憲法重要判例六法F

憲法についての条文・重要判例まとめ

カテゴリ: 13条 新しい人権

環境権(5)長良川河口堰建設差止訴訟・古屋高裁平成10年12月17日・岐阜地裁6年7月20日

 目次

【名古屋高裁平成10年12月17日・長良川河口堰建設差止訴訟】

事案の概要

 原告(岐阜県海津郡海津町、岐阜県武儀郡板取村、岐阜市及び三重県桑名市の住民二〇人)は、長良川と揖斐川との合流地点付近に建設される長良川河口堰について被告(水資源開発公団)に対し、人格権、環境権等に基づく建設差止請求をした。

要旨

集団的権利としての環境権、安全権なるものは、民事上の請求の具体的な根拠となる権利と解することができず、また、良好な自然環境の享受を目的とする環境権は、絶対的な権利に基づく民事差止等の請求の法的根拠としては十分とはいえない。

 

判旨

第一 本件各請求の法的根拠の有無

一 はじめに

 控訴人らは、当審において、本件各請求の根拠として、環境権及び安全権なる権利を主張する。そこで、これらの権利をもって、民事訴訟における建設差止請求、建造物の収去請求、その運用差止請求の法的根拠とし得るか否か等、本件における各差止請求権ないし収去請求権についての法律上の根拠の有無につき検討する。

二 集団的権利としての環境権、安全権

1 自然環境を良好に保つ利益は、社会生活上保護されるべき重要な利益であるところ、控訴人らは、右利益に関する権利を、地域住民らによって共有される集団的な(さらには世代的な)権利としての環境権であると構成して主張する。

 しかし、このような集団的権利は、権利者の範囲が明確ではなく、権利の客体である環境の内容が多様で、その侵害が権利主体たる各個人に及ぼす不利益の内容や程度も極めて多様であるので、通常民事訴訟において、そのような集団的権利を主張する場合、当事者が、自己に帰属する共有持分を越えて当事者以外の者に帰属する権利利益までも主張する点については、当該当事者の当事者適格を肯定するのに困難を生じるなど、通常民事訴訟を主観訴訟とみる伝統的な考え方やこれを前提とする実体私法の法解釈と必ずしも適合しないといった問題が生じる。そして、現状において、そのような問題点が未だ十分に解決されているとはいえず、このような集団的権利をもって、直ちに民事上の請求の具体的な根拠となる権利であると解することはできない。

2 また、控訴人らは、住民共有の集団的な(さらには世代的な)権利である安全権なる権利を主張するが、右1と同様、このような集団的権利を民事上の請求の具体的な根拠となる権利であると解することはできない。

三 民事差止等の請求と良好な自然環境の享受を目的とする環境権

1 民事上の請求として、直接の契約関係にない他人に対し、その故意過失を問わずに、建造物の建設差止、収去ないしその運用の差止等を求めるといった、物権的請求権類似の妨害排除ないし妨害予防請求権を行使するには、自己の不可侵性のある権利(絶対権)が受忍限度を越えて侵害され又は侵害されるおそれがあることを根拠とすべきであると解される。

2 ところで、控訴人らの環境権に関する主張は、長良川の自然環境の保護を訴え、控訴人らを含む地域住民らの、良好な自然環境を享受する利益が本件堰の建設により侵害されることを問題とするものであるから、その主張する環境権の権利内容(目的)は、良好な自然環境の享受にあるとみられる。

 しかし、自然環境については、一般的にはこれを保護することに価値があるといい得るにしても、具体的な場面において、個人個人の自然環境に関する考え方や利害の内容、程度は多種多様であり、自然環境の保全の必要性、保護の程度、保護の態様等を決するには、関係する多数の者の利害や意見の調節を要するものであり、ある個人が最も望ましいと考える自然環境を他の者は必ずしも最適とは考えず、また、ある自然環境の保護行為が、利害関係人の財産権、活動の自由、開発利益の享受等を制約する、といった事態が生じ得るものであって、自然環境に対する侵害の問題は、人格権侵害と比較する場合はもちろん、個人の居住環境に対する侵害の場合に比しても、一段と、利害や意見の調整が広範で複雑なものとなるといえる。それゆえ、ある個人の自然環境を享受する利益が他の者の利害や意見と合致しない場合に、一般的に自然環境を享受する利益を主張する者が優先し、他の者に対しその利益を侵害しないことを求めるべき法的地位を有するということはできない。

  3 そうすると、個人個人の自然環境を享受する利益を含めて環境権という権利を構成し得たとしても、そのような権利につき、立法的手当もなしに無限定に不可侵性、絶対性を付与することはできないこととなる。したがって、良好な自然環境の享受を目的とする環境権は、絶対的な権利に基づく民事差止等の請求の法的根拠としては十分とはいえない、と解さざるをえない。

四 本件各請求の法的根拠

1 以上のように控訴人らの主張する環境権、安全権は、それ自体としては民事差止等の請求の法的根拠とはならないと解される。もっとも、本件堰の事故時における危険や本件堰周辺の自然環境の劣悪化等が、ひいては、物権、人格権(個人の生命、身体、健康、自由、生業、生活利益等に関する権利)など、他の絶対権の侵害に結びつく場合には、その絶対権に対する法的保護を通じて、個人個人の安全な生活を営む利益や良好な自然環境を享受する利益も事実上保護され得ると解される。

2 ところで、本件における控訴人らの環境権、安全権に関する主張事実の内容は、控訴人らの個々の生命、身体、健康等が侵害され、又は、侵害される危険があることを包含するとみられ、その意味で人格権侵害に関する主張がなされていると解される。そうすると、控訴人らの本件各請求は、環境権ないし安全権に基づく請求としてではなく、本件堰による人格権の侵害を予防ないし排除する趣旨の請求(人格権に基づく差止請求、妨害排除請求ないし原状回復請求等)として、その法的根拠を肯定し得ることとなる。

 

 

【岐阜地裁6年7月20日・長良川河口堰建設差止請求事件】

要旨

一 公共事業の差止請求が認められるための要件

二 人格権又は環境権を河口堰の建設差止請求の法的根拠とすることの可否

三 科学裁判における立証のあり方、河口堰建設事業を実施する者の社会的責務等について判示し、堰の安全性、事業の公共性、環境への配慮等が肯認されるとして、河口堰の建設差止請求が棄却された事例

 

判旨

第三 本件堰建設の差止請求

 一 差止請求の要件

  1 一般原則

 原告らは、本件堰建設の差止めを求めている。

 およそ、公共的な目的を有する事業の差止請求が認容されるためには、差止めの対象とされた事業の実施によって、請求者の排他的な権利が侵害され、又は将来侵害されるおそれがあり、その侵害行為によって請求者に回復し難い明白かつ重大な損害が生じ、その損害の程度が、当該事業によってもたらされるべき公共の利益を上回る程のものであって、その権利を保全することがその事業を差止めることによってのみ実現されることを高度の蓋然性をもって立証することを要するものと解すべきである。

 しかも、当該事業によってもたらされる公共の利益を犠牲にしても、なおかつその事業を差止めることによって請求者の権利を保全することが、社会、公共の見地からも容認されるものであることをも必要とすると解するのが相当である。

  2 差止請求の根拠

 原告らの主張するところによれば、原告らは、財産権、人格権又は環境権に基づいて、本件堰の建設差止めを求めるものである。

   (一) 物権及び人格権等

 まず、財産権(物権)はもとより、人格権(生命、身体、自由、名誉等の重大な人格的利益に関する権利)も、排他性を有する権利であるから、これらの権利を侵害された者は、当該権利に基づいて、侵害者に対し、右のような一定の要件の下に、現在及び将来の侵害行為の排除、差止めを求めることができることは明らかである。

 なお、原告らは、これらに加え、治水上安全な生活を営む権利であって人格権と財産権を包摂する権利、あるいは村落共同体において生活を営む権利であって人格権と財産権を包摂する権利といったものをも差止請求権の根拠として主張している。しかしながら、これらは、実体法上明文の根拠を欠く上、これらを人格権や財産権を離れた別個の権利として認めるべき実質的理由も見出し難いから、差止請求の根拠としての私法上の権利として認めることはできない。

   (二) 環境権

 (1) 原告らの環境権に関する主張の要旨は、請求原因第五の六1のとおり、現在、長良川が一級河川としては日本で数少ない自然の残った河川であって、その水質が比較的良好であること、広範な汽水域の存在等によって多種多様な生物の生息が可能になっていること等により、流域住民が長良川から多くの恩恵を受けているとの前提の下に、このような良好な自然環境を享受し得る利益を、環境権として、その侵害に対して差止めという形での法的保護を認めるべきであるというのである。

 (2) このような、原告ら主張の環境権について、実体法上明文の規定がないことは、被告の指摘するとおりである。差止めは、相手方に作為又は不作為を命じてその権利の行使を直接制約するという強力な手段であることにかんがみれば、憲法一三条及び二五条並びに環境基本法(平成五年法律第九一号)三条及び八条をもって、環境権を私法上の権利として認める根拠とすることはできない。すなわち、憲法一三条及び二五条の規定は、いずれも国の国民一般に対する責務を宣言した綱領的規定であって、個々の国民に対して直接に具体的権利を賦与したものと解することはできない。また、環境基本法は、環境の保全の基本理念を宣言した上(三条)、この理念に則り、国及び地方公共団体の行う環境の保全のための施策について総合的な指針及び枠組みを示すことを目的とする基本法であって、同法八条の規定も、事業者に対し、右理念に則って、一般的、抽象的な責務(社会的責任)を負わせたものにすぎず、これにより個々の国民に対して直接に事業者に対する具体的権利を賦与したものではないと解するのが相当だからである。

 (3) なお、環境の破壊とみられるような行為については、これにより、住民の生命、身体の安全に関する利益が侵害され、又は侵害されるおそれのある場合には、前示のような一定の要件の下に人格権に基づく右行為の差止めを求めることができると解すべきであるから、当該住民は、私法上は、この限度において環境の保全の目的を達し得るものということができる。

環境権(4)女川原発訴訟・仙台地裁平成6年1月31日・仙台高裁平成11年3月31日

  目次

【仙台地裁平成6年1月31日・女川原発訴訟】

要旨

一 人格権又は環境権に基づく原子力施設の建設・運転の差止請求の可否

二 原子炉施設の建設・運転差止訴訟における原子炉施設の安全性の意義

三 原子炉施設の建設・運転差止請求訴訟における原子炉施設の危険性についての立証責任のあり方、立証の方法・程度等

四 原子炉施設の安全性が肯認されるとしてその建設・運転の差止請求が棄却された事例

 

判旨

第二章 差止請求権の根拠

原告らは、人格権又は環境権に基つき本件原子力発電所一号機の運転差止め及び本件原子力発電所二号機の建設差止めを求め、被告らは、人格権又は環境権は実定法上の根拠がなく、人格権又は環境権に基づく差止請求は権利保護の資格を欠くとして、本件訴え却下を求めているので、この点について判断する。

 およそ、個人の生命・身体が極めて重大な保護法益であることはいうまでもなく、個人の生命・身体の安全を内容とする人格権は、物権の場合と同様に排他性を有する権利というべきであり、生命・身体を違法に侵害され、又は侵害されるおそれのある者は、人格権に基づき、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止めを求めることができるものと解するのが相当である(最高裁判所昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日大廷判決・民集四〇巻四号八七二頁参照)。

 したがって、人格権に基づき本件原子力発電所一号機の運転差止め及び本件原子力発電所二号機の建設差止めを求める本件請求は、民訴法上請求権としての適格性を有することは明らかであるから、本件訴えは適法というべきである。

 また、原告らが主張する環境権が実定法上明文の根拠のないことは被告の指摘するとおりではあるものの、権利の主体となる権利者の範囲、権利の対象となる環境の範囲、権利の内容は、具体的・個別的な事案に即して考えるならば、必ずしも不明確であるとは速断し得ず、環境権に基づく本件請求については、民訴法上、請求権として民事裁判の審査対象としての適格性を有しないとはいえないから、本件訴えは適法であるというべきである。

 しかしながら、実体法上の請求権として是認し得る権利であるか否かについては、更に検討を要するものというべきであるが、原告らの環境権に基づく本件差止請求も、本件原子力発電所が原告らの環境に対し運転又は建設の差止めを肯認するに足りるほどの危険性があるか否かという点にかかるものということができる点においては、人格権に基づく請求と基本的には同一であるから、以下、本件原子力発電所の危険性の有無について判断することにする。

 

【仙台高裁平成11年3月31日・女川原発訴訟】

要旨

1 人格権又は環境権に基づく原子力発電所の運転差止請求の可否

2 運転差止請求訴訟における原子力発電所の安全性の意義

3 運転差止請求訴訟における原子力発電所の危険性の立証責任

4 原子力発電所の安全性が肯認定されるとしてその運転差止請求を棄却した1審判決が維持された事例

 

判旨

第一 原子力発電所施設の危険性の判断手法について

一 環境リスク

 控訴人らは、原子力発電所のように、一度大事故が起こると、質・量共に、他の種類の事故と比べ、けた違いに深刻な結果を招く場合には、いわゆる環境リスクの問題として、国家や法がそのリスクを防止する機能を発揮すべく、差止めの判断基準もこれを前提として設定されるべきである旨主張する。

 確かに、原子力発電所の事故について、例えば、いわゆるシビアアクシデントのレベルのものを想定すると、その結果の深刻さはいうまでもないところである。しかし、原子力発電所の運転も、これに関する事故の発生の危険性も、法律的に評価するときは、結局、これを社会的かつ有限な事象としてとらえざるを得ないのであって、仮に、控訴人らの主張が原子力発電所の事故発生の具体的な危険性の有無を超えて、論理的ないし抽象的・潜在的なレベルでの危険性が少しでもあれば一切原子力発電所の建設・運転が許されないという判断基準を求めるものであれば、採用することができない。

 もっとも、原子力発電所の危険性の有無を判断するに当たっては、原子力発電所の事故の深刻さという特殊性を念頭に置き、他の社会的な事故との比較においても、十分に安全側に立った慎重な認定・評価をする必要があるということは否定できない。

 同様に、原子力発電所の事故の深刻さを前提として、原子力発電所の危険性と必要性の兼ね合いについてみると、当該原子力発電所が周囲の住民等に具体的な危険をもたらすおそれのある場合には、いかにその必要性が高くとも、その建設・運転が差し止められるべきことはいうまでもない。また、逆に、以上のような原子力発電所の特殊性にかんがみ、当該原子力発電所の必要性が著しく低いという場合には、これを理由としてその建設・運転の差止めが認められるべき余地があるものと解するのが相当である。

二 「多重防護思想」の問題性

 控訴人らは、原子力発電所のような巨大システムは、多数の部品・機器・系統などの構成要素が複雑に絡み合い一つの機能を実現するものであり、その実用化は、個々の部品等の故障頻度の低下と相互作用の解明等による多重防護体制に依拠しているが、実用化ということは、事故の発生をゼロにすることではなく、経済的に成り立つ範囲で低下させるにすぎず、そこでいう多重防護思想も、反面では、発生確率は低いが起こり得る重大事故を切り捨てるものにほかならない旨主張する。

 確かに、巨大システムにありがちな弱点、問題点は、控訴人ら指摘のとおりであるが、抽象的には甚大な危険を伴い得るシステムであっても、法的評価の場面において、社会観念上無視し得る危険の許容限度を想定することが可能かつ必要であることは原判決説示(原判決六四頁九行目から六七頁六行目まで)のとおりであり、その関係で、多重防護の考え方自体を否定することは相当ではない。

 もっとも、原子力発電所の運転に従事する者としては、かかる多重防護のシステムも現実には万能ではないとの意識をもち、そのことを前提に、絶えず防護体制の改良・修正に意を用いるとともに、個々の場面・段階での対応に万全を期する必要があるというべきである。

三 試験による機能確認の問題性

 控訴人らは、高度化されたシステムにおいては、細部の故障が全体に影響を及ぼす可能性があり、しかも、その故障は、必ずしも、事前の試験における「厳しい条件」下で生ずるとは限らないところ、それにもかかわらず、安全審査における解析により、設計が妥当で、安全性が確保し得ると安易に判断することは重大な誤りである旨主張する。

 確かに、事前の試験条件は完全無欠ではあり得ない。しかし、想定外の事象が生じ得るとしても、問題は、その程度、態様であり、本件安全審査における試験条件の設定について検討しても、直ちに対応が困難で、かつ、容易に重大な結果に至る想定外の事象が生ずるとは考え難い。

四 安全審査の位置づけ

 控訴人らは、安全審査の合理性や原子力委員会の組織・性格のみで原子力発電所の安全性が推認されるというのは不当であり、少なくとも、具体的な設計・施工の安全性は、安全審査とは別に被控訴人において立証されるべきである旨主張する。

 確かに、安全審査によって確認されるのが直接的には基本設計レベルでの安全性にとどまるとの控訴人らの指摘は誤りではないが、当該安全審査の内容等により、具体的な設計施工の安全性が全体として推認される場合があるということまで否定されるべきではなく、本件の場合、かかる推認が働くと評価すべきことは原判決説示(原判決一一五頁二行目から一五〇頁末行まで)のとおりである。もっとも、原子力発電所における事故の重大性にかんがみれば、具体的な建設・運転段階における個々の問題性について、その頻度・程度などのいかんによっては、これを厳しく吟味すべき場合があることは当然であって、右のような推認が働くとはいっても、その推認の程度がそれほど高いものと解すべぎではなく、当該原子力発電所や他の原子力発電所等(原子力関連施設を含む。以下同じ。)のトラブルや運転状況のいかんによって、右推認が覆される場合があることは別問題である。

第五 原子力発電所の必要性及び関連事情について

一 原子力発電所の必要性

 《証拠略》によれば、原審口頭弁論終結後の原子力発電所の必要性に関する事情は、大要、次のとおりであると認められる。

1 我が国の使用電力量は、全国的にみても、また、被控訴人の供給に係る分についてみても、なお継続的に増加傾向にあり(被控訴人の策定する供給計画における電力需要の年平均増加率も、平成九年度計画(平成七年度から平成一八年度までの分)では、一・九パーセントと想定しており、同計画中の八月最大電力需要は、平成一二年度が一三五五万キロワット、平成一五年度が一四二一万キロワット、平成一八年度が一四八七万キロワットと見込まれている。かかる電力需要の増加傾向を、国民多数の理解を得てここ数年のうちに押し止め、更に減少に転じさせることは、省エネルギー政策等が実施されているにもかかわらず、現時点での社会状勢や国民の生活状況をみる限りは、いわゆるピーク・カット(真夏期における最大電力需要の削減)のレベルに限局しても、多大の困難性を伴うとみられる。

2被控訴人の平成八年度の電源構成実績は、概数で、水力一六パーセント、石炭火力一八パーセント、石油火力一二パーセント、ガス火力二七パーセント、原子力二四パーセント、地熱その他三パーセントとなっている。被控訴人は、このほか、風力発電、太陽光発電などの新エネルギー発電の開発をも手掛けているが、少なくとも、現在の段階で、原子力発電に取って代われるほどに、電源構成中のパーセンテージを短期間で飛躍的に増大させ得る発電方法は見いだせない状況にある。

3被控訴人の前記供給計画による平成九年度の最大電力需要は一二八〇万キロワットであるが、被控訴人の同時期の供給力は一四〇九万キロワットであり、これから本件原子力発電所一、二号機の供給量(一二九万四〇〇〇キロワット)を差し引くと、同時期においては、いわゆる供給予備力が全くないということになる。

以上のとおり、原子力発電所の必要性を取り巻く状勢は、原審口頭弁論終結後も、少なくとも、原子力発電所による発電の必要性を否定ないし著しく減ずる方向へ働いているとは認め難い。

 ところで、原子力発電所の必要性・経済性と危険性の兼ね合いについて付言するに、右にみたように、少なくとも、現時点において、原子力発電所による一定の電力供給力の確保という必要性は否定できないが、さればといって、原子力発電所の運転上具体的な危険が生ずることも許されない。したがって、原子力発電所の必要性と安全性の確保は、いずれも否定することができない前提条件と考えられるのであるから、原子力発電所の運転に関しては、必然的に、経済性の要請は後退せざるを得ないというべきてある。そうすると、程度問題ではあるが、原子力発電所を運転する側で、経済性を優先させる余り、稼働率を重視することがあれば、それは問題といわなければならず(なお、これに関連するが、原子力発電所がスクラム等で停止した場合でも、厳密にいえば、停止したこと自体が問題なのではなく、どのような原因で停止したのか、また、停止までの経過がどうであったのかが重要なのであり、原子力発電所を運転する側において、原子力発電所を停止すること自体にちゅうちょしたり、後ろめたさを感じたりすべきではなく、その経過と原因を徹底的に究明して事後の運転上の教訓にするとともに、できるだけ早い時期にその結果を必要かつ十分に開示して一般の理解を求めるべきである。)、他方、原子力発電所の運転を批判する側も、単に、経済性や能率性に劣るという理由だけで、いまこの時期において、直ちに原子力発電所の全廃を唱えるのも相当とはいい難い(もとより、個々の原子力発電所のうち、具体的な危険を生じている原子力発電所の優先的な廃止を求めることとは別問題である。)。

二 原子力発電所による社会的損失

 控訴人らは、いわゆる核燃料サイクルがこれを機能させるための二本の柱である再処理工場と高速増殖炉の事故により破綻しており、また、仮に再処理を行ったとしても、処理後の高レベル廃棄物の処分方法について具体的な見通しは全くなく、これに伴って、本件原子力発電所でも、早晩、使用済燃料の処理に行き詰まることは目に見えており、かかる事態を社会的に放置することは許されない旨主張する。

 確かに、核燃料サイクルに関して、現在、控訴人ら指摘のような問題点が大きく浮上してきていることは否定し難く、長期的・将来的には、それが本件原子力発電所の運転に影響を及ぼす可能性があり、特に、廃棄物処理に関しては、高レベル廃棄吻の処分の見通しが立たない状況が続けは、いきおい、本件原子力発電所をはじめとする各地の原子力発電所の使用済核燃料について、行き場のない状況が深刻化し、周辺住民の差止請求をまたずとも、実際上、原子力発電所が稼働を停止ないし縮小せざるを得ない事態も想定される。

 しかし、かかる核燃料サイクルに関する問題は、少なくとも、当面の全体原子力発電所の運転状況に影響を及ぼす事柄とはいえず、したがって、本訴における判断、すなわち、現時点において控訴人らに本件原子力発電所の運転の差止めを求める権利があるかどうかの点を左右するものとはいい難い。この点の問題性への対処は、原子力発電所の必要性と国民一人一人の子孫に残す環境を含めた現在及び将来における生活の在り方を見すえた上での社会的な決断と選択にゆだねざるを得ないというべきである。

第六 本件差止請求の結論的な当否について

以上検討したところを総合すると、本件原子力発電所については、現時点において、一定の運転の必要性が認められる一方、これによって、控訴人らに被害をもたらす具体的な危険性があるとは認め難く、したがって、本訴請求は理由がない。

 ちなみに、右判断は、飽くまでも、現時点における差止請求権の存否についてのものであり、今後の本件原子力発電所及び他の原子力発電所等における運転状況ないしトラブル発生の状況、原子力発電所の必要性をめぐる各種の状勢の変化(前示のとおり、原子力発電所の特殊性にかんがみ、原子力発電所の必要性自体が現在に比して著しく減少すれば、これを理由としてその建設・運転の差止めが認められる余地があると解される。)などにより、将来において、本件原子力発電所の長期的ないし一般的な差止め(仮処分を含む。)を肯定すべき事態が生ずるかどうかは、別個の事柄というべきである。

 

 

環境権(3)最大昭和56年12月16日・金沢地裁平成3年3月13日・小松基地騒音差止請求等

 

  目次

【最大昭和56年12月16日・大阪空港訴訟】

要旨

人格権または環境権に基づく民事上の請求として一定の時間帯につき航空機の離着陸のためにする国営空港の供用の差止を求める訴は、不適法である。

 

判旨

所論は、要するに、本件訴えのうち、被上告人らが大阪国際空港(以下「本件空港」という。)の供用に伴い航空機の発する騒音等により身体的・精神的被害、生活妨害等の損害を被つているとし人格権又は環境権に基づく妨害排除又は妨害予防の民事上の請求として一定の時間帯につき本件空港を航空機の離着陸に使用させることの差止めを請求する部分は、その実質において、公権力の行使に関する不服を内容とし、結局において運輸大臣の有する行政権限の発動、行使の義務づけを訴求するものにほかならないから、民事裁判事項には属しないものであり、また、本件空港に離着陸する航空機の騒音等のもたらす被害対策としてはいくつかの方法があつて、そのいずれを採択し実施するかは運輸大臣の裁量に委ねられている事項であるにもかかわらず、そのうちの一方法にすぎない一定の時間帯における空港の供用停止という特定の行政権限の行使を求めるものである点において、行政庁の行使すべき第一次的判断権を侵犯し、三権分立の原則に反するものというべきであるから、右請求を適法として本案について審理判断した原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違背がある、というのである。

 

 

【大津地裁平成元年3月8日・琵琶湖総合開発計画工事差止請求事件判決】

要旨

上水道受給者が求めた下水道処理場建設工事差止請求について、その請求の根拠として憲法一三条・二五条に基づく環境権なる権利を主張することができないとされた事例。

 

判旨

 3 環境権

 原告らは、本件差止請求の根拠として、環境権を主張し、その成文法上の根拠として、憲法一三条、二五条を、その内容として、権利主体は原告らを含む日本人各人であり、その共有に属し、その権利内容は、琵琶湖の自然的、社会的、文化的環境のすべてを含むとし、差止の要件は、良好な環境を悪化させることとするので、かかる環境権なるものが認められるか否かについて検討する。

 まず、1、成文法上の根拠についてみるに、浄水享受権のところで憲法一三条、二五条について述べたのと同様の理由で、私法上の権利の発生を根拠づけ難い、2、権利主体についてみるに、日本人各人の共有に属するというが、その具体的意味、内容は何等主張されず不明であり、また、本件では原告ら八名が提訴しているが、かかる極く一部の者が提訴できる根拠についても何等主張されず不明である。3、権利内容も、環境という漠然としたもので明確でなく、4、良好な環境を悪化させるという差止の要件も、価値概念であり、その内容を明確に一義的にとらえることははなはだ困難である。

 以上のように、環境権なる権利は、実定法上の根拠もなく、その内容、要件等が抽象的で、不明確である等の多くの難点が存し、到底認めることはできない。環境の問題は、私法上の権利義務についての紛争を解決するために設けられた民事訴訟ではなく、国民ないし住民の民主的選択に従い、立法及び行政の制度を通じて公法的規制により処理されるべきものである。

 

【金沢地裁平成3年3月13日・小松基地騒音差止請求、ファントム戦闘機離着陸差止等請求事件】

要旨

自衛隊機の離着陸差止等請求および損害賠償請求に対して、人格権の侵害の問題として把握することができ、環境権ないし平和的生存権について判断する必要はない。

 

判旨

 一 人格権、環境権及び平和的生存権等、本件各請求の根拠について

 被告は、原告らが本件離着陸差止等請求及び損害賠償請求の根拠として主張している人格権、環境権及び平和的生存権は、その要件及び効果が不明確であり、実定法上の根拠を欠く権利であって、それ自体としては本件各請求の根拠とならない旨主張するので、まず、前提問題としてこの点について判断しておくこととする。

  1 人格権について

 原告らが本訴において人格権の侵害であるとして主張しているものの実体は、騒音、振動等によって日常会話や睡眠等の人間が生活していくうえで当然守られるべき必須条件を侵害されたというものであり、更にはかかる騒音等によって難聴等の身体的被害が生じたというものであるところ、人の生命、身体への侵害が不法行為となることは、すべての権利の侵害が不法行為となることを規定した民法七〇九条や、身体、自由、名誉等に対する侵害が不法行為となることを規定した同法七一〇条に照らして疑いないところである上、直接このような規定の存しない生活上の利益、例えば円滑に他人と会話を交わし、休養や睡眠をとる等、平穏な日常生活を享受する利益も、人たるに値する生活を営むためには不可欠であり、かつ、かかる利益も一般的に差止請求権や損害賠償請求権の根拠となることが肯定されている物権や準物権等の財産権以上に重要なものということができる。そして、これらの利益が古典的な物権等に対する侵害として保護されるとは限らない以上、右生命、身体等を含めた人格に関する利益を人格権と総称して法的保護の対象とし、その侵害行為に対する差止請求権及び損害賠償請求権を肯認するのが相当である。被告が右権利を否定する根拠として主張する概念の不明確さとこれに伴う法的不安定さは、具体的事案を検討する過程において、侵害に係る利益の具体的内容を個別的に特定し、これが法的保護に価することを明確にすることによって回避できると考えられるから、右は人格権概念を否定する決定的な理由となるものではない。

  2 環境権について

 原告らが主張する環境権とは、良き生活環境を享受し、かつこれを支配しうる権利であるということであるが、このような抽象的内容にとどまる限り、実体法上の根拠が皆無である(憲法一三条や二五条によって、直ちに、私法上の権利としての性格が与えられたと解することはできない。)のみならず、その要件、効果等が明確でないなど、権利として未成熟であって、法的権利として確立したものと認めることはできない。原告らが主張する環境利益の侵害は、これが個人の具体的、基本的生活利益の侵害となる限り、前記のような意味における人格権の侵害の問題として把握することができ、そのなかで法的保護をはかることができるものであり、現時点における法解釈及び本件の解決としては、これをもって足りる。

  3 平和的生存権について

 原告らの主張する平和的生存権とは、平和的手段によって戦争及びその危険の存しない良好な環境を享受し、かつこれを支配する権利であって、軍事施設の存在や軍事行動によって、右平和的な環境が侵害されるときはこれを排除することができ、その根拠は直接的には憲法前文にあり、憲法九条、一三条にも根拠を有する、というものである。

 日本国憲法が国民主権主義とともに国際的恒久平和主義の理念を基盤としていることは、その前文、第九条等の記載に照らして明らかであり、この点は異論のないところといえる。すなわち、憲法前文第二段を見るに、第一文では、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とその決意を宣明し、第二文では、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」と望ましい国際社会とその中における日本の立場と希望を宣明し、更に第三文では、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とあるべき世界像を確認している。これが敗戦を契機として「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」(同前文第一段)たことと補強し合って、国際的恒久平和主義の理念を力強く宣明するものであることは、疑う余地がない。憲法は、これを単なる「崇高な理想と目的」として定めたものではなく、「日本国民が国家の名誉にかけて全力をあげて達成すべきもの」(同前文四段)と定めたものである。そして、この見地から、憲法は、第二章の「戦争の放棄」(九条)と、九八条二項の条約及び確立された国際法規の遵守を規定したものであることも明らかである。

 かくして、日本国憲法上、平和主義が、国民主権主義と基本的人権の擁護(憲法第三章及び九七条)とともに、三大原理ないし三大理念というべきものを構成していることは明らかであるが、そうであるからといって、憲法が原告らが主張するような私法上の実体的権利としての「平和的生存権」を定めているかどうかは、右の憲法前文全体の文脈に照らしても甚だ疑わしいといわざるを得ない。けだし、例えば、その第二段第三文を見ても、その文意からして、「平和のうちに生存する権利」が日本国民だけの「権利」を定めたものでないことは明らかであるところ、この点を措いて文章を素直に読んでも、これが個々人の私法上の実体的権利を定めたものと読み取ることは到底困難である。そして、そもそも、憲法前文や九条から明らかな右平和主義が、どのような形態の紛争、訴訟においてどのような態様で裁判規範として機能し作用すべきかは、それ自体検討すべき点が多いが、平和主義に係るこれらの規定ないし記述が優れて公法的な性格を有する規範であることは明らかであり、前示の憲法の記述、構成などに照らしてこれが公法秩序上、特に政治規範、政治理念として最大限に尊重されるべきことは当然としても、一般私法秩序に係る紛争、訴訟において平和主義ないし平和的生存権が主張される場合にあっては、そこにいう「平和」の概念が、個々人の私法上の権利の目的、対象としては余りにも抽象的であり、かつ多義的であるから、このような内容、趣旨の「平和的生存権」は、私法上これを根拠として一定の給付を請求しうるような具体的な権利と見ることができないものというほかない(いわゆる百里基地訴訟についての最高裁判所平成元年六月二〇日第三小法廷判決・民集四三巻六号三八五頁参照)。

 加えて、後に被告の主張する統治行為理論に関して論ずるとおり、本件事案は、被告の設置・管理する飛行場において被告ないし被告の承諾を受けた米国の飛行機が離着陸しているという、原告らの私法上の権利関係とは直接関係がない事実行為があるにすぎないものである。もとより、これから生じる騒音等によって原告らが日常生活上甚大な被害を受けているという主張を契機として、右設置・管理の「瑕疵」の存否とこれに伴う損害賠償請求の当否や、一定の差止請求の可否・当否が検討されることになるのであるが、その際問題とされるのは、騒音等により原告らが日常生活上受けている被害の具体的な内容、程度であって、個々人としての原告らの「平和」(このような表現自体奇妙なものではあるけれども)が侵害されたかどうかではない。すなわち、例えば騒音について見るとき、その発生源たる飛行機の離着陸、運航の法的根拠が何であるかによって、あるいは、その飛行機が自衛隊機であるか民間の一般旅客機であるかによって、原告らの受ける日常生活上の被害の内容、程度が増減左右されることはあり得ないのである。したがって、原告らが主張するような「平和的生存権」を憲法が規定ないし内包しているかどうかは、本件の結論を何ら左右しないものというべきである。本件にあっては、原告らの請求の根拠として前示人格権だけを認めれば足りるものであり、本件を離れて、憲法が平和的生存権なるものを規定しているか、あるいはこれが憲法一三条の幸福追求権に含まれているかどうかについては判断する必要を見ない。

 

 

【最判平成5年2月25日・厚木基地騒音公害訴訟上告審判決】

要旨

国が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約に基づきアメリカ合衆国に対し同国軍隊の使用する施設及び区域として飛行場を提供している場合において、米軍機の運航等に伴う騒音等による被害を主張して人格権、環境権に基づき、国に対し右軍隊の使用する航空機の離着陸等の差止めを請求することはできない。

 

判旨

 所論は、上告人らの本件訴えのうち、アメリカ合衆国軍隊(以下「米軍」という。)の使用する航空機(以下「米軍機」という。)の一定の時間帯における離着陸等の差止め及びその余の時間帯における音量規制を請求する部分(以下この部分の請求を「本件米軍機の差止請求」という。)は、本件自衛隊機の差止請求と同様、被上告人に対して不作為を求めるものであり、この場合においてその相手方が厚木飛行場の設置・管理者である被上告人となるのは自明のことであって、米軍の本件飛行場の使用権限が条約によって与えられているという事実は被上告人と米軍との間の内部関係にすぎないから、被上告人に米軍機の運航を規制、制限する権限がないことなどを理由に本件米軍機の差止請求に係る訴えを却下すべきものとした原審の判断は、憲法三二条に違反し、裁判所法三条の解釈適用を誤ったものである、というのである。

 しかしながら、上告人らは、米軍機の運航等に伴う騒音等による被害を主張して人格権、環境権に基づき米軍機の離着陸等の差止めを請求するものであるところ、上告人らの主張する被害を直接に生じさせている者が被上告人ではなく米軍であることはその主張自体から明らかであるから、被上告人に対して右のような差止めを請求することができるためには、被上告人が米軍機の運航等を規制し、制限することのできる立場にあることを要するものというべきである。

 これを本件についてみると、原審の確定したところによれば、本件飛行場は、原判決の引用する一審判決別冊第1図青枠部分の区域からなり、被上告人が米軍の使用する施設及び区域としてアメリカ合衆国に提供しているものであって(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(昭和三五年条約第六号)六条参照)、昭和四六年六月三〇日に我が国とアメリカ合衆国との間で締結された政府間協定により、同年七月一日以降、()前記第1図の緑斜線部分は、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定(昭和三五年条約第七号)二条四項(a)に基づき、米軍と我が国の海上自衛隊の共同使用部分とされ、()同図赤斜線部分は、海上自衛隊の管轄管理する施設となったが、同頃(b)の規定の適用のある施設及び区域として米軍に対し引き続き使用が認められ、()同図黄色部分は、引き続き米軍が航空機を保管し整備等を行うため専用している。このように、

 本件飛行場に係る被上告人と米軍との法律関係は条約に基づくものであるから、被上告人は、条約ないしこれに基づく国内法令に特段の定めのない限り、米軍の本件飛行場の管理運営の権限を制約し、その活動を制限し得るものではなく、関係条約及び国内法令に右のような特段の定めはない。そうすると、上告人らが米軍機の離着陸等の差止めを請求するのは、被上告人に対してその支配の及ばない第三者の行為の差止めを請求するものというべきであるから、本件米軍機の差止請求は、その余の点について判断するまでもなく、主張自体失当として棄却を免れない。論旨は採用することができない。

環境権(2)

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【鹿児島地裁昭和47年5月19日・し尿処理施設増設禁止仮処分申請事件 】

要旨

憲法二五条一項・一三条一項から個人の環境権なる権利を認めることはできない。

 

判旨

 憲法第二五条一項、第一三条第一項の規定からただちに申請人らが主張するような内容の環境権なる権利を各個人が有するということには、各個人の権利の対象となる環境の範囲(環境を構成する内容の範囲、およびその地域的範囲)、共有者となる者の範囲のいずれもが明確でないという点を考えるとたやすく同調し難い。したがつて、本件増設施設によるし尿処理が申請人らの環境権を侵害することを理由として、本件増設工事の差止めを求めるという申請人らの主張は採用できない。

 

 

【大阪地裁昭和49年2月27日・大阪国際空港公害訴訟第一審判決】

要旨

憲法一三条・二五条の規定は、国の国民一般に対する責務を定めた綱領規定であるから、政府・公共団体が環境保全・公害防止の責務を有するとしても、住民に公害の私法的救済の手段としての環境権が認められるとはいえない。

 

判旨

 二 人格権および環境権について

 まず、原告らが、本件損害賠償請求において侵害された権利は人格権ないし環境権であると主張し、またこれらの権利をもつて本件差止請求の法的根拠としていることについて考察する。原告らの主張の骨子は、人格権ないし環境権は憲法一三条の生命、自由および幸福追求権、二五条の健康で文化的な最低限度の生活を営む権利をその内容とする排他的支配権であり、その性質上これに対する侵害行為はいかなる理由があつても許されないから、公共性その他の要素について判断するまでもなく、被害の存在のみで違法性が肯認されるべきであり、殊に環境権については、人格権の外延を守るため、公害その他広範囲にわたる環境破壊が行われている現状に対処して、地域住民に具体的被害が発生する前段階で侵害行為を食い止めると共に、個々の住民の権利侵害とあわせて地域的な拡がりを持つ環境破壊を阻止できる有力な根拠となり得るというのである。

 思うに、個人の生命、自由、名誉その他人間として生活上の利益に対するいわれのない侵害行為は許されないことであり、かかる個人の利益は、それ自体法的保護に値するものであつて、これを財産権と対比して人格権と呼称することができる。そして、本件における航空機騒音の如く、個人の日常生活に対し極めて深刻な影響をもたらしひいては健康にも影響を及ぼすおそれのあるような生活妨害が継続的かつ反覆的に行われている場合において、これが救済の手段として、既に生じた損害の填補のため不法行為による損害賠償を請求するほかないものとすれば、被害者の保護に欠けることはいうまでもないから、損害を生じさせている侵害行為そのものを排除することを求める差止請求が一定の要件の下に認められてしかるべきである。この場合、差止請求の法的根拠としては、妨害排除請求権が認められている所有権その他の物権に求めることができるが、物権を有しない者であつても、かかる個人の生活上の利益は物権と同等に保護に値するものであるから、人格権についてもこれに対する侵害を排除することができる権能を認め、人格権に基づく差止請求ができるものと解するのが相当である。

 ところで、環境権については、実定法上かかる権利が認められるかどうかは疑問である。憲法一三条、二五条の規定は、いずれも国の国民一般に対する責務を定めた綱領規定であると解すべきであり、同条の趣旨は国の施策として立法、行政の上に忠実に反映されなければならないが、同条の規定によつて直接に、個々の国民について侵害者に対し何らかの具体的な請求権が認められているわけではない。原告ら指摘の如く、近時公害による環境破壊は著しく、良好な環境を破壊から守り、維持して行く必要があることは、何人といえども否定できないところであり、政府、公共団体が環境保全のため公害防止の施策を樹立し、実施すべき責務を有し、企業や住民も公害の防止に努めるべきことは当然であるけれども、このことから直ちに、公害の私法的救済の手段としての環境権なるものが認められるとするのは早計といわなければならない。また、環境が破壊されたことによつて個人の利益が侵害された場合には、不法行為を理由に損害賠償の請求をすることができ、違法性の有無を判断するに際し、被侵害利益の性質として環境破壊の点を考慮すべき場合があるとしても、環境権という権利が侵害されたかどうかを問題にするまでもないし、差止請求においても、物権のみならず人格権をその根拠とすることによつて救済の実をあげることができるのであつて、いずれにしても環境権を認めなければ個人の利益が救済できないという場面はないと考えられる。原告らによれば、環境権によつて具体的被害が発生する前に侵害を食い止め、また個々人の法益を越えて環境破壊を阻止することができるというが、かような役割を環境権に持たせようとするのであるならば、それは私法的救済の域を出るものであつて、実定法上の明文の根拠を必要とするといわなければならない。

 なお、環境権についてはその排他性から何等の利益考量も許されず、被害の存在のみで違法性が認められるという議論にも首肯しがたいものがある。具体的な事件においていかなる事情を基礎として違法性があると認めるべきかの判断は、被侵害利益が排他的な権利である場合にも省略することはできないのであり、かかる利益考量を経て初めて、具体的事案に即した妥当な救済方法を導き出すことが可能となるのである。

 ちなみに、本件において原告らは、航空機の騒音等により原告ら居住地域一般の環境が破壊されたことを強調してはいるけれども、これは結局のところ原告ら個人個人の生活上の利益の侵害に還元することができるものであるし、原告らは同時に個人の健康や生活利益に被害がもたらされていることをも個別的、具体的に主張しているのであるから、私法的救済の方法としては、殊更に環境権という概念を持ち出さなければその主張を維持できないわけでもないことに留意する必要がある。

 

 

【大阪高裁昭和50年11月27日・大阪国際空港公害訴訟】

要旨

憲法一三条から導かれる人格権に基づき、民事上の請求として一定の時間帯につき航空機の離着陸のためにする国営空港の供用の差し止めを求める訴は、適法なものと容認することができ、人格権侵害を根拠とする限り環境権理論の当否について判断する必要がない。

 

判旨

  1 原告らは、本件の被害をもつて、人格権ないし環境権の侵害であると主張し、これらの権利に基づき、被告に対し、本件空港における航空機の一定時間内における発着の禁止を請求する。

 ところで、原告らは、原告ら各人についてすでに被害が発生していることを主張しており、他方、原告らの主張によつても、環境権の意義は、被害が各個人に現実化する以前において環境汚染を排除し、もつて人格権の外延を守ることにあるというのであるから、判断の順序としては、まず人格権に基づく主張の当否を判断すべきものと解される。

  2 およそ、個人の生命・身体の安全、精神的自由は、人間の存在に最も基本的なことがらであつて、法律上絶対的に保護されるべきものであることは疑いがなく、また、人間として生存する以上、平隠、自由で人間たる尊厳にふさわしい生活を営むことも、最大限度尊重されるべきものであつて、憲法一三条はその趣旨に立脚するものであり、同二五条も反面からこれを裏付けているものと解することができる。このような、個人の生命、身体、精神および生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであつて、その総体を人格権ということができ、このような人格権は何人もみだりにこれを侵害することは許されず、その侵害に対してはこれを排除する権能が認められなければならない。すなわち、人は、疾病をもたらす等の身体侵害行為に対してはもとより、著しい精神的苦痛を被らせあるいは著しい生活上の妨害を来す行為に対しても、その侵害行為の排除を求めることができ、また、その被害が現実化していなくともその危険が切迫している場合には、あらかじめ侵害行為の禁止を求めることができるものと解すべきであつて、このような人格権に基づく妨害排除および妨害予防請求権が私法上の差止請求の根拠となりうるものということができる。

 被告は、このような差止請求の根拠としての人格権には実定法上の根拠を欠くと主張するが、右のとおり人格権の内容をなす利益は人間として生存する以上当然に認められるべき本質的なものであつて、これを権利として構成するのに何らの妨げはなく、実定法の規定をまたなくとも当然に承認されるべき基本的権利であるというべきである。また、従来人格権の語をもつて名誉、肖像、プライバシーあるいは著作権等の保護が論ぜられることが多かつたとしても、それは、人格的利益のそのような面について、他人の行為の自由との牴触およびその調整がとくに問題とされることが多かつたことを意味するにすぎず、より根源的な人格的利用益をも総合して、人格権を構成することには、何ら支障とならないものと解される。もつとも、人格権の外延をただちに抽象的、一義的に確定することが困難であるとしても、少なくとも前記のような基本的な法益をその内容とするものとして人格権の概念を把握することができ、他方このような法益に対する侵害は物権的請求権をもつてしては救済を完了しえない場合があることも否定しがたく、差止請求の根拠として人格権を承認する実益も認められるのであつて、学説による体系化、類型化をまたなくてはこれを裁判上採用しえないとする被告の主張は、とりえないところである。

 

 

【名古屋地裁昭和54年6月28日・場外馬券発売中止等請求事件】

要旨

憲法一三条・二五条は、いわゆる環境権の実定法上の根拠とはなりえないし、また、良好・便利な環境利益は、民法その他の法令に根源を有する私法上の権利の範ちゆうに属するものではないから、いわゆる環境権を私法上の差止または損害賠償の各請求権の根拠とすることはできない。

 

判旨

 一 環境権の主張について

 原告らは本訴差止(場外馬券発売禁止)及び損害賠償の各請求の根拠として、環境権の存在を主張する。

 まず、原告らは、環境権を「良き環境を享受し、かつ、これを支配しうる権利であり、更に、人間が健康で快適な生活を求める権利である。」と意義づけ、その実定法上の根拠を、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する旨規定した憲法二五条、幸福追求の権利を有する旨規定した憲法一三条に求めうるかのように主張するが、これらの規定は、右各条中の爾余の文言からも明らかなように、国の国民一般に対する政治、行政上の責務を定めた綱領的規定であつて、それ自体を所論の環境権の実定法上の規定と解し難いばかりでなく、文理上も右各規定が右環境権の権利概念を予定し、或は想定していると解するのは難しい。また、原告らは、右環境権を人格権の延長線にとらえうる一種の抵抗権としての性質をもつたもので、企業体に対して良き環境の確保を要求しうる権能を含んだ生存権的基本権の一面を有するとともに、右企業体からの環境侵害を守るための社会的基本権の側面をもつた実定法の予期しなかつた新しい基権であるとも主張するのであるが、右主張は、その論拠を理解し難いばかりでなく、憲法その他の実定法上の法理を飛躍した独自の見解であつて、とうてい首肯し難い。

 原告らは、環境権の性質、効果について、一つの環境を形成している一定地域の住民のすべてに平等に分配された地域住民全体の共有の権利であり、その環境破壊をもたらす侵害行為に対しては、具体的な損害の発生いかんにかかわらず、私法上の権利として予防ないし排除の請求をすることができる旨主張する。しかし、所論がここでいう「環境」とは、抽象的には住民をとりまく一定地域及びその周辺の物又は状態であり、それには道路・河川・建物・交通機関等公物、私物を含めた物的施設、水・大気・日照・海・山・動植物等の自然事象、更にはここに居住し、或はこれらを利用する人間関係などの一切が含まれるが、これらの要素にはそれ自体流動的なものがあるばかりでなく、この環境には具体的には当該住民にとつて良好、不良或は普通の三様があつて、必ず良好の環境とばかりいえないのみならず、その評価は、帰するところ多数の住民の個々の意思に待つべきものであるところからすれば、それら住民の年令・職業・思想・文化等による差異があつて一定でないのが通常であり、このような多様かつ不特定な事象に対して、評価も一定、普遍を保し難い個々の地域住民について全体に共通の共有による排他的支配権を与えようとする思考事態矛盾を含み、論理的でないといわざるをえない。所論は、前記のとおり人が幸福を追求し、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があるとの憲法上の規定を理由に、良き環境に対してこれを利用、享受しうる権利がある旨主張するけれども、仮にその住民をとりまく一定地域の生活環境が良好、便利なものであつたとしても、それは前述の自然現象のほか、そこに備つた公共的な設備・施策、文化的資産等に由来するものであつて、いわばこれらによる反射的利益というべきもので、その利益は民法その他の法令に根源を有する私法上の権利の範疇に属するものではない。もとよりその利益が個々人にとつてかけがえのない財産上の利益であり、或は生活上、身体上の利益である場合も肯認しうるところであるが、それは、右個々人の財産権或は人格権上の利益として法的保護を与えれば足り、ことさら環境権なる権利概念を構成する必要を見ない。その他、所論が環境権に期待するところの不可侵的で絶対的な予防・排除の法的効力は、その権利概念が瞹眛・脆弱であるのに比して過大・強烈であり、現今の社会共同生活での法律関係を律するに妥当でないばかりでなく、法律の解釈としてもその域を脱し、かつ、本末転倒の議論との批判を免れず、とうてい左袒することができない。

 従つて環境権を私法上の差止及び損害賠償の各請求権の根拠とする原告らの主張は採用することができない。

環境権

   目次

【最判平成18年3月30日】

事案の概要

本件は,上告人らが,大学通り周辺の景観について景観権ないし景観利益を有しているところ,本件建物の建築により受忍限度を超える被害を受け,景観権ないし景観利益を違法に侵害されているなどと主張し,上記の侵害による不法行為に基づき,① 被上告人Y1及び本件区分所有者らに対し本件建物のうち高さ20メートルを超える部分の撤去を,② 被上告人らに対し慰謝料及び弁護士費用相当額の支払をそれぞれ求めている事案である

 

要旨

判示事項

1 良好な景観の恵沢を享受する利益は法律上保護されるか

2 良好な景観の恵沢を享受する利益に対する違法な侵害に当たるといえるために必要な条件

3 直線状に延びた公道の街路樹と周囲の建物とが高さにおいて連続性を有し調和がとれた良好な景観を呈している地域において地上14階建ての建物を建築することが良好な景観の恵沢を享受する利益を違法に侵害する行為に当たるとはいえないとされた事例

裁判要旨

1 良好な景観に近接する地域内に居住する者が有するその景観の恵沢を享受する利益は,法律上保護に値するものと解するのが相当である。

2 ある行為が良好な景観の恵沢を享受する利益に対する違法な侵害に当たるといえるためには,少なくとも,その侵害行為が,刑罰法規や行政法規の規制に違反するものであったり,公序良俗違反や権利の濫用に該当するものであるなど,侵害行為の態様や程度の面において社会的に容認された行為としての相当性を欠くことが求められる。

3 南北約1.2kmにわたり直線状に延びた「大学通り」と称される幅員の広い公道に沿って,約750mの範囲で街路樹と周囲の建物とが高さにおいて連続性を有し,調和がとれた良好な景観を呈している地域の南端にあって,建築基準法(平成14年法律第85号による改正前のもの)68条の2に基づく条例により建築物の高さが20m以下に制限されている地区内に地上14階建て(最高地点の高さ43.65m)の建物を建築する場合において,(1)上記建物は,同条例施行時には既に根切り工事をしている段階にあって,同法3条2項に規定する「現に建築の工事中の建築物」に当たり,上記条例による高さ制限の規制が及ばないこと,(2)その外観に周囲の景観の調和を乱すような点があるとは認め難いこと,(3)その他,その建築が,当時の刑罰法規や行政法規の規制に違反したり,公序良俗違反や権利の濫用に該当するなどの事情はうかがわれないことなど判示の事情の下では,上記建物の建築は,行為の態様その他の面において社会的に容認された行為としての相当性を欠くものではなく,上記の良好な景観に近接する地域内に居住する者が有するその景観の恵沢を享受する利益を違法に侵害する行為に当たるとはいえない。

 

判旨

都市の景観は,良好な風景として,人々の歴史的又は文化的環境を形作り,豊かな生活環境を構成する場合には,客観的価値を有するものというべきである。被上告人Y1が本件建物の建築に着手した平成12年1月5日の時点において,国立市の景観条例と同様に,都市の良好な景観を形成し,保全することを目的とする条例を制定していた地方公共団体は少なくない状況にあり,東京都も,東京都景観条例(平成9年東京都条例第89号。同年12月24日施行)を既に制定し,景観作り(良好な景観を保全し,修復し又は創造すること。2条1号)に関する必要な事項として,都の責務,都民の責務,事業者の責務,知事が行うべき行為などを定めていた。また,平成16年6月18日に公布された景観法(平成16年法律第110号。同年12月17日施行)は,「良好な景観は,美しく風格のある国土の形成と潤いのある豊かな生活環境の創造に不可欠なものであることにかんがみ,国民共通の資産として,現在及び将来の国民がその恵沢を享受できるよう,その整備及び保全が図られなければならない。」と規定(2条1項)した上,国,地方公共団体,事業者及び住民の有する責務(3条から6条まで),景観行政団体がとり得る行政上の施策(8条以下)並びに市町村が定めることができる景観地区に関する都市計画(61条),その内容としての建築物の形態意匠の制限(62条),市町村長の違反建築物に対する措置(64条),地区計画等の区域内における建築物等の形態意匠の条例による制限(76条)等を規定しているが,これも,良好な景観が有する価値を保護することを目的とするものである。そうすると,良好な景観に近接する地域内に居住し,その恵沢を日常的に享受している者は,良好な景観が有する客観的な価値の侵害に対して密接な利害関係を有するものというべきであり,これらの者が有する良好な景観の恵沢を享受する利益(以下「景観利益」という。)は,法律上保護に値するものと解するのが相当である

もっとも,この景観利益の内容は,景観の性質,態様等によって異なり得るものであるし,社会の変化に伴って変化する可能性のあるものでもあるところ,現時点においては,私法上の権利といい得るような明確な実体を有するものとは認められず,景観利益を超えて「景観権」という権利性を有するものを認めることはできない。

ところで,民法上の不法行為は,私法上の権利が侵害された場合だけではなく,法律上保護される利益が侵害された場合にも成立し得るものである(民法709条)が,本件におけるように建物の建築が第三者に対する関係において景観利益の違法な侵害となるかどうかは,被侵害利益である景観利益の性質と内容,当該景観の所在地の地域環境,侵害行為の態様,程度,侵害の経過等を総合的に考察して判断すべきである。そして,景観利益は,これが侵害された場合に被侵害者の生活妨害や健康被害を生じさせるという性質のものではないこと,景観利益の保護は,一方において当該地域における土地・建物の財産権に制限を加えることとなり,その範囲・内容等をめぐって周辺の住民相互間や財産権者との間で意見の対立が生ずることも予想されるのであるから,景観利益の保護とこれに伴う財産権等の規制は,第一次的には,民主的手続により定められた行政法規や当該地域の条例等によってなされることが予定されているものということができることなどからすれば,ある行為が景観利益に対する違法な侵害に当たるといえるためには,少なくとも,その侵害行為が刑罰法規や行政法規の規制に違反するものであったり,公序良俗違反や権利の濫用に該当するものであるなど,侵害行為の態様や程度の面において社会的に容認された行為としての相当性を欠くことが求められると解するのが相当である。これを本件についてみると,原審の確定した前記事実関係によれば,大学通り周辺においては,教育施設を中心とした閑静な住宅地を目指して地域の整備が行われたとの歴史的経緯があり,環境や景観の保護に対する当該地域住民の意識も高く,文教都市にふさわしく美しい都市景観を守り,育て,作ることを目的とする行政活動も行われてきたこと,現に大学通りに沿って一橋大学以南の距離約750mの範囲では,大学通りの南端に位置する本件建物を除き,街路樹と周囲の建物とが高さにおいて連続性を有し,調和がとれた景観を呈していることが認められる。そうすると,大学通り周辺の景観は,良好な風景として,人々の歴史的又は文化的環境を形作り,豊かな生活環境を構成するものであって,少なくともこの景観に近接する地域内の居住者は,上記景観の恵沢を日常的に享受しており,上記景観について景観利益を有するものというべきである。

しかしながら,本件建物は,平成12年1月5日に建築確認を得た上で着工されたものであるところ,国立市は,その時点では条例によりこれを規制する等上記景観を保護すべき方策を講じていなかった。

そして,国立市は,同年2月1日に至り,本件改正条例を公布・施行したものであるが,その際,本件建物は,いわゆる根切り工事が行われている段階にあり,建築基準法3条2項に規定する「現に建築の工事中の建築物」に当たるものであるから,本件改正条例の施行により本件土地に建築できる建築物の高さが20m以下に制限されることになったとしても,上記高さ制限の規制が本件建物に及ぶことはないというべきである。本件建物は,日影等による高さ制限に係る行政法規や東京都条例等には違反しておらず,違法な建築物であるということもできない。また,本件建物は,建築面積6401.98㎡を有する地上14階建てのマンション(高さは最高で43.65m。総戸数353戸)であって,相当の容積と高さを有する建築物であるが,その点を除けば本件建物の外観に周囲の景観の調和を乱すような点があるとは認め難い。その他,原審の確定事実によっても,本件建物の建築が,当時の刑罰法規や行政法規の規制に違反するものであったり,公序良俗違反や権利の濫用に該当するものであるなどの事情はうかがわれない。以上の諸点に照らすと,本件建物の建築は,行為の態様その他の面において社会的に容認された行為としての相当性を欠くものとは認め難く,上告人らの景観利益を違法に侵害する行為に当たるということはできない。

プライバシー権(11)東京高裁平成12年10月25日・最判平成7年9月5日

  目次

【東京高裁平成12年10月25日】

要旨

一 犯罪捜査に当たった警察官が、被疑者の弁護士の所属団体及び所属政党を調査し、これを捜査報告書に記載した行為が、当該弁護士のプライバシーを侵害する違法な行為に当るものとすることはできないとされた事例

二 検察官が右の捜査報告書を略式命令を請求する際の資料として裁判所に提出した行為が、当該弁護士のプライバシーを侵害する違法な行為にあたるものとされた事例

 

判旨

■事案の概要

 本件は、東京都立川市所在の三多摩法律事務所に勤務する弁護士である原告が、国の公務員である検察官並びに東京都及び北海道の公務員である警察官の違法な行為によって、そのプライバシー等を侵害されたとして、被告らに対して国家賠償を求めている事件である。

 すなわち、本件において、原告は、被疑者丁谷次郎らに係る傷害事件(本件傷害事件)について弁護人となることを委任されていたところ、北海道警察及び警視庁に所属する警察官であって東京地方検察庁において捜査実務の研修中に本件傷害事件の捜査に当たった警察官が、東京地方検察庁の検察官の指導の下に、平成二年一月三〇日ころ、原告が青年法律家協会に所属しており日本共産党の党員として把握されているものであるとする内容(本件記載事項)の記載のある捜査報告書(本件捜査報告書)を作成して検察官に提出し、平成二年七月二〇日、東京区検察庁の検察官がこれを本件傷害事件に関する略式命令請求の際の証拠資料として裁判所に提出したことにより、これが右の略式命令の確定後は刑事確定訴訟記録の一部として東京地方検察庁において保管され、一般人の知り得る状態に置かれるに至ったが、右の検察官及び警察官の行為は、原告のプライバシーの権利等を侵害する不法行為に当たるとして、被告らに対して国家賠償を求めているのである。

 

  裁判所の判断

二 乙川警部等の行為の違法性の有無について

 乙川警部による本件捜査報告書の作成行為が、本件傷害事件の捜査の過程で、後任の捜査担当者に対する引継ぎのための資料を作成することを主目的として行われたものであり、そのための調査等の方法としては、研修の同期生である伊藤警視から公刊物に登載された原告の経歴等をメモ書きしたものと同警視の個人的な体験から得た知識の提供を受けるという方法が採られたにすぎないものであることは、前記引用に係る原判決の認定、説示にあるとおりである。

 そもそも犯罪の捜査に当たっては、被告らの主張にもあるとおり、広く当該被疑事件に関係すると考えられる事項や公訴提起後の公判活動をも視野に入れた当該事件の処理にとって参考となると考えられる事項について、積極的に情報の収集が行われ、その過程で、時として関係者のプライバシーに関わるような事項についても調査が行われ、その調査結果が捜査報告書等の資料にまとめられるという事態があり得ることは、当然のことと考えられるのであり、いわゆる任意捜査の方法で行われるその際の調査等が、調査対象者の私生活の平穏を始めとする権利、利益を違法、不当に侵害するような方法で行われるのでない限り、このような捜査活動自体がその調査等の対象者に対する関係で直ちに違法とされるものでないことは、いうまでもないところというべきである。

 もっとも、このような調査等によって得られた対象者のプライバシーに関わるような情報が、その必要もないのにみだりに公にされるという事態が生じた場合には、これが違法なプライバシーの侵害行為と評価されることがあり得ることは当然のことというべきである。しかし、本来的に密行性を有する手続である刑事事件の捜査手続において行われる右のような事項に関する調査等の結果については、公務員たる捜査関係者には守秘義務が課されていることなどからしても、それが公にされるという事態は、それが裁判手続に証拠として提出されるという場合を除いては原則として考えられないのであり、しかも、当該調査結果等を裁判の証拠として提出するか否かは、当該事件の公判等を担当する検察官が、公訴の維持という公益上の観点からするその提出の必要性とこれを証拠として提出することが関係者のプライバシーにもたらすこととなる影響等を慎重に対比、検討した上で決定すべきこととされているのであるから、公益上の必要もないのに、みだりにその内容が裁判の証拠として提出され、それが公にされるという事態は、原則的に生じないような制度が確保されているものと考えられるところである。したがって、捜査担当者が、関係者のプライバシーに関するような事項について調査を行い、その調査結果を捜査報告書等の書面に作成するという行為自体は、本件におけるように、それがおよそ調査対象者の私生活の平穏を始めとする権利、利益を違法、不当に侵害するといったおそれのない方法によって行われるものである限り、それが調査対象者のプライバシーを違法、不当に侵害するものとして、直ちにその職務上の義務に違反する違法な行為とされるということも、原則としてあり得ないところというべきである。

 なお、本件にあっては、丁谷らによる本件傷害事件に関する捜査として、原告のプライバシーにも関わるようなその所属団体等に関する事項について、どのような理由から調査を行う必要があったのかは、被告らの主張からしても必ずしも明らかではないものとも考えられるところである。しかし、仮にこの点に関する調査が本件傷害事件に対する捜査方法としては本来その必要性の認められないものであったとしても、このことによって、前記のような手段、方法によって行われたにとどまる右の調査行為が、その調査対象者である原告のプライバシーを違法、不当に侵害するものとして、直ちに乙川警部らの職務上の義務に違反する違法な行為とされるものでないことも、明らかなものというべきである。

 そうすると、乙川警部による本件捜査報告書の作成行為自体を、原告のプライバシーを違法、不当に侵害する違法な行為に該当するものとすることができないことは明らかなものというべきであり、この点に関する乙川警部や伊藤警視、さらには丙山検事らの行為自体を違法なものとする原告の主張は、失当なものという以外ない。

 

三 戌田副検事の行為の違法性の有無について

 本件傷害事件の一件捜査記録に編綴されていた本件捜査報告書が、その後戌田副検事によって丁谷らに対する略式命令請求事件の証拠書類として裁判所に提出されることとなり、その結果、本件傷害事件に関する確定記録の中に保管されて一般の閲覧に供されることとなった本件捜査報告書が、さらにその後、東京地方裁判所民事第五部からの送付嘱託を受けて同裁判所に送付されるに至ったことは、前記引用に係る原判決の認定、説示にあるとおりである。したがって、本件においては、この戌田副検事の本件捜査報告書の裁判所への提出行為が、原告のプライバシーを違法に侵害する不法行為に該当するか否かが問題とされることとなるものというべきである。

 本件において、原告が青年法律家協会に所属しているか否か、あるいは、原告が日本共産党の党員であるか否かということは、本来的に原告の私事に属する事項というべきであり、原告がこれを他に知られたくないと考えることも、一般人の考え方として不合理なものとはいえず、また、これらの点に関する事実が既に一般人の知るところとなっていたり、これらの事実について原告がプライバシーを放棄するに至っていたものとまでは認められず、したがって、本件記載事項に指摘された事実は、原告にとって、法的に保護された利益としてのプライバシーに属するものと考えられることは、原判決がその「事実」欄の「第四 争点に対する判断」の二の3の(二)の項(原判決八五頁四行目から同九三頁一一行目まで)において認定、説示するとおりである。

 このような原告のプライバシーに属する本件記載事項をその内容に含む本件捜査報告書を裁判のための証拠資料として提出するに当たっては、このようにして提出された書類が、事件の終結後は訴訟記録として原則として何人においてもこれを閲覧することができるものとなることからして、本件傷害事件に関する公訴の維持、適正な裁判の実現のためにその提出が必要とされるという公益上の必要が要求されるものというべきである。ところが、戌田副検事は、本件傷害事件について丁谷らを傷害罪で起訴するに当たって、略式命令を請求する際の証拠資料として本件捜査報告書を裁判所に提出したものであることは前記のとおりである。しかしながら、丁谷らが、本件傷害事件に関する犯罪事実を認め、略式手続によって罰金刑を課されることにも異議のない旨を申述していたこととなる右の手続において、前記のような内容からなる本件捜査報告書をその裁判のための証拠資料として裁判所に提出するまでの必要は、特段の事情のない限り、通常は認められないものというべきであり、本件において、そのような特段の事情があったものとすることも困難なものというべきである。もっとも、この点について、被告らは、本件捜査報告書が、丁谷の自白の任意性や信用性を裏付ける資料として、同人について略式命令をすることが相当であることを立証する証拠に該当するから、これを裁判所に提出する必要があったものと主張する。しかし、右の略式命令が請求された時点において、丁谷の捜査官に対する自白の任意性や信用性について特段の疑義等を抱かせるような節があったこともうかがえない本件において、丁谷の弁護を担当していた原告の所属団体等に関する事項であって、右の丁谷の自白の任意性等と直接関係するものとはいえないような事項を内容とする本件捜査報告書が、右のような意味で裁判所に提出することを必要とする資料に該当するものであったとする被告らの主張は、当を得ないものという以外にない。

 そうすると、公訴の維持のために検察官がどのような証拠資料を裁判所に提出するかについては、当該検察官に広い裁量が認められるべきであることを考慮しても、なお、本件において戌田副検事が本件捜査報告書を裁判所に証拠資料として提出したことについては、軽率であったとのそしりを免れないものというべきであり、その結果、前記のとおり、本件捜査報告書が何人においてもこれを閲覧できるという状態に置かれることとなり、原告のプライバシーが侵害されるという結果が生じた以上、戌田副検事の右の行為は、職務上の義務に違背した違法行為とされることとなるものというべきである。

 したがって、被告国は、その主張する刑事確定訴訟記録を第三者の閲覧に供すべきものとしている法の趣旨等の論点について判断するまでもなく、右の戌田副検事の違法行為を理由とする国家賠償責任を免れないものというべきこととなる。

 

 

【最判平成7年9月5日】

要旨

会社が職制等を通じて共産党又はその同調者である従業員を監視し孤立させるなどした行為が、その従業員の思想、信条の自由及びプライバシーなどの人格的利益を侵害する不法行為に当たるとされた事例。

 

事案の概要

会社が安保改定期に予想される破壊活動からの企業防衛を標ぼうして、共産党員及びその同調者の孤立化・排除のために実施した労務対策につき、それが思想の自由及びプライバシーの侵害等に当たり不法行為を構成するとして、原告らが損害賠償及び謝罪広告を求めた事案。

 

判旨

現実には企業秩序を破壊し混乱させるなどのおそれがあるとは認められないにもかかわらず、被上告人らが共産党員又はその同調者であることのみを理由とし、その職制等を通じて、職場の内外で被上告人らを継続的に監視する態勢を採った上、被上告人らが極左分子であるとか、上告人の経営方針に非協力的な者であるなどとその思想を非難して、被上告人らとの接触、交際をしないよう他の従業員に働き掛け、種々の方法を用いて被上告人らを職場で孤立させるなどしたというのであり、更にその過程の中で、被上告人水谷及び同三木谷については、退社後同人らを尾行したりし、特に被上告人三木谷については、ロッカーを無断で開けて私物である「民青手帳」を写真に撮影したりしたというのである。

そうであれば、これらの行為は、被上告人らの職場における自由な人間関係を形成する自由を不当に侵害するとともに、その名誉を毀損するものであり、また、被上告人三木谷らに対する行為はそのプライバシーを侵害するものでもあって、同人らの人格的利益を侵害するものというべく、これら一連の行為が上告人の会社としての方針に基づいて行われたというのであるから、それらは、それぞれ上告人の各被上告人らに対する不法行為を構成するものといわざるを得ない。原審の判断は、これと同旨をいうものとして是認することができる。

プライバシー権(10)東京地裁平成5年11月19日・大阪高裁平成11年11月25日

  目次

 

 

【東京地裁平成5年11月19日】

要旨

一 国立大学教授が国に対し、人事記録その他の文書において教授の旧姓名を使用するよう義務付けを求める訴えが不適当法とされた事例

二 国立大学において人事記録その他の文書に教授の戸籍上の姓名を記載したことが教授の氏名保持権、プライヴァシー、表現の自由、職業活動の自由、学問の自由を侵害しないとされた事例

 

事案の概要

 国立大学教授の原告が、結婚前の旧姓名を用いて研究活動し、大学当局に対して各種文書等に旧姓名を使用することを申し入れていたものの、大学側は原告の氏名について、戸籍上の氏名を利用することとし、原告が戸籍上の氏名でない文書を提出した場合には是正を求めるなどをしていた。

そこで、原告は国に対し、人格権あるいは自己決定権に基づき、人事記録その他の各種文書等にXの旧姓名の使用の義務付け等主張した。

 

判旨

 (1) 定員約一二〇万人を擁する国家公務員の任用関係においては、いかなる人を採用し、採用後いかに処遇する か(担当職務、昇任、降任、転任、給与等)の問題に加えて、現実に公務遂行の外観を呈する行為を行っている者が、真実、国家公務員として任用されたもので あり、かつ、当該公務を担当すべき地位、権限を有しているのかの問題を適正、確実、迅速に解決するためには、公務員の同一性を把握することが必要不可欠である。
 しかして、我が国においては、国民を公に登録し、その親族関係及び動静を公示し、公証するための唯一の身分関係 の公証制度として、戸籍法に基づく戸籍が精緻に編製されており、そこには個人の公証力ある氏名として戸籍名が記載されているところ、戸籍名を変更するため には、やむをえない事由が存する場合に家庭裁判所の許可を得て、その旨を届け出ることを必要としている(戸籍法一〇七条、一〇七条の二、一一九条)。しか も、法律上保護されるべき重要な社会的基礎を構成する夫婦が、同じ氏を称することは、主観的には夫婦の一体感を高める場合があることは否定できず、また、 客観的には利害関係を有する第三者に対し夫婦である事実を示すことを容易にするものといえるから、夫婦同氏を定める民法七五〇条は、合理性を有し、何ら憲 法に違反するものではない。
 したがって、個人の同一性を識別する機能において戸籍名より優れたものは存在しないものというべきであるから、公務員の同一性を把握する方法としてその氏名を戸籍名で取り扱うことは極めて合理的なことというべきである。
 そうであれば、本件取扱文書に定める基準は公務員の同一性を把握するという目的に配慮しながらも、他方、研究、 教育活動においては原告が以前から使用してきた氏名である「関口礼子」を表示することができるようにも配慮されたものであり、その目的及び手段として合理 性が認められ、何ら違法なものではないというべきである。
 (2)イ これに対して、原告は、少数の公務員集団である図情大教職員間においては、原告の公務員としての同一性を把握することは不要であると主張する。
 しかし、原告主張に係る各書類の中には図情大教職員間における書類にとどまらず、文部省あるいは学外の諸機関との間でやりとりされる書類も多数含まれて いることからも明らかなように、公務員の同一性の把握は図情大教職員間においてなされれば足りるというものではなく、原告の右主張は前提を誤っているもの というべきであるから、採用することはできない。
 ロ また、原告は、被告藤川らの所為は、通称名を保持する権利あるいは右通称名をその意思に反して奪われない権利を妨げるものであり、憲法一三条に違反 するものであると主張する。右主張に係る権利とは、要するに他人に通称名の使用を禁止されないという意味において、通称名を専用することができる自由を意 味することに加えて、図情大の人事記録に記載される氏名を含めたあらゆる場面において氏名が通称名で表示されることをも原告が要求していることなどに照ら すと、原告は、その婚姻届出に伴い夫の氏を選択したものの、他人から右変動前の氏名を通称名で表示されることをも意図しているものと解される。
 なるほど、通称名であっても、個人がそれを一定期間専用し続けることによって当該個人を他人から識別し特定する 機能を有するようになれば、人が個人として尊重される基礎となる法的保護の対象たる名称として、その個人の人格の象徴ともなりうる可能性を有する。しかし ながら、本件全証拠をもってしても、公務員の服務及び勤務関係において、婚姻届出に伴う変動前の氏名が通称名として戸籍名のように個人の名称として長期的 にわたり国民生活における基本的なものとして根付いているものであるとは認めることができず、また、右通称名を専用することは未だ普遍的とはいえず、個人 の人格的生存に不可欠なものということはできないものというべきである。
 したがって、立法論としてはともかく、原告主張に係る氏名保持権(右通称名ないし婚姻による変動前の氏名を使用する権利)が憲法一三条によって保障されているものと断定することはできないから、被告藤川らの所為が同法条に違反するものと認めることはできない。
 なお、原告は、氏名を通称名で表示することは個人的な事柄であるから、自己決定権によっても原告主張に係る氏名 保持権は保障されているとも主張するものであるが、氏名は社会において個人を他人から識別し特定する機能をその本質的な機能とするものであり、社会との関 わりあいにおいて、その存在意義を有するものであって、公法上の勤務関係における氏名は極めて社会的な事柄というべきであるから、原告の右主張は採用する ことができない。
 ハ さらに、原告は、被告藤川らの所為は、戸籍名という原告のプライバシーを侵害するものであり、憲法一三条に違反するものであると主張する。
 しかし、戸籍名は、前記の通り、我が国唯一の身分関係の公証制度としての戸籍に記載される公証力ある名称であり、原告がいかなる戸籍名を有する者であるかは専ら公的な事柄であるというべきであるから、戸籍名をもって原告のプライバシーに該当するということはできない。
 もっとも、原告は、戸籍名は身分関係すなわち少なくとも原告が婚姻しており、配偶者は氏を「甲野」と表示する男性であることを一定程度開示する作用を有 している点で、私生活上の事柄といいうるものであるとも主張しているが、原告の氏名を戸籍名で表示することが、当然に右のような身分関係まで開示すること にはならないから、原告の右主張は採用することができない。

 三 本件差止(義務づけ)請求及び損害賠償請求について

 以上の通り、原告主張に係る前記一連の侵害事実については、いずれも被告国(図情大及びその公務員である被告藤川ら)の権限行使として合理的な範囲を逸脱したりその濫用があったものとは認定できないことが明らかであり、したがって、原告の被告国に対する本件差止(義務づけ)請求については、事柄の性質上司法審査の及ばないものであるから、その余の点について論じるまでもなく、いずれも不適法として却下を免れず、また、原告の被告国に対する本件損害賠償請求についても、原告主張に係る前記一連の侵害事実がいずれも憲法に違反したり、著作権法に違反するものではないうえ、世界人権宣言及び国際人権規約B規約に違反するものではなく、国家賠償法の適用上違法と認めることもできないから、その余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がないものというべきである。

 しかも、被告藤川らは、いずれも国家公務員としてその職務を行ったものにすぎず、仮に被告国が国家賠償責任を負う場合であったとしても、公務員個人として原告に対し、民法上不法行為に基づく損害賠償責任を負うべきものではないから、原告の被告藤川らに対する本件損害賠償請求は理由がないものといわなければならない(最高裁昭和三〇年四月一九日第三小法廷判決・民集九巻五号五三四頁、最高裁昭和五三年一〇月二〇日第二小法廷判決・民集三二巻七号一三六七頁等参照)。

 

 

 

 

【大阪高裁平成11年11月25日】

事案の概要

西宮市内の市立小中学校の卒業生・在校生六名が、教育委員会に対し、西宮市個人情報保護条例に基づき、調査書・指導要録の開示を求めたが、西宮市教育委員会がこれらを全面非開示とする処分を行い、異議申立をしたものの大半が非開示とされたため、右非開示処分の取消を求めた事案

 

要旨

調査書、指導要録における「所見」欄等の教師の主観的評価を含む記載についても、西宮市個人情報保護条例が自己情報開示請求権の例外として定めた非開示事由に該当するとはいえず、調査書、指導要録は当該本人に全面開示されるべきであるとした事案

 

 

判旨

1 憲法一三条がプライバシー権を保障しているとしても、同条により具体的な情報開示請求権までが保障されているとはいえない。したがって、情報開示請求権は、本件条例によって創設的に認められた権利であると解されるので、当該具体的情報が開示請求権の対象となり得るか否かは、本件条例の趣旨・目的に照らして同情報が開示請求の対象として予定されているか否かによる。

 2(一)ところで、本件条例は、個人情報の取扱いについて必要な事項を定めることにより、行政の適正な執行を確保するとともに、基本的人権の理念に基づき個人情報の保護を図ること(一条)を目的としている。

 (1)そして、実施機関は個人情報を収集する際、収集目的を明確にするとともに、その目的達成に必要な範囲内で行われなければならない(六条一項)として、収集対象・方法に制限(六条二項、七条)を加えるとともに、利用提供の制限(八条)を設けたり、その適正な管理(九条、一〇条)を定めて、職員に対し守秘の義務を課している(三条)。

 (2)市民に対しても相互に個人情報保護の重要性を深く認識し、個人情報の保護に努めるとともに、この条例によって保護された権利を正当に行使しなければならない(四条)ものとしている。

 (3)さらに、事業者が事業活動に伴い個人情報の収集等を行うときにも、個人情報の重要性を深く認識して、個人情報の取扱いについて適切な保護措置を講ずるよう努めなければならない(五条)とする。

 (二) 一方、実施機関が管理する情報に対し、当該本人の自己情報開示請求権を認めて、(1)法令または条例の制定により開示することができないもの、(2)個人の評価、診断、判定等に関するもので、本人に知らせないことが正当であると認められるもの、(3)開示することによって公正かつ適正な行政執行が妨げられることが明らかなもの、(4)実施機関が審議会の意見を聴いて公益上特に必要があると認めたもの、以上(1)ないし(4)に該当しない限りは、開示しなければならないものとしている(一二条)。

 そして、自已情報に誤りのある場合には訂正を求め、制限外の情報が記載されている場合には削除を求め、自己情報の目的外利用が認められる場合には中止請求をすることができるものとしている(一三条)。

 3以上によれば、本件条例は個人情報保護の観点から、実施機関その他が濫りに個人情報を収集することを禁ずるとともに、これを確認、監視」、かつ、誤った情報が収集・集積されることによって生じる不利益を防止するため、市民各人に実施機関が管理する自己情報に近付き、これを訂正・削除等する権利を市民各人の具体的権利として保障したものと解することができる

 四1(一)前記のとおり、本件条例は、自己情報について非開示事由に該当しない限りは開示しなければならないものとしているので、本件調査書及び指導要録の非開示部分が「公正かつ適正な行政執行が妨げられることが明らかであること」、もしくは、「個人の評価、診断、判定等に関するもので、本人に知らせないことが正当であると認められるもの」に該当するか否かが問題となる。

 (二)前記のとおり、本件条例は個人情報保護の観点から、市民各人に実施機関が保有する自己情報を確認、監視させる目的で開示請求権等を認めているものと解されるから、その例外となるべき非開示事由の解釈においては、実施機関の恣意的判断を許し、いたずらに非開示事由を拡大するような解釈をしてはならないことはいうまでもない。とりわけ、前記非開示事由である「公正かつ適正な行政執行が妨げられることが明らかであること」、「本人に知らせないことが正当であると認められるもの」という要件に関しては、その判断を厳格にしなければ実施機関の恣意的な判断を招き、開示請求の範囲を不当に狭める結果となるのでその判断は慎重に行われなければならない。これらの条文の規定の仕方に照らしても、被控訴人が開示を拒むためには開示による弊害が現実的・具体的なもので、客観的に明白であることを要するものと解される。

 2ところで、被控訴人は、「(1)本件調査書の『各教科の学習の評定の記録』の『参考事項』欄、『その他の特記事項』欄、並びに、本件指導要録の『教科所見欄』の記載は生徒に対する全体的・人物的評価にわたり、マイナス面も記載される可能性があるという特徴がある。(2)本件調査書の『特別活動等の記録』欄、『スポーツテストらの『備考』欄、『出欠の記録』の『欠席等の主な理由』欄の記載についても、スポーツテストを受けていない理由は何か、長期欠席の理由が、不登校、登校拒否と認められるかという点を巡り、主観的評価、判断が入る余地がある。(3)本件調査書の『行動及び性格の記録』欄、並びに、本件指導要録の『行動の所見』欄の記載も生徒の人物評価にかかわる。

 したがって、これらの記載を開示すれば、時には生徒や保護者が自尊心を傷つけられたり、教員及び学校に反感や不信感を抱く等して生徒指導に支障を来したり、両者間の信頼関係を喪失してトラブルを生じたりするおそれがあり、また、教師が右トラブル等を恐れてマイナス面をありのままに記載しなくなれば、調査書や指導要録の内容が形骸化・空洞化して、適切な入試選抜資料及び教育指導の資料としての機能を果たさなくなる恐れがある。

 以上のとおり、本件調査書、指導要録の非開示部分を開示すれば、『公正かつ適正な行政執行が妨げられること』が合理的に見込まれるし、このように生徒が自尊心を傷つけられたり、教員や学校に不信感を抱いてトラブルが生じることは生徒及び保護者にとっても不利益なことであるから、被控訴人が『本人に知らせないことが正当であると認められるもの』にも該当する。」旨主張して、証人長澤清、同岡田健作(いずれも原審)らはこれに沿った証言をする。

 3(一)しかし、教育上なされる評価は、今後の当該児童・生徒の教育資料等となるものであるから、たとえ、それが教師の主観的評価・判断でなされるものであっても、恣意に陥ることなく、正確な事実・資料に基づき、本人及び保護者からの批判に耐え得る適正なものでなければならない。教育は、当該児童・生徒の長所を延ばすとともに短所や問題点をも指導・改善して、当該児童・生徒の人格の完成を図るものである。本件調査書及び指導要録の非開示部分に記載される内容は、既にみたとおりのもの(前記第三、二2(三)(2)及び同3(三)(2))であるから、仮に、同部分にマイナス評価が記載されるのであれば、正確な資料に基づくのは勿論、日頃の指導等においても本人あるいは保護者に同趣旨のことが伝えられ、指導が施されていなければならないものというべきである。日頃の注意や指導等もなく、マイナス評価が調査書や指導要録のみに記載されるとすれば、むしろ、そのこと自体が問題であり、これによって生徒と 師の信頼関係が破壊されるなどというのは失当である。確かに、評価それ自体は教師の専権であり他から訂正等を強制されるものではない。しかし、事実誤認に基づく不当な評価は正されなければならない。誤った情報や不正な手段で得られた情報に基づく評価のために、不利益な取り扱いを受けることがないよう防止することにも本件条例の趣旨・目的はあるものと解され、特に、教育は各人の人格形成を目的とするものであるから、誤った記載や不当な評価により教育上の不利益を受けることがあってはならない。したがって、本件条例が本件調査書や指導要録の非開示部分を開示の対象として予定していないとは認め難い。確かに、開示により感情的なトラブルが生じないとはいえないが、開示を求める側も、評価の部分についてはマイナス面の記載もなされることを当然認識しているはずであり、このようなトラブルは適切な表現を心掛けることや、日頃の生徒との信頼関係の構築によって避け得るものであり、これに対処するのも教師としての職責であると考えられる。

 (二)ところで、当裁判所が行った調査嘱託の結果からも、調査書や指導要録を開示している自治 において弊害が生じているとは認められない。

 確かに、右調査嘱託の中にはトラブルを生じたことがあった旨報告している事例もある。しかし、右事例は調査書の総合所見欄に「両親ともに教育熱心」と記載されて問題となった事例等である。同事例は「両親が、娘の私服通学のことで中学に何度話合いを求めても学校が回答しなかった。」にもかかわらず、右のような記載がなされたという場合であるから(弁論の全趣旨)、右両親が前記記載に学校側の悪意を感じてもやむを得ない場合だということができ、当該ケースにおいて、このような記載をする必要や、同表現が妥当であったかが疑わしいといえるものである。したがって、右事例等から調査書や指導要録の開示によって弊害が生じているとは認められない。

 (三)以上の点に、先の調査嘱託の結果から、現に多くの自治体で調査書・指導要録の開示が開始されており、歴史が浅いとはいえ、社会の趨勢を示すものと認められるが、これらの自治体において特に問題が生じているとは認め得ない点等を考慮すれば、「所見」欄等の教師の主観的評価を含む記載を開示することにより、「公正かつ適正な行政執行が妨げられることが『明らか』である」とは到底いえない。

 (四)また、「本人に知らせないことが正当であると認められるもの」という要件についても、既に述べたとおり、教育の性質に照らすと、仮に日頃の指導などに表れない不利益な記載等がなされているとすれば、そのこと自体に問題があるのであり、自己の評価等を知ることを本人が希望しているのに、右記載を開示すれば教師との信頼関係が破壊されるなどといって開示を拒む根拠とはなり得ない。

プライバシー権(9) 指紋押捺 最判平成9年11月17日 再入国不許可処分取消等請求

  目次


最判平成9年11月17日 再入国不許可処分取消等請求

要旨

判示事項

いわゆる協定永住許可を受けていた者に対してされた指紋押なつ拒否を理由とする再入国不拒可処分が違法とはいえないとされた事例

裁判要旨

法務大臣が、日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定の実施に伴う出入国管理特別法一条の規定に基づく許可を受けて本邦で永住することができる地位を有していた者に対し、外国人登録法(昭和六二年法律第一〇二号による改正前のもの)一四条一項に基づく指紋の押なつを拒否していることを理由としてした再入国不許可処分は、当時の社会情勢や指紋押なつ制度の維持による在留外国人及びその出入国の公正な管理の必要性など判示の諸事情に加えて、再入国の許否の判断に関する法務大臣の裁量権の範囲がその性質上広範なものとされている趣旨にもかんがみると、右不許可処分が右の者に与えた不利益の大きさ等を考慮してもなお、違法であるとまでいうことはできない。

 

判旨

  事実の概要

 1 上告人は、昭和三四年一二月一日、大韓民国籍を有する父及び母の長女として本邦において出生した大韓民国国民である。

 2 上告人は、日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定(以下「日韓地位協定」という。)一条1(b)に該当するものとして、昭和四四年一〇月一日付けで日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定の実施に伴う出入国管理特別法(以下「出入国管理特別法」という。)一条の許可を受けて、本邦で永住することができる地位(以下右地位のことを「協定永住資格」という。)を取得した。

 3 上告人は、外国人登録法(昭和五七年法律第七五号による改正前のもの)一四条の規定により指紋の押なつが義務付けられる年齢(一四歳)に達した後の昭和四九年一二月二日及び昭和五二年一二月二日に同法一一条一項所定の確認を申請した際には、いずれも、指紋を押なつの上、新たな登録証明書の交付を受けたが、昭和五六年一月九日に右確認を申請した際、区役所職員の度重なる説得にも応じず、指紋の押なつを拒否したため、昭和五八年五月一四日、同法一八条一項八号に該当するとして告発され、同年一一月二六日、同法違反の罪により起訴されて、昭和六〇年八月二三日、福岡地方裁判所小倉支部において有罪判決を受けた。しかし、上告人は、昭和六一年一月四日に外国人登録法(昭和六二年法律第一〇二号による改正前のもの)一一条一項所定の確認を申請した際にも、同法一四条一項の規定する指紋の押なつを拒否し、その後の区役所職員による説得にも応じなかった。

 4 法務大臣は、上告人が指紋の押なつを拒否するようになって以降、上告人が、旅行目的を親族訪問とし、渡航先を韓国及び米国としてした再入国の許可申請に対しては、昭和五六年四月六日付けで許可処分をしたが、上告人が、旅行目的を女性コーラス団のピアノ伴奏とし、渡航先をカナダとしてした再入国の許可申請に対しては、上告人が指紋の押なつを拒否している事情を考慮して、昭和六〇年三月一三日付けで不許可処分をした。

 5 上告人は、昭和六一年五月三〇日付けで、旅行目的を米国D大学留学、渡航先を米国、出発予定年月日を同年七月一〇日、再入国予定年月日を昭和六二年七月とする再入国の許可申請(以下「本件許可申請」という。)をしたが、法務大臣は、上告人の外国人登録法違反の状態が依然として継続し、しかも、翻意の可能性が認められないことなどから、同年六月二四日付けで右申請に対する不許可処分(以下「本件不許可処分」という。)をした。

 6 上告人は、再入国の許可を受けないまま、同年八月一四日、D大学留学のため米国に向けて本邦から出国した。その結果、上告人は、協定永住資格を喪失するに至った。

 7 上告人は、昭和六三年六月二八日、我が国の査証を受けないで米国から本邦に入国しようとして上陸の申請をしたが、出入国管理及び難民認定法(平成元年法律第七九号による改正前のもの)七条一項一号に規定された上陸のための条件に適合していないと認定されたため、同法一一条に基づいて法務大臣に対し異議の申出をしたところ、法務大臣は、同法一二条一項三号に基づき上告人に対して上陸を特別に許可するとともに、同法四条一項一六号、出入国管理及び難民認定法施行規則(平成二年法務省令第一五号による改正前のもの)二条三号の在留資格及び在留期間一八〇日を付与した。

 8 上告人は、右在留期間の更新を受けた後、平成一年一二月には在留期間六か月を付与され、平成二年六月には定住者として在留期間一年の指定を受け、平成三年九月にも定住者として在留期間一年の指定を受けた。上告人は、平成元年八月及び平成二年一〇月の二回にわたり指紋の押なつを拒否したが、昭和六三年七月、平成元年一月及び平成二年六月の三回にわたり再入国の許可を受けている。

 9 上告人は、出生以来本邦に居住しており、義務教育課程を経て私立の高等学校を卒業後愛知県立E大学F学部G科(ピアノ専攻)に入学し、同大学を卒業後、同大学大学院修士課程I科G科(ピアノ専攻)に進み、昭和六〇年に同大学院を卒業したが、同大学院に在学中、米国インディアナ州立D大学大学院の教授の知遇を得て、その指導を受けることになり、昭和六一年四月に同大学院I科(ピアノ専攻)の入学許可を得た。上告人がした本件許可申請は、D大学における右の留学目的を実現するために行ったものであった。

 10 他方、被上告人においては、当時指紋押なつ拒否者の数が増加する傾向を示していたことから、その対応策として、外国人登録法の一部を改正する法律(昭和五七年法律第七五号)の施行(同年一〇月一日)を機に、指紋押なつ拒否者に対して原則として再入国の許可を与えない方針が打ち出され、本件不許可処分も、右方針に基づいてされたものであった。また、本件不許可処分がされた当時は、指紋押なつ拒否運動が全国的な広がりを見せ、在日外国人団体において、指紋押なつ制度反対の意思の表明方法として、登録証明書の切替交付に際して指紋を押なつしない意向を示し、当局の説得期間中も押なつを拒否する、いわゆる留保運動を展開したため、指紋の押なつを留保する者が続出するという社会情勢にあった。

 11 昭和六二年法律第一〇二号による外国人登録法の改正により、指紋の押なつ義務は原則として最初の一回のみとされ(同法一四条一項、五項)、さらに、平成四年法律第六六号による外国人登録法の改正により、協定永住資格を有する大韓民国国民につき指紋押なつ制度が廃止された(同法一四条一項、日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法三条)。

 

  裁判所の判断

二 右事実関係等に基づいて、本件不許可処分の適否につき検討する。

 1 一般に、出入国に関する事務は国際法上国内事項とされていて、外国人の入国にいかなる条件を課するかは専らその国の立法政策にゆだねられているところ、我が国の出入国管理及び難民認定法は、再入国の許可を受けて本邦から出国した外国人に限って、当該外国人の有していた在留資格のままで本邦に再び入国することを認めるものとしている。そして、再入国の許可の要件について、同法二六条一項は、法務大臣は、本邦に在留する外国人(同法一三条から一八条までに規定する上陸の許可を受けている者を除く。)がその在留期間(在留期間の定めのない者にあっては、本邦に在留し得る期間)の満了の日以前に本邦に再び入国する意図をもって出国しようとするときは、法務省令で定める手続により、その者の申請に基づき再入国の許可を与えることができる旨規定するのみで、右許可の判断基準について特に規定していないが、右は、再入国の許否の判断を法務大臣の裁量に任せ、その裁量権の範囲を広範なものとする趣旨からであると解される。なぜならば、法務大臣は、再入国の許可申請があったときは、我が国の国益を保持し出入国の公正な管理を図る観点から、申請者の在留状況、渡航目的、渡航の必要性、渡航先国と我が国との関係、内外の諸情勢等を総合的に勘案した上、その許否につき判断すべきであるが、右判断は、事柄の性質上、出入国管理行政の責任を負う法務大臣の裁量に任せるのでなければ到底適切な結果を期待することができないものだからである。 右のような再入国の許否の判断に関する法務大臣の裁量権の性質にかんがみると、再入国の許否に関する法務大臣の処分は、その判断が全く事実の基礎を欠き、又は社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかである場合に限り、裁量権の範囲を超え、又はその濫用があったものとして違法となるものというべきである(最高裁昭和五〇年(行ツ)第一二〇号同五三年一〇月四日大法廷判決・民集三二巻七号一二二三頁参照)。

 2 以上の見地に立って、本件不許可処分に係る法務大臣の判断が裁量権の範囲を超え又はその濫用があったものとして違法であるか否かにつき検討する。

 前記事実関係等によれば、本件不許可処分は、協定永住資格を有する上告人が、渡航先国である米国における大学留学を旅行目的として本件許可申請をしたのに対し、被上告人が指紋押なつ拒否者の増加という事態に対する対応策として打ち出した指紋押なつ拒否者に対しては原則として再入国の許可を与えないという方針に基づき、上告人が外国人登録法(昭和六二年法律第一〇二号による改正前のもの)一四条一項の規定に違反して指紋の押なつを拒否していることを専らその理由としてされたものであって、他に法務大臣が上告人の右許可申請に対する許否の判断に当たり右申請を許可することが相当でない事由として考慮した事情の存在はうかがわれない。

 出入国管理特別法一条の規定に基づき本邦で永住することを許可されている大韓民国国民については、日韓地位協定三条、出入国管理特別法六条一項所定の事由に該当する場合に限って、出入国管理及び難民認定法二四条の規定による退去強制をすることができるものとされていることに加えて、日韓地位協定四条(a)の規定により、日本国政府は我が国における教育、生活保護及び国民健康保険に関する事項について妥当な考慮を払うものとされ、右規定の趣旨に沿って行政運用上日本国民と同等の取扱いがされているのであって、このような協定永住資格を有する者による再入国の許可申請に対する法務大臣の許否の判断に当たっては、その者の本邦における生活の安定という観点をもしんしゃくすべきである。しかるところ、本件不許可処分がされた結果、上告人は、協定永住資格を保持したまま留学を目的として米国へ渡航することが不可能となり、協定永住資格を保持するために右渡航を断念するか又は右渡航を実現するために協定永住資格を失わざるを得ない状況に陥ったものということができるのであって、本件不許可処分によって上告人の受けた右の不利益は重大である。

 しかしながら、そもそも、外国人登録法が定める指紋押なつ制度は、本邦に在留する外国人の登録を実施することによって外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もって在留外国人の公正な管理に資するという目的を達成するため、戸籍制度のない外国人の人物特定につき最も確実な制度として規定されたものであって、出入国の公正な管理を図るという出入国管理行政の目的にも資するものであるから、法務大臣が、指紋押なつの拒否が出入国管理行政にもたらす弊害にかんがみ、再入国の許可申請に対する許否の判断に当たって、右申請をした外国人が同法の規定に違反して指紋の押なつを拒否しているという事情を右申請を許可することが相当でない事由として考慮すること自体は、法務大臣の前記裁量権の合理的な行使として許容し得るものというべきである。のみならず、その後の推移はともかく、本件不許可処分がされた当時は、指紋押なつ拒否運動が全国的な広がりを見せ、指紋の押なつを留保する者が続出するという社会情勢の下にあって、出入国管理行政に少なからぬ弊害が生じていたとみられるのであり、被上告人において、指紋押なつ制度を維持して在留外国人及びその出入国の公正な管理を図るため、指紋押なつ拒否者に対しては再入国の許可を与えないという方針で臨んだこと自体は、その必要性及び合理性を肯定し得るところであり、その結果、外国人の在留資格いかんを問わずに右方針に基づいてある程度統一的な運用を行うことになったとしても、それなりにやむを得ないところがあったというべきである。他方で、前記事実関係等によれば、上告人は、本件不許可処分の前のみならずその後も指紋押なつの拒否を繰り返しており、上告人が外国人登録制度を遵守しないことを表明し、これを実施したものと被上告人に受け止められても無理からぬ面があったといえなくもない。

 右のような本件不許可処分がされた当時の社会情勢や指紋押なつ制度の維持による在留外国人及びその出入国の公正な管理の必要性その他の諸事情に加えて、前示のとおり、再入国の許否の判断に関する法務大臣の裁量権の範囲がその性質上広範なものとされている趣旨にもかんがみると、協定永住資格を有する者についての法務大臣の右許否の判断に当たってはその者の本邦における生活の安定という観点をもしんしゃくすべきであることや、本件不許可処分が上告人に与えた不利益の大きさ、本件不許可処分以降、在留外国人の指紋押なつ義務が軽減され、協定永住資格を有する者についてはさらに指紋押なつ制度自体が廃止されるに至った経緯等を考慮してもなお、右処分に係る法務大臣の判断が社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかであるとはいまだ断ずることができないものというべきである。したがって、右判断は、裁量権の範囲を超え、又はその濫用があったものとして違法であるとまでいうことはできない。

プライバシー権(8)・東京高裁平成13年7月18日



  目次

東京高裁平成13年7月18日

 

要旨

一 私人の有するプライバシーの権利の重要性と、マスメディアが国民に対して豊富な情報を提供することが表現の自由の一内容として保障されていることを合わせ考えれば、マスメディアによる報道が少しでも私人のプライバシーを侵害すれば、当然に不法行為となるとすることは相当でなく、当該報道の目的・態様その他の諸要素と当該プライバシー侵害の内容・程度その他の諸要素とを比較衡量して決するほかない。

二 「内紛で分かった常勤理事は『高給取り』!年収1500万円」などと題する週刊誌記事は、右理事の収入のほか、その家計における教育費、住宅ローン・カードローンの返済、生命保険料等の私生活上の事実や個人的情報に不必要に踏み込んでいるが、右法人が交通遺児の援護団体で寄付や善意の募金によって運営されていること、仮名が用いられていること等を考慮すれば、違法性を欠くものと評価すべきである。

三 マスメディアに情報を提供する行為についてまで、その結果他人の権利が侵害されることになるにもかかわらず、その自由が保障されているものとは考えられないから、右理事の個人情報が記載された陳述書の写しを週刊誌記者に交付した者の行為については、違法性を否定する理由はない。

 

判旨

  事案の概要

控訴人文藝春秋は、平成11年9月22日発行の「週刊文春」同月30日号に、「“あしながおじさん”交通遺児育英会内紛でわかった常勤理事は『高給とり』!年収1500万円」との見出しの下に、原判決別紙のとおりの本件記事を掲載した。本件記事には、以下の記述が含まれている。

(一)〈1〉「D理事は、収入が断たれたことによる家計の窮状を、切々と訴えている。」

  〈2〉「『Dさんは、善意の寄付で成り立つ公的機関の責任ある立場の方なんですから、自ずと節度ある生活が求められるはずです。ところが、自分がいかに給与が必要かと訴える理由が、クビを傾げたくなるような内容なんです』(前出・育英会関係者)」

  〈3〉「先の提出資料によれば、1月の主な支出を見ると、

 ・家計・教育費36万円

 ・住宅ローン返済42万円

 ・カードローン返済19万円

 ・生命保険料26万円(全8件)

 ・職業費(書籍代・交際費)約10万円

 などで、合わせて月に138万円余りになるという。」

  〈4〉「結果、常勤の収入があったときでさえ、毎月約40万円も収入が不足し、銀行の当座貸越やカードローンを利用し、ボーナスで家計を埋め合わせていたというのだ。」

  〈5〉「日本の平均的な家計は、世帯人員2.6人で、月収入約49万円、支出が約32万5000円(97年総務庁調べ)だから、D氏の家計の突出ぶりがわかる。」

  〈6〉「D理事の言い分を見てみよう。

 〈住宅ローンについてですが、私は現在住んでおります住宅を昭和56年に3180万円で購入しましたが、頭金150万円の外はすべて住都公団と富士銀行の住宅ローンにしました。現在の残額は両方で約2600万円で月額返済額は約42万円弱です〉〈銀行のカードローンは、月々の不足分や交際費等の支出にあてるために行ったもので、現在、五つの銀行から計1550万円の借入があり、月額の返済は合計で19万円となっております〉〈生命保険料は、知人や友人から頼まれて断り切れなかったものが積み重なって、毎月の支払額が多くなってしまったものです。今回陳述書を書くために整理してみて、支払保険料が随分多くなってしまったと反省しており、今後少し整理していく積もりです〉〈職業費の10万円ですが、普通の会社であれば勤務先の必要経費として認められるようなものも、育英会としての性格上必要経費とすることができず、長年に渡って殆ど全てを自己負担としてきました〉」

  〈7〉「そこで、D理事の家計診断を、家計アナリストのEさんに依頼した。」

 (二) 「まずは、住宅ローンから。『支払残額から推測し、仮に30年ローンで組んだとすると、当時の金利が高かったとしても、月々の返済額は20万円弱で済むはずです。50歳近くで借入しているので、25年ローンということも考えられますが、その場合でも支払残額が2600万円というのはあり得ません』

 保険アナリストも疑問を呈する。

 『一般のサラリーマン家庭で考えると、支払い保険料の家計に占める割合が19パーセント近いのは、多すぎますね。26万円の保険料は、仮に掛け捨て保険とすると、保険金は2億円になってしまいます。ご本人が言うように、支払い保険料を少なくした方がいいでしょうね』

 前出・Eさんが続ける。

 『この家計では、ふつうの家庭では成り立たないでしょうね。98万円も月収があるのに、なぜ、家計のために1500万円も借入があるのか。もう一度、支出を見直すことをお勧めします』」

  争点

 被控訴人は、控訴人文藝春秋に対して、本件記事が被控訴人のプライバシーを侵害するとして慰謝料の支払を求め、控訴人Bに対して、同人が入手した地位保全等の仮処分事件に係る被控訴人作成の本件陳述書を控訴人文藝春秋の記者に交付すれば、被控訴人のプライバシーが侵害されることを認識しつつ、これを交付又は中身を了知できる態様で見せ、被控訴人のプライバシーを侵害したとして慰謝料の支払を求めている。

 なお、被控訴人は、本件記事が被控訴人を仮名扱いにしていることについては、たとえ仮名扱いしているとしても、被控訴人の財団法人交通遺児育英会の在勤年数は約30年に及ぶこと、専務理事を除けば常勤理事は昭和57年以降被控訴人一人であること、しかも、被控訴人以外の常勤理事であるF元専務理事及び現専務理事の控訴人Bについては本文記事中に実名で登場することからすると、育英会の関係者、被控訴人の友人・知人等にとっては、本件記事の対象者が被控訴人であると特定することは容易であって、プライバシーの侵害については、公表の相手方が不特定又は多数である必要はないし、仮名であっても、事情を知る者が容易に当該人物を特定し得る場合には成立すると解するのが相当であると主張する。

 これに対し、控訴人文藝春秋は、本件記事における被控訴人に関する記述は、社会の正当な関心事であり、その表現方法も、被控訴人の名前を実名で報じず、被控訴人を「D2」という仮名で扱っており、一般読者は、本件記事を読んでも、これが被控訴人に関するものであるとは認識し得ないなど妥当なものであるから、被控訴人のプライバシーを侵害することはないと主張し、控訴人Bは、記者の取材に対して本件陳述書を見せたことはあるが交付はしていない、記者は独自の取材をし、独自の判断に基づき記事として掲載するのであるから、控訴人Bの行為と記事の掲載との間に相当因果関係はなく、控訴人Bにおいて被控訴人のプライバシーが侵害されることを認識していた事実もないと主張している。

 

  裁判所の判断

 すなわち、本件記事は被控訴人の家計支出の具体的な使途や金額の記載を含むものであり、一般人を基準にして考えるならば、これらの事実は他人に知られたくない私生活上の事実であるから、本件記事のうち一部の記述は、これをみだりに公表されないとの被控訴人の法的利益(プライバシーの権利)を侵害するものであることを否定することができない。また、これらの事実が、被控訴人が育英会を相手方として申し立てた地位保全等の仮処分事件において自ら作成し、提出した本件陳述書に記載された事実であったからといって、被控訴人がこれを一般に公表することを望んだということができないことはもちろん、これが「一般の人々に知られた事実」であるということもできない。

  (2)  ところで、私人の有するプライバシーの権利(一般に他人に知られたくないであろう私生活上の事実や個人的情報をみだりに公表されない法的利益)は、個人の尊厳を維持するために極めて重要な権利である。しかし、他方で、新聞、出版、放送その他のマスメディアが国民に対して豊富な情報を提供することが国民の知る権利にとってとても大切なことであり、マスメディアが表現の自由の一内容として報道の自由を保障されていることを考えるならば、マスメディアによる報道が少しでも私人のプライバシーを侵害すれば、当然にこれが違法であってその私人に対する不法行為となるとすることは相当ではない。このような場合には、当該報道の目的、態様その他の諸要素と当該プライバシー侵害の内容、程度その他の諸要素とを比較衡量して、当該事案においてはいずれの権利を優先させるべきかを決するほかはない。

 この比較衡量において重要な考慮要素となり得るのは、報道については、当該報道の意図・目的(公益を図る目的か、興味本位の私事暴露が目的かなど)、これとの関係で私生活上の事実や個人的情報を公表することの意義ないし必要性(これをしなければ公益目的を達成することができないかなど)、情報入手手段の適法性・相当性(例えば盗聴などの違法な手段によって入手したものかなど)、記事内容の正確性(真実に反する記述を含んでいるかなど)、当該私人の特定方法(実名・仮名・匿名の別など)、表現方法の相当性(暴露的・侮蔑的表現か、謙抑的表現かなど)等であり、プライバシー侵害については、公表される私生活上の事実や個人的情報の種類・内容(どの程度に知られたくない事実・情報なのか、既にある程度知られている事実・情報なのかなど)、当該私人の社会的地位・影響力(いわゆる公人・私人の別、有名人か無名人かなど)、その公表によって実際に受けた不利益の態様・程度(どの範囲の者に知られたか、どの程度の精神的苦痛を被ったかなど)等である。

  (3)  これを本件について検討すると、次のようにいうことができる。

   ア 本件記事が報道の目的としているのは、その論旨からすれば、育英会が交通遺児の援護団体で寄附や善意の募金によって運営されている公益法人であるのに、その常勤理事が年収1500万円という高給を得ていることの妥当性についての問題提起であるということが一応できる。本件記事には興味本位的な要素も存在することは指摘し得るところであるが、その論旨による限り、これが公益を図る目的に出たものでないとはいえないであろう。

   イ 本件記事に記載された被控訴人の家計に関する個人的情報は、被控訴人が自ら作成した本件陳述書に基づくものである。控訴人文藝春秋は、G記者が控訴人Bから写しの交付を受けてこれを入手した(その詳細は、原判決がその「事実及び理由」欄の「第三 争点に対する判断」の二の項の1、2(原判決39頁1行目から42頁6行目まで)で説示するところと同一であるから、この説示を引用する。)。控訴人Bのこの行為の適否については後記2(1) に述べるが、控訴人文藝春秋(G記者)が違法な手段でこれを入手したということはできない。また、本件記事に記載された上記の個人的情報には本件陳述書の内容と特段異なるところはなく、本件陳述書の内容が真実である限りは、正確な情報であるということになる。

   ウ 本件記事の上記アの論旨のためには、育英会常勤理事の報酬額を明らかにすることは必須であるが、これが不相当な「高給」であるかどうかを判断するための材料は、常勤理事の勤務形態、職務内容とその困難性、当該理事の育英会での経歴、功績、他の同種公益法人における理事の報酬の実態、一般企業における同程度の役職者の給与・報酬の水準等であるはずであるが、本件記事においては、わずかに国家公務員の給与や日本の平均家計における月収が約49万円であることに触れるだけで、上記の情報には乏しい内容となっている。その反面、常勤理事が支給された報酬をどのような使途で支出するかの点には、上記論旨からすればさしたる重要性があるとは考えられないが、本件記事は、被控訴人の家計における教育費、住宅ローン・カードローンの返済、生命保険料等の具体的な金額を公表するもので、しかも、「家計アナリスト」や「保険アナリスト」によるこれが多いとか少ないとかの論評まで紹介するものとなっており、上記論旨には必ずしもそぐわない内容となっている。この点で、本件記事は、被控訴人の私生活上の事実や個人的情報に不必要に踏み込んでいるといわざるを得ないことは、原判決がその「事実及び理由」欄の「第三 争点に対する判断」の一の項の3(原判決28頁9行目から35頁7行目まで)で説示するとおりであるから、この説示も引用する。

   エ 本件記事は、被控訴人の実名を記載せず、また、その頭文字を記載するといった方法も採らず、「D2」というそれ自体では被控訴人を特定する手掛かりとなり得ない仮名を仮名と断って用いている。これは、本件記事が被控訴人のプライバシーの保護に一定の配慮をしたものと評価することができる。また、本件記事が上記のように被控訴人の家計内容を公表しているのは、被控訴人の作成した本件陳述書の記載に基づくものであるが、本件陳述書には、それ以外にも、食費、衣服費等の明細や、家族構成、二男の在学校名、妻の病歴、被控訴人の資産状況その他多くの個人的情報が記載されているが、本件記事がこれらを採り上げていないのは、当然のこととはいいながら、やはり被控訴人のプライバシーの保護に一定の配慮をしたものと評価することができよう。

   オ 本件記事は、被控訴人の「高給」と家計支出についての批判的な見方が基礎となっており、これを週刊誌の記事によく見られるやや冷笑的・揶揄的な文章表現によって記述しており、被控訴人にとっては不快なものであると思われるが、殊更に侮蔑的な文章表現が用いられているというわけではなく、表現方法の相当性という点では特段の問題がない。

   カ 本件記事によって公表された被控訴人の家計に関する個人的情報は、一般にも被控訴人にとっても、他人に知られたくない性質のものであると考えられる。しかし、これが公表されることによって、極度の羞恥、当惑のあまり、人の顔が見られなくなるというほどのものでもないであろう。その意味で、本件記事による被控訴人のプライバシー侵害が最高度のものであるとまではいうことができない。

   キ 被控訴人は、財団法人交通遺児育英会という著名な公益法人の常勤理事であり、その意味でいわゆる公人たる性格を有することを否定することはできないであろうが、世間的には全くの無名人であって、そのプライバシーがある程度さらけ出されることを甘受しなければならないほどの公的地位にあるとまではいうことができない。

   ク 本件記事は被控訴人について「D2」という仮名を用いているが、「D2・常任理事(仮名=66)」と記載されているので、本名がこれと異なる66歳の常勤の常任理事であることが記事自体から判明する。そして、育英会の常勤理事は外には専務理事である控訴人Bのみであり、控訴人Bは本件記事に実名で登場するから、少し調査をすれば、あるいは育英会の内部事情を多少知る者であれば直ちに、「D2」が被控訴人を指すことが判明する。しかし、多くの発行部数を有する著名な週刊誌である「週刊文春」の読者の大多数にとっては、本件記事を閲読しても、被控訴人は実名を伴わない仮名の存在のままで終わるのであり、本件記事によって実名を伴う存在である被控訴人を識別してそのプライバシーを知るのは、不特定でも多数でもない特定の少数の者に限られる。したがって、実名報道がされた場合に比べれば、被控訴人の被る精神的苦痛ははるかに少ないということができよう。もっとも、本件記事から直ちに被控訴人を特定することができない者でも、少し調査をすれば容易に被控訴人を特定することができるのであるから、仮名報道であるからといって、被控訴人の被る精神的苦痛を軽視することも相当ではない。

  (4)  本件記事の目的、態様その他の諸要素とこれによる被控訴人のプライバシー侵害の内容、程度その他の諸要素については、上記(3) のようにいうことができる。これに基づく比較衡量によって、いずれの権利を優先させるべきかを決すべきである。

 そうすると、本件記事は、公益を図る目的に出たものでないとはいえず(上記(3) ア)、違法な手段で入手した個人的情報を記載するものではなく(同イ)、被控訴人の私生活上の事実や個人的情報に不必要に踏み込んでいるが(同ウ)、記載する個人的情報の取捨選択の点で一定の配慮がされており(同エ)、記事内容の正確性や表現方法の相当性の点でも特段の問題がない(同イ、オ)、そして、被控訴人は、そのプライバシーがある程度さらけ出されることを甘受しなければならないほどの公的地位にあるとまではいえないが(同キ)、本件記事によって最高度のプライバシーに属する個人的情報を公表されたとまではいえず(同カ)、仮名が用いられたことによって、精神的苦痛が実名報道がされた場合に比べてはるかに少なかった(同ク)のである。

 これらの諸事情に基づいて、本件記事による報道の自由を保障する必要性と本件記事によって公表された被控訴人のプライバシーを保護する必要性とを比較衡量すると、本件においては、プライバシーの侵害は決して無視してよいようなものではないが、いずれかといえば報道の自由を保障する必要性が優先し、控訴人文藝春秋が本件記事を掲載した行為は、報道の自由を保障するという観点から違法性を欠くものと評価すべきであり、被控訴人に対する不法行為とならないと解するのが相当である。ちなみに、仮に本件記事において、仮名ではなく被控訴人の実名が用いられていたとすれば、比較衡量の結果、違法性の有無について上記とは異なる結論に達するであろう。

プライバシー権(7)・
大阪高裁平成12年2月29日 堺通り魔殺人事件名誉毀損訴訟


  目次


【大阪高裁平成12年2月29日 堺通り魔殺人事件名誉毀損訴訟 】

要旨

一 少年犯罪の実名報道についての表現の自由と名誉権の侵害との調整においては、少年法61条の存在を尊重しつつも、なお表現行為が社会の正当な関心事であり、かつその表現内容・方法が不当なものでない場合には、その表現行為は違法性を欠くものと解すべきである。

二 幼稚園児等が当時19歳の少年に殺害された通り魔事件について写真入りで実名報道する本件月刊誌記事については、社会の正当な関心事であり、その内容は真実であると認められるから、右表現行為は違法性を欠くというべきである。

 

 

判旨

第二 事案の概要

 本件は、平成一〇年一月八日早朝、当時一九歳の少年であった被控訴人が、大阪府堺市内において、シンナー吸引中幻覚に支配された状態で自宅から文化包丁を持ち出し、登校途中の女子高校生を刺して重症を負わせた後、幼稚園の送迎バスを待っていた母子らを襲い、逃げまどい転倒した五歳の幼女に馬乗りになって背中を突き刺して殺害し、さらに娘を守ろうとして蔽いかぶさった母親の背中にも包丁を突き立てて重症を負わせた、いわゆる堺通り魔殺人事件について、控訴人会社が発行する月間誌「新潮45」に、被控訴人の実名、顔写真等により被控訴人本人であることが特定される内容の「ルポルタージュ『幼稚園児』虐殺犯人の起臥」と題する本件記事が掲載されたため、被控訴人がプライバシー権、氏名肖像権、名誉権等の人格権ないし実名で報道されない権利が侵害されたとして、右記事の執筆者、雑誌の編集長及び発行所に対し、不法行為による損害賠償と謝罪広告を求めた事案

  裁判所の判断

  1 いわゆるプライバシー権、肖像権及び名誉権は、その権利ないし法益の内容・性質及び対象が異なることから、これらを一律に論じることができないとしても、いずれも一般的には憲法一三条にその根拠を求めることができ、公共の福祉に反しない限り、最大限に尊重されるべきものと解されている。これらの権利を人格権とみるか人格的利益とみるかの違いはあっても、正当な理由がなくこれを侵害された場合には、不法行為に基づく損害賠償等の請求が認められるといわなければならない。

 一方、憲法二一条一項は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定しており、この表現の自由には、国民が自らその担い手として思想信条等を表現する自由と、その受け手として新聞・テレビ・書籍・雑誌等を通じて表現行為を享受することを含むといわれている。そして、表現の自由は、それ自体内在的な制約を含むとはいえ、民主主義の存立基盤であるから、憲法の定める基本的人権の体系中において優越的地位を占めるものではあるが、常に他の基本的人権に優越するものとまではいえない。そこで、表現行為によって個人のプライバシー権、肖像権及び名誉権が侵害された場合、表現の自由とプライバシー権等の侵害との調整においては、表現の自由の憲法上の右の地位を考慮しながら慎重に判断されなければならない。

 このような観点からすれば、表現の自由とプライバシー権等の侵害との調整においては、表現行為が社会の正当な関心事であり、かつその表現内容・方法が不当なものでない場合には、その表現行為は違法性を欠き、違法なプライバシー権等の侵害とはならないと解するのが相当である。

 そして、社会の正当な関心事であるか否かは、対象者の社会的地位や活動状況と対象となる事柄の内容によって決まるものというべきところ、犯罪容疑者については、犯罪の内容・性質にもよるが、犯罪行為との関連においてそのプライバシーは社会の正当な関心事となり得るものであり、また逆に、正当な関心事であっても、表現行為がその内容・方法において不当なものであれば、その表現行為は違法性を欠くとすることはできない。

  2 次に、実名報道されない人格的利益ないし実名報道されない権利について検討するに、人格権には、社会生活を営む上において自己に不利益な事実に関し、みだりに実名を公開されない人格的利益も含まれているということができる。しかし、プライバシー権等の侵害、特に人に知られたくない私生活上の事情や情報の公開については、実名報道ないしそれに類する報道を前提としているから、人格権ないしプライバシーの侵害とは別に、みだりに実名を公開されない人格的利益が法的保護に値する利益として認められるのは、その報道の対象となる当該個人について、社会生活上特別保護されるべき事情がある場合に限られるのであって、そうでない限り、実名報道は違法性のない行為として認容されるというべきである。

 ところで、少年法六一条には、「家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない」旨規定されている。この規定は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行うことを目的とする少年法の目的に沿って、将来性のある少年の名誉・プライバシーを保護し、将来の改善更生を阻害しないようにとの配慮に基づくものであるとともに、記事等の掲載を禁止することが再犯を予防する上からも効果的であるという見地から、公共の福祉や社会正義を守ろうとするものである。すなわち、少年法六一条は、少年の健全育成を図るという少年法の目的を達成するという公益目的と少年の社会復帰を容易にし、特別予防の実効性を確保するという刑事政策的配慮に根拠を置く規定であると解すべきである。

 したがって、少年法六一条が、新聞紙その他の出版物の発行者に対して実名報道等を禁じていることによって、その報道の対象となる当該少年については社会生活上特別保護されるべき事情がある場合に当たることになるといえるにしても、そもそも同条は、右のとおり公益目的や刑事政策的配慮に根拠を置く規定なのであるから、同条が少年時に罪を犯した少年に対し実名で報道されない権利を付与していると解することはできないし、仮に実名で報道されない権利を付与しているものと解する余地があるとしても、少年法がその違反者に対して何らの罰則も規定していないことにもかんがみると、表現の自由との関係において、同条が当然に優先するものと解することもできない。

 少年法六一条の違反者に対して何らの罰則も規定されていないことは、憲法における「言論出版等の自由」の規定への顧慮及び少年法の社会的機能に照らして、このような規定の遵守をできる限り社会の自主規制に委ねたものであり、新聞紙その他の出版物の発行者は、本条の趣旨を尊重し、良心と良識をもって自己抑制することが必要であるとともに、表現行為を享受する受け手の側にも、本条の趣旨に反する新聞紙その他の出版物ないしそれらの発行者に対しては厳しい批判が求められているものというべきである。

 したがって、前記のとおり、表現の自由とプライバシー権等の侵害との調整においては、少年法六一条の存在を尊重しつつも、なお、表現行為が社会の正当な関心事であり、かつその表現内容・方法が不当なものでない場合には、その表現行為は違法性を欠き、違法なプライバシー権等の侵害とはならないといわなければならない。

  3 以上を前提として本件をみるに、本件事件は、早朝、通学、通園途中の女子高生及び幼稚園児と園児の母親が路上で殺傷されるという悪質重大な事件であり、被疑者として逮捕された被控訴人がシンナー吸引中で、被害者らとは何の因縁もない者であったこともあいまって、被害者及び犯行現場の近隣にとどまらず、社会一般に大きな不安と衝撃を与えた事件であり、社会一般の者にとっても、いかなる人物が右のような犯罪を犯し、またいかなる事情からこれを犯すに至ったのであるかについて強い関心があったものと考えられるから、本件記事は、社会的に正当な関心事であったと認められる。

4 そこで、本件記事の表現内容・方法が不当なものでないか否かについて検討する。

(一) 一般に、犯罪の被疑者ないし被告人の姓名が市民の知る権利の対象であるか否かについては争いがあるが、犯罪の被疑者ないし被告人は未だ犯人とは決まっていないという推定無罪の原則と、犯人であったとしても家族などに影響があり、本人のスムーズな社会復帰の妨げになるという理由から、犯罪事実の報道においては、匿名であることが望ましいことは明らかであり、これは犯人が成人であるか少年であるかによって差異があるわけではない。

 他方、社会一般の意識としては、右報道における被疑者等の特定は、犯罪ニュースの基本的要素であって犯罪事実と並んで重要な関心事であると解されるから、犯罪事実の態様、程度及び被疑者ないし被告人の地位、特質、あるいは被害者側の心情等からみて、実名報道が許容されることはあり得ることであり、これを一義的に定めることはできないが、少なくとも、凶悪重大な事件において、現行犯逮捕されたような場合には、実名報道も正当として是認されるものといわなければならない。

(二) これを本件についてみるに、本件犯罪事実は、前記のとおり極めて凶悪重大な事犯であり、被控訴人が右犯罪事実について現行犯逮捕されていることと、被控訴人とは何の因縁もないにもかかわらず無残にも殺傷された被害者側の心情をも考慮すれば、実名報道をしたことが直ちに被控訴人に対する権利侵害とはならないといわなければならない。

(三) 被控訴人は、実名等で少年が特定されるような報道をすることは、少年の将来の更生を阻害するものであって常に許されない旨主張する。

 確かに、事件関係者以外ほとんど知られていない犯罪事実について、実名及び写真等で少年と特定される報道がされると、いずれ地域に帰り地域の中で生活することになる少年にとっては、犯罪報道により「非行少年」又は「犯罪者」であるとのレッテルを貼られると、更生の妨げになることがあり得ることは被控訴人の主張のとおりである。

 しかしながら、本件犯罪事実は、前記のとおり、極めて凶悪重大であり、実名での報道はなかったものの、被控訴人の犯行事実を目撃した者も多く、しかも新聞やテレビ等のマスコミに連日報道されており、口コミで伝えられることも多いと思われるから、少年の居住する地域住民にとっては、本件記事が出る前から被控訴人の実名や本件犯罪事実を知悉しているとみるのが相当である。また、地域住民以外の一般市民は、本件記事によって被控訴人の実名を知ったと思われるが、仮にそうであるとしても、被控訴人を知らない一般市民が被控訴人の実名を永遠に記憶しているとも思えないし、仮に一部の市民が被控訴人の名前を記憶していたとしても、そのことによって直ちに被控訴人の更生が妨げられることになるとは考え難い。

 そもそも、本件のように重大な犯罪を犯した被控訴人が社会に復帰した場合に、いかなる生き方をしようとしているのか不明である上、その生き方が真に被控訴人の更生に繋がるものとしても、その場合に本件記事に実名が記載されたことが何ゆえにその更生の妨げになるかについては、被控訴人は何ら主張立証していない。

 したがって、本件記事に被控訴人の実名が記載されたことによって、被控訴人が社会復帰した後の更生の妨げになる可能性が抽象的にはあるとしても、そして更生の妨げになる抽象的な可能性をも排除することが少年法六一条の立法趣旨であるとしても、そのことをもって控訴人らに対する損害賠償請求の根拠とすることはできないといわなければならない。

(四) 本件記事は、控訴人らの主張によれば、本件事件の「表層を切り裂き、被疑者とされている被控訴人の姿を、その生育歴、境遇、家族や周辺との関係の中から浮き彫りにしようとする」目的で行った「調査報道」であると解されるところ、控訴人高山文彦こと工藤雅康(以下「控訴人高山」という。)の取材方法の適否は別として、被控訴人も本件記事の内容が虚偽であってそのため被控訴人の名誉が傷つけられた旨の主張をしていないから、本件記事の内容は事実に反するものではないと認められ、また、本件記事には被控訴人の親族に関する記載もあるが、それらの者に対するプライバシーの侵害があるか否かはさておくとして、こと被控訴人に関する限りは、その成育歴、境遇、家族や周辺との関係を自らの足で取材した材料に基づいて記されたものであって、表現方法において特に問題視しなければならないところも見受けられない。

 もっとも、控訴人らは、控訴人高山が本件事件について実名報道を行おうと決めたのは、「少年」の尊厳を認め、匿名性の中に埋没させずすべてを事実として書き、「少年」に自分のしたことを明確に認識させた上で、分からせるべきであると考えたためである旨主張し、控訴人高山は、乙第五号証の記載及び原審における本人尋問の結果中においても同様のことを述べている。確かに、本件事件の重大性ばかりでなく被控訴人の成育歴等に接した控訴人高山が、匿名性の中に埋没させずすべてを事実として書くことを思い立ったことは理解できなくはないが、本件記事において、実名によって被控訴人と特定する表現がなかったとしても、その記事内容の価値に変化が生じるものとは思われず、控訴人らが本件記事のあとがきで述べるように、本件事件の本質が隠されてしまうものとも考えられない。しかも、本件記事によって被控訴人に自分のしたことを認識させ分からせることができるかどうかは不明というべきであるし、そもそも控訴人らにそれをする権利があるとも解されないから、この点に関する控訴人らの主張は理由がない。

(五) そこで、さらに、本件記事が被控訴人の主張するプライバシー権、氏名肖像権、名誉権を侵害するものであるか否かについて検討する。

 プライバシーの権利は、みだりに私生活へ侵入されたり、他人に知られたくない私生活上の事実、情報を公開されたりしない権利であるが、前記のとおり、表現の自由とプライバシー権の侵害との調整においては、表現行為が社会の正当な関心事であり、かつその表現内容・方法が不当なものでない場合には、その表現行為は違法性を欠き、違法なプライバシー権の侵害とはならないと解すべきところ、本件においては、前記のとおり、本件記事は、表現行為が社会の正当な関心事であり、その表現内容・方法も不当なものとはいえないから、被控訴人に対する権利侵害とはならない。

 また、被控訴人の主張する氏名肖像権は、いわゆる肖像権と同義と思われるが、肖像権は、何人もみだりにその容貌・姿態を撮影されたり、撮影された肖像写真を公表されない権利であり、表現の自由と肖像権の侵害との調整においては、プライバシー侵害と同様に、表現行為が社会の正当な関心事であり、かつその表現内容・方法が不当なものでない場合には、その表現行為は違法性を欠き、違法なプライバシー権の侵害とはならないと解すべきである。これを本件についてみるに、前記のとおり、本件記事は、表現行為が社会の正当な関心事であるが、本件犯罪事実の被疑者が一九歳とはいえ少年であり、本件記事において、顔写真によって被控訴人と特定し得る表現がなかったとしても、その記事内容の価値に変化が生じるものとは解されず、しかも用いられた写真が被控訴人の中学卒業時のアルバム写真であって、本件犯行時のかなり前のものであることからすると、本件記事に当該写真を掲載しなければならなかった必要性については疑問を感じざるを得ないところであるが、前記のとおり、犯罪報道における被疑者等の特定は、犯罪ニュースの基本的要素であって犯罪事実と並んで重要な関心事であると解されることと、本件事件の重大性にかんがみるならば、当該写真を掲載したことをもって、その表現内容・方法が不当なものであったとまではいえず、それは被控訴人に対する権利侵害とはならないといわなければならない。

 さらに、名誉権は、人がその品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的な評価、すなわち社会的名誉であるが、表現の自由との調整において、一般的には、その行為が公共の利害に関する事実に係り専ら公益を図る目的に出た場合には、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、右行為に違法性がないとされているが、公共の利害に関する事実とは社会の正当な関心事であり、公共の利害に関する事実に係る報道は公益を図る目的でされるのが通常であるから、表現行為が社会の正当な関心事であり、かつその表現内容が真実であれば、その表現行為は違法性を欠き、違法なプライバシー権の侵害とはならないと解すべきである。これを本件についてみるに、前記のとおり、本件記事は、社会の正当な関心事であり、本件記事の内容は真実であると認められるから、右表現行為に違法性はない。

プライバシー権(6)最判平成14年9月24日 石に泳ぐ魚

 

 目次

 

最判平成14年9月24日 石に泳ぐ魚

判示事項

名誉,プライバシー等の侵害に基づく小説の出版の差止めを認めた原審の判断に違法がないとされた事例

裁判要旨

甲をモデルとし,経歴,身体的特徴,家族関係等によって甲と同定可能な乙が全編にわたって登場する小説において,乙が顔面にしゅようを有すること,これについて通常人が嫌う生物や原形を残さない水死体の顔などに例えて表現されていること,乙の父親が逮捕された経歴を有していることなどの記述がされていることなど判示の事実関係の下では,公共の利益にかかわらない甲のプライバシーにわたる事項を表現内容に含む同小説の出版により公的立場にない甲の名誉,プライバシー及び名誉感情が侵害され,甲に重大で回復困難な損害を被らせるおそれがあるとして,同小説の出版の差止めを認めた原審の判断には,違法がない。

 

判旨

  事実の概要

 1 本件は,原審控訴人D(以下「D」という。)が執筆し,上告人A1(以下「上告人A1」という。)が編集兼発行者となって上告人株式会社A2社(以下「上告人A2社」という。)が発行した雑誌において公表された小説「E」によって名誉を毀損され,プライバシー及び名誉感情を侵害されたとする被上告人が,D及び上告人らに対して慰謝料の支払を求めるとともに,D及び上告人A2社に対し,同小説の出版等の差止めを求めるなどしている事案である。原審が適法に確定した事実関係の概要は,次のとおりである。

 (1) 被上告人は,昭和44年に東京都で生まれた韓国籍の女性であり,同55年以降韓国に居住してきたが,韓国ソウル市内のF大学を卒業した後の平成5年に来日し,G大学の大学院に在籍していた。被上告人は,幼少時に血管奇形に属する静脈性血管腫にり患し,幼少時からの多数回にわたる手術にもかかわらず完治の見込みはなく,その血管奇形が外ぼうに現れている。また,被上告人の父は,日本国内の大学の国際政治学の教授であったが,昭和49年に講演先の韓国においてスパイ容疑で逮捕され,同53年まで投獄された。

 Dは,昭和43年生まれの著名な劇作家,小説家であり,平成9年にはH賞を受賞するなどしている。 被上告人とDは,平成4年8月にDが訪韓した際に知り合い,交友関係を持つようになり,Dが日本に帰国した後も手紙等のやり取りをしていた。

 (2) Dは,「E」と題する小説(以下「本件小説」という。)を執筆し,これを,上告人A1が編集兼発行者で,上告人A2社が発行する雑誌「I」平成6年9月号において公表した。本件小説には,被上告人をモデルとする「J」なる人物が全編にわたって登場する。本件小説中の「J」は,小学校5年生まで日本に居住していた日本生まれの韓国籍の女性で,被上告人が卒業した韓国ソウル市内のF大学を卒業し,被上告人が在籍しているG大学の大学院に在籍して被上告人の専攻と同一の学科を専攻しており,その顔面に完治の見込みのない腫瘍がある。また,「J」の父は,日本国内の大学の国際政治学の教授をしていたが,講演先の韓国でスパイ容疑により逮捕された経歴を持っていることなど,「J」には被上告人と一致する特徴等が与えられている。一方で,本件小説中において,「J」が高額の寄附を募る問題のあるかのような団体として記載されている新興宗教に入信したとの虚構の事実が述べられている。さらに,本件小説中において,「J」の顔面の腫瘍につき,通常人が嫌う生物や原形を残さない水死体の顔などに例えて描写するなど,異様なもの,悲劇的なもの,気味の悪いものなどと受け取られるか烈な表現がされている。

 (3) 被上告人は,上記雑誌において本件小説が公表されたことを知ってこれを読むまで,Dが被上告人をモデルとした人物が登場する本件小説を執筆していたことを知らず,また,本件小説の公表を知った後も,Dに対し,本件小説の公表を承諾したことはなかった。

 被上告人は,本件小説を読み,本件小説に登場する「J」が自分をモデルとしていることを知るとともに,Dを信頼して話した私的な事柄が本件小説中に多く記述されていること等に激しい憤りを感じ,これにより,自分がこれまでの人生で形成してきた人格がすべて否定されたような衝撃を覚えた。

 (4) 上告人A2社は,本件小説の日本語版の販売等を行う権利を有している。

■原審の判断

 2 以上の事実関係の下で,原審は,次のとおり判断し,D,上告人A2社及び上告人A1に対して100万円の慰謝料並びにこれに対する遅延損害金の連帯支払を命じ,また,D及び上告人A2社らに対し,本件小説の出版等の差止めを命じるべきものであるなどとした。

 (1) 本件小説中の「J」と被上告人とは容易に同定可能であり,本件小説の公表により,被上告人の名誉が毀損され,プライバシー及び名誉感情が侵害されたものと認められる。

 (2) 本件小説の公表により,被上告人は精神的苦痛を被ったものと認められ,その賠償額は,1審判決が肯認し,被上告人が不服を申し立てていない金額である100万円を下回るものではないと認められる。D及び上告人らは,被上告人に対し,連帯して100万円及びこれに対する遅延損害金の支払義務がある。

 (3) 人格的価値を侵害された者は,人格権に基づき,加害者に対し,現に行われている侵害行為を排除し,又は将来生ずべき侵害を予防するため,侵害行為の差止めを求めることができるものと解するのが相当である。どのような場合に侵害行為の差止めが認められるかは,侵害行為の対象となった人物の社会的地位や侵害行為の性質に留意しつつ,予想される侵害行為によって受ける被害者側の不利益と侵害行為を差し止めることによって受ける侵害者側の不利益とを比較衡量して決すべきである。そして,侵害行為が明らかに予想され,その侵害行為によって被害者が重大な損失を受けるおそれがあり,かつ,その回復を事後に図るのが不可能ないし著しく困難になると認められるときは侵害行為の差止めを肯認すべきである。

 被上告人は,大学院生にすぎず公的立場にある者ではなく,また,本件小説において問題とされている表現内容は,公共の利害に関する事項でもない。さらに,本件小説の出版等がされれば,被上告人の精神的苦痛が倍加され,被上告人が平穏な日常生活や社会生活を送ることが困難となるおそれがある。そして,本件小説を読む者が新たに加わるごとに,被上告人の精神的苦痛が増加し,被上告人の平穏な日常生活が害される可能性も増大するもので,出版等による公表を差し止める必要性は極めて大きい。

 以上によれば,被上告人のD及び上告人A2社らに対する本件小説の出版等の差止め請求は肯認されるべきである。

  最高裁の判断

 3 【要旨】原審の確定した事実関係によれば,公共の利益に係わらない被上告人のプライバシーにわたる事項を表現内容に含む本件小説の公表により公的立場にない被上告人の名誉,プライバシー,名誉感情が侵害されたものであって,本件小説の出版等により被上告人に重大で回復困難な損害を被らせるおそれがあるというべきである。したがって,人格権としての名誉権等に基づく被上告人の各請求を認容した判断に違法はなく,この判断が憲法21条1項に違反するものでないことは,当裁判所の判例(最高裁昭和41年(あ)第2472号同44年6月25日大法廷判決・刑集23巻7号975頁,最高裁昭和56年(オ)第609号同61年6月11日大法廷判決・民集40巻4号872頁)の趣旨に照らして明らかである論旨はいずれも採用することができない。

肖像権

 

  目次


【最判平成17年11月10日 肖像権と取材・報道 】

判旨

 (1) 人は、みだりに自己の容ぼう等を撮影されないということについて法律上保護されるべき人格的利益を有する(最高裁昭和40年(あ)第1187号同44年12月24日大法廷判決・刑集23巻12号1625頁参照)。もっとも、人の容ぼう等の撮影が正当な取材行為等として許されるべき場合もあるのであって、ある者の容ぼう等をその承諾なく撮影することが不法行為法上違法となるかどうかは、被撮影者の社会的地位、撮影された被撮影者の活動内容、撮影の場所、撮影の目的、撮影の態様、撮影の必要性等を総合考慮して、被撮影者の上記人格的利益の侵害が社会生活上受忍の限度を超えるものといえるかどうかを判断して決すべきである。

 また、人は、自己の容ぼう等を撮影された写真をみだりに公表されない人格的利益も有すると解するのが相当であり、人の容ぼう等の撮影が違法と評価される場合には、その容ぼう等が撮影された写真を公表する行為は、被撮影者の上記人格的利益を侵害するものとして、違法性を有するものというべきである。

 これを本件についてみると、前記のとおり、被上告人は、本件写真の撮影当時、社会の耳目を集めた本件刑事事件の被疑者として拘束中の者であり、本件写真は、本件刑事事件の手続での被上告人の動静を報道する目的で撮影されたものである。しかしながら、本件写真週刊誌のカメラマンは、刑訴規則215条所定の裁判所の許可を受けることなく、小型カメラを法廷に持ち込み、被上告人の動静を隠し撮りしたというのであり、その撮影の態様は相当なものとはいえない。また、被上告人は、手錠をされ、腰縄を付けられた状態の容ぼう等を撮影されたものであり、このような被上告人の様子をあえて撮影することの必要性も認め難い。本件写真が撮影された法廷は傍聴人に公開された場所であったとはいえ、被上告人は、被疑者として出頭し在廷していたのであり、写真撮影が予想される状況の下に任意に公衆の前に姿を現したものではない。以上の事情を総合考慮すると、本件写真の撮影行為は、社会生活上受忍すべき限度を超えて、被上告人の人格的利益を侵害するものであり、不法行為法上違法であるとの評価を免れない。そして、このように違法に撮影された本件写真を、本件第1記事に組み込み、本件写真週刊誌に掲載して公表する行為も、被上告人の人格的利益を侵害するものとして、違法性を有するものというべきである。

 (2) 人は、自己の容ぼう等を描写したイラスト画についても、これをみだりに公表されない人格的利益を有すると解するのが相当である。しかしながら、人の容ぼう等を撮影した写真は、カメラのレンズがとらえた被撮影者の容ぼう等を化学的方法等により再現したものであり、それが公表された場合は、被撮影者の容ぼう等をありのままに示したものであることを前提とした受け取り方をされるものである。これに対し、人の容ぼう等を描写したイラスト画は、その描写に作者の主観や技術が反映するものであり、それが公表された場合も、作者の主観や技術を反映したものであることを前提とした受け取り方をされるものである。したがって、人の容ぼう等を描写したイラスト画を公表する行為が社会生活上受忍の限度を超えて不法行為法上違法と評価されるか否かの判断に当たっては、写真とは異なるイラスト画の上記特質が参酌されなければならない。

 これを本件についてみると、前記のとおり、本件イラスト画のうち下段のイラスト画2点は、法廷において、被上告人が訴訟関係人から資料を見せられている状態及び手振りを交えて話しているような状態が描かれたものである。現在の我が国において、一般に、法廷内における被告人の動静を報道するためにその容ぼう等をイラスト画により描写し、これを新聞、雑誌等に掲載することは社会的に是認された行為であると解するのが相当であり、上記のような表現内容のイラスト画を公表する行為は、社会生活上受忍すべき限度を超えて被上告人の人格的利益を侵害するものとはいえないというべきである。したがって、上記イラスト画2点を本件第2記事に組み込み、本件写真週刊誌に掲載して公表した行為については、不法行為法上違法であると評価することはできない。しかしながら、本件イラスト画のうち上段のものは、前記のとおり、被上告人が手錠、腰縄により身体の拘束を受けている状態が描かれたものであり、そのような表現内容のイラスト画を公表する行為は、被上告人を侮辱し、被上告人の名誉感情を侵害するものというべきであり、同イラスト画を、本件第2記事に組み込み、本件写真週刊誌に掲載して公表した行為は、社会生活上受忍すべき限度を超えて、被上告人の人格的利益を侵害するものであり、不法行為法上違法と評価すべきである。

 

【最判昭和61年2月14日 自動速度監視装置の合憲性】

要旨

自動速度監視装置により速度違反車両の運転者及び同乗者の容ぼうを写真撮影することは、憲法一三条に違反しない。

 

判旨

 弁護人高山俊吉の上告趣意第一のうち、憲法一三条、二一条違反をいう点は、速度違反車両の自動撮影を行う本件自動速度監視装置による運転者の容ぼうの写真撮影は、現に犯罪が行われている場合になされ、犯罪の性質、態様からいつて緊急に証拠保全をする必要性があり、その方法も一般的に許容される限度を超えない相当なものであるから、憲法一三条に違反せず、また、右写真撮影の際、運転者の近くにいるため除外できない状況にある同乗者の容ぼうを撮影することになつても、憲法一三条、二一条に違反しないことは、当裁判所昭和四四年一二月二四日大法廷判決(刑集二三巻一二号一六二五頁)の趣旨に徴して明らかであるから、所論は理由がな(い)

 

 

【東京高裁平成21年1月29日 Nシステム事件】

要旨

いわゆるNシステム等による車両ナンバーの読み取り等につき,肖像権,自由に移動する権利及び自己情報コントロール権の侵害が否定され,国の不法行為責任が認められなかった事例

 

判旨

 1 本件は,控訴人らが,道路上を自動車で走行した際,被控訴人が全国各地の道路上に設置・管理している自動車ナンバー自動読取システム(Nシステム)の端末又は旅行時間計測提供システム(AVIシステム)の端末によって(同端末装置のうち225か所に設置されたものがNシステムの自動車ナンバー照合装置に接続されている),車両の運転席及び搭乗者の容ぼうを含む前面を撮影された上,車両の自動車登録番号標(ナンバープレート)を判読されて,これらに関する情報を保存,管理されたことにより,肖像権,自由に移動する権利及び情報コントロール権を侵害されたと主張して,被控訴人に対し,国家賠償法1条1項に基づき,それぞれ慰謝料100万円及びこれに対する訴状送達の日である平成19年1月23日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。

(2) 自由に移動する権利及び自己情報コントロール権の侵害

 ア 控訴人らは,Nシステムによる情報収集の真の目的を検討しなければ,目的の正当性は判断できないと主張するが,その真の目的について具体的に主張するところはない。Nシステム等の情報収集の目的が自動車使用犯罪の犯人の検挙等犯罪捜査の必要及び犯罪被害の早期回復にあると認められることは,上記引用の原判決の示すとおりであって,他に真の目的があることを認めるに足りる証拠はない。

 イ 控訴人らは,Nシステムが都市部では相当な密度で設置されていることなどから,国民の私生活上の行動に対する監視が問題になると主張するが,設置の密度は上記アの目的との関係において論ずべきもので,この目的を逸脱していると認めるに足りないことは,上記引用の原判決の示すとおりである。

 ウ 控訴人らは,情報流出事故があったことを理由に,Nシステム等によって取得された情報の管理方法がずさんであると主張する。しかし,Nシステム等によって取得,保有,利用された情報の安全管理及び利用状況が適正にされていることは,上記引用の原判決の示すとおりである。確かに通過車両データが流出した事例があったことも原判決の示すとおりであり,そのような事態が生じないように,なお万全を期すことが求められるところであるが,上記事例が生じたことをもって管理方法それ自体に不備があるということはできないし,これを受けて更に管理を徹底する措置が執られたことは,公知の事実である上,控訴人らのデータが上記事例において流出したとは認められないのであるから,控訴人らの権利が侵害されたということはできない。

我が国においては,警察は,警察法2条1項の規定により,強制力を伴わない限り犯罪捜査に必要な諸活動を行うことが許されていると解されるのであり,上記のような態様で公道上において何人でも確認し得る車両データを収集し,これを利用することは,適法に行い得るというべきである(最高裁昭和55年9月22日第三小法廷決定・刑集34巻5号272頁等参照)。

 

 

【東京高裁昭和45年10月2日】

要旨

憲法一三条の保障する他人の私生活の自由の一つとして、何人もみだりにその容貌・姿勢を撮影されない自由を有するけれども、社会通念上犯罪の疑いのある行為が既に行われ、撮影者においてもそのように認めた場合には、相当な方法で証拠保全のために行為者の容貌等を含む写真の撮影ができるものと解すべきである。

 

判旨

憲法第一三条の保障する個人の私生活上の自由の一つとして何人もその承諾なしにみだりにその容ぼう、姿態を撮影されない自由を有するものというべきであるが、その自由も公共の福祉のため必要ある場合には相当の制限を受けることは同条の規定に照らして明らかである。そして犯罪の捜査をすることは公共の福祉のため捜査官に与えられた国家作用の一つであり、これと並んで捜査官以外の一般人にも現行犯逮捕の権限が与えられていることにかんがみ、一般人でも現に犯罪が行なわれ、もしくは行なわれた後間がないと認められる場合であつて、しかも証拠保全の必要性、緊急性があり、かつその撮影が一般に許容される限度を超えない相当な方法で行なわれるならば、裁判官の令状やその者又は犯人の同意なしに適法に犯人の容ぼう等のほか、犯人の近辺にいたため除外できない人の容ぼう等を撮影することができるものといわなければならない。

 

【高松高裁昭和46年2月2日】

要旨

任意捜査としての警察官による写真撮影がその実施につき相応の理由と必要性があり、その態様・方法においても相当性を具備しているとして、憲法一三条に由来する肖像権の侵害といえないとされた事例。

 

判旨

人はその私的生活について故なく写真を撮影されたり、みだりにこれを公表されたりすることのない法的利益を享有している。それは憲法一三条の規定の趣旨に由来するものであつて、この法的地位が刑事手続の領域においても十分に尊重されなければならないことは当然である。犯罪捜査のためにする写真撮影は、それが所謂任意捜査の一環としてなされる場合であつても、写真器具の機械的操作によりた易く相手方の意に反して行われ得るのであり、その意味では強制処分的性質を有するものであるから、単に犯罪捜査に必要であるというだけの理由で無制限にこれを許容することはできない。

 然しながら他面、一般私人の享有する前記私的生活上の法的地位も絶対無制限のものではなく、公益上の理由に基づく合理的な制約に服すべきものである(憲法一二条、一三条等)。犯罪捜査は公共の福祉を保持するための国権作用であるから、その行使としてなされる写真撮影にもそれ相応の公益的根拠があるのであり、それが任意捜査の一環としてなされる場合であつても、その実施について合理的な理由と必要性があり、その態様、方法において相当性を具備するときは、利害関係人(相手方)の意に反してでもこれをなし得る余地があるものといわなければならない。

 もとよりいまここにその逐一具体的な基準乃至条件を設定することは困難であり、要は、個々の具体的事案に即し、相対立する前記二つの法益の均衡調和を考量して決するほかはないのであるが、任意捜査における写真撮影を制約する所以のものが人の私的生活における自由乃至安寧の保護という人権保障原理に立脚する以上、撮影の対象が人の存在状況乃至行動状況そのものである場合とそれ以外の物的状況である場合とでは自ら相違があり、一般的には前者の場合においてこの保障原理がより広範かつ強力に作用し得るのに反し、後者の場合においてはその作用が比較的狭少微弱に止まるものと解せられる。さらにまた右後者の場合においても、撮影の対象が人の特別に管理する場所にあるか否かによつて撮影規制に強弱の差を生ずるであろうし、当該対象物件が他見を憚る特別の価値又は性質を有するか否かによつても同様の差異を生ずるものと解せられるのである。

 本件についてこれをみるのに、記録によれば、石井巡査は、大西和司の運転する大型貨物自動車(最大積載重量六トン)が徳島県三好郡池田町大利字為成五〇番地の三付近の公道上においてその積載にかかる重さ約九トンの巨大な庭石甲青石を誤つて荷台からずり落し、道路を完全に閉塞させて多数の車両の通行を渋滞させたため、急報により他の警察官二名と共に現場に赴いたのであるが、実地見分の結果大西運転の前記車両について積載制限超過等の道路交通法違反の嫌疑を認め、その証拠資料となすべく本件の撮影に及んだものであつて、その意図するところは専ら右現場の物的乃至客観的状況を対象とするものであつたことが明らかである。そして司法警察職員たる石井巡査において前記のように大西運転の車両につき積載制限超過等の道路交通法違反容疑を認めた以上、同巡査がその物的確証を得ようと意図したのは、客観的証拠の蒐集を旨とすべき捜査担当警察官として当然であり、その採証活動に緊急性の要請が全くなかつたともいい難く、また同巡査が、本件の撮影に際して、被告人らに威迫乃至強制を加えたり、或は被告人らの積み上げ作業をことさら妨害しようとした形跡も認められないものである。そして一方、本件の現場は車両交通の頻繁な公道上であり、当時同所付近には交通止めを蒙つた多数の通行人が集まつていたうえ、既に石井巡査を含む三人の警察官も来場してともども事態の成行を見守つていたのであつて、被告人側においても、公道上で既に衆人環視の的となつている本件青石の積載運行及びその脱落事故を今さら内聞に付すべく念慮する特別の必要はなかつたのであり、敢えて本件撮影を拒否しなければならない合理的理由を肯認し難いのである。以上を彼此綜合勘案してみると石井巡査による本件の写真撮影は、その実施につき相応の理由と必要性があり、その態様、方法においても相当性を具備しており、さきに説示したところに照らし適法な公務執行行為と認め得るのであつて、これと同一の見地に立つ原判断は正当といわなければならない。

 

 

【東京高裁昭和63年4月1日】

要旨

犯罪の発生を予想して設置したテレビカメラによる犯罪状況の撮影・録画は、憲法一三条の保障する、何人もその承諾なしにみだりにその容貎等を撮影されない自由を侵害したとはいえない。

 

判旨

 たしかに、その承諾なくしてみだりにその容貌等を写真撮影されない自由は、いわゆるプライバシーの権利の一コロラリーとして憲法一三条の保障するところというべきであるけれども、右最高裁判例は、その具体的事案に即して警察官の写真撮影が許容されるための要件を判示したものにすぎず、この要件を具備しないかぎり、いかなる場合においても、犯罪捜査のための写真撮影が許容されないとする趣旨まで包含するものではないと解するのが相当であって、当該現場において犯罪が発生する相当高度の蓋然性が認められる場合であり、あらかじめ証拠保全の手段、方法をとっておく必要性及び緊急性があり、かつ、その撮影、録画が社会通念に照らして相当と認められる方法でもって行われるときには、現に犯罪が行われる時点以前から犯罪の発生が予測される場所を継続的、自動的に撮影、録画することも許されると解すべきであり、本件ビデオカセットテープの撮影、録画された際の具体的事実関係がかかる諸要件を具備しているものであることは、原判決ならびに原判決の援用する原審の昭和六二年二月二〇日付証拠採用決定が適切に説示しているとおりといわなければならない。したがつて、弁護人のその余の主張につき按ずるまでもなく、原審が本件ビデオカセットテープの証拠能力を肯認してこれを事実認定の用に供したのはもとより正当というべく、所論は採用の限りではない。論旨は理由がない。

 

 

【東京地裁平成1年3月15日】

要旨

既に行われた犯罪の犯人特定のため容疑者の容ぼう等を撮影することは、その事案が重大であつて、被撮影者がその犯罪を行つたことを疑わせる相当な理由のある者に限定される急性があり、かつ、その撮影が相当な方法をもつて行われているときには、適法な捜査として許される。

 

判旨

何人もその承諾なしにみだりにその容ぼう、姿態を撮影されない自由を有することは当然のことであるが、個人の有するこの自由も公共の福祉のため必要のある場合には一定限度の制限を受けるのであって、警察官が犯罪捜査の必要上被撮影者の承諾なく写真を撮影することも、一定の要件の下には許容されることがあると解すべきである。そして、この犯罪捜査の必要上被撮影者の承諾なくその容ぼう等の写真撮影が許容されるのは、弁護人が主張するように現に犯罪が行なわれている場合ないしはこれに準ずる場合に限定されると解すべきではなく、既に行なわれた犯罪の犯人特定のため容疑者の容ぼう等の写真を撮影することも、その事案が重大であって、被撮影者がその犯罪を行なったことを疑わせる相当な理由のある者に限定される場合で、写真撮影以外の方法では捜査の目的を達することができず、証拠保全の必要性、緊急性があり、かつ、その撮影が相当な方法をもって行なわれているときには、適法な捜査として許されるものと解すべきである。

 そこで、本件につき検討してみると、本件写真撮影は殺人事件である東大事件、兇器準備集合・傷害(被害者二名で傷害の程度は一方は全治まで約一か月間を要し他方は全治まで約二か月間を要する。)事件である本件という二件の重大事犯の犯人を特定するために行なわれたものであり、被撮影者はIが偽名を用いて借りていた杉並区内のアパートの居室に出入りしていた七、八名の者らであるが、Iは殺人事件である東大事件の目撃者の供述から同事件への関与を疑われていた者と、そのアパートに泊まり込むなどして密接な交友を持っていた者で、その世田谷区内の旧住居の遺留物件からも、Iが東大事件及び本件の犯人が所属すると疑われていた反帝学評に所属し、鉄パイプ等を用いて非公然活動を行なっていたことが十分に窺われたところであり、同人が偽名を用いて借りていた杉並区内の居室も反帝学評の非公然活動の連絡場所等として利用されていた疑いが強かったものと考えられ、現に、同所に出入りしていた者の中には、やはり東大事件の目撃者の供述により同事件への関与を疑われていた者や、本件に関与したことが判明し、逮捕状が発布されていたJなどもいたのであって、これらの事情に、東大事件、本件とも反帝学評系の学生ら十数名による革マル派に対するいわゆる内ゲバ事件であることを併せ考えると、Iの居室に出入りしていた七、八名の者には、いずれも本件あるいは東大事件に関与していたことを疑わせる相当な理由があったと言うべきであり、これらの者に対する写真撮影は、その対象の限定において欠けるところもないと言うべきである。そして、いずれの事件とも十数名の共犯者による犯行であり目撃者も多数であったことを考えると、犯人特定の方法としては、これら目撃者をIの居室近くに捜査官とともに張り込ませ、いつ出入りするか分からない容疑者を待つということは事実上不可能であって、結局同所に出入りする者の容ぼう等を写真撮影して目撃者に示す以外に有効な方法はなかったものと言うべきである。また、本件写真撮影当時は東大事件から既に半年余り、本件からも一か月以上が経過しており、目撃者の記憶も日に日に薄れていく状況であったことから、証拠保全の必要性、緊急性も認められるし、前記認定の撮影方法からすれば、Iの居室から出て来る者のみを撮影の対象としていたものと認められるばかりでなく、それ以外の一般の歩行者ができるだけ写真に入らないよう配慮もなされていた上、被撮影者が公道上をその容ぼう・姿態を人目にさらしながら歩行しているところを少し離れた建物の一室から撮影しており、その身体に対して何らの強制力も加えていないのであって、撮影方法も相当なものと認められる。なお、被撮影者から姿を隠して密かに撮影することは、本件写真撮影の目的からすれば止むを得ないところであり、この一事をもって撮影方法が相当でないとは解すべきでない。

 

 

【東京高等平成平成2年7月24日】

要旨

写真週刊誌による肖像写真掲載が、公共の利害に関する事実の報道に必要な手段として公益を図る目的のもとに行われたものか否か、仮にそうだとしても、当該写真の内容、撮影手段および方法が右報道目的からみて必要性・相当性を有するか否か、という観点から検討して、それが違法であると判断された事例。

人格権

  目次

【最大判昭和44年12月24日 京都府学連事件】

要旨

一 昭和二九年京都市条例第一〇号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例は、憲法二一条に違反しない。

二 何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態を撮影されない自由を有し、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し許されない。

三 警察官による個人の容ぼう等の写真撮影は、現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、証拠保全の必要性および緊急性があり、その撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときは、撮影される本人の同意がなく、また裁判官の令状がなくても、憲法一三条、三五条に違反しない。

 

判旨

憲法一三条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定しているのであつて、これは、国民の私生活上の自由が、警察権等の国家権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものということができる。そして、個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。

 これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない。しかしながら、個人の有する右自由も、国家権力の行使から無制限に保護されるわけでなく、公共の福祉のため必要のある場合には相当の制限を受けることは同条の規定に照らして明らかである。そして、犯罪を捜査することは、公共の福祉のため警察に与えられた国家作用の一つであり、警察にはこれを遂行すべき責務があるのであるから(警察法二条一項参照)、警察官が犯罪捜査の必要上写真を撮影する際、その対象の中に犯人のみならず第三者である個人の容ぼう等が含まれても、これが許容される場合がありうるものといわなければならない。

 そこで、その許容される限度について考察すると、身体の拘束を受けている被疑者の写真撮影を規定した刑訴法二一八条二項のような場合のほか、次のような場合には、撮影される本人の同意がなく、また裁判官の令状がなくても、警察官による個人の容ぼう等の撮影が許容されるものと解すべきである。すなわち、現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、しかも証拠保全の必要性および緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときである。このような場合に行なわれる警察官による写真撮影は、その対象の中に、犯人の容ぼう等のほか、犯人の身辺または被写体とされた物件の近くにいたためこれを除外できない状況にある第三者である個人の容ぼう等を含むことになつても、憲法一三条、三五条に違反しないものと解すべきである。

 

 

【最大判昭和56年12月16日 大阪空港公害訴訟】

要旨

人格権または環境権に基づく民事上の請求として一定の時間帯につき航空機の離着陸のためにする国営空港の供用の差止を求める訴は、不適法である。

 

判旨

所論は、要するに、本件訴えのうち、被上告人らが大阪国際空港(以下「本件空港」という。)の供用に伴い航空機の発する騒音等により身体的・精神的被害、生活妨害等の損害を被つているとし人格権又は環境権に基づく妨害排除又は妨害予防の民事上の請求として一定の時間帯につき本件空港を航空機の離着陸に使用させることの差止めを請求する部分は、その実質において、公権力の行使に関する不服を内容とし、結局において運輸大臣の有する行政権限の発動、行使の義務づけを訴求するものにほかならないから、民事裁判事項には属しないものであり、また、本件空港に離着陸する航空機の騒音等のもたらす被害対策としてはいくつかの方法があつて、そのいずれを採択し実施するかは運輸大臣の裁量に委ねられている事項であるにもかかわらず、そのうちの一方法にすぎない一定の時間帯における空港の供用停止という特定の行政権限の行使を求めるものである点において、行政庁の行使すべき第一次的判断権を侵犯し、三権分立の原則に反するものというべきであるから、右請求を適法として本案について審理判断した原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違背がある、というのである。

 

【最判平成5年2月25日 厚木基地公害訴訟】

要旨

国が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約に基づきアメリカ合衆国に対し同国軍隊の使用する施設及び区域として飛行場を提供している場合において、米軍機の運航等に伴う騒音等による被害を主張して人格権、環境権に基づき、国に対し右軍隊の使用する航空機の離着陸等の差止めを請求することはできない。

 

判旨

 所論は、上告人らの本件訴えのうち、自衛隊の使用する航空機(以下「自衛隊機」という。)の一定の時間帯における離着陸等の差止め及びその余の時間帯における音量規制を請求する部分(以下この部分の請求を「本件自衛隊機の差止請求」という。)は、被上告人が自衛隊機の飛行行為等によって上告人らの私法上の権利を違法に侵害していることを理由に、上告人らがその有する環境権、人格権に基づき、被上告人に対して自衛隊機の飛行の禁止等の不作為を求めるものであるから、民事訴訟によつて解決されるべき事柄であるにもかかわらず、本件自衛隊機の差止請求は統治行為ないし政治問題に係るものであって民事訴訟事項としての適格を有しないとした原審の判断には、憲法九八条一項、八一条、三二条の解釈適用の誤り、理由不備、理由齟齬の違法、法令の解釈適用の誤りがある、というのである。

 

 

【最判平成17年7月14日 公立図書館の図書と表現の事由】

要旨

判示事項

公立図書館の職員が図書の廃棄について不公正な取扱いをすることと当該図書の著作者の人格的利益の侵害による国家賠償法上の違法

裁判要旨

公立図書館の職員である公務員が,閲覧に供されている図書の廃棄について,著作者又は著作物に対する独断的な評価や個人的な好みによって不公正な取扱いをすることは,当該図書の著作者の人格的利益を侵害するものとして国家賠償法上違法となる。

 

判旨

 (1) 図書館は,「図書,記録その他必要な資料を収集し,整理し,保存して,一般公衆の利用に供し,その教養,調査研究,レクリエーション等に資することを目的とする施設」であり(図書館法2条1項),「社会教育のための機関」であって(社会教育法9条1項),国及び地方公共団体が国民の文化的教養を高め得るような環境を醸成するための施設として位置付けられている(同法3条1項,教育基本法7条2項参照)。公立図書館は,この目的を達成するために地方公共団体が設置した公の施設である(図書館法2条2項,地方自治法244条,地方教育行政の組織及び運営に関する法律30条)。そして,図書館は,図書館奉仕(図書館サービス)のため,①図書館資料を収集して一般公衆の利用に供すること,②図書館資料の分類排列を適切にし,その目録を整備することなどに努めなければならないものとされ(図書館法3条),特に,公立図書館については,その設置及び運営上の望ましい基準が文部科学大臣によって定められ,教育委員会に提示するとともに一般公衆に対して示すものとされており(同法18条),平成13年7月18日に文部科学大臣によって告示された「公立図書館の設置及び運営上の望ましい基準」(文部科学省告示第132号)は,公立図書館の設置者に対し,同基準に基づき,図書館奉仕(図書館サービス)の実施に努めなければならないものとしている。同基準によれば,公立図書館は,図書館資料の収集,提供等につき,①住民の学習活動等を適切に援助するため,住民の高度化・多様化する要求に十分に配慮すること,②広く住民の利用に供するため,情報処理機能の向上を図り,有効かつ迅速なサービスを行うことができる体制を整えるよう努めること,③住民の要求に応えるため,新刊図書及び雑誌の迅速な確保並びに他の図書館との連携・協力により図書館の機能を十分発揮できる種類及び量の資料の整備に努めることなどとされている。 公立図書館の上記のような役割,機能等に照らせば,公立図書館は,住民に対して思想,意見その他の種々の情報を含む図書館資料を提供してその教養を高めること等を目的とする公的な場ということができる。そして,公立図書館の図書館職員は,公立図書館が上記のような役割を果たせるように,独断的な評価や個人的な好みにとらわれることなく,公正に図書館資料を取り扱うべき職務上の義務を負うものというべきであり,閲覧に供されている図書について,独断的な評価や個人的な好みによってこれを廃棄することは,図書館職員としての基本的な職務上の義務に反するものといわなければならない。

 (2) 他方,公立図書館が,上記のとおり,住民に図書館資料を提供するための公的な場であるということは,そこで閲覧に供された図書の著作者にとって,その思想,意見等を公衆に伝達する公的な場でもあるということができる。したがって,公立図書館の図書館職員が閲覧に供されている図書を著作者の思想や信条を理由とするなど不公正な取扱いによって廃棄することは,当該著作者が著作物によってその思想,意見等を公衆に伝達する利益を不当に損なうものといわなければならない。そして,著作者の思想の自由,表現の自由が憲法により保障された基本的人権であることにもかんがみると,公立図書館において,その著作物が閲覧に供されている著作者が有する上記利益は,法的保護に値する人格的利益であると解するのが相当であり,公立図書館の図書館職員である公務員が,図書の廃棄について,基本的な職務上の義務に反し,著作者又は著作物に対する独断的な評価や個人的な好みによって不公正な取扱いをしたときは,当該図書の著作者の上記人格的利益を侵害するものとして国家賠償法上違法となるというべきである。

 

 (3) 前記事実関係によれば,本件廃棄は,公立図書館である船橋市西図書館の本件司書が,上告人A1会やその賛同者等及びその著書に対する否定的評価と反感から行ったものというのであるから,上告人らは,本件廃棄により,上記人格的利益を違法に侵害されたものというべきである。

 

 

【最判平成17年11月10日 肖像権と取材・報道】

要旨

1 人はみだりに自己の容ぼう,姿態を撮影されないということについて法律上保護されるべき人格的利益を有し,ある者の容ぼう,姿態をその承諾なく撮影することが不法行為法上違法となるかどうかは,被撮影者の社会的地位,撮影された被撮影者の活動内容,撮影の場所,撮影の目的,撮影の態様,撮影の必要性等を総合考慮して,被撮影者の上記人格的利益の侵害が社会生活上受忍すべき限度を超えるものといえるかどうかを判断して決すべきである。

2 写真週刊誌のカメラマンが,刑事事件の被疑者の動静を報道する目的で,勾留理由開示手続が行われた法廷において同人の容ぼう,姿態をその承諾なく撮影した行為は,手錠をされ,腰縄を付けられた状態の同人の容ぼう,姿態を,裁判所の許可を受けることなく隠し撮りしたものであることなど判示の事情の下においては,不法行為法上違法である。

3 人は自己の容ぼう,姿態を描写したイラスト画についてみだりに公表されない人格的利益を有するが,上記イラスト画を公表する行為が社会生活上受忍の限度を超えて不法行為法上違法と評価されるか否かの判断に当たっては,イラスト画はその描写に作者の主観や技術を反映するものであり,公表された場合も,これを前提とした受け取り方をされるという特質が参酌されなければならない。

4 刑事事件の被告人について,法廷において訴訟関係人から資料を見せられている状態及び手振りを交えて話しているような状態の容ぼう,姿態を描いたイラスト画を写真週刊誌に掲載して公表した行為は,不法行為法上違法であるとはいえない。

5 刑事事件の被告人について,法廷において手錠,腰縄により身体の拘束を受けている状態の容ぼう,姿態を描いたイラスト画を写真週刊誌に掲載して公表した行為は,不法行為法上違法である。

 

判旨

 (1) 人は、みだりに自己の容ぼう等を撮影されないということについて法律上保護されるべき人格的利益を有する(最高裁昭和40年(あ)第1187号同44年12月24日大法廷判決・刑集23巻12号1625頁参照)。もっとも、人の容ぼう等の撮影が正当な取材行為等として許されるべき場合もあるのであって、ある者の容ぼう等をその承諾なく撮影することが不法行為法上違法となるかどうかは、被撮影者の社会的地位、撮影された被撮影者の活動内容、撮影の場所、撮影の目的、撮影の態様、撮影の必要性等を総合考慮して、被撮影者の上記人格的利益の侵害が社会生活上受忍の限度を超えるものといえるかどうかを判断して決すべきである。

 また、人は、自己の容ぼう等を撮影された写真をみだりに公表されない人格的利益も有すると解するのが相当であり、人の容ぼう等の撮影が違法と評価される場合には、その容ぼう等が撮影された写真を公表する行為は、被撮影者の上記人格的利益を侵害するものとして、違法性を有するものというべきである。

 これを本件についてみると、前記のとおり、被上告人は、本件写真の撮影当時、社会の耳目を集めた本件刑事事件の被疑者として拘束中の者であり、本件写真は、本件刑事事件の手続での被上告人の動静を報道する目的で撮影されたものである。しかしながら、本件写真週刊誌のカメラマンは、刑訴規則215条所定の裁判所の許可を受けることなく、小型カメラを法廷に持ち込み、被上告人の動静を隠し撮りしたというのであり、その撮影の態様は相当なものとはいえない。また、被上告人は、手錠をされ、腰縄を付けられた状態の容ぼう等を撮影されたものであり、このような被上告人の様子をあえて撮影することの必要性も認め難い。本件写真が撮影された法廷は傍聴人に公開された場所であったとはいえ、被上告人は、被疑者として出頭し在廷していたのであり、写真撮影が予想される状況の下に任意に公衆の前に姿を現したものではない。以上の事情を総合考慮すると、本件写真の撮影行為は、社会生活上受忍すべき限度を超えて、被上告人の人格的利益を侵害するものであり、不法行為法上違法であるとの評価を免れない。そして、このように違法に撮影された本件写真を、本件第1記事に組み込み、本件写真週刊誌に掲載して公表する行為も、被上告人の人格的利益を侵害するものとして、違法性を有するものというべきである。

 (2) 人は、自己の容ぼう等を描写したイラスト画についても、これをみだりに公表されない人格的利益を有すると解するのが相当である。しかしながら、人の容ぼう等を撮影した写真は、カメラのレンズがとらえた被撮影者の容ぼう等を化学的方法等により再現したものであり、それが公表された場合は、被撮影者の容ぼう等をありのままに示したものであることを前提とした受け取り方をされるものである。これに対し、人の容ぼう等を描写したイラスト画は、その描写に作者の主観や技術が反映するものであり、それが公表された場合も、作者の主観や技術を反映したものであることを前提とした受け取り方をされるものである。したがって、人の容ぼう等を描写したイラスト画を公表する行為が社会生活上受忍の限度を超えて不法行為法上違法と評価されるか否かの判断に当たっては、写真とは異なるイラスト画の上記特質が参酌されなければならない。

 これを本件についてみると、前記のとおり、本件イラスト画のうち下段のイラスト画2点は、法廷において、被上告人が訴訟関係人から資料を見せられている状態及び手振りを交えて話しているような状態が描かれたものである。現在の我が国において、一般に、法廷内における被告人の動静を報道するためにその容ぼう等をイラスト画により描写し、これを新聞、雑誌等に掲載することは社会的に是認された行為であると解するのが相当であり、上記のような表現内容のイラスト画を公表する行為は、社会生活上受忍すべき限度を超えて被上告人の人格的利益を侵害するものとはいえないというべきである。したがって、上記イラスト画2点を本件第2記事に組み込み、本件写真週刊誌に掲載して公表した行為については、不法行為法上違法であると評価することはできない。しかしながら、本件イラスト画のうち上段のものは、前記のとおり、被上告人が手錠、腰縄により身体の拘束を受けている状態が描かれたものであり、そのような表現内容のイラスト画を公表する行為は、被上告人を侮辱し、被上告人の名誉感情を侵害するものというべきであり、同イラスト画を、本件第2記事に組み込み、本件写真週刊誌に掲載して公表した行為は、社会生活上受忍すべき限度を超えて、被上告人の人格的利益を侵害するものであり、不法行為法上違法と評価すべきである。

自己決定権

 

 目次

参考

未成年者の人権(3)高松高裁平成2年2月19日・東京高裁平成4年3月19日・最判平成8年7月18日

 

【最判平成8年7月18日修徳高校パーマ退学訴訟】

要旨

普通自動車運転免許の取得を制限し、パーマをかけることを禁止し、学校に無断で運転免許を取得した者に対しては退学勧告をする旨の校則を定めていた私立高等学校において、校則を承知して入学した生徒が、学校に無断で普通自動車運転免許を取得し、そのことが学校に発覚した際にも顕著な反省を示さず、三年生であることを特に考慮して学校が厳重注意に付するにとどめたにもかかわらず、その後間もなく校則に違反してパーマをかけ、そのことが発覚した際にも反省がないとみられても仕方のない態度をとったなど判示の事実関係の下においては、右生徒に対してされた自主退学の勧告に違法があるとはいえない。

 

判旨

 所論は、修徳高校女子部の、普通自動車運転免許の取得を制限し、パーマをかけることを禁止する旨の校則が憲法一三条、二一条、二二条、二六条に違反すると主張するが、憲法上のいわゆる自由権的基本権の保障規定は、国又は公共団体と個人との関係を規律するものであって、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものではないことは、当裁判所の判例(最高裁昭和四三年(オ)第九三二号同四八年一二月一二日大法廷判決・民集二七巻一一号一五三六頁)の示すところである。したがって、私立学校である修徳高校の本件校則について、それが直接憲法の右基本的保障規定に違反するかどうかを論ずる余地はない。所論違憲の主張は採用することができない。

 私立学校は、建学の精神に基づく独自の伝統ないし校風と教育方針によって教育方針によって教育活動を行うことを目的とし、生徒もそのような教育を受けることを希望して入学するものである。原審の適法に確定した事実によれば、(一) 修徳高校は、清潔かつ質素で流行を追うことなく華美に流されない態度を保持することを教育方針とし、それを具体化するものの一つとして校則を定めている、(二) 修徳高校が、本件校則により、運転免許の取得につき、一定の時期以降で、かつ、学校に届け出た場合にのみ教習の受講及び免許の取得を認めることとしているのは、交通事故から生徒の生命身体を守り、非行化を防止し、もって勉学に専念する時間を確保するためである、(三) 同様に、パーマをかけることを禁止しているのも、高校生にふさわしい髪型を維持し、非行を防止するためである、というのであるから、本件校則は社会通念上不合理なものとはいえず、生徒に対してその遵守を求める本件校則は、民法一条、九〇条に違反するものではない。これと同旨の原審の判断は是認することができる。論旨は、独自の見解に立って原判決を非難するか、又は原判決を正解しないでこれを論難するものであり、採用することができない。

 

【最判平成3年9月3日 三ない事件】

要旨

1.バイクに関するいわゆる三ない原則(免許をとらない、乗らない、買わない)を定めた校則違反を理由の一つとしてされた、私立高等学校の生徒に対する自主退学の勧告が適法とされた事例。

2.いわゆる三ない原則を定めた校則に違反したことを理由の1つとしてされた私立高等学校の生徒に対する自主退学の勧告が違法とはいえないとされた事例。

 

判旨

 所論は、いわゆる三ない原則を定めた本件校則(以下「本件校則」という。)及び本件校則を根拠としてされた本件自主退学勧告は、憲法一三条、二九条、三一条に違反する旨をいうが、憲法上のいわゆる自由権的基本権の保障規定は、国又は公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障することを目的とした規定であって、専ら国又は公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものでないことは、当裁判所大法廷判例(昭和四三年(オ)第九三二号同四八年一二月一二日判決・民集二七巻一一号一五三六頁)の示すところである。したがって、その趣旨に徴すれば、私立学校である被上告人設置に係る高等学校の本件校則及び上告人が本件校則に違反したことを理由の一つとしてされた本件自主退学勧告について、それが直接憲法の右基本権保障規定に違反するかどうかを論ずる余地はないものというべきである。所論違憲の主張は、採用することができない。そして、所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、原審の確定した事実関係の下においては、本件校則が社会通念上不合理であるとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。

 

【最判平成元年12月14日 どぶろく事件】

要旨

酒税法7条1項、54条1項の規定は、自己消費目的の酒類製造を処罰する場合においても、憲法13条・31条に違反しない。

 

判旨

 弁護人岡邦俊、同碓井清、同鎮西俊一、同舟木友比古の上告趣意のりち、違憲をいう点の所論は、自己消費を目的とする酒類製造は、販売を目的とする酒類製造とは異なり、これを放任しても酒税収入が減少する虞はないから、酒税法七条一項、五四条一項は販売を目的とする酒類製造のみを処罰の対象とするものと解すべきであり、自己消費を目的とする酒類製造を酒税法の右各規定により処罰するのは、法益侵害の危険のない行為を処罰し、個人の酒造りの自由を合理的な理由がなく制限するものであるから、憲法三一条、一三条に違反するというのである。

 しかし、酒税法の右各規定は、自己消費を目的とする酒類製造であっても、これを放任するときは酒税収入の減少など酒税の徴収確保に支障を生じる事態が予想されるところから、国の重要な財政収入である酒税の徴収を確保するため、製造目的のいかんを問わず、酒類製造を一律に免許の対象とした上、免許を受けないで酒類を製造した者を処罰することとしたものであり(昭和二八年間第三七二一号同三〇年七月二九日第二小法廷判決・刑集九巻九号一九七二頁参照)、これにより自己消費目的の酒類製造の自由が制約されるとしても、そのような規制が立法府の裁量権を逸脱し、著しく不合理であることが明白であるとはいえず、憲法三一条、一三条に違反するものでないことは、当裁判所の判例(昭和五五年(行ツ)第一五号同六〇年三月二七日大法廷判決・民集三九巻二号二四七頁。なお、昭和三四年(あ)第一五一六号同三五年二月一一日第一小法廷判決・裁判集刑事一三二号二一九頁参照)の趣旨に徴し明らかであるから、論旨は理由がない。

 

【最大判昭和45年9月16日 未決拘留者の喫煙の自由】

参考

第3章 国民の権利及び義務 刑事施設被収容者の人権(1)最大判昭和58年6月22日・よど号ハイジャック新聞記事抹消事件等

 

要旨

 所論は、在監者に対する喫煙を禁止した監獄法施行規則九六条は、未決勾留により拘禁された者の自由および幸福追求についての基本的人権を侵害するものであつて、憲法一三条に違反するというにある。

 しかしながら、未決勾留は、刑事訴訟法に基づき、逃走または罪証隠滅の防止を目的として、被疑者または被告人の居住を監獄内に限定するものであるところ、監獄内においては、多数の被拘禁者を収容し、これを集団として管理するにあたり、その秩序を維持し、正常な状態を保持するよう配慮する必要がある。このためには、被拘禁者の身体の自由を拘束するだけでなく、右の目的に照らし、必要な限度において、被拘禁者のその他の自由に対し、合理的制限を加えることもやむをえないところである。

 そして、右の制限が必要かつ合理的なものであるかどうかは、制限の必要性の程度と制限される基本的人権の内容、これに加えられる具体的制限の態様との較量のうえに立つて決せられるべきものというべきである。

 これを本件についてみると、原判決(その引用する第一審判決を含む。)の確定するところによれば、監獄の現在の施設および管理態勢のもとにおいては、喫煙に伴う火気の使用に起因する火災発生のおそれが少なくなく、また、喫煙の自由を認めることにより通謀のおそれがあり、監獄内の秩序の維持にも支障をきたすものであるというのである。右事実によれば、喫煙を許すことにより、罪証隠滅のおそれがあり、また、火災発生の場合には被拘禁者の逃走が予想され、かくては、直接拘禁の本質的目的を達することができないことは明らかである。のみならず、被拘禁者の集団内における火災が人道上重大な結果を発生せしめることはいうまでもない。他面、煙草は生活必需品とまでは断じがたく、ある程度普及率の高い嗜好品にすぎず、喫煙の禁止は、煙草の愛好者に対しては相当の精神的苦痛を感ぜしめるとしても、それが人体に直接障害を与えるものではないのであり、かかる観点よりすれば、喫煙の自由は、憲法一三条の保障する基本的人権の一に含まれるとしても、あらゆる時、所において保障されなければならないものではない。したがつて、このような拘禁の目的と制限される基本的人権の内容、制限の必要性などの関係を総合考察すると、前記の喫煙禁止という程度の自由の制限は、必要かつ合理的なものであると解するのが相当であり、監獄法施行規則九六条中未決勾留により拘禁された者に対し喫煙を禁止する規定が憲法一三条に違反するものといえないことは明らかである。

 

 

【最判平成12年2月29日 エホバの証人輸血拒否事件】

参考

個人の尊重(4)最判平成12年2月29日 エホバの証人・宗教的理由による輸血拒否訴訟

 

要旨

一 患者が輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。

二 患者が右のような意思を有しており、輸血を伴わない手術を受けることができるとの期待で入院したことを担当医が知っている場合には、手術の際に輸血しか救命手段がない事態が生じる可能性を否定し難いと判断したときには、患者に対して、当該医療機関としては、そのような事態においては輸血するとの方針を採っていることを説明して、入院を継続して担当医の下で手術を受けるかどうかを患者自身の意思決定にゆだねるべきである。

三 右事案において、手術前1か月の間に、輸血を必要とする事態が発生する可能性があることを認識していた担当医が、そのような場合には輸血を行うとの当該医療機関の方針を説明しないまま、手術を施行し、輸血をしたことは、患者の人格権を侵害したものとして、その精神的苦痛を慰謝すべき義務を負う。

 

判旨

 本件において、E医師らが、Bの肝臓の腫瘍を摘出するために、医療水準に従った相当な手術をしようとすることは、人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者として当然のことであるということができる。しかし、患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。そして、Bが、宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有しており、輸血を伴わない手術を受けることができると期待してD病院に入院したことをE医師らが知っていたなど本件の事実関係の下では、E医師らは、手術の際に輸血以外には救命手段がない事態が生ずる可能性を否定し難いと判断した場合には、Bに対し、D病院としてはそのような事態に至ったときには輸血するとの方針を採っていることを説明して、D病院への入院を継続した上、E医師らの下で本件手術を受けるか否かをB自身の意思決定にゆだねるべきであったと解するのが相当である。

 ところが、E医師らは、本件手術に至るまでの約一か月の間に、手術の際に輸血を必要とする事態が生ずる可能性があることを認識したにもかかわらず、Bに対してD病院が採用していた右方針を説明せず、同人及び被上告人らに対して輸血する可能性があることを告げないまま本件手術を施行し、右方針に従って輸血をしたのである。そうすると、本件においては、E医師らは、右説明を怠ったことにより、Bが輸血を伴う可能性のあった本件手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪ったものといわざるを得ず、この点において同人の人格権を侵害したものとして、同人がこれによって被った精神的苦痛を慰謝すべき責任を負うものというべきである。そして、また、上告人は、E医師らの使用者として、Bに対し民法七一五条に基づく不法行為責任を負うものといわなければならない。

プライバシー権(5)最判平成13年12月18日 レセプト情報公開請求事件・最判昭和63年12月20日 囚われの聴衆 伊藤正巳補足意見

  目次

【最判平成13年12月18日 レセプト情報公開請求事件】

要旨

判示事項

公文書の公開等に関する条例(昭和61年兵庫県条例第3号)に基づき個人情報の記録された公文書の公開請求を本人及びその配偶者が共同でした場合に当該情報が個人情報に関する非公開事由を定めた同条例8条1号に該当するとしてされた非公開決定が違法とされた事例

裁判要旨

公文書の公開等に関する条例(昭和61年兵庫県条例第3号)に基づき個人情報の記録された公文書の公開請求を本人及びその配偶者が共同でした場合に,当該公開請求自体から本人自身による請求であることが明らかであり,同条例には自己の個人情報の開示を請求することを許さない趣旨の規定等は存在せず,当時,兵庫県では個人情報保護制度が採用されていなかったという事実関係の下においては,当該情報が個人情報に関する非公開事由を定めた同条例8条1号に該当するとしてされた非公開決定は違法である。

 

判旨

  事実の概要

 (1) 被上告人B1とその夫である被上告人B2は,平成5年9月7日,公文書の公開等に関する条例(昭和61年兵庫県条例第3号。以下「本件条例」という。なお,本件条例は平成12年兵庫県条例第6号により廃止された。)5条に基づき,本件条例の実施機関である上告人に対し,被上告人B1の平成5年5月7日の分娩に関する診療報酬明細書(以下「本件文書」という。)の公開を請求した(以下「本件公開請求」という。)。

 (2) 本件条例8条は,「実施機関は,次の各号のいずれかに該当する情報が記録されている公文書については,公文書の公開を行わないことができる。」とした上で,その1号において,「個人の思想,宗教,健康状態,病歴,住所,家族関係,資格,学歴,職歴,所属団体,所得,資産等に関する情報(事業を営む個人の当該事業に関する情報を除く。)であって,特定の個人が識別され得るもののうち,通常他人に知られたくないと認められるもの」と規定している。

 (3) 上告人は,平成5年9月20日,被上告人らに対し,本件文書に記録されている情報は,個人の健康状態等心身の状況等に関する情報であって,特定の個人が識別され得るもののうち,通常他人に知られたくないものであり,本件条例8条1号に該当するとして,これを公開しない旨の決定(以下「本件処分」という。)をした。

 (4) 本件処分がされた当時,兵庫県には,その機関が保有する個人情報を本人に開示する制度等を定めた条例はなかった(なお,その後,個人情報の保護に関する条例(平成8年兵庫県条例第24号。以下「個人情報保護条例」という。)が制定され,平成9年4月1日に施行された。)。

■ 最高裁の判断

 2 本件条例は,兵庫県においていわゆる情報公開制度を採用し,広く県民等に公文書の公開を請求する権利を認めることなどにより,地方自治の本旨に即した県政の推進と県民生活の向上に寄与することを目的として制定されたものである(本件条例1条)。一方,後に制定された個人情報保護条例は,同県において,いわゆる個人情報保護制度を採用し,個人情報の開示及び訂正を求める権利を認めることなどにより,個人の権利利益を保護することを目的として制定されたものである(個人情報保護条例1条)。上記の二つの制度は,本来,異なる目的を有するものであって,公文書を公開ないし開示する相手方の範囲も異なり,請求を拒否すべき場合について配慮すべき事情も異なるものである。そして,地方公共団体が公文書の公開に関する条例を制定するに当たり,どのような請求権を認め,その要件や手続をどのようなものとするかは,基本的には当該地方公共団体の立法政策にゆだねられているところである。したがって,広く県民等に公文書の公開を請求する権利を認める条例に基づいて公文書の公開を請求する場合には,本来は,請求者は,県民等の1人として所定の要件の下において請求に係る公文書の公開を受けることができるにとどまり,そこに記録されている情報が自己の個人情報であることを理由に,公文書の開示を特別に受けることができるものではない。

 しかしながら,情報公開制度も個人情報保護制度も,広く地方公共団体において採用され,又は近い将来における採用が検討されているものであって,兵庫県においても,昭和61年に本件条例が制定されて情報公開制度が採用され,平成8年に個人情報保護条例が制定されて個人情報保護制度が採用されたものであるところ,

 本件処分がされたのは,本件条例制定後個人情報保護条例制定前の平成5年のことであったというのである。このように,情報公開制度が先に採用され,いまだ個人情報保護制度が採用されていない段階においては,被上告人らが同県の実施機関に対し公文書の開示を求める方法は,情報公開制度において認められている請求を行う方法に限られている。また,情報公開制度と個人情報保護制度は,前記のように異なる目的を有する別個の制度ではあるが,互いに相いれない性質のものではなく,むしろ,相互に補完し合って公の情報の開示を実現するための制度ということができるのである。とりわけ,本件において問題とされる個人に関する情報が情報公開制度において非公開とすべき情報とされるのは,個人情報保護制度が保護の対象とする個人の権利利益と同一の権利利益を保護するためであると解されるのであり,この点において,両者はいわば表裏の関係にあるということができ,本件のような情報公開制度は,限定列挙された非公開情報に該当する場合にのみ例外的に公開請求を拒否することが許されるものである。これらのことにかんがみれば,個人情報保護制度が採用されていない状況の下において,情報公開制度に基づいてされた自己の個人情報の開示請求については,そのような請求を許さない趣旨の規定が置かれている場合等は格別,当該個人の上記権利利益を害さないことが請求自体において明らかなときは,個人に関する情報であることを理由に請求を拒否することはできないと解するのが,条例の合理的な解釈というべきである。もっとも,当該地方公共団体において個人情報保護制度を採用した場合に個人情報の開示を認めるべき要件をどのように定めるかが決定されていない時点において,同制度の下において採用される可能性のある種々の配慮をしないままに情報公開制度に基づいて本人への個人情報の開示を認めることには,予期しない不都合な事態を生ずるおそれがないとはいえないが,他の非公開事由の定めの合理的な解釈適用により解決が図られる問題であると考えられる。

  3 このような観点から,本件処分の適否を検討する。本件処分は,本件文書が個人の健康状態等心身の状況に関する情報であって本件条例8条1号に該当するとしてされたものであるところ,当該個人というのが公開請求をした被上告人B1であることは,本件公開請求それ自体において明らかであったものと考えられる。そして,同号が,特定の個人が識別され得る情報のうち,通常他人に知られたくないと認められるものを公開しないことができると規定しているのは,当該個人の権利利益を保護するためであることが明らかである。また,本件条例には自己の個人情報の開示を請求することを許さない趣旨の規定等は存しない。そうすると,当該個人が自ら公開請求をしている場合には,当該個人及びこれと共同で請求をしているその配偶者に請求に係る公文書が開示されても,当該個人の権利利益が害されるおそれはなく,当該請求に限っては同号により非公開とすべき理由がないものということができる。これらによれば,【要旨】個人情報保護制度が採用されていない状況においては,本件公開請求については同号に該当しないものとして許否を決すべきであり,同号に該当することを理由に本件文書を公開しないものとすることはできないと解さざるを得ない。本件処分が違法であるとした原審の判断は,結論において正当であり,原判決に所論の違法はない。論旨は採用することができない。

 

 

【最判昭和63年12月20日 囚われの聴衆 伊藤正巳補足意見】

 裁判官伊藤正己の補足意見は、次のとおりである。

 私もまた、原審の適法に確定した事実関係のもとにおいては、上告人の本訴請求を棄却すべきものとした原判決は是認することができると考える。しかし、本件は、聞きたくないことを聞かない自由を法的利益としてどのように把握するか、また地下鉄の車内のようないわば閉ざされた場所における情報伝達の自由をどのように考えるかという問題にかかわるものであるから、これらの問題について若干の意見を述べておくことにしたい。

 一 原判決の説示によれば、人は、法律の規定をまつまでもなく、日常生活において見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かない自由を本来有しているとされる。私は、個人が他者から自己の欲しない刺戟によって心の静穏を乱されない利益を有しており、これを広い意味でのプライバシーと呼ぶことができると考えており、聞きたくない音を聞かされることは、このような心の静穏を侵害することになると考えている。このような利益が法的に保護を受ける利益としてどの程度に強固なものかについては問題があるとしても、現代社会においてそれを法的な利益とみることを妨げないのである。

 論旨(上告理由第一点)は、右の聞きたくない音を聞かない自由をもって精神的自由権に属するものとし、それが本件商業宣伝放送を行うという経済的自由権に優越するものであるにもかかわらず、原判決がそれを看過していることは憲法の解釈を誤ったものであるという。しかし、私見によれば、他者から自己の欲しない刺戟によって心の静穏を害されない利益は、人格的利益として現代社会において重要なものであり、これを包括的な人権としての幸福追求権(憲法一三条)に含まれると解することもできないものではないけれども、これを精神的自由権の一つとして憲法上優越的地位を有するものとすることは適当ではないと考える。それは、社会に存在する他の利益との調整が図られなければならず、個人の人格にかかわる被侵害利益としての重要性を勘案しつつも、侵害行為の態様との相関関係において違法な侵害であるかどうかを判断しなければならず、プライバシーの利益の側からみるときには、対立する利益(そこには経済的自由権も当然含まれる。)との較量にたって、その侵害を受忍しなければならないこともありうるからである。この相関関係を判断するためには、侵害行為の具体的な態様について検討を行うことが必要となる。右のような観点にたって、聞きたくない音を聞かない自由について考えてみよう。

 わが国において、騒音規制法が制定されており、工場や建設工事による騒音や自動車騒音について規制がされ、さらに深夜の騒音や拡声器による放送に係る騒音について地方公共団体が必要な措置を講ずるものとされている。しかし、一般的には、音による日常生活への侵害に対して鋭敏な感覚が欠除しており、静穏な環境の重要性に関する認識が乏しいことを否定できず、この音の加害への無関心さが音響による高い程度の生活妨害を誘発するとともに、通常これらの妨害を安易に許容する状況を生み出している。街頭や多数の人の来集する場所において、常識を外れた音量で、しかも不要と思われる情報の流されることがいかに多いかは、常に経験するところである。上告人の主張は、通常人の許容する程度のものをあえて違法とするものであり、余りに静穏の利益に敏感にすぎるといわれるかもしれないが、わが国における音による生活環境の侵害の現状をみるとき意味のある問題を提起するものといわねばなるまい。

 しかし、法的見地からみるとき、すでにみたように、聞きたくない音によって心の静穏を害されないことは、プライバシーの利益と考えられるが、本来、プライバシーは公共の場所においてはその保護が希薄とならざるをえず、受忍すべき範囲が広くなることを免れない。個人の居宅における音による侵害に対しては、プライバシーの保護の程度が高いとしても、人が公共の場所にいる限りは、プライバシーの利益は、全く失われるわけではないがきわめて制約されるものになる。したがって、一般の公共の場所にあっては、本件のような放送はプライバシーの侵害の問題を生ずるものとは考えられない。

 二 問題は、本件商業宣伝放送が公共の場所ではあるが、地下鉄の車内という乗客にとって目的地に到達するため利用せざるをえない交通機関のなかでの放送であり、これを聞くことを事実上強制されるという事実をどう考えるかという点である。これが「とらわれの聞き手」といわれる問題である。

 人が公共の交通機関を利用するときは、もとよりその意思に基づいて利用するのであり、また他の手段によって目的地に到着することも不可能ではないから、選択の自由が全くないわけではない。しかし、人は通常その交通機関を利用せざるをえないのであり、その利用をしている間に利用をやめるときには目的を達成することができない。比喩的表現であるが、その者は「とらわれ」た状態におかれているといえよう。そこで車内放送が行われるときには、その音は必然的に乗客の耳に達するのであり、それがある乗客にとって聞きたくない音量や内容のものであってもこれから逃れることができず、せいぜいその者にとってできるだけそれを聞かないよう努力することが残されているにすぎない。したがって、実際上このような「とらわれの聞き手」にとってその音を聞くことが強制されていると考えられよう。およそ表現の自由が憲法上強い保障を受けるのは、受け手が多くの表現のうちから自由に特定の表現を選んで受けとることができ、また受けとりたくない表現を自己の意思で受けとることを拒むことのできる場を前提としていると考えられる(「思想表現の自由市場」といわれるのがそれである。)。したがって、特定の表現のみが受け手に強制的に伝達されるところでは表現の自由の保障は典型的に機能するものではなく、その制約をうける範囲が大きいとされざるをえない。

 本件商業宣伝放送が憲法上の表現の自由の保障をうけるものであるかどうかには問題があるが、これを経済的自由の行使とみるときはもとより、表現の自由の行使とみるとしても、右にみたように、一般の表現行為と異なる評価をうけると解される。もとより、このように解するからといって、「とらわれの聞き手」への情報の伝達がプライバシーの利益に劣るものとして直ちに違法な侵害行為と判断されるものではない。しかし、このような聞き手の状況はプライバシーの利益との調整を考える場合に考慮される一つの要素となるというべきであり、本件の放送が一般の公共の場所においてプライバシーの侵害に当たらないとしても、それが本件のような「とらわれの聞き手」に対しては異なる評価をうけることもありうるのである。

 三 以上のような観点にたって本件をみてみると、試験放送として実施された第一審判決添付別紙(一)のような内容であるとすると違法と評価されるおそれがないとはいえないが、その後被上告人はその内容を控え目なものとし、駅周辺の企業を広告主とし、同別紙(四)の示す基準にのっとり同別紙(五)のような内容で実施するに至っているというのであり、この程度の内容の商業宣伝放送であれば、上告人が右に述べた「とらわれの聞き手」であること、さらに、本件地下鉄が地方公営企業であることを考慮にいれるとしても、なお上告人にとって受忍の範囲をこえたプライバシーの侵害であるということはできず、その論旨は採用することはできないというべきである。


プライバシー権(4)最判平成20年3月6日・住基ネット訴訟・続


  目次

プライバシー権(4-1)最判平成20年3月6日・住基ネット訴訟・高裁の判断

  最高裁の判断

しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は次のとおりである。

(1) 憲法13条は,国民の私生活上の自由が公権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものであり,個人の私生活上の自由の一つとして,何人も,個人に関する情報をみだりに第三者に開示又は公表されない自由を有するものと解される(最高裁昭和40年(あ)第1187号同44年12月24日大法廷判決・刑集23巻12号1625頁参照)。

そこで,住基ネットが被上告人らの上記の自由を侵害するものであるか否かについて検討するに,住基ネットによって管理,利用等される本人確認情報は,氏名,生年月日,性別及び住所から成る4情報に,住民票コード及び変更情報を加えたものにすぎない。このうち4情報は,人が社会生活を営む上で一定の範囲の他者には当然開示されることが予定されている個人識別情報であり,変更情報も,転入,転出等の異動事由,異動年月日及び異動前の本人確認情報にとどまるもので,これらはいずれも,個人の内面に関わるような秘匿性の高い情報とはいえない。これらの情報は,住基ネットが導入される以前から,住民票の記載事項として,住民基本台帳を保管する各市町村において管理,利用等されるとともに,法令に基づき必要に応じて他の行政機関等に提供され,その事務処理に利用されてきたものである。そして,住民票コードは,住基ネットによる本人確認情報の管理,利用等を目的として,都道府県知事が無作為に指定した数列の中から市町村長が一を選んで各人に割り当てたものであるから,上記目的に利用される限りにおいては,その秘匿性の程度は本人確認情報と異なるものではない。

また,前記確定事実によれば,住基ネットによる本人確認情報の管理,利用等は,法令等の根拠に基づき,住民サービスの向上及び行政事務の効率化という正当な行政目的の範囲内で行われているものということができる。住基ネットのシステム上の欠陥等により外部から不当にアクセスされるなどして本人確認情報が容易に漏えいする具体的な危険はないこと,受領者による本人確認情報の目的外利用又は本人確認情報に関する秘密の漏えい等は,懲戒処分又は刑罰をもって禁止されていること,住基法は,都道府県に本人確認情報の保護に関する審議会を,指定情報処理機関に本人確認情報保護委員会を設置することとして,本人確認情報の適切な取扱いを担保するための制度的措置を講じていることなどに照らせば,住基ネットにシステム技術上又は法制度上の不備があり,そのために本人確認情報が法令等の根拠に基づかずに又は正当な行政目的の範囲を逸脱して第三者に開示又は公表される具体的な危険が生じているということもできない。

 なお,原審は,① 行政個人情報保護法によれば,行政機関の裁量により利用目的を変更して個人情報を保有することが許容されているし,行政機関は,法令に定める事務等の遂行に必要な限度で,かつ,相当の理由のあるときは,利用目的以外の目的のために保有個人情報を利用し又は提供することができるから,行政機関が同法の規定に基づき利用目的以外の目的のために保有個人情報を利用し又は提供する場合には,本人確認情報の目的外利用を制限する住基法30条の34に違反することにならないので,同法による目的外利用の制限は実効性がないこと,② 住民が住基カードを用いて行政サービスを受けた場合,行政機関のコンピュータに残った記録を住民票コードで名寄せすることが可能であることなどを根拠として,住基ネットにより,個々の住民の多くのプライバシー情報が住民票コードを付されてデータマッチングされ,本人の予期しないときに予期しない範囲で行政機関に保有され,利用される具体的な危険が生じていると判示する。しかし,上記①については,行政個人情報保護法は,行政機関における個人情報一般についてその取扱いに関する基本的事項を定めるものであるのに対し,住基法30条の34等の本人確認情報の保護規定は,個人情報のうち住基ネットにより管理,利用等される本人確認情報につきその保護措置を講ずるために特に設けられた規定であるから,本人確認情報については,住基法中の保護規定が行政個人情報保護法の規定に優先して適用されると解すべきであって,住基法による目的外利用の禁止に実効性がないとの原審の判断は,その前提を誤るものである。また,上記②については,システム上,住基カード内に記録された住民票コード等の本人確認情報が行政サービスを提供した行政機関のコンピュータに残る仕組みになっているというような事情はうかがわれない。上記のとおり,データマッチングは本人確認情報の目的外利用に当たり,それ自体が懲戒処分の対象となるほか,データマッチングを行う目的で個人の秘密に属する事項が記録された文書等を収集する行為は刑罰の対象となり,さらに,秘密に属する個人情報を保有する行政機関の職員等が,正当な理由なくこれを他の行政機関等に提供してデータマッチングを可能にするような行為も刑罰をもって禁止されていること,現行法上,本人確認情報の提供が認められている行政事務において取り扱われる個人情報を一元的に管理することができる機関又は主体は存在しないことなどにも照らせば,住基ネットの運用によって原審がいうような具体的な危険が生じているということはできない。

(2) そうすると,行政機関が住基ネットにより住民である被上告人らの本人確認情報を管理,利用等する行為は,個人に関する情報をみだりに第三者に開示又は公表するものということはできず,当該個人がこれに同意していないとしても,憲法13条により保障された上記の自由を侵害するものではないと解するのが相当である。また,以上に述べたところからすれば,住基ネットにより被上告人らの本人確認情報が管理,利用等されることによって,自己のプライバシーに関わる情報の取扱いについて自己決定する権利ないし利益が違法に侵害されたとする被上告人らの主張にも理由がないものというべきである。以上は,前記大法廷判決の趣旨に徴して明らかである。

プライバシー権(4)最判平成20年3月6日・住基ネット訴訟

  目次

【最判平成20年3月6日・住基ネット訴訟】

判旨

  事実の概要

本件は,被上告人らが,行政機関が住民基本台帳ネットワークシステム(以下「住基ネット」という。)により被上告人らの個人情報を収集,管理又は利用(以下,併せて「管理,利用等」という。)することは,憲法13条の保障する被上告人らのプライバシー権その他の人格権を違法に侵害するものであるなどと主張して,被上告人らの住民基本台帳を保管する上告人に対し,上記の人格権に基づく妨害排除請求として,住民基本台帳からの被上告人らの住民票コードの削除を求める事案である。

原審の適法に確定した事実関係の概要等は,次のとおりである。

(1) 住民基本台帳法(以下「住基法」という。)は,平成11年法律第133号により改正され,住基ネットが導入された。住基ネットの概要は,次のとおりである。

ア 目的

従前,各市町村の保有する住民基本台帳の情報は当該市町村内においてのみ利用されていたが,住基ネットは,市町村長に住民票コードを記載事項とする住民票を編成した住民基本台帳の作成を義務付け,住民基本台帳に記録された個人情報のうち,氏名,住所など特定の本人確認情報を市町村,都道府県及び国の機関等で共有してその確認ができる仕組みを構築することにより,住民基本台帳のネットワーク化を図り,住民基本台帳に関する事務の広域化による住民サービスの向上と行政事務の効率化を図ることを目的とするものである(住基法6条,7条13号,30条の5~30条の8等)。

イ 住民票コード

市町村長は,個人を単位とする住民票を世帯ごとに編成して,住民基本台帳を作成しなければならず(住基法6条1項),その住民票には住民票コードを記載しなければならない(同法7条13号)。都道府県知事は,総務省令で定めるところにより,あらかじめ他の都道府県知事と協議して重複しないよう調整を図った上,当該都道府県の区域内の市町村の市町村長ごとに,当該市町村長が住民票に記載することのできる住民票コードを指定し,これを当該市町村長に通知する(同法30条の7第1項,2項)。上記総務省令に当たる同法施行規則においては,住民票コードの指定は,都道府県知事が,無作為に作成された10けたの数字及び1けたの検査数字を組み合わせて定めた数列のうちから無作為に抽出することにより行うものとされている(同法施行規則1条,14条)。市町村長は,いずれの市町村においても住民基本台帳に記録されたことがない者について新たに住民票の記載をする場合は,都道府県知事から指定された上記の住民票コードのうちから一を選択して住民票に記載し(同法30条の2第2項),いずれかの市町村において住民基本台帳に記録された者について住民票の記載をする場合は,直近に住民票の記載をした市町村長が記載した住民票コードを記載する(同条1項)。

ウ 本人確認情報

住基ネットによって管理,利用等される個人情報である本人確認情報は,住民票の記載事項(住基法7条)のうち,①氏名(1号),②生年月日(2号),③性別(3号),④住所(7号)(以上①~④を併せて,以下「4情報」という。)に,住民票コード(13号)及び住民票の記載に関する事項で政令で定めるもの(以下「変更情報」という。)を加えたものである(同法30条の5第1項)。変更情報とは,具体的には,異動事由(「転入」,「出生」,「転出」,「死亡」等),異動年月日及び異動前の本人確認情報である(同法施行令30条の5)。

エ 住基ネットの仕組み

市町村には,既存の住民基本台帳電算処理システム(以下「既存住基システム」という。)のほか,既存住基システムと住基ネットを接続し,その市町村の住民の本人確認情報を記録,管理するシステムであるコミュニケーションサーバが設置され,本人確認情報は,既存住基システムから上記サーバに伝達されて保存される。都道府県には,区域内の全市町村のコミュニケーションサーバから送信された本人確認情報を記録,管理するシステムである都道府県サーバが設置されている。都道府県知事は,総務大臣の指定する者(以下「指定情報処理機関」という。)に本人確認情報処理事務を行わせることができ(住基法30条の10第1項柱書き),指定情報処理機関には,全都道府県の都道府県サーバから送信された本人確認情報を記録,管理する全国サーバが設置されている。都道府県知事から指定情報処理機関に送信された本人確認情報は,全国サーバに保存される(同法30条の11)。オ本人確認情報の管理,利用等

() 市町村長は,住民票の記載,消除又は4情報及び住民票コードの記載の修正を行った場合,本人確認情報を都道府県知事に通知する(住基法30条の5第1項)。都道府県知事は,通知された本人確認情報を磁気ディスクに記録し,これを原則として5年間保存しなければならない(同法30条の5第3項,同法施行令30条の6)。

() 市町村長は,条例で定めるところにより,他の市町村の市町村長その他の執行機関から事務処理に関し求めがあったときは,本人確認情報を提供する(同法30条の6)。

() 都道府県知事は,同法別表に掲げる国の機関等,区域内の市町村の市町村長その他の執行機関又は他の都道府県の執行機関等から,法令又は条例によって規定された一定の事務の処理に関し求めがあったときは,政令又は条例で定めるところにより,本人確認情報を提供する(同法30条の7第3項~6項)。

() 都道府県知事は,統計資料の作成など法令に規定する一定の事務を遂行する場合には,本人確認情報を利用することができる(同法30条の8第1項)。

() 同法別表の改正等により,住基ネットの利用による本人確認情報の提供及び利用が可能な行政事務は,平成17年4月1日現在で275事務となっている。現行法上,これらの行政事務において取り扱われる個人情報を一元的に管理することができる機関又は主体は存在しない。また,指定情報処理機関は,行政機関等に対してその求めに応じ本人確認情報を提供することが予定されているが(同法30条の10),指定情報処理機関には行政機関等からその保有する他の個人情報を収集する権限は付与されていないから,指定情報処理機関がこれらの個人情報を本人確認情報と結合することはできない。

カ 本人確認情報の目的外利用

() 住基法別表に規定する事務等を行うため法令等の規定に基づき本人確認情報の提供を受けた市町村長その他の受領者(同法30条の33)は,当該事務処理の遂行に必要な範囲内で,受領した本人確認情報を利用し,又は提供するものとされ,当該事務の処理以外の目的のための利用又は提供は禁止されている(同法30条の34)。

() 行政機関は,特定された利用目的の達成に必要な範囲を超えて個人情報を保有してはならず(行政機関の保有する個人情報の保護に関する法律〔以下「行政個人情報保護法」という。〕3条2項),行政機関の長は,法令に基づく場合を除き,保有個人情報を目的外に利用し,又は提供してはならないとされている(同法8条1項)。

() 本人確認情報を保有する行政機関が,上記()で許される範囲を超えて,住民票コードをマスターキーとして用いて本人確認情報を他の個人情報と結合すること(以下「データマッチング」という。)は,住基法30条の34に規定する職務上の義務に違反する行為に当たり,懲戒処分の対象となる(国家公務員法82条,地方公務員法29条)。

行政機関の職員が,データマッチングなど上記()の範囲を超える利用のために個人の秘密に属する事項が記録された文書等を収集した場合には,「その職権を濫用して,専らその職務の用以外の用に供する目的で」行ったとき(行政個人情報保護法55条)に当たり,刑罰の対象となる。

指定情報処理機関の役員及び職員(住基法30条の17第3項),本人確認情報の提供を受けた市町村,都道府県又は国の機関等の職員が,その知り得た本人確認情報に関する秘密を他の機関等に漏えいした場合には,公務員の守秘義務違反に該当し,刑罰の対象となる(国家公務員法109条12号,100条1項,2項及び地方公務員法60条2号,34条1項,2項)。本人確認情報の電子計算機処理等に関する事務に従事する市町村の職員等(住基法30条の31第1項,2項)が,その事務に関して知り得た本人確認情報に関する秘密等を漏えいする行為は,住基法42条に規定する刑罰の対象となる。また,行政機関の職員等が,正当な理由がないのに,個人の秘密に属する事項が記録された個人情報ファイルを第三者に提供する行為も,刑罰の対象となる(行政個人情報保護法53条)。

キ 監視機関

住基法は,都道府県に本人確認情報の保護に関する審議会を設置し(同法30条の9第1項,2項),また,指定情報処理機関に本人確認情報保護委員会を設置すること(同法30条の15第1項,2項)を定め,上記審議会又は委員会において,それぞれ当該都道府県又は指定情報処理機関における本人確認情報の保護に関する事項を調査審議させることとしている。

ク 住基カード

住民基本台帳に記録されている者は,当該市町村の市町村長に対し,自己に係る氏名及び住民票コードその他政令で定める事項が記録された住民基本台帳カード(以下「住基カード」という。)の交付を求めることができる(住基法30条の44第1項)。市町村長その他の市町村の執行機関は,住基カードを,条例の定めるところにより,条例に規定する目的のために利用することができる(同法30条の44第8項)。

(2) 住基ネットの導入により,住民にとっては,① 一定の要件のもとで住基カードを添えて転入届を行う場合,従来必要とされていた転出証明書の添付が不要となり転出地の市役所等に出向く必要がなくなること(住基法24条の2第1項),② 全国のどの市町村でも住民票の写しを入手できるようになること(同法12条の2第1項),③ 婚姻届及び離婚届の提出,旅券の交付申請,戸籍抄本の交付請求,所得税の確定申告など一定の場合に,従来必要とされていた住民票の写しの提出が不要となること(行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律3条,関係行政機関が所管する法令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則4条1項,7項)などの利点がある。他方,市町村にとっては,市町村間の通信を郵送に代えて電気通信回線を通じて行うことにより事務の効率化を図ることができるほか,上記①~③に対応して,住民票の交付事務等に伴う負担の軽減及び行政経費の削減を図ることができるなどの利点がある。

(3) 本人確認情報の漏えい防止等の安全確保の措置として,技術的側面では,住基ネットシステムの構成機器等について相当厳重なセキュリティ対策が講じられ,人的側面でも,人事管理,研修及び教育等種々の制度や運用基準が定められて実施されており,現時点において,住基ネットのセキュリティが不備なため本人確認情報に不当にアクセスされるなどして本人確認情報が漏えいする具体的な危険はない。

 

  原審の判断

原審は,次のとおり判断して,被上告人らの上告人に対する住民票コードの削除請求を認容した。

(1) 自己の私的事柄に関する情報の取扱いについて自ら決定する利益(自己情報コントロール権)は,人格権の一内容であるプライバシーの権利として,憲法13条によって保障されていると解すべきである。一般的には秘匿の必要性の高くない4情報や数字の羅列にすぎない住民票コードについても,その取扱い方によっては,情報主体たる個人の合理的期待に反してその私生活上の自由を脅かす危険を生ずることがあるから,本人確認情報は,いずれもプライバシーに係る情報として法的保護の対象となり,自己情報コントロール権の対象となる。

(2) 本人確認情報の管理,利用等は,正当な行政目的の実現のために必要であり,かつ,その実現手段として合理的である場合には,自己情報コントロール権の内在的制約又は公共の福祉による制約により,原則として自己情報コントロール権を侵害するものではないが,本人確認情報の漏えいや目的外利用などにより住民のプライバシーないし私生活上の平穏が侵害される具体的な危険がある場合には,上記の実現手段としての合理性がなく,自己情報コントロール権を侵害するものというべきである。

(3) 現行法上,データマッチングは,本人確認情報の目的外利用に当たり,罰則をもって禁止される。しかし,行政個人情報保護法は,行政機関の裁量により利用目的を変更して個人情報を保有することを許容しており(同法3条3項),この場合には本人確認情報の目的外利用を制限する住基法30条の34に違反することにはならない。また,行政機関は,法令に定める事務等の遂行に必要な限度で,かつ,相当の理由のあるときは,利用目的以外の目的のために保有個人情報を利用し又は提供することができるから(行政個人情報保護法8条2項2号,3号),住基法による目的外利用の制限は実効性を欠く。さらに,住民が住基カードを使って行政サービスを受けた場合,その記録が行政機関のコンピュータに残り,それらを住民票コードで名寄せすることが可能である。

これらのことを考慮すれば,行政機関において,個々の住民の多くのプライバシー情報が住民票コードを付されて集積され,それがデータマッチングされ,本人の予期しないときに予期しない範囲で行政機関に保有され,利用される具体的な危険が生じているということができる。したがって,住基ネットは,その行政目的実現手段として合理性を有しないから,その運用に同意しない被上告人らに対して住基ネットを運用することは,被上告人らのプライバシー権ないし自己情報コントロール権を侵害するものである。

(4) 被上告人らに対する住基ネットの運用は,制度自体の欠陥により被上告人らの人格権を違法に侵害するものであって,その人格的自律を脅かす程度も相当大きいと評価でき,それが続く場合には被上告人らに回復し難い損害をもたらす危険がある。このような場合には,権利を侵害されている者は侵害行為の差止めを求めることができると解するのが相当であるところ,大阪府知事に対する通知の差止めは,行政機関の行為であるが,事実行為であり,民事訴訟において差止めを求めることができると解される。そして,住民票コードの削除請求は,実質は差止めを実効あるものとするための原状回復行為であるから,差止請求と同様に許されるものと解される。

 

プライバシー権(3)最判平成15年9月12日・早稲田大学江沢講演会名簿提出事件・最判平成15年3月14日 長良川リンチ殺人事件報道訴訟

 

  目次


【最判平成15年9月12日・早稲田大学江沢講演会名簿提出事件】

要旨

裁判要旨

1 大学が講演会の主催者として学生から参加者を募る際に収集した参加申込者の学籍番号,氏名,住所及び電話番号に係る情報は,参加申込者のプライバシーに係る情報として法的保護の対象となる。

2 大学が講演会の主催者として学生から参加者を募る際に収集した参加申込者の学籍番号,氏名,住所及び電話番号に係る情報を参加申込者に無断で警察に開示した行為は,大学が開示についてあらかじめ参加申込者の承諾を求めることが困難であった特別の事情がうかがわれないという事実関係の下では,参加申込者のプライバシーを侵害するものとして不法行為を構成する。

(2につき反対意見がある。)

 

判旨

  事実の概要

 1 原審の確定した事実関係の概要は,次のとおりである。

 (1) 被上告人は,D大学等を設置する学校法人である。D大学は,かねてより,諸外国の要人が来日した際,同大学へ招いて,その講演会を開催してきた。D大学は,平成10年7月下旬ころ,中華人民共和国大使館から,同国のE国家主席が,同年秋ころに来日する際,同大学を訪問したい旨の連絡を受け,同主席の講演会を開催することを計画し,警視庁,外務省,同大使館等と打ち合わせた上,同年11月28日に同大学のF講堂において同主席による本件講演会を開催することを決定し,同大学の学生に対し参加を募ることにした。

 (2) 本件講演会の参加の申込みは,平成10年11月18日から同月24日までの間にD大学の各学部事務所,各大学院事務所及びGセンターに備え置かれた本件名簿に,希望者が氏名等を記入してすることとされた。本件名簿の用紙には,最上段の欄外に「中華人民共和国主席E閣下講演会参加者」との表題が印刷され,その下に,横書きで学籍番号,氏名,住所及び電話番号の各記入欄が設けられ,参加申込者が1人ずつ記入できるよう,1行ごとに横線が引かれて各欄が囲われていた。上記用紙には,1枚につき,15名の参加申込者が記入できるよう,15行の欄が設けられていた。そして,本件名簿に氏名等を記入して本件講演会に参加を申し込んだ学生に対しては,参加証等が交付された。

 (3) 上告人らは,当時D大学の学生であったが,本件講演会への参加を申し込み,本件簿にその氏名等を記入して,参加証等の交付を受けた。

 (4) D大学は,本件講演会を準備するに当たり,警視庁,外務省,中華人民共和国大使館等から,警備体制について万全を期すよう要請されていた。そこで,D大学の職員,警視庁の担当者,外務省及び中華人民共和国大使館の各職員らの間において,平成10年7月下旬ころから,数回にわたり,打合せが行われた。その中で,D大学は,警視庁から,警備のため,本件講演会に出席する者の名簿を提出するよう要請された。

 (5) このような要請を受けて,D大学は,内部での議論を経て,本件講演会の警備を警察にゆだねるべく,本件名簿を提出することとした。そこで,総務部管理課において,平成10年11月25日までに各事務所等から学生部に届けられた本件名簿の写しの提供を受け,同課の職員が,同日又は翌26日の夜,その本件名簿の写しを,D大学の教職員,留学生,プレス関係者等その他のグループの参加申込者の各名簿と併せて,警視庁戸塚署に提出した。D大学は,このような本件名簿の写しの提出について,上告人らの同意は得ていない。

 (6) 上告人らは,本件講演会に参加したが,E主席の講演中に座席から立ち上がって「中国の核軍拡反対」と大声で叫ぶなどしたため,私服の警察官らにより,身体を拘束されて会場の外に連れ出され,建造物侵入及び威力業務妨害の嫌疑により現行犯逮捕された。その後,上告人らは,本件講演会を妨害したことを理由としてD大学からけん責処分に付された。

 2 本件は,上告人らが,被上告人に対し,違法な逮捕に協力し無効なけん責処分をしたことを理由とする損害賠償,同処分の無効確認並びに謝罪文の交付及び掲示を求めるとともに,被上告人が上告人らを含む本件講演会参加申込者の氏名等が記載された本件名簿の写しを無断で警視庁に提出したことが,上告人らのプライバシーを侵害したものであるとして,損害賠償を求めた事案である。

 

  原審の判断

 3 原審は,前記事実関係の下で,プライバシーの侵害を理由とする損害賠償請求について,次のとおり判示し,同請求を含めて上告人らの本件請求をいずれも棄却すべきものとした。

 (1) 本件名簿は,氏名等の情報のほかに,「本件講演会に参加を希望し申し込んだ学生である」との情報をも含むものであるところ,このような本件個人情報は,プライバシーの権利ないし利益として,法的保護に値するというべきであり,本件名簿は,そのような情報価値を具有するものであったことが認められる。

 (2) D大学による本件名簿の警察に対する提出行為については,同大学が本件講演会参加申込者の同意を得ていたと認めるに足りる証拠はない。しかし,私生活上の情報を開示する行為が,直ちに違法性を有し,開示者が不法行為責任を負うことになると考えるのは相当ではなく,諸般の事情を総合考慮し,社会一般の人々の感受性を基準として,当該開示行為に正当な理由が存し,社会通念上許容される場合には,違法性がなく,不法行為責任を負わないと判断すべきであるところ,本件個人情報は,基本的には個人の識別などのための単純な情報にとどまるのであって,思想信条や結社の自由等とは無関係のものである上,他人に知られたくないと感ずる程度,度合いの低い性質のものであること,上告人らが本件個人情報の開示によって具体的な不利益を被ったとは認められないこと,D大学は,本件講演会の主催者として,講演者である外国要人の警備,警護に万全を期し,不測の事態の発生を未然に防止するとともに,その身辺の安全を確保するという目的に資するため本件個人情報を開示する必要性があったこと,その他,開示の目的が正当であるほか,本件個人情報の収集の目的とその開示の目的との間に一応の関連性があること等の諸事情が認められ,これらの諸事情を総合考慮すると,同大学が本件個人情報を開示することについて,事前に上告人らの同意ないし許諾を得ていないとしても,同大学が本件個人情報を開示したことは,社会通念上許容される程度を逸脱した違法なものであるとまで認めることはできず,その開示が上告人らに対し不法行為を構成するものと認めることはできない。

 4 上告人らは,原判決のうちプライバシーの侵害を理由とする損害賠償請求に関する部分を不服として,本件上告受理の申立てをした。

 

  最高裁の判断

 5 原審の前記判断のうち,前記3の(1)は是認することができるが,同(2)は是認することができない。その理由は,次のとおりである。

 (1) 本件個人情報は,D大学が重要な外国国賓講演会への出席希望者をあらかじめ把握するため,学生に提供を求めたものであるところ,学籍番号,氏名,住所及び電話番号は,D大学が個人識別等を行うための単純な情報であって,その限りにおいては,秘匿されるべき必要性が必ずしも高いものではない。また,本件講演会に参加を申し込んだ学生であることも同断である。しかし,このような個人情報についても,本人が,自己が欲しない他者にはみだりにこれを開示されたくないと考えることは自然なことであり,そのことへの期待は保護されるべきものであるから,【要旨1】本件個人情報は,上告人らのプライバシーに係る情報として法的保護の対象となるというべきである。

 (2) このようなプライバシーに係る情報は,取扱い方によっては,個人の人格的な権利利益を損なうおそれのあるものであるから,慎重に取り扱われる必要がある。本件講演会の主催者として参加者を募る際に上告人らの本件個人情報を収集したD大学は,上告人らの意思に基づかずにみだりにこれを他者に開示することは許されないというべきであるところ,【要旨2】同大学が本件個人情報を警察に開示することをあらかじめ明示した上で本件講演会参加希望者に本件名簿へ記入させるなどして開示について承諾を求めることは容易であったものと考えられ,それが困難であった特別の事情がうかがわれない本件においては,本件個人情報を開示することについて上告人らの同意を得る手続を執ることなく,上告人らに無断で本件個人情報を警察に開示した同大学の行為は,上告人らが任意に提供したプライバシーに係る情報の適切な管理についての合理的な期待を裏切るものであり,上告人らのプライバシーを侵害するものとして不法行為を構成するというべきである。原判決の説示する本件個人情報の秘匿性の程度,開示による具体的な不利益の不存在,開示の目的の正当性と必要性などの事情は,上記結論を左右するに足りない。

 6 以上のとおり,原審の前記判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法

令の違反があり,論旨は理由がある。原判決中プライバシーの侵害を理由とする損

害賠償請求に関する部分は破棄を免れない。そして,同部分について更に審理判断

させる必要があるから,本件を原審に差し戻すこととする。

 よって,裁判官亀山継夫,同梶谷玄の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意

見で,主文のとおり判決する。

 

  反対意見

【裁判官亀山継夫,同梶谷玄の反対意見】は,次のとおりである。

 D大学が本件個人情報を警視庁に開示したことは,上告人らに対する不法行為を構成しない。その理由は,次のとおりである。

 本件個人情報は,プライバシーに係る情報であっても,専ら個人の内面にかかわるものなど他者に対して完全に秘匿されるべき性質のものではなく,上告人らが社会生活を送る必要上自ら明らかにした情報や単純な個人識別情報であって,その性質上,他者に知られたくないと感じる程度が低いものである。また,本件名簿は,本件講演会の参加者を具体的に把握し,本件講演会の管理運営を円滑に行うために作成されたものである。

 他方,本件講演会は,国賓である中華人民共和国国家主席の講演会であり,その警備の必要性は極めて高いものであったのであるから,その警備を担当する警視庁からの要請に応じてD大学が本件名簿の写しを警視庁に交付したことには,正当な理由があったというべきである。また,D大学が本件個人情報を開示した相手方や開示の方法等をみても,それらは,本件講演会の主催者として講演者の警護等に万全を期すという目的に沿うものであり,上記開示によって上告人らに実質的な不利益が生じたこともうかがわれない。

 これらの事情を考慮すると,D大学が本件個人情報を警察に開示したことは,あらかじめ上告人らの同意を得る手続を執らなかった点で配慮を欠く面があったとしても,社会通念上許容される限度を逸脱した違法な行為であるとまでいうことはできず,上告人らに対する不法行為を構成するものと認めることはできない。

 よって,上告人らの請求をいずれも棄却すべきものとした原審の判断は正当として是認することができ,本件上告は理由がないものとして棄却すべきである。

(裁判長裁判官 滝井繁男 裁判官 福田 博 裁判官 北川弘治 裁判官 亀山

継夫 裁判官 梶谷 玄)

 

 

【最判平成15年3月14日 長良川リンチ殺人事件報道訴訟】

要旨

裁判要旨

1 少年法61条が禁止しているいわゆる推知報道に当たるか否かは,その記事等により,不特定多数の一般人がその者を当該事件の本人であると推知することができるかどうかを基準にして判断すべきである。

2 犯行時少年であった者の犯行態様,経歴等を記載した記事を実名類似の仮名を用いて週刊誌に掲載したことにつき,その記事が少年法61条に違反するとした上,同条により保護される少年の権利ないし法的利益より明らかに社会的利益の擁護が優先する特段の事情がないとして,直ちに,名誉又はプライバシーの侵害による損害賠償責任を肯定した原審の判断には,被侵害利益ごとに違法性阻却事由の有無を個別具体的に審理判断しなかった違法がある。

 

 

判旨

■ 事案の概要

(1) 被上告人(昭和50年10月生まれ)は,平成6年9月から10月にかけて,成人又は当時18歳,19歳の少年らと共謀の上,連続して犯した殺人,強盗殺人,死体遺棄等の4つの事件により起訴され,刑事裁判を受けている刑事被告人である。

 上告人は,図書及び雑誌の出版等を目的とする株式会社であり,「週刊文春」と題する週刊誌を発行している。

 (2) 上告人は,名古屋地方裁判所に上記各事件の刑事裁判の審理が係属していた平成9年7月31日発売の「週刊文春」誌上に,第1審判決添付の別紙二のとおり,「『少年犯』残虐」「法廷メモ独占公開」などという表題の下に,事件の被害者の両親の思いと法廷傍聴記等を中心にした記事(以下「本件記事」という。)を掲載したが,その中に,被上告人について,仮名を用いて,法廷での様子,犯行態様の一部,経歴や交友関係等を記載した部分がある。

■ 原審の判断

 2 原審は,次のとおり判示し,被上告人の損害賠償請求を一部認容すべきもの

とした。

  (1) 本件記事で使用された仮名乙'は,本件記事が掲載された当時の被上告人の実名乙と類似しており,社会通念上,その仮名の使用により同一性が秘匿されたと認めることは困難である上,本件記事中に,出生年月,出生地,非行歴や職歴,交友関係等被上告人の経歴と合致する事実が詳細に記載されているから,被上告人と面識を有する特定多数の読者及び被上告人が生活基盤としてきた地域社会の不特定多数の読者は,乙'と被上告人との類似性に気付き,それが被上告人を指すことを容易に推知できるものと認めるのが相当である。

(2) 少年法61条は,少年事件情報の中の加害少年本人を推知させる事項についての報道(以下「推知報道」という。)を禁止する規定であるが,これは,憲法で保障される少年の成長発達過程において健全に成長するための権利の保護とともに,少年の名誉,プライバシーを保護することを目的とするものであり,同条に違反して実名等の報道をする者は,当該少年に対する人権侵害行為として,民法709条に基づき本人に対し不法行為責任を負うものといわなければならない。

 (3) 少年法61条に違反する推知報道は,内容が真実で,それが公共の利益に関する事項に係り,かつ,専ら公益を図る目的に出た場合においても,成人の犯罪事実報道の場合と異なり,違法性を阻却されることにはならず,ただ,保護されるべき少年の権利ないし法的利益よりも,明らかに社会的利益を擁護する要請が強く優先されるべきであるなどの特段の事情が存する場合に限って違法性が阻却され免責されるものと解するのが相当である。

 (4) 本件記事は,少年法61条が禁止する推知報道であり,事件当時18歳であった被上告人が当該事件の本人と推知されない権利ないし法的利益よりも,明らかに社会的利益の擁護が強く優先される特段の事情を認めるに足りる証拠は存しないから,本件記事を週刊誌に掲載した上告人は,不法行為責任を免れない。

■ 最高裁の判断

 3 しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。

 (1) 原判決は,本件記事による被上告人の被侵害利益を,() 名誉,プライバシーであるとして,上告人の不法行為責任を認めたのか,これらの権利に加えて() 原審が少年法61条によって保護されるとする「少年の成長発達過程において健全に成長するための権利」をも被侵害利益であるとして上記結論を導いたのか,その判文からは必ずしも判然としない。

 しかし,被上告人は,原審において,本件記事による被侵害利益を,上記()権利,すなわち被上告人の名誉,プライバシーである旨を一貫して主張し,()権利を被侵害利益としては主張していないことは,記録上明らかである。 このような原審における審理の経過にかんがみると,当審としては,原審が上記()の権利の侵害を理由に前記結論を下したものであることを前提として,審理判断をすべきものと考えられる。

(2) 被上告人は,本件記事によって,乙'が被上告人であると推知し得る読者に対し,被上告人が起訴事実に係る罪を犯した事件本人であること(以下「犯人情報」という。)及び経歴や交友関係等の詳細な情報(以下「履歴情報」という。)を公表されたことにより,名誉を毀損され,プライバシーを侵害されたと主張しているところ,本件記事に記載された犯人情報及び履歴情報は,いずれも被上告人の名誉を毀損する情報であり,また,他人にみだりに知られたくない被上告人のプライバシーに属する情報であるというべきである。そして,被上告人と面識があり,又は犯人情報あるいは被上告人の履歴情報を知る者は,その知識を手がかりに本件記事が被上告人に関する記事であると推知することが可能であり,本件記事の読者の中にこれらの者が存在した可能性を否定することはできない。そして,これらの読者の中に,本件記事を読んで初めて,被上告人についてのそれまで知っていた以上の犯人情報や履歴情報を知った者がいた可能性も否定することはできない。

 したがって,上告人の本件記事の掲載行為は,被上告人の名誉を毀損し,プライバシーを侵害するものであるとした原審の判断は,その限りにおいて是認することができる。

 なお,【要旨1】少年法61条に違反する推知報道かどうかは,その記事等により,不特定多数の一般人がその者を当該事件の本人であると推知することができるかどうかを基準にして判断すべきところ,本件記事は,被上告人について,当時の実名と類似する仮名が用いられ,その経歴等が記載されているものの,被上告人と特定するに足りる事項の記載はないから,被上告人と面識等のない不特定多数の一般人が,本件記事により,被上告人が当該事件の本人であることを推知することができるとはいえない。したがって,本件記事は,少年法61条の規定に違反するものではない。

  (3) ところで,本件記事が被上告人の名誉を毀損し,プライバシーを侵害する内容を含むものとしても,本件記事の掲載によって上告人に不法行為が成立するか否かは,被侵害利益ごとに違法性阻却事由の有無等を審理し,個別具体的に判断すべきものである。すなわち,名誉毀損については,その行為が公共の利害に関する事実に係り,その目的が専ら公益を図るものである場合において,摘示された事実がその重要な部分において真実であることの証明があるとき,又は真実であることの証明がなくても,行為者がそれを真実と信ずるについて相当の理由があるときは,不法行為は成立しないのであるから(最高裁昭和37年(オ)第815号同41年6月23日第一小法廷判決・民集20巻5号1118頁参照),本件においても,これらの点を個別具体的に検討することが必要である。また,プライバシーの侵害については,その事実を公表されない法的利益とこれを公表する理由とを比較衡量し,前者が後者に優越する場合に不法行為が成立するのであるから(最高裁平成元年(オ)第1649号同6年2月8日第三小法廷判決・民集48巻2号149頁),本件記事が週刊誌に掲載された当時の被上告人の年齢や社会的地位,当該犯罪行為の内容,これらが公表されることによって被上告人のプライバシーに属する情報が伝達される範囲と被上告人が被る具体的被害の程度,本件記事の目的や意義,公表時の社会的状況,本件記事において当該情報を公表する必要性など,その事実を公表されない法的利益とこれを公表する理由に関する諸事情を個別具体的に審理し,これらを比較衡量して判断することが必要である。

 (4) 【要旨2】原審は,これと異なり,本件記事が少年法61条に違反するものであることを前提とし,同条によって保護されるべき少年の権利ないし法的利益よりも,明らかに社会的利益を擁護する要請が強く優先されるべきであるなどの特段の事情が存する場合に限って違法性が阻却されると解すべきであるが,本件についてはこの特段の事情を認めることはできないとして,前記(3)に指摘した個別具体的な事情を何ら審理判断することなく,上告人の不法行為責任を肯定した。この原審の判断には,審理不尽の結果,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。この趣旨をいう論旨第一点の二は理由があり,原判決中上告人の敗訴部分は破棄を免れない。

 そこで,更に審理を尽くさせるため,前記部分につき本件を原審に差し戻すこととする。

 よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 北川弘治 裁判官 福田 博 裁判官 亀山継夫 裁判官 梶谷

 玄 裁判官 滝井繁男)

プライバシー権(2) 最判平成6年2月8日・ノンフィクション逆転事件・最判昭和63年7月15日 麹町中学校内申書事件



 目次

 

【最判平成6年2月8日・ノンフィクション逆転事件】

要旨

判示事項

ある者の前科等にかかわる事実が著作物で実名を使用して公表された場合における損害賠償請求の可否

裁判要旨

ある者の前科等にかかわる事実が著作物で実名を使用して公表された場合に、その者のその後の生活状況、当該刑事事件それ自体の歴史的又は社会的な意義その者の事件における当事者としての重要性、その者の社会的活動及びその影響力について、その著作物の目的、性格等に照らした実名使用の意義及び必要性を併せて判断し、右の前科等にかかわる事実を公表されない法的利益がこれを公表する理由に優越するときは、右の者は、その公表によって被った精神的苦痛の賠償を求めることができる。

 

判旨

 一 被上告人の請求は、上告人の著作に係る「逆転」と題する出版物(以下「本件著作」という。)で被上告人の実名が使用されたため、その刊行により、被上告人が後記の刑事事件につき被告人となり有罪判決を受けて服役したという前科にかかわる事実が公表され、精神的苦痛を被ったと主張して、上告人に対し、慰謝料三〇〇万円の支払を求めるものである。

 二 これに対して、原審は、概要、後記1ないし3の事実関係を確定した上、要するに、本件著作が出版されたころには、被上告人は、右の事実を他人に知られないことにつき人格的利益を有し、かつ、その利益は、法的保護に値する状況にあったというべきところ、上告人が本件著作で被上告人の実名を使用してその前科にかかわる事実を公表したことを正当とする理由はなく、また、上告人が本件著作で被上告人の実名を使用しても違法でないと信ずることに相当な理由もないとして、上告人の被上告人に対する不法行為責任を認め、本件請求を慰謝料五〇万円の支払を求める限度で認容した一審判決を正当とし、上告人の控訴を棄却した。

 1 本件著作は、昭和三九年八月一六日午前三時ころ、当時アメリカ合衆国の統治下にあった沖縄県宜野湾市aで発生した被上告人ら四名とアメリカ合衆国軍隊に所属するD一等兵及びE伍長との喧嘩が原因となって、Dが死亡し、Eが負傷した事件につき、被上告人ら四名が、同年九月四日、アメリカ合衆国琉球列島民政府高等裁判所の起訴陪審の結果、Dに対する傷害致死及びEに対する傷害の各罪(適条は我が国の刑法二〇五条及び二〇四条による。)で起訴され、陪審評議の結果、Dに対する関係では、傷害致死の公訴事実については無罪であるが、これに含まれる傷害の公訴事実については有罪、Eに対する関係では、無罪であると答申され、同年一一月六日、Dに対する傷害の罪で、被上告人ほか二名が懲役三年の実刑判決、他の一名が懲役二年、執行猶予二年の有罪判決を受けた裁判を素材とするものである。

 2 被上告人は、本件裁判で服役し、昭和四一年一〇月に仮出獄した後、沖縄でしばらく働いていたが、本件事件のこともあってうまくいかず、やがて沖縄を離れて上京し、昭和四三年一〇月から都内のバス会社に運転手として就職した。被上告人は、その後、結婚したが、会社にも、妻にも、前科を秘匿していた。本件事件及び本件裁判は、当時、沖縄では大きく新聞報道されたが、本土では新聞報道もなく、東京で生活している被上告人の周囲には、その前科にかかわる事実を知る者はいなかった。

 3 上告人は、本件裁判の陪審員の一人であったが、その体験に基づき、本件著作を執筆し、本件著作は、昭和五二年八月、株式会社Fから刊行され、ノンフィクション作品として世上高い評価を受け、昭和五三年にはG賞を受賞した。

 三 所論は、前記の理由で上告人の被上告人に対する不法行為責任を認めた原判決には、憲法違反、判決に影響を及ぼす法令違反、理由不備ないし理由齟齬の違法があるというので、以下、検討する。

 1 ある者が刑事事件につき被疑者とされ、さらには被告人として公訴を提起されて判決を受け、とりわけ有罪判決を受け、服役したという事実は、その者の名誉あるいは信用に直接にかかわる事項であるから、その者は、みだりに右の前科等にかかわる事実を公表されないことにつき、法的保護に値する利益を有するものというべきである(最高裁昭和五二年(オ)第三二三号同五六年四月一四日第三小法廷判決・民集三五巻三号六二〇頁参照)。この理は、右の前科等にかかわる事実の公表が公的機関によるものであっても、私人又は私的団体によるものであっても変わるものではない。そして、その者が有罪判決を受けた後あるいは服役を終えた後においては、一市民として社会に復帰することが期待されるのであるから、その者は、前科等にかかわる事実の公表によって、新しく形成している社会生活の平穏を害されその更生を妨げられない利益を有するというべきである。

  もっとも、ある者の前科等にかかわる事実は、他面、それが刑事事件ないし刑事裁判という社会一般の関心あるいは批判の対象となるべき事項にかかわるものであるから、事件それ自体を公表することに歴史的又は社会的な意義が認められるような場合には、事件の当事者についても、その実名を明らかにすることが許されないとはいえない。また、その者の社会的活動の性質あるいはこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度などのいかんによっては、その社会的活動に対する批判あるいは評価の一資料として、右の前科等にかかわる事実が公表されることを受忍しなければならない場合もあるといわなければならない(最高裁昭和五五年(あ)第二七三号同五六年四月一六日第一小法廷判決・刑集三五巻三号八四頁参照)。さらにまた、その者が選挙によって選出される公職にある者あるいはその候補者など、社会一般の正当な関心の対象となる公的立場にある人物である場合には、その者が公職にあることの適否などの判断の一資料として右の前科等にかかわる事実が公表されたときは、これを違法というべきものではない(最高裁昭和三七年(オ)第八一五号同四一年六月二三日第一小法廷判決・民集二〇巻五号一一一八頁参照)。

   そして、ある者の前科等にかかわる事実が実名を使用して著作物で公表された場合に、以上の諸点を判断するためには、その著作物の目的、性格等に照らし、実名を使用することの意義及び必要性を併せ考えることを要するというべきである。

 要するに、前科等にかかわる事実については、これを公表されない利益が法的保護に値する場合があると同時に、その公表が許されるべき場合もあるのであって、ある者の前科等にかかわる事実を実名を使用して著作物で公表したことが不法行為を構成するか否かは、その者のその後の生活状況のみならず、事件それ自体の歴史的又は社会的な意義、その当事者の重要性、その者の社会的活動及びその影響力について、その著作物の目的、性格等に照らした実名使用の意義及び必要性をも併せて判断すべきもので、その結果、前科等にかかわる事実を公表されない法的利益が優越するとされる場合には、その公表によって被った精神的苦痛の賠償を求めることができるものといわなければならない。なお、このように解しても、著作者の表現の自由を不当に制限するものではない。けだし、表現の自由は、十分に尊重されなければならないものであるが、常に他の基本的人権に優越するものではなく、前科等にかかわる事実を公表することが憲法の保障する表現の自由の範囲内に属するものとして不法行為責任を追求される余地がないものと解することはできないからである。この理は、最高裁昭和二八年(オ)第一二四一号同三一年七月四日大法廷判決・民集一〇巻七号七八五頁の趣旨に徴しても明らかであり、原判決の違憲をいう論旨を採用することはできない。

 なお、このように解しても、著作者の表現の自由を不当に制限するものではない。けだし、表現の自由は、十分に尊重されなければならないものであるが、常に他の基本的人権に優越するものではなく、前科等にかかわる事実を公表することが憲法の保障する表現の自由の範囲内に属するものとして不法行為責任を追求される余地がないものと解することはできないからである。この理は、最高裁昭和二八年(オ)第一二四一号同三一年七月四日大法廷判決・民集一〇巻七号七八五頁の趣旨に徴しても明らかであり、原判決の違憲をいう論旨を採用することはできない。 2 そこで、以上の見地から本件をみると、まず、本件事件及び本件裁判から本件著作が刊行されるまでに一二年余の歳月を経過しているが、その間、被上告人が社会復帰に努め、新たな生活環境を形成していた事実に照らせば、被上告人は、その前科にかかわる事実を公表されないことにつき法的保護に値する利益を有していたことは明らかであるといわなければならない。しかも、被上告人は、地元を離れて大都会の中で無名の一市民として生活していたのであって、公的立場にある人物のようにその社会的活動に対する批判ないし評価の一資料として前科にかかわる事実の公表を受忍しなければならない場合ではない。

    所論は、本件著作は、陪審制度の長所ないし民主的な意義を訴え、当時のアメリカ合衆国の沖縄統治の実態を明らかにしようとすることを目的としたものであり、そのために本件事件ないしは本件裁判の内容を正確に記述する必要があったというが、その目的を考慮しても、本件事件の当事者である被上告人について、その実名を明らかにする必要があったとは解されない。本件著作は、陪審評議の経過を詳細に記述し、その点が特色となっているけれども、歴史的事実そのものの厳格な考究を目的としたものとはいえず、現に上告人は、本件著作において、米兵たちの事件前の行動に関する記述は周囲の人の話や証言などから推測的に創作した旨断っており、被上告人に関する記述についても、同人が法廷の被告人席に座って沖縄へ渡って来たことを後悔し、そのころの生活等を回顧している部分は、被上告人は事実でないとしている。その上、上告人自身を含む陪審員については、実名を用いることなく、すべて仮名を使用しているのであって、本件事件の当事者である被上告人については特にその実名を使用しなければ本件著作の右の目的が損なわれる、と解することはできない。

   さらに、所論は、本件著作は、右の目的のほか、被上告人ら四名が無実であったことを明らかにしようとしたものであるから、本件事件ないしは本件裁判について、被上告人の実名を使用しても、その前科にかかわる事実を公表したことにはならないという。しかし、本件著作では、上告人自身を含む陪審員の評議の結果、被上告人ら四名がDに対する傷害の罪で有罪と答申された事実が明らかにされている上、被上告人の下駄やシャツに米兵の血液型と同型の血液が付着していた事実など、被上告人と事件とのかかわりを示す証拠が裁判に提出されていることが記述され、また、陪審評議において、喧嘩両成敗であるとの議論がされた旨の記述はあるが、被上告人ら四名が正当防衛として無罪であるとの主張がされた旨の記述はない。したがって、本件著作は、被上告人ら四名に対してされた陪審の答申と当初の公訴事実との間に大きな相違があり、また、言い渡された刑が陪審の答申した事実に対する量刑として重いという印象を強く与えるものではあるが、被上告人が本件事件に全く無関係であったとか、被上告人ら四名の行為が正当防衛であったとかいう意味において、その無実を訴えたものであると解することはできない。

   以上を総合して考慮すれば、本件著作が刊行された当時、被上告人は、その前科にかかわる事実を公表されないことにつき法的保護に値する利益を有していたところ、本件著作において、上告人が被上告人の実名を使用して右の事実を公表したことを正当とするまでの理由はないといわなければならない。そして、上告人が本件著作で被上告人の実名を使用すれば、その前科にかかわる事実を公表する結果になることは必至であって、実名使用の是非を上告人が判断し得なかったものとは解されないから、上告人は、被上告人に対する不法行為責任を免れないものというべきである。

 3 以上説示したとおり、上告人の被上告人に対する不法行為責任を認めた原審の判断は、正当として是認することができ、所論は採用することができない。

 

 

【最判昭和63年7月15日 麹町中学校内申書事件】

 所論は、教師が教育関係において得た生徒の思想、信条、表現行為及び信仰に関する情報は、調査書に記載することによつて志望高等学校に開示することができないものであるにもかかわらず、この情報の本件調査書の記載を適法とした原判決は、憲法二六条、一三条に違反する旨を主張するのであるが、本件調査書の備考欄等の記載は、上告人の思想、信条そのものの記載でもなく、外部的行為の記載も上告人の思想、信条を了知させ、また、それを評価の対象とするものとはみられないのみならず、その記載に係る行為は、いずれも調査書に記載して入学者の選抜の資料として適法に記載し得るものであるから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、採用できない。

 また、所論の憲法二六条のほか一三条違反をも主張する趣旨が本件調査書の記載が教育上のプライバシーの権利を侵害するものであるとするならば、本件調査書の記載による情報の開示は、入学者選抜に関係する特定小範囲の人に対するものであつて、情報の公開には該当しないから、本件調査書の記載が情報の公開に該当するものとして憲法一三条違反をいう所論は、その前提を欠き、採用することができない。

プライバシー権(1)東京地判昭和39年9月28日 宴のあと事件・東京高決昭和45年4月13日 エロス+虐殺事件・最判昭和56年4月14日 前科照会事件

 

 

  目次

 

【東京地判昭和39年9月28日 宴のあと事件】

要旨

いわゆるプライバシー権は私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利として理解されるから、その侵害に対しては侵害行為の差止や精神的苦痛による損害賠償請求権が認められるべきものであり、民法709条はこのような侵害行為もなお不法行為として評価されるべきことを規定しているものと解釈するのが正当である。

 

判旨

被告等は私生活をみだりに公開されないという意味でのプライバシーの尊重が必要なことは認めるけれども、それが実定法的にも一つの法益として是認され、したがつて法的保護の対象となる権利であるかどうかは疑問であると主張する。しかし近代法の根本理念の一つであり、また日本国憲法のよつて立つところでもある個人の尊厳という思想は、相互の人格が尊重され、不当な干渉から自我が保護されることによつてはじめて確実なものとなるのであつて、そのためには、正当な理由がなく他人の私事を公開することが許されてはならないことは言うまでもないところである。このことの片鱗はすでに成文法上にも明示されているところであつて、たとえば他人の住居を正当な理由がないのにひそかにのぞき見る行為は犯罪とせられており(軽犯罪法一条一項二三号)その目的とするところが私生活の場所的根拠である住居の保護を通じてプライバシーの保障を図るにあることは明らかであり、また民法二三五条一項が相隣地の観望について一定の規制を設けたところも帰するところ他人の私生活をみだりにのぞき見ることを禁ずる趣旨にあることは言うまでもないし、このほか刑法一三条の信書開披罪なども同じくプライバシーの保護に資する規定であると解せられるのである。

 ここに挙げたような成文法規の存在と前述したように私事をみだりに公開されないという保障が、今日のマスコミユニケーシヨンの発達した社会では個人の尊厳を保ち幸福の追求を保障するうえにおいて必要不可欠なものであるとみられるに至つていることとを合わせ考えるならば、その尊重はもはや単に倫理的に要請されるにとどまらず、不法な侵害に対しては法的救済が与えられるまでに高められた人格的な利益であると考えるのが正当であり、それはいわゆる人格権に包摂されるものではあるけれども、なおこれを一つの権利と呼ぶことを妨げるものではないと解するのが相当である。

  (四) 右に判断したように、いわゆるプライバシー権は私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利として理解されるから、その侵害に対しては侵害行為の差し止めや精神的苦痛に因る損害賠償請求権が認められるべきものであり、民法七〇九条はこのような侵害行為もなお不法行為として評価されるべきことを規定しているものと解釈するのが正当である

 そしてここにいうような私生活の公開とは、公開されたところが必ずしもすべて真実でなければならないものではなく、一般の人が公開された内容をもつて当該私人の私生活であると誤認しても不合理でない程度に真実らしく受け取られるものであれば、それはなおプライバシーの侵害としてとらえることができるものと解すべきである。けだし、このような公開によつても当該私人の私生活とくに精神的平穏が害われることは、公開された内容が真実である場合とさしたる差異はないからである。むしろプライバシーの侵害は多くの場合、虚実がないまぜにされ、それが真実であるかのように受け取られることによつて発生することが予想されるが、ここで重要なことは公開されたところが客観的な事実に合致するかどうか、つまり真実か否かではなく、真実らしく思われることによつて当該私人が一般の好奇心の的になり、あるいは当該私人をめぐつてさまざまな揣摩臆測が生じるであろうことを自ら意識することによつて私人が受ける精神的な不安、負担ひいては苦痛にまで至るべきものが、法の容認し難い不当なものであるか否かという点にあるものと考えられるからである。

 そうであれば、右に論じたような趣旨でのプライバシーの侵害に対し法的な救済が与えられるためには、公開された内容が(イ)私生活上の事実または私生活上の事実らしく受け取られるおそれのあることがらであること、(ロ)一般人の感受性を基準にして当該私人の立場に立つた場合公開を欲しないであろうと認められることがらであること、換言すれば一般人の感覚を基準として公開されることによつて心理的な負担、不安を覚えるであろうと認められることがらであること、(ハ)一般の人々に未だ知られていないことがらであることを必要とし、このような公開によつて当該私人が実際に不快、不安の念を覚えたことを必要とするが、公開されたところが当該私人の名誉、信用というような他の法益を侵害するものであることを要しないのは言うまでもない。すでに論じたようにプライバシーはこれらの法益とはその内容を異にするものだからである。

 このように解せられるので、右に指摘したところに照らしても、本件「宴のあと」は少くとも前記(二)末尾で説示した範囲では原告のプライバシーを侵害したものと認めるのが相当である。(原告が掲げる侵害個所の指摘表挙示のその他の叙述については、後に判断する。)

 

 

【東京高決昭和45年4月13日 エロス+虐殺事件】

要旨

一、 人格的利益を侵害された者は、加害者に対し、損害賠償ないし名誉回復を求めうるほか、侵害行為の排除ないし予防を求める請求権をも有する。

二、 小説・演劇・映画等により人格的利益を侵害された者が、侵害行為の排除ないし予防を求める請求権を有するかどうかは、個人の尊厳及び幸福追求の権利の保護と表現の自由(特に言論の自由)の保障との関係に鑑み、被害者が侵害行為の排除ないし予防の措置がなされないままで放置されることによつて被る不利益の態様、程度と、加害者が右の措置のためその活動の自由を制約されることによつて受ける不利益のそれとを比較衡量して決すべきである。

三、 公開上映されようとする映画が、被害者の過去における恋愛的葛藤及び傷害事件を中心的素材とするものであつても、右事実及び映画の製作意図、内容について、それぞれ判示のような事情がある場合には、被害者に侵害行為の排除ないし予防を求める請求権を認めることができない。

 

判旨

本件仮処分申請の要旨は、相手方有限会社現代映画社(以下単に現代映画社という)の製作にかかる映画「エロス十虐殺」(以下単に本件映画という)の公開上映によつて、抗告人は現に違法にその人格的利益(特に名誉権及びプライバシー権)を侵害され、かつ、将来もこれを侵害される虞があるので、右侵害を排除し、予防するため、本件映画の公開上映の差し止め(禁止)を求める、というのである。

 現行法は人格的利益の侵害に対する救済として、損害賠償ないし原状回復を認めることを原則とするけれども、人格的利益と侵害された被害者は、また、加害者に対して、現に行われている侵害行為の排除を求め、或は将来生ずべき侵害の予防を求める請求権をも有するものというべきである。しかし、人格的利益の侵害が、小説、演劇、映画等によつてなされたとされる場合には、個人の尊厳及び幸福追求の権利の保護と表現の自由(特に言論の自由)の保障との関係に鑑み、いかなる場合に右請求権を認むべきかについて慎重な考慮を要するところである。そうして、一般的には、右請求権の存否は、具体的事案について、被害者が排除ないし予防の措置がなされないままで放置されることによつて蒙る不利益の態様、程度と、侵害者が右の措置によつてその活動の自由を制約されることによつて受ける不利益のそれとを比較衡量して決すべきである。

 

 

【最判昭和56年4月14日 前科照会事件】

要旨

 

判示事項

いわゆる政令指定都市の区長が弁護士法二三条の二に基づく照会に応じて前科及び犯罪経歴を報告したことが過失による公権力の違法な行使にあたるとされた事例

裁判要旨

弁護士法二三条の二に基づき前科及び犯罪経歴の照会を受けたいわゆる政令指定都市の区長が、照会文書中に照会を必要とする事由としては「中央労働委員会、京都地方裁判所に提出するため」との記載があつたにすぎないのに、漫然と右照会に応じて前科及び犯罪経歴のすべてを報告することは、前科及び犯罪経歴については、従来通達により一般の身元照会には応じない取扱いであり、弁護士法二三条の二に基づく照会にも回答できないとの趣旨の自治省行政課長回答があつたなど、原判示の事実関係のもとにおいては、過失による違法な公権力の行使にあたる。

(補足意見、反対意見がある。)

 

判旨

 前科及び犯罪経歴(以下「前科等」という。)は人の名誉、信用に直接にかかわる事項であり、前科等のある者もこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有するのであつて、市区町村長が、本来選挙資格の調査のために作成保管する犯罪人名簿に記載されている前科等をみだりに漏えいしてはならないことはいうまでもないところである。前科等の有無が訴訟等の重要な争点となつていて、市区町村長に照会して回答を得るのでなければ他に立証方法がないような場合には、裁判所から前科等の照会を受けた市区町村長は、これに応じて前科等につき回答をすることができるのであり、同様な場合に弁護士法二三条の二に基づく照会に応じて報告することも許されないわけのものではないが、その取扱いには格別の慎重さが要求されるものといわなければならない。本件において、原審の適法に確定したところによれば、京都弁護士会が訴外D弁護士の申出により京都市伏見区役所に照会し、同市中京区長に回付された被上告人の前科等の照会文書には、照会を必要とする事由としては、右照会文書に添付されていたD弁護士の照会申出書に「中央労働委員会、京都地方裁判所に提出するため」とあつたにすぎないというのであり、このような場合に、市区町村長が漫然と弁護士会の照会に応じ、犯罪の種類、軽重を問わず、前科等のすべてを報告することは、公権力の違法な行使にあたると解するのが相当である。原審の適法に確定した事実関係のもとにおいて、中京区長の本件報告を過失による公権力の違法な行使にあたるとした原審の判断は、結論において正当として是認することができる

 

【裁判官伊藤正己の補足意見】は、次のとおりである。

 他人に知られたくない個人の情報は、それがたとえ真実に合致するものであつても、その者のプライバシーとして法律上の保護を受け、これをみだりに公開することは許されず、違法に他人のプライバシーを侵害することは不法行為を構成するものといわなければならない。このことは、私人による公開であつても、国や地方公共団体による公開であつても変わるところはない。国又は地方公共団体においては、行政上の要請など公益上の必要性から個人の情報を収集保管することがますます増大しているのであるが、それと同時に、収集された情報がみだりに公開されてプライバシーが侵害されたりすることのないように情報の管理を厳にする必要も高まつているといつてよい。近時、国又は地方公共団体の保管する情報について、それを広く公開することに対する要求もつよまつてきている。しかし、このことも個人のプライバシーの重要性を減退せしめるものではなく、個人の秘密に属する情報を保管する機関には、プライバシーを侵害しないよう格別に慎重な配慮が求められるのである。 本件で問題とされた前科等は、個人のプライバシーのうちでも最も他人に知られたくないものの一つであり、それに関する情報への接近をきわめて困難なものとし、その秘密の保護がはかられているのもそのためである。もとより前科等も完全に秘匿されるものではなく、それを公開する必要の生ずることもありうるが、公開が許されるためには、裁判のために公開される場合であつても、その公開が公正な裁判の実現のために必須のものであり、他に代わるべき立証手段がないときなどのように、プライバシーに優越する利益が存在するのでなければならず、その場合でも必要最小限の範囲に限つて公開しうるにとどまるのである。このように考えると、人の前科等の情報を保管する機関には、その秘密の保持につきとくに厳格な注意義務が課せられていると解すべきである。本件の場合、京都弁護士会長の照会に応じて被上告人の前科等を報告した中京区長の過失の有無について反対意見の指摘するような事情が認められるとしても、同区長が前述のようなきびしい守秘義務を負つていることと、それに加えて、昭和二二年地方自治法の施行に際して市町村の機能から犯罪人名簿の保管が除外されたが、その後も実際上市町村役場に犯罪人名簿が作成保管されているのは、公職選挙法の定めるところにより選挙権及び被選挙権の調査をする必要があることによるものであること(このことは、原判決の確定するところである。)を考慮すれば、同区長が前科等の情報を保管する者としての義務に忠実であつたとはいえず、同区長に対し過失の責めを問うことが酷に過ぎるとはいえないものと考える。

 

 

【裁判官環昌一の反対意見】は、次のとおりである。

 前科等は人の名誉、信用にかかわるものであるから、前科等のある者がこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有することは、多数意見の判示するとおりである。しかしながら、現行法制のもとにおいては、右のような者に関して生ずる法律関係について前科等の存在がなお法律上直接影響を及ぼすものとされる場合が少なくないのであり、刑事関係において量刑上の資料等として考慮され、あるいは法令によつて定められている人の資格における欠格事由の一つとして考慮される場合等がこれに当たる。このような場合にそなえて国又は公共団体が人の前科等の存否の認定に誤りがないようにするための正確な資料を整備保管しておく必要があるが、同時にこの事務を管掌する公務員の一般的義務として該当者の前科等に関する前述の利益を守るため右の資料等に基づく証明行為等を行うについて限度を超えることがないようにすべきこともまた当然である。

 ところで、原判決の認定するところ及び記録によれば、右にのべた資料の一つと認められるいわゆる犯罪人名簿は、もともと大正六年四月一二日の内務省訓令一号により市区町村長が作成保管すべきものとされてきたものであるが、戦後においては昭和二一年一一月一二日内務省発地第二七九号による同省地方局長の都道府県知事あて通達によつて選挙資格の調査等の資料として引きつづき作成保管され、同二二年地方自治法が施行されてのちも明文上の根拠規定のないまま従来どおり継続して作成保管され今日にいたつていること、右昭和二一年の内務省地方局長通達によれば、犯罪人名簿は選挙資格の調査のために調製保存されるものであるから警察、検事局、裁判所等の照会に対するものは格別これを身元証明等のために絶対使用してはならない旨指示されていること、さらに昭和二二年八月一四日内務省発地第一六〇号による同省地方局長の都道府県知事あて通達によれば、右の警察、検事局、裁判所等の中には獣医師免許等の免許処分や当時における弁護士の登録等に関しては関係主務大臣、都道府県知事、市町村長をも含むものである旨指示されていることが明らかである。以上の経緯に徴すると、犯罪人名簿に関する照会に対しその保管者である市区町村長の行う回答等の事務は、広く公務員に認められている守秘義務によつて護られた官公署の内部における相互の共助的事務として慣行的に行われているものとみるべきものである。したがつて、官公署以外の者からする照会等に対してはもとより官公署からの照会等に対してであつても、前述した前科等の存否が法律上の効果に直接影響を及ぼすような場合のほかは前記のような名誉等の保護の見地から市町村長としてこれに応ずべきものではないといわなければならない。前記各通達が身元証明等のために前科人名簿を使用することを禁ずる旨をのべているのは右の趣旨に出たものと解せられる。

 そこでこれを本件について考えてみる。

 本件は、前記各通達のあつたのちに制定施行された弁護士法二三条の二の規定に基づき、所属の弁護士から申出を受けた弁護士会が照会を必要とする事由として「中央労働委員会、京都地方裁判所に提出するため」と記載された文書をもつてした被上告人の前科等の存否についての照会に対する回答に関する事案であるが、このような経緯や右文書の記載は、中央労働委員会及び京都地方裁判所において被上告人に関する労働関係事案の審理が現に進行中であり、右事案に対する法律判断に被上告人の前科等の存否が直接影響をもつような事情にあることを推認させるものということができる。

 そして、右弁護士法二三条の二の規定が弁護士会に公務所に照会して必要な事項の報告を求めることができる権限を与えている関係においては、弁護士会を一個の官公署の性格をもつものとする法意に出たものと解するのが相当である。このことは弁護士会は所属弁護士に対する独立した監督権、懲戒権を与えられ(弁護士法三一条一項、五六条二項)、前記所属の弁護士よりの照会の申出についても独自の判断に基づいてこれを拒絶することが認められており(同法二三条の二第一項)、また、弁護士にはその職務上知り得た秘密を保持する権利義務のあることが明定されている(同法二三条、なお刑法一三四条一項参照)ことにかんがみ実質的にも首肯することができるのである(なお記録によれば地方自治庁においても昭和二四年一二月一九日弁護士法による弁護士登録の場合の資格審査について弁護士会の照会に応じて差し支えないものと通達していることをうかがうことができる。)。右にのべたところに加えて雇傭契約その他の労働関係についての民事法上の判断に当事者の前科等の存否が直接影響を及ぼすことはありえないとするような見解が判例等により一般に承認されているとみることもできないことを併せ考えると、上告人京都市の中京区長は、照会者たる京都弁護士会を裁判所等に準ずる官公署とみたうえ、本件照会が身元証明等を求める場合に当らないばかりでなく、前記のような事情のもとで本件回答書が中央労働委員会及び裁判所に提出されることによつてその内容がみだりに公開されるおそれのないものであるとの判断に立つて前記官公署間における共助的事務の処理と同様に取り扱い回答をしたものと思われるのであるが、このような取り扱いをしたことは、他に特段の事情の存することが認められない限り、弁護士法二三条の二の規定に関する一個の解釈として十分成り立ちうる見解に立脚したものとして被上告人の名誉等の保護に対する配慮に特に欠けるところがあつたものというべきではないから、同区長に対し少なくとも過失の責めを問うことは酷に過ぎ相当でない。この点に関して原判決は昭和三六年一月三一日自治省自治丁行発七号による同省行政課長の愛知県総務部長あての回答の存在や原審証人Fの証言により認められる事実、甲第一一、一二号証の記載を援用して以上のべたところと反対の結論をみちびいているのであるが、記録にあらわれたところによつてみる限り、これらの資料によつては未だ右特段の事情の存することが十分に明らかになつているとは思われない。そうすると、以上のべたところと結論を異にし上告人の中京区長の過失をたやすく肯定した原判決はその余の点についての判断をまつまでもなく破棄を免れず、論旨は理由がある。よつて、本件は更に審理を尽くさせるため

これを原審に差し戻すのが相当である。

新しい人権(1)【最大判昭和44年12月24日 京都府学連事件】【最大判昭和61年6月11日 北方ジャーナル事件】【最判平成7年12月15日 指紋押捺制度の合憲性】

 

  目次

 

【最大判昭和44年12月24日 京都府学連事件】

要旨

判示事項

一 昭和二九年京都市条例第一〇号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例の合憲性

二 みだりに容ぼう等を撮影されない自由と憲法一三条

三 犯罪捜査のため容ぼう等の写真撮影が許容される限度と憲法一三条、三五条

裁判要旨

一 昭和二九年京都市条例第一〇号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例は、憲法二一条に違反しない。

二 何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態を撮影されない自由を有し、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し許されない。

三 警察官による個人の容ぼう等の写真撮影は、現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、証拠保全の必要性および緊急性があり、その撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときは、撮影される本人の同意がなく、また裁判官の令状がなくても、憲法一三条、三五条に違反しない。

 

 

判旨

憲法一三条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定しているのであつて、これは、国民の私生活上の自由が、警察権等の国家権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものということができる。そして、個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。 これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない。しかしながら、個人の有する右自由も、国家権力の行使から無制限に保護されるわけでなく、公共の福祉のため必要のある場合には相当の制限を受けることは同条の規定に照らして明らかである。そして、犯罪を捜査することは、公共の福祉のため警察に与えられた国家作用の一つであり、警察にはこれを遂行すべき責務があるのであるから(警察法二条一項参照)、警察官が犯罪捜査の必要上写真を撮影する際、その対象の中に犯人のみならず第三者である個人の容ぼう等が含まれても、これが許容される場合がありうるものといわなければならない。

 そこで、その許容される限度について考察すると、身体の拘束を受けている被疑者の写真撮影を規定した刑訴法二一八条二項のような場合のほか、次のような場合には、撮影される本人の同意がなく、また裁判官の令状がなくても、警察官による個人の容ぼう等の撮影が許容されるものと解すべきである。すなわち、現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、しかも証拠保全の必要性および緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときである。このような場合に行なわれる警察官による写真撮影は、その対象の中に、犯人の容ぼう等のほか、犯人の身辺または被写体とされた物件の近くにいたためこれを除外できない状況にある第三者である個人の容ぼう等を含むことになつても、憲法一三条、三五条に違反しないものと解すべきである。

これを本件についてみると、原判決およびその維持した第一審判決の認定するところによれば、昭和三七年六月二一日に行なわれた本件A主催の集団行進集団示威運動においては、被告人の属するB学生集団はその先頭集団となり、被告人はその列外最先頭に立つて行進していたが、右集団は京都市a区b町c下る約三〇メートルの地点において、先頭より四列ないし五列目位まで七名ないし八名位の縦隊で道路のほぼ中央あたりを行進していたこと、そして、この状況は、京都府公安委員会が付した「行進隊列は四列縦隊とする」という許可条件および京都府中立売警察署長が道路交通法七七条に基づいて付した「車道の東側端を進行する」という条件に外形的に違反する状況であつたこと、そこで、許可条件違反等の違法状況の視察、採証の職務に従事していた京都府山科警察署勤務の巡査Dは、この状況を現認して、許可条件違反の事実ありと判断し、違法な行進の状態および違反者を確認するため、Eの東側歩道上から前記被告人の属する集団の先頭部分の行進状況を撮影したというのであり、その方法も、行進者に特別な受忍義務を負わせるようなものではなかつたというのである。

 右事実によれば、D巡査の右写真撮影は、現に犯罪が行なわれていると認められる場合になされたものてあつて、しかも多数の者が参加し刻々と状況が変化する集団行動の性質からいつて、証拠保全の必要性および緊急性が認められ、その方法も一般的に許容される限度をこえない相当なものであつたと認められるから、たとえそれが被告人ら集団行進者の同意もなく、その意思に反して行なわれたとしても、適法な職務執行行為であつたといわなければならない。 そうすると、これを刑法九五条一項によつて保護されるべき職務行為にあたるとした第一審判決およびこれを是認した原判決の判断には、所論のように、憲法一三条、三五条に違反する点は認められないから、論旨は理由がない。

 

 

 

【最大判昭和61年6月11日 北方ジャーナル事件】

要旨

名誉侵害の被害者は、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対して、現に行われている侵害行為を排除し、または将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止を求めることができる。

 

判旨

事前差止めの合憲性に関する判断に先立ち、実体法上の差止請求権の存否について考えるのに、人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価である名誉を違法に侵害された者は、損害賠償(民法七一〇条)又は名誉回復のための処分(同法七二三条)を求めることができるほか、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止めを求めることができるものと解するのが相当である。けだし、名誉は生命、身体とともに極めて重大な保護法益であり、人格権としての名誉権は、物権の場合と同様に排他性を有する権利というべきであるