の目的、性格及び特殊性から必要かつ合理的な根拠の認められる範囲を超えて制限される理由はないから、被控訴人所長がする一般的取扱基準の適用は、死刑確定者の拘禁の目的等を達成する見地から認められる合理的な裁量権の行使でなければならず、右一般的取扱基準を適用することにつき合理性が認められない場合には、裁量権の行使は濫用となるというべきである。

特に死刑確定者のする公的機関に対する自己又は自己を含めた同じ立場の者の権利救済を内容とする通信については、その表現行為の趣旨がより基本的な人権の享有につながるものであるから、その制限は慎重な配慮をもってされるべきである。

以上の観点からすると、とくに、発信の内容が発信者の権利救済を目的とし、かつ発信の宛先が官公署又はこれに準ずる権利救済の機関であり、その機関が権利救済の機関として一定の権威と実績を有する場合については、本人の権利保護のために必要かつやむを得ないと認められる場合であるか否かという要件のみを適用して、結果として被控訴人所長が発信者の権利救済の実効性等についての最終的判断を先取りすることとなる取扱いは相当でなく、改めて、死刑確定者の拘禁の目的等に照らして合理的な制限に該当するか否かについて通達の趣旨に基づく判断をして発信の許否を決定する必要があるものと考える。

そうすると、控訴人の第一申請に係る発信は、戸外運動の制限に関し、控訴人及び他の在監者の人権救済を目的とするものであり、その宛先は、我が国も加盟する国連の一機関であって権利救済の機関として権威と実績を有し、広い意味において我が国の官公署に準ずる機関と見ることもできるから、これを許可することによって、通達が想定するような、(1)本人の身柄の確保を阻害し又は社会一般に不安の念を抱かせるおれ、(2)本人の心情の安定を害するおそれ、あるいは(3)その他の施設の管理運営上の支障の発生のおそれが生じるなどの弊害を想定することは困難であり、被控訴人所長が、一般的取扱基準(5)を適用し、このような内容の発信は本人の権利保護のために必要かつやむを得ないと認められないとしてこれを不許可とすることは、前判示のような死刑確定者の拘禁の目的等に照らして合理的な制限に当たるということはできず、被控訴人所長の裁量権の範囲を超え濫用になると考えざるを得ない。

第3章 国民の権利及び義務 外国人の人権(2)

  目次

【法の下の平等】

 

・最判平成4年4月28日 台湾人元日本兵戦死傷補償請求事件

要旨

戦傷病者戦没者遺族等援護法附則2項および恩給法9条1項3号のもとで、第二次大戦下において戦死傷し、日本国と中華民国との間の平和条約の発効により日本国籍を喪失した台湾人およびその遺族らが右各法による給付を受けることができないことは、合理的な根拠があり、憲法14条に違反しない。

 

判旨

 上告人らが主張するような戦争犠牲ないし戦争損害は、国の存亡に係わる非常事態の下では、国民の等しく受忍しなければならなかったところであって、これに対する補償は憲法の全く予想しないところというべきであり、右のような戦争犠牲ないし戦争損害に対しては単に政策的見地からの配慮が考えられるにすぎないものと解すべきことは、当裁判所の判例の趣旨に徴し明らかである(昭和四〇年(オ)第四一七号同四三年一一月二七日大法廷判決・民集二二巻一二号二八〇八頁参照)。したがって、憲法二九条三項等の規定を適用してその補償を求める上告人らの主張は、右規定の意義・性質等について判断するまでもなく、その前提を欠くに帰するというべきであって、所論の点に関する原審の判断は、結論において是認することができる。論旨は、採用することができない。

 論旨は、昭和二七年四月三〇日に施行された戦傷病者戦没者遺族等援護法(同年法律第一二七号。以下「援護法」という。)により、軍人軍属等であった者又はこれらの者の遺族に対しては障害年金・遺族年金等が支給され、また、昭和二八年八月一日施行の恩給法の一部を改正する法律(同年法律第一五五号。以下「恩給法改正法」という。)により、旧軍人等又はこれらの者の遺族に対する恩給の支給が復活したところ、援護法附則二項は、戸籍法の適用を受けない者については、当分の間、この法律を適用しない旨を定め、また、恩給法九条一項三号は、日本国籍を失ったときは年金たる恩給を受ける権利は消滅するものと定めており(以下、これらを「本件国籍条項」という。)、台湾住民である軍人軍属に対して本件国籍条項の適用を除外していないことから、台湾住民である上告人らは援護法又は恩給法による給付を受けることができないこととされているが、これはもと日本国籍を有していた台湾住民である軍人軍属を不当に差別するもので憲法一四条に違反する、というのである。

 そこで検討するのに、憲法一四条一項は法の下の平等を定めているが、右規定は合理的理由のない差別を禁止する趣旨のものであって、各人に存する経済的、社会的その他種々の事実関係上の差異を理由としてその法的取扱いに区別を設けることは、その区別が合理性を有する限り、何ら右規定に違反するものでないことは、当裁判所の判例の趣旨とするところである(昭和三七年(あ)第九二七号同三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五七九頁、同昭和三七年(オ)第一四七二号同三九年五月二七日大法廷判決・民集一八巻四号六七六頁等参照)。ところで、我が国は、昭和二七年四月二八日に発効した日本国との平和条約により、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄し(二条)、この地域に関し、日本国及びその国民に対する右地域の施政を行っている当局及び住民の請求権の処理は、日本国と右当局との間の特別取極の主題とするものとされ(四条)、また、我が国は、右条約の署名国でない国と、右条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結することが予定された(二六条)。そして、我が国は、中華民国との間で日本国と中華民国との間の平和条約(以下「日華平和条約」という。)を締結し、同条約は昭和二七年八月五日に効力を生じたところ、同条約三条は、日本国及びその国民に対する中華民国の当局及び台湾住民の請求権の処理は、日本国政府と中華民国政府との間の特別取極の主題とする旨を定めている。また、台湾住民は、同条約により、日本の国籍を喪失したものと解される(最高裁昭和三三年(あ)第二一〇九号同三七年一二月五日大法廷判決・刑集一六巻一二号一六六一頁参照)。その間、昭和二七年四月三〇日に援護法が制定され、その附則二項は、戸籍法の適用を受けない者については、当分の間、援護法を適用しない旨を規定したが、その趣旨は、同法上、援護対象者は日本国籍を有する者に限定され、日本国籍の喪失をもって権利消滅事由と定められているところ、同法制定当時、台湾住民等の国籍の帰属が分明でなかったことから、これらの人々に同法の適用がないことを明らかにすることにあったものと解される。その後、昭和二八年八月一日施行の恩給法改正法により、旧軍人等及びこれらの者の遺族に対する恩給の支給が復活したが、その時点においては、台湾住民は日本の国籍を喪失していたから、恩給法九条一項三号の規定の趣旨に照らし、恩給の受給資格を有しないこととなったものである。以上の経緯に照らせば、台湾住民である軍人軍属が援護法及び恩給法の適用から除外されたのは、台湾住民の請求権の処理は日本国との平和条約及び日華平和条約により日本国政府と中華民国政府との特別取極の主題とされたことから、台湾住民である軍人軍属に対する補償問題もまた両国政府の外交交渉によって解決されることが予定されたことに基づくものと解されるのであり、そのことには十分な合理的根拠があるものというべきである。したがって、本件国籍条項により、日本の国籍を有する軍人軍属と台湾住民である軍人軍属との間に差別が生じているとしても、それは右のような根拠に基づくものである以上、本件国籍条項は、憲法一四条に関する前記大法廷判例の趣旨に徴して同条に違反するものとはいえない。

 

 

・最判平成13年4月5日 在日韓国人元日本軍属障害年金訴訟

要旨

財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(昭和40年条約第27号)の締結後,いわゆる在日韓国人の軍人軍属に対して援護の措置を講ずることなく戦傷病者戦没者遺族等援護法附則2項を存置していたことは,憲法14条1項に違反するということはできない。

 

判旨

 1 戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下「援護法」という。)は,軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し,国家補償の精神に基づき,軍人軍属等であった者又はこれらの者の遺族を援護することを目的として制定されたものであり(1条),軍人軍属であった者の在職期間内における公務上の負傷又は疾病に対しては,所定の要件を満たす限りにおいて障害年金等を支給する旨規定しているが,軍人軍属であった者であって,7条1項に規定する程度の障害の状態になった日において日本の国籍を有しないか,又はその日以後昭和27年3月31日以前に日本の国籍を失ったものには障害年金等を支給しない旨規定し(11条2号),また,障害年金を受ける権利を有する者が日本の国籍を失ったときは,当該障害年金を受ける権利は消滅する旨規定し(14条1項2号),さらに,「戸籍法(昭和22年法律第224号)の適用を受けない者については,当分の間,この法律を適用しない。」旨規定している(附則2項)

 2 憲法14条1項は,法の下の平等を定めているが,この規定は,合理的理由のない差別を禁止する趣旨のものであって,各人に存する経済的,社会的その他種々の事実関係上の差異を理由としてその法的取扱いに区別を設けることは,その区別が合理性を有する限り,何らこの規定に違反するものでないことは,当裁判所の判例の趣旨とするところである(最高裁昭和37年(あ)第927号同39年11月18日大法廷判決・刑集18巻9号579頁,最高裁昭和37年(オ)第1472号同39年5月27日大法廷判決・民集18巻4号676頁等参照)。

 ところで,我が国は,昭和27年4月28日に発効した日本国との平和条約(以下「平和条約」という。)により,朝鮮の独立を承認して,済州島,巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄し(2条),これらの地域の施政を行っている当局及びそこの住民の日本国における財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は,日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とするものとされた(4条)。そして,平和条約の発効により,それまで日本の国内法上で朝鮮人としての法的地位を有していた人すなわち朝鮮戸籍令の適用を受け朝鮮戸籍に登載されるべき地位にあった人は,朝鮮国籍を取得し,日本国籍を喪失したものと解される(最高裁昭和30年(オ)第890号同36年4月5日大法廷判決・民集15巻4号657頁,最高裁昭和38年(オ)第1343号同40年6月4日第二小法廷判決・民集19巻4号898頁参照)。平和条約発効直後の昭和27年4月30日に援護法が公布施行され,同月1日にさかのぼって適用されたが,前記のとおり,援護法上,援護対象者は日本国籍を有する者に限定され,日本国籍の喪失をもって権利消滅事由と定められるとともに,援護法附則2項が設けられた。その趣旨は,援護法制定当時,それまで日本の国内法上で朝鮮人及び台湾人としての法的地位を有していた人の国籍の帰属が分明でなかったことなどから,これらの人々に援護法の適用がないことを明らかにすることにあったものと解される。

 以上の経緯に照らせば,それまで日本の国内法上で朝鮮人としての法的地位を有していた軍人軍属が援護法の適用から除外されたのは,これらの人々の請求権の処理は平和条約により日本国政府と朝鮮の施政当局との特別取極の主題とされたことから,上記軍人軍属に対する補償問題もまた両政府間の外交交渉によって解決されることが予定されたことに基づくものと解されるのであり,そのことには十分な合理的根拠があるものというべきである。したがって,援護法附則2項により,日本の国籍を有する軍人軍属と平和条約の発効により日本の国籍を喪失し朝鮮国籍を取得することとなった軍人軍属との間に区別が生じたとしても,それは以上のような根拠に基づくものである以上,援護法附則2項は,憲法14条1項に関する前記各大法廷判決の趣旨に徴して同項に違反するものとはいえない(最高裁昭和60年(オ)第1427号平成4年4月28日第三小法廷判決・裁判集民事164号295頁参照)。

 3 日本国と大韓民国との間において,平和条約に基づく特別取極に相当するものとして,昭和40年6月22日,財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(昭和40年条約第27号。以下「日韓請求権協定」という。)が締結された。そして,その2条1項において,両締約国及びその国民の財産,権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が,平和条約4条(a)に規定されたものを含めて,完全かつ最終的に解決されたこととなることが確認された。また,日韓請求権協定2条3項において,同条2項の規定に従うことを条件として,一方の締約国及びその国民の財産,権利及び利益であってこの協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置並びに一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって同日以前に生じた事由に基づくものに関しては,いかなる主張もすることができないものとする旨規定された。他方で,同条2項(a)において,この協定は,一方の締約国の国民で1947年8月15日からこの協定の署名の日までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産,権利及び利益に影響を及ぼすものではない旨規定された。なお,財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定についての合意された議事録(以下「合意議事録」という。)には,日韓請求権協定2条に関し,「財産,権利及び利益」とは,法律上の根拠に基づき財産的価値を認められるすべての種類の実体的権利をいうことが了解された旨記載されている。日韓請求権協定の締結後,日本国政府は,同協定2条2項(a)に該当する在日韓国人の軍人軍属の補償請求については,これらの人々が援護法の適用から除外されている以上,法律上の根拠を有する実体的権利ではないから,同項にいう「財産,権利及び利益」には当たらず,同条3項により大韓民国政府の外交保護権は放棄されており,同協定により解決済みであるとの立場をとり,他方で,大韓民国政府は,在日韓国人戦傷者の補償請求権は日韓請求権協定の解決対象には含まれておらず,同協定2条2項(a)にいう「財産,権利及び利益」に該当するものと解釈しており,同項(a)に該当する在日韓国人の軍人軍属については,大韓民国の国内法による補償の対象から除外した。そのため,これらの在日韓国人の軍人軍属は,その公務上の負傷又は疾病等につき日本国からも大韓民国からも何らの補償もされないまま推移した。その結果として,日本人の軍人軍属と在日韓国人の軍人軍属との間に公務上の負傷又は疾病等に対する補償につき差別状態が生じていたことは否めない。上記のとおり援護法附則2項が援護法の制定当時においては十分な合理的根拠を有していたとしても,日韓請求権協定の締結後,上記のような差別状態が生じていたにもかかわらず,立法府が在日韓国人の軍人軍属に対して援護の措置を講ずることなく援護法附則2項を存置してきたことについては,そのことが憲法14条1項に違反しないか否かが更に検討されなければならない。

 ところで,軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡のような戦争犠牲ないし戦争損害に対する補償は,憲法の予想しないところというべきであり,その補償の要否及び在り方は,事柄の性質上,財政,経済,社会政策等の国政全般にわたった総合的政策判断を待って初めて決し得るものであって,これについては,国家財政,社会経済,戦争によって国民が被った被害の内容,程度等に関する資料を基礎とする立法府の裁量的判断にゆだねられたものと解される(最高裁昭和40年(オ)第417号同43年11月27日大法廷判決・民集22巻12号2808頁,最高裁昭和58年(オ)第1337号同62年6月26日第二小法廷判決・裁判集民事151号147頁,最高裁平成5年(オ)第1751号同9年3月13日第一小法廷判決・民集51巻3号1233頁参照)。また,以上のような日韓請求権協定の締結後の経過や国際情勢の推移等にかんがみると,援護法附則2項を廃止することをも含めて在日韓国人の軍人軍属に対して援護の措置を講ずることとするか否かは,大韓民国やその他の国々との間の高度な政治,外交上の問題でもあるということができ,その決定に当たっては,変動する国際情勢,国内の政治的又は社会的諸事情等をも踏まえた複雑かつ高度に政策的な考慮と判断が要求されるところといわなければならない。これらのことからすれば,日韓請求権協定の締結後,上告人らを含む在日韓国人の軍人軍属に対して援護の措置を講ずることなく援護法附則2項を存置したことは,いまだ上記のような複雑かつ高度に政策的な考慮と判断の上に立って行使されるべき立法府の裁量の範囲を著しく逸脱したものとまでいうことはできず,本件各処分当時において憲法14条1項に違反するに至っていたものとすることはできない。

 

 

・東京高裁平成14年1月23日

要旨

ゴルフクラブへの外国人の入会を制限する旨の理事会決議は民法九〇条に違反するものではないから同決議に基づいて在日韓国人のゴルフクラブへの入会を拒否したことが違法ではないとされた事例

 

私人である社団ないし団体には結社の自由が保障されているから、新たな構成員の加入条件は、法律その他による特別の制限がない限り、原則として自由にこれを決定することができるものであって、結社の自由を制限してまでも相手方の平等の権利を保護しなければならないほどに、相手方の平等の権利に対して重大な侵害がされ、その侵害の態様、程度が憲法の規定の趣旨に照らして社会的に許容しうる限界を超えるといえるような極めて例外的な場合に限り、新たな構成員の加入を拒否する行為が民法90条により無効となり、民法709条の不法行為にあたるものというべきであるところ、私的な社団としてのゴルフクラブの構成員の加入を国籍によって制限することは、そのような例外的な場合に該当するものということはできない。

外国人の人権(3) ・最判平成5年2月26日 定住外国人の国政選挙に関する選挙権・最判平成7年2月28日 定住外国人地方選挙権訴訟

 

【選挙権】

・定住外国人の国政選挙に関する選挙権・最判平成5年2月26日 

要旨

国会議員の選挙権を有する者を日本国民に限っている公職選挙法九条一項の規定は、憲法一五条、一四条に違反しない。

 

判旨

 国会議員の選挙権を有する者を日本国民に限っている公職選挙法九条一項の規定

が憲法一五条、一四条の規定に違反するものでないことは、最高裁昭和五〇年(行

ツ)第一二〇号同五三年一〇月四日大法廷判決・民集三二巻七号一二三三頁の趣旨

に徴して明らかであり、これと同旨の原審の判断は、正当として是認することがで

きる。

 

・定住外国人の国政選挙における被選挙権・最判平成10年3年13日

要旨

国会議員の被選挙権を有する者を日本国民に限っている公職選挙法一〇条一項と憲法一五条、市民的及び政治的権利に関する国際規約二五条に違反しない。

 

判旨

国会議員の被選挙権を有する者を日本国民に限っている公職選挙法一〇条一項、これを前提として立候補届出等に当たって戸籍の謄本又は抄本の添付を要求する公職選挙法(平成六年法律第二号による改正前のもの)八六条四項、八六条の二第二項七号、公職選挙法施行令(平成六年政令第三六九号による改正前のもの)八八条五項、八九条の二第三項二号の各規定及びこれらの規定を上告人らに適用することが憲法一五条に違反するものでないことは、最高裁昭和五〇年(行ツ)第一二〇号同五三年一〇月四日大法廷判決・民集三二巻七号一二二三頁の趣旨に徴して明らかであり(最高裁平成四年(オ)第一九二八号同五年二月二六日第二小法廷判決・裁判集民事一六号下五七九頁参照)、これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。また、前記各規定が市民的及び政治的権利に関する国際規約(昭和五四年条約第七号)二五条に違反するものでないとした原審の判断も、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。

 

 

 

 

【外国人の地方参政権】

・最判平成7年2月28日 定住外国人地方選挙権訴訟

要旨

日本国民たる住民に限り地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権を有するものとした地方自治法一一条、一八条、公職選挙法九条二項は、憲法一五条一項、九三条二項に違反しない。

 

判旨

 憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、我が国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものである。そこで、憲法一五条一項にいう公務員を選定罷免する権利の保障が我が国に在留する外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かについて考えると、憲法の右規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものにほかならないところ、主権が「日本国民」に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。そして、地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙するものと規定しているのであるが、前記の国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法九三条二項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、右規定は、我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない。以上のように解すべきことは、当裁判所大法廷判決(最高裁昭和三五年(オ)第五七九号同年一二月一四日判決・民集一四巻一四号三〇三七頁、最高裁昭和五〇年(行ツ)第一二〇号同五三年一〇月四日判決・民集三二巻七号一二二三頁)の趣旨に徴して明らかである。

 このように、憲法九三条二項は、我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえないが、憲法第八章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性に鑑み、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。しかしながら、右のような措置を講ずるか否かは、専ら国の立法政策にかかわる事柄であって、このような措置を講じないからといって違憲の問題を生ずるものではない。以上のように解すべきことは、当裁判所大法廷判決(前掲昭和三五年一二月一四日判決、最高裁昭和三七年(あ)第九〇〇号同三八年三月二七日判決・刑集一七巻二号一二一頁、最高裁昭和四九年(行ツ)第七五号同五一年四月一四日判決・民集三〇巻三号二二三頁、最高裁昭和五四年(行ツ)第六五号同五八年四月二七日判決・民集三七巻三号三四五頁)の趣旨に徴して明らかである。

 以上検討したところによれば、地方公共団体の長及びその議会の議員の選挙の権利を日本国民たる住民に限るものとした地方自治法一一条、一八条、公職選挙法九条二項の各規定が憲法一五条一項、九三条二項に違反するものということはできずその他本件各決定を維持すべきものとした原審の判断に憲法の右各規定の解釈の誤りがあるということもできない



 

・定住外国人の住民投票権 最判平成14年9月27日

要旨

「御嵩町における産業廃棄物処理施設の設置についての住民投票に関する条例」(平成9年御嵩町条例1号)が投票資格者を日本国民たる住民に限定したことが憲法14条1項、21条1項に違反しないことは、先例の趣旨に照らして明らかである。」

 

判旨

御嵩町における産業廃棄物処理施設の設置についての住民投票に関する条例(平成九年一月御嵩町条例第一号)が投票の資格を有する者を日本国民たる住民に限るとしたことが憲法一四条一項、二一条一項に違反する旨をいう部分が理由がないことは、当裁判所の判例(最高裁昭和五〇年(行ツ)第一二〇号五三年一〇月四日大法廷判決・民集三二巻七号一二二三頁)の趣旨に照らして明らかである(最高裁平成五年(行ツ)第一六三号同七年二月二八日第三小法廷判決・民集四九巻二号六三九頁参照)。



外国人の人権(4-1)公務就任権

  目次

【公務就任権】

・最大判平成17年1月26日 外国人公務員東京都管理職選考受験訴訟

要旨

1 地方公共団体が,公権力の行使に当たる行為を行うことなどを職務とする地方公務員の職とこれに昇任するのに必要な職務経験を積むために経るべき職とを包含する一体的な管理職の任用制度を構築した上で,日本国民である職員に限って管理職に昇任することができることとする措置を執ることは,労働基準法3条,憲法14条1項に違反しない。

2 東京都が管理職に昇任すれば公権力の行使に当たる行為を行うことなどを職務とする地方公務員に就任することがあることを当然の前提として任用管理を行う管理職の任用制度を設けていたなど判示の事情の下では,職員が管理職に昇任するための資格要件として日本の国籍を有することを定めた東京都の措置は,労働基準法3条,憲法14条1項に違反しない。

 

判旨

 (1) 地方公務員法は,一般職の地方公務員(以下「職員」という。)に本邦に在留する外国人(以下「在留外国人」という。)を任命することができるかどうかについて明文の規定を置いていないが(同法19条1項参照),普通地方公共団体が,法による制限の下で,条例,人事委員会規則等の定めるところにより職員に在留外国人を任命することを禁止するものではない。普通地方公共団体は,職員に採用した在留外国人について,国籍を理由として,給与,勤務時間その他の勤務条件につき差別的取扱いをしてはならないものとされており(労働基準法3条,112条,地方公務員法58条3項),地方公務員法24条6項に基づく給与に関する条例で定められる昇格(給料表の上位の職務の級への変更)等も上記の勤務条件に含まれるものというべきである。しかし,上記の定めは,普通地方公共団体が職員に採用した在留外国人の処遇につき合理的な理由に基づいて日本国民と異なる取扱いをすることまで許されないとするものではない。また,そのような取扱いは,合理的な理由に基づくものである限り,憲法14条1項に違反するものでもない。

 管理職への昇任は,昇格等を伴うのが通例であるから,在留外国人を職員に採用するに当たって管理職への昇任を前提としない条件の下でのみ就任を認めることとする場合には,そのように取り扱うことにつき合理的な理由が存在することが必要である。

 (2) 地方公務員のうち,住民の権利義務を直接形成し,その範囲を確定するなどの公権力の行使に当たる行為を行い,若しくは普通地方公共団体の重要な施策に関する決定を行い,又はこれらに参画することを職務とするもの(以下「公権力行使等地方公務員」という。)については,次のように解するのが相当である。すなわち,公権力行使等地方公務員の職務の遂行は,住民の権利義務や法的地位の内容を定め,あるいはこれらに事実上大きな影響を及ぼすなど,住民の生活に直接間接に重大なかかわりを有するものである。それゆえ,国民主権の原理に基づき,国及び普通地方公共団体による統治の在り方については日本国の統治者としての国民が最終的な責任を負うべきものであること(憲法1条,15条1項参照)に照らし,原則として日本の国籍を有する者が公権力行使等地方公務員に就任することが想定されているとみるべきであり,我が国以外の国家に帰属し,その国家との間でその国民としての権利義務を有する外国人が公権力行使等地方公務員に就任することは,本来我が国の法体系の想定するところではないものというべきである。

 そして,普通地方公共団体が,公務員制度を構築するに当たって,公権力行使等地方公務員の職とこれに昇任するのに必要な職務経験を積むために経るべき職とを包含する一体的な管理職の任用制度を構築して人事の適正な運用を図ることも,その判断により行うことができるものというべきである。そうすると,普通地方公共団体が上記のような管理職の任用制度を構築した上で,日本国民である職員に限って管理職に昇任することができることとする措置を執ることは,合理的な理由に基づいて日本国民である職員と在留外国人である職員とを区別するものであり,上記の措置は,労働基準法3条にも,憲法14条1項にも違反するものではないと解するのが相当である。そして,この理は,前記の特別永住者についても異なるものではない。

 (3) これを本件についてみると,前記事実関係等によれば,昭和63年4月に上告人に保健婦として採用された被上告人は,東京都人事委員会の実施する平成6年度及び同7年度の管理職選考(選考種別Aの技術系の選考区分医化学)を受験しようとしたが,東京都人事委員会が上記各年度の管理職選考において日本の国籍を有しない者には受験資格を認めていなかったため,いずれも受験することができなかったというのである。そして,当時,上告人においては,管理職に昇任した職員に終始特定の職種の職務内容だけを担当させるという任用管理を行っておらず,管理職に昇任すれば,いずれは公権力行使等地方公務員に就任することのあることが当然の前提とされていたということができるから,上告人は,公権力行使等地方公務員の職に当たる管理職のほか,これに関連する職を包含する一体的な管理職の任用制度を設けているということができる。

そうすると,上告人において,上記の管理職の任用制度を適正に運営するために必要があると判断して,職員が管理職に昇任するための資格要件として当該職員が日本の国籍を有する職員であることを定めたとしても,合理的な理由に基づいて日本の国籍を有する職員と在留外国人である職員とを区別するものであり,上記の措置は,労働基準法3条にも,憲法14条1項にも違反するものではない。原審がいうように,上告人の管理職のうちに,企画や専門分野の研究を行うなどの職務を行うにとどまり,公権力行使等地方公務員には当たらないものも若干存在していたとしても,上記判断を左右するものではない。また,被上告人のその余の違憲の主張はその前提を欠く。以上と異なる原審の前記判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。

 

 

東京高判 平成91126

 (1) 日本の国籍を有しない者は,憲法上,国又は地方公共団体の公務員に就任する権利を保障されているということはできない。

 (2) 地方公務員の中でも,管理職は,地方公共団体の公権力を行使し,又は公の意思の形成に参画するなど地方公共団体の行う統治作用にかかわる蓋然性の高い職であるから,地方公務員に採用された外国人が,日本の国籍を有する者と同様,当然に管理職に任用される権利を保障されているとすることは,国民主権の原理に照らして問題がある。しかしながら,管理職の職務は広範多岐に及び,地方公共団体の行う統治作用,特に公の意思の形成へのかかわり方,その程度は様々なものがあり得るのであり,公権力を行使することなく,また,公の意思の形成に参画する蓋然性が少なく,地方公共団体の行う統治作用にかかわる程度の弱い管理職も存在する。したがって,職務の内容,権限と統治作用とのかかわり方,その程度によって,外国人を任用することが許されない管理職とそれが許される管理職とを分別して考える必要がある。そして,後者の管理職については,我が国に在住する外国人をこれに任用することは,国民主権の原理に反するものではない。

 (3) 上告人の管理職には,企画や専門分野の研究を行うなどの職務を行い,事案の決定権限を有せず,事案の決定過程にかかわる蓋然性も少ない管理職も若干存在している。このように,管理職に在る者が事案の決定過程に関与するといっても,そのかかわり方,その程度は様々であるから,上告人の管理職について一律に外国人の任用(昇任)を認めないとするのは相当でなく,その職務の内容,権限と事案の決定とのかかわり方,その程度によって,外国人を任用することが許されない管理職とそれが許される管理職とを区別して任用管理を行う必要がある。そして,後者の管理職への任用については,我が国に在住する外国人にも憲法22条1項,14条1項の各規定による保障が及ぶものというべきである。

 (4) 上告人の職員が課長級の職に昇任するためには,管理職選考を受験する必要があるところ,課長級の管理職の中にも外国籍の職員に昇任を許しても差し支えのないものも存在するというべきであるから,外国籍の職員から管理職選考の受験の機会を奪うことは,外国籍の職員の課長級の管理職への昇任のみちを閉ざすものであり,憲法22条1項,14条1項に違反する違法な措置である。被上告人は,上告人の職員の違法な措置のために平成6年度及び同7年度の管理職選考を受験することができなかった。被上告人がこれにより被った精神的損害を慰謝するには各20万円が相当である。

 

 

【裁判官藤田宙靖の補足意見】

 私は,多数意見に賛成するものであるが,本件被上告人が,日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法(以下「入管特例法」という。)に定める特別永住者であること等にかんがみ,多数意見に若干の補足をしておくこととしたい。

 被上告人が,日本国で出生・成育し,日本社会で何の問題も無く生活を営んで来た者であり,また,我が国での永住を法律上認められている者であることを考慮するならば,本人が日本国籍を有しないとの一事をもって,地方公務員の管理職に就任する機会をおよそ与えないという措置が,果たしてそれ自体妥当と言えるかどうかには,確かに,疑問が抱かれないではない。しかし私は,最終的には,それは,各地方公共団体が採る人事政策の当不当の問題であって,本件において上告人が執った措置が,このことを理由として,我が国現行法上当然に違法と判断されるべきものとまでは言えないのではないかと考える。その理由は,以下のとおりである。

 1 入管特例法の定める特別永住者の制度は,それ自体としてはあくまでも,現行出入国管理制度の例外を設け,一定範囲の外国籍の者に,出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)2条の2に定める在留資格を持たずして本邦に在留(永住)することのできる地位を付与する制度であるにとどまり,これらの者の本邦内における就労の可能性についても,上記の結果,法定の各在留資格に伴う制限(入管法19条及び同法別表第1参照)が及ばないこととなるものであるにすぎない。したがって例えば,特別永住者が,法務大臣の就労許可無くして一般に「収入を伴う事業を運営する活動又は報酬を受ける活動」(同法19条)を行うことができるのも,上記の結果生じる法的効果であるにすぎず,法律上,特別永住者に,他の外国籍の者と異なる,日本人に準じた何らかの特別な法的資格が与えられるからではない。また,現行法上の諸規定を見ると,許可制等の採られている事業ないし職業に関しては,各個の業法において,日本国籍を有することが許可等を受けるための資格要件とされることがあるが(公証人法12条1項1号,水先法5条1号,鉱業法17条本文,電波法5条1項1号,放送法52条の13第1項5号イ,等々),これらの規定で,特別永住者を他の外国人と区別し,日本国民と同様に扱うこととしたものは無い。他方,日本の国籍を有しない者の国家公務員試験受験資格を否定する人事院規則(人事院規則8-18)において,日本郵政公社職員への採用に関しては,特別永住者もまた郵政一般職採用試験を受験することができることとされるが,このことについては,特に明文の規定が置かれている(同規則8条1項3号括弧書)。以上に照らして見るならば,我が国現行法上,地方公務員への就任につき,特別永住者がそれ以外の外国籍の者から区別され,特に優遇さるべきものとされていると考えるべき根拠は無く,そのような明文の規定が無い限り,事は,外国籍の者一般の就任可能性の問題として考察されるべきものと考える。

 2 ところで,外国籍の者の公務員就任可能性について,原審は,日本国憲法上,外国人には,公務員に就任する権利は保障されていない,との出発点に立ちながらも,憲法上の国民主権の原理に抵触しない範囲の職については,憲法22条,14条等により,外国籍の者もまた,日本国民と同様,当然にこれに就任する権利を,憲法上保障される,との考え方を採るものであるように見受けられる。しかし,例えば,①外国人に公務員への就任資格(以下「公務就任権」という。)が憲法上保障されていることを否定する理由として理論的に考え得るのは,必ずしも,原審のいう国民主権の原理のみに限られるわけではない(例えば,一定の職域について外国人の就労を禁じるのは,それ自体一国の主権に属する権能であろう。)こと,また,②「憲法上,外国人には,公務員の一定の職に就任することが禁じられている」ということは,必ずしも,理論的に当然に「こうした禁止の対象外の職については,外国人もまた,就任する権利を憲法上当然に有する」ということと同義ではないこと,更に,③職業選択の自由,平等原則等は,いずれも自由権としての性格を有するものであって,本来,もともと有している権利や自由をそれに対する制限から守るという機能を果たすにとどまり,もともと有していない権利を積極的に生み出すようなものではないこと,等にかんがみると,原審の上記の考え方には,幾つかの論理的飛躍があるように思われ,我が国憲法上,そもそも外国人に(一定範囲での)公務就任権が保障されているか否か,という問題は,それ自体としては,なお重大な問題として残されていると言わなければならない。しかしいずれにせよ,本件は,外国籍の者が新規に地方公務員として就任しようとするケースではなく,既に正規の職員として採用され勤務してきた外国人が管理職への昇任の機会を求めるケースであって,このような場合に,労働基準法3条の規定の適用が排除されると考える合理的な理由の無いことは,多数意見の言うとおりであるから,上記の問題の帰すうは,必ずしも,本件の解決に直接の影響を及ぼすものではない。

 3 そこで,進んで,本件の場合に,労働基準法の同条の規定の存在にもかかわらず,外国籍の者を管理職に昇任させないとすることにつき,合理的な理由が認められるかどうかについて考える。記録を参照すると,上告人がこのような措置を執ったのは,「地方公務員の職のうち公権力の行使又は地方公共団体の意思の形成に携わるものについては,日本の国籍を有しない者を任用することができない」といういわゆる「公務員に関する当然の法理」に沿った判断をしたためであることがうかがわれる(参照,昭和48年5月28日自治公一第28号大阪府総務部長宛公務員第一課長回答)。しかし,一般に,「公権力の行使」あるいは「地方公共団体の意思の形成」という概念は,その外延のあまりにも広い概念であって,文字どおりにこの要件を満たす職のすべてに就任することが許されないというのでは,外国籍の者が地方公務員となる可能性は,皆無と言わないまでも少なくとも極めて少ないこととなり,また,そのことに合理的な理由があるとも考えられない。その意味においては,職務の内容,権限と統治作用とのかかわり方,その程度によって,外国人を任用することが許されない管理職とそれが許される管理職とを分別して考える必要がある,とする原審の説示にも,その限りにおいて傾聴に値するものがあることを否定できないし,また,多数意見の用いる「公権力行使等地方公務員」の概念も,この点についての周到な注意を払った上で定義されたものであることが,改めて確認されるべきである。

 ただ,その具体的な範囲をどう取るかは別として,いずれにせよ,少なくとも地方公共団体の枢要な意思決定にかかわる一定の職について,外国籍の者を就任させないこととしても,必ずしも違憲又は違法とはならないことについては,我が国において広く了解が存在するところであり,私もまた,そのこと自体に対し異を唱えるものではない。そして,本件の場合,上告人東京都は,一たび管理職に昇任させると,その職員に終始特定の職種の職務内容だけを担当させるという任用管理をするのではなく,したがってまた,外国人の任用が許されないとされる職務を担当させることになる可能性もあった,というのである。この点につき,原審は,管理職に在る者が事案の決定過程に関与すると言っても,そのかかわり方及びかかわりの程度は様々であるから,上告人東京都の管理職について一律に在留外国人の任用を認めないとするのは相当ではなく,上記の基準により,在留外国人を任用することが許されない管理職とそれが許される管理職とを区別して任用管理を行う必要がある,という。もとより,そのような任用管理を行うことは,人事政策として考え得る選択肢の一つではあろうが,他方でしかし,外国籍の者についてのみ常にそのような特別の人事的配慮をしなければならないとすれば,全体としての人事の流動性を著しく損なう結果となる可能性があるということもまた,否定することができない。こういったことを考慮して,上告人東京都が,一般的に管理職への就任資格として日本国籍を要求したことは,それが人事政策として最適のものであったか否かはさておくとして,なお,その行政組織権及び人事管理権の行使として許される範囲内にとどまるものであった,ということができよう。

 もっともこの点,専ら,本件における被上告人の立場についてのみ考えるならば,本件において,被上告人を管理職に昇任させることが,現実に全体としての人事の流動性を著しく損なう結果となるおそれが大きかったか否かについては,原審において必ずしも十分な認定がなされているとは言い難く,したがって,この点について審理を尽くさせるために,原判決を破棄して本件を差し戻す,という選択をすることも,考えられないではない。しかし,いうまでも無く,在留外国人に管理職就任の道を制度として開くかどうかは,独り被上告人との関係のみでなく,在留外国人一般の問題として考えなければならないことであって(例えば,将来において被上告人と同様の希望を持つ在留外国人が多数出て来た場合には,そのすべてについて同様の扱いをしなければならないことになる),こういったことをも考慮するならば,上告人東京都が,本件当時において外国籍の者一般につき管理職選考の受験を拒否したことが,直ちに,法的に許された人事政策の範囲を超えることになるとは,必ずしも言えず,また,少なくともそこに過失を認めることはできないのではないか,と考える。

 

 

 



 目次

外国人の人権(4-2)公務就任権

【・最大判平成17年1月26日 外国人公務員東京都管理職選考受験訴訟】

【裁判官金谷利廣の意見】

私は,原判決が上告人において被上告人に対し平成6年度及び同7年度の管理職

選考を受験させなかった措置は憲法に違反する違法な措置であると判断したことに

ついて,これを是認できないとする多数意見の結論には賛成するが,その理由付け

の一部には同調できない。

 1 憲法は,我が国の公務員に就任できる地位(以下「公務員就任権」という。)

について,これを一般的に保障する規定を置いてはいないが,日本国民の公務員就

任権については,憲法が当然の前提とするものとして,あるいは,国民主権の原理

,14条等を根拠として,解釈上これを認めることができると考える。

しかし,公務員(地方公務員を含む。)制度をどのように構築するかは国の統治作用に重大な関係を有すること,公務員の種類は多種多様で,その中には,外国人が就任することが国民主権の原理からして憲法上許容されないと解されるもの(ただし,その範囲をどう考えるかは議論が分かれる難しい問題である。)や外国人の就任が不相当なものが少なくないこと,また,外国人にも就任を認めるのが妥当であるか否かは当該具体的職種の職務内容,人事運用の実態等により左右されること,さらには,これまでの内外の法制の歴史等にかんがみると,日本国民に対し解釈上認められる憲法上の公務員就任権の保障は,その権利の性質上,外国人に対しては及ばないものと解するのが相当である(国の基本法である憲法において公務員の職種を区別してその一部については外国人の公務員就任権を保障していると解することは,明文の規定がない以上,妥当であるとは思われない。)。憲法は,外国人に対しては,公務員就任権を保障するものではなく,憲法上の制限の範囲内において,外国人が公務員に就任することができることとするかどうかの決定を立法府の裁量にゆだねているものというべきである。

 2 そこで,地方公務員に関する法制をみると,地方公務員法は,外国人を一般の地方公務員に就任させることができるかどうかについて規定を置いていないし,その就任を禁止する規定も置いていないから,地方公共団体は,外国人を当該地方公共団体の職員に採用できることとするか否かについて,裁量により決めることができるものといわなければならない。すなわち,我が国の現行法制上,外国人に地方公務員となり得るみちを開くか否かは,当該地方公共団体の条例,人事委員会規則等の定めるところにゆだねられているのである。

 そして,地方公共団体のこの裁量権は,オール・オア・ナッシングの裁量のみが認められるものではなく,一定の職種のみに限って外国人に公務員となる機会を与えることはもちろん,職務の内容と責任を考慮し昇任の上限を定めてその限度内で採用の機会を与えること,さらには,一定の職種のみに限り,かつ,一定の昇任の上限を定めてその限度内で採用の機会を与えることも許されると解されるのであって,その判断については,裁量権を逸脱し,あるいは濫用したと評価される場合を除き,違法の問題を生じることはないと解される(この点に関する詳細については,上田裁判官の意見を援用する。)。

