憲法重要判例六法F

憲法についての条文・重要判例まとめ

カテゴリ: 第2章 戦争放棄

憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

憲法目次Ⅳ

日本国憲法第2章 戦争の放棄 第9条 (2)砂川事件判決・百里基地訴訟判決

 

   第二章 戦争の放棄

 

第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 

○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

 

【砂川事件 最大判昭和34年12月16日】

 

一、先ず憲法九条二項前段の規定の意義につき判断する。

そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および九八条二項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。

すなわち、九条一項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条二項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。

国の交戦権は、これを認めない」と規定した。

かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。

憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。

しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。

すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。

そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。

 そこで、右のような憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。

従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。

 

二、次に、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反するかどうかであるが、その判断には、右駐留が本件日米安全保障条約に基くものである関係上、結局右条約の内容が憲法の前記条章に反するかどうかの判断が前提とならざるを得ない。

 しかるに、右安全保障条約は、日本国との平和条約(昭和二七年四月二八日条約五号)と同日に締結せられた、これと密接不可分の関係にある条約である。

すなわち、平和条約六条(a)項但書には「この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」とあつて、日本国の領域における外国軍隊の駐留を認めており、本件安全保障条約は、右規定によつて認められた外国軍隊であるアメリカ合衆国軍隊の駐留に関して、日米間に締結せられた条約であり、平和条約の右条項は、当時の国際連合加盟国六〇箇国中四〇数箇国の多数国家がこれに賛成調印している。

そして、右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。

それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきであるが、また、その成立に当つては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である。

 ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。

れ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする。

そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となつている場合であると否とにかかわらないのである。

 

三、よつて、進んで本件アメリカ合衆国軍隊の駐留に関する安全保障条約およびその三条に基く行政協定の規定の示すところをみると、右駐留軍隊は外国軍隊であつて、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となつてあだかも自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものでないことが明らかである。

 

またこの軍隊は、前述のような同条約の前文に示された趣旨において駐留するものであり、同条約一条の示すように極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに一または二以上の外部の国による教唆または干渉によつて引き起されたわが国における大規模の内乱および騒じようを鎮圧するため、わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなつており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならないことが窺えるのである。

 

 果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。

そしてこのことは、憲法九条二項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。

 (なお、行政協定は特に国会の承認を経ていないが、政府は昭和二七年二月二八日その調印を了し、同年三月上旬頃衆議院外務委員会に行政協定およびその締結の際の議事録を提出し、その後、同委員会および衆議院法務委員会等において、種々質疑応答がなされている。

そして行政協定自体につき国会の承認を経べきものであるとの議論もあつたが、政府は、行政協定の根拠規定を含む安全保障条約が国会の承認を経ている以上、これと別に特に行政協定につき国会の承認を経る必要はないといい、国会においては、参議院本会議において、昭和二七年三月二五日に行政協定が憲法七三条による条約であるから、同条の規定によつて国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決され、また、衆議院本会議において、同年同月二六日に行政協定は安全保障条約三条により政府に委任された米軍の配備規律の範囲を越え、その内容は憲法七三条による国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決されたのである。

しからば、以上の事実に徴し、米軍の配備を規律する条件を規定した行政協定は、既に国会の承認を経た安全保障条約三条の委任の範囲内のものであると認められ、これにつき特に国会の承認を経なかつたからといつて、違憲無効であるとは認められない。

 しからば、原判決が、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条二項前段に違反し許すべからざるものと判断したのは、裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し同条項および憲法前文の解釈を誤つたものであり、従つて、これを前提として本件刑事特別法二条を違憲無効としたことも失当であつて、この点に関する論旨は結局理由あるに帰し、原判決はその他の論旨につき判断するまでもなく、破棄を免かれない。

 よつて刑訴四一〇条一項本文、四〇五条一号、四一三条本文に従い、主文のとおり判決する。

 

 この判決は、裁判官田中耕太郎、同島保、同藤田八郎、同入江俊郎、同垂水克己、同河村大助、同石坂修一の補足意見および裁判官小谷勝重、同奥野健一、同高橋潔の意見があるほ

 

補足意見等略

 

 

【百里基地訴訟 最判平成元年6月20日】

 論旨は、憲法九条の規定ないし平和的生存権の保障が私法上の行為である本件売買契約に直接適用されないとしても、右規定等は民法九〇条の定める公序の内容を形成し、右規定等に違反する本件売買契約を含む本件土地取得行為は、結局公序良俗違反として無効である、というのである。

 本件売買契約は、前述のように、被上告人国が自衛隊基地の建設を目的ないし動機として締結した契約であつて、同被上告人は被上告人Dに対しこの契約を締結するに当たつて右の目的ないし動機を表示していることは明らかであるから、右の目的ないし動機は本件売買契約等が公序良俗違反となるか否かを決するについて考慮されるべき事項であるということができるので、以下自衛隊基地の建設という目的ないし動機によつて、本件売買契約等が公序良俗違反として無効となるか否かについて判断する。

 まず、憲法九条は、人権規定と同様、国の基本的な法秩序を宣示した規定であるから、憲法より下位の法形式によるすべての法規の解釈適用に当たつて、その指導原理となりうるものであることはいうまでもないが、憲法九条は、前判示のように私法上の行為の効力を直接規律することを目的とした規定ではないから、自衛隊基地の建設という目的ないし動機が直接憲法九条の趣旨に適合するか否かを判断することによつて、本件売買契約が公序良俗違反として無効となるか否かを決すべきではないのであつて、自衛隊基地の建設を目的ないし動機として締結された本件売買契約を全体的に観察して私法的な価値秩序のもとにおいてその効力を否定すべきほどの反社会性を有するか否かを判断することによつて、初めて公序良俗違反として無効となるか否かを決することができるものといわなければならない。すなわち、憲法九条の宣明する国際平和主義、戦争の放棄、戦力の不保持などの国家の統治活動に対する規範は、私法的な価値秩序とは本来関係のない優れて公法的な性格を有する規範であるから、私法的な価値秩序において、右規範がそのままの内容で民法九〇条にいう「公ノ秩序」の内容を形成し、それに反する私法上の行為の効力を一律に否定する法的作用を営むということはないのであつて、右の規範は、私法的な価値秩序のもとで確立された私的自治の原則、契約における信義則、取引の安全等の私法上の規範によつて相対化され、民法九〇条にいう「公ノ秩序」の内容の一部を形成するのであり、したがつて私法的な価値秩序のもとにおいて、社会的に許容されない反社会的な行為であるとの認識が、社会の一般的な観念として確立しているか否かが、私法上の行為の効力の有無を判断する基準になるものというべきである。

 そこで、自衛隊基地の建設という目的ないし動機が右に述べた意義及び程度において反社会性を有するか否かについて判断するに、自衛隊法及び防衛庁設置法は、昭和二九年六月憲法九条の有する意義及び内容について自衛のための措置やそのための実力組織の保持は禁止されないとの解釈のもとで制定された法律であつて、自衛隊は、右のような法律に基づいて設置された組織であるところ、本件売買契約が締結された昭和三三年当時、私法的な価値秩序のもとにおいては、自衛隊のために国と私人との間で、売買契約その他の私法上の契約を締結することは、社会的に許容されない反社会的な行為であるとの認識が、社会の一般的な観念として確立していたということはできない。したがつて、自衛隊の基地建設を目的ないし動機として締結された本件売買契約が、その私法上の契約としての効力を否定されるような行為であつたとはいえない。また、上告人らが平和主義ないし平和的生存権として主張する平和とは理念ないし目的としての抽象的概念であるから、憲法九条をはなれてこれとは別に、民法九〇条にいう「公ノ秩序」の内容の一部を形成することはなく、したがつて私法上の行為の効力の判断基準とはならないものというべきである。

 そうすると、本件売買契約を含む本件土地取得行為が公序良俗違反にはならないとした原審の判断は、是認することができる。論旨は、これと異なる見解に立つて原判決を論難するか、又は原判決の認定にそわない事実に基づいてその違法をいうものであつて、採用することができない。

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日本国憲法第9条 戦争の放棄

 

   第二章 戦争の放棄

 

第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

【憲法9条の意義・自衛権】

最大判昭和34年12月16日

憲法九条二項前段の規定の意義につき判断する。そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および九八条二項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち、九条一項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条二項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。

 

憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。

 

 そこで、右のような憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。

 

【戦争放棄の範囲】

札幌地判昭和48年9月7日

 第三、憲法の平和主義と同法第九条の解釈

  一、憲法前文の意義

   1 およそ一国の基本法たる憲法において、それを構成する各個の条項の記述に先だつて、前文としてその憲法制定の由来、動機、目的、あるいは基本的原理などが明記され、また宣言されていることは、しばしばみられるところである。

 わが国の現行憲法も、前文を四項にわけ、その第一項ないし第三項において「憲法の憲法」とでもいうべき基本原理を定めている。それは、国民主権主義と、基本的人権尊重主義と、そして平和主義である。

   2 平和主義については、まずその前文第一項第一段において、「日本国民は……諸国民との協和による成果とわが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、……この憲法を確定する。」と規定し、また、その第二項においては、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するものであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と規定し、そして、第三項において、「われらは、いずれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、……各国の責務であると信ずる。」旨述べたあと、最終第四項で、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」として前文を結んでいる。

 このような憲法の基本原理の一つである平和主義は、たんにわが国が、先の第二次世界大戦に敗れ、ポツダム宣言を受諾させられたという事情から受動的に、やむをえず戦争を放棄し、軍備を保持しないことにした、という消極的なものではなく、むしろ、その前文にもあるごとく、「われらとわれらの子孫のために……わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、……再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」(第一項)するにいたつた積極的なものである。すなわち、一方では、この平和への決意は、たんに今次太平洋戦争での惨禍をこうむつた体験から生じた戦争嫌悪の感情からくる平和への決意にとどまらず、それは、日清、日露戦争以来今次大戦までのすべてについて、その原因、ならびに、わが国の責任を冷静にかつ謙虚に反省し、さらに、その結果を、後世の子孫たちに残すことにより、将来ふたたび戦争をくり返さない、という戦争防止への情熱と、幸福な国民生活確立のための熱望に支えられた、理性的な平和への決意であり、そしてまた、他方において、一般に戦争というものが、たんに自国民だけではなく、広く世界の他の諸国民にも、限りない惨禍と、底知れない不幸をもたらすことは、必然的であつて、このような悲劇についての心底からの反省に基づき、今後そのような悲劇を、わが国民だけではなく、人類全体が決してこうむることのないように、みずから進んで世界の恒久平和を念願し、人類の崇高な理想を自覚して、積極的にそれを実現するように努めることの決意である。そして、この決意は、現在および将来の国民の心のなかに生き続け、真に日本の平和と安全を守り育てるものであり、究極的には、全世界の平和をもたらすことになるものである。

 このように、わが国は、平和主義に立脚し、世界に先んじて軍備を廃止する以上、自国の安全と存立を、他の諸外国のように、最終的には軍備と戦争によるというのではなく、国内、国外を問わず戦争原因の発生を未然に除去し、かつ、国際平和の維持強化を図る諸活動により、わが国の平和を維持していくという積極的な行動(憲法前文第二段)のなかで究極的には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」(同第二項第一段)のである。これは、なによりもわが国が、平和憲法のもとに国民の権利、自由を保障する民主主義国家として進むことにより、国内的に戦争原因を発生させないこと、さらに、平和と国家の繁栄を求めている世界の諸国のなかで、右のように、平和的な民主主義国家として歩むわが国の生存と安全を脅かすものはいないという確信、そしてまた、今日世界各国の国民が、人類の経験した過去のいついかなる時期にもまして、わが国と同様に、自国の平和と不可分の世界平和を念願し、世界各国の間において、平和を乱す対立抗争があつてはならない、という信念がいきわたつていること、最後に、国際連合の発足によつて、戦争防止と国際間の安全保障の可能性が芽ばえてきたこと、などに基礎づけられているものといえる。このことは、憲法が、その前文第二項第二段からとりわけ第三項において、自国のみならず世界各国に対しても、利己的な、偏狭な国家主義を排斥する旨宣言して、自国のことばかりにとらわれて、他国の立場を顧慮しようとしない独善的な態度を強くいましめていることからも明らかである。

 このような前文のなかからは、万が一にも、世界の国国のうち、平和を愛することのない、その公正と信義を信頼できないような国、または国家群が存在し、わが国が、その侵略の危険にさらされるといつた事態が生じたときにも、わが国みずからが軍備を保持して、再度、武力をもつて相戦うことを容認するような思想は、まつたく見出すことはできないといわなければならない。

   3 このような憲法前文での平和主義は、他の二つの基本原理である国民主権主義、および基本的人権尊重主義ともまた密接不可分に結びついているといわなければならない。

    (1) すなわち、憲法前文第一項は、前記した「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、」に続けて、「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確立する。」とし、さらに、「そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。」と平和主義と国民主権主義とを結びつけていることからも明らかである。このことは、過去の歴史上、戦争が、国民の生命財産を守るために国民の意思によつておこなわれたことよりも、しばしば、国民とは遊離した一部の者が支配する政府の独善と偏狭のために原因が形成され、ぼつ発したという事実に基づいて、そのような過ちを二度とくり返さないために、国民主権のもとに強く政府の行動を規制し、その独善と専行を排除することにより、平和の万全を確立しようとするものであり、他面、国民主権主義が、真に国民のためのものとして確立されるためには、そこには、平和主義が十全に確保されていなければならないとの思想に基礎づけられているものである。

    (2) 他方、前文第二項は、前記した平和主義の規定に続けて、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」ことを明記している。これは、この平和的生存権が、全世界の国民に共通する基本的人権そのものであることを宣言するものである。そしてそれは、たんに国家が、その政策として平和主義を掲げた結果、国民が平和のうちに生存しうるといつた消極的な反射的利益を意味するものではなく、むしろ、積極的に、わが国の国民のみならず、世界各国の国民にひとしく平和的生存権を確保するために、国家みずからが、平和主義を国家基本原理の一つとして掲げ、そしてまた、平和主義をとること以外に、全世界の諸国民の平和的生存権を確保する道はない、とする根本思想に由来するものといわなければならない。

 これらの思想は、また、国際連合憲章前文にもみられるところであり、さらに、第三回国連総会において採択された「人権に関する世界宣言」の前文に、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利との承認は、世界における自由、正義および平和の基礎をなしているので、人権の無視と軽べつとは、人類の良心をふみにじつた野蛮な行為を招来したのであり、また、人間が言論及び信仰の自由と恐怖及び欠乏からの自由(解放)を享有する世界の到来はあらゆる人たちの最高の熱望として宣言されて来た」、という文言によつても明らかにされているところであつて、わが国の憲法も、これらの思想と合致し、これをさらに徹底したものである。

 そして、この、社会において国民一人一人が平和のうちに生存し、かつ、その幸福を追及することのできる権利をもつことは、さらに、憲法第三章の各条項によつて、個別的な基本的人権の形で具体化され、規定されている。ここに憲法のいう平和主義と基本的人権尊重主義の二つの基本原理も、また、密接不可分に融合していることを見出すことができる。

   4 そして、国民主権主義が国民各自の基本的人権尊重と、これまた不可分に結びついていることは、改めて述べるまでもないことであつて、ここに三基本原理は、相互に融和した一体として、現行憲法の支柱をなしているものであつて、そのいずれか一つを欠いても、憲法体制の崩壊をもたらすことは、多言を要しないところである。

 前文の最後は、これらの憲法を貫く諸原理は、たんに美辞麗句に終ることのないように、日本国民みずからが、国家の名誉にかけて、全力をもつてこれらの崇高な理想と目的を達成することを、全世界の前に宣言したものである。

  二、憲法第九条の解釈

   1 憲法第九条の解釈は、前述の憲法の基本原理に基づいておこわなければならない。なぜならば、第九条を含めた憲法の各条項は、前記基本原理を具体化して個別的に表現したものにほかならないからである。

 憲法第九条第一項は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際粉争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と規定し、同条第二項は、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と規定している。

   2 まず第九条第一項についてみると、

    (1) 「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する」旨の文言は、前文掲記の平和主義を、第九条の規定にあたつても、再認確し、さらに、あらゆる国家が、正義と秩序を尊重し、平和を愛好するものであり、それを信頼するとともに、国際社会に正義と秩序が支配するならば、平和が保持されるとの確信のもとに、それを誠実に希求し、かつ、その目的のたあに、同項に以下の規定を置くとするものである。

    (2) 「国権の発動たる戦争」とは、国家行為としての戦争と同意義である。なお本項では国権の発動によらない戦争の存在を容認する趣旨ではない。

    (3) 「武力による威嚇又は武力の行使」ここにいう「武力」とは、実力の行使を目的とする人的および物的設備の組織体であるが、この意味では、後記第九条第二項にいう「戦力」と同じ意味である。「武力による威嚇」とは、戦争または戦闘行為に訴えることをほのめかしてなされる威嚇であり、「武力の行使」とは、国際法上認められている戦争行為にいたらない事実上の戦闘行為を意味する。

    (4) 「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」ここにおいて、国際紛争を解決する手段として放棄される戦争とは、不法な戦争、つまり侵略戦争を意味する。この「国際紛争を解決する手段として」という文言の意味を、およそいつさいの国際紛争を意味するものとして、憲法は第九条第一項で自衛戦争、制裁戦争をも含めたいかなる戦争をも放棄したものであるとする立場もあるが、もしそうであれば、本項において、とくに「国際紛争を解決する手段として」などと断る必要はなく、また、この文言は、たとえば、一九二八年の不戦条約にもみられるところであり、同条約では、当然に、自衛戦争、制裁戦争を除いたその他の不法な戦争、すなわち、侵略戦争を意味するものと解されており(このことは同条約に関してアメリカの国務長官が各国に宛てた書簡に明記されている。)、以後、国際連盟規約、国際連合憲章の解釈においても、同様の考えを前提としているから、前記した趣旨に解するのが相当と思われる。したがつて、本条項では、未だ自衛戦争、制裁戦争までは放棄していない。

   3 つぎに同条第二項についてみる。

    (1) 「前項の目的を達成するため」の「前項の目的」とは、第一項を規定するに至つた基本精神、つまり同項を定めるに至つた目的である「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求(する)」という目的を指す。この「前項の目的」なる文言を、たんに第一項の「国際紛争を解決する手段として」のみに限定して、そのための戦争、すなわち、不法な戦争、侵略戦争の放棄のみの目的と解すべきではない。なぜなら、それは、前記した憲法前文の趣旨に合致しないばかりか、後記するように、現行憲法の成立の歴史的経緯にも反し、しかも、本項の交戦権放棄の規定にも抵触するものであり、かつ、現行憲法には宣戦、講和などの戦争行為に関するいつさいの規定を置いていないことからも明らかである。

    (2) 「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」「陸海空軍」は、通常の観念で考えられる軍隊の形態であり、あえて定義づけるならば、それは「外敵に対する実力的な戦闘行動を目的とする人的、物的手段としての組織体」であるということができる。このゆえに、それは、国内治安を目的とする警察と区別される。「その他の戦力」は、陸海空軍以外の軍隊か、または、軍という名称をもたなくとも、これに準じ、または、これに匹敵する実力をもち、必要ある場合には、戦争目的に転化できる人的、物的手段としての組織体をいう。このなかにはもつぱら戦争遂行のための軍需生産設備なども含まれる。ここで、その他の戦力の意味をひろく戦争のための手段として役立ちうるいつさいの人的、物的勢力と解することは、近代社会に不可欠な経済、産業構造のかなりの部分がこれに含まれることになり妥当ではない。

 このようにして、本項でいつさいの「戦力」を保持しないとされる以上、軍隊、その他の戦力による自衛戦争、制裁戦争も、事実上おこなうことが不可能となつたものである。

    (3) 被告は、「外部からの不正な武力攻撃や侵略を防止するために必要最少限度の自衛力は憲法第九条第二項にいう戦力にはあたらない」旨主張する。しかしながら、憲法の同条項にいう「戦力」という用語を、通常一般に社会で用いられているのと意味を異にして憲法上独特の意味に解しなければならないなんらの根拠を見出すことができないうえ、前記と同様に、かような解釈は、憲法前文の趣旨にも、また憲法の制定の経緯にも反し、かつ、交戦権放棄の条項などにも抵触するものといわなければならない。

 とりわけ、自衛力は戦力でない、という被告のような考え方に立つと、現在世界の各国は、いずれも自国の防衛のために必要なものとしてその軍隊ならびに軍事力を保有しているのであるから、それらの国国は、いずれも戦力を保有していない、という奇妙な結論に達せざるをえないのであつて、結局、「戦力」という概念は、それが、自衛または制裁戦争を目的とするものであるか、あるいは、その他の不正または侵略戦争を目的とするものであるかにかかわらず、前記したように、その客観的性質によつてきめなければならないものである。

    (4) 「国の交戦権は、これを認めない。」 「交戦権」は、国際法上の概念として、交戦国が国家としてもつ権利で、敵の兵力を殺傷、破壊したり、都市を攻撃したり、占領地に軍政をしいたり、中立国に対しても一定の条件のもとに船舶を臨検、拿捕し、また、その貨物を没収したりなどする権利の総称をいう。この交戦権を、ひろく国家が戦争をする権利と解する立場は、第一項の「国権の発動たる戦争」と重複し、妥当ではない。

 またこの交戦権放棄の規定は、文章の形からいつても、(1)で記述した「前項の目的を達するため」の文言にはかからず、したがつて、その放棄は無条件絶対的である。このため、この「前項の目的」の解釈に際し、侵略戦争の放棄のみに限定し、自衛戦争および制裁戦争は放棄されていないとする立場、ならびに本項で自衛力は戦力に含まれないとして、自衛戦争を容認する被告の立場は、少なくとも、いかなる形にせよ戦争を承認する以上、その限度で、国際法上の交戦権もまた容認しなければ不合理であつて、これらの立場は、いずれも、この交戦権の絶対的放棄に抵触するものといわなければならない。

  三、右憲法解釈の実質的な裏づけ

 以上のような当裁判所の解釈は、つぎのような憲法成立の経緯、その他の事実によつても裏づけられるものである。

   1(1) 現行憲法が、第二次世界大戦でのわが国の敗戦の結果生まれたものであること、そして、この敗戦が、昭和二〇年(一九四五年)八月一〇日わが国がポツダム宣言を受諾したことによることはいうまでもない。

 ポツダム宣言は、その第六項において、「吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ」と、第七項では「右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ聯合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル根本的目的ノ達成ヲ確保スル迄占領セラルベシ」と、また、第九項で「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」と、そしてさらに、第一一項第一段に「日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且ツ公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコト許サルベシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ」と各明記している。

 このようなポツダム宣言のもとに、同年八月一五日、戦後の日本が再出発したのである。

    (2) かくして、新生日本となつたわが国において、昭和二一年三月六日政府から「憲法改正草案要綱」が発表されたのち、同年四月一〇日衆議院議員の総選挙がおこなわれ、ついで同月一七日「憲法改正案」が発表され、そして、同年五月一六日に召集された第九〇帝国議会(いわゆる制憲議会)に政府は右改正案を上程した。右議会の審議において、当時の内閣総理大臣吉田茂は同案に「戦争放棄」の規定を置くにいたつた動機について、つぎのように述べている。

 「政府が憲法改正の必要を認めまして、研究に着手しましてから、欧米その他の日本に対する感情、考え方に付て色々事態が明瞭になつて来ますると共に、日本の国際関係に於て容易ならざるものがあることを考えざるを得なくなつたのであります。先ず第一、日本の従来に於ける国家組織、この国家組織が再び世界の平和を脅かすが如き組織であると誤解されたのであります。日本を戦争に導いた原因、国情、組織等が世界の平和に非常な危険を感ぜしむるものありと誤解されたことであります。随て、又日本が再軍備をして世界の平和を紊す、攪乱することの危険がありはしないか、これは聯合国に於て最も懸念した所であります。故に先ず第一に聯合国と致しまして、日本に対して求むる所は日本の軍備の撤去であります。日本が再軍備が出来ないようにする。日本の軍備撤去と云うこと、世界の平和を脅かさざるような国体の組織にすると云うことが必要である。これは固より誤解から生じたのであります。……併しながらこの五箇年の間の戦の悲惨なる結果から見まして、斯の如く考え、又世界が平和を愛好すると云う精神から考えまして、日本に対する疑惑、懸念は又尤もと考えざるを得ないのであります。……斯くの如き疑惑の下にあつて、……日本が如何にして国体を維持し、国家を維持するかと云う事態に際会して考えて見ますると、日本の国体、日本の国家の基本法たる憲法を、まず平和主義、民主主義を徹底せしめて、日本憲法が毫も世界の平和を脅かすが如き危険の国柄でないと云うことを表明する必要を、政府と致しましては深く感得したのであります。」(逐条日本国憲法審議録第一巻四二、四三頁)

 また憲法第九条の規定に関しては同総理大臣はつぎのように説明をしている。

 「戦争抛棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定しては居りませぬが、第九条第二項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も抛棄したのであります。従来近年の戦争は多く自衛権の名に於て戦われたのであります。満洲事変然り、大東亜戦争亦然りであります。今日我が国に対する疑惑は、日本は好戦国である、何時再軍備をなして復讐戦をして世界の平和を脅かさないとも分からないというのが、日本に対する大なる疑惑であり、又誤解であります。先ず此の誤解を正すことが今日我々としてなすべき第一のことであると思うのであります。又この疑惑は誤解であるとは申しながら、全然根抵のない疑とも言われない節が既往の歴史を考えて見ますると多々あるのであります。故に我が国に於ては如何なる名義をもつてしても交戦権は先づ第一進んで抛棄する、抛棄することに依つて全世界の平和の確立の基礎を成す、全世界の平和愛好国の先頭に立つて、世界の平和確立に貢献する決意を先づ此の憲法において表明したいと思うのであります。」(前同審議録第二巻八二、八三頁)

 同様の趣旨は、国務大臣金森徳次郎の右議会での説明にもみられる。すなわち同国務大臣は、「第九条の規定は……本当に人類の目覚めの道を日本が第一歩を踏んで、模範を垂れる積りで進んで行かう、斯う云う勇断を伴つた規定である訳であります。……此の第一項に該当しまする部分、詰り不戦条約を明らかにするような規定は、世界の諸国の憲法中類例を若干見得るものであります。日本ばかりが先駆けて居ることではございませぬが併し其の第一項の規定、詰り或種の戦争はやらないと云うことをはつきり明言するだけではどうも十分なる目的は達し得ないのでありまして、諸国の憲法も之に類する定めは甚だ不十分であります。さうなりますると更に大飛躍を考へて、第二項の如き戦争に必要なる一切の手段及び戦争から生ずる交戦者の権利をなくすると云ふ所迄進んで、以て、此の画期的な道義を愛する思想を規定することが適当なこととなつたと思うのであります。」(前同審議録二巻二七頁)

 また国務大臣幣原喜重郎は右議会において戦争放棄の意義についてつぎのように述べている。「実際この改正案の第九条は戦争の抛棄を宣言し、わが国が全世界中最も徹底的な平和運動の先頭に立つて指導的地位を占むることを示すものであります。今日の時勢に尚国際関係を律する一つの原則として、或範囲内の武力制裁を合理化、合法化せむとする如きは、過去に於ける幾多の失敗を繰返えす所以でありまして、最早我が国の学ぶべきことではありませぬ。文明と戦争とは結局両立し得ないものであります。文明が速かに戦争を全滅しなければ、戦争が先ず文明を全滅することになるでありましよう。私は斯様な信念を持つて此の憲法改正案の起草の議に与つたのであります」(前同審議録第二巻二一、二二頁)

 以上のように、憲法改正案の提案者らは、制憲議会において、わが国は、完全な非武装主義に立脚して、戦争を放棄する旨言明している。したがつて、制憲議会およびこれを支える国民の意思は、永久平和主義、戦争放棄方式を憲法の基本原理の一つとして採用したことは明らかである。これら現行憲法成立経過の点からみても、前記一、二の解釈の正当であることが裏づけられる。

   2 そしてこのことは、また、旧大日本帝国憲法と現行憲法の規定のあり方を対比してみても明らかである。すなわち、かつて陸海軍を擁した旧憲法は、その第一一条において「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と、また第一二条では「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」と、さらに第一三条で「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講ジ及諸般ノ条約ヲ締結ス」と、そして第一四条で「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」と陸海軍の指揮、編成や戦争の開始および終結に関する手続などを定めていた。しかし現行憲法は、このような重要な事項に関して明文の規定を欠いていることはもちろん、それらを法律などに委任する旨の規定もまつたく置いていない。このことは現行憲法が前記のような歴史的経緯のもとに、自衛のための軍備の保有さえも排除した趣旨に解せざるをえないものといわなければならない。

   3 以上のような永久平和主義と戦争放棄に関するわが憲法の規定の渕源は、とくに、今世紀に入つて以来、世界の諸国がそれぞれの憲法や条約において取決めた幾多の戦争の禁止や制限に関する規定の流れのなかに求めることができる。

    (1) 諸外国の憲法における戦争放棄の規定の出現は、古く一八世紀にさかのぼるが、とくに今世紀に入つてからは、その数も著しく増大している。

 まずその先駆をなすものは、フランスの一七九一年の憲法(いわゆる大革命憲法)である。同憲法はその第六篇「フランス国民と他国民の関係」のなかで、「フランス国民は、征服の目的をもつていかなる戦争をも行うことを放棄し、またいかなる国民の自由に対しても決して武力を行使しない。」と規定した。これと同旨の規定は、その後、同国の一八四八年の憲法(いわゆる二月革命憲法)前文の五、一九四六年の憲法(いわゆる第四共和国憲法)前文にも引き継がれている。

 また同様に、侵略戦争の放棄については、ブラジルの一八九一年の憲法第八八条は「いかなる場合にも、ブラジル合衆国は直接にも又間接にも、自ら或は他国の同盟として征服の戦争には従事しない。」と規定し、同国の一九三四年の憲法も同旨の規定を置き、さらに、一九四六年の憲法第四条は、これに加えてその前段で、「ブラジルはその加盟する国際安全機関の定める仲裁若しくは紛争解決の平和的手段を採る余地がないか、又は失敗に帰した場合でなければ戦争に訴えない。」として、侵略戦争以外の戦争すなわち自衛戦争、制裁戦争にも厳重な制約を置き同様の趣旨の規定は同国の一九六七年の憲法第七条にも引き継がれている。

 他方、つぎに述べる一九二八年の不戦条約の戦争放棄条項を国内法化して憲法上の規定としているものもみられる。まず、スペインの一九三一年の憲法第六条は、「スペインは、国家の政策の手段としての戦争を放棄する。」と定め、続いて、フイリピンの一九三五年の憲法第二条第三節は、「フイリピンは国策遂行の手段としての戦争を放棄し、一般に受諾された国際法の諸原則を国内法の一部として採用する。」と規定し、一九四七年のビルマ憲法第二一一条、一九四九年のタイ憲法第六一条も同旨である。

 またこれとは別に、一九四七年のドイツ民主主義共和国憲法第五条第三項は、「いかなる市民も、他の国民の抑圧に仕える戦闘的行動に参加してはならない」と、同年のイタリア共和国憲法第一一条前段は、「イタリアは、他国民の自由を侵害する手段および国際紛争を解決する方法としての戦争を否認する。」と規定し、さらに、一九四八年の大韓民国憲法第六条、同国の一九六二年の憲法第四条「大韓民国は国際平和の維持に努力し、侵略戦争を否認する」の規定、一九四九年のドイツ連邦共和国憲法第二六条第一項「諸国間の平和な共同生活をみだすおそれがあり、かつその意図をもつて行われる行動、とくに侵略戦争の遂行を準備する行動は違憲とする。これらの行動は処罰する。」などの規定もある。

    (2) このような国内法上の戦争放棄の立法化の動向とともに、国際社会においても一九世紀後半から、次第に国家間の武力行使がもたらす惨禍を省み、これを防止するために国家主権を制限しようとする傾向がみられるようになつた。

 まず、一九一九年六月二八日成立した国際連盟規約(ヴエルサイユ平和条約第一編)は、その前文で、「締約国ハ戦争ニ訴ヘザルノ義務ヲ受諾シ」と明記し、さらに第一二ないし第一五条において各国が戦争に訴える前に、平和的な解決手段により争いの解決に努めるべき義務を定めて、戦争行為を制限した。その後、国際連盟は、一九二四年第五回総会でいわゆる「ジユネーブ議定書」を、また、一九二八年第八回総会でいわゆる「一般議定書」を各採択し、国際紛争の平和的処理のための調停、司法、仲裁などの手続を規定した。

 一九二八年フランス外務大臣ブリアンが発議し、これにアメリカ国務長官ケロッグが賛成して成文化された「戦争の放棄に関する条約」(いわゆる「不戦条約」)には、わが国をも含めて、世界のほとんどすべての国が加入した(もつとも当時右の不戦条約に加入していなかつたアルゼンチンほか三国の南米諸国も、これと同内容の「ラテンアメリカ不戦条約」には加入していた。)。

 同条約第一条は、「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス」と表明し、第二条で、「締約国ハ相互間ニ起ルコトアルベキ一切ノ紛争又ハ紛議ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段ニ依ルノ外之ガ処理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス」と規定し、明文をもつて、国際紛争の解決の手段としての戦争を禁止するに至つた。

 当時、右条約に加入していたわが国は、国際条約によつて侵略戦争を放棄し、自衛のためのみにその陸海軍を保有していたものとみなければならない。しかるに、昭和八年(一九三三年)に始まる満州事変を契機として、その後の日中事変、そして昭和一六年(一九四一年)に始まる第二次世界大戦への突入した歴史は未だ記憶に新らしく、そして、前述したとおり、戦後の現行憲法は、まさにかような歴史的事実をふまえて誕生するに至つたものであることを想起しなければならない。

    (3) かような幾多の戦争防止への努力も空しく、一九三九年から一九四五年の六年間にわたつた第二次世界大戦は、またしても世界各国にはかり知れない戦禍をもたらす結果となつた。一九四五年六月二六日、連合各国代表は国際連合憲章に合意した。右憲章前文では、「われらの一生のうち二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い……善良な隣人として互いに平和に生活し、国際の平和、安全を維持するために力を合わせる……」旨の決意が宣言された。そしてさらに、同憲章第二条第三項は「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によつて、国際の平和及び安全並びに正義を危くしないように解決しなければならない。」とし、同条第四項は「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」として、不法な戦争、侵略戦争、またはそれに至らない武力による威嚇、その行使を全面的に禁止し、さらに、その自衛権の行使についてさえも、同憲章第五一条は「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。」と一応容認はしているものの、さらに続けて「この自衛権の行使に当つて加盟国がとつた措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のため必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基づく権能及び責任に対してはいかなる影響も及ぼすものではない。」と規定している。

 このように現在では、世界各国のもつ自衛権の行使にすら幾多の制約が存在するものである。

    (4) このようにして、世界の潮流は、とりわけ今世紀に入つてからは、それまでの一九世紀的な国家主権の一内容としての自己保存権的自衛権の概念、そしてそれに基づく戦争行為の正当化の考え方を大きく変容させた。とくに、前記した第一次世界大戦後の不戦条約を契機として、自衛権を国家の自己保存権的色彩から脱却させ、たんに外部からの急迫不正な侵害に対する自国を防衛する権利としてのみ国際法上容認し、これを越えるいつさいの戦争行為を禁止したのである。

 しかしそれにもかかわらず、その後も、いくつかの国々においてときには「自衛」の名のもとに、ときには「自衛権の行使」と称して、戦火が絶えることなく、わずか二十有余年にして、ふたたび第二次世界大戦の惨禍に世界を巻込むに至つたことは、今ここであらためて述べるまでもない。

 そこで、前項で述べたように、第二次世界大戦後の国際連合憲章は、このような自衛権の濫用を厳しく規制するために、第五一条において自衛権の行使自体に強い制約措置を定めるに至つた。すなわち、<1>自衛権の行使を、「外国からの武力攻撃が発生した場合」のみに限定して、いわゆる先制的自衛行動を否認し(もつともこの点については若干の国際法学者からは異説が唱えられているが、世界の大多数の国々においてはこのように解されている)、<2>自衛権の行使は「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持について必要な措置をとるまでの間」に限定し、かつ、<3>加盟国がとつた自衛の「措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない」として、その報告義務を定めた。したがつて、これらの規定に従わない自衛行動は、国際法上正当な自衛権の行使とは認めることのできないものである。

 このような戦争行為の否認への流れは、まさに人類の歴史の赴くところといわなければならない。なるほど現在でもなお世界の各国が独立国として自衛権をもち、そしてこれに基づいて各国独自の軍事力を保持していることは現実の姿である。しかし、このような自衛権なるもの自体は、つねに本来その濫用の危険性をはらんでいるものであり、歴史は幾多の濫用の事実を教えていることもまた明らかである。わが国の憲法も、前述したように、このような潮流をふまえたうえで、これを越え、これに先駆けて「恒久の平和を念願し……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して……」「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占め……」、そして「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達することを誓」いながら、永久平和主義、戦争放棄の道を選んだのである。

  四、自衛権と軍事力によらない自衛行動

 もちろん、現行憲法が、以上のように、その前文および第九条において、いつさいの戦力および軍備をもつことを禁止したとしても、このことは、わが国が、独立の主権国として、その固有の自衛権自体までも放棄したものと解すべきでないことは当然である(昭和三四年一二月一六日付最高裁判所判決参照)。しかし、自衛権を保有し、これを行使することは、ただちに軍事力による自衛に直結しなければならないものではない。まず、国家の安全保障(それは究極的には国民各人の生命、身体、財産などその生活の安全を守ることにほかならない)というものは、いうまでもなく、その国の国内の政治、経済、社会の諸問題や、外交、国際情勢といつた国際問題と無関係であるはずがなく、むしろ、これらの諸問題の総合的な視野に立つてはじめてその目的を達成できるものである。そして、一国の安全保障が確保されるなによりも重要な基礎は、その国民の一人一人が、確固とした平和への決意とともに、国の平和問題を正しく認識、理解し、たえず独善と偏狭を排して近隣諸国の公正と信義を信頼しつつ、社会体制の異同を越えて、これらと友好を保ち、そして、前記した国内、国際諸問題を考慮しながら、安全保障の方法を正しく判断して、国民全体が相協力していくこと以外にありえないことは多言を要しない。そしてこのような立場に立つたとき、はじめて国の安全保障の手段として、あたかも、軍事力だけが唯一必要不可なものであるかのような、一面的な考え方をぬぐい去ることができるのであつて、わが国の憲法も、このような理念に立脚するものであることは勿論である。そして、このような見地から、国家の自衛権の行使方法についてみると、つぎのような採ることのできる手段がある。つまり甲第一七九号証、証人田畑茂二郎の尋問結果からは、自衛権の行使は、たんに平和時における外交交渉によつて外国からの侵害を未然に回避する方法のほか、危急の侵害に対し、本来国内の治安維持を目的とする警察をもつてこれを排除する方法、民衆が武器をもつて抵抗する群民蜂起の方法もあり、さらに、侵略国国民の財産没収とか、侵略国国民の国外追放といつた例もそれにあたると認められ、また証人小林直樹の尋問結果からは、非軍事的な自衛抵抗には数多くの方法があることも認めることができ、また人類の歴史にはかかる侵略者に対してその国民が、またその民族が、英知をしぼつてこれに抵抗をしてきた数多くの事実を知ることができ、そして、それは、さらに将来ともその時代、その情況に応じて国民の英知と努力によつてよりいつそう数多くの種類と方法が見出されていくべきものである。そして前記した国際連合も、その創立以来二十有余年の歴史のなかで、いくつかの国際粉争において適切な警察行動をとり、双方の衝突を未然に防止できた事実もこれに付加することができる。

 このように、自衛権の行使方法が数多くあり、そして、国家がその基本方針としてなにを選択するかは、まつたく主権者の決定に委ねられているものであつて、このなかにあつて日本国民は前来記述のとおり、憲法において全世界に先駆けていつさいの軍事力を放棄して、永久平和主義を国の基本方針として定立したのである。

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