 労働基準法112条により地方公務員にも適用があるものとされる同法3条との関係についていうと,外国人に地方公務員に就任する門戸を開くか否かについては地方公共団体の判断にゆだねられていると考える私のような見解によると,外国人に対し一定の職種の地方公務員に就任するみちを全く開放しないこととしても,原則として違法の問題が生じないのに,その一部開放である昇任限度を定めた開放措置については裁量に関し制約が伴うこととなるのは,甚だ不合理なことであり,また,それでは外国人に対する公務員となるみちの門戸開放を不必要に慎重にさせるおそれもあると思われる。したがって,労働基準法3条は,門戸を開く裁量については適用がなく,開かれた門戸に係るその枠の中での運用において適用されるにとどまるものと解することになる。

 3 本件においては,多数意見の4(3)の第1段に記述されているのと同様の理由により,上告人(東京都)において職員が管理職に昇任するための資格要件として当該職員が日本の国籍を有する職員であることを定めていたことが,裁量権の逸脱・濫用として違法性を帯びることはなく,したがって,上告人が被上告人に対し平成6年度及び同7年度の管理職選考を受験させなかった措置に違法はないと考える次第である。

 4 なお,付言すると,公務員の職種の中には外国人が就任しても支障がないと認められるものがあり,国際化が進展する現代において,定住外国人に対しそれらの公務員となるみちの門戸を相当な範囲で開放してゆくことは,時代の流れに沿うものということができるし,また,被上告人のような特別永住者がその一層の門戸開放を強く主張すること自体については,よく理解できる。しかし,この問題は,私の見解からすると,基本的には,政治的ないしは政策的な選択の当否のレベルで議論されるべきことであって,違憲,違法の問題が生ずる事柄ではないということである。

 

 

【 裁判官上田豊三の意見 】

 私は,上告人が被上告人に対し平成6年度及び同7年度の管理職選考を受験させなかった措置に違法はなく,これが違法であるとして被上告人の慰謝料請求を認容すべきものとした原審の判断は是認することができないとする多数意見に賛成するものであるが,その理由を異にする。

 1 憲法は,在留外国人につき我が国の公務員に就任することができる地位を保障するものではなく,在留外国人が公務員に就任することができることとするかどうかの決定を立法府の裁量にゆだねているものと解するのが相当である。

 ところで,地方公務員法は,在留外国人の地方公務員への就任につき,これを就任させなければならないとする規定も,逆にこれを就任させてはならないとする規定も置いていない。したがって,同法は,この問題につき,それぞれの地方公共団体が条例ないし人事委員会規則等において定め得るという立場(すなわち,当該地方公共団体の裁量にゆだねるという立場)に立っているものと解されるのである。

 2 それぞれの地方公共団体は,在留外国人の地方公務員への就任の問題を定めるに当たり,ある職種について在留外国人の就任を認めるかどうかという裁量(便宜「横軸の裁量」という。)を有するのみならず,職務の内容と責任に応じた級についてどの程度・レベルのものにまでの就任(昇任)を認めるかどうかについての裁量(便宜「縦軸の裁量」という。)をも有するものと解すべきである。換言すれば,在留外国人の地方公務員への就任の問題をどのような制度として(横軸・縦軸の両面において)構築するかは,それぞれの地方公共団体の裁量にゆだねられていると解されるのである(民間事業の経営者がどのような種類の,またどのような規模の事業を経営するかは,その経営者の自由な選択にゆだねられており,たとえ在留外国人を雇用する予定であったとしても,その選択は労働基準法3条により制約されるものではなく,その事業に雇用された在留外国人は,その経営者の選択した事業の種類・規模の範囲において同条による保護を主張することができるにすぎない。すなわち,同条は,経営者による事業の種類・規模の選択に当たっては制約原理としては働かないのであり,同様に,地方公共団体が在留外国人の地方公務員制度を構築するに当たっても,同条は制約原理として働かないものと解すべきである。)。 3 この地方公共団体の裁量にも限界があり,裁量権を逸脱したり,濫用したと評価される場合には,違法性を帯びることになる。縦軸の裁量における限界については,私は,現在,次のように理解すべきものと考えている。すなわち,当該地方公共団体が縦軸の裁量として行使したところが,地方公務員法を中心とする地方公務員制度全体から見ておよそ許容することができないと思われる場合には,裁量の限界を超えていると解することになる。例えば,地方公務員のうち,地方公共団体の公権力の行使に当たる行為若しくは地方公共団体の重要な施策に関する決定を行い,又はこれに関与する者について,解釈上,その就任に日本国籍を有することを必要とするものがあるとされる場合に,地方公共団体がそのような地方公務員にも在留外国人の就任を認めることとしたとき(すなわち,在留外国人への門戸を開放しすぎた場合,換言すれば縦軸の裁量の行使が広すぎた場合)には,裁量の限界を超えていると解することになる。また,逆に,例えば,在留外国人については,その給与を特段の事情もないのに初任給程度に限定することとし,そのような級に相当する職務を専ら行うものと位置付けて地方公務員への就任を認めることとしたような場合(すなわち,門戸の開放が極端に狭い場合,換言すれば縦軸の裁量の行使があまりにも狭すぎる場合)には,在留外国人を蔑視し,在留外国人に苦痛のみを与える制度として,あるいは在留外国人の労働力を搾取する制度として構築したものとして地方公務員制度上のいわば公序良俗に反し,裁量の限界を超えていると解することになろう。

 そして,在留外国人の地方公務員への採用につき当該地方公共団体の構築した制度が裁量の限界を超えていないと判断される場合には,在留外国人に対しその制度上許容される範囲を超えた取扱いをしなくても,違法の問題は起きないことになる。なお,その構築した制度の範囲内においては,労働基準法3条や地方公務員法13条の平等取扱いの原則の精神に基づき,在留外国人同士あるいは在留外国人と日本人との間において平等取扱い等の要請が働くことになる。

 4 本件においては,上告人は保健婦(当時)について在留外国人の就任を認めることとしたが,課長級以上の管理職についてはこれを認めないこととしたというものであるところ,その制度は,上記に述べたような縦軸の裁量の限界を超えているものではなく,その裁量の範囲内にあるものとして,違法性を帯びることはないというべきである。

したがって,上告人が被上告人に対し平成6年度及び同7年度の管理職選考を受験させなかった措置に違法はないと解すべきである。



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外国人の人権(4-3)公務就任権1

【・最大判平成17年月26日 外国人公務員東京都管理職選考受験訴訟】

【裁判官滝井繁男の反対意見】

 1 私も,外国籍を有する者が我が国の公務員に就任するについては,国民主権の原理から一定の制約があるほか,一定の職に就任するにつき日本国籍を有することを要件と定めることも,法律においてこれを許容し,かつ,合理的な理由がある限り,認めるものである。しかしながら,上告人のように,多数の者が多様な仕事をしている地方公共団体において,その管理職に就く者が,その職務の性質にかかわらず,すべて日本国籍を有しなければならないものとすることには,その合理的根拠を見いだすことはできない。したがって,上告人が管理職選考において日本国籍を有することを受験資格とした措置は,在留外国人である職員に対し国籍のみによって昇任のみちを閉ざしたものであり,憲法14条に由来し,国籍を理由として差別することを禁じた労働基準法3条の規定に反する違法なものであると考える。以下,その理由を述べる。

 2(1) 国民主権の原理の下では,統治に参加することができるのはその国に帰属する者だけであって,参政権を保障されているのはその国民だけである。そして,国民は統治の担い手となる者を自由に選び得るのであるが,国の主体性の維持及び独立の見地から,統治権の重要な担い手になる者については外国人を排除すべきものとされているのである。

 (2) 憲法15条1項は,公務員を選定し,及びこれを罷免することは,国民固有の権利であると定めているが,これは,国民主権の原理に基づいたものであって,権利の性質上この規定による保障は我が国に在留する外国人には及ばないものと解されているのである。

 (3) 憲法93条2項は,地方公共団体の長,その議会の議員及び法律の定める公務員についてもその地方公共団体の住民が直接選挙すると規定しているが,ここで権利を保障されているのも日本国民に限られている。

 我が国実定法も,これに基づいて公務員の選定に関する規定を置いており,地方公共団体についていえば,地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権,被選挙権を国民に限定する(地方自治法11条,18条,19条)ほか,国民にのみ,議会解散請求権,議会の議員,長,副知事若しくは助役,出納長若しくは収入役,選挙管理委員若しくは監査委員又は公安委員会委員並びに教育委員会委員の解職請求権などを認めているのである(同法13条)。

 しかしながら,我が国憲法は,住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務についてはその地方の住民の意思に基づいて,地方公共団体で処理することを保障していることから,我が国に在留する外国人のうち,その居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つ者については,その意思をその地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるため,法律によって,地方公共団体の長,その議員等に対する選挙権を付与することを禁止しているものではないのである(最高裁平成5年(行ツ)第163号同7年2月28日第三小法廷判決・民集49巻2号639頁参照)。

 すなわち,我が国実定法は,一定の公務員に関する選挙権及び被選挙権については日本国民に限定してこれを付与しているが,そうであるからといって,参政権の側面を持つ権利のすべてについて,国民主権の原理からの帰結として当然に,その保障が日本国民に限られることになるというものではないのである。

 (4) 本件で問題になっているのは,選挙権,被選挙権のように,その憲法上の保障が日本国民に限られることが国民主権の原理から帰結される権利ではなく,ある公務に就くことができるかどうかの資格である。すべての公務員の選任は,終局的には国民の意思に懸かるべきものであって,その意味でその選任に参政権的な側面があるとしても,すべての公務員に就任するについてその職務の性質を問うことなく,国民主権の原理の当然の帰結として日本国籍が求められているというものではないのである。

 私は,地方行政においては,国民による統治の根本へのかかわり方が国政とは異なることを考えれば,国民主権の見地からの当然の帰結として日本国籍を有する者でなければならないものとされるのは,地方行政機関については,その首長など地方公共団体における機関責任者に限られるのであって,その余の公務員への就任については,憲法上の制約はなく,立法によって制限し得るにしろ,立法を待つことなく性質上当然のこととして日本国籍を有する者に制限されると解すべき根拠はないものと考える。

 (5) 多数意見は,そのいうところの公権力行使等地方公務員は,その職務の遂行が住民の生活に直接間接に重大なかかわりを有するものであるから,国民主権の原理に基づき,その統治の在り方について日本国の統治者としての国民が最終的な責任を負うべきものであることに照らし,原則として日本国籍を有しない者がこれに就任することは本来我が国の法体系の想定するところではないというのである。

 しかしながら,我が国の地方公共団体にはその意思決定機関として議会が置かれている一方で,執行機関は,地方公共団体の事務を自らの判断と責任において誠実に管理し,執行する義務を負うとされているところ(地方自治法138条の2),法規定上,その名において執行する権限を有するのは,知事,市町村長等の長又は行政委員会だけであって,副知事,助役,その他の補助職員は長を補助するにとどまるものである(同法161条以下)。

 もっとも,長は,実際の事務をしばしば補助機関に委任したり,代理させたりしており(地方自治法152条,153条),また,一つの行政決定は,補助機関の検討を経て最終的に行政庁の名で表示されるというのが通例であるから,地方公共団体の行政運営,組織運営にかかわる重要な事項が実務的には補助機関において行われているとみるべきことは事実である。しかしながら,これらの者は長の指揮監督の下でその職務を行うものであって(同法154条),その職務を遂行するに当たって,法令,条例,地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い,かつ,上司の職務上の命令に忠実に従わなければならないものである(地方公務員法32条)。すなわち,これらの者は,法規定上,地方公共団体の長がその判断と責任において行う事務の執行を補助するものとしてその任に当たっているのである。したがって,その関与する仕事が重要なものであっても,主権の行使との関係でみる限りは,補助機関の地位は,長のそれとは質的に異なるものである。憲法93条2項が,地方公共団体の長に限り,住民の公選によることを保障し,その余の公務員については公選によることにするかどうかを立法政策にゆだねているのも,その性質の相違によるものである。その職務の住民生活へのかかわり方に重要性があるからといって,補助機関への就任について,長への就任と同じく日本国籍を要求することを国民主権の原理から当然に法体系が想定しているとまでいうことはできないと考える。

 3 このように,外国人が地方公共団体の長の補助機関に就任するについては,国民主権の原理に基づく制約はない。昇格等を伴う補助機関に昇任することができる資格は労働基準法3条にいう労働条件に当たるから,既に職員に採用された者は,同条の適用により上記の資格を有する。職員に採用された外国人についても,これと別異に解する理由はない。

 しかしながら,国民主権の原理に基づく制約がない職であっても,そのすべてについて外国人が当然にその職に就任することができる資格を認めなければならないというわけではない。一定の職について日本の国籍を有する者だけが就任することができるとすることも,法律においてこれを許容し,かつ,合理的な理由がある限り,許される。すなわち,執行機関は地方公共団体の事務を誠実に管理し,執行すべきところ,それが適切に行われることについては,住民の理解と支持を得ることが必要であって,公務における外国人の影響の排除を求める住民の一般的規範意識や公務員観からみて,法律によって,ある種の職に就任するについては日本国籍を有することを要件と定めることはできると解される。

 のみならず,ある職にどのような人材を配するかは,その仕事の内容と職員の資質を勘案し,個別具体的に検討し決定されるべきものであって,その判断は法律に反しない限り,使用者の広い裁量にゆだねられているところである。したがって,地方公共団体がある種の公務,例えば,高度な判断や広範な裁量を伴うもの,あるいは直接住民に対して命令し強制するものについて,住民の理解と信頼という観点から日本国籍を有する者のみを充てることとすることには合理性を認め得るのであって,そのような措置を執ることは地方公務員法が許容していると解されるから,そのような措置を執ったことをもって合理的理由に基づかない差別ということはできない。

 4(1) しかしながら,上告人は,管理職の職務の内容等を考慮して一定の職への就任につき資格を制限したというのではなく,すべての管理職から一律に外国人を排除することとしていたのである。本件で問題となるのは,そのような上告人の措置に合理性があるかどうかである。

 職員の昇任における不平等な取扱いもそのことに合理的な理由があれば差別となるものではないが,その合理性は使用者において明らかにすべきところ,本件において上告人はそれを明らかにしているとはいえない。なぜならば,仮に地方公共団体の長の補助職員の中に法体系上日本国籍を有することを要件とすることが想定される職のあることを是認し得るとしても,そのことからすべての管理職を日本国籍を有する者でなければならないとすることにまで合理性があるとし,管理職選考において一律に外国人である職員を排除することもできると解するのは相当でなく,ほかに,上記の措置を執らなければ任用制度の適正な運用ができないことなどは明らかにされていないからである。

 (2) 一般に管理職というとき,それは,部下を掌握し管理する地位にある者をいい,部長,課長などの組織上の名称を付されていることが多いが,部下の管理監督を行わない者も,処遇の均衡上管理職と同じ扱いを受けていることがある(そのほかに,重要な行政上の決定を行い又はそれに参画する地位にある職員及び他の職員に対し監督的地位に立つ職員を,職員団体の組織等に制約を受ける管理職員とするという制度も採られている。)。このような管理職は,各地方公共団体が具体的な任用制度を構築するに当たり,民主的効率的な公務員制度や人事行政を実現することなどの見地から設けたものであって,ある職の就任から外国籍の者を排除する必要があるかどうかについて基準となるべき主権の行使への関与の度合いの高いものを選び出して定めたというようなものではない。

 (3) 多数意見は,公権力行使等地方公務員の職を公務員の中での上級公務員として位置付けた上で,これに昇任するのに必要な職務経験を積むために経るべきものとして下位の管理職を設けるなどして,その一体的な管理職任用制度を構築し,人事の適正な運用を図ることも地方公共団体はその判断ですることができ,そのためにすべての管理職に昇任することのできる者を日本国籍を有する職員に限定しても,そのことによって国籍を理由とする不当な差別をしたことにはならず,労働基準法3条に違反したことにはならないというのである。

 確かに管理職に就いた者に特定の職種の職務だけを担当させるという任用管理をしないことは,それなりの合理性を持つものと考えられる。しかしながら,ここで問題とされるべきことは,管理職に昇任すれば,公権力行使等地方公務員に就くことがあり得ることを理由に,すべての管理職の資格として日本国籍を要件とすることの当否である。

 住民の権利義務を形成するなどの公権力の行使に当たる行為を行い,若しくは地方公共団体の重要な施策に関する決定を行い,又はこれらに参画する地方公務員という限定は,それだけでは必ずしもその範囲を明確にし得るものではなく,際限なく広がる可能性を持つものであるが,私は,その中で国民主権の原理に基づいて日本国籍を有する者のみが就任することが想定されているものとして説明し得る職は,仮にそれを肯定するとしても,高度な判断や広範な裁量を伴うもの,あるいは直接住民に対して命令し強制するものなどに限られるのであり(3の末尾を参照),その数がそれほど多数になることはないと考える。

 今日,地方公共団体の扱う職務は私企業のそれと差異のみられない給付行政的なものに拡大し,本来的には非権力的行政といわれるものが多くみられるようになってきており,職務全般における権力性は減少しているため,公務員職の概念にも変容がみられるのであって,今日の国民の規範意識に照らせば,国民主権の見地から,その能力を度外視して外国人であるというだけの理由で排除しなければならないと考えられる職は限られたものであると考える。したがって,相当数ある管理職の中には日本国籍を有する者に限って就任を認め得るものがあるとしても,そのために管理職の選考に当たって,すべて日本国籍を有する者に限定しなければその一体的な任用管理ができないとは到底考えられないのである。

 (4) 上告人の職員の中で,多数意見のいう公権力行使等地方公務員の数がどれだけのものになるのか必ずしも明らかではない。しかしながら,原判決の認定するところによれば,上告人の平成9年4月1日現在の一般管理職(警視庁及び消防庁を除く。)の総数は2500に及ぶというのであって,その中には,相当数の公権力行使等地方公務員以外のものが含まれていると思われるのである。しかるに,上告人は,課長級の職は,事案の決定権限を有するか,その決定過程に関与するものであり,公の意思形成に参画するものであるとし,そのことを理由に管理職選考において日本国籍を要求することは合理性があると主張するのみで,管理職全体の中で上級の管理職と位置付けられ,日本国籍を要件とすることが法体系上想定されていると考え得る管理職がどの程度いるのかについて明らかにしていないのである。

 しかしながら,そのような管理職の数が相当数に及ぶこと,そして,終始特定の職務だけを担当させるという任用管理をしていないため,下位の管理職にも日本国籍を有することを要件としなければ一体的な任用制度の運用ができないことを明らかにすればともかく,そうでなければ,あらゆる管理職について日本国籍を有することを選考の受験資格とすることの合理性を明らかにしたものということはできない。

 結局,上告人は,管理職選考に当たって一律に日本国籍を要件とすることが不合理な差別ではなく,違法でないといえるだけの合理性を明らかにしておらず,上告人の執った措置は外国人である職員に対し違法な差別をするものといわざるを得ないのである。

 (5) また,管理職に就くことの適否は,職員本人の資質,能力等によって決せられるべきところ,上告人においては,管理職選考に合格し,任用候補者名簿に登録された後,最終的な選考を経て管理職に任用されるのは数年後のことであるというのであって,その間に合格した職員が管理職としての資質等を備えているかどうかについては十分観察し,吟味する機会があるのである。

 したがって,本件で問題となった管理職選考は,管理職に昇任する候補者の選考の段階ともいうべきものであって,管理職としての適性の有無を判定するという見地からみても,日本国籍を有しないことを理由に一律に排除するまでの必要性は認められないのである。

 (6) 今日,人間の経済文化活動はその活動領域を国境を越えて広げてきており,一般的にいって,国民と外国人との観念的な差異を意識することは減少しつつあるといってよい。特に地方公共団体では,外国籍を有する者もその社会の一員として責務を果たしている以上,国民と同等の扱いを求め得るということ(地方自治法10条参照)に対する理解は広がりつつあって,公務員としての適性は,国籍のいかんではなく,住民全体の奉仕者として公共の利益のために職務を遂行しているかどうかなどのことこそが重要性を持つということが,改めて認識されるようになってきているのである。そして,管理職選考に合格した職員がそのような観点からみて管理職としての適性を備えているかどうかの判定は,管理職選考に合格された後の勤務の実績等をみた上ですることもできることであって,国籍もその一つの判断の材料になることがあり得るにしろ,外国籍であることをこのような管理職選考の段階で絶対的障害としなければならない理由はないのである。

 付言するに,記録によれば,被上告人は日本人を母とし,日本で生まれ,我が国の教育を受けて育ってきた者であるが,父が朝鮮籍であったことから,日本国との平和条約の発効に伴い,本人の意思とは関係なく日本国籍を失ったものである。我が国の場合,被上告人のように,この平和条約によって日本国籍を失うことになったものの,永らく我が国社会の構成員であり,これからもそのような生活を続けようとしている特別永住者たる外国人の数が在留外国人の多数を占めているところ,本件のような国籍条項は,そのような立場にある特別永住者に対し,その資質等によってではなく,国籍のみによって昇任のみちを閉ざすこととなって,格別に過酷な意味をもたらしていることにも留意しなければならない。このような見地からも,我が国においては,多様な外国人を一律にその国籍のみを理由として管理職から排除することの合理性が問われなければならないものと考えるのである。

 (7) 以上のとおりであるから,日本国籍を有しないというだけで管理職選考の受験の機会を与えず,一切の管理職への昇任のみちを閉ざすというのは,人事の適正な運用を図るというその目的の正当性は是認し得るにしろ,それを達成する手段としては実質的関連性を欠き,合理的な理由に基づくものとはいえないと考えるのである。

 5 したがって,上告人が,日本国籍を有しないことのみを理由として被上告人に管理職選考の受験の機会を与えなかったのは,国籍による労働者の違法な差別といわざるを得ない。また,このような差別が憲法14条に由来する労働基準法3条に違反するものであることからすれば,国家賠償法1条1項の過失の存在も肯定することができるので,被上告人の請求を認容した原判決は結論において正当であり,本件上告は棄却すべきものと考える。


 目次


外国人の人権(4-4)公務就任権

【・最大判平成17年1月26日 外国人公務員東京都管理職選考受験訴訟】

【裁判官泉徳治の反対意見】

 

1 被上告人は,昭和25年に岩手県で出生した特別永住者であり,日本の法律に従い昭和61年に看護婦免許,昭和63年に保健婦免許をそれぞれ受け,同年4月に東京都日野保健所の保健婦として採用され,平成5年4月から東京都八王子保健所西保健相談所に4級職主任の保健婦として勤務していた(なお,記録によると,被上告人の母は,日本人であったが,昭和10年に日本において朝鮮人と婚姻し,内地戸籍から除籍されて朝鮮戸籍に入籍し,日本国との平和条約の発効に伴い日本国籍を喪失した。また,被上告人は,日本において,義務教育を受け,高等学校,専門学校を卒業している。)。

2 被上告人は,東京都人事委員会により,日本国籍を有しないことを理由として,平成6年度及び平成7年度の管理職選考(以下「本件管理職選考」という。)の受験を拒否された。管理職選考の受験資格として日本国籍を有することが必要であることを定めた東京都条例や東京都人事委員会規則はない。東京都人事委員会は,平成6年度管理職選考実施要綱では,日本国籍の要否について触れていなかったが,平成7年度管理職選考実施要綱で,初めて,受験資格としxて日本国籍を有することが必要であることを定めた。

3 国家は,国際慣習法上,外国人を自国内に受け入れる義務を負うものではなく,特別の条約がない限り,外国人を自国内に受け入れるかどうか,また,これを受け入れる場合にいかなる条件を付するかを,自由に決定することができるものとされている(最高裁昭和29年(あ)第3594号同32年6月19日大法廷判決・刑集11巻6号1663頁,最高裁昭和50年(行ツ)第120号同53年10月4日大法廷判決・民集32巻7号1223頁参照)。国は,国家主権の一部として上記のような自由裁量権を有するのであり,地方公共団体にはかかる裁量権がないから,地方公共団体は,国が日本における在留を認めた外国人について,当該地方公共団体内における活動を自由に制限できるものではない。

4 そこで,まず,特別永住者が地方公務員(選挙で選ばれる職を除く。以下同じ。)となり得るか否かに関連して,国が法令においてどのような定めをしているかを見ることとする。

(1) 国は,日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法3条において,特別永住者に対し日本で永住することができる地位を与えている。特別永住者は,出入国管理及び難民認定法2条の2第1項の「他の法律に特別の規定がある場合」に該当する者として,同法の在留資格を有することなく日本で永住することができ,日本における就労活動その他の活動について同法による制限を受けない。そして,地方公務員法等の他の法律も,特別永住者が地方公務員となることを制限してはいない。

(2) 憲法3章の諸規定による基本的人権の保障は,権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き,我が国に在留する外国人に対しても等しく及ぶと解すべきである(最高裁昭和50年(行ツ)第120号同53年10月4日大法廷判決・民集32巻7号1223頁参照)。そして,憲法14条1項が保障する法の下の平等原則は,外国人にも及ぶ(最高裁昭和37年(あ)第927号同39年11月18日大法廷判決・刑集18巻9号579頁参照)。また,憲法22条1項が保障する職業選択の自由も,特別永住者に及ぶと解すべきである。

5 上記のように,国家主権を有する国が,法律で,特別永住者に対し永住権を与えつつ,特別永住者が地方公務員になることを制限しておらず,一方,憲法に規定する平等原則及び職業選択の自由が特別永住者にも及ぶことを考えれば,特別永住者は,地方公務員となることにつき,日本国民と平等に扱われるべきであるということが,一応肯定されるのである。

 6 そこで,次に,地方公共団体において,特別永住者が地方公務員となることを,一定の範囲で制限することが許されるかどうかを検討する。

 (1) 憲法14条1項は,絶対的な平等を保障したものではなく,合理的な理由なくして差別することを禁止する趣旨であって,各人の事実上の差異に相応して法的取扱いを区別することは,その区別が合理性を有する限り,何ら上記規定に違反するものではない(最高裁昭和55年(行ツ)第15号同60年3月27日大法廷判決・民集39巻2号247頁参照)。また,憲法22条1項は,「公共の福祉に反しない限り」という留保の下に職業選択の自由を認めたものであって,合理的理由が存すれば,特定の職業に就くことについて,一定の条件を満たした者に対してのみこれを認めるということも許される(最高裁昭和43年(行ツ)第120号同50年4月30日大法廷判決・民集29巻4号572頁参照)。

 (2) 憲法前文及び1条は,主権が国民に存することを宣言し,国政は国民の厳粛な信託によるものであって,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使することを明らかにしている。国民は,この国民主権の下で,憲法15条1項により,公務員を選定し,及びこれを罷免することを,国民固有の権利として保障されているのである。そして,国民主権は,国家権力である立法権・行政権・司法権を包含する統治権の行使の主体が国民であること,すなわち,統治権を行使する主体が,統治権の行使の客体である国民と同じ自国民であること(これを便宜上「自己統治の原理」と呼ぶこととする。)を,その内容として含んでいる。地方公共団体における自治事務の処理・執行は,法律の定める範囲内で行われるものであるが,その範囲内において,上記の自己統治の原理が,自治事務の処理・執行についても及ぶ。そして,自己統治の原理は,憲法の定める国民主権から導かれるものであるから,地方公共団体が,自己統治の原理に従い自治事務を処理・執行するという目的のため,特別永住者が一定範囲の地方公務員となることを制限する場合には,正当な目的によるものということができ,その制限が目的達成のため必要かつ合理的な範囲にとどまる限り,上記制限の合憲性を肯定することができると解される。

 ただし,国が法律により特別永住者に対し永住権を認めるとともに,その活動を特に制限してはいないこと,地方公共団体は特別永住者の活動を自由に制限する権限を有しないこと,地方公共団体は法律の範囲内で自治事務を処理・執行する立場にあることを考慮すれば,地方公共団体が,自己統治の原理から特別永住者の就任を制限できるのは,自己統治の過程に密接に関係する職員,換言すれば,広範な公共政策の形成・執行・審査に直接関与し自己統治の核心に触れる機能を遂行する職員,及び警察官や消防職員のように住民に対し直接公権力を行使する職員への就任の制限に限られるというべきである。自己統治の過程に密接に関係する職員以外の職員への就任の制限を,自己統治の原理でもって合理化することはできない。

 (3) また,地方公共団体は,自治事務を適正に処理・執行するという目的のために,特別永住者が一定範囲の地方公務員となることを制限する必要があるというのであれば,当該地方公務員が自己統治の過程に密接に関係する職員でなくても,合理的な制限として許される場合もあり得ると考えられる。ただし,特別永住者は,本来,憲法が保障する法の下の平等原則及び職業選択の自由を享受するものであり,かつ,地方公務員となることを法律で特に制限されてはいないのである。そして,職業選択の自由は,単に経済活動の自由を意味するにとどまらず,職業を通じて自己の能力を発揮し,自己実現を図るという人格権的側面を有しているのである。

 その上,特別永住者は,その住所を有する地方公共団体の自治の担い手の一人である。すなわち,憲法8章の地方自治に関する規定は,法律の定めるところによりという限定は付しているものの,住民の日常生活に密接に関連する地方公共団体の事務は,国が関与することなく,当該地方公共団体において,その地方の住民の意思に基づいて処理するという地方自治の制度を定め,「住民」を地方自治の担い手として位置付けている。これを受けて,地方自治法10条は,「市町村の区域内に住所を有する者は,当該市町村及びこれを包括する都道府県の住民とする。住民は,法律の定めるところにより,その属する普通地方公共団体の役務の提供をひとしく受ける権利を有し,その負担を分任する義務を負う。」と規定し,「住民」が地方自治の運営の主体であることを定めている。そして,この住民には,日本国民だけでなく,日本国民でない者も含まれる。もっとも,同法は,地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権・被選挙権(11条,18条,19条),条例制定改廃請求権(12条),事務監査請求権(12条),議会解散請求権(13条),議会の議員,長,副知事若しくは助役,出納長若しくは収入役,選挙管理委員若しくは監査委員又は公安委員会若しくは教育委員会の委員の解職請求権(13条)など,地方参政権の中核となる権利については,日本国民たる住民に限定しているが,原則的には,日本国民でない者をも含めた住民一般を地方自治運営の主体として位置付け,これに住民監査請求権(242条),住民訴訟提起権(242条の2)なども付与している。特別永住者は,上記のような制限はあるものの,当該地方公共団体の住民の一人として,その自治事務に参加する権利を有しているものということができる。当該地方公共団体の住民ということでは,特別永住者も,他の在留資格を持って在留する外国人住民も,変わるところがないといえるかも知れないが,当該地方公共団体との結び付きという点では,特別永住者の方がはるかに強いものを持っており,特別永住者が通常は生涯にわたり所属することとなる共同社会の中で自己実現の機会を求めたいとする意思は十分に尊重されるべく,特別永住者の権利を制限するについては,より厳格な合理性が要求される。

 以上のような,特別永住者の法的地位,職業選択の自由の人格権的側面,特別永住者の住民としての権利等を考慮すれば,自治事務を適正に処理・執行するという目的のために,特別永住者が自己統治の過程に密接に関係する職員以外の職員となることを制限する場合には,その制限に厳格な合理性が要求されるというべきである。換言すると,具体的に採用される制限の目的が自治事務の処理・執行の上で重要なものであり,かつ,この目的と手段たる当該制限との間に実質的な関連性が存することが要求され,その存在を地方公共団体の方で論証したときに限り,当該制限の合理性を肯定すべきである。

 7 以上の観点から,東京都人事委員会が特別永住者である被上告人に対し本件管理職選考の受験を拒否した行為が許容されるものかどうかを検討する。

 (1) 本件管理職選考は,「課長級の職」への第一次選考である。課長級の職には,自己統治の過程に密接に関係する職員が含まれていることは明らかで,自己統治の原理に従い自治事務を処理・執行するという目的の下に,特別永住者が上記職員となることを制限しても,それは合理的制限として許容される。 

 しかし,本件管理職選考は,知事,公営企業管理者,議会議長,代表監査委員,教育委員会,選挙管理委員会,海区漁業調整委員会又は人事委員会に任命権がある職員の課長級の職への第一次選考であって,選考対象の範囲が極めて広く,「課長級の職」がすべて自己統治の過程に密接に関係する職員であると当然にいうことはできない。

 上告人は,課長級の職は,事案の決定権限を有するか,事案の決定権限は有しないが事案の決定に参画することにより,すべて事案の決定過程に関与しているものであり,公の意思の形成に参画しているものである,と主張する。しかし,事案の決定あるいは公の意思の形成といっても,その内容・性質は各種・各様であって,地方公共団体の課長級の職員が行うこれらの行為のすべてが,広範な公共政策の形成・執行・審査に直接関与し自己統治の核心に触れる機能を遂行するものと評価することは困難である。

 もともと,課長級の職員も,地方公務員の一員として,政治的行為をすることを禁じられているとともに,その職務を遂行するに当たって,法令,条例,地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い,かつ,上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない義務を負っていることに留意すべきである(地方公務員法32条及び36条参照)。

 また,原審は,上告人の管理職の中には,計画の企画や専門分野の研究を行うなどのスタッフとしての職務を行い,事案の決定権限を有せず,事案の決定過程にかかわる蓋然性も少ない管理職も若干存在していることを指摘している。

 そして,上告人の東京都組織規程(昭和27年東京都規則第164号)によると,知事及び出納長の権限に属する事務を処理するための機関だけでも,8条で掲げる「本庁」の局・室・課のほか,31条及び別表3で掲げる「本庁行政機関」,34条及び別表4で掲げる「地方行政機関」(その一つである保健所だけでも8箇所存在する。)及び37条で掲げる「附属機関」があり,上告人は,多数の機関で広範な事務を処理している。

 さらに,上告人は,職員の給与に関する条例(昭和26年東京都条例第75号)5条所定の医療職給料表(三)が適用される保健師,助産師,看護師,准看護師の採用については,国籍要件を付していないが,初任給,昇格及び昇給等に関する規則(昭和48年東京都人事委員会規則第3号)3条及び別表第1チ「医療職給料表(三)級別標準職務表」は,7級の標準的な職務として本庁の課長の職務等,8級の標準的な職務として本庁の統括課長の職務等を掲げており,医療職給料表(三)の適用職員が課長級の職員となることを予定している。

 以上のような状況からすれば,課長級の職には,自己統治の過程に密接に関係する職員以外の職員が相当数含まれていることがうかがわれるのである。 そうすると,自己統治の原理に従い自治事務を処理・執行するという目的を達成する手段として,特別永住者に対し「課長級の職」への第一次選考である本件管理職選考の受験を拒否するということは,上記目的達成のための必要かつ合理的範囲を超えるもので,過度に広範な制限といわざるを得ず,その合理性を否定せざるを得ない。

 (2) 次に,上告人は,本件管理職選考に合格した者は候補者名簿に登載し,数年後に最終的な選考を経て管理職に任用するところ,最終的な選考に合格した者については,職種ごとの任用管理は行っておらず,他の職種の管理職に就かせることもあるとともに,まず出先課長に任用し,次に本庁副参事へ,更に本庁課長へと昇任させる等の任用を行っており,また,同一人を特定の職に退職まで在籍させるということは行っていないから,退職までの昇任過程において必然的に事案決定権限を有する職に就かせることになるので,特別永住者に対し本件管理職選考の受験そのものを拒否することが許される旨主張する。  事案決定権限を行使することがそのまま自己統治の過程に密接に関係することにならないことは,前述のとおりである。上告人の上記主張は,上告人の昇任管理ないし人事管理の下では,本件管理職選考に合格した者はいずれ自己統治の過程に密接に関係する職に就かせることになるから,この昇任管理ないし人事管理政策の遂行のため,特別永住者に対して本件管理職選考の受験そのものを拒否し,「課長級の職」の中で自己統治の過程に密接に関係する職員以外の職員となることも制限することが許されるべきであるとの主張を含むものと解して,その是非を検討することにする。かかる場合の制限が正当化されるためには,前述のとおり,具体的に採用される制限の目的(すなわち,上告人の昇任管理ないし人事管理政策を実施すること。)が自治事務を処理・執行する上において重要なものであり,かつ,この目的と手段たる当該制限(すなわち,特別永住者に対し本件管理職選考の受験を拒否し,「課長級の職」の中の自己統治の過程に密接に関係する職員以外の職員となることを制限すること。)との間に実質的な関連性が存することが必要である。 上告人の上記昇任管理ないし人事管理政策を実施するためという目的は,自治事務を適正に処理・執行する上において合理性を有するものであって,一応の正当性を肯定することができるが,特別永住者に対し法の下の平等取扱い及び職業選択の自由の面で不利益を与えることを正当化するほど,自治事務を処理・執行する上で重要性を有する目的とはいい難い。

 また,4級の職員が第一次選考である本件管理職選考に合格しても,直ちに課長級の職に就くわけではなく,更に選考を経て5級及び6級の職をそれぞれ数年間は経験しなければならないのであり,上告人が多数の機関を擁し,多数の課長級の職を設けていることを考えれば,特別永住者に本件管理職選考の受験を認め,将来において課長級の職に昇任させた上,自己統治の過程に密接に関係する職員以外の職員に任用しても,上告人の昇任管理ないし人事管理政策の実施にさほど支障が生ずるものとは考えられず,特別永住者に対し本件管理職選考の受験自体を拒否し,自己統治の過程に密接に関係する職員以外の職員になることを制限するという手段が,上告人の昇任管理ないし人事管理政策の実施という目的と実質的な関連性を有するとはいい難い。

 したがって,上記の制限をもって合理的なものということはできない。

 8 以上のとおり,特別永住者である被上告人に対する本件管理職選考の受験拒

否は,憲法が規定する法の下の平等及び職業選択の自由の原則に違反するものであ

ることを考えると,国家賠償法1条1項の過失の存在も,これを肯定することがで

きるものというべきである。

 9 したがって,以上と同旨の原審の判断は正当であり,本件上告は棄却すべき

ものと考える。

 

外国人の人権(5-1)社会権・最判平成元年3月2日 塩見訴訟

 目次

 

・最判平成元年3月2日 塩見訴訟

要旨

国民年金法(昭和五六年法律第八六号による改正前のもの)一八一条一項の障害福祉年金の支給について適用される同法五六条一項ただし書は、憲法二五条、一四条一項に違反しない。

 

判旨

 一 原審の適法に確定したところによれば、本件の事実関係は次のとおりである。 上告人は、昭和九年六月二五日大阪市で出生し、幼少のころ罹患したはしかによつて失明し、昭和三四年一一月一日において昭和五六年法律第八六号による改正前の国民年金法(以下「法」という。)別表に定める一級に該当する程度の廃疾の状態にあつた。上告人は、昭和三四年一一月一日においては大韓民国籍であつたところ、昭和四五年一二月一六日帰化によつて日本国籍を取得した。上告人は、法八一条一項の障害福祉年金の受給権者であるとして、被上告人に対し右受給権の裁定を請求したところ、被上告人は、昭和四七年八月二一日同請求を棄却する旨の処分(以下「本件処分」という。)をした。本件処分の理由は、上告人は昭和三四年一一月一日において日本国民でなかつたから法八一条一項の障害福祉年金の受給権を有しないというものであつた。

 二 法八一条一項は、昭和一四年一一月一日以前に生まれた者が、昭和三四年一一月一日以前になおつた傷病により、昭和三四年一一月一日において法別表に定める一級に該当する程度の廃疾の状態にあるときは、法五六条一項本文の規定にかかわらず、その者に同条の障害福祉年金を支給する旨規定しているが、法五六条一項ただし書は廃疾認定日において日本国民でない者に対しては同条の障害福祉年金を支給しない旨規定しており、法八一条一項の障害福祉年金の支給に関しても当然に法五六条一項ただし書の規定の適用があるから、法八一条一項の障害福祉年金は、廃疾の認定日である昭和三四年一一月一日において日本国民でない者に対しては支給されないものと解すべきである。

 三 そこで、まず、法八一条一項が受ける法五六条一項ただし書の規定(以下「国籍条項」という。)及び昭和三四年一一月一日より後に帰化によつて日本国籍を取得した者に対し法八一条一項の障害福祉年金の支給をしないことが、憲法二五条の規定に違反するかどうかについて判断する。

 憲法二五条は、いわゆる福祉国家の理念に基づき、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みうるよう国政を運営すべきこと(一項)並びに社会的立法及び社会的施設の創造拡充に努力すべきこと(二項)を国の責務として宣言したものであるが、同条一項は、国が個々の国民に対して具体的・現実的に右のような義務を有することを規定したものではなく、同条二項によつて国の責務であるとされている社会的立法及び社会的施設の創造拡充により個々の国民の具体的・現実的な生活権が設定充実されてゆくものであると解すべきこと、そして、同条にいう「健康で文化的な最低限度の生活」なるものは、きわめて抽象的・相対的な概念であつて、その具体的内容は、その時々における文化の発達の程度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるとともに、同条の規定の趣旨を現実の立法として具体化するに当たつては、国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするから、同条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するに適しない事柄であるというべきことは、当裁判所大法廷判決(昭和二三年(れ)第二〇五号同年九月二九日判決・刑集二巻一〇号一二三五頁、昭和五一年(行ツ)第三〇号同五七年七月七日判決・民集三六巻七号一二三五頁)の判示するところである。

 そこで、本件で問題とされている国籍条項が憲法二五条の規定に違反するかどうかについて考えるに、国民年金制度は、憲法二五条二項の規定の趣旨を実現するため、老齢、障害又は死亡によつて国民生活の安定が損なわれることを国民の共同連帯によつて防止することを目的とし、保険方式により被保険者の拠出した保険料を基として年金給付を行うことを基本として創設されたものであるが、制度発足当時において既に老齢又は一定程度の障害の状態にある者、あるいは保険料を必要期間納付することができない見込みの者等、保険原則によるときは給付を受けられない者についても同制度の保障する利益を享受させることとし、経過的又は補完的な制度として、無拠出制の福祉年金を設けている。法八一条一項の障害福祉年金も、制度発足時の経過的な救済措置の一環として設けられた全額国庫負担の無拠出制の年金であつて、立法府は、その支給対象者の決定について、もともと広範な裁量権を有しているものというべきである。加うるに、社会保障上の施策において在留外国人をどのように処遇するかについては、国は、特別の条約の存しない限り、当該外国人の属する国との外交関係、変動する国際情勢、国内の政治・経済・社会的諸事情等に照らしながら、その政治的判断によりこれを決定することができるのであり、その限られた財源の下で福祉的給付を行うに当たり、自国民を在留外国人より優先的に扱うことも、許されるべきことと解される。したがつて、法八一条一項の障害福祉年金の支給対象者から在留外国人を除外することは、立法府の裁量の範囲に属する事柄と見るべきである。

 また、経過的な性格を有する右障害福祉年金の給付に関し、廃疾の認定日である制度発足時の昭和三四年一一月一日において日本国民であることを要するものと定めることは、合理性を欠くものとはいえない。昭和三四年一一月一日より後に帰化により日本国籍を取得した者に対し法八一条一項の障害福祉年金を支給するための措置として、右の者が昭和三四年一一月一日に遡り日本国民であつたものとして扱うとか、あるいは国籍条項を削除した昭和五六年法律第八六号による国民年金法の改正の効果を遡及させるというような特別の救済措置を講ずるかどうかは、もとより立法府の裁量事項に属することである。

 そうすると、国籍条項及び昭和三四年一一月一日より後に帰化によつて日本国籍を取得した者に対し法八一条一項の障害福祉年金の支給をしないことは、憲法二五条の規定に違反するものではないというべく、以上は当裁判所大法廷判決(昭和五一年(行ツ)第三〇号同五七年七月七日判決・民集三六巻七号一二三五頁、昭和五〇年(行ツ)第一二〇号同五三年一〇月四日判決・民集三二巻七号一二二三頁)の趣旨に徴して明らかというべきである。

 

 四 次に、国籍条項及び昭和三四年一一月一日より後に帰化によつて日本国籍を取得した者に対し法八一条一項の障害福祉年金の支給をしないことが、憲法一四条一項の規定に違反するかどうかについて考えるに、憲法一四条一項は法の下の平等の原則を定めているが、右規定は合理的理由のない差別を禁止する趣旨のものであつて、各人に存する経済的、社会的その他種々の事実関係上の差異を理由としてその法的取扱いに区別を設けることは、その区別が合理性を有する限り、何ら右規定に違反するものではないのである(最高裁昭和三七年(あ)第九二七号同三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五七九頁、同昭和三七年(オ)第一四七二号同三九年五月二七日大法廷判決・民集一八巻四号六七六頁参照)。ところで、法八一条一項の障害福祉年金の給付に関しては、廃疾の認定日に日本国籍がある者とそうでない者との間に区別が設けられているが、前示のとおり、右障害福祉年金の給付に関し、自国民を在留外国人に優先させることとして在留外国人を支給対象者から除くこと、また廃疾の認定日である制度発足時の昭和三四年一一月一日において日本国民であることを受給資格要件とすることは立法府の裁量の範囲に属する事柄というべきであるから、右取扱いの区別については、その合理性を否定することができず、これを憲法一四条一項に違反するものということはできない。

 

 五 さらに、国籍条項が憲法九八条二項に違反するかどうかについて判断する。

 所論の社会保障の最低基準に関する条約(昭和五一年条約第四号。いわゆるILO第一〇二号条約)六八条1の本文は「外国人居住者は、自国民居住者と同一の権利を有する。」と規定しているが、そのただし書は「専ら又は主として公の資金を財源とする給付又は給付の部分及び過渡的な制度については、外国人及び自国の領域外で生まれた自国民に関する特別な規則を国内の法令で定めることができる。」と規定しており、全額国庫負担の法八一条一項の障害福祉年金に係る国籍条項が同条約に違反しないことは明らかである。また、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(昭和五四年条約第六号)九条は「この規約の締約国は、社会保険その他の社会保障についてのすべての者の権利を認める。」と規定しているが、これは、締約国において、社会保障についての権利が国の社会政策により保護されるに値するものであることを確認し、右権利の実現に向けて積極的に社会保障政策を推進すべき政治的責任を負うことを宣明したものであつて、個人に対し即時に具体的権利を付与すべきことを定めたものではない。このことは、同規約二条1が締約国において「立法措置その他のすべての適当な方法によりこの規約において認められる権利の完全な実現を漸進的に達成する」ことを求めていることからも明らかである。したがつて、同規約は国籍条項を直ちに排斥する趣旨のものとはいえない。さらに、社会保障における内国民及び非内国民の均等待遇に関する条約(いわゆるILO第一一八号条約)は、わが国はいまだ批准しておらず、国際連合第三回総会の世界人権宣言、同第二六回総会の精神薄弱者の権利宣言、同第三〇回総会の障害者の権利宣言及び国際連合経済社会理事会の一九七五年五月六日の障害防止及び障害者のリハビリテーシヨンに関する決議は、国際連合ないしその機関の考え方を表明したものであつて、加盟国に対して法的拘束力を有するものではない。以上のように、所論の条約、宣言等は、わが国に対して法的拘束力を有しないか、法的拘束力を有していても国籍条項を直ちに排斥する趣旨のものではないから、国籍条項がこれらに抵触することを前提とする憲法九八条二項違反の主張は、その前提を欠くというべきである。

 六 以上と同旨の見解に立つて本件処分を適法とした原審の判断は、正当として

是認することができる。論旨は、採用することができない。

 



 目次

外国人の人権(5-2)社会権・

・最判平成16年1月15日 外国人と国民健康保険の被保険者資格


要旨

1 外国人が国民健康保険法5条所定の「住所を有する者」に該当するかどうかを判断する際には,在留資格の有無,その者の有する在留資格及び在留期間が重要な考慮要素となり,在留資格を有しない外国人がこれに該当するためには,単に保険者である市町村の区域内に居住しているという事実だけでは足りず,少なくとも,当該外国人が当該市町村を居住地とする外国人登録をして在留特別許可を求めており,入国の経緯,入国時の在留資格の有無及び在留期間,その後における在留資格の更新又は変更の経緯,配偶者や子の有無及びその国籍等を含む家族に関する事情,我が国における滞在期間,生活状況等に照らし,当該市町村の区域内で安定した生活を継続的に営み,将来にわたってこれを維持し続ける蓋然性が高いと認められることが必要である。

2 寄港地上陸許可を得て上陸し,上陸期間経過後も我が国に残留している外国人甲は,出生国での永住資格を喪失し,国籍も確認されない特殊な境遇から,やむなく残留し続けたもので,自ら入国管理局に出頭したにもかかわらず,不法滞在状態を解消することができなかったこと,甲の我が国での滞在期間は約22年間に及んでおり,国民健康保険の被保険者証の交付請求当時の居住地において稼働しながら,約13年間にわたり妻と我が国で出生した2人の子と共に家庭生活を営んできたこと,上記請求前に外国人登録をして在留特別許可を求めていたことなど判示の事情の下においては,国民健康保険法5条所定の「住所を有する者」に該当する。

(1,2につき意見がある。)

 

判旨

 1 本件は,在留資格を有しない外国人である上告人が,国民健康保険法(平成11年法律第160号による改正前のもの。以下「法」という。)9条2項に基づき,被上告人横浜市の委任を受けた横浜市a区長に対し,国民健康保険の被保険者証の交付を請求したところ,法5条所定の被保険者に該当しないとして被保険者証を交付しない旨の処分(以下「本件処分」という。)を受けたため,被上告人国が同条につき誤った解釈を前提とする通知を発し,横浜市a区長がこれに従ったことにより違法な本件処分がされたと主張して,被上告人らに対し,国家賠償法1条1項に基づき,損害賠償を請求した事案である。

 4 法は,国民健康保険事業の健全な運営を確保し,もって社会保障及び国民保健の向上に寄与することを目的とする(1条)ものであり,市町村及び特別区(以下,単に「市町村」という。)を保険者とし(3条1項),市町村の区域内に住所を有する者を被保険者として当該市町村が行う国民健康保険に強制的に加入させた上(5条),被保険者の疾病,負傷,出産又は死亡に関して必要な保険給付を行い(2条),被保険者の属する世帯の世帯主が納付する保険料(76条)又は国民健康保険税(地方税法703条の4)のほか,国の負担金(法69条1項,70条),調整交付金(72条)及び補助金(74条),都道府県及び市町村の補助金及び貸付金(75条),市町村の一般会計からの繰入金(72条の2)等をその費用に充てるものとしている。そして,法は,上記のとおり被保険者を規定した上で,その適用除外者を列挙し(6条),当該市町村の区域内に住所を有するに至った日又は6条各号のいずれにも該当しなくなった日からその資格を取得する(7条)ものとしている。昭和56年厚生省令第66号による改正前の国民健康保険法施行規則(昭和33年厚生省令第53号)1条2号は,「その他特別の理由がある者で厚生省令で定めるもの」を適用除外とする法6条8号の規定を受けて,「日本の国籍を有しない者。ただし,日本国との条約により,日本の国籍を有する者に対して,国民健康保険に相当する制度を定める法令の適用につき,内国民待遇を与えることを定めている国の国籍を有する者,日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定の実施に伴う出入国管理特別法(昭和40年法律第146号)第1条の許可を受けている者及び条例で定める国の国籍を有する者を除く。」を適用除外者として規定していたが,難民の地位に関する条約(昭和56年条約第21号)及び難民の地位に関する議定書(昭和57年条約第1号)が締約されたのを受けて,昭和56年厚生省令第66号によって国民健康保険法施行規則1条2号ただし書に「難民の地位に関する条約第1条の規定又は難民の地位に関する議定書第1条の規定により同条約の適用を受ける難民」が加えられ,さらに昭和61年厚生省令第6号によって国民健康保険法施行規則1条2号が削除された。

 このように,国民健康保険は,市町村が保険者となり,その区域内に住所を有する者を被保険者として継続的に保険料等の徴収及び保険給付を行う制度であることに照らすと,法5条にいう「住所を有する者」は,市町村の区域内に継続的に生活の本拠を有する者をいうものと解するのが相当である。そして,法は,5条において被保険者を定める一方,6条においてその適用除外者を定めており,日本の国籍を有しない者は,法制定当初は適用除外者とされていたものの,その後,これを適用除外者とする規定が削除されたことにかんがみれば,法5条が,日本の国籍を有しない者のうち在留資格を有しないものを被保険者から一律に除外する趣旨を定めた規定であると解することはできない。一般的には,社会保障制度を外国人に適用する場合には,そのよって立つ社会連帯と相互扶助の理念から,国内に適法な居住関係を有する者のみを対象者とするのが一応の原則であるということができるが,具体的な社会保障制度においてどの範囲の外国人を適用対象とするかは,それぞれの制度における政策決定の問題であり(最高裁昭和50年(行ツ)第98号同53年3月30日第一小法廷判決・民集32巻2号435頁参照),法の規定や国民健康保険法施行規則の改廃の経緯に照らして,法が上記の原則を当然の前提としているものと解することができないことは上述のとおりである。また,国民健康保険は,国民の税負担に由来する補助金や一般会計からの繰入金等によって費用の一部が賄われているとはいえ,基本的には,被保険者の属する世帯の世帯主が納付する保険料又は国民健康保険税によって保険給付を行う保険制度の一種であるから,我が国に適法に在留する資格のない外国人を被保険者とすることが国民健康保険の制度趣旨に反するとまでいうことはできない(なお,国民健康保険法(平成11年法律第160号による改正後のもの)6条8号は,「その他特別の理由がある者で厚生労働省令で定めるもの」を適用除外とする旨を定め,これを受けて,平成14年厚生労働省令117号による改正後の国民健康保険法施行規則1条は,「特別の事由のある者で条例で定めるもの」を適用除外者として規定しているところ,社会保障制度を外国人に適用する場合には,その対象者を国内に適法な居住関係を有する者に限定することに合理的な理由があることは上述のとおりであるから,国民健康保険法施行規則又は各市町村の条例において,在留資格を有しない外国人を適用除外者として規定することが許されることはいうまでもない。)。

 もっとも,我が国に在留する外国人は,憲法上我が国に在留する権利ないし引き続き在留することを要求することができる権利を保障されているものではなく(最高裁昭和50年(行ツ)第120号同53年10月4日大法廷判決・民集32巻7号1223頁),入管法及び他の法律に特別の規定がある場合を除き,当該外国人に対する上陸許可若しくは当該外国人の取得に係る在留資格又はそれらの変更に係る在留資格をもって在留し(入管法2条の2第1項),各在留資格について法務省令で定められた在留期間に限って在留することが認められるにすぎない(同法2条の2第3項)。在留期間の更新を受けようとする外国人は,法務大臣に対し在留期間の更新を申請しなければならず(同法21条2項),法務大臣は,当該外国人が提出した文書により在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由があるときに限り,これを許可することができる(同条3項)。そして,我が国に不法に入国した者はもとより,寄港地上陸の許可等を受け,又は在留資格を得て適法に入国した者であっても,旅券又は当該許可書に記載された期間を経過して残留し,又は在留期間の更新若しくは変更を受けないで在留期間を経過して残留するものについては,我が国からの退去を強制することができる(同法24条1号,2号,4号ロ,6号等)ものとされている。このような我が国に在留する外国人の法的地位にかんがみると,外国人が法5条所定の「住所を有する者」に該当するかどうかを判断する際には,当該外国人が在留資格を有するかどうか,その者の有する在留資格及び在留期間がどのようなものであるかが重要な考慮要素となるものというべきである。そして,在留資格を有しない外国人は,入管法上,退去強制の対象とされているため,その居住関係は不安定なものとなりやすく,将来にわたって国内に安定した居住関係を継続的に維持し得る可能性も低いのであるから,在留資格を有しない外国人が法5条所定の「住所を有する者」に該当するというためには,単に市町村の区域内に居住しているという事実だけでは足りず,少なくとも,当該外国人が,当該市町村を居住地とする外国人登録をして,入管法50条所定の在留特別許可を求めており,入国の経緯,入国時の在留資格の有無及び在留期間,その後における在留資格の更新又は変更の経緯,配偶者や子の有無及びその国籍等を含む家族に関する事情,我が国における滞在期間,生活状況等に照らし,当該市町村の区域内で安定した生活を継続的に営み,将来にわたってこれを維持し続ける蓋然性が高いと認められることが必要であると解するのが相当である。

 

 5 これを本件についてみると,【要旨2】前記事実関係等によれば,① 上告人は,寄港地上陸許可を得て上陸し,上陸期間経過後も我が国に残留している外国人であるが,② いわゆる在外華僑として大韓民国で出生し,同国での永住資格を喪失し,台湾でも国籍が確認されないという特殊な境遇にあったため,やむなく我が国に残留し続け,この間,不法滞在状態を解消するため,2度にわたり,自ら入国管理局に出頭したものの,上記事情から不法滞在状態を解消することができず,その後入国管理局からは何の連絡もなかったものであり,③ 本件処分までの滞在期間は約22年間もの長期に及び,本件処分当時の居住地である横浜市では,調理師として稼働しながら,約13年間にわたって妻と我が国で生まれた2人の子と共に定住して家庭生活を営んできたものであって,④ 本件請求時には,横浜市を居住地とする外国人登録をして,在留特別許可を求めており,その約半年後には,在留資格を定住者とする在留特別許可を受けたというのである。これらの事情に照らせば,上告人は,被上告人横浜市の区域内で家族と共に安定した生活を継続的に営んでおり,将来にわたってこれを維持し続ける蓋然性が高いものと認められ,法5条にいう「住所を有する者」に該当するというべきである。

 

 

 

 

 

 

【裁判官横尾和子,同泉徳治の意見】

 私たちは,本件処分が違法とはいえないとした原審の判断を正当と考える。その

理由は,次のとおりである。

 1 国民健康保険制度は,市町村を保険者とし,当該市町村の区域内に住所を有する者を被保険者としている。今日,国民健康保険制度の維持運営には,国,都道府県及び市町村から相当額の予算が投入されているとはいえ,同制度は,当該市町村の区域内に住所を有する者を被保険者として強制加入させて保険団体を形成した上,被保険者の属する世帯の世帯主に保険料又は国民健康保険税の納付を義務付けて共同の基金を作り,これを主たる財源の一つとして,偶発的に疾病等の保険事故に遭遇した住民に療養等の保険給付を行い,当該住民個人の経済的負担を市町村の住民全員で分担するもので,住民の相扶共済の精神に立脚した地域保険である(最高裁昭和30年(オ)第478号同33年2月12日大法廷判決・民集12巻2号190頁参照)。この地域保険としての性格は,制度発足以来変わるところがなく,国民健康保険制度の健全な維持運営のためには,住民の強制加入と,大数の法則,収支均等の原則を基本として算出される保険料等の徴収が不可欠であり,また,疾病等が発生した場合に初めて加入するという,保険事故の偶発性を排除するいわゆる逆選択を防止する必要もある。国民健康保険の被保険者を定める法5条の「住所」は,客観的居住の事実を基礎とし,これに当該居住者の主観的居住意思を総合して認定するべきであるが,国民健康保険の上記のような地域保険としての性格に照らし,この居住には継続性・安定性が要求される。

  2 そして,上記の居住の継続性・安定性の要請から,外国人が日本国内に法5条の住所を有するというためには,入管法により相当の在留資格と在留期間を付与され,法律上も一定期間継続して適法に居住し得る地位にあることが必要であるというべきである。在留資格を有しない外国人は,いつでも日本から退去を強制され得る状態にあり(入管法24条),処罰の対象ともされているのであって(入管法70条),日本国内での居住を保障されておらず,日本国内に生活の本拠を置くことが法律上認められていないというべきであるから,その居住地を法5条の住所と評価することはできない。在留資格を有しない不法滞在外国人は,地域保険たる国民健康保険の被保険者となるになじまないものというべきである。

 3 上告人は,昭和60年12月ころから,配偶者及び2人の子と共に,いずれも在留資格のないまま横浜市a区内に居住していたが,平成10年3月,子の1人が脳腫瘍に罹患していることが判明し,同年5月1日,東京入国管理局横浜支局において在留特別許可を申請し,同月20日付けで,横浜市a区長に対し国民健康保険被保険者証の交付を求める申請をしたところ,被上告人横浜市の委任を受けた同区長は,同年6月9日,上告人に対し,上告人には在留資格がなく,法5条所定の被保険者に該当しないことを理由に国民健康保険被保険者証を交付しない旨の本件処分をした。同区長が在留資格のない上告人に対し本件処分を行ったことは,上記のような理由により適法である。そして,同区長は,上告人が同年11月24日に在留資格を「定住者」,在留期間を1年とする在留特別許可を取得したのを受けて,翌25日付けで上告人に対し国民健康保険被保険者証を交付した。すなわち,同区長は,同年5月1日に在留特別許可を申請した上告人が,約半年後に在留特別許可を付与されたのを待って,その翌日には国民健康保険被保険者証を交付しているのであるから,本件処分を含めた同区長の上記一連の行為に違法と評価すべきものはない。上告人は,在留特別許可の申請をした約20日後に国民健康保険被保険者証の交付を申請しているが,このような場合に国民健康保険被保険者証を直ちに交

付すべきものとすれば,前記のいわゆる逆選択を招くおそれがあるといわなければ

ならない。原審の判断は正当である。

 4 法廷意見は,在留資格のない外国人について,外国人登録をしていること及び入管法50条所定の在留特別許可を求めていることを条件とした上で,当該市町村の区域内で安定した生活を継続的に営み,将来にわたってこれを維持し続ける蓋然性が高いと認められる場合には,当該外国人を法5条の「住所を有する者」と認定すべきであるという。法廷意見は,言葉を換えれば,在留特別許可が与えられる可能性が高い場合は,当該外国人を法5条の「住所を有する者」と認定すべきであるというものであり,国民健康保険の保険者たる市町村の長に対し在留特別許可の与えられる可能性をあらかじめ判断させ,その判断を誤って国民健康保険被保険者証不交付処分を行えば,当該処分は違法の評価を受けるというものである。しかし,在留特別許可の付与は,国家主権発動の一つとして政府(所管者法務大臣)が一元的に行うものであり,しかも政府の広範な裁量にゆだねられているものである(最高裁昭和29年(あ)第3594号同32年6月19日大法廷判決・刑集11巻6号1663頁,最高裁昭和34年(オ)第32号同34年11月10日第三小法廷判決・民集13巻12号1493頁,最高裁昭和50年(行ツ)第120号同53年10月4日大法廷判決・民集32巻7号1223頁参照)。このような出入国管理制度の建前に照らし,市町村長に上記のような判断を求めることは相当でない(むしろ,市町村長は,入管法62条2項の規定により,不法残留者を通報すべき義務を課せられているのである。)。

 


 目次


外国人の人権(6)外国人指紋押捺

 

【外国人の指紋押捺】

 

・平成71215日 外国人指紋押なつ拒否事件

要旨

一 何人も個人の私生活上の自由の一つとしてみだりに指紋の押なつを強制されない自由を有し、国家機関が正当な理由もなく指紋の押なつを強制することは、憲法一三条の趣旨に反し許されない。

 

二 我が国に在留する外国人について指紋押なつ制度を定めた外国人登録法(昭和五七年法律第七五号による改正前のもの)一四条一項、一八条一項八号は、憲法一三条に違反しない。

 

判旨

 本件は、アメリカ合衆国国籍を有し現にハワイに在住する被告人が、昭和五六年一一月九日、当時来日し居住していた神戸市a区において新規の外国人登録の申請をした際、外国人登録原票、登録証明書及び指紋原紙二葉に指紋の押なつをしなかったため、外国人登録法の右条項に該当するとして起訴された事案である。

 指紋は、指先の紋様であり、それ自体では個人の私生活や人格、思想、信条、良心等個人の内心に関する情報となるものではないが、性質上万人不同性、終生不変性をもつので、採取された指紋の利用方法次第では個人の私生活あるいはプライバシーが侵害される危険性がある。このような意味で、指紋の押なつ制度は、国民の私生活上の自由と密接な関連をもつものと考えられる。

 

 憲法一三条は、国民の私生活上の自由が国家権力の行使に対して保護されるべきことを規定していると解されるので、個人の私生活上の自由の一つとして、何人もみだりに指紋の押なつを強制されない自由を有するものというべきであり、国家機関が正当な理由もなく指紋の押なつを強制することは、同条の趣旨に反して許されず、また、右の自由の保障は我が国に在留する外国人にも等しく及ぶと解される(最高裁昭和四〇年(あ)第一一八七号同四四年一二月二四日大法廷判決・刑集二三巻一二号一六二五頁、最高裁昭和五〇年(行ッ)第一二〇号同五三年一〇月四日大法廷判決・民集三二巻七号一二二三頁参照)。

 

 しかしながら、右の自由も、国家権力の行使に対して無制限に保護されるものではなく、公共の福祉のため必要がある場合には相当の制限を受けることは、憲法一三条に定められているところである。

 

 そこで、外国人登録法が定める在留外国人についての指紋押なつ制度についてみると、同制度は、昭和二七年に外国人登録法(同年法律第一二五号)が立法された際に、同法一条の「本邦に在留する外国人の登録を実施することによって外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もって在留外国人の公正な管理に資する」という目的を達成するため、戸籍制度のない外国人の人物特定につき最も確実な制度として制定されたもので、その立法目的には十分な合理性があり、かつ、必要性も肯定できるものである。また、その具体的な制度内容については、立法後累次の改正があり、立法当初二年ごとの切替え時に必要とされていた押なつ義務が、その後三年ごと、五年ごとと緩和され、昭和六二年法律第一〇二号によって原則として最初の一回のみとされ、また、昭和三三年律第三号によって在留期間一年未満の者の押なつ義務が免除されたほか、平成四年法律第六六号によって永住者(出入国管理及び難民認定法別表第二上欄の永住者の在留資格をもつ者)及び特別永住者(日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法に定める特号永住者)にっき押なつ制度が廃止されるなど社会の状況変化に応じた改正が行われているが、本件当時の制度内容は、押なつ義務が三年に一度で、押なつ対象指紋も一指のみであり、加えて、その強制も罰則による間接強制にとどまるものであって、精神的、肉体的に過度の苦痛を伴うものとまではいえず、方法としても、一般的に許容される限度を超えない相当なものであったと認められる。

 

 右のような指紋押なつ制度を定めた外国人登録法一四条一項、一八条一項八号が憲法一三条に違反するものでないことは当裁判所の判例(前記最高裁昭和四四年一

二月二四日大法廷判決、最高裁昭和二九年(あ)第二七七七号同三一年一二月二六

日大法廷判決・刑集一〇巻一二号一七六九頁)の趣旨に徴し明らかであり、所論は

理由がない。

 

 

  14条違反について

 所論は、指紋押なつ制度を定めた外国人登録法の前記各条項は外国人を日本人

と同一の取扱いをしない点で憲法一四条に違反すると主張する。しかしながら、在

留外国人を対象とする指紋押なつ制度は、前記一のような目的、必要性、相当性が

認められ、戸籍制度のない外国人については、日本人とは社会的事実関係上の差異

があって、その取扱いの差異には合理的根拠があるので、外国人登録法の同条項が

憲法一四条に違反するものでないことは、当裁判所の判例(最高裁昭和二六年(あ)

第三九一一号同三〇年一二月一四日大法廷判決・刑集九巻一三号二七五六頁、最高

裁昭和三七年(あ)第九二七号同三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号

五七九頁)の趣旨に徴し明らかであり、所論は理由がない。

 

  19条違反について

 所論は、指紋押なつ制度を定めた外国人登録法の前記各条項は外国人の思想、

良心の自由を害するもので憲法一九条に違反すると主張するが、指紋は指先の紋様

でありそれ自体では思想、良心等個人の内心に関する情報となるものではないし、

同制度の目的は在留外国人の公正な管理に資するため正確な人物特定をはかること

にあるのであって、同制度が所論のいうような外国人の思想、良心の自由を害する

ものとは認められないから、所論は前提を欠く。

 

 

 

【最判平成10年4月10日 再入国不許可処分取消等請求平成6(行ツ)153

要旨

いわゆる協定永住許可を受けていた者に対してされた指紋押なつ拒否を理由とする再入国不拒可処分が違法とはいえないとされた事例

 

法務大臣が、日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定の実施に伴う出入国管理特別法一条の規定に基づく許可を受けて本邦で永住することができる地位を有していた者に対し、外国人登録法(昭和六二年法律第一〇二号による改正前のもの)一四条一項に基づく指紋の押なつを拒否していることを理由としてした再入国不許可処分は、当時の社会情勢や指紋押なつ制度の維持による在留外国人及びその出入国の公正な管理の必要性など判示の諸事情に加えて、再入国の許否の判断に関する法務大臣の裁量権の範囲がその性質上広範なものとされている趣旨にもかんがみると、右不許可処分が右の者に与えた不利益の大きさ等を考慮してもなお、違法であるとまでいうことはできない。

 

判旨

 1 一般に、出入国に関する事務は国際法上国内事項とされていて、外国人の入国にいかなる条件を課するかは専らその国の立法政策にゆだねられているところ、我が国の出入国管理及び難民認定法は、再入国の許可を受けて本邦から出国した外国人に限って、当該外国人の有していた在留資格のままで本邦に再び入国することを認めるものとしている。そして、再入国の許可の要件について、同法二六条一項は、法務大臣は、本邦に在留する外国人(同法一三条から一八条までに規定する上陸の許可を受けている者を除く。)がその在留期間(在留期間の定めのない者にあっては、本邦に在留し得る期間)の満了の日以前に本邦に再び入国する意図をもって出国しようとするときは、法務省令で定める手続により、その者の申請に基づき、再入国の許可を与えることができる旨規定するのみで、右許可の判断基準について特に規定していないが、右は、再入国の許否の判断を法務大臣の裁量に任せ、その裁量権の範囲を広範なものとする趣旨からであると解される。なぜならば、法務大臣は、再入国の許可申請があったときは、我が国の国益を保持し出入国の公正な管理を図る観点から、申請者の在留状況、渡航目的、渡航の必要性、渡航先国と我が国との関係、内外の諸情勢等を総合的に勘案した上、その許否につき判断すべきであるが、右判断は、事柄の性質上、出入国管理行政の責任を負う法務大臣の裁量に任せるのでなければ到底適切な結果を期待することができないものだからである。 右のような再入国の許否の判断に関する法務大臣の裁量権の性質にかんがみると、再入国の許否に関する法務大臣の処分は、その判断が全く事実の基礎を欠き、又は社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかである場合に限り、裁量権の範囲を超え、又はその濫用があったものとして違法となるものというべきである(最高裁昭和五〇年(行ツ)第一二〇号同五三年一〇月四日大法廷判決・民集三二巻七号一二二三頁参照)。

 2 以上の見地に立って、本件不許可処分に係る法務大臣の判断が裁量権の範囲を超え又はその濫用があったものとして違法であるか否かにつき検討する。

 前記事実関係等によれば、本件不許可処分は、協定永住資格を有する上告人が、渡航先国である米国における大学留学を旅行目的として本件許可申請をしたのに対し、被上告人が指紋押なつ拒否者の増加という事態に対する対応策として打ち出した指紋押なつ拒否者に対しては原則として再入国の許可を与えないという方針に基づき、上告人が外国人登録法(昭和六二年法律第一〇二号による改正前のもの)一四条一項の規定に違反して指紋の押なつを拒否していることを専らその理由としてされたものであって、他に法務大臣が上告人の右許可申請に対する許否の判断に当たり右申請を許可することが相当でない事由として考慮した事情の存在はうかがわれない。 出入国管理特別法一条の規定に基づき本邦で永住することを許可されている大韓民国国民については、日韓地位協定三条、出入国管理特別法六条一項所定の事由に該当する場合に限って、出入国管理及び難民認定法二四条の規定による退去強制をすることができるものとされていることに加えて、日韓地位協定四条(a)の規定により、日本国政府は我が国における教育、生活保護及び国民健康保険に関する事項について妥当な考慮を払うものとされ、右規定の趣旨に沿って行政運用上日本国民と同等の取扱いがされているのであって、このような協定永住資格を有する者による再入国の許可申請に対する法務大臣の許否の判断に当たっては、その者の本邦における生活の安定という観点をもしんしゃくすべきである。しかるところ、本件不許可処分がされた結果、上告人は、協定永住資格を保持したまま留学を目的として米国へ渡航することが不可能となり、協定永住資格を保持するために右渡航を断念するか又は右渡航を実現するために協定永住資格を失わざるを得ない状況に陥ったものということができるのであって、本件不許可処分によって上告人の受けた右の不利益は重大である。

 しかしながら、そもそも、外国人登録法が定める指紋押なつ制度は、本邦に在留する外国人の登録を実施することによって外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もって在留外国人の公正な管理に資するという目的を達成するため、戸籍制度のない外国人の人物特定につき最も確実な制度として規定されたものであって、出入国の公正な管理を図るという出入国管理行政の目的にも資するものであるから、法務大臣が、指紋押なつの拒否が出入国管理行政にもたらす弊害にかんがみ、再入国の許可申請に対する許否の判断に当たって、右申請をした外国人が同法の規定に違反して指紋の押なつを拒否しているという事情を右申請を許可することが相当でない事由として考慮すること自体は、法務大臣の前記裁量権の合理的な行使として許容し得るものというべきである。のみならず、その後の推移はともかく、本件不許可処分がされた当時は、指紋押なつ拒否運動が全国的な広がりを見せ、指紋の押なつを留保する者が続出するという社会情勢の下にあって、出入国管理行政に少なからぬ弊害が生じていたとみられるのであり、被上告人において、指紋押なつ制度を維持して在留外国人及びその出入国の公正な管理を図るため、指紋押なつ拒否者に対しては再入国の許可を与えないという方針で臨んだこと自体は、その必要性及び合理性を肯定し得るところであり、その結果、外国人の在留資格いかんを問わずに右方針に基づいてある程度統一的な運用を行うことになったとしても、それなりにやむを得ないところがあったというべきである。他方で、前記事実関係等によれば、上告人は、本件不許可処分の前のみならずその後も指紋押なつの拒否を繰り返しており、上告人が外国人登録制度を遵守しないことを表明し、これを実施したものと被上告人に受け止められても無理からぬ面があったといえなくもない。

 右のような本件不許可処分がされた当時の社会情勢や指紋押なつ制度の維持による在留外国人及びその出入国の公正な管理の必要性その他の諸事情に加えて、前示のとおり、再入国の許否の判断に関する法務大臣の裁量権の範囲がその性質上広範なものとされている趣旨にもかんがみると、協定永住資格を有する者についての法務大臣の右許否の判断に当たってはその者の本邦における生活の安定という観点をもしんしゃくすべきであることや、本件不許可処分が上告人に与えた不利益の大きさ、本件不許可処分以降、在留外国人の指紋押なつ義務が軽減され、協定永住資格を有する者についてはさらに指紋押なつ制度自体が廃止されるに至った経緯等を考慮してもなお、右処分に係る法務大臣の判断が社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかであるとはいまだ断ずることができないものというべきである。したがって、右判断は、裁量権の範囲を超え、又はその濫用があったものとして違法であるとまでいうことはできない。

 

【最判平成10年4月10日 平成6(行ツ)152

要旨

1.再入国不許可処分を受けた者が再入国許可を受けないまま本邦から出国したときは、在留資格の消滅によって、不許可処分が取り消されても従来の在留資格のまま再入国する余地はなくなるから、その取消しによって回復すべき法律上の利益を失う。

2.再入国不許可処分を受けた者が本邦から出国した場合には、右不許可処分の取消しを求める訴えの利益は失われる。

 

判旨

 再入国の許可申請に対する不許可処分を受けた者が再入国の許可を受けないまま本邦から出国した場合には、右不許可処分の取消しを求める訴えの利益は失われるものと解するのが相当である。その理由は、次のとおりである。

 本邦に在留する外国人が再入国の許可を受けないまま本邦から出国した場合には、同人がそれまで有していた在留資格は消滅するところ、出入国管理及び難民認定法二六条一項に基づく再入国の許可は、本邦に在留する外国人に対し、新たな在留資格を付与するものではなく、同人が有していた在留資格を出国にもかかわらず存続させ、右在留資格のままで本邦に再び入国することを認める処分であると解される。そうすると、再入国の許可申請に対する不許可処分を受けた者が再入国の許可を受けないまま本邦から出国した場合には、同人がそれまで有していた在留資格が消滅することにより、右不許可処分が取り消されても、同人に対して右在留資格のままで再入国することを認める余地はなくなるから、同人は、右不許可処分の取消しによって回復すべき法律上の利益を失うに至るものと解すべきである。そして、右の理は、右不許可処分を受けた者が日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定の実施に伴う出入国管理特別法(以下「出入国管理特別法」という。)一条の許可を受けて本邦に永住していた場合であっても、異なるところがないというべきである。

 

 


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外国人の人権(7)外国渡航の自由・最大判昭和33年9月10日・最大判昭和32年12月25日・最判平成4年11月16日

 

 

【最大判昭和33年9月10日】

要旨

一 旅券法第一三条第一項第五号は、外国旅行の自由に対し、公共の福祉のため合理的な制限を定めたもので、憲法第二二条第二項に違反しない。

二 原審認定の事実関係(原判決参照)、特に占領治下我国の当面する国際情勢の下において、外務大臣が上告人らのモスコー国際経済会議への参加を旅券法第一三条第一項第五号にあたると判断してなした旅券発給拒否の処分は、違法とはいえない。

 

判旨

憲法二二条二項の「外国に移住する自由」には外国へ一時旅行する自由を

も含むものと解すべきであるが、外国旅行の自由といえども無制限のままに許され

るものではなく、公共の福祉のために合理的な制限に服するものと解すべきである。

そして旅券発給を拒否することができる場合として、旅券法一三条一項五号が「著

しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足り

る相当の理由がある者」と規定したのは、外国旅行の自由に対し、公共の福祉のた

めに合理的な制限を定めたものとみることができ(る)。

旅券法一三条一項五号は、公共の福祉のために外国旅行の自由を合理的に制限したものと解すべきであることは、既に述べたとおりであつて、日本国の利益又は公安を害する行為を将来行う虞れある場合においても、なおかつその自由を制限する必要のある場合のありうることは明らかであるから、同条をことさら所論のごとく「明白かつ現在の危険がある」場合に限ると解すべき理由はない。

 

【最大判昭和32年12月25日】

要旨

一 出入国管理令第二五条は、憲法第二二条第二項に違反しない。

二 被告人が勾留状の執行により未決勾留中、他の事件の確定判決により懲役刑の執行を受けるに至つたときは、懲役刑の執行と競合する未決勾留日数を本刑に算入することは違法である。

 

判旨

憲法二二条二項は「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」と規定しており、ここにいう外国移住の自由は、その権利の性質上外国人に限つて保障しないという理由はない。次に、出入国管理令二五条一項は、本邦外の地域におもむく意図をもつて出国しようとする外国人は、その者が出国する出入国港において、入国審査官から旅券に出国の証印を受けなければならないと定め、同二項において、前項の外国人は、旅券に証印を受けなければ出国してはならないと規定している。右は、出国それ自体を法律上制限するものではなく、単に、出国の手続に関する措置を定めたものであり、事実上かゝる手続的措置のために外国移住の自由が制限される結果を招来するような場合があるにしても、同令一条に規定する本邦に入国し、又は本邦から出国するすべての人の出入国の公正な管理を行うという目的を達成する公共の福祉のため設けられたものであつて、合憲性を有するものと解すべきである。

 

【最大判昭和32年6月19日】

要旨

一 憲法第二二条は外国人の日本国に入国することについてなにら規定していないものというべきである。

二 外国人登録令第三条、第一二条は憲法第二二条に違反しない。

 

判旨

 所論は、憲法二二条は当然に外国人が日本国に入国する自由をも保障しているものと解すべきであるから、外国人登録令三条、一二条は、憲法二二条に違反する旨主張する。

 よつて案ずるに、憲法二二条一項には、何人も公共の福祉に反しない限り居住・移転の自由を有する旨規定し、同条二項には、何人も外国に移住する自由を侵されない旨の規定を設けていることに徴すれば、憲法二二条の右の規定の保障するところは、居住・移転及び外国移住の自由のみに関するものであつて、それ以外に及ばず、しかもその居住・移転とは、外国移住と区別して規定されているところから見れば、日本国内におけるものを指す趣旨であることも明らかである。そしてこれらの憲法上の自由を享ける者は法文上日本国民に局限されていないのであるから、外国人であつても日本国に在つてその主権に服している者に限り及ぶものであることも、また論をまたない。されば、憲法二二条は外国人の日本国に入国することについてはなにら規定していないものというべきであつて、このことは、国際慣習法上、外国人の入国の許否は当該国家の自由裁量により決定し得るものであつて、特別の条約が存しない限り、国家は外国人の入国を許可する義務を負わないものであることと、その考えを同じくするものと解し得られる。従つて、所論の外国人登録令の規定の違憲を主張する論旨は、理由がないものといわなければならない。

 

 

【最判平成4年11月16日】

要旨

我が国に在留する外国人は、憲法上、外国へ一時旅行する自由を保障されていない。

 

判旨

 我が国に在留する外国人は、憲法上、外国へ一時旅行する自由を保障されている

ものでないことは、当裁判所大法廷判決(最高裁昭和二九年(あ)第三五九四号同

三二年六月一九日判決・刑集一一巻六号一六六三頁、昭和五〇年(行ツ)第一二〇

号同五三年一〇月四日判決・民集三二巻七号一二二三頁)の趣旨に徴して明らかで

ある。

 

 

【東京高裁 昭和43年12月18日】

要旨

1、再入国許可申請書の旅行日程の最終日が経過しても、右日程に従わなければ旅行(祖国訪問)の意義がないということでなければ、申請に対する不許可処分取消しを求める訴えの利益がある。

2、一時的海外旅行の自由は、憲法22条1項によつて保証され、日本国内に存住する外国人は同本人と同様、公共の福祉に反しない限りこの自由を享有する権利がある。

3、北朝鮮の政府を承認していないこと、北朝鮮からの再入国を許可すると韓国との修交上問題が起リ得る虞があることは、北朝鮮からの再入国を許可しない正当の理由とはならない。

 

判旨

日本国民の基本的自由権の一つである一時的海外旅行の自由は、憲法第二二条第一項によつて保障されると解する(同条第二項によるとしても公共の福祉による制限をうけると解する限りは結論において等しい。)が、日本国の領土内に存在する外国人は、日本国の主権に服すると共にその身体、財産、基本的自由等の保護をうける権利があることは明らかであるから、日本国民が憲法第二二条第一項(または第二項)によつて享受すると同様に、公共の福祉に反しない限度で海外旅行の自由を享有する権利があるといつてよい(同条項が在留外国人に対しても直接適用があると解すればなおさらのことである。)。然して、被控訴人らが、ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律第二条第六項によつてわが国に在留する権限のある者であることは争がなく、その経歴、家族構成が原判決事実摘示のとおりであることは原審の被控訴人許本人尋問の結果から認められるところであり、ただ被控訴人らが朝鮮民主主義人民共和国の公民であるため、現時点では大韓民国国民の有するような永住許可申請権(昭和四〇年法律第一四六号による。)を有しないけれども、在留期間の制限をうけない点では、永住権者と同視すべき外国人であるから、被控訴人らは海外旅行に関して、日本国民と同様な自由の保障を与えられているということができる。本件再入国許可申請の実質は海外旅行の許可の申請であるから、本件申請に対して出入国管理令第二六条による許否を決するに当つては、右に述べた趣旨に則ることが要請されるのであつて、この点は原審の判断(判決理由二1末尾「上記管理令の条項は」以下)と帰結するところが等しい。ところで控訴人は、不許可処分の理由として、(一)北朝鮮にはわが国が承認した政府がなく国交が開かれていないこと、(ニ)本件申請を許可することはわが国と大韓民国との修交上および在日朝鮮人の管理上国益に沿わない結果となることを挙示する。

わが国と大韓民国とは国交を開いていて、在日同国民の法的地位等についてはすでに協定が成立し、これに伴う特別法も施行されているが、わが国と朝鮮民主主義人民共和国との間には国交がなく、在日同国公民については右のような協定が成立していないこと、右両国の国民の間に、国境線をはさんで時に不穏の動きがあることが報道され、またわが国内でも時に大韓民国居留民団と在日朝鮮人総聯合会との各構成員間の確執が報ぜられることは、すべて公知のことがらである。かような事情に着目すれば、本件申請を許可した後の国際および国内の事態について、控訴人が何らかの危惧をいだくことは故なしとせず、それ故にこそ控訴人は政策として申請を許可しなかつたものと考えられる。しかしながらわが国の国益というものは、究極においては憲法前文にあるとおり、いずれの国の国民とも協和することの中に見出すべきものであるから、一国との修交に支障を生ずる虞があるからといつて、他の一国の国民が本来享有する自由権を行使することをもつて、ただちにわが国の国益を害するものと断定することは極めて偏頗であり誤りといわなければならない。すなわち、元来政府の政策は、国益や公共の福祉を目標として企画実施されるべきことは多言を要しないが、政策と公共の福祉とは同義ではないから、或人々が本来享有する海外旅行の自由を行使することが、たとえ政府の当面の政策に沿わないものであつても、政策に沿わないということのみで右自由権の行使が公共の福祉に反するとの結論は導かれないのである。そうして本件では、今後の事態については具体的な主張立証もないから、それは憶測の域を出ないものと思われ、わが国に対する明白な危険が予知されているとは認められないので、結局被控訴人らの海外旅行が、(旅券法第一三条の表現を借りるならば)著しくかつ直接に国益を害する虞があることすなわち公共の福祉に反するものであることは、確定されないことに

帰着する。よつて控訴人主張の事由は本件不許可処分を正当とする理由とはなし得ない。


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外国人の人権(8) 戦後補償・最判平成16年11月29日 / 亡命者・政治難民の保護・最判昭和51年1月26日

 

【戦後補償】

【最判平成16年11月29日】

要旨

1 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(昭和40年条約第27号)の締結後,旧日本軍の軍人軍属等であったが日本国との平和条約により日本国籍を喪失した大韓民国に在住する韓国人に対して何らかの措置を講ずることなく戦傷病者戦没者遺族等援護法附則2項,恩給法9条1項3号を存置したことは,憲法14条1項に違反するということはできない。

2 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律は,憲法17条,29条2項,3項に違反するということはできない。

 

判旨

 1 上告代理人高木健一ほかの上告理由第1の2のうち憲法29条3項に基づく

補償請求に係る部分について

 (1) 軍人軍属関係の上告人らが被った損失は,第二次世界大戦及びその敗戦によって生じた戦争犠牲ないし戦争損害に属するものであって,これに対する補償は,憲法の全く予想しないところというべきであり,このような戦争犠牲ないし戦争損害に対しては,単に政策的見地からの配慮をするかどうかが考えられるにすぎないとするのが,当裁判所の判例の趣旨とするところである(最高裁昭和40年(オ)第417号同43年11月27日大法廷判決・民集22巻12号2808頁)。したがって,軍人軍属関係の上告人らの論旨は採用することができない(最高裁平成12年(行ツ)第106号同13年11月16日第二小法廷判決・裁判集民事203号479頁参照)。

 (2) いわゆる軍隊慰安婦関係の上告人らが被った損失は,憲法の施行前の行為によって生じたものであるから,憲法29条3項が適用されないことは明らかである。したがって,軍隊慰安婦関係の上告人らの論旨は,その前提を欠き,採用することができない。

 2 同第1の2のうち憲法の平等原則に基づく補償請求に係る部分について財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(昭和40年条約第27号)の締結後,旧日本軍の軍人軍属又はその遺族であったが日本国との平和条約により日本国籍を喪失した大韓民国に在住する韓国人に対して何らかの措置を講ずることなく戦傷病者戦没者遺族等援護法附則2項,恩給法9条1項3号の各規定を存置したことが憲法14条1項に違反するということができないことは,当裁判所の大法廷判決(最高裁昭和37年(オ)第1472号同39年5月27日大法廷判決・民集18巻4号676頁,最高裁昭和37年(あ)第927号同39年11月18日大法廷判決・刑集18巻9号579頁等)の趣旨に徴して明らかである(最高裁平成10年(行ツ)第313号同13年4月5日第一小法廷判決・裁判集民事202号1頁,前掲平成13年11月16日第二小法廷判決,最高裁平成12年(行ツ)第191号同14年7月18日第一小法廷判決・裁判集民事206号833頁参照)。したがって,論旨は採用することができない。

 3 同第1の2のうち,財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律(昭和40年法律第144号)の憲法17条,29条2項,3項違反をいう部分について

 第二次世界大戦の敗戦に伴う国家間の財産処理といった事項は,本来憲法の予定しないところであり,そのための処理に関して損害が生じたとしても,その損害に対する補償は,戦争損害と同様に憲法の予想しないものというべきであるとするのが,当裁判所の判例の趣旨とするところである(前掲昭和43年11月27日大法廷判決)。したがって,上記法律が憲法の上記各条項に違反するということはできず,論旨は採用することができない(最高裁平成12年(オ)第1434号平成13年11月22日第一小法廷判決・裁判集民事203号613頁参照)。

 

【亡命者・政治難民の保護】

【最判昭和51年1月26日】

要旨

いわゆる政治犯罪人不引渡の原則は、未だ確立した一般的な国際慣習法とは認められない。

 

判旨

 いわゆる政治犯罪人不引渡の原則は未だ確立した一般的な国際慣習法であると認められないとした原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし正当として是認することができる。

 逃亡犯罪人引渡法(昭和二八年法律第六八号、昭和三九年法律第八六号による改正前)は一般に条約の有無を問わず政治犯罪人の不引渡を規定したものではないとした原審の判断は、正当として是認することができる。所論は、本件行政処分がなされた後に改正された法律の規定を前提として、原判決を非難するものであつて、失当である

法人の人権享有主体性(2)

【宗教団体における信教の自由】

最判平成8年1月30日 宗教法人オウム真理教解散命令事件

 

【マスメディアの報道・取材の自由】

最大決昭和44年11月26日 博多駅取材フィルム提出事件


▼ 目次


 

【宗教団体における信教の自由】

最判平成8年1月30日 宗教法人オウム真理教解散命令事件

要旨

宗教法人法八一条一項一号及び二号前段に規定する事由があるとしてされた宗教法人の解散命令が憲法二〇条一項に違反しないとされた事例

 

大量殺人を目的として計画的、組織的にサリンを生成した宗教法人について、宗教法人法八一条一項一号及び二号前段に規定する事由があるとしてされた解散命令は、専ら宗教法人の世俗的側面を対象とし、宗教団体や信者の精神的・宗教的側面に容かいする意図によるものではなく、右宗教法人の行為に対処するには、その法人格を失わせることが必要かつ適切であり、他方、解散命令によって宗教団体やその信者らが行う宗教上の行為に何らかの支障を生ずることが避けられないとしても、その支障は解散命令に伴う間接的で事実上のものにとどまるなど判示の事情の下においては、必要でやむを得ない法的規制であり、憲法二〇条一項に違反しない。

 

判旨

 本件解散命令は、宗教法人法(以下「法」という。)の定めるところにより法人格を付与された宗教団体である抗告人について、法八一条一項一号及び二号前段に規定する事由があるとしてされたものである。

 法は、宗教団体が礼拝の施設その他の財産を所有してこれを維持運用するなどのために、宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とし(法一条一項)、宗教団体に法人格を付与し得ることとしている(法四条)。すなわち、法による宗教団体の規制は、専ら宗教団体の世俗的側面だけを対象とし、その精神的・宗教的側面を対象外としているのであって、信者が宗教上の行為を行うことなどの信教の自由に介入しようとするものではない(法一条二項参照)。法八一条に規定する宗教法人の解散命令の制度も、法令に違反して著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為(同条一項一号)や宗教団体の目的を著しく逸脱した行為(同項二号前段)があった場合、あるいは、宗教法人ないし宗教団体としての実体を欠くに至ったような場合(同項二号後段、三号から五号まで)には、宗教団体に法律上の能力を与えたままにしておくことが不適切あるいは不必要となるところから、司法手続によって宗教法人を強制的に解散し、その法人格を失わしめることが可能となるようにしたものであり、会社の解散命令(商法五八条)と同趣旨のものであると解される。

 したがって、解散命令によって宗教法人が解散しても、信者は、法人格を有しない宗教団体を存続させ、あるいは、これを新たに結成することが妨げられるわけではなく、また、宗教上の行為を行い、その用に供する施設や物品を新たに調えることが妨げられるわけでもない。すなわち、解散命令は、信者の宗教上の行為を禁止したり制限したりする法的効果を一切伴わないのである。もっとも、宗教法人の解散命令が確定したときはその清算手続が行われ(法四九条二項、五一条)、その結果、宗教法人に帰属する財産で礼拝施設その他の宗教上の行為の用に供していたものも処分されることになるから(法五〇条参照)、これらの財産を用いて信者らが行っていた宗教上の行為を継続するのに何らかの支障を生ずることがあり得る。このように、宗教法人に関する法的規制が、信者の宗教上の行為を法的に制約する効果を伴わないとしても、これに何らかの支障を生じさせることがあるとするならば、憲法の保障する精神的自由の一つとしての信教の自由の重要性に思いを致し、憲法がそのような規制を許容するものであるかどうかを慎重に吟味しなければならない。

 

 このような観点から本件解散命令について見ると、法八一条に規定する宗教法人の解散命令の制度は、前記のように、専ら宗教法人の世俗的側面を対象とし、かつ、専ら世俗的目的によるものであって、宗教団体や信者の精神的・宗教的側面に容かいする意図によるものではなく、その制度の目的も合理的であるということができる。そして、原審が確定したところによれば、抗告人の代表役員であったD及びその指示を受けた抗告人の多数の幹部は、大量殺人を目的として毒ガスであるサリンを大量に生成することを計画した上、多数の信者を動員し、抗告人の物的施設を利用し、抗告人の資金を投入して、計画的、組織的にサリンを生成したというのであるから、抗告人が、法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められ、宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をしたことが明らかである。抗告人の右のような行為に対処するには、抗告人を解散し、その法人格を失わせることが必要かつ適切であり、他方、解散命令によって宗教団体であるオウム真理教やその信者らが行う宗教上の行為に何らかの支障を生ずることが避けられないとしても、その支障は、解散命令に伴う間接的で事実上のものであるにとどまる。したがって、本件解散命令は、宗教団体であるオウム真理教やその信者らの精神的・宗教的側面に及ぼす影響を考慮しても、抗告人の行為に対処するのに必要でやむを得ない法的規制であるということができる。また、本件解散命令は、法八一条の規定に基づき、裁判所の司法審査によって発せられたものであるから、その手続の適正も担保されている。

 宗教上の行為の自由は、もとより最大限に尊重すべきものであるが、絶対無制限のものではなく、以上の諸点にかんがみれば、本件解散命令及びこれに対する即時抗告を棄却した原決定は、憲法二〇条一項に違背するものではないというべきであり、このように解すべきことは、当裁判所の判例(最高裁昭和三六年(あ)第四八五号同三八年五月一五日大法廷判決・刑集一七巻四号三〇二頁)の趣旨に徴して明らかである。

 

 

 

 

【マスメディアの報道・取材の自由】

最大決昭和44年11月26日 博多駅取材フィルム提出事件

 

要旨

判示事項

一 報道および取材の自由と憲法二一条

二 報道機関の取材フイルムに対する提出命令の許容される限度

裁判要旨

一 報道の自由は、表現の自由を規定した憲法二一条の保障のもとにあり、報道のための取材の自由も、同条の精神に照らし、十分尊重に値いするものといわなければならない。

二 報道機関の取材フイルムに対する提出命令が許容されるか否かは、審判の対象とされている犯罪の性質、態様、軽重および取材したものの証拠としての価値、公正な刑事裁判を実現するにあたつての必要性の有無を考慮するとともに、これによつて報道機関の取材の自由が妨げられる程度、これが報道の自由に及ぼす影響の度合その他諸般の事情を比較衡量して決せられるべきであり、これを刑事裁判の証拠として使用することがやむを得ないと認められる場合でも、それによつて受ける報道機関の不利益が必要な限度をこえないように配慮されなければならない。

 

 

判旨

 所論は、憲法二一条違反を主張する。すなわち、報道の自由は、憲法が標榜する民主主義社会の基盤をなすものとして、表現の自由を保障する憲法二一条においても、枢要な地位を占めるものである。報道の自由を全うするには、取材の自由もまた不可欠のものとして、憲法二一条によつて保障されなければならない。これまで報道機関に広く取材の自由が確保されて来たのは、報道機関が、取材にあたり、つねに報道のみを目的とし、取材した結果を報道以外の目的に供さないという信念と実績があり、国民の側にもこれに対する信頼があつたからである。然るに、本件のように、取材フイルムを刑事裁判の証拠に使う目的をもつてする提出命令が適法とされ、報道機関がこれに応ずる義務があるとされれば、国民の報道機関に対する信頼は失われてその協力は得られず、その結果、真実を報道する自由は妨げられ、ひいては、国民がその主権を行使するに際しての判断資料は不十分なものとなり、表現の自由と表裏一体をなす国民の「知る権利」に不当な影響をもたらさずにはいないであろう。結局、本件提出命令は、表現の自由を保障した憲法二一条に違反する、というのである。

 よつて判断するに、所論の指摘するように、報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の「知る権利」に奉仕するものである。したがつて、思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法二一条の保障のもとにあることはいうまでもない。また、このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道の自由とともに、報道のための取材の自由も、憲法二一条の精神に照らし、十分尊重に値いするものといわなければならない。

 ところで、本件において、提出命令の対象とされたのは、すでに放映されたフイルムを含む放映のために準備された取材フイルムである。それは報道機関の取材活動の結果すでに得られたものであるから、その提出を命ずることは、右フイルムの取材活動そのものとは直接関係がない。もつとも、報道機関がその取材活動によつて得たフイルムは、報道機関が報道の目的に役立たせるためのものであつて、このような目的をもつて取材されたフイルムが、他の目的、すなわち、本件におけるように刑事裁判の証拠のために使用されるような場合には、報道機関の将来における取材活動の自由を妨げることになるおそれがないわけではない。

 しかし、取材の自由といつても、もとより何らの制約を受けないものではなく、たとえば公正な裁判の実現というような憲法上の要請があるときは、ある程度の制約を受けることのあることも否定することができない。

 本件では、まさに、公正な刑事裁判の実現のために、取材の自由に対する制約が許されるかどうかが問題となるのであるが、公正な刑事裁判を実現することは、国家の基本的要請であり、刑事裁判においては、実体的真実の発見が強く要請されることもいうまでもない。このような公正な刑事裁判の実現を保障するために、報道機関の取材活動によつて得られたものが、証拠として必要と認められるような場合には、取材の自由がある程度の制約を蒙ることとなつてもやむを得ないところというべきである。しかしながら、このような場合においても、一面において、審判の対象とされている犯罪の性質、態様、軽重および取材したものの証拠としての価値、ひいては、公正な刑事裁判を実現するにあたつての必要性の有無を考慮するとともに、他面において、取材したものを証拠として提出させられることによつて報道機関の取材の自由が妨げられる程度およびこれが報道の自由に及ぼす影響の度合その他諸般の事情を比較衡量して決せられるべきであり、これを刑事裁判の証拠として使用することがやむを得ないと認められる場合においても、それによつて受ける報道機関の不利益が必要な限度をこえないように配慮されなければならない。

 以上の見地に立つて本件についてみるに、本件の付審判請求事件の審理の対象は、多数の機動隊等と学生との間の衝突に際して行なわれたとされる機動隊員等の公務員職権乱用罪、特別公務員暴行陵虐罪の成否にある。その審理は、現在において、被疑者および被害者の特定すら困難な状態であつて、事件発生後二年ちかくを経過した現在、第三者の新たな証言はもはや期待することができず、したがつて、当時、右の現場を中立的な立場から撮影した報道機関の本件フイルムが証拠上きわめて重要な価値を有し、被疑者らの罪責の有無を判定するうえに、ほとんど必須のものと認められる状況にある。他方、本件フイルムは、すでに放映されたものを含む放映のために準備されたものであり、それが証拠として使用されることによつて報道機関が蒙る不利益は、報道の自由そのものではなく、将来の取材の自由が妨げられるおそれがあるというにとどまるものと解されるのであつて、付審判請求事件とはいえ、本件の刑事裁判が公正に行なわれることを期するためには、この程度の不利益は、報道機関の立場を十分尊重すべきものとの見地に立つても、なお忍受されなければならない程度のものというべきである。また、本件提出命令を発した福岡地方裁判所は、本件フイルムにつき、一たん押収した後においても、時機に応じた仮還付などの措置により、報道機関のフイルム使用に支障をきたさないよう配慮すべき旨を表明している。以上の諸点その他各般の事情をあわせ考慮するときは、本件フイルムを付審判請求事件の証拠として使用するために本件提出命令を発したことは、まことにやむを得ないものがあると認められるのである。

 前叙のように考えると、本件フイルムの提出命令は、憲法二一条に違反するものでないことはもちろん、その趣旨に牴触するものでもなく、これを正当として維持した原判断は相当であり、所論は理由がない。

未成年者の人権(1) 在学関係・在校関係 ・最判昭和49年7月19日 昭和女子大事件

 

▼ 目次

【最判昭和49年7月19日 昭和女子大事件】

要旨

 

判示事項

一、私立大学における学生の政治的活動に対する規制の合理性

二、学生の退学処分と学長の裁量権

三、私立大学の学生に対する退学処分の効力が是認された事例

裁判要旨

一、私立大学において、その建学の精神に基づく校風と教育方針に照らし、学生が政治的目的の署名運動に参加し又は政治的活動を目的とする学外団体に加入するのを放任することは教育上好ましくないとする見地から、学則等により、学生の署名運動について事前に学校当局に届け出るべきこと及び学生の学外団体加入について学校当局の許可を受けるべきことを定めても、これをもつて直ちに学生の政治的活動の自由に対する不合理な規制ということはできない。

二、学校教育法施行規則一三条三項四号により学生の退学処分を行うにあたり、当該学生に対して学校当局のとつた措置が本人に反省を促すための補導の面において欠けるところがあつたとしても、それだけで退学処分が違法となるものではなく、その点をも含めた諸般の事情を総合的に観察して、退学処分の選択が社会通念上合理性を認めることができないようなものでないかぎり、その処分は、学長の裁量権の範囲内にあるものというべきである。

三、学生の思想の穏健中正を標榜する保守的傾向の私立大学の学生が、学則に違反して、政治的活動を目的とする学外団体に無許可で加入し又は加入の申込をし、かつ、無届で政治的目的の署名運動をした事案において、これに対する学校当局の措置が、学生の責任を追及することに急で、反省を求めるために説得に努めたとはいえないものであつたとしても、他方、右学生は、学則違反についての責任の自覚歩うすく、学外団体からの離脱を求める学校当局の要求に従う意思はなく、説諭に対して終始反発したうえ、週刊誌や学外集会等において公然と学校当局の措置を非難するような行動をしたなど判示の事情があるときは、学校教育法施行規則一三条三項四号により右学生に対してされた退学処分は、学長に認められた裁量権の範囲内にあるものとしてその効力を是認すべきである。

 

 

判旨

 論旨は、要するに、学生の署名運動について事前に学校当局に届け出てその指示を受けるべきことを定めた被上告人大学の原判示の生活要録六の六の規定は憲法一五条、一六条、二一条に違反するものであり、また、学生が学校当局の許可を受けずに学外の団体に加入することを禁止した同要録八の一三の規定は憲法一九条、二一条、二三条、二六条に違反するものであるにもかかわらず、原審が、これら要録の規定の効力を認め、これに違反したことを理由とする本件退学処分を有効と判断したのは、憲法及び法令の解釈適用を誤つたものである、と主張する。

 しかし、右生活要録の規定は、その文言に徴しても、被上告人大学の学生の選挙権若しくは請願権の行使又はその教育を受ける権利と直接かかわりのないものであるから、所論のうち右規定が憲法一五条、一六条及び二六条に違反する旨の主張は、その前提において既に失当である。また、憲法一九条、二一条、二三条等のいわゆる自由権的基本権の保障規定は、国又は公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障することを目的とした規定であつて、専ら国又は公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものでないことは、当裁判所大法廷判例(昭和四三年(オ)第九三二号同四八年一二月一二日判決・裁判所時報六三二号四頁)の示すところである。したがつて、その趣旨に徴すれば、私立学校である被上告人大学の学則の細則としての性質をもつ前記生活要録の規定について直接憲法の右基本権保障規定に違反するかどうかを論ずる余地はないものというべきである。所論違憲の主張は、採用することができない。

 ところで、大学は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究を目的とする公共的な施設であり、法律に格別の規定がない場合でも、その設置目的を達成するために必要な事項を学則等により一方的に制定し、これによつて在学する学生を規律する包括的権能を有するものと解すべきである。特に私立学校においては、建学の精神に基づく独自の伝統ないし校風と教育方針とによつて社会的存在意義が認められ、学生もそのような伝統ないし校風と教育方針のもとで教育を受けることを希望して当該大学に入学するものと考えられるのであるから、右の伝統ないし校風と教育方針を学則等において具体化し、これを実践することが当然認められるべきであり、学生としてもまた、当該大学において教育を受けるかぎり、かかる規律に服することを義務づけられるものといわなければならない。もとより、学校当局の有する右の包括的権能は無制限なものではありえず、在学関係設定の目的と関連し、かつ、その内容が社会通念に照らして合理的と認められる範囲においてのみ是認されるものであるが、具体的に学生のいかなる行動についていかなる程度、方法の規制を加えることが適切であるとするかは、それが教育上の措置に関するものであるだけに、必ずしも画一的に決することはできず、各学校の伝統ないし校風や教育方針によつてもおのずから異なることを認めざるをえないのである。これを学生の政治的活動に関していえば、大学の学生は、その年令等からみて、一個の社会人として行動しうる面を有する者であり、政治的活動の自由はこのような社会人としての学生についても重要視されるべき法益であることは、いうまでもない。しかし、他方、学生の政治的活動を学の内外を問わず全く自由に放任するときは、あるいは学生が学業を疎かにし、あるいは学内における教育及び研究の環境を乱し、本人及び他の学生に対する教育目的の達成や研究の遂行をそこなう等大学の設置目的の実現を妨げるおそれがあるのであるから、大学当局がこれらの政治的活動に対してなんらかの規制を加えること自体は十分にその合理性を首肯しうるところであるとともに、私立大学のなかでも、学生の勉学専念を特に重視しあるいは比較的保守的な校風を有する大学が、その教育方針に照らし学生の政治的活動はできるだけ制限するのが教育上適当であるとの見地から、学内及び学外における学生の政治的活動につきかなり広範な規律を及ぼすこととしても、これをもつて直ちに社会通念上学生の自由に対する不合理な制限であるということはできない。 そこで、この見地から被上告人大学の前記生活要録の規定をみるに、原審の確定するように、同大学が学生の思想の穏健中正を標榜する保守的傾向の私立学校であることをも勘案すれば、右要録の規定は、政治的目的をもつ署名運動に学生が参加し又は政治的活動を目的とする学外の団体に学生が加入するのを放任しておくことは教育上好ましくないとする同大学の教育方針に基づき、このような学生の行動について届出制あるいは許可制をとることによつてこれを規制しようとする趣旨を含むものと解されるのであつて、かかる規制自体を不合理なものと断定することができないことは、上記説示のとおりである。

 

 

 論旨は、要するに、大学が学生に対して退学処分を行うにあたつては、教育機関にふさわしい手続と方法により本人の反省を促す補導の過程を経由すべき法的義務があると解すべきであるのに、原審が右義務のあることを認めず、適切な補導過程を経由せずに行われた本件退学処分を徴戒権者の裁量権の範囲内にあるものとして有効と判断したのは、学校教育法一一条、同法施行規則一三条三項、被上告人大学の学則三六条の解釈適用を誤つたものである、と主張する。

 思うに、大学の学生に対する懲戒処分は、教育及び研究の施設としての大学の内部規律を維持し、教育目的を達成するために認められる自律作用であつて、懲戒権者たる学長が学生の行為に対して懲戒処分を発動するにあたり、その行為が懲戒に値いするものであるかどうか、また、懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶべきかを決するについては、当該行為の軽重のほか、本人の性格及び平素の行状、右行為の他の学生に与える影響、懲戒処分の本人及び他の学生に及ぼす訓戒的効果、右行為を不問に付した場合の一般的影響等諸般の要素を考慮する必要があり、これらの点の判断は、学内の事情に通暁し直接教育の衝にあたるものの合理的な裁量に任すのでなければ、適切な結果を期しがたいことは、明らかである(当裁判所昭和二八年(オ)第五二五号同二九年七月三〇日第三小法廷判決・民集八巻七号一四六三頁、同昭和二八年(オ)第七四五号同二九年七月三〇日第三小法廷判決・民集八巻七号一五〇一頁参照)。

 もつとも、学校教育法一一条は、懲戒処分を行うことができる場合として、単に「教育上必要と認めるとき」と規定するにとどまるのに対し、これをうけた同法施行規則一三条三項は、退学処分についてのみ四個の具体的な処分事由を定めており、被上告人大学の学則三六条にも右と同旨の規定がある。これは、退学処分が、他の懲戒処分と異なり、学生の身分を剥奪する重大な措置であることにかんがみ、当該学生に改善の見込がなく、これを学外に排除することが教育上やむをえないと認められる場合にかぎつて退学処分を選択すべきであるとの趣旨において、その処分事由を限定的に列挙したものと解される。この趣旨からすれば、同法施行規則一三条三項四号及び被上告人大学の学則三六条四号にいう「学校の秩序を乱し、その他学生としての本分に反した」ものとして退学処分を行うにあたつては、その要件の認定につき他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮を要することはもちろんであるが、退学処分の選択も前記のような諸般の要素を勘案して決定される教育的判断にほかならないことを考えれば、具体的事案において当該学生に改善の見込がなくこれを学外に排除することが教育上やむをえないかどうかを判定するについて、あらかじめ本人に反省を促すための補導を行うことが教育上必要かつ適切であるか、また、その補導をどのような方法と程度において行うべきか等については、それぞれの学校の方針に基づく学校当局の具体的かつ専門的・自律的判断に委ねざるをえないのであつて、学則等に格別の定めのないかぎり、右補導の過程を経由することが特別の場合を除いては常に退学処分を行うについての学校当局の法的義務であるとまで解するのは、相当でない。したがつて、右補導の面において欠けるところがあつたとしても、それだけで退学処分が違法となるものではなく、その点をも含めた当該事案の諸事情を総合的に観察して、その退学処分の選択が社会通念上合理性を認めることができないようなものでないかぎり、同処分は、懲戒権者の裁量権の範囲内にあるものとして、その効力を否定することはできないものというべきである。

 

 ところで、原審の確定した本件退学処分に至るまでの経過は、おおむね次のとおりである。

 () 被上告人大学では、昭和三六年一〇月下旬ごろ前記のような上告人らの生活要録違反の行為を知り、それが同大学の教育方針からみて甚だ不当なものであるとの考えから、上告人らに対してD同との関係を絶つことを強く要求し、事実上その登校を禁止する等原判示のような措置をとつたが、この間の大学当局の態度を全体として評すれば、同大学の名声のために上告人らの責任を追及することに急で、同人らの行為が校風に反することについての反省を求めて説得に努めたものとは認めがたいものがあつた。

 () 他方、上告人らは、生活要録に違反することを知りながらD同に加入し又は加入の申込をしたものであつて、右違反についての責任の自覚はうすく、D同に加入することが不当であるとは考えず、これからの離脱を求める被上告人大学の要求にも真実従う意思はなく(加入申込中であつた上告人A2は同年一二月に正式に加入した。)、関係教授らの説諭に対しては終始反発していた。しかし、同年一二月当時までは、大学当局としてはできるだけ穏便に事件を解決する方針であつた。 () ところが、昭和三七年一月下旬、某週刊誌が「良妻賢母か自由の園か」と題して本件の発端以来被上告人大学のとつた一連の措置を批判的に掲載した記事中に、上告人A1が仮名を用いて大学当局から受けた取調べの状況についての日記を発表し、次いで、都内の公会堂で開かれた各大学自治会及びD同等主催の「戦争と教育反動化に反対する討論集会」において、上告人らがそれぞれ事件の経過を述べ、更に、同年二月九日「荒れる女の園」という題名で本件を取り上げたラジオ放送のなかで、上告人らが大学当局から取調べを受けた模様について述べたので、被上告人大学では、これを上告人らが学外で同大学を誹謗したものと認め、ここに至つて、上告人らの一連の行動、態度が退学事由たる「学校の秩序を乱し、その他学生としての本分に反した」ものに該当するとして、同年二月一二日付で本件退学処分をした。

 以上の事実関係からすれば、上告人らの前記生活要録違反の行為自体はその情状が比較的軽微なものであつたとしても、本件退学処分が右違反行為のみを理由として決定されたものでないことは、明らかである。前記()()のように、上告人らには生活要録違反を犯したことについて反省の実が認められず、特に大学当局ができるだけ穏便に解決すべく説諭を続けている間に、上告人らが週刊誌や学外の集会等において公然と大学当局の措置を非難するような挙に出たことは、同人らがもはや同大学の教育方針に服する意思のないことを表明したものと解されてもやむをえないところであり、これらは処遇上無視しえない事情といわなければならない。もつとも、前記()の事実その他原判示にあらわれた大学当局の措置についてみると、説諭にあたつた関係教授らの言動には、上告人らの感情をいたずらに刺激するようなものもないではなく、補導の方法と程度において、事件を重大視するあまり冷静、寛容及び忍耐を欠いたうらみがあるが、原審の認定するところによれば、かかる大学当局の措置が上告人らを反抗的態度に追いやり、外部団体との接触を深めさせる機縁になつたものとは認められないというのであつて、そうである以上、上告人らの前記()()のような態度、行動が主して被上告人大学の責に帰すべき事由に起因したものであるということはできず、大学当局が右の段階で上告人らに改善の見込がないと判断したことをもつて著しく軽卒であつたとすることもできない。また、被上告人大学が上告人らに対してD同からの脱退又はそれへの加入申込の取消を要求したからといつて、それが直ちに思想、信条に対する干渉となるものではないし、それ以外に、同大学が上告人らの思想、信条を理由として同人らを差別的に取り扱つたものであることは、原審の認定しないところである。これらの諸点を総合して考えると、本件において、事件の発端以来退学処分に至るまでの間に被上告人大学のとつた措置が教育的見地から批判の対象となるかどうかはともかく、大学当局が、上告人らに同大学の教育方針に従つた改善を期待しえず教育目的を達成する見込が失われたとして、同人らの前記一連の行為を「学内の秩序を乱し、その他学生としての本分に反した」ものと認めた判断は、社会通念上合理性を欠くものであるとはいいがたく、結局、本件退学処分は、懲戒権者に認められた裁量権の範囲内にあるものとして、その効力を是認すべきである。

 

 したがつて、右と結論を同じくする原審の判断は相当であつて、原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

未成年者の人権(2)・熊本地裁昭和60年11月13日 丸刈り訴訟


▼ 目次


【熊本地裁昭和60年11月13日 丸刈り訴訟】

要旨

1 町立中学校長が制定した男子生徒の髪形を「丸刈,長髪禁止」と定める校則の無効確認の訴えにつき,同中学校を卒業した者及びその両親は,訴えの利益を有しないとした事例 

2 町立中学校を卒業した者及びその両親が,同校校長に対し,同校校長が制定した男子生徒の髪形を「丸刈,長髪禁止」と定める校則に違反したことを理由として右卒業者に対して不利益処分を行うことの禁止を求める訴えが,不適法であるとされた事例 

3 町立中学校長が制定した男子生徒の髪形を「丸刈,長髪禁止」と定める校則は,憲法14条,21条,31条に違反しないとした事例 

4 町立中学校長が男子生徒の髪形を「丸刈,長髪禁止」と定める校則を制定,公布したことは,裁量権を逸脱したとはいえず,違法ではないとした事例

 

判旨

憲法違反の主張について

(一) 憲法一四条違反の主張について

原告らは、原告aは、校区制のため本件中学に通学したが、通学可能な地域に丸刈を強制していない中学校が三校存在するから、原告aは、住居地により差別的取扱いを受けていると主張するが、服装規定等校則は各中学校において独自に判断して定められるべきものであるから、それにより差別的取扱いを受けたとしても、合理的な差別であつて、憲法一四条に違反しない。

次に原告らは、本件校則は、髪の長さについて女子生徒と、男子生徒とで異なる規定をおいているから、性別による差別であると主張するが、男性と女性とでは髪形について異なる慣習があり、いわゆる坊主刈については、男子にのみその習慣があることは公知の事実であるから、髪形につき男子生徒と女子生徒で異なる規定をおいたとしても、合理的な差別であつて、憲法一四条には違反しない。

(二) 憲法三一条違反の主張について

原告らは、本件校則は頭髪という身体の一部について法定の手続によることなく切除を強制するものであるから、憲法三一条に違反すると主張するが、成立に争いのない乙第三号証及び被告校長本人尋問の結果によれば、本件校則には、本件校則に従わない場合に強制的に頭髪を切除する旨の規定はなく、かつ、本件校則に従わないからといつて強制的に切除することは予定していなかつたのであるから、右憲法違反の主張は前提を欠くものである。

(三) 憲法二一条違反について

原告らは、本件校則は、個人の感性、美的感覚あるいは思想の表現である髪形の自由を侵害するものであるから憲法二一条に違反すると主張するが、髪形が思想等の表現であるとは特殊な場合を除き、見ることはできず、特に中学生において髪形が思想等の表現であると見られる場合は極めて希有であるから、本件校則は、憲法二一条に違反しない。

裁量権の逸脱の主張について

中学校長は、教育の実現のため、生徒を規律する校則を定める包括的な権能を有するが、教育は人格の完成をめざす(教育基本法第一条)ものであるから、右校則の中には、教科の学習に関するものだけでなく、生徒の服装等いわば生徒のしつけに関するものも含まれる。もつとも、中学校長の有する右権能は無制限なものではありえず、中学校における教育に関連し、かつ、

その内容が社会通念に照らして合理的と認められる範囲においてのみ是認されるものであるが、具体的に生徒の服装等にいかなる程度、方法の規制を加えることが適切であるかは、それが教育上の措置に関するものであるだけに、必ずしも画一的に決することはできず、実際に教育を担当する者、最終的には中学校長の専門的、技術的な判断に委ねられるべきものである。従つて、生徒の服装等について規律する校則が中学校における教育に関連して定められたもの、すなわち、教育を目的として定められたものである場合には、その内容が著しく不合理でない限り、右校則は違法とはならないというべきである。

そこでまず本件校則の制定目的についてみると、証人hの証言及び被告校長本人尋問の結果によれば、本件校則は、生徒の生活指導の一つとして、生徒の非行化を防止すること、中学生らしさを保たせ周囲の人々との人間関係を円滑にすること、質実剛健の気風を養うこと、清潔さを保たせること、スポーツをする上での便宜をはかること等の目的の他、髪の手入れに時間をかけ遅刻する、授業中に櫛を使い授業に集中しなくなる、帽子をかぶらなくなる、自転車通学に必要なヘルメツトを着用しなくなる、あるいは、整髪料等の使用によつて教室内に異臭が漂うようになるといつた弊害を除却することを目的として制定されたものであることが認められ、右認定に反する証拠はない。してみると、被告校長は、本件校則を教育目的で制定したものと認めうる。

次に、本件校則の内容が著しく不合理であるか否かを検討する。確かに、原告ら主張のとおり、丸刈が、現代においてもつとも中学生にふさわしい髪形であるという社会的合意があるとはいえず、スポーツをするのに最適ともいえず、又、丸刈にしたからといつて清潔が保てるというわけでもなく、髪形に関する規制を一切しないこととすると当然に被告町の主張する本件校則を制定する目的となつた種々の弊害が生じると言いうる合理的な根拠は乏しく、又、頭髪を規制することによつて直ちに生徒の非行が防止されると断定することもできない。更に弁論の全趣旨により真正に作成されたと認められる乙第五号証、証人iの証言および原告b本人尋問の結果によれば、熊本県内の公立中学校二〇九校中長髪を許可しているのは三二校であるが、これを熊本市内に限つてみると二六校中二一校が長髪を許可しており、本件中学に隣接し、かつて本件中学の教頭であつた証人hが現に教頭として勤務している中学校においても長髪が許可されていること、最近長髪を禁止するに至つた学校が数校あるが、全体の傾向としては長髪を許可する学校が増えつつあることが認められる。してみると、本件校則の合理性については疑いを差し挾む余地のあることは否定できない。

しかしながら、本件校則の定めるいわゆる丸刈は、前示認定のとおり時代の趨勢に従い特に都市部では除々に姿を消しつつあるとはいえ、今なお男子児童生徒の髪形の一つとして社会的に承認され、特に郡部においては広く行われているもので、必らずしも特異な髪形とは言えないことは公知の事実であり、前出乙第三号証、証人hの証言及び被告校長本人尋問の結果によれば、本件中学において昭和四〇年の創立以来の慣行として行われてきた男子丸刈について昭和五六年四月九日に至り初めて校則という形で定めたものであること、本件校則には、本件校則に従わない場合の措置については何らの定めもなく、かつ、被告校長らは本件校則の運用にあたり、身体的欠陥等があつて長髪を許可する必要があると認められる者に対してはこれを許可し、それ以外の者が違反した場合は、校則を守るよう繰り返し指導し、あくまでも指導に応じない場合は懲戒処分として訓告の措置をとることとしており、たとえ指導に従わなかつたとしてもバリカン等で強制的に丸刈にしてしまうとか、内申書の記載や学級委員の任命留保あるいはクラブ活動参加の制限といつた措置を予定していないこと、被告中学の教職員会議においても男子丸刈を維持していくことが確認されていることが認められ、他に右認定に反する証拠はなく、又、弁論の全趣旨によれば現に唯一人の校則違反者である原告aに対しても処分はもとより直接の指導すら行われていないことが認められる。右に認定した丸刈の社会的許容性や本件校則の運用に照らすと、丸刈を定めた本件校則の内容が著しく不合理であると断定することはできないというべきである。

以上認定したところによれば、本件校則はその教育上の効果については多分に疑問の余地があるというべきであるが、著しく不合理であることが明らかであると断ずることはできないから、被告校長が本件校則を制定・公布したこと自体違法とは言えない。

 

・・・

第一本案前の判断

一本件校則の無効確認請求について

無効確認の訴は、当該処分に続く処分により損害を受けるおそれのある者その他当該処分の無効等の確認を求めるにつき法律上の利益を有する者で、当該処分を前提とする現在の法律関係に関する訴によつて目的を達することができないものに限り、提起することができるところ、原告aが昭和五九年三月本件中学を卒業したことについては当事者間に争いがなく、原告b及び同cは原告aの両親であるというにすぎず本件中学の生徒でないことはもちろんであるから、原告らが本件校則の制定、公布に続く処分を受けるおそれはないというベきである。そして、原告らは、原告aの人格権に対する侵害は同原告の卒業後も続いている、原告aの弟がおり、本件中学に昭和六一年に入学予定であるから、同人に対する人格権侵害を予防する必要があると主張するが、人格権に対する侵害については、損害賠償等現在の法律関係に関する訴によつてその目的を達成しうるし、本件中学に入学予定の原告aの弟がいることは、本件校則の無効確認を求める法律上の利益とはいえず、その他原告らに、本件校則の無効確認を求める法律上の利益があると認めるべき事情は見出せない。したがつて、原告らは、いずれも本件校則の無効確認を求める訴について原告適格あるいは訴の利益を有しないものというべきであり、原告らの本件無効確認の訴はいずれも不適法な訴として却下すべきものである。

二 無効であることの周知手続を求める請求について

原告らの本件請求は、被告校長に対し、本件校則が無効であることを関係者に周知させることを求めるものであり、一見被告校長に対し一定の給付を求めているかに見えるが、その実質は本件校則が無効であることの確認を求めているものに他ならない。してみると、原告らは、本件請求についても前示のとおり原告適格あるいは訴の利益を有しないものというべきであるから、原告らの本件請求はいずれも不適法な訴として却下を免れない。

三 不利益処分の禁止を求める請求について

原告らは、被告校長に対し、原告aに対し本件校則違反を理由とする不利益処分をしないことを求めるものであるが、原告らが禁止を求める右処分は、行政庁たる被告校長がこれをなすべきものであるから、結局、原告らは行政庁に対し不作為を求めるものであると解される。ところで、行政庁に対して作為又は不作為を求める訴訟は、(1)行政庁が当該分をなすべきこと又はなすべからざることについて法律上羈束されており、行政庁に自由裁量の余地が全く残されていないために第一次的な判断権を行政庁に留保することが必らずしも重要ではないと認められ、しかも(2)事前審査を認めないことによる損害が大きく、事前の救済の必要が顕著であり、(3)他に適切な救済方法がない等、事前の救済をめないことを著しく不相当とする特段の事情がある場合でない限り、訴の利益を欠き不適法であると解すべきところ、原告aが本件中学入学以来、終始本件校則にしたがわなかつたが、そのことを理由とする処分を何ら受けないまま同中学を卒業したことは、弁論の全趣旨に徴し当事者間に争いがなく、右事実によれば、将来、原告らに重大な権利侵害をもたらすような何らかの処分がなされるおそれがあると認めることはできず、その他前示のごとき特段の事情の存在は見出せないから、原告らの本件不利益処分の禁止を求める請求は、訴の利益を欠き、いずれも不適法として却下すべきものである。

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【高松高裁平成2年2月19日】

要旨

校則に違反して原動機付自転車の運転免許を取得したことを理由にされた高等学校生徒に対する自宅謹慎の措置が違法でないとされた事例

 

判旨

4 本件校則は憲法一三条が保障する国民の幸福追及の自由を阻害する点で違法であるとの控訴人の主張について

 (一)憲法一三条が保障する国民の私性活における自由の一つとして、何人も原付免許取得をみだりに制限禁止されないというべきである。そして、高等学校の生徒は、一般国民としての人権享受の主体である点では、高校生でない一六才以上の同年輩の国民と同じであり、この観点だけからすると、高校生の原付免許取得の自由を全面的に承認すべきである。

 しかし、、高等学校程度の教育を受ける過程にある生徒に対する懲戒処分の一環として、生徒の原付免許取得の自由が制限禁止されても、その自由の制約と学校の設置目的との聞に、合理的な関連性があると認められる限り、この制約は憲法一三条に違反するものでないと解すべきである。けだし、高等学校における生徒の懲戒処分は、生徒の教育について直接に権限をもち責任を負う校長や教員が、学校教育の一環として行うのであり、処分の適切な結果を期待するためには、学校内の事情はもとより、生徒の家庭環境を含む学校外の教育事情についても、専門的な知識と経験を有する処分権者の広範な裁量に委ねるのが相当であると認められるからである。

 (二) 本件校則は本件学校の校長が学校の設置目的を達成するために制定したもの(内規)であること及び本件校則と学校の設置目的との間に合理的な関連性があることは後述のとおりである。

 (三)したがって、控訴人の右主張は採用することができない。

 5本件校則は法令相互間の効力の優劣関係上、優位な法律でみとめられている原付免許取得の自由を侵害する点で違法であるとの控訴人の主張について

 しかし、道路交通法規が一定の年齢以上の者に運転免許の取得を許容している趣旨は、道路における交通の円滑性と安全性を保持するためであるのに対し、本件校則が右法定年齢以上の生徒につき免許取得を制限禁止しているのは、学校の設置目的すなわち生徒の教育のためであって、両者の各規定は、その規制の趣旨目的を異にするものであることが明らかである。

 したがって、生徒の教育を目的とする本件校則の規制が道路交通法令違反して違法であるという問題は生じないから、控訴人の右主張は採用できない。

 

 

【東京高裁平成4年3月19日】

要旨

判示事項

運転免許の取得及びバイク乗車を禁止する校則に違反したことを理由としてされた私立高校生に対する退学処分が違法であるとされた事例

裁判要旨

運転免許の取得及びバイク乗車を禁止する校則に反して、私立高校生が運転免許を取得したうえ自動二輪車を購入して退転したことなどを理由に退学処分にした場合において、生徒側が学校の退学勧告を拒否し、退学処分を求める旨の書面を提出するなとの事情の下に右退学処分がされたものであるとしても、学校側はその処分の過程において生徒の今後の改善の可能性を確かめるなど他の懲戒処分をする余地がないかどうかについて配慮した形跡がなく、教育的配慮供に欠けるところがあったこと、生徒はバイク問題以外には普段の学校生活上で問題のある者とはされておらず、適切な指導監督により今後の違反行為を絶つ二とが期待できなかったとはいえないことなど判示の事情があるときは、右退学処分は、処分権者に認められた合理的裁量の範囲を超え、違法である。

 

 

判旨

 四 本件退学処分の裁量権の逸脱の有無

 1 学校が生徒に対して行う懲戒処分が処分権者の合理的裁量に任されていることは、原判決の説示(原判決三八枚目表二行目から同三九枚目裏二行目)するとおりであり、また、懲戒処分が教育的措置であることに鑑み、処分を行うに当たって教育上必要な配慮をしなければならないことは、学校教育法施行規則一三条一項の規定するところである。

 2 前記認定のとおり、第一審原告は、本件高校において運転免許の取得及びバイク乗車が校則により禁止されていることを十分承知しながら、昭和六一年一二月に自動二輪車の運転免許を取得したうえ、昭和六二年四月に自動二輪車を購入してこれを運転していたが、同年一二月に免許証をD教諭に提出した際、同教諭から、バイクに乗らないように注意されたにもかかわらず、昭和六三年一月上旬から中旬にかけて免許証不携帯のまま数回バイクに乗車したものであり、第一審原告の本件生活指導規定違反の態様が軽いということはできない。また、第一審原告の両親が本件高校のバイク禁止の方針を認識し、これを遵守する旨の誓約書を提出しながら、第一審原告の免許取得及び自動二輪車購入を容認していたことや、本件のバイク乗車が学校に発覚してからの母親の事実を否定するような対応等に照らせば、家庭での指導が難しい状況にあると学校側が判断したことも無理からぬところであると認められる。

 これらの点からすると、バイク禁止の教育方針を重視する学校側が、退学勧告を拒否し退学処分に異議がない旨の書面を提出した第一審原告に対して、退学処分をするのが相当と判断したことも、あながち首肯できないことではない。

 3 ところで、前記原判決の説示のとおり、退学処分は、生徒の身分を剥奪する重大な措置であるから、当該生徒に改善の見込みがなく、これを学外に排除することが教育上やむを得ないと認められる場合に限って選択すべきものである(学校教育法施行規則一三条三項及び本件高校の学則一九条はこの趣旨の規定と解される。)。とくに、被処分者が年齢的に心身の発育のバランスを欠きがちで人格形成の途上にある高校生である場合には、退学処分の選択は十分な教育的配慮の下に慎重になされることが要求されるというべきである。 これを本件についてみれば、次のとおりである。

 (一) 本件バイク問題は、昭和六三年一月二〇日の匿名の電話通報によって表面化し、翌月三日に本件退学処分が行われている。この十日余りの間に、学校側では、違反事実を確認した後に早々と退学しかないとの態度を決めて第一審原告に退学勧告をし、母親が自主退学を拒否して退学処分にするよう求める意向を示すと、すぐ退学処分に異議がない旨の書面の提出を求め、その書面の提出をまって本件退学処分を決定したものであり、第一審原告が退学勧告に応じないときは退学処分をする以外にはないとの姿勢であったと認められる。その過程において、できるだけ退学という事態を避けて他の懲戒処分をする余地がないかどうか、そのために第一審原告や両親に対して実質的な指導あるいは懇談を試み、今後の改善の可能性を確かめる余地がないかどうか等について、慎重に配慮した形跡は認められない。こうした学校側の対応は、いささか杓子定規的で違反行為の責任追及に性急であり、退学処分が生徒に与える影響の重大性を考えれば、教育的配慮に欠けるところがあったといわざるを得ない。

 この点に関し、第一審原告の母親が学校側に対しバイク乗車を否定するような態度をとつたこと、及び第一審原告の自主退学を拒否して退学処分を求め、退学処分に異議がない旨の書面を学校に送付したことは、前記のとおりである。しかしながら、母親の右違反行為否定のような態度も、学校側と対立して事実を争うというほど強いものであったとはうかがわれず、学校側が退学処分を行うに当たつて教育的配慮をすることを無意味ならしめる事情であったとは認められない。また、両親が自主退学を拒否して退学処分を求め、その旨の書面を送付した真の理由は証拠上は明白でないが、前記認定の経過とその記載内容からすると、学校側が退学しかないとの方針で接したために、これを前提にした対応であったと認められるのであり、右書面が提出されたことに基づいて退学処分を選択することは、本末顛倒の嫌いがあるといわなければならない。

 (二)第一審原告の本件バイク禁止違反行為は、一回だけではないし、教諭の注意にも背いたものである。

 しかし、学校側の評価によれば、第一審原告は、やや気が弱く、調子に乗りやすい面があるが、他人に優しく、明るく素直な性格で、高校一学年の成績は中位よりやや下であり、出席状況も悪くなく、本件のバイク問題以外には学校から注意や処分を受けたことはなく、普段の学校生活上で問題のある生徒とはされていなかった(甲第一号証、原審証人D、同Eの各証言)。また、第一審原告は、学校の最初の免許証提出の呼びかけには応じなかったものの、その後D教諭の発言に沿って任意に免許証を提出し、自動二輪車も処分し、D教諭らの本件の事情聴取に対しても素直に応じてバイク乗車の事実を認めていたものである。

 このような第一審原告の性格及び行状等に照らすと、本件の違反行為が、あくまでも校則に従わずバイク乗車を続けようという反抗的態度の表れであるとまでみるのは厳しすぎるものであり、本件の発覚を機に適切な訓戒と指導監督が施されるならば、第一審原告に反省させ、これを善導して、今後の違反行為を断つことを期待することができなかったとはいえない。第一審原告の家庭にも、学校側の指導監督への協力をどうしても期待できない格別の事情があったとは認められない。

 もっとも、第一審原告の原審における供述をみると、学外でのバイク乗車を禁止する本件生活指導規定は効力がない、悪いことをしたとは思っていない等と述べているが、訴訟提起後における当事者としての揚言であって、第一審原告が本件退学処分当時から、本件生活指導規定の効力に疑問をもち、これに従う意思がなく、反抗的態度をとっていたものでないことは、前記認定の経過から明らかである。

 (三) 本件高校では、バイク禁止を重要な教育方針として徹底を図っており、それなりの成果を上げてきたものである。そして、これに違反した生徒に対しては退学を勧告し、これに応じて自主退学した生徒も過去に数名いたことが認められる(原審証人Eの証言)。

 しかし、他方、本件高校が生徒に対して運転免許証の提出を呼びかけ、これに応じた生徒に対しては何らの処分を行わない取扱いをしたことがあったことはすでに認定したとおりであるし、また、昭和六二年ころに運転免許の取得が発覚したが乗車が確認できなかった生徒に対して無期停学処分をした例もあることが認められる(原審証人D、同Eの各証言)。更に、バイク禁止を重要な教育方針として維持するにしても、一方でこれに対する社会的評価が時代の推移とともに変化しつっあることも前記認定のとおり無視し難い事実である。

 これらの点を考えると、第一審原告の違反行為に対して退学処分をもって臨むのでなければ、本件高校の教育方針を損ない、他の生徒に対する訓戒的効果を失わせ、本件高校の教育上看過できない悪影響を及ぼすことになるとはたやすく認められない。

4 以上に検討したところを総合して判断すれば、第一審原告の校則違反行為は軽微なものとはいえないけれども、当時の状況下において、第一審原告に対し適切な教育的配慮を施してもなお、もはや改善の見込みがなく、これを学外に排除することが教育上やむを得ないものであったとは認めることができないというべきである。したがって、E校長が本件高校の学則一九条四号に基づいて行った本件懲戒処分は、処分権者に認められた合理的裁量の範囲を超えた違法な行為であると認めるべきである。

第一審被告は、退学処分に異議がない旨の書面を提出した第一審原告は本件退学処分の違法性を主張することができないと主張するが、右書面が提出された経緯は前記のとおりであって、第一審原告側が自発的に退学を望んだものとは認められないから、右主張は採用できない。

 

 

【最判平成8年7月18日】

要旨

判示事項

普通自動車運転免許の取得を制限しパーマをかけることを禁止する校則に違反するなどした私立高等学校の生徒に対する自主退学の勧告に違法があるとはいえないとされた事例

裁判要旨

普通自動車運転免許の取得を制限し、パーマをかけることを禁止し、学校に無断で運転免許を取得した者に対しては退学勧告をする旨の校則を定めていた私立高等学校において、校則を承知して入学した生徒が、学校に無断で普通自動車運転免許を取得し、そのことが学校に発覚した際にも顕著な反省を示さず、三年生であることを特に考慮して学校が厳重注意に付するにとどめたにもかかわらず、その後間もなく校則に違反してパーマをかけ、そのことが発覚した際にも反省がないとみられても仕方のない態度をとったなど判示の事実関係の下においては、右生徒に対してされた自主退学の勧告に違法があるとはいえない。

 

 

判旨

 私立学校は、建学の精神に基づく独自の伝統ないし校風と教育方針によって教育活動を行うことを目的とし、生徒もそのような教育を受けることを希望して入学するものである。原審の適法に確定した事実によれば、() D高校は、清潔かつ質素で流行を追うことなく華美に流されない態度を保持することを教育方針とし、それを具体化するものの一つとして校則を定めている、() D高校が、本件校則により、運転免許の取得につき、一定の時期以降で、かつ、学校に届け出た場合にのみ教習の受講及び免許の取得を認めることとしているのは、交通事故から生徒の生命身体を守り、非行化を防止し、もって勉学に専念する時間を確保するためである、 () 同様に、パーマをかけることを禁止しているのも、高校生にふさわしい髪型を維持し、非行を防止するためである、というのであるから、本件校則は社会通念上不合理なものとはいえず、生徒に対してその遵守を求める本件校則は、民法一条、九〇条に違反するものではない。これと同旨の原審の判断は是認することができる。論旨は、独自の見解に立って原判決を非難するか、又は原判決を正解しないでこれを論難するものであり、採用することができない。

 

 その余の上告理由について

 所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、その過程に所論の違法はない。右事実によれば、() D高校は、本件校則を定め、学校に無断で運転免許を取得した者に対しては退学勧告をすることを定めていた、() 上告人の入学に際し、上告人もその父親も本件校則を承知していたが、上告人は、学校に無断で普通自動車の運転免許を取得し、そのことが学校に発覚した際も顕著な反省を示さなかった、() しかし、学校は、上告人が三年生であることを特に考慮して今回に限り上告人を厳重注意に付することとし、上告人に対し本来であれば退学勧告であるが今回に限り厳重注意としたことを告げ、さらに、校長が自ら上告人と父親に直々に注意し、今後違反行為があったら学校に置いておけなくなる旨を告げ、二度と違反しないように上告人に誓わせた、() 上告人は、それにもかかわらず、その後間もなく本件校則に違反してパーマをかけ、そのことが発覚した際にも、右事実を隠ぺいしようとしたり、学校の教諭らに対して侮辱的な言辞をろうしたりする等反省がないとみられても仕方のない態度をとった、() 上告人は、本件校則違反前にも種々の問題行動を繰り返していたばかりでなく、平素の修学態度、言動その他の行状についても遺憾の点が少なくなかった、というのである。これらの上告人の校則違反の態様、反省の状況、平素の行状、従前の学校の指導及び措置並びに本件自主退学勧告に至る経過等を勘案すると、本件自主退学勧告に所論の違法があるとはいえない。

10条 国民の要件 国籍法・最大判昭和36年4月5日 国籍存在確認請求(1)

 

▼ 目次

▼ 10条 国民の要件 ・最大判昭和36年4月5日 国籍存在確認請求(2) 【最大判昭和36年4月5日】補足意見等

▼ 10条 国民の要件 ・最大判昭和36年4月5日 国籍存在確認請求(3) 【最大判昭和36年4月5日】補足意見等


第三章 国民の権利及び義務

 

第十条  日本国民たる要件は、法律でこれを定める。

 

【法律】は、国籍法

・国籍法では出生による取得と帰化による取得がある。

・国籍法では、原則血統主義(親の国籍を引き継ぐ)をとりつつ、例外として出生地主義(出生地国の国籍を認める)をとっている(2条参照)。

 

国籍法

(この法律の目的)

第一条  日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる。

 

(出生による国籍の取得)

第二条  子は、次の場合には、日本国民とする。

 出生の時に父又は母が日本国民であるとき。

 出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民であつたとき。

 日本で生まれた場合において、父母がともに知れないとき、又は国籍を有しないとき。

 

(認知された子の国籍の取得)

第三条  父又は母が認知した子で二十歳未満のもの(日本国民であつた者を除く。)は、認知をした父又は母が子の出生の時に日本国民であつた場合において、その父又は母が現に日本国民であるとき、又はその死亡の時に日本国民であつたときは、法務大臣に届け出ることによつて、日本の国籍を取得することができる。

 前項の規定による届出をした者は、その届出の時に日本の国籍を取得する。

 

(帰化)

第四条  日本国民でない者(以下「外国人」という。)は、帰化によつて、日本の国籍を取得することができる。

 帰化をするには、法務大臣の許可を得なければならない。

 

第五条  法務大臣は、次の条件を備える外国人でなければ、その帰化を許可することができない。

 引き続き五年以上日本に住所を有すること。

 二十歳以上で本国法によつて行為能力を有すること。

 素行が善良であること。

 自己又は生計を一にする配偶者その他の親族の資産又は技能によつて生計を営むことができること。

 国籍を有せず、又は日本の国籍の取得によつてその国籍を失うべきこと。

 日本国憲法 施行の日以後において、日本国憲法 又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを企て、若しくは主張し、又はこれを企て、若しくは主張する政党その他の団体を結成し、若しくはこれに加入したことがないこと。

 法務大臣は、外国人がその意思にかかわらずその国籍を失うことができない場合において、日本国民との親族関係又は境遇につき特別の事情があると認めるときは、その者が前項第五号に掲げる条件を備えないときでも、帰化を許可することができる。

 

第六条  次の各号の一に該当する外国人で現に日本に住所を有するものについては、法務大臣は、その者が前条第一項第一号に掲げる条件を備えないときでも、帰化を許可することができる。

 日本国民であつた者の子(養子を除く。)で引き続き三年以上日本に住所又は居所を有するもの

 日本で生まれた者で引き続き三年以上日本に住所若しくは居所を有し、又はその父若しくは母(養父母を除く。)が日本で生まれたもの

 引き続き十年以上日本に居所を有する者

 

第七条  日本国民の配偶者たる外国人で引き続き三年以上日本に住所又は居所を有し、かつ、現に日本に住所を有するものについては、法務大臣は、その者が第五条第一項第一号及び第二号の条件を備えないときでも、帰化を許可することができる。日本国民の配偶者たる外国人で婚姻の日から三年を経過し、かつ、引き続き一年以上日本に住所を有するものについても、同様とする。

 

第八条  次の各号の一に該当する外国人については、法務大臣は、その者が第五条第一項第一号、第二号及び第四号の条件を備えないときでも、帰化を許可することができる。

 日本国民の子(養子を除く。)で日本に住所を有するもの

 日本国民の養子で引き続き一年以上日本に住所を有し、かつ、縁組の時本国法により未成年であつたもの

 日本の国籍を失つた者(日本に帰化した後日本の国籍を失つた者を除く。)で日本に住所を有するもの

 日本で生まれ、かつ、出生の時から国籍を有しない者でその時から引き続き三年以上日本に住所を有するもの

 

第九条  日本に特別の功労のある外国人については、法務大臣は、第五条第一項の規定にかかわらず、国会の承認を得て、その帰化を許可することができる。

 

第十条  法務大臣は、帰化を許可したときは、官報にその旨を告示しなければならない。

 帰化は、前項の告示の日から効力を生ずる。

 

(国籍の喪失)

第十一条  日本国民は、自己の志望によつて外国の国籍を取得したときは、日本の国籍を失う。

 外国の国籍を有する日本国民は、その外国の法令によりその国の国籍を選択したときは、日本の国籍を失う。

 

第十二条  出生により外国の国籍を取得した日本国民で国外で生まれたものは、戸籍法 (昭和二十二年法律第二百二十四号)の定めるところにより日本の国籍を留保する意思を表示しなければ、その出生の時にさかのぼつて日本の国籍を失う。

 

第十三条  外国の国籍を有する日本国民は、法務大臣に届け出ることによつて、日本の国籍を離脱することができる。

 前項の規定による届出をした者は、その届出の時に日本の国籍を失う。

 

(国籍の選択)

第十四条  外国の国籍を有する日本国民は、外国及び日本の国籍を有することとなつた時が二十歳に達する以前であるときは二十二歳に達するまでに、その時が二十歳に達した後であるときはその時から二年以内に、いずれかの国籍を選択しなければならない。

 日本の国籍の選択は、外国の国籍を離脱することによるほかは、戸籍法 の定めるところにより、日本の国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄する旨の宣言(以下「選択の宣言」という。)をすることによつてする。

 

第十五条  法務大臣は、外国の国籍を有する日本国民で前条第一項に定める期限内に日本の国籍の選択をしないものに対して、書面により、国籍の選択をすべきことを催告することができる。

 前項に規定する催告は、これを受けるべき者の所在を知ることができないときその他書面によつてすることができないやむを得ない事情があるときは、催告すべき事項を官報に掲載してすることができる。この場合における催告は、官報に掲載された日の翌日に到達したものとみなす。

 前二項の規定による催告を受けた者は、催告を受けた日から一月以内に日本の国籍の選択をしなければ、その期間が経過した時に日本の国籍を失う。ただし、その者が天災その他その責めに帰することができない事由によつてその期間内に日本の国籍の選択をすることができない場合において、その選択をすることができるに至つた時から二週間以内にこれをしたときは、この限りでない。

 

第十六条  選択の宣言をした日本国民は、外国の国籍の離脱に努めなければならない。

 法務大臣は、選択の宣言をした日本国民で外国の国籍を失つていないものが自己の志望によりその外国の公務員の職(その国の国籍を有しない者であつても就任することができる職を除く。)に就任した場合において、その就任が日本の国籍を選択した趣旨に著しく反すると認めるときは、その者に対し日本の国籍の喪失の宣告をすることができる。

 前項の宣告に係る聴聞の期日における審理は、公開により行わなければならない。

 第二項の宣告は、官報に告示してしなければならない。

 第二項の宣告を受けた者は、前項の告示の日に日本の国籍を失う。

 

(国籍の再取得)

第十七条  第十二条の規定により日本の国籍を失つた者で二十歳未満のものは、日本に住所を有するときは、法務大臣に届け出ることによつて、日本の国籍を取得することができる。

 第十五条第二項の規定による催告を受けて同条第三項の規定により日本の国籍を失つた者は、第五条第一項第五号に掲げる条件を備えるときは、日本の国籍を失つたことを知つた時から一年以内に法務大臣に届け出ることによつて、日本の国籍を取得することができる。ただし、天災その他その者の責めに帰することができない事由によつてその期間内に届け出ることができないときは、その期間は、これをすることができるに至つた時から一月とする。

 前二項の規定による届出をした者は、その届出の時に日本の国籍を取得する。

 

(法定代理人がする届出等)

第十八条  第三条第一項若しくは前条第一項の規定による国籍取得の届出、帰化の許可の申請、選択の宣言又は国籍離脱の届出は、国籍の取得、選択又は離脱をしようとする者が十五歳未満であるときは、法定代理人が代わつてする。

 

(省令への委任)

第十九条  この法律に定めるもののほか、国籍の取得及び離脱に関する手続その他この法律の施行に関し必要な事項は、法務省令で定める。

 

(罰則)

第二十条  第三条第一項の規定による届出をする場合において、虚偽の届出をした者は、一年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処する。

 前項の罪は、刑法 (明治四十年法律第四十五号)第二条 の例に従う。

 

 

 

【最大判昭和36年4月5日】

要旨

判示事項

朝鮮人男子と婚姻した内地人女子の平和条約発効後の国籍。

裁判要旨

朝鮮人男子と婚姻した内地人女子で日本の国内法上朝鮮人としての法的地位をもつていた者は、平和条約発効とともに日本国籍を失う。

 

判旨

 1 上告人は、原判決が憲法一〇条、一一条、一二条、一三条及び国籍法に違反した裁判であるとする。なるほど、憲法一〇条は、日本国民の要件を法律で定めることを規定している。しかし、これを定めた国籍法は、領土の変更に伴う国籍の変更について規定していない。しかも、領土の変更に伴つて国籍の変更を生ずることは、疑いをいれないところである。この変更に関しては、国際法上で確定した原則がなく、各場合に条約によつて明示的または黙示的に定められるのを通例とする。したがつて、憲法は、領土の変更に伴う国籍の変更について条約で定めることを認めた趣旨と解するのが相当である。それ故に憲法一〇条に違反するという主張は理由がなく、国籍法も本件に関しては適用がない。また、憲法一一条、一二条、一三条についても、上告人の日本国籍の喪失は、つぎに述べるように、平和条約の規定に基くものであつて、憲法のこれらの規定に違反する点は認められない。

 2 日本国との平和条約は、第二条(a)項で、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定している。簡単にいえば、朝鮮の独立を承認して、朝鮮に属すべき領土に対する主権を放棄することを規定している。この規定は、朝鮮に属すべき領土に対する主権(いわゆる領土主権)を放棄すると同時に、朝鮮に属すべき人に対する主権(いわゆる対人主権)も放棄することは疑いをいれない。国家は、人、領土及び政府を存立の要素とするもので、これらの一つを缺いても国家として存立しない。朝鮮の独立を承認するということは、朝鮮を独立の国家として承認することで、朝鮮がそれに属する人、領土及び政府をもつことを承認することにほかならない。したがつて、平和条約によつて、日本は朝鮮に属すべき人に対する主権を放棄したことになる。

 このことは、朝鮮に属すべき人について、日本の国籍を喪失させることを意味する。ある国に属する人は、その国の国籍をもつ人であり、その国の主権に服する。逆にいえば、ある国の国籍をもつ人は、その国の主権に服する。したがつて、日本が朝鮮に属すべき人に対する主権を放棄することは、このような人について日本の国籍を喪失させることになる。

 3 朝鮮に属すべき人というのは、日本と朝鮮との併合後において、日本の国内法上で、朝鮮人としての法的地位をもつた人と解するのが相当である。朝鮮人としての法的地位をもつた人というのは、朝鮮戸籍令の適用を受け、朝鮮戸籍に登載された人である。日本と朝鮮の併合の前に、韓国には民籍法があり、韓国の国籍をもつた人は、民籍に登載されていた。併合の後に、民籍法に代つて朝鮮戸籍令が施行され、民籍に登載されていた人は、朝鮮戸籍に登載されることになつた。これと異つて、元来の日本人は、戸籍法の適用を受け、戸籍に登載される。朝鮮戸籍からはつきり区別するために、これを内地戸籍ということがある。このように、朝鮮人と日本人は、はつきりと戸籍を異にするばかりでなく、それと同時に、適用される法律を異にした。

 朝鮮人との婚姻又は養子縁組によつて朝鮮人の家に入つた日本人は、共通法三条一項の「一ノ地域ノ法令ニ依リ其ノ地域ノ家ニ入ル者ハ、他ノ地域ノ家ヲ去ル」という規定に従つて、朝鮮戸籍に登載され、他方で内地戸籍から除籍された。このような人は、法律上で朝鮮人として取扱われ、朝鮮人に関する法令が適用され、日本人に関する法令は適用されなかつた。法律上から見るかぎり、まつたく朝鮮人と同じであり、朝鮮人にほかならなつた。このことは、あたかも日本人の女が外国人と婚姻し、夫の国籍を取得した場合と同じである。改正前の国籍法によれば、このような場合に、日本人の女は、日本の国籍を喪失する。そのために、法律上から見れば、日本の法令は適用されず、もつぱら外国の法令が適用されることになり、法律的には外国人にほかならないことになる。日本人の女が朝鮮人と婚姻し、朝鮮戸籍に入籍し、内地戸籍から除籍された場合も、右と同じであり、法律上では日本人でなく、朝鮮人になつたものと見るほかない。

 連合国による日本占領の時代にも、朝鮮人としての法的地位をもつ者は、日本人としての法的地位をもつ者から、法律上で区別されていた。連合国総司令部の覚書は、あるいは朝鮮人を外国人と同様に取扱い、あるいは「非日本人」という言葉のうちに朝鮮人を含ませ、あるいは「外国人」という言葉のうちに朝鮮人を含ませていた。連合国総司令部の覚書に基いて発せられた日本政府の「外国人登録令」は、朝鮮人を当分の間外国人とみなし、これに入国の制限と登録を強制した。そのさいに、朝鮮人というのは、法律上で朝鮮人としての法的地位をもつ人のことである。そのうちに、婚姻又は養子縁組によつて朝鮮戸籍に登載されるに至つた人も含まれていたことは、いうまでもない。これらの人は、右に述べたように、法律上では、朝鮮人に関する法令が適用され、朝鮮人に異らないものであり、実際において、「非日本人」または「外国人」として取扱われ、外国人として登録もしたのであつた。

 これを要するに、朝鮮人としての法的地位をもつ人は、日本人としての法的地位をもつ人から、日本の国内法上で、はつきり区別されていた。この区別は、日本と韓国の併合のときから一貫して維持され、占領時代にも変らなかなつた。このような法律的状態の下に、平和条約が結ばれ、日本は朝鮮の独立を承認して、朝鮮に属すべき人に対する主権を放棄し、その人の日本国籍を喪失させることになつた。そうしてみれば、日本国籍を喪失させられる人は、日本の法律上で朝鮮人としての法的地位をもつていた人と見るのが相当である。

 4 本件の上告人は、元来は日本人であるが、昭和一〇年七月一六日に朝鮮人であるDと婚姻入籍したことは、原判決の適法に確定したところである。それによつて、上告人は、法律上で朝鮮人としての法的地位を取得し、日本人としてのそれを喪失したことになる。

 平和条約によつて、日本は、朝鮮の独立を承認し、朝鮮に属すべき人の日本国籍を喪失させることになつた。朝鮮に属すべき人というのは、さきに述べたように、日本の法律上で、朝鮮人としての法的地位をもつていた人である。本件の上告人は、この法的地位をもつていたから、平和条約によつて、日本の国籍を喪失したことになる。

 5 上告人は、上告理由第一のうちで、日本と韓国の合併がなかつたならば、朝鮮人Dと婚姻しなかつたであろうということも主張している。しかし、法律上の問題としては、朝鮮人と婚姻したという場合において、朝鮮人としての法的地位を取得するか、その結果として平和条約によつて日本の国籍を喪失するかということが問題であつて、上告人が昭和一〇年七月一六日に朝鮮人Dと婚姻入籍したことは、原判決の適法に確定したところであり、このように確定した事実に基いて、原判決が日本の国籍を上告人が喪失すると判断したのは正当である。

 

10条 国民の要件 ・最大判昭和36年4月5日 国籍存在確認請求(2)

【最大判昭和36年4月5日】補足意見等

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▼ 10条 国民の要件 国籍法・最大判昭和36年4月5日 国籍存在確認請求(1)


 ▼ 10条 国民の要件 ・最大判昭和36年4月5日 国籍存在確認請求(3) 【最大判昭和36年4月5日】補足意見等


【裁判官藤田八郎の補足意見】は次のとおりである。

 多数意見は平和条約第二条により、同条約の発効と同時に、当時朝鮮戸籍令によつて朝鮮戸籍に登録されていたものは、本来の朝鮮人のみならず、朝鮮人との婚姻等に因り、共通法三条一項の規定によつて内地における本籍を失い朝鮮の戸籍に入つた本来の日本人をもすべて朝鮮人としての法的地位をもつ人として、右条約の効力として、条約発効の時を時限として当然に日本の国籍を喪失するものとしている。

 しかしながら、日本人としての国籍喪失の問題は、わが国の国内法上の問題であつて(憲法一〇条)、平和条約の国際法上の効力として、直接かかる効果を発生するものとすることはできない、平和条約の国内法上の効力の問題として理解されなければならないものである。しかるときに、多数意見は、平和条約発効のときに既に施行後数年を経ていた日本国憲法ならびにこの憲法の施行に伴つてその趣旨に沿うて改正された民法その他の国内法秩序と平和条約との関連をいかに理解せんとするものであろうか。

  条約の国内法上の効力は、憲法の趣旨に背反して解釈することの許されないことは当然であろう。憲法の施行につれて民法は改正されいわゆる家は廃止された。平和条約発効当時において、共通法三条にいわゆる「家ニ入ル」「家ヲ去ル」の理念はその適用の根拠を失つているのである。そして民法の改正に伴つて、戸籍法も改正され、いわゆる本籍の概念は一変した。従来の「家」という抽象的、観念的の団体を基本単位として、これに属する人の身分関係を明らかにするという意義の本籍は廃罷されて、新に夫婦親子という通常の親族共同生活態をもつて戸籍の単位とすることとなつた。まさに戸籍法の劃期的な変革であつて、共通法が朝鮮人たる身分の得喪の基準としたところの在来の本籍なる観念はこのときをもつて全く消失したのである。一方、国籍に関しても昭和二五年五月新国籍法は制定され、旧国籍法に採用されていたいわゆる夫婦国籍同一主義は、もともとわが国在来の家族制度の趣意に沿うものであり、新憲法の個人の尊厳、夫婦の平等、国籍離脱の自由の原則等の理念とは相容れないものであつたがためこれを廃止し、現時世界の大勢に従つて、夫婦国籍独立主義を採用したのである(八条参照)。

 これら新しい国内諸法規の趣意からみて、平和条約の国内法的効力を解釈するにあたつて、同条約発効当時に、尚かつ共通法三条の規定を肯定して国籍の得喪を論議することは、いかにしても不合理ではなかろうか。

 多数意見は、日本国憲法施行後、民法改正の後に、そして、平和条約発効までの間に朝鮮人と婚姻した日本婦人についても、共通法の規定によつて、その日本婦人は「内地ノ家ヲ去ル」ものとして、従つて日本における本籍を失つたものとして、平和条約発効と同時に日本の国籍を喪失したものと解して何の疑念をもさしはさまないのであろうか。とすればあまりにも憲法の趣旨とかけはなれた解釈と評せざるを得ないのではないか。日本国憲法に伴う諸改正法規の施行された以後においては、朝鮮人と婚姻したが故に、従つて日本の家を去るが故に日本の本籍を失うという観念は、新民法からいつても、新戸籍法からいつても、さらに新国籍法の理念からいつても是認し得ないところのものではないか。しかもこれらの法律改正は日本国憲法の趣意に淵源するものであることを銘記しなければならない。

 わが国は昭和二〇年八月ポツダム宣言を受諾して事実上朝鮮の独立を承認したのである。朝鮮は同月一五日をもつてその独立の記念日としていること、そしてその時以後独立国の実体をそなえていることは世界公知の事実である。少くとも朝鮮在住の朝鮮人はこの時以後日本国の国籍を喪失したものと解すべきは疑を容れないところであろう。(多数意見は朝鮮在住の朝鮮人についても、平和条約発効までは日本の国籍を失わなかつたとするのであろうか。)

 昭和二七年四月締結された平和条約第二条は、法律上明確に朝鮮の独立を承認しているのであるが、これはさきになされた事実上の承認を法律上明認したものと解すべきであろう。従つて朝鮮の独立承認にもとづく朝鮮人の日本の国籍喪失の基準は、わが国がポツダム宣言の受諾によつて事実上朝鮮の独立を承認した時を基準としなければならないものであると思う。この時は、もとより日本国憲法の施行以前であり、いわゆる共通法秩序は厳として存在していた時期である。この時を基準とするかぎりにおいて、多数意見の説くところはすべて是認し得るのであつて、本件の上告人はその以前において朝鮮人と婚姻し、朝鮮の家に入り日本の本籍を失つていたものであることは原判決の確定するところであるから、上告人はこの時を基準として日本の国籍を喪失したものと解すべきである。

 

 

【裁判官入江俊郎】の補足意見は次のとおりである。

 一、上告人の憲法および国籍法違反の主張の理由のないこと、および本件上告人の日本国籍の喪失は、日本国との平和条約の規定に基づくものであることについては、わたくしは多数意見と同様である。ところで、本件上告人の日本国籍喪失の根拠規定たる前記条約第二条(a)項は、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、……朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」と規定しており、朝鮮に対する領土主権を放棄するものであることは疑いないが、これに伴つていかなる限度において対人主権を放棄することになるかは必らずしも明瞭ではなく、対人主権を放棄することとした朝鮮に属すべき人の範囲は、右条約の規定の成立するに至つた経緯を顧み、同規定の趣旨に従つて、解釈によつて定めるほかはないものと思う。

 二、わたくしは、先ず、前記条約の朝鮮の独立を承認した規定は、明治四二年日本国と旧韓国との間に成立した韓国併合条約により発生した状態を除去し、終戦後独立した朝鮮国家に、併合なかりせば旧韓国が持つていたはずのものと認められる領土主権および対人主権を回復し、いわば、併合なかりせば、法律上かくのごとくであつたと認めうる法的状態を実現すること(原状回復)を主眼としたものであると考えるのである。そこで、これを前提として、朝鮮の独立を承認したことに伴つて対人主権を放棄することとした朝鮮に属すべき人の範囲につき考えてみると、併合前の韓国人またはその子孫で併合後その者の身分上に特段の変動のなかつた者(いわば生来の朝鮮人)は、朝鮮に属すべき人として、わが国がこれに対する対人主権を放棄したものであることは、前記平和条約の規定の解釈上問題はないであろう。しかし、それ以外の者、例えば、生来の日本人である女子が、併合後前記のような生来の朝鮮人と婚姻入籍した本件上告人のごとき場合、その他昭和二七年四月一九日付民事局長通達の第一、朝鮮及台湾関係の(二)、(三)に掲げられたような者の場合等において、その者の日本国籍がどうなるかは、その個々の場合ごとに、併合なかりせばその者の国籍は法制上どうなつているであろうかということを考えて、それに合致する限度において、判断すべきであると思う。或いは、前記条約の規定は生来の朝鮮人以外の者の日本国籍の喪失についてまで定めたものではなく、それらの者については、専ら朝鮮国家独立の際におけるわが国の国内法の規定によるべきであるという者があるかもしれないが、わたくしは、前記条約の規定は、前述のごとく原状回復を趣旨とするものと考えるのであつて、その趣旨に合致する限度において、生来の朝鮮人以外の者の日本国籍の喪失についても規定していると解するのである。

 そこで、これを本件に即して調べてみると、当時の旧韓国の法制によれば、旧韓国人男子に嫁した外国人女子は旧韓国の国籍を取得することとなつており、また当時のわが国の旧国籍法(明治三二年法律六六号)一八条によれば、日本人が外国人の妻となり、夫の国籍を取得したときは日本国籍を失うこととなつていたことが明らかであるから、もし韓国併合なかりせば、前記のように生来の朝鮮人と婚姻した生来の日本人である上告人は、その当時韓国の国籍を取得するとともに、日本国籍を失うべかりし者であつたことが明らかであり、そしてこのことは、併合なかりせば上告人が婚姻した時そのように確定して既成の事実となつてしまつたはずの事柄であつて、前記条約の規定はそのような事柄に着目し、そのような法的状態を、朝鮮国家独立の際実現せんとするものである。このことは、その後わが国に日本国憲法が施行され、また国籍法が改正されて夫婦同一国籍主義をやめたとしても、それによつて影響を受くべきものではない。けだし、前記条約の規定をこのように解することは、日本国憲法に何ら違反するものではなく(夫婦同一国籍主義そのものが憲法に違反するものとは考えられない。そしてこの主義は、新憲法施行後たる昭和二五年に、同年法律一四五号国籍法が施行されるまで、旧国籍法一八条、二一条等によつて認められていたのである。)、また本件日本国籍喪失は、前記条約の規定に基づくものであつて、国籍法に基づくものでないこと冒頭に述べたとおりであるから、新国籍法の施行とは関係がないというべきだからである。しからば、上告人は前記条約の規定の解釈上、朝鮮国家独立とともに日本国籍を喪失するに至つたものというほかはない。

 以上は、原判決の理由説示と同趣旨であり、本件判決の理由としては、わたくしはこれをもつて足りるものと考える。

 三、多数意見は、「右平和条約の規定の解釈上、朝鮮に属すべき人というのは、日本の国内法上で朝鮮人としての法的地位をもつた人と解するのが相当である。」と説示し、併合後において、わが国の国内法上朝鮮人とされる者についての法制を詳述しているが、併合後わが国の国内法制が、朝鮮人としての法的地位を持つ者としからざる者とを区別したのは、併合により日本人となつた従前の韓国人と生来の日本人との双方を含めた日本国籍を有する者についての区別であつて、それは立法政策の要請に応じ、適正妥当な範囲においていかようにも定め得たところのものである。或いは併合後のわが国の国内法制における朝鮮と内地との関係は、あだかも準国際私法的なものであつて、朝鮮戸籍が内地戸籍とは別個の独立性を認められていたことをもつて、朝鮮戸籍は旧韓国の国籍と実質を同じくするものであるとして、朝鮮戸籍令の適用をうけ朝鮮戸籍に登載された者は、すべて朝鮮国家の独立とともに、日本国籍を失うものであるという考え方があるかもしれない。多数意見は結局そのような立場に立つもののごとくであるが、わたくしは、併合後のわが国の国内法制が朝鮮戸籍に独立性を認めたからといつて、それを旧韓国の国籍と実質を同じくするとの考え方には、併合後のわが国の朝鮮に対する立法政策の動向に照らし、にわかに賛同することができない。従つて、たとえわが国内法制において朝鮮人との婚姻または養子縁組によつて朝鮮人の家に入つた日本人は、共通法三条一項により朝鮮戸籍に登載され、他方内地戸籍から除籍され、法律上で朝鮮人として取扱われたからといつて、もし上告人の婚姻当時の旧韓国の法制および当時における日本の旧国籍法が前記のような夫婦同一国籍主義を認めておらず、日本人たる女子が外国人の妻となつても依然日本国籍を失うものでないとされていたとするならば、併合がなかつたとしても、その日本人たる女子は日本国籍を失うことはないのであるから、前記条約の規定の解釈からいつて、上告人は、朝鮮国家の独立とともに、日本国籍を失つた者であるとすることはできないわけである。すなわち、本件においては、併合後におけるわが国の国内法制上、上告人が朝鮮人としての法的地位をもつていたとの一事をもつて、日本国籍を失うに至つたというべきではなく、前記のような旧韓国の法制およびわが国の旧国籍法一八条の規定が当時存在していたことと相まつて、はじめて前記条約の規定の解釈上、上告人が朝鮮国家の独立とともに、日本国籍を失つたものとされるのである。なお、わたくしは、本件国籍の喪失は、前記条約発効の時に生じたものであるとの見解に立つものである。

 わたくしは以上の趣旨において、多数意見に賛同する。

 

 

 

10条 国民の要件 ・最大判昭和36年4月5日 国籍存在確認請求(3)

【最大判昭和36年4月5日】補足意見等


▼ 目次


▼ 10条 国民の要件 国籍法・最大判昭和36年4月5日 国籍存在確認請求(1)


▼ 10条 国民の要件 ・最大判昭和36年4月5日 国籍存在確認請求(2) 【最大判昭和36年4月5日】補足意見等



【裁判官奥野健一の補足意見】

は次のとおりである。

 多数意見は、平和条約第二条により、同条約の発効と同時に上告人は日本国籍を喪失したものという。

 しかし、平和条約第二条(a)項で「日本国は朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定しているが、これは朝鮮の独立を承認し、領土主権を放棄すると共に朝鮮人に対する主権をも放棄する趣旨であり、国籍については日韓併合によつて韓国の国籍を喪失した本来の朝鮮人及びその子孫をして日本国籍を喪失させる趣旨であることは首肯できるけれども、それ以上にこれらの者と婚姻した本来の日本人女についてまで日本国籍を喪失させねばならないという要請まで包含しているものとは解し難い。また国際法上又は国際慣行上も夫婦同一国籍主義の原則は確立されていない。然らば、朝鮮人と婚姻した日本人女の国籍の問題はわが国の国内法令に従つてこれを決定しなければならない。そして平和条約発効当時施行されているわが国籍法によれば明白に夫婦独立国籍主義を採用しているのであつて、外国人と婚姻した日本人女は日本国籍離脱の措置を採らない限り、当然には日本国籍を失わないのである。従つて、仮りに平和条約発効と同時に夫が朝鮮の国籍を取得したものとしても、妻たる上告人が当然に夫に随い日本国籍を喪失するものと解することはできない。然らば平和条約二条によつても、国際法上からも、また国籍法上からも、多数意見のいう如く朝鮮人と婚姻した日本人女が平和条約発効と同時に当然に日本国籍を失うものということができない。もつとも、多数意見は朝鮮人と婚姻した日本人女は、共通法三条により夫の家に入り夫の朝鮮戸籍に登載され、他方で内地戸籍から除籍されていたのであるから、「法律上では日本人でなく、朝鮮人になつたものと見るほかない」というのであるが、多数意見に従つても平和条約発効まではかかる日本人女でも依然として日本国籍を保有していたのであつて、単に戸籍上形式的に内地戸籍から朝鮮戸籍に移されていたからといつて日本国籍を失う理由とはなり得ない。殊に、新憲法の下いわゆる家の制度は廃止されているのであり、単に共通法、戸籍法の上で内地人と異別な取扱を受けていたという理由で日本国民の基礎である日本国籍が奪われるということは本末顛倒であるといわなければならない。この意味において私は平和条約発効のときに、上告人が日本国籍を喪失したものであるとの多数意見には同調できない。

 私見によれば、わが国はポツダム宣言を受諾し、右宣言は朝鮮の独立を認めているのであるから、これにより、わが国は、すでに朝鮮の独立を認めたものと考える。もつとも、平和条約第二章第二条(a)は「日本国は朝鮮の独立を承認して、……」とあるけれども、すでにポツダム宣言の受諾によつて朝鮮の独立を承認しており、平和条約はただこれを確認した趣旨と解すべきものと思う。従つて、他の法律関係についてはとにかく、少くとも国籍の問題としては、上告人の夫はわが国が右ポツダム宣言を受諾した時に外国国籍を取得し、日本国籍を失つたものと解すべく、そして当時のわが国籍法一八条によれば、夫婦同一国籍主義をとり、日本人が外国人の妻となることによつて日本の国籍を失うものとされていたのであるから、妻たる上告人も外国人の妻として当時すでに日本の国籍を失つたものと解さなければならない。然らば、たとえ、上告人が朝鮮在住中夫と同棲しなかつた事実、その後日本に帰つて来た事実、その後離婚した事実があつたとしても、それによつて当然に日本国籍を回復することにはならず、現在上告人が日本国籍を有しないものといわねばならない。私は現在上告人が日本国籍を有しないという結論については多数意見と同意見であるが、上告人の日本国籍喪失の時期及び原因について意見を異にする。

 

 

【裁判官下飯坂潤夫】の少数意見は次のとおりである。

 多数意見を要約すれば、次のとおりである。すなわち、(一)、日本国が平和条約第二条から、いわゆる朝鮮領土に対する主権を抛棄したことは、取りも直さず、朝鮮に属すべき人に対する主権を抛棄したことであり、このことは朝鮮に属すべき人について日本国籍を喪失させることを意味する。(二)、右にいわゆる朝鮮に属すべき人というのは日本の国内法上で朝鮮人としての法的地位をもつた人と解すべきであり、ここに朝鮮人としての法的地位をもつた人というのは、元来朝鮮戸籍に登載された人ばかりでなく、朝鮮人と婚姻し、共通法の適用で、朝鮮戸籍に登載された結果、内地戸籍から除籍された日本人女性をも含むのである。(三)、上告人は元来日本人であるが、昭和一〇年七月一六日朝鮮人であるDと婚姻入籍したものであることは原判決の確定した事実であるから、以上により、日本国籍を喪失している。

 というのである。

 上叙によつて見れば、多数意見は本事案を純法律的にのみ受取り、平和条約と日本国内法に依つてのみこれを処理せんとしているのである。その立論の過程には疑点がないでもない。例えば(一)、日本国と韓国との間に日本人国籍の得喪に関して条約、協約は固より、何らの話合もされてはいないのである。(二)、前示Dはいわゆる北鮮人であり上告人は北鮮人の妻であるが、いわゆる朝鮮人民共和国は日本政府の承認している国家ではなく、両者の間には何ら外交上の手段をもつていないのである。かような現段階において、多数意見のように一般的法理論のみに従つて本事案を解決点にもつてゆくことが果して可能、且つ妥当であろうか、この点に(多数意見はこの点に関して何ら探究をしていない)、私は疑問を挾むのであるが、それはそれとして、多数意見は、一般通常の場合における朝鮮人妻であつた日本人女性の日本国籍喪失に関する法理論としては一応首肯できるものであろう。しかしながら、上告人は本件においてそのような説法を聴かんと欲しているのではない。自分の場合はかくかくの異常な場合であるから、これを十分に賢察され、一般法理の例外の場合として、日本人たることを認められたいというのである。では、その異常、例外の事態とは何か、本件記録を通覧すれば明瞭に看取できるように、上告人は次のように主張するのである。すなわち、(一)、上告人は大正四年二月四日日本人たる父Eと日本人たる母Fとの間に長女として出生した日本人であり、母FがG姓を名乗るとともに同姓を称していたのであるが、昭和一〇年七月一六日、朝鮮黄海道鳳山郡ab番地に本籍を有するDと婚姻しDの本籍に入籍した。(二)、そして右婚姻後、上告人はDとともに東京において同棲していたが、昭和一六年一一月朝鮮京城府永登浦に移転したところ、Dは間もなく朝鮮人女性某と関係し、上告人と別居するに至り、遂に翌一七年九月北支に行くと称して行方を晦まし、上告人を悪意を以て遺棄した。(三)、よつて、上告人は同一八年二月東京に帰り、板橋に住み、印刷工として働いていたが、昭和二〇年六月Dの親より朝鮮に疎開するよう勧められ、上告人は再び前記京城府永登浦に赴いたがDは妾との関係を断たなかつたので、上告人は日本に帰るべく決意を堅めたが、時、宛も終戦末期で容易に願望垂遂げられずしている中に、終戦となり、上告人は北鮮地域の沙里院にDの父親と疎開同居をしていたが、日本に引揚げることも出来ず、ようやく昭和二五年一二月釜山に辿りつき、同地の日本人収容所に入れられ、翌二六年一月頃日本に帰還することが出来た。(四)、そこで、上告人は上叙の理由に基きDに対する離婚の訴を東京地方裁判所に提起し、同裁判所昭和二七年(タ)第一三六号離婚請求事件として係属したが、同二七年一〇月二一日離婚の判決があり、同判決は同年一一月五日確定した。(五)、よつて、上告人は同年一一月一四日東京都中央区長に対し右離婚判決の確定に基く離婚の届出書を提出したところ、同区長は、昭和二七年四月一九日附法務府民事第四三八号法務府民事局長通達に従い、もと内地人であつても、日本国との平和条約発効前に朝鮮人との婚姻、養子縁組等の身分行為により内地の戸籍から除籍せらるべき事由の生じた者は平和条約の発効とともに日本の国籍を喪失したものとして上告人の届出を受理しない。

 というのである。

 想うに、以上、上告人主張のような事態の推移であつたとすれば、上告人の場合は多数意見採用のような一般的純法理論のみを以て簡単に律するには、余りにも異常、例外の場合ではなかろうか。裁判所としてはこのような事件の処理に当つては、すべからく上叙のような事態の推移を具さに取調べ、その中に解決の鍵となるべき具体的妥当性を発見すべく努力することこそ肝要な任務ではないかと私は考えるのである。言うまでもなく、法律は国民生活の種々相を余すことなく捉え得るものではない。法律はただ太い一線を引いているだけである。その太い一線で律することのできない異常、例外の場合があり、右一線をのみ貫くときは、法律の予想しない幾多の禍根を生ずるであろうことはわれわれの経験するところである。そこに法律運用の妙味があり、その妙味の発揮こそは裁判官にのみ任されているのである。原審裁判所は本事案が右のような異常、例外の場合であるや否やについては一顧も与えず、ただ法理論のみに泥んで、上告人の請求を排斥し去つたのである。私見を以て言わしむれば、原審は全く法律運用の妙を忘れたものというを憚らないし、当事者の大事な主張にいささかも答えなかつたというかきんありと言わざるを得ない。遺憾ながら、多数意見もその非難を免れ得ないであろうと思う。上告人の言うところを信ずれば上告人は過ぐる大戦争において、日本が敗北した結果日本本土、南北朝鮮と数年悲惨な流浪を続けてきたのである。そして、その余りにも当然な欲望として祖国の国籍に執着し、ようやくにして日本本土の岸辺に辿り付いた生れながらの日本人女性であり、しかも戸籍上朝鮮人の妻であつても、平和条約発効時においてはすでにに妻たる実質を失つていたのである。裁判所は何故にこの同胞に対し救いの手を差し延べることを躊躇するのであろうか。この場合多数意見の帰化容易論などは上告人の問うところではなく、上告人が主張の核心とする問題の法律的解決としては論外である。

 以上を要約すれば、私見は、原判決が上叙異常、例外の場合に思いを致さず、何

らこれに言及しなかつた点において審理不尽、理由不備の粗漏があり、本件上告は

理由あるに帰し、原判決は右の理由を以て破棄差戻し然るべきものと信ずるのであ

る。

 以上の次第で、私は多数意見には賛同し難い。

国民の要件

 

▼ 目次

【国籍法・父系優先血統主義の合憲性】

1950年の国籍法2条は、血統主義を原則とし、「出生の時に父が日本国民であるとき⑨として、父性優先血統主義をとっていた。

*東京高裁判例昭和57年6月23日等では、裁判上の救済の限界論によって訴えを棄却されたものの、この訴訟を1つの背景として、父母両系血統主義の一般化、父系血統主義が重国籍の防止策として役割が減少したこと、「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に日本も署名したことをきっかけとして、国籍法が改正され、現在では、父母両系血統主義が採用されている。


東京地判昭和56年3月30日

*昭和59年の改正前の国籍法

 

要旨

 子が提起した自己の国籍確認請求訴訟に,その母が併合提起した子の国籍確認請求訴訟が,訴えの利益を欠くとして不適法とされた事例 2 子は,自己の国籍確認請求訴訟において,父母の性別による差別を理由に,国籍法2条1号ないし3号の規定の違憲性を主張することができるとした事例 3 国籍の取得につき父系優先血統主義をとる国籍法2条1号ないし3号の規定は,父母の性別による差別を設けるものであるが,これは重国籍防止のため必要かつ有用であり,補完的な簡易帰化制度を併せ伴う限り不合理な差別とはいえず,憲法13条,14条,24条2項等の規定に違反しないとした事例

 

判旨

二 国籍法二条は、出生により日本国籍を取得する場合として、「出生の時に父が日本国民であるとき」(一号)、「出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民であつたとき」(二号)、「父が知れない場合又は国籍を有しない場合において、母が日本国民であるとき」(三号)及び「日本で生れた場合において、父母がともに知れないとき、又は国籍を有しないとき」(四号)の四つの場合を定めている。これによれば、国籍法が、出生による日本国籍の取得につき、親との血縁関係を基礎とする血統主義を原則とし(同条一号ないし三号)、出生地との地縁関係を基礎とする生地主義を補充的なものとする(同条四号)とともに、血統主義の適用に関しては、父の国籍を第一次的基準とする父系優先主義、すなわち、父が日本人である場合には、母が外国人であつても子に日本国籍を与えるが、父が外国人である場合には、父が知れないか又は無国籍であるため子が父の国籍を取得できないときを除き、母が日本人であつても子に日本国籍を与えないとする主義を採用していることは、明らかである。

2 右の父系優先血統主義は、それ自体としては、夫婦国籍独立主義の下で子が日本国籍を取得するか否かについての一般的基準であるにすぎない。しかし、日本人と外国人との間に生まれた子が日本国籍を与えられないときは、わが国において憲法の定める基本的人権の保障を完全には享受し得す、例えば、出入国及び在留の制限(…)、職業及び事業活動等の制限(…)、財産権の制限(…)、社会保障の制限(…)などを受けるに至るのであるし、また、日本国籍を有しない子は日本人親の戸籍にも記載されないこととなつているため、戸籍によつてその存在を証明し得ないことからくる不利益ないし不都合も少なくない(例えば、予防接種や就学の通知を受けられないなど)。このように日本国籍の有無が社会生活における各種の関係において極めて重要な意義を有することにかんがみれば、日本人の子が出生により日本国籍を取得するか否かは、当該子にとつてのみならず、親にとつてもまた、その法律上の利害に密接な関係をもつ事柄であると考えられる。

したがつて、国籍法二条一号ないし三号の規定が、親の国籍を基準として子の日本国籍の取得を決定するにあたり、父の国籍を母の国籍より優先させているのは、単に抽象的に目本国籍取得の基準を母の国籍ではなく父の国籍に求めたというにとどまらず、これを子の立場からみれば、両親の一方のみを日本人とする子の中で日本人親の性別のいかんにより日本人母をもつ子を日本人父をもつ子に対して差別することであるとともに、親の立場からみても、日本人父は常に子と国籍を同じくすることができるのに対し、日本人母は原則としてこれが認められず実質的不利益を受けることがあるという点で、子との関係における父母相互の地位に差別を設けるものであるといわなければならない。



3 ところで、右に述べた父系優先血統主義は、父母の性別を基準とするものであつて、子の性別による差別ではない。しかし、父系優先血統主義の直接的効果として、子は自己が生来的日本国籍を取得できるか否かを一方的に決定されるのであり、前記のような国籍の重要性を考えれば、子としては、右国籍決定基準の定め方における父母の性別による差別の違憲性を主張するにつき実質的かつ具体的利益を有するものである。また、父系優先血統主義が子の国籍決定に関する基準であることからいつても、その違憲性は子自身を当事者とする子の国籍に関する訴訟においてこれを争わせるのが最も適切である。これらの点を考えると、右国籍訴訟の当事者である子は、その訴訟において、父系優先血統主義をとる国籍法の前記規定につき父母の性別による差別を理由としてその違憲性を主張することができるものと解するのが相当である。

他方、母は、その差別によつて直接父と差別される立場にあるものの、差別の結果としてもたらされる子の日本国籍不取得という効果は、それ自体としては子自身と国との間の関係であつて、母は第三者にとどまるものであり、子が日本国籍を取得できないことにより母の被る不利益は通常子のそれを上回ることはない。したがつて、右差別の違憲問題をも含めて子が日本国籍を取得したか否かは、当該子を当事者とする国籍確認訴訟において十分審理判断がつくされるのであり、そのほかに、母としての固有の立場において右差別の違憲性等を主張するか否かを母の意思ないし選択にかからせなければその利益を害するという場合は通常存在しない。そうすると、子において自己の国籍確認を求めることが可能であるときに、これと別個独立に第三者である母に対しても子の国籍確認を求める訴えを認めるべき必要性は存しないというべきであり、特段の事情の窺われない本件においては、原告Aの本件訴えはその利益を欠くものとして不適法といわざるを得ない。


四 そこで進んで、国籍法二条一号ないし三号の規定が原告Bの主張するように憲法の平等原則に違反する不合理なものであるか否かについて判断する。


1 成立に争いのない甲第四、第五号証、第八号証、第九号証の一ないし四によれば、出生による国籍の取得に関する立法主義は、血統主義と生地主義とに大別され、世界の各国はおおむね右両主義のいずれか一方を原則とし他方を何らかの形で補充的に取り入れた折衷的立法をしていること、そして、原則的あるいは補充的に血統主義を採用している諸国においては、ヨーロツパ及びアジヤ地域を中心として父母の血統のうち父の血統を第一次的基準とする父系優先主義をとる立法例が少なくなかつたが、近年フランス、西ドイツ、スイス及びスウエーデン等において父母双方の血統を平等に取り扱う父母両系主義に改めるに至つたことが認められる。ところで、国籍の得喪に関する事項は、伝統的に各国の国内管轄事項であるとされ、超国家的な統一原則が定立されないまま、各国ともそれぞれの歴史的沿革や国策等に基づいて独自の立法をしているのが現状であるため、その当然の結果として、異国籍者間に出生した子などについて国籍の積極的抵触(重国籍)又は消極的抵触(無国籍)という事態が発生するのを避けられない。そして、重国籍の場合には、自国の国籍の存在を主張する各国家は、一方において、同一の個人に対して兵役義務その他の国民としての義務の履行を要求し、当該個人をして去就の決定を不可能ならしめ、これを著しく不利益な地位におくとともに、他力において、これらの各国家は、当該個人に対する外交保護権の行使あるいは犯罪人引渡等をめぐつて相互に対立し、国際紛争を惹起するおそれがあるばかりでなく、国際私法の対象となる渉外的要素の有無の判断や、その準拠法としての本国法の決定にも困難が生じ、更に、重国籍の一方が自国籍であるときは、外国人に対する各種の権利制限を定めた国内法を当該個人に適用し得るか否かを解決する必要にも迫られる。他方また、無国籍の場合には、国籍を前提としてのみ享受し得る国内居住権や参政権等がいずれの国においても保障されず、殊にその者の利益を最終的に保護すべき国家がないことになるため、当該個人は常時不安定な生活を余儀なくされ、人権尊重上極めて好ましくないことは、いうまでもない。このように、現在の国際社会において国籍の抵触が不可避的に発生し、国際平和の維持及び人権尊重の面からこれを放置しておくことができないため、国籍の抵触をできるだけ防止して国籍唯一の原則を実現することは、国際的に承認された国籍立法の理想とされているのである。


2 現行の国籍法は、昭和二五年に制定されたもので、旧国籍法と同じく父系優先血統主義を採用しているが、立法の際の国会審議における政府当局の説明等によれば、その当時において原則的あるいは補充的に血統主義を採用している各国の国籍立法のうちで母系主義を原則とするものはその例がないため、もしわが国が父母両系血統主義を採用すると、父が血統主義をとる外国の国民で母が日本人の場合には常に子が重国籍となるので、主として国籍の抵触防止の見地から、父の国籍を優先させたものであるとされている。国籍法が、旧国籍法と較べて重国籍の防止に相当の考慮を払い、そのための規定として四条五号、八条ないし一〇条等を設けていることから考えると、父系優先血統主義を採用した主たる目的が右説明のとおり重国籍を防止することにあつたとの点はこれを認めるべきである。

右のような重国籍防止の目的は、1で述べた重国籍の弊害からみて、国の重要な利益に合致するものであるとともに、当該当事者個人にとつても結局のところ利益となるものである。重国籍当事国が友好関係にあり相互に重国籍の調整措置を設けているような場合だけを想定するならば、重国籍の不都合はさして表面化しないけれども、そうでない場合のことをも考えて一般的に論じる限り、重国籍の防止が重要であることは明らかである。現実に重国籍が生じた場合の具体的な法律関係の処理としては、例えば、重国籍の一方が自国籍であるときは本国法の決定につき自国籍を優先させるとか、重国籍がともに外国籍のときは住居所所在地の国籍を基準とするといつた解決策が従来から若干の条約や立法等において採用されているが、それらは重国籍によつて生じる問題の一部を解決するものにすぎないし、また、それらの解決策のすべてについて国際的承認が得られているわけでもないのである。したがつて、そのような解決策があるからといつて、重国籍そのものの防止を図ることの必要性を過小評価することはできない。


3 そこで、右重国籍防止の目的を達成するための手段としての面から父系優先血統主義について検討する。

(一) 重国籍の防止方法としては、重国籍の発生を抑止する方法と、発生した重国籍を事後的に解消させる方法とがある。重国籍者の意思により一方国籍の放棄あるいは選択をさせるのは後者の方法であるが、この方法は、いずれの重国籍国においても国籍の離脱が自由に認められていることを前提とする。今日、国籍離脱の自由の原則が国際的に一応承認されているとはいえ(憲法二二条二項、国籍法一〇条参照)、なお一定の場合(例えば、一定の年齢に達する前あるいは兵役義務を履行し又は免除される前など)にはこれを禁止ないし制限する立法例もみられるのであるから、このような禁止ないし制限のある国の国籍と日本国籍とを有する重国籍者は、日本国籍の保有を望む限り重国籍状態を継続していくほかはない。このため、関係諸国との間において重国籍解消のための効果的な国際的取決めが成立するまでは、重国籍の発生自体をできるだけ少なくする必要がある。

(二) もつとも、重国籍の発生を少なくする必要があることは右のとおりであるとしても、各国の国籍立法に多様性が存在している国際社会の現実の下では、その実現には一定の限界を免れない。すなわち、父が日本人で母が父母両系血統主義をとる外国の国民である場合には、わが国が父系優先血統主義を採用しても、重国籍の発生を防止できないし、また、生地主義をとる外国において父を日本人として出生した場合にも同様である(ただし国籍法九条参照)。このように、父系優先血統主義をとつたからといつて、重国籍の発生を完全に防止できるものではない。しかし、それだからといつて、父系優先血統主義が重国籍を防止するための手段として無力であるというのは早計である。なぜなら、父が父系優先又は父母両系の血統主義を採用する外国の国民で母が日本人である場合に、わが国が原告のいうように父母両系血統主義をとれば子が常に重国籍となるのに対し、父系優先血統主義によれば子が重国籍者とならないのであり、父系優先血統主義が重国籍の防止に寄与するからである。そして、原則的あるいは補充的に血統主義をとる国で父系優先主義を採用している国は世界的になお少なからず存在し、殊にわが国における在留者数等からいつて渉外的婚姻関係の生ずることが多い韓国をはじめアジヤ諸国がおおむねそうである現実を考えると、わが国が父母両系血統主義をとることによつて重国籍が発生し、父系優先血統主義をとることによつてこれを防止し得るという事態は、具体的に相当程度予測されるのであつて、決して単なる観念上の想定にすぎないものではない。この点で、父系優先血統主義は、わが国の現実の状況の下では、重国籍の発生防止に相当効果のある措置ということができる。この父系優先血統主義に代わつて、他の利益を損うことなく、かつ、これと同じ程度実効的に重国籍の発生を防止し得る別の法手段を見出すことはむずかしい。



▼ 目次

要旨

 子が提起した自己の国籍確認請求訴訟に,その母が併合提起した子の国籍確認請求訴訟が,訴えの利益を欠くとして不適法とされ た事例 2 子は,自己の国籍確認請求訴訟において,父母の性別による差別を理由に,国籍法2条1号ないし3号の規定の違憲性を主張することができるとし た事例 3 国籍の取得につき父系優先血統主義をとる国籍法2条1号ないし3号の規定は,父母の性別による差別を設けるものであるが,これは重国籍防止の ため必要かつ有用であり,補完的な簡易帰化制度を併せ伴う限り不合理な差別とはいえず,憲法13条,14条,24条2項等の規定に違反しないとした事例

判旨続き

国民の要件 父系優先血統主義について・東京地判昭和56年3月30日


4 父系優先血統主義には右のような重国籍発生防止の効果がある反面、これによると、日本人母の子は父が外国人である限り原則として生来的日本国籍を取得できないこととなるばかりでなく、場合によつては無国籍となることがあり得る(生地主義をとる外国の国民を父として日本で出生した場合など)。重国籍防止のために無国籍を生じさせること自体行きすぎというべきであるし、また、個人の人権尊重を第一義とする近代の傾向からすれば、無国籍の防止は重国籍の防止よりも重要であり、もし両者が抵触し二者択一を迫られるときは、前者を優先させるべきものであろう。

そこで、この点につき国籍法がいかに対処しているかをみるのに、国籍法は、右のような立場におかれた子に一つきいわゆる簡易帰化により日本国籍を取得する途を設けている。すなわち、これらの子が日本国籍を有しないことによる不利益な効果は、子が日本に在住し将来も日本で生活をしようとする場合に現実化するものと考えられるところ、国籍法六条二号は、「日本国民の子(養子を除く。)で日本に住所を有するもの」について、普通の場合に要求される帰化の条件を大幅に緩和し、当該子が無国籍の場合には同法四条三号及び六号、外国国籍を有する場合には同条三号、五号及び六号の各条件に適合すれば帰化をすることができるものとしている。そして、右帰化によつて日本国籍を取得したときは、公法上及び私法上いかなる点においても生来的日本国籍を有する者と差別されることはないのである。右法定の帰化条件のうち、四条三号の「素行が善良であること」及び六号の「日本国憲法施行の日以後において、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを企て、若しくは主張し、又はこれを企て、若しくは主張する政党その他の団体を結成し、若しくはこれに加入したことがないこと」という条件は、幼年の子については実際上問題となり得ないから、子が無国籍の場合には、その帰化は実質的にほぼ無条件に近いことになる。これに対し、子が外国国籍を有する場合には、更に同条五号の「日本の国籍の取得によつてその国籍を失うべきこと」という条件があるので、当該外国が他国への帰化による国籍の喪失を認めていないときは、日本への帰化が制約されることになるが、右五号の定める帰化条件は、帰化によつて重国籍が発生するのを防ぐためのものであるから、当該外国の法制において、他国への帰化により自動的に国籍を喪失することとされている場合だけに限らず、例えば帰化当事者から他の国籍を取得した旨の届出ないし意思表示があれば国籍を喪失することとされている場合などをも含むものと緩かに解する余地があり、これを含めると、今日では、同号の存在が帰化の障害になる場合は諸国の立法例から見てさほど多くはないのである。また、外国国籍を有する子が同号の規定によつて帰化を認められない場合があり得るとしても、現に特定の外国国籍を有する以上は、自己の権利義務の実現について最終的に当該国家の法的保障を受けることができるのであるから、人権尊重の見地からは右の法的保障が全くない無国籍者の場合と同列に論じることはできない。

もつとも、国籍法上、帰化は個人の権利ではなく、その許否が国家の利益保護の見地から法務大臣の裁量的判断にかかつているけれども、日本人の子につきその血縁的及び地縁的関係を考慮して特別に日本国籍の取得を容易ならしめようとしている趣旨に照らせば、よほど特別の事情のない限り、右の子が法定の帰化条件をみたしているにもかかわらず裁量によつて簡易帰化を不許可となし得る場合は考えられないところである。右制度の実際の運用がこれと異なつて行われていると認めるべき資料はない。また、国籍法一一条の規定によれば、一五歳末満の者の帰化申請は法定代理人が代わつてするものとされ、何びとが右の法定代理人となるかは法例二〇条の定める準拠法によることとなつているので、これにより法定代理人となり又はならなかつた外国人父が子の帰化を望まないときは、日本人母が帰化を望んでも、法律上又は事実上帰化の申請をすることができなくなることが考えられるが、幼年の子の帰化については父母の一致した意見によらせることが一般的に子の福祉にかなうのであるから、日本人母のみの意思による単独の帰化申請が許されていないからといつて、簡易帰化の制度を実効性のとぼしいものであるということはできない。

5 国籍法における国籍抵触防止の目的と父系優先血統主義との関連性及び父系優先血統主義の採用に伴つて生ずる結果についての同法の対応策は、おおむね以上のとおりである。これによつてみれば、国籍立法上、重国籍の発生を防止すべき必要性は否定し難く、また、そのための措置としてわが国が父系優先血統主義をとることは、一定の限界があるにせよ、現実的に相当の効果を発揮するものであるということができる。そして、このような父系優先血統主義に代わつて重国籍の発生そのものを効果的に防止し得る他の手段が容易にあるわけではない。問題は、これらのことが父母の不平等取扱を正当化するに足りるものであるか否かである。

一般的にいえば、重国籍防止の理想は両性平等原則と調和的に実現すべきものであつて、重国籍を防止するためであれば父母を差別すること(その結果として無国籍の子をも生ぜしめること)が当然に許容されると解することはできない。右に述べた父系優先血統主義の重国籍防止における必要性と有用性からみて、重国籍を防止する立法技術としての父系優先血統主義の合理性を低く評価することは相当でないが、その評価も、他の諸国において採用する立法主義のいかんや、両性平等原則の具体的内容についての時代的要請などに応じて変遷することを免れないのであつて、現代における両性平等原則の意義と価値に照らすときは、単に重国籍防止における必要性と有用性を強調するのみでは、父系優先血統主義が憲法の精神に反するものでないことを基礎づけるにはなお不十分であるといわなければならない。

ところで、日本国籍は、生来のものであれ、帰化によるものであれ、その法律上の効果に差異はなく、生来的取得と帰化とは、両者相まつて国籍法の日本国籍付与に関する制度を構成しているものである。本件において原告が違憲と主張している父系優先血統主義は、右のうち生来的取得に関するものであるが、生来的取得と帰化とが右のような関係にあることからすれば、その制度としての合理性を判断するにあたつては、生来的取得のみを孤立して論ずべきではなく、これを補完するものとしての帰化に関する制度が存在することをも考慮に入れたうえで決定することが必要である。そこで、この見地に立つて帰化に関する制度をみると、国籍法は、4で述べたとおり、父系優先血統主義の結果日本人母の子で日本国籍を取得できないこととなる者について簡易帰化の道を開き、日本人父の子と差別のない地位を取得することを可能ならしめているのである。この簡易帰化が完全には自由でなく、また、取得する国籍が生来的のものであるか帰化によるものであるかの違いは心情面等において微妙なものがあるにしても、父系優先血統主義による差別的不利益、殊に子が無国籍になるという人権上の不利益は、これによつて結果的にかなりの範囲において是正が図られているということができる。この点は、国籍法の定める日本国籍付与に関する制度を全体としてみる場合に無視し得ないところである。

以上のことから、当裁判所は、国籍法の父系優先血統主義の父母の性別による差別は、前述した重国籍防止における必要性及び有用性のほかに、右のような補完的な簡易帰化制度を併せ伴う限りにおいて、立法目的との実質的均衡を欠くとまではいえず、これを著しく不合理な差別であるとする非難を辛うじて回避し得るものであると考える。もとより、一切の差別を設けず、かつ、国籍の抵触を生ぜしめない制度が理想であることは当然であり、国籍法の制定当時から諸般の事情が柑当に変化している今日の状況下においては、父系優先血統主義に代えて重国籍を防止しながら父母両系血統主義を採用することがなおできないかどうかは十分考慮に値するものであるが、現行の制度をもつて著しく不合理なものであるとまではいえない以上、これを将来にわたりいかにするかは、諸般の多角的検討を経て慎重に決定されるべき立法政策の問題であるといわざるを得ない。

結局、国籍法二条一号ないし三号の規定は、出生による日本国籍の取得につき父母のいずれが日本人であるかによつて差別を設けるものではあるが、以上に述べた理由によつて、これを憲法一四条及び同条の理念を基礎とする憲法二四条二項に違反するものということはできない。



▼ 目次


【国籍法・父系優先血統主義の合憲性】

1950年の国籍法2条は、血統主義を原則とし、「出生の時に父が日本国民であるとき⑨として、父性優先血統主義をとっていた。

*東京高裁判例昭和57年6月23日等では、裁判上の救済の限界論によって訴えを棄却されたものの、この訴訟を1つの背景として、父母両系血統主義の一般化、父系血統主義が重国籍の防止策として役割が減少したこと、「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に日本も署名したことをきっかけとして、国籍法が改正され、現在では、父母両系血統主義が採用されている。

 

【東京高判昭和57年6月23日】

旧国籍法での判断・国民の要件 父系優先血統主義について・東京地判昭和56年3月30日

国民の要件 父系優先血統主義について・東京地判昭和56年3月30日(2)の二審

 

要旨

1 日本国籍を有する母とアメリカ合衆国国籍を有する父との間に生まれた子が提起した日本国籍を有することの確認請求訴訟において,国籍法2条1号の規定が憲法13条,14条1項,24条2項の各規定に違反するとの主張が,国籍法が日本国籍を有する母と日本国籍を有しない父との間に生まれた子について規定していないことは法の欠缺の一場合であるが,憲法は国籍付与の基準として何ら特定の主義を採用していないから,右法の欠缺をどのように補正するかは国会の立法裁量に任せられているとして,排斥された事例

2 日本国籍を有する母とアメリカ合衆国国籍を有する父との間に生まれた子が日本国籍のみならず,アメリカ合衆国国籍をも取得することができず,無国籍者とならざるを得ないとしても,右子が同国国籍を取得することができないのは同国国籍法の規定によるものであるから,国籍法2条1号ないし3号の規定が憲法13条,14条1項の各規定に違反するとはいえないとした事例

 

判旨

1 控訴人は、憲法前文が「日本国民は・・・・われらとわれらの子孫のために・・・・この憲法を確定する」とうたつていることを根拠に、憲法は日本国民を親として出生した子に対して生来的日本国籍取得権を保障しているものと主張する。しかし、憲法前文は憲法制定の由来と憲法の基本原理を述べたものであつて国民に具体的権利を保障したものではない。のみならず、右の文章のうち、「われら」とは現在の日本国民を指し、「われらの子孫」とは将来の日本国民を指すと解すべきであつて、後者が前者の血統上の子孫を指すと解することはできない。従つて、日本国民を親として出生した子が右の憲法前文によつて日本国籍を生来的に取得する権利を有するということはできない。

2 (一)次に、控訴人は、国籍法二条一号「出生の時に父が日本国民であるとき。」について、右規定は、憲法一三条、一四条一項、二四条二項に違反しているから、いわゆる合憲的解釈を行い、右規定中「父」とあるのを「父又は母」と解釈すべきであると主張する。しかしながら、右規定は憲法に違反してはいない。なんとなれば、右規定は、端的に、父が日本国民であるときその子が日本国籍を取得することを決めているに過ぎず、そのことだけを取上げてみるとき、これを禁ずる条項ないし原理は憲法のどこにも存在しないからである。もし、右の規定が、日本国民父の子は日本国民とするが、日本国民母の子は日本国民としないという趣旨の文言で規定されているのであれば、違憲の問題は起こり得よう。しかし、その場合でも、問題となるのは、後半の日本国民母の子は日本国民としないという部分だけであつて、前半の日本国民父の子は日本国民とするという部分ではないのである。

(二) そこで、控訴人の主張を善解すると、その真意は、「父が日本国民であるとき」という規定の存在が違憲であるということにあるのではなくて、「母が日本国民であるとき」という規定の不存在が違憲であるということにあるのであろう。或いは、更に進んで、そういう規定を欠いている国籍法全体な゜いしは日本国籍付与制度自体が憲法の精神に反すると主張するのであろう。そして、右の制度の違憲性を是正するために、裁判所に対して右の不存在の規定が存在するものとして裁判することを求めているのである。

しかし、憲法によつて裁判所に与えられた違憲立法審査権は、存在する規定についてそれが違憲であるかどうかを審査し、違憲と判断したときにはこれを無効として、つまりいわば存在しないものとして、適用しないことを本質とする。ある規定が実定法上に存在しないとき、それがいかに憲法上望ましいものであろうとも、違憲立法審査権の名の下に、これを存在するものとして適用する権限は裁判所に与えちれていないのである。

(三) 右に述べたように、本件において、裁判所は、違憲立法審査権の行使の一結果としては、日本国民母の子は日本国民とする旨の規定を創造することはできないが、本件の場合はいわゆる法の欠缺の一場合と考えることができ、その場合には、裁判所としては、条理によつて欠缺を補うことが許される場合がある。本件における控訴人の主張も、帰するところは、右の意味における法の欠缺を指摘し、憲法の諸原則を中心とする条理に従つて、控訴人主張の規定によつて右の欠缺を補うべきであるというにあるものと解される。そこで、この点について検討する。確かに、国籍取得の基準として、血統主義を採り、かつ父又は母の一方のみの血統を受けついだことをもつて足りるという主義(かりにこれを片親血統主義と呼ぶ。その中には、父系優先主義、母系優先主義、父母両系平等主義の三つが考えられる。)を採つた場合に、その中の父系優先主義を採用することは、今日の社会的諸条件の下においては、必ずしも充分に合理的であるとは云い難い。これをもつて明らかに両性平等の原則に反するとする者が存するのも決して理由のないことではない。

そこで、もし、憲法が血統主義の中の片親血統主義を採用することを宣言しているのであれば、その前提に立つ限り、父母両系平等主義のみが両性平等の原則に合致するのであるから、国籍法二条一号が「父」と規定しているとき、これを「父又は母」と解することは、正しい類推解釈であり、決の欠缺の正しい補充であると云うべきであろう。片親血統主義と両性平等原則の双方を満足させる規定は、父母両系平等主義の「父又は母」しかあり得ず、立法者が法改正によつて法の欠缺を補おうとする場合、他に選択の余地が考えられないからである。このような場合においてのみ、裁判所は条理に基づく法の欠缺の補充を行うことができると解すべきである。

これに対して、立法者が法の欠缺の補正をするための法改正ないし新法制定をすると仮定した場合に、立法政策上複数の選択肢が考えられる場合には、そのいずれを選択するかは立法者に任せられるべきであり、条理の名によつて裁判所が選択決定することは許されないものというべきである。ところで、既に述べたように、憲法は国籍付与の基準として何等特定の主義を採るべきことを指示していないのである。従つて、現在の立法者が、日本国民母の子の国籍取得の有無についての規定の欠缺を補正しようとして国籍法の改正を考えるとき、右の欠缺の原因となつた片親血統主義を維持するか否かはその自由であり、維持するとすれば、控訴人主張の趣旨に沿つた法改正をする外はないが、維持しないとすれば、そのようにならないことは明らかである。

例えば、この際、思い切つて生地主義を採用することも憲法上可能であり、国家が特定地域内にのみ主権を及ぼすものであることを重視すれば生地主義にも充分に合理性があると云えよう。又、血統主義を採るとしても、むしろ純血主義に徹して両親血統主義を採り、「父及び母」がともに日本国民であることを要件とすることも考えられる。勿論、控訴人の主張する片親血統主義中の父母両系平等主義を採り、「父又は母」を要件とすることも有力な選択肢の一つである。しかし、この主義を採る場合でも、親、殊に日本国民でない親に対して一定の国内居住年数その他の要件を必要とすることも充分に検討に値しよう。

以上の諸基準はすべて憲法の諸原則に違反していない。従つて、国籍法改正に当つて、そのうちのどれを採用するかは立法府である国会の自由である。このような場合には、司法府である裁判所は、条理の名によつて、特定の基準を採用してこれを実在の法として適用することはできないものと云わなければならない。要するに、国籍付与制度自体の違憲性を論じ、合憲の国籍法を制定するのは、国会の権限でありかつ義務であつて、裁判所の権限でもなく又義務でもないのである。

3 なお、控訴人主張の事情によれば、控訴人は母の有する日本国籍を取得することができないのみならず、父の有する米国国籍をも取得することができず、結局は無国籍者とならざるを得ないことになる。誠に気の毒なことである。しかし、このことの故をもつて国籍法二条一号ないし三号が憲法一三条及び一四条に違反するとの控訴人の主張は採用することができない。なんとなれば、控訴人が米国国籍を取得することができないのは、全く米国国籍法の規定の仕方によるものであつて、我が国の国籍法二条一号ないし三号の関知するところではないからである。他国の法規の内容如何によつて、我が国の法規が合憲になつたり違憲になつたりするなどということは有り得ないことである。

三 原判決の理由は、必らずしも以上に判示した当裁判所の理由と同一ではないが、その結論において正当であるから、民訴法三八四条により本件控訴を棄却する。

国籍法2条1号につき認知の遡及効を否定することの合憲性

▼ 目次

 

【最判平成14年11月22日】

事案

本件は、法律上の婚姻関係のない日本人である父とフィリピン人である母との間に出生した上告人が、出生の約二年九箇月余り後に父から認知されたことにより、出生の時にさかのぼって日本国籍を取得したと主張して、被上告人に対し、日本国籍を有することの確認及び日本国籍を有する者として扱われなかったことによる慰謝料の支払を求めた事案

 

要旨

国籍法二条一号は、憲法一四条一項に違反しない。

 

判旨

 憲法10条は,「日本国民たる要件は,法律でこれを定める。」と規定している。これは,国籍は国家の構成員の資格であり,元来,何人が自国の国籍を有する国民であるかを決定することは,国家の固有の権限に属するものであり,国籍の得喪に関する要件をどのように定めるかは,それぞれの国の歴史的事情,伝統,環境等の要因によって左右されるところが大きいところから,日本国籍の得喪に関する要件をどのように定めるかを法律にゆだねる趣旨であると解される。このようにして定められた国籍の得喪に関する法律の要件における区別が,憲法14条1項に違反するかどうかは,その区別が合理的な根拠に基づくものということができるかどうかによって判断すべきである。なぜなら,この規定は,法の下の平等を定めているが,絶対的平等を保障したものではなく,合理的理由のない差別を禁止する趣旨のものであって,法的取扱いにおける区別が合理的な根拠に基づくものである限り,何らこの規定に違反するものではないからである(最高裁昭和37年(オ)第1472号同39年5月27日大法廷判決・民集18巻4号676頁,最高裁平成3年(ク)第143号同7年7月5日大法廷決定・民集49巻7号1789頁)。

3 法2条1号は,日本国籍の生来的な取得についていわゆる父母両系血統主義を採用したものであるが,単なる人間の生物学的出自を示す血統を絶対視するものではなく,子の出生時に日本人の父又は母と法律上の親子関係があることをもって我が国と密接な関係があるとして国籍を付与しようとするものである。そして,生来的な国籍の取得はできる限り子の出生時に確定的に決定されることが望ましいところ,出生後に認知されるか否かは出生の時点では未確定であるから,法2条1号が,子が日本人の父から出生後に認知されたことにより出生時にさかのぼって法律上の父子関係が存在するものとは認めず,出生後の認知だけでは日本国籍の生来的な取得を認めないものとしていることには,合理的根拠があるというべきである。

以上によれば,法2条1号は憲法14条1項に違反するものではない。このように解すべきことは,前記大法廷の判例の趣旨に徴して明らかである。論旨は

採用することができない。

第2 同上告理由のうち法3条の憲法14条違反をいう部分について

論旨は,嫡出子と非嫡出子との間で国籍の伝来的な取得の取扱いに差異を設ける法3条は憲法14条に違反するというものである。しかし,仮に法3条の規定の全部又は一部が違憲無効であるとしても,日本国籍の生来的な取得を主張する上告人の請求が基礎づけられるものではないから,論旨は,原判決の結論に影響しない事項についての違憲を主張するものにすぎず,採用することができない。

 

 

 

【裁判官亀山継夫の補足意見】

法3条の合憲性は原判決の結論に影響しないので,詳論は差し控えるが,私は,法2条1号が日本人の父から胎児認知された非嫡出子に国籍の生来的取得を認めていることとの対比において,法3条が認知に加えて「父母の婚姻」を国籍の伝来的取得の要件としたことの合理性には疑問を持っており,その点が結論に影響する事件においては,これを問題とせざるを得ないと考えるものである。

 

【裁判官梶谷玄,同滝井繁男の補足意見】

法廷意見は,法3条が憲法14条に違反するという上告理由について,結論に影響しないものとして,憲法判断を示さなかったが,事柄の重要性にかんがみ,この点についての私たちの考えを明らかにしておきたい。

日本人を母とする非嫡出子は,法律上の母子関係が出生によって当然生ずるとされている結果,法2条1号によって当然日本国籍を取得するのに対し,同じ日本人を親としながら,日本人を父とする非嫡出子は,その父から胎児認知を受けた場合は別として,出生後認知を受けたというだけでは,法2条1号の要件はもとより,法3条の要件も満たさないので,日本国籍を取得することができないのである。

この点に関し,原判決は,法は,親子関係を通じて我が国と密接な結合関係が生ずる場合に国籍を付与するという基本的立場に立っているとした上,親子関係を通じて我が国と密接な結合関係が生ずるのは,子が日本国民の家族に包含されることによって日本社会の構成員になることによるものであるから,日本国民の嫡出子については,当該日本国民が父であるか母であるかを問わず,日本国籍を付与するのが適当であるが,非嫡出子の場合は,婚姻家族に属していない子であり,あらゆる場合に嫡出子と同様の実質的結合関係が生ずるとはいい難いという。そして,婚外の父子関係は,通常母子関係に比較して実質的な結合関係が希薄であり,また,父が胎児認知する場合と生後認知する場合とでは,一般的に実質的な父子関係の結合の度合いが異なるところ,法は,親子関係の差異に着目し,親子関係が希薄な場合の国籍取得について,段階的に一定の制約を設けたものと解することができ,このような法の基本的立場は,立法政策上合理性を欠くとはいえず,簡易帰化等の補完的な制度をも考慮すると,法が一部の非嫡出子について取扱いに区別を設けたことに合理的な根拠があるというのである。

しかしながら,私たちは,以上の立論に,法3条が父母の婚姻をも国籍取得の要件としたことの合理性を見いだすことは困難であると考える。

親子関係を通じて我が国と密接な関係を生ずるという場合に国籍を付与するという基本的立場を採るならば,そのことは合理性を持っていると考える。しかしながら,法は,そのような立場を国籍取得の要件を定める上で必ずしも貫徹していない。確かに,子が婚姻家族に属しているということは,その親子関係を通じて我が国との密接な関係の存在をうかがわせる大きな要素とはいえる。しかしながら,今日,国際化が進み,価値観が多様化して家族の生活の態様も一様ではなく,それに応じて子供との関係も様々な変容を受けており,婚姻という外形を採ったかどうかということによってその緊密さを判断することは必ずしも現実には符合せず,親が婚姻しているかどうかによってその子が国籍を取得することができるかどうかに差異を設けることに格別の合理性を見いだすことは困難である。

しかも,その父母が婚姻関係にない場合でも,母が日本人であれば,その子は常に日本国籍を取得することを容認しているのであるから,法自身,婚姻という外形を,国籍取得の要件を考える上で必ずしも重要な意味を持つものではない,という立場を採っていると解される。そして,法2条1号によれば,日本人を父とする非嫡出子であっても,父から胎児認知を受ければ,一律に日本国籍を取得するのであって,そこでは親子の実質的結合関係は全く問題にされてはいない。さらに,父子関係と母子関係の実質に一般的に差異があるとしても,それは多分に従来の家庭において父親と母親の果たしてきた役割によることが多いのであって,本来的なものとみ得るかどうかは疑問であり,むしろ,今日,家庭における父親と母親の役割も変わりつつある中で,そのことは国籍取得の要件に差異を設ける合理的な根拠とはならないと考える。

他方,国籍の取得は,基本的人権の保障を受ける上で重大な意味を持つものであって,本来,日本人を親として生まれてきた子供は,等しく日本国籍を持つことを期待しているものというべきであり,その期待はできる限り満たされるべきである。特に,嫡出子と非嫡出子とで異なる扱いをすることの合理性に対する疑問が様々な形で高まっているのであって,両親がその後婚姻したかどうかといった自らの力によって決することのできないことによって差を設けるべきではない。既に,我が国が昭和54年に批准した市民的及び政治的権利に関する国際規約24条や,平成6年に批准した児童の権利に関する条約2条にも,児童が出生によっていかなる差別も受けない,との趣旨の規定があることも看過してはならない。

また,我が国のように国籍の取得において血統主義を採る場合,一定の年齢に達するまでは,所定の手続の下に認知による伝来的な国籍取得を認めることによる実際上の不都合が大きいとは考えられず,これを認める立法例も少なくないのである。そして,国籍取得はできる限り確定的に決定されることが望ましいという浮動性防止の要請は,国籍取得の効果を過去にさかのぼらせない法3条においては,問題とならない。

これらのことを考え合わせれば,国籍は国家の構成員の資格を定めるものであり,国籍を取得させるかどうかについての要件を定めることは国家の固有の権限に属し,立法の広い裁量があることを肯定しても,法3条が準正を非嫡出子の国籍取得の要件とした部分は,日本人を父とする非嫡出子に限って,その両親が出生後婚姻をしない限り,帰化手続によらなければ日本国籍を取得することができないという非嫡出子の一部に対する差別をもたらすこととなるが,このような差別はその立法目的に照らし,十分な合理性を持つものというのは困難であり,憲法14条1項に反する疑いが極めて濃いと考える。

 

 

【最判平成9年10月17日】

要旨

 

判示事項

一 外国人である母の非嫡出子が日本人である父により胎児認知されていなくても国籍法二条一号により日本国籍を取得する場合

二 韓国人である母の非嫡出子であって日本人である父により出生後に認知された子につき国籍法二条一号による日本国籍の取得が認められた事例

裁判要旨

一 外国人である母の非嫡出子が日本人である父により胎児認知されていなくても、右非嫡出子が戸籍の記載上母の夫の嫡出子と推定されるため日本人である父による胎児認知の届出が受理されない場合であって、右推定がされなければ父により胎児認知がされたであろうと認めるべき特段の事情があるときは、右胎児認知がされた場合に準じて、国籍法二条一号の適用を認め、子は生来的に日本国籍を取得すると解するのが相当であり、右特段の事情があるというためには、母の夫と子との間の親子関係の不存在を確定するための法的手続が子の出生後遅滞なく執られた上、右不存在が確定されて認知の届出を適法にすることができるようになった後速やかに認知の届出がされることを要する。

二 韓国人である母乙の子甲が出生した当時、乙が日本人である丙と婚姻関係にあったため、日本人である父丁が適法に甲を胎児認知することができなかったが、甲の出生の約三箇月後に丙と甲との親子関係不存在確認の調停が申し立てられ、親子関係不存在確認の審判が確定した一二日後に丁が甲を認知したなど判示の事実関係の下においては、甲は、国籍法二条一号により日本国籍を取得する。

 

判旨

 外国人である母が子を懐胎した場合において、母が未婚であるか、又はその子が戸籍の記載上母の夫の嫡出子と推定されないときは、夫以外の日本人である父がその子を胎児認知することができ、その届出がされれば、国籍法二条一号により、子は出生の時に日本国籍を取得するものと解される。これに対し、外国人である母が子を懐胎した場合において、その子が戸籍の記載上母の夫の嫡出子と推定されるときは、夫以外の日本人である父がその子を胎児認知しようとしても、その届出は認知の要件を欠く不適法なものとして受理されないから、胎児認知という方法によっては、子が生来的に日本国籍を取得することはできない。もっとも、この場合には、子の出生後に、右夫と子との間の親子関係の不存在が判決等によって確定されれば、父の認知の届出が受理されることになるが、同法三条の規定に照らせば、同法においては認知の遡及効は認められていないと解すべきであるから、出生後に認知がされたというだけでは、子の出生の時に父との間に法律上の親子関係が存在していたということはできず、認知された子が同法二条一号に当然に該当するということにはならない。

 右のように、戸籍の記載上嫡出の推定がされない場合には、胎児認知という手続を執ることにより、子が生来的に日本国籍を取得するみちが開かれているのに、右推定がされる場合には、胎児認知という手続を適法に執ることができないため、子が生来的に日本国籍を取得するみちがないとすると、同じく外国人の母の嫡出でない子でありながら、戸籍の記載いかんにより、子が生来的に日本国籍を取得するみちに著しい差があることになるが、このような著しい差異を生ずるような解釈をすることに合理性があるとはいい難い。したがって、できる限り右両者に同等のみちが開かれるように、同法二条一号の規定を合理的に解釈適用するのが相当である。

 右の見地からすると、客観的にみて、戸籍の記載上嫡出の推定がされなければ日本人である父により胎児認知がされたであろうと認めるべき特段の事情がある場合には、右胎児認知がされた場合に準じて、国籍法二条一号の適用を認め、子は生来的に日本国籍を取得すると解するのが相当である。そして、生来的な日本国籍の取得はできる限り子の出生時に確定的に決定されることが望ましいことに照らせば、右の特段の事情があるというためには、母の夫と子との間の親子関係の不存在を確定するための法的手続が子の出生後遅滞なく執られた上、右不存在が確定されて認知の届出を適法にすることができるようになった後速やかに認知の届出がされることを要すると解すべきである。

国籍法3条1項の合憲性

▼ 目次

 目次

国籍法3条1項の合憲性(2) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官泉徳治の補足意見・裁判官今井功の補足意見

国籍法3条1項の合憲性(3) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官田原睦夫の補足意見・裁判官近藤崇晴の補足意見

国籍法3条1項の合憲性(4) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官藤田宙靖の意見

国籍法3条1項の合憲性(5) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官横尾和子,同津野修,同古田佑紀の反対意見

国籍法3条1項の合憲性(6) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官甲斐中辰夫,同堀籠幸男の反対意見

※国籍法3条1項は、「父母の婚姻及びその認知により嫡出子たる身分を取得した子で20歳未満のもの(日本国民であった者を除く。)は,認知をした父又は母が子の出生の時に日本国民であった場合において,その父又は母が現に日本国民であるとき,又はその死亡の時に日本国民であったときは,法務大臣に届け出ることによって,日本の国籍を取得することができる。」と規定し、届出による国籍取得の要件として日本国民である父の認知だけではなく父母の婚姻(準正要件)を課している点で、準正子と非準正子との間での別異取扱いがあった。

※本判決は、準正子と非準正子との間での別異取扱いについて「子の被る不利益」の程度という効果に着目し、父母両系主義を基調とする国籍法の趣旨からはみれば過剰な要件を課しているとして、合理的根拠の欠く差別的取扱にあたり、憲法14条1項に反するとした。

※本判決は、最高裁8件目となる法令違憲の判断である。

※なお、国籍法3条1項の過剰な要件のみを無効とすることで、裁判所の立法作用とならないと解されている。

 

【最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決】

要旨

 

判示事項

1 国籍法3条1項が,日本国民である父と日本国民でない母との間に出生した後に父から認知された子につき,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得した(準正のあった)場合に限り日本国籍の取得を認めていることによって国籍の取得に関する区別を生じさせていることと憲法14条1項

2 日本国民である父と日本国民でない母との間に出生した後に父から認知された子は,日本国籍の取得に関して憲法14条1項に違反する区別を生じさせている,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得したという部分(準正要件)を除いた国籍法3条1項所定の国籍取得の要件が満たされるときは,日本国籍を取得するか

裁判要旨

1 国籍法3条1項が,日本国民である父と日本国民でない母との間に出生した後に父から認知された子について,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得した(準正のあった)場合に限り届出による日本国籍の取得を認めていることによって,認知されたにとどまる子と準正のあった子との間に日本国籍の取得に関する区別を生じさせていることは,遅くとも上告人らが国籍取得届を提出した平成17年当時において,憲法14条1項に違反していたものである。

2 日本国民である父と日本国民でない母との間に出生した後に父から認知された子は,国籍法3条1項所定の国籍取得の要件のうち,日本国籍の取得に関して憲法14条1項に違反する区別を生じさせている部分,すなわち父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得したという部分(準正要件)を除いた要件が満たされるときは,国籍法3条1項に基づいて日本国籍を取得する。

(1,2につき補足意見,意見及び反対意見がある。)

 

 

判旨

事案の概要

本件は,法律上の婚姻関係にない日本国民である父とフィリピン共和国籍を有する母との間に本邦において出生した上告人らが,出生後父から認知を受けたことを理由として平成17年に法務大臣あてに国籍取得届を提出したところ,国籍取得の条件を備えておらず,日本国籍を取得していないものとされたことから,被上告人に対し,日本国籍を有することの確認を求めている事案である。

国籍法2条1号,3条について

国籍法2条1号は,子は出生の時に父又は母が日本国民であるときに日本国民とする旨を規定して,日本国籍の生来的取得について,いわゆる父母両系血統主義によることを定めている。したがって,子が出生の時に日本国民である父又は母との間に法律上の親子関係を有するときは,生来的に日本国籍を取得することになる。国籍法3条1項は,「父母の婚姻及びその認知により嫡出子たる身分を取得した子で20歳未満のもの(日本国民であった者を除く。)は,認知をした父又は母が子の出生の時に日本国民であった場合において,その父又は母が現に日本国民であるとき,又はその死亡の時に日本国民であったときは,法務大臣に届け出ることによって,日本の国籍を取得することができる。」と規定し,同条2項は,「前項の規定による届出をした者は,その届出の時に日本の国籍を取得する。」と規定している。同条1項は,父又は母が認知をした場合について規定しているが,日本国民である母の非嫡出子は,出生により母との間に法律上の親子関係が生ずると解され,また,日本国民である父が胎児認知した子は,出生時に父との間に法律上の親子関係が生ずることとなり,それぞれ同法2条1号により生来的に日本国籍を取得することから,同法3条1項は,実際上は,法律上の婚姻関係にない日本国民である父と日本国民でない母との間に出生した子で,父から胎児認知を受けていないものに限り適用されることになる。

原判決等

上告人らは,国籍法3条1項のうち,日本国民である父の非嫡出子について父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得したことを日本国籍取得の要件とした部分が憲法14条1項に違反するとして,上告人らが法務大臣あてに国籍取得届を提出したことにより日本国籍を取得した旨を主張した。

これに対し,原判決は,仮に国籍法3条1項のうち上記の要件を定めた部分のみが憲法14条1項に違反し,無効であったとしても,そのことから,日本国民である父の非嫡出子が認知と届出のみによって日本国籍を取得し得るものと解することは,法解釈の名の下に,実質的に国籍法に定めのない国籍取得の要件を創設するものにほかならず,裁判所がこのような立法作用を行うことは違憲立法審査権の限界を逸脱するものであって許されないし,また,国籍法3条1項の趣旨からすると,上記の要件を定めた部分が憲法14条1項に違反して無効であるとすれば,国籍法3条1項全体が無効となると解するのが相当であり,その場合,出生後に日本国民である父から認知されたにとどまる子が日本国籍を取得する制度が創設されるわけではないから,憲法14条1項に違反することにより国籍法3条1項の規定の一部又は全部が無効であったとしても,上告人らは法務大臣に対する届出により日本国籍を取得することはできないとして,上告人らの請求を棄却した。

国籍法3条1項による国籍取得の区別の憲法適合性について

所論は,国籍法3条1項の規定が,日本国民である父の非嫡出子について,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得した者に限り日本国籍の取得を認めていることによって,同じく日本国民である父から認知された子でありながら父母が法律上の婚姻をしていない非嫡出子は,その余の同項所定の要件を満たしても日本国籍を取得することができないという区別(以下「本件区別」という。)が生じており,このことが憲法14条1項に違反するとした上で,国籍法3条1項の規定のうち本件区別を生じさせた部分のみが違憲無効であるとし,上告人らには同項のその余の規定に基づいて日本国籍の取得が認められるべきである旨をいうものである。そこで,以下,これらの点について検討を加えることとする。

(1) 憲法14条1項は,法の下の平等を定めており,この規定は,事柄の性質に即応した合理的な根拠に基づくものでない限り,法的な差別的取扱いを禁止する趣旨であると解すべきことは,当裁判所の判例とするところである(最高裁昭和37年(オ)第1472号同39年5月27日大法廷判決・民集18巻4号676頁,最高裁昭和45年(あ)第1310号同48年4月4日大法廷判決・刑集27巻3号265頁等)。

憲法10条は,「日本国民たる要件は,法律でこれを定める。」と規定し,これを受けて,国籍法は,日本国籍の得喪に関する要件を規定している。憲法10条の規定は,国籍は国家の構成員としての資格であり,国籍の得喪に関する要件を定めるに当たってはそれぞれの国の歴史的事情,伝統,政治的,社会的及び経済的環境等,種々の要因を考慮する必要があることから,これをどのように定めるかについて,立法府の裁量判断にゆだねる趣旨のものであると解される。しかしながら,このようにして定められた日本国籍の取得に関する法律の要件によって生じた区別が,合理的理由のない差別的取扱いとなるときは,憲法14条1項違反の問題を生ずることはいうまでもない。すなわち,立法府に与えられた上記のような裁量権を考慮しても,なおそのような区別をすることの立法目的に合理的な根拠が認められない場合,又はその具体的な区別と上記の立法目的との間に合理的関連性が認められない場合には,当該区別は,合理的な理由のない差別として,同項に違反するものと解されることになる。

日本国籍は,我が国の構成員としての資格であるとともに,我が国において基本的人権の保障,公的資格の付与,公的給付等を受ける上で意味を持つ重要な法的地位でもある。一方,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得するか否かということは,子にとっては自らの意思や努力によっては変えることのできない父母の身分行為に係る事柄である。したがって,このような事柄をもって日本国籍取得の要件に関して区別を生じさせることに合理的な理由があるか否かについては,慎重に検討することが必要である。

(2)ア 国籍法3条の規定する届出による国籍取得の制度は,法律上の婚姻関係にない日本国民である父と日本国民でない母との間に出生した子について,父母の婚姻及びその認知により嫡出子たる身分を取得すること(以下「準正」という。)のほか同条1項の定める一定の要件を満たした場合に限り,法務大臣への届出によって日本国籍の取得を認めるものであり,日本国民である父と日本国民でない母との間に出生した嫡出子が生来的に日本国籍を取得することとの均衡を図ることによって,同法の基本的な原則である血統主義を補完するものとして,昭和59年法律第45号による国籍法の改正において新たに設けられたものである。

そして,国籍法3条1項は,日本国民である父が日本国民でない母との間の子を出生後に認知しただけでは日本国籍の取得を認めず,準正のあった場合に限り日本国籍を取得させることとしており,これによって本件区別が生じている。このような規定が設けられた主な理由は,日本国民である父が出生後に認知した子については,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得することによって,日本国民である父との生活の一体化が生じ,家族生活を通じた我が国社会との密接な結び付きが生ずることから,日本国籍の取得を認めることが相当であるという点にあるものと解される。また,上記国籍法改正の当時には,父母両系血統主義を採用する国には,自国民である父の子について認知だけでなく準正のあった場合に限り自国籍の取得を認める国が多かったことも,本件区別が合理的なものとして設けられた理由であると解される。

イ 日本国民を血統上の親として出生した子であっても,日本国籍を生来的に取得しなかった場合には,その後の生活を通じて国籍国である外国との密接な結び付きを生じさせている可能性があるから,国籍法3条1項は,同法の基本的な原則である血統主義を基調としつつ,日本国民との法律上の親子関係の存在に加え我が国との密接な結び付きの指標となる一定の要件を設けて,これらを満たす場合に限り出生後における日本国籍の取得を認めることとしたものと解される。このような目的を達成するため準正その他の要件が設けられ,これにより本件区別が生じたのであるが,本件区別を生じさせた上記の立法目的自体には,合理的な根拠があるというべきである。

また,国籍法3条1項の規定が設けられた当時の社会通念や社会的状況の下においては,日本国民である父と日本国民でない母との間の子について,父母が法律上の婚姻をしたことをもって日本国民である父との家族生活を通じた我が国との密接な結び付きの存在を示すものとみることには相応の理由があったものとみられ,当時の諸外国における前記のような国籍法制の傾向にかんがみても,同項の規定が認知に加えて準正を日本国籍取得の要件としたことには,上記の立法目的との間に一定の合理的関連性があったものということができる。

ウ しかしながら,その後,我が国における社会的,経済的環境等の変化に伴って,夫婦共同生活の在り方を含む家族生活や親子関係に関する意識も一様ではなくなってきており,今日では,出生数に占める非嫡出子の割合が増加するなど,家族生活や親子関係の実態も変化し多様化してきている。このような社会通念及び社会的状況の変化に加えて,近年,我が国の国際化の進展に伴い国際的交流が増大することにより,日本国民である父と日本国民でない母との間に出生する子が増加しているところ,両親の一方のみが日本国民である場合には,同居の有無など家族生活の実態においても,法律上の婚姻やそれを背景とした親子関係の在り方についての認識においても,両親が日本国民である場合と比べてより複雑多様な面があり,その子と我が国との結び付きの強弱を両親が法律上の婚姻をしているか否かをもって直ちに測ることはできない。これらのことを考慮すれば,日本国民である父が日本国民でない母と法律上の婚姻をしたことをもって,初めて子に日本国籍を与えるに足りるだけの我が国との密接な結び付きが認められるものとすることは,今日では必ずしも家族生活等の実態に適合するものということはできない。

また,諸外国においては,非嫡出子に対する法的な差別的取扱いを解消する方向にあることがうかがわれ,我が国が批准した市民的及び政治的権利に関する国際規約及び児童の権利に関する条約にも,児童が出生によっていかなる差別も受けないとする趣旨の規定が存する。さらに,国籍法3条1項の規定が設けられた後,自国民である父の非嫡出子について準正を国籍取得の要件としていた多くの国において,今日までに,認知等により自国民との父子関係の成立が認められた場合にはそれだけで自国籍の取得を認める旨の法改正が行われている。以上のような我が国を取り巻く国内的,国際的な社会的環境等の変化に照らしてみると,準正を出生後における届出による日本国籍取得の要件としておくことについて,前記の立法目的との間に合理的関連性を見いだすことがもはや難しくなっているというべきである。

エ 一方,国籍法は,前記のとおり,父母両系血統主義を採用し,日本国民である父又は母との法律上の親子関係があることをもって我が国との密接な結び付きがあるものとして日本国籍を付与するという立場に立って,出生の時に父又は母のいずれかが日本国民であるときには子が日本国籍を取得するものとしている(2条1号)。その結果,日本国民である父又は母の嫡出子として出生した子はもとより,日本国民である父から胎児認知された非嫡出子及び日本国民である母の非嫡出子も,生来的に日本国籍を取得することとなるところ,同じく日本国民を血統上の親として出生し,法律上の親子関係を生じた子であるにもかかわらず,日本国民である父から出生後に認知された子のうち準正により嫡出子たる身分を取得しないものに限っては,生来的に日本国籍を取得しないのみならず,同法3条1項所定の届出により日本国籍を取得することもできないことになる。このような区別の結果,日本国民である父から出生後に認知されたにとどまる非嫡出子のみが,日本国籍の取得について著しい差別的取扱いを受けているものといわざるを得ない。

日本国籍の取得が,前記のとおり,我が国において基本的人権の保障等を受ける上で重大な意味を持つものであることにかんがみれば,以上のような差別的取扱いによって子の被る不利益は看過し難いものというべきであり,このような差別的取扱いについては,前記の立法目的との間に合理的関連性を見いだし難いといわざるを得ない。とりわけ,日本国民である父から胎児認知された子と出生後に認知された子との間においては,日本国民である父との家族生活を通じた我が国社会との結び付きの程度に一般的な差異が存するとは考え難く,日本国籍の取得に関して上記の区別を設けることの合理性を我が国社会との結び付きの程度という観点から説明することは困難である。また,父母両系血統主義を採用する国籍法の下で,日本国民である母の非嫡出子が出生により日本国籍を取得するにもかかわらず,日本国民である父から出生後に認知されたにとどまる非嫡出子が届出による日本国籍の取得すら認められないことには,両性の平等という観点からみてその基本的立場に沿わないところがあるというべきである。

オ 上記ウ,エで説示した事情を併せ考慮するならば,国籍法が,同じく日本国民との間に法律上の親子関係を生じた子であるにもかかわらず,上記のような非嫡出子についてのみ,父母の婚姻という,子にはどうすることもできない父母の身分行為が行われない限り,生来的にも届出によっても日本国籍の取得を認めないとしている点は,今日においては,立法府に与えられた裁量権を考慮しても,我が国との密接な結び付きを有する者に限り日本国籍を付与するという立法目的との合理的関連性の認められる範囲を著しく超える手段を採用しているものというほかなく,その結果,不合理な差別を生じさせているものといわざるを得ない。

カ 確かに,日本国民である父と日本国民でない母との間に出生し,父から出生後に認知された子についても,国籍法8条1号所定の簡易帰化により日本国籍を取得するみちが開かれている。しかしながら,帰化は法務大臣の裁量行為であり,同号所定の条件を満たす者であっても当然に日本国籍を取得するわけではないから,これを届出による日本国籍の取得に代わるものとみることにより,本件区別が前記立法目的との間の合理的関連性を欠くものでないということはできない。

なお,日本国民である父の認知によって準正を待たずに日本国籍の取得を認めた場合に,国籍取得のための仮装認知がされるおそれがあるから,このような仮装行為による国籍取得を防止する必要があるということも,本件区別が設けられた理由の一つであると解される。しかし,そのようなおそれがあるとしても,父母の婚姻により子が嫡出子たる身分を取得することを日本国籍取得の要件とすることが,仮装行為による国籍取得の防止の要請との間において必ずしも合理的関連性を有するものとはいい難く,上記オの結論を覆す理由とすることは困難である。

(3) 以上によれば,本件区別については,これを生じさせた立法目的自体に合理的な根拠は認められるものの,立法目的との間における合理的関連性は,我が国の内外における社会的環境の変化等によって失われており,今日において,国籍法3条1項の規定は,日本国籍の取得につき合理性を欠いた過剰な要件を課するものとなっているというべきである。しかも,本件区別については,前記(2)エで説示した他の区別も存在しており,日本国民である父から出生後に認知されたにとどまる非嫡出子に対して,日本国籍の取得において著しく不利益な差別的取扱いを生じさせているといわざるを得ず,国籍取得の要件を定めるに当たって立法府に与えられた裁量権を考慮しても,この結果について,上記の立法目的との間において合理的関連性があるものということはもはやできない。

そうすると,本件区別は,遅くとも上告人らが法務大臣あてに国籍取得届を提出した当時には,立法府に与えられた裁量権を考慮してもなおその立法目的との間において合理的関連性を欠くものとなっていたと解される。

したがって,上記時点において,本件区別は合理的な理由のない差別となっていたといわざるを得ず,国籍法3条1項の規定が本件区別を生じさせていることは,憲法14条1項に違反するものであったというべきである。

国籍法3条1項の合憲性(2) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官泉徳治の補足意見・裁判官今井功の補足意見

 

 目次

国籍法3条1項の合憲性(1) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決

 国籍法3条1項の合憲性(3) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官田原睦夫の補足意見・裁判官近藤崇晴の補足意見

国籍法3条1項の合憲性(4) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官藤田宙靖の意見

国籍法3条1項の合憲性(5) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官横尾和子,同津野修,同古田佑紀の反対意見

国籍法3条1項の合憲性(6) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官甲斐中辰夫,同堀籠幸男の反対意見

本件区別による違憲の状態を前提として上告人らに日本国籍の取得を認めることの可否

(1) 以上のとおり,国籍法3条1項の規定が本件区別を生じさせていることは,遅くとも上記時点以降において憲法14条1項に違反するといわざるを得ないが,国籍法3条1項が日本国籍の取得について過剰な要件を課したことにより本件区別が生じたからといって,本件区別による違憲の状態を解消するために同項の規定自体を全部無効として,準正のあった子(以下「準正子」という。)の届出による日本国籍の取得をもすべて否定することは,血統主義を補完するために出生後の国籍取得の制度を設けた同法の趣旨を没却するものであり,立法者の合理的意思として想定し難いものであって,採り得ない解釈であるといわざるを得ない。そうすると,準正子について届出による日本国籍の取得を認める同項の存在を前提として,本件区別により不合理な差別的取扱いを受けている者の救済を図り,本件区別による違憲の状態を是正する必要があることになる。

(2) このような見地に立って是正の方法を検討すると,憲法14条1項に基づく平等取扱いの要請と国籍法の採用した基本的な原則である父母両系血統主義とを踏まえれば,日本国民である父と日本国民でない母との間に出生し,父から出生後に認知されたにとどまる子についても,血統主義を基調として出生後における日本国籍の取得を認めた同法3条1項の規定の趣旨・内容を等しく及ぼすほかはない。すなわち,このような子についても,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得したことという部分を除いた同項所定の要件が満たされる場合に,届出により日本国籍を取得することが認められるものとすることによって,同項及び同法の合憲的で合理的な解釈が可能となるものということができ,この解釈は,本件区別による不合理な差別的取扱いを受けている者に対して直接的な救済のみちを開くという観点からも,相当性を有するものというべきである。

そして,上記の解釈は,本件区別に係る違憲の瑕疵を是正するため,国籍法3条1項につき,同項を全体として無効とすることなく,過剰な要件を設けることにより本件区別を生じさせている部分のみを除いて合理的に解釈したものであって,その結果も,準正子と同様の要件による日本国籍の取得を認めるにとどまるものである。この解釈は,日本国民との法律上の親子関係の存在という血統主義の要請を満たすとともに,父が現に日本国民であることなど我が国との密接な結び付きの指標となる一定の要件を満たす場合に出生後における日本国籍の取得を認めるものとして,同項の規定の趣旨及び目的に沿うものであり,この解釈をもって,裁判所が法律にない新たな国籍取得の要件を創設するものであって国会の本来的な機能である立法作用を行うものとして許されないと評価することは,国籍取得の要件に関する他の立法上の合理的な選択肢の存在の可能性を考慮したとしても,当を得ないものというべきである。

したがって,日本国民である父と日本国民でない母との間に出生し,父から出生後に認知された子は,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得したという部分を除いた国籍法3条1項所定の要件が満たされるときは,同項に基づいて日本国籍を取得することが認められるというべきである。

(3) 原審の適法に確定した事実によれば,上告人らは,上記の解釈の下で国籍法3条1項の規定する日本国籍取得の要件をいずれも満たしていることが認められる。上告人らの国籍取得届が,被上告人が主張する父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得したという要件を満たす旨の記載を欠き,また,同要件を証する添付書類の添付を欠くものであったことは,同項所定の届出としての効力を左右するものではない。そうすると,上告人らは,法務大臣あての国籍取得届を提出したことによって,同項の規定により日本国籍を取得したものと解するのが相当である。

結論

以上のとおり,上告人らは,国籍法3条1項の規定により日本国籍を取得したものと認められるところ,これと異なる見解の下に上告人らの請求を棄却した原審の判断は,憲法14条1項及び81条並びに国籍法の解釈を誤ったものである。論旨はこの趣旨をいうものとして理由があり,原判決は破棄を免れない。そして,以上説示したところによれば,上告人らの請求には理由があり,これらを認容した第1審判決は正当ということができるから,被上告人の控訴を棄却すべきである。よって,裁判官横尾和子,同津野修,同古田佑紀の反対意見,裁判官甲斐中辰夫,同堀籠幸男の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官泉徳治,同今井功,同那須弘平,同涌井紀夫,同田原睦夫,同近藤崇晴の各補足意見,裁判官藤田宙靖の意見がある。

 

 

【裁判官泉徳治の補足意見】

は,次のとおりである。

国籍法3条1項は,日本国民の子のうち同法2条の適用対象とならないものに対する日本国籍の付与について,「父母の婚姻」を要件とすることにより,父に生後認知され「父母の婚姻」がない非嫡出子を付与の対象から排除している。これは,日本国籍の付与に関し,非嫡出子であるという社会的身分と,日本国民である親が父であるという親の性別により,父に生後認知された非嫡出子を差別するものである。

この差別は,差別の対象となる権益が日本国籍という基本的な法的地位であり,差別の理由が憲法14条1項に差別禁止事由として掲げられている社会的身分及び性別であるから,それが同項に違反しないというためには,強度の正当化事由が必要であって,国籍法3条1項の立法目的が国にとり重要なものであり,この立法目的と,「父母の婚姻」により嫡出子たる身分を取得することを要求するという手段との間に,事実上の実質的関連性が存することが必要である。

国籍法3条1項の立法目的は,父母両系血統主義に基づき,日本国民の子で同法2条の適用対象とならないものに対し,日本社会との密接な結合関係を有することを条件として,日本国籍を付与しようとすることにあり,この立法目的自体は正当なものということができる。

国籍法3条1項は,上記の立法目的を実現する手段として,「父母の婚姻及びその認知により嫡出子たる身分を取得した子」に限って日本国籍を付与することを規定し,父に生後認知された非嫡出子を付与の対象から排除している。しかし,「父母の婚姻」は,子や日本国民である父の1人の意思では実現することができない要件であり,日本国民を父に持ちながら自己又は父の意思のみでは日本国籍を取得することができない子を作り出すものである。一方,日本国民である父に生後認知された非嫡出子は,「父母の婚姻」により嫡出子たる身分を取得していなくても,父との間で法律上の親子関係を有し,互いに扶養の義務を負う関係にあって,日本社会との結合関係を現に有するものである。上記非嫡出子の日本社会との結合関係の密接さは,国籍法2条の適用対象となっている日本国民である母の非嫡出子や日本国民である父に胎児認知された非嫡出子のそれと,それ程変わるものではない。また,父母が内縁関係にあり,あるいは事実上父の監護を受けている場合においては,父に生後認知された非嫡出子の日本社会との結合関係が嫡出子のそれに実質的に劣るものということは困難である。そして,上記非嫡出子は,父の認知を契機として,日本社会との結合関係を発展させる可能性を潜在的に有しているのである。家族関係が多様化しつつある現在の日本において,上記非嫡出子の日本社会との結合関係が,「父母の婚姻」がない限り希薄であるとするのは,型にはまった画一的な見方といわざるを得ない。

したがって,前記の立法目的と,日本国民である父に生後認知された子のうち「父母の婚姻」により嫡出子たる身分を取得したものに限って日本国籍を付与することとした手段との間には,事実上の実質的関連性があるとはいい難い。結局,国籍法3条1項が日本国籍の付与につき非嫡出子という社会的身分及び親の性別により設けた差別は,強度の正当化事由を有するものということはできず,憲法14条1項の規定に違反するといわざるを得ない。

そして,上告人らに対しては,国籍法3条1項から「父母の婚姻」の部分を除いたその余の規定の適用により,日本国籍が付与されるべきであると考える。国籍法3条1項の主旨は日本国民の子で同法2条の適用対象とならないものに対し日本国籍を付与することにあり,「父母の婚姻」はそのための一条件にすぎないから,その部分が違憲であるとしても,上記主旨はできる限り生かすのが,立法意思に沿うものというべきである。また,上記のような国籍法3条1項の適用は,「すべての児童は,国籍を取得する権利を有する」ことを規定した市民的及び政治的権利に関する国際規約24条3項や児童の権利に関する条約7条1項の趣旨にも適合するものである。

ただし,上記のような国籍法3条1項の適用は,国会の立法意思として,「父母の婚姻」の部分を除いたままでは同項を存続させないであろうというがい然性が明白である場合には,許されないと解される。国籍法3条1項から「父母の婚姻」の部分を除くことに代わる選択肢として,まず,同条全体を廃止することが考えられるが,この選択肢は,日本国民である父に生後認知された非嫡出子を現行法以上に差別するものであり,すべての児童が出生や父母の性別により差別されないことを規定した市民的及び政治的権利に関する国際規約24条及び児童の権利に関する条約2条を遵守すべき日本の国会が,この選択肢を採用することは考えられない。次に,国籍法2条の適用対象となっている日本国民である母の非嫡出子及び胎児認知された非嫡出子についても,「父母の婚姻」という要件を新たに課するという選択肢が考えられるが,この選択肢は,非嫡出子一般をその出生により不当に差別するもので,憲法の平等原則に違反するから,国会がこの選択肢を採用することも考えられない。さらに,「日本で生まれたこと」,「一定期間以上日本に住所を有すること」,「日本国民と生計を一にすること」など,日本社会との密接な結合関係を証するための新たな要件を課するという選択肢が考えられるが,この選択肢は,基本的に法律上の親子関係により日本社会との結合関係を判断するという国籍法の血統主義とは別の観点から要件を付加するもので,国会がこの選択肢を採用するがい然性が高いということもできない。結局,国会の立法意思として,「父母の婚姻」の部分を除いては国籍法3条1項をそのまま存続させないであろうというがい然性が明白であるということはできず,「父母の婚姻」の部分を除いて同項を適用し,日本国民である父が生後認知した非嫡出子に日本国籍を付与する方が,立法意思にかなうものと解される。

もとより,国会が,将来において,国籍法3条1項を憲法に適合する方法で改正

することは,その立法裁量に属するところであるが,それまでの間は,「父母の婚

姻」の部分を除いて同項を適用すべきである。

また,「父母の婚姻」の部分を除いて国籍法3条1項の規定を適用することは,憲法の平等原則の下で同項を解釈し適用するものであって,司法が新たな立法を行うものではなく,司法の役割として当然に許されるところである。 多数意見は,前記差別について,立法目的と手段との間の関連性の点から違憲と解するものであって,基本的な判断の枠組みを共通にするものであり,また,国籍法3条1項の上告人らに対する適用についても,前記4と同じ趣旨を述べるものであるから,多数意見に同調する。

 

 

【裁判官今井功の補足意見】

は,次のとおりである。

私は,多数意見に同調するものであるが,判示5の点(本件上告人らに日本国籍の取得を認めることの可否)についての反対意見にかんがみ,法律の規定の一部が違憲である場合の司法救済の在り方について,私の意見を補足して述べておきたい。

反対意見は,日本国民である父から出生後認知された者のうち,準正子に届出による日本国籍(以下単に「国籍」という。)の取得を認め,そうでない者(以下「非準正子」という。)についてはこれを認める立法をしていないこと(立法不存在ないし立法不作為)が憲法14条1項に違反するとしても,非準正子にも国籍取得を認めることは,国籍法の定めていない国籍付与要件を判決によって創設するもので,司法権の範囲を逸脱し,許されないとするものである。

裁判所に違憲立法審査権が与えられた趣旨は,違憲の法律を無効とすることによって,国民の権利利益を擁護すること,すなわち,違憲の法律によりその権利利益を侵害されている者の救済を図ることにある。無効とされる法律の規定が,国民に刑罰を科し,あるいは国民の権利利益をはく奪するものである場合には,基本的に,その規定の効力がないものとして,これを適用しないというだけであるから,特段の問題はない。

問題となるのは,本件のようにその法律の規定が国民に権利利益を与える場合である。この場合には,その規定全体を無効とすると,権利利益を与える根拠がなくなって,問題となっている権利利益を与えられないことになる。このように解釈すべき場合もあろう。しかし,国民に権利利益を与える規定が,権利利益を与える要件として,A,Bの二つの要件を定め,この両要件を満たす者に限り,権利利益を与える(反対解釈によりA要件のみを満たす者には権利利益を与えない。)と定めている場合において,権利利益を与える要件としてA要件の外にB要件を要求することが平等原則に反し,違憲であると判断されたときに,A要件のみを備える者にも当該権利利益を与えることができるのかが,ここでの問題である。このような場合には,その法律全体の仕組み,当該規定が違憲とされた理由,結果の妥当性等を考慮して,B要件の定めのみが無効である(すなわちB要件の定めがないもの)とし,その結果,A要件のみを満たした者についても,その規定の定める権利利益を与えることになると解することも,法律の合憲的な解釈として十分可能であると考える。

国籍法は,父母両系血統主義を採用し,その上に立って,国籍の取得の方法として,①出生による当然の取得(2条),②届出による取得(3条)及び③帰化による取得(4条から9条まで)の三つの方法を定めている。

そして,2条による当然の取得については,出生の時に法律上の父又は母が日本国民であるという要件を備える子は,当然に国籍を取得することを規定している。次に,3条の届出による取得については,2条の補完規定として,血統上の父は日本国民であるが,非嫡出子として出生し,その後父から認知された子について,準正子に限り国籍取得が認められるとし,非準正子には国籍取得を認めていない。さらに,4条から9条までにおいては,2条及び3条により国籍取得の認められない者について帰化(法務大臣の許可)により国籍取得を認めることとしている。

このような国籍法の定める国籍取得の仕組みを見ると,同法は,法的な意味での日本国民の血統が認められる場合,すなわち法律上の父又は母が日本国民である場合には,国籍取得を認めることを大原則とし,2条はこの原則を無条件で貫き,3条においては,これに父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得したことという要件(以下「準正要件」という。)を付加しているということができる。このような国籍法の仕組みからすれば,3条は,血統主義の原則を認めつつ,準正要件を備えない者を除外した規定といわざるを得ない。この点について,反対意見は,3条1項は出生後に日本国民である父から認知された子のうち準正子のみに届出による国籍取得を認めたにすぎず,非準正子の国籍取得については単にこれを認める規定を設けていないという立法不作為の状態が存在するにすぎない旨いうが,国会が同項の規定を設けて準正子のみに届出による国籍取得を認めることとしたことにより,反面において,非準正子にはこれを認めないこととする積極的な立法裁量権を行使したことは明らかである。そして,3条1項が準正子と非準正子とを差別していることが平等原則に反し違憲であるとした場合には,非準正子も,準正子と同様に,国籍取得を認められるべきであるとすることも,上記2のように法律の合憲的な解釈として十分成り立ち得る。

このように考えれば,多数意見は,裁判所が違憲立法審査権を行使して国籍法3条1項を憲法に適合するように解釈した結果,非準正子についても準正子と同様に同項により国籍取得を認められるべきであるとするものであって,同法の定める要件を超えて新たな立法をしたとの非難は当たらない。現行国籍法の下における準正子と非準正子との間の平等原則に違反する差別状態を裁判所が解釈によって解消するには,準正子に与えられた効果を否定するか,非準正子に準正子と同様の効果を与えるしかない。前者の解釈が,その結果の妥当性は別として,立法権を侵害するものではないことには異論はないであろう。これと同様に,後者の解釈を採ることも許容されるというべきである。

私は,以上のような理由により,国籍法3条1項を憲法に適合するように解釈した結果,同項は,日本国民である父から出生後に認知された子は,届出により国籍を取得することができることを認めたものと解するのが相当であり,このように解しても立法権を侵害するものではないと考える。

反対意見によれば,同じく日本国民である父から認知された子であるにもかかわらず,準正子は国籍を取得できるのに,非準正子は司法救済を求めたとしても国籍を取得できないという平等原則に反する違憲の状態が依然として続くことになる。

反対意見は,違憲の状態が続くことになっても,立法がない限り,やむを得ないとするものと考えられる。反対意見がそのように解する理由は,憲法10条が「日本国民たる要件は,法律でこれを定める。」と規定し,いかなる者に国籍を与えるかは国会が立法によって定める事柄であり,国籍法が非準正子に国籍取得を認める規定を設けていない以上,準正子と非準正子との差別が平等原則に反し違憲であっても,非準正子について国籍取得を認めることは,裁判所が新たな立法をすることになり,許されないというものと理解される。

しかし,どのような要件があれば国籍を与えるかについて国会がその裁量により立法を行うことが原則であることは当然であるけれども,国会がその裁量権を行使して行った立法の合憲性について審査を行うのは裁判所の責務である。国籍法3条1項は,国会がその裁量権を行使して行った立法であり,これに対して,裁判所は,同項の規定が準正子と非準正子との間に合理的でない差別を生じさせており,平等原則に反し違憲と判断したのである。この場合に,違憲の法律により本来ならば与えられるべき保護を受けることができない者に対し,その保護を与えることは,裁判所の責務であって,立法権を侵害するものではなく,司法権の範囲を超えるものとはいえない。

非準正子についても国籍を付与するということになれば,国会において,国籍付与の要件として,準正要件に代えて例えば日本国内における一定期間の居住等の他の要件を定めることもできたのに,その裁量権を奪うことになるとする議論もあり得ないではない。そうであっても,裁判所がそのような要件を定めていない国籍法3条1項の合憲的解釈として,非準正子について国籍取得を認めたからといって,今後,国会がその裁量権を行使して,日本国民を父とする生後認知子の国籍取得につき,準正要件に代えて,憲法に適合する要件を定める新たな立法をすることが何ら妨げられるものでないことは,いうまでもないところであり,上記のような解釈を採ることが国会の立法裁量権を奪うことになるものではない。裁判官那須弘平,同涌井紀夫は,裁判官今井功の補足意見に同調する。

 

国籍法3条1項の合憲性(3) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官田原睦夫の補足意見・裁判官近藤崇晴の補足意見

 

 目次

国籍法3条1項の合憲性(1) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決

国籍法3条1項の合憲性(2) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官泉徳治の補足意見・裁判官今井功の補足意見

国籍法3条1項の合憲性(4) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官藤田宙靖の意見

国籍法3条1項の合憲性(5) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官横尾和子,同津野修,同古田佑紀の反対意見

国籍法3条1項の合憲性(6) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官甲斐中辰夫,同堀籠幸男の反対意見

 

【裁判官田原睦夫の補足意見】

は,次のとおりである。

私は,多数意見に賛成するものであるが,国籍の取得と教育を受ける権利等との関係及び胎児認知を受けた者と生後に認知を受けた者との区別の問題に関し,以下のとおり補足意見を述べる。

国籍は,国家の構成員たることを意味するものであり,日本国籍を有する者は,我が国に居住する自由を有するとともに,憲法の保障する基本的人権を享受し,職業を自由に選択し,参政権を行使し,また,法律が国民に認めた各種の権利を行使することができる。

出生又は認知と届出により日本国籍を取得し得るか否かは,国民に認められたそれらの権利を当然に取得し,行使することができるか否かにかかわるものであり,その対象者の人権に直接かかわる事柄である。

認知と届出による国籍の取得は,20歳未満の者において認められており(国籍法3条1項),また,実際にその取得の可否が問題となる対象者のほとんどは,本件同様,未就学児又は学齢児童・生徒である。したがって,それら対象者においては,国籍の取得により認められる参政権や職業選択の自由よりも,教育を受ける権利や社会保障を受ける権利の行使の可否がより重要である。

憲法26条は,1項で国民の教育を受ける権利を定め,2項でその裏面として保護者にその子女に対して普通教育を受けさせる義務を定めるとともに,義務教育はこれを無償とする,と定める。そして,この憲法の規定を受けて教育基本法は,国民に,その保護する子に普通教育を受けさせる義務を定め,国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については,授業料を徴収しない,と規定する(旧教育基本法4条,教育基本法5条1項,4項)。また,学校教育法は,保護者に,その子女に対する小学校,中学校への就学義務を定める(平成19年法律第96号による改正前の学校教育法22条,39条,同改正後の学校教育法16条,17条)。そして,学校教育法施行令は,この就学義務を履行させるための事務として,市町村の教育委員会は,当該市町村の住民基本台帳に基づいて,当該市町村の区域内に住所を有する学齢児童及び学齢生徒について学齢簿を編製し,就学予定者の保護者に対し,翌学年の初めから2月前までに小学校又は中学校の入学期日を通知しなければならない(学校教育法施行令1条,5条)等,様々な規定を設けている。これらの規定は,子女の保護者の義務の視点から定められているが,それは,憲法26条1項の定める当該子女の教育を受ける権利を具現化したものであり,当該子女は,無償で義務教育を受ける権利を有しているのである。ところが,日本国民以外の子女に対しては,それらの規定は適用されず,運用上,市町村の教育委員会が就学を希望する外国人に対し,その就学を許可するとの取扱いがなされているにすぎない。

また,社会保障の関係では,生活保護法の適用に関して,日本国民は,要保護者たり得る(生活保護法2条)が,外国人は同法の適用を受けることができず,行政実務において生活保護に準じて運用されているにすぎないのである。

このように,現行法上,本件上告人らのような子女においては,日本国籍を取得することができるか否かにより,教育や社会保障の側面において,その権利を享受できるか否かという点で,大きな差異が存するのである。

そこで,日本国民である父と日本国民でない母との間で出生し,出生後父から認知をされた子(以下「生後認知子」という。)の国籍取得につき,その父と母が婚姻をして,当該生後認知子が準正子となった場合にのみ認め,それ以外の場合に認めない国籍法3条1項の規定の生後認知子と準正子との取扱いの区別,また,日本国民たる父が胎児認知した場合に当該胎児認知子は当然に国籍を取得する(国籍法2条1号)ことと生後認知子との区別の合理性が,憲法14条1項に適合するか否かの観点から問題となる。

多数意見は,国籍法3条1項が生後認知子のうち準正子と非準正子を区別することが憲法14条1項に違反するものとし,国籍法3条1項のうち「父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得した」という部分を除いた同項所定の要件が満たされるときは日本国籍を取得することが認められるとするが,その点については全く異論はない。

それとともに,私は,生後認知子における準正子と非準正子との区別の問題と並んで,生後認知子と胎児認知子間の区別の問題も,憲法14条1項との関係で同様に重要であると考える。

準正子となるか否かは,子の全く与り知らないところで定まるところ,その点においては,胎児認知子と生後認知子との関係についても同様である。しかし,準正の場合は,父母が婚姻するという法的な手続が経られている。ところが,胎児認知子と生後認知子との間では,父の認知時期が胎児時か出生後かという時期の違いがあるのみである。そして,多数意見4(2)エで指摘するとおり,胎児認知子と生後認知子との間においては,日本国民である父の家族生活を通じた我が国社会との結び付きの程度に一般的な差異が存するとは考え難く,日本国籍の取得に関して上記の区別を設けることの合理性を我が国社会との結び付きの程度という観点から説明することは困難である。かかる点からすれば,胎児認知子に当然に日本国籍の取得を認め,生後認知子には準正子となる以外に日本国籍の取得を認めない国籍法の定めは,憲法14条1項に違反するという結論が導かれ得る。

そうして,国籍法3条1項自体を無効と解した上で,生後認知子については,民法の定める認知の遡及効(民法784条)が国籍の取得の場合にも及ぶと解することができるならば,生後認知子は,国籍法2条1号により出生時にさかのぼって国籍を取得することとなり,胎児認知子と生後認知子との区別を解消することができることとなる。しかし,このように認知の遡及効が国籍の取得にまで及ぶと解した場合には,認知前に既に我が国以外の国籍を取得していた生後認知子の意思と無関係に認知により当然に国籍を認めることの是非や二重国籍の問題が生じ,さらには遡及的に国籍を認めることに伴い様々な分野において法的問題等が生じるのであって,それらの諸点は,一義的な解決は困難であり,別途法律によって解決を図らざるを得ない事柄である。このように多くの法的な諸問題を生じるような解釈は,国籍法の解釈の枠を超えるものといわざるを得ないのであって,その点からしてかかる見解を採ることはできない。

そうすると,多数意見のとおり国籍法3条1項を限定的に解釈し,20歳未満の生後認知子は,法務大臣に届け出ることによって日本国籍を取得することができると解することが,同法の全体の体系とも整合し,また,上告人ら及び上告人らと同様にその要件に該当する者の個別救済を図る上で,至当な解釈であると考える。なお,かかる結論を採る場合,胎児認知子は出生により当然に日本国籍を取得するのに対し,生後認知子が日本国籍を取得するには法務大臣への届出を要するという点において区別が存することになるが,生後認知子の場合,上記の二重国籍の問題等もあり,その国籍の取得を生後認知子(その親権者)の意思にゆだねて届出要件を課すという区別を設けることは,立法の合理的裁量の範囲内であって,憲法14条1項の問題が生じることはないものというべきである。

 

 

 

【裁判官近藤崇晴の補足意見】

は,次のとおりである。

 

多数意見は,国籍法3条1項が本件区別を生じさせていることの違憲を宣言するにとどまらず,上告人らが日本国籍を取得したものとして,上告人らが日本国籍を有することを確認した第1審判決を支持し,これに対する控訴を棄却するものである。このように,国籍法3条1項の定める要件のうち父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得したという部分(準正要件)を除いた他の要件のみをもって国籍の取得を認めることについては,立法府が準正要件に代えて他の合理的な要件を選択する機会を奪うこととなり,立法府に与えられた立法政策上の裁量権を不当に制約するものであって許されないとの批判があり得る。私は,この点に関する今井裁判官の補足意見に全面的に賛同するとともに,多数意見の一員として,更に補足的に意見を述べておきたい。

多数意見は,国籍法3条1項の定める要件のうち準正要件を除いた他の要件のみをもって国籍の取得を認めるのであるが,これはあくまでも現行の国籍法を憲法に適合するように解釈した結果なのであって,国籍法を改正することによって他の要件を付加することが憲法に違反するということを意味するものではない。立法政策上の判断によって準正要件に代わる他の要件を付加することは,それが憲法に適合している限り許されることは当然である。

多数意見が説示するように,父母両系血統主義を基調としつつも,日本国民との法律上の親子関係の存在に加え,我が国との密接な結び付きの指標となる一定の要件を設けて,これらを満たす場合に限り出生後における日本国籍の取得を認めることとするという立法目的自体には,合理的な根拠がある。ただ,その目的を達成するために準正を要件とすることは,もはや立法目的との間に合理的関連性を見いだすことができないとしたのである。したがって,国籍法を改正することによって我が国との密接な結び付きの指標となるべき他の要件を設けることは,それが立法目的との間に合理的関連性を有するのであれば,立法政策上の裁量権の行使として許されることになる。例えば,日本国民である父が出生後に認知したことに加えて,出生地が本邦内であること,あるいは本邦内において一定期間居住していることを国籍取得の要件とすることは,諸外国の立法例にも見られるところであり,政策上の当否の点は別として,将来に向けての選択肢にはなり得るところであろう。

また,認知と届出のみを要件とすると,生物学上の父ではない日本国民によって日本国籍の取得を目的とする仮装認知(偽装認知)がされるおそれがあるとして,これが準正要件を設ける理由の一つとされることがあるが,そのようなおそれがあるとしても,これを防止する要請と準正要件を設けることとの間に合理的関連性があるといい難いことは,多数意見の説示するとおりである。しかし,例えば,仮装認知を防止するために,父として子を認知しようとする者とその子との間に生物学上の父子関係が存することが科学的に証明されることを国籍取得の要件として付加することは,これも政策上の当否の点は別として,将来に向けての選択肢になり得ないものではないであろう。

このように,本判決の後に,立法府が立法政策上の裁量権を行使して,憲法に適合する範囲内で国籍法を改正し,準正要件に代わる新たな要件を設けることはあり得るところである。このような法改正が行われた場合には,その新たな要件を充足するかどうかにかかわらず非準正子である上告人らが日本国籍を取得しているものとされた本件と,その新たな要件の充足を要求される法改正後の非準正子との間に差異を生ずることになる。しかし,準正要件を除外した国籍法3条1項のその余の要件のみによっても,同項及び同法の合憲的で合理的な解釈が可能であることは多数意見の説示するとおりであるから,準正要件に代わる新たな要件を設けるという立法裁量権が行使されたかどうかによってそのような差異を生ずることは,異とするに足りないというべきである。

 

 

国籍法3条1項の合憲性(4) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官藤田宙靖の意見

 

 目次

国籍法3条1項の合憲性(1) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決

国籍法3条1項の合憲性(2) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官泉徳治の補足意見・裁判官今井功の補足意見

国籍法3条1項の合憲性(3) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官田原睦夫の補足意見・裁判官近藤崇晴の補足意見

国籍法3条1項の合憲性(5) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官横尾和子,同津野修,同古田佑紀の反対意見

国籍法3条1項の合憲性(6) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官甲斐中辰夫,同堀籠幸男の反対意見

 

 

【裁判官藤田宙靖の意見】

は,次のとおりである。

私は,現行国籍法の下,日本国民である父と日本国民でない母との間に生まれた子の間で,同法3条1項が定める「父母の婚姻」という要件(準正要件)を満たすか否かの違いにより,日本国籍の取得に関し,憲法上是認し得ない差別が生じる結果となっていること,この差別は,国籍法の解釈に当たり同法3条1項の文言に厳格にとらわれることなく,同項は上記の準正要件を満たさない者(非準正子)についても適用さるべきものと合理的に解釈することによって解消することが可能であり,また本件においては,当裁判所としてそのような道を選択すべきであること等の点において,多数意見と結論を同じくするものであるが,現行法3条1項が何を定めており,上記のような合理的解釈とは正確にどのようなことを意味するのかという点の理解に関して,多数意見との間に考え方の違いがあることを否定できないので,その点につき意見を述べることとしたい。

現行国籍法の基本構造を見ると,子の国籍の取得については出生時において父又は母が日本国民であることを大原則とし(2条),日本国籍を有しない者が日本国籍を取得するのは帰化によることを原則とするが(4条),同法3条1項に定める一定の要件を満たした者については,特に届出という手続によって国籍を取得することができることとされているものというべきである。したがって,同項が準正要件を定めているのは,準正子でありかつ同項の定めるその他の要件を満たす者についてはこれを特に国籍取得の上で優遇する趣旨なのであって,殊更に非準正子を排除しようという趣旨ではない。言い換えれば,非準正子が届出という手続によって国籍を取得できないこととなっているのは,同項があるからではなく,同法2条及び4条の必然的結果というべきなのであって,同法3条1項の準正要件があるために憲法上看過し得ない差別が生じているのも,いわば,同項の反射的効果にすぎないというべきである。それ故また,同項に準正要件が置かれていることによって違憲の結果が生じているのは,多数意見がいうように同条が「過剰な」要件を設けているからではなく,むしろいわば「不十分な」要件しか置いていないからというべきなのであって,同項の合理的解釈によって違憲状態を解消しようとするならば,それは「過剰な」部分を除くことによってではなく,「不十分な」部分を補充することによってでなければならないのである。同項の立法趣旨,そして本件における違憲状態が何によって生じているかについての,上記に述べた考え方に関する限り,私は,多数意見よりはむしろ反対意見と共通する立場にあるものといわなければならない。

問題は,本件における違憲状態を解消するために,上記に見たような国籍法3条1項の拡張解釈を行うことが許されるか否かであって,この点に関し,このような立法府の不作為による違憲状態の解消は専ら新たな立法に委ねるべきであり,解釈によってこれを行うのは司法権の限界を超えるものであるという甲斐中裁判官,堀籠裁判官の反対意見には,十分傾聴に値するものがあると言わなければならない。それにもかかわらず,本件において私があえて拡張解釈の道を選択するのは,次のような理由による。

一般に,立法府が違憲な不作為状態を続けているとき,その解消は第一次的に立法府の手に委ねられるべきであって,とりわけ本件におけるように,問題が,その性質上本来立法府の広範な裁量に委ねられるべき国籍取得の要件と手続に関するものであり,かつ,問題となる違憲が法の下の平等原則違反であるような場合には,司法権がその不作為に介入し得る余地は極めて限られているということ自体は否定できない。しかし,立法府が既に一定の立法政策に立った判断を下しており,また,その判断が示している基本的な方向に沿って考えるならば,未だ具体的な立法がされていない部分においても合理的な選択の余地は極めて限られていると考えられる場合において,著しく不合理な差別を受けている者を個別的な訴訟の範囲内で救済するために,立法府が既に示している基本的判断に抵触しない範囲で,司法権が現行法の合理的拡張解釈により違憲状態の解消を目指すことは,全く許されないことではないと考える。これを本件の具体的事情に照らして敷衍するならば,以下のとおりである。

先に見たとおり,立法府は,既に,国籍法3条1項を置くことによって,出生時において日本国籍を得られなかった者であっても,日本国民である父親による生後認知を受けておりかつ父母が婚姻した者については,届出による国籍取得を認めることとしている。このこと自体は,何ら違憲問題を生じるものではなく,同項自体の効力については,全く問題が存在しないのであるから(因みに,多数意見は,同項が「過剰な」要件を設けていると考えることから,本件における違憲状態を理由に同項全体が違憲となる理論的可能性があるかのようにいうが,同項が設けられた趣旨についての上記の私の考え方からすれば,同項自体が違憲となる理論的可能性はおよそあり得ない。),法解釈としては,この条文の存在(立法者の判断)を前提としこれを活かす方向で考えるべきことは,当然である。他方で,立法府は,日本国民である父親による生後認知を受けているが非準正子である者についても,国籍取得につき,単純に一般の外国人と同様の手続を要求するのではなく,より簡易な手続によって日本国籍を取得する可能性を認めている(同法8条)。これらの規定の基盤に,少なくとも,日本国民の子である者の日本国籍取得については,国家の安全・秩序維持等の国家公益的見地からして問題がないと考えられる限り優遇措置を認めようとする政策判断が存在することは,否定し得ないところであろう。そして,多数意見も指摘するとおり,現行法上準正子と非準正子との間に設けられている上記のような手続上の優遇度の違いは,基本的に,前者には我が国との密接な結び付きが認められるのに対し,後者についてはそうは言えないから,との国家公益上の理由によるものと考えられるが,この理由には合理性がなく,したがってこの理由による区別は違憲であるというのが,ここでの出発点なのである。そうであるとすれば,同法3条1項の存在を前提とする以上,現に生じている違憲状態を解消するためには,非準正子についても準正子と同様の扱いとすることが,ごく自然な方法であるということができよう。そして,このような解決が現行国籍法の立法者意思に決定的に反するとみるだけの理由は存在しない。もっとも,立法政策としては,なお,非準正子の中でも特に我が国に一定期間居住している者に限りそれを認める(いわゆる「居住要件」の付加)といったような選択の余地がある,という反論が考えられるが,しかし,我が国との密接な結び付きという理由から準正子とそうでない者とを区別すること自体に合理性がない,という前提に立つ以上,何故に非準正子にのみ居住要件が必要なのか,という問題が再度生じることとなり,その合理的説明は困難であるように思われる。このような状況の下で,現に生じている違憲状態を解消するために,同項の対象には日本国民である父親による生後認知を受けた非準正子も含まれるという拡張解釈をすることが,立法者の合理的意思に抵触することになるとは,到底考えられない。

他方で,本件上告人らについてみると,日本国籍を取得すること自体が憲法上直接に保障されているとは言えないものの,多数意見が述べるように,日本国籍は,我が国において基本的人権の保障,公的資格の付与,公的給付等を受ける上で極めて重要な意味を持つ法的地位であり,その意味において,基本権享受の重要な前提を成すものということができる。そして,上告人らが等しく日本国民の子でありながら,届出によってこうした法的地位を得ることができないでいるのは,ひとえに,国籍の取得の有無に関し現行法が行っている出生時を基準とする線引き及び父母の婚姻の有無による線引き,父母のいずれが日本国民であるかによって事実上生じる線引き等,本人の意思や努力の如何に関わりなく存在する様々の線引きが交錯する中で,その谷間に落ち込む結果となっているが故なのである。仮にこれらの線引きが,その一つ一つを取ってみた場合にはそれなりに立法政策上の合理性を持つものであったとしても,その交錯の上に上記のような境遇に置かれている者が個別的な訴訟事件を通して救済を求めている場合に,先に見たように,考え得る立法府の合理的意思をも忖度しつつ,法解釈の方法として一般的にはその可能性を否定されていない現行法規の拡張解釈という手法によってこれに応えることは,むしろ司法の責務というべきであって,立法権を簒奪する越権行為であるというには当たらないものと考える。なお,いうまでもないことながら,国籍法3条1項についての本件におけるこのような解釈が一般的法規範として定着することに,国家公益上の見地から著しい不都合が存するというのであれば,立法府としては,当裁判所が行う違憲判断に抵触しない範囲内で,これを修正する立法に直ちに着手することが可能なのであって,立法府と司法府との間での権能及び責務の合理的配分については,こういった総合的な視野の下に考察されるべきものと考える。

 

国籍法3条1項の合憲性(5) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官横尾和子,同津野修,同古田佑紀の反対意見

 

 目次

国籍法3条1項の合憲性(1) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決

国籍法3条1項の合憲性(2) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官泉徳治の補足意見・裁判官今井功の補足意見

国籍法3条1項の合憲性(3) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官田原睦夫の補足意見・裁判官近藤崇晴の補足意見

国籍法3条1項の合憲性(4) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官藤田宙靖の意見

国籍法3条1項の合憲性(6) 最大判平成20年6月4日・国籍法違憲判決・裁判官甲斐中辰夫,同堀籠幸男の反対意見


【裁判官横尾和子,同津野修,同古田佑紀の反対意見】

は,次のとおりである。私たちは,以下の理由により,国籍法が,出生後に認知を受けた子の国籍取得について,準正子に届出による取得を認め,非準正子は帰化によることとしていることは,立法政策の選択の範囲にとどまり,憲法14条1項に違反するものではなく,上告人らの請求を棄却した原審の判断は結論において正当であるから,上告を棄却すべきものと考える。

国籍の付与は,国家共同体の構成員の資格を定めるものであり,多数意見の摘示する諸事情など国家共同体との結び付きを考慮して決せられるものであって,国家共同体の最も基本的な作用であり,基本的な主権作用の一つといえる。このことからすれば,国籍付与の条件をどう定めるかは,明確な基準により,出生時において,一律,かつ,可能な限り単一に取得されるべきことなどの要請を害しない範囲で,広い立法裁量にゆだねられているというべきである。

国籍が基本的人権の保障等を受ける上で重要な法的地位であるとしても,特定の国の国籍付与を権利として請求することは認められないのが原則であって,それによって上記裁量が左右されるものとはいえない。また,無国籍となるような場合は格別,いずれの国の保障を受けるか,例えば我が国の保障を受けるか,それとも他国の保障を受けるかということは,各国の主権にかかわることであり,法的な利益・不利益も,それぞれの国籍に応じて,居住国あるいは事柄によって相違し,時には反対にもなり得る相対的なものであることも考慮すべきである。なお,いわゆる多重国籍は,国籍が出生時に一律に付与されることから不可避的に生じる事態であって,やむを得ないものとして例外的に容認されているものにとどまる。

国籍法は,血統主義を基調としながらも,出生時において,血統のみならず,法的にも日本国民の子である者に対して,一律に国籍を付与する一方で,日本国民の血統に属する子が出生後に法的に日本国民の子となった場合には,出生後の生活状況が様々であることから,日本国民の子であることを超えた我が国社会との結び付きの有無,程度を具体的に考慮して国籍を付与するかどうかを決することとしていると解される。

このような国籍法の体系から見れば,同法3条1項の規定は,国籍の当然取得の効果を認める面では同法2条の特別規定である一方,出生後の国籍取得という面では帰化の特別規定としての性質を持つものといえる。

多数意見は,出生後の国籍取得を我が国との具体的な結び付きを考慮して認めることには合理性があり,かつ,国籍法3条1項の立法当時は,準正子となることをもって密接な結び付きを認める指標とすることに合理性があったとしながらも,その後における家族生活や親子関係に関する意識の変化,非嫡出子の増加などの実態の変化,日本国民と外国人との間に生まれる子の増加,諸外国における法制の変化等の国際的動向などを理由として,立法目的との関連において準正子となったことを結び付きを認める指標とする合理性が失われたとする。

しかしながら,家族生活や親子関係に関するある程度の意識の変化があることは事実としても,それがどのような内容,程度のものか,国民一般の意識として大きな変化があったかは,具体的に明らかとはいえない。

実態の変化についても,家族の生活状況に顕著な変化があるとは思われないし,また,統計によれば,非嫡出子の出生数は,国籍法3条1項立法の翌年である昭和60年において1万4168人(1.0%),平成15年において2万1634人(1.9%)であり,日本国民を父とし,外国人を母とする子の出生数は,統計の得られる昭和62年において5538人,平成15年において1万2690人であり,増加はしているものの,その程度はわずかである。このように,約20年の間における非嫡出子の増加が上記の程度であることは,多数意見の指摘と異なり,少なくとも,子を含む場合の家族関係の在り方については,国民一般の意識に大きな変化がないことの証左と見ることも十分可能である。確かに,諸外国においては,西欧諸国を中心として,非準正子についても国籍取得を認める立法例が多くなったことは事実である。しかし,これらの諸国においては,その歴史的,地理的状況から国際結婚が多いようにうかがえ,かつ,欧州連合(EU)などの地域的な統合が推進,拡大されているなどの事情がある。また,非嫡出子の数も,30%を超える国が多数に上り,少ない国でも10%を超えているようにうかがわれるなど,我が国とは様々な面で社会の状況に大きな違いがある。なお,国籍法3条1項立法当時,これらの国の法制が立法政策としての相当性については参考とされたものの,憲法適合性を考える上で参考とされたようにはうかがえない。このようなことからすれば,これらの諸国の動向を直ちに我が国における憲法適合性の判断の考慮事情とすることは相当でないと考える。

また,多数意見は,日本国民が母である非嫡出子の場合,あるいは胎児認知を受けた場合との差も指摘する。

しかし,これらの場合は,出生時において法的に日本国民の子であることが確定しているのであって,その後の生活状況の相違が影響する余地がない一方,国籍は,出生時において,一律に付与される必要があることからすれば,これらの子にも国籍を付与することに合理性がある。実質的に見ても,非嫡出子は出生時において母の親権に服すること,胎児認知は任意認知に限られることなど,これらの場合は,強弱の違いはあっても,親と子の関係に関し,既に出生の時点で血統を超えた我が国社会との結び付きを認めることができる要素があるといえる。また,母が日本国民である場合との差は,出生時における子との種々のかかわり合いに関する父と母の違いから生じるもので,これを男女間における差別ととらえることは相当とは思われない。

一方,国籍法3条1項は,婚姻と出生の前後関係が異なる場合における国籍取得の均衡を図るとともに,親と生活関係を共にする未成年の嫡出子は親と同一の国籍に属することが望ましいという観点も考慮して立法されたものであり,その意味で出生時を基準とする血統主義を補完する措置とされるものであって,血統主義の徹底,拡充を図ることを目的とするものではない。そして,準正により父が子について親権者となり,監護,養育の権利,義務を有することになるなど,法律上もその関係が強固になること,届出のみにより国籍を付与する場合,その要件はできるだけ明確かつ一律であることが適当であること,届出による国籍取得は,外国籍からの離脱が条件とされていないこと,非準正子の場合は,我が国との結び付きの有無,程度が様々であるから,これを個別,具体的に判断する帰化制度によることが合理的で国籍法の体系に沿うものであるところ,帰化の条件が大幅に緩和されていることなどからすれば,認知を受けた場合全般ではなく,準正があった場合をもって届出により国籍取得を認めることとすることには十分合理性が認められるのであって,これらの点が多数意見指摘の事情によって変化したとはいえない。なお,多数意見は,帰化について,認知を受けた子に関しては帰化の条件が緩和されているとしても,帰化が法務大臣の裁量によるものであって,準正子と非準正子との差を合理的なものとするものではないとする。しかし,類型的に我が国社会との結び付きを認めることが困難な非準正子については,帰化によることが合理的なことは前記のとおりであるし,また,裁量行為であっても,国家機関として行うものである以上,制度の趣旨を踏まえた合理的なものでなければならず,司法による審査の対象ともなり得るものであり,その運用について考慮すべき点があるとしても,多数意見は,国籍法の体系及び簡易帰化の制度を余りにも軽視するものといわざるを得ない。

以上からすれば,非準正子についても我が国との密接な結び付きを認めることが相当な場合を類型化して国籍取得を認めるなど,届出による国籍取得を認める範囲について考慮する余地があるとしても,国籍法が,準正子に届出による国籍の取得を認め,非準正子は帰化によることとしていることは,立法政策の選択の範囲にとどまり,憲法14条1項に違反するものではないと考える。もとより,私たちも,これらの子についても,必要に応じて,適切な保護等が与えられるべきことを否定するものではない。しかし,そのことと国籍をどのような条件で付与するかは,異なる問題である。

なお,仮に非準正子に届出による国籍の取得を認めないことが違憲であるとしても,上告を棄却すべきものと考える。その理由は,甲斐中裁判官,堀籠裁判官の反対意見とおおむね同旨であるが,以下の点を付加して述べておきたい。両裁判官指摘のとおり,非準正子が届出により国籍を取得することができないのは,これを認める規定がないからであって,国籍法3条1項の有無にかかわるものではない。同項は,認知を受けたことが前提となるものではあるが,その主体は嫡出子の身分を取得した子であり,その範囲を準正によりこれを取得した場合としているものである。

多数意見は,国籍法が血統主義を基調とするもので,同項に関し,上記の前提があることを踏まえ,準正子に係る部分を除くことによって,認知を受けた子全般に同項の効果を及ぼそうとするもののようにうかがえる。しかし,準正子に係る部分を取り除けば,同項はおよそ意味不明の規定になるのであって,それは,単に文理上の問題ではなく,同項が専ら嫡出子の身分を取得した者についての規定であることからの帰結である。認知を受けたことが前提になるからといって,準正子に係る部分を取り除けば,同項の主体が認知を受けた子全般に拡大するということにはいかにも無理がある。また,そのような拡大をすることは,条文の用語や趣旨の解釈の域を越えて国籍を付与するものであることは明らかであり,どのように説明しようとも,国籍法が現に定めていない国籍付与を認めるものであって,実質的には立法措置であるといわざるを得ない。

また,多数意見のような見解により国籍の取得を認めることは,長年にわたり,外国人として,外国で日本社会とは無縁に生活しているような場合でも,認知を受けた未成年者であれば,届出さえすれば国籍の取得を認めることとなるなど,我が国社会との密接な結び付きが認められないような場合にも,届出による国籍の取得を認めることとなる。届出の時に認知をした親が日本国民であることを要するとしても,親が日本国籍を失っている場合はまれであり,そのことをもって,日本国民の子であるということを超えて我が国との密接な結び付きがあるとするのは困難であって,実質は,日本国籍の取得を求める意思(15歳未満の場合は法定代理人の意思)のみで密接な結び付きを認めるものといわざるを得ない。このようなことは,国籍法3条1項の立法目的を大きく超えることとなるばかりでなく,出生後の国籍取得について我が国社会との密接な結び付きが認められることを考慮すべきものとしている国籍法の体系ともそごするものである。なお,国籍付与の在り方は,出入国管理や在留管理等に関しても,様々な面で大きな影響を及ぼすものであり,そのような点も含めた政策上の検討が必要な問題であることも考慮されるべきである。

仮に多数意見のような見解が許されるとすれば,創設的権利・利益付与規定について,条文の規定や法律の性質,体系のいかんにかかわらず,また,立法の趣旨,目的を超えて,裁判において,法律が対象としていない者に,広く権利,利益を付与することが可能となることになる。

私たちは,本件のような場合についても,違憲立法審査権が及ぶことを否定するものではない。しかしながら,上記の諸点を考慮すれば,本件について,裁判により国籍を認めることは,司法権の限界との関係で問題があると考える。

 

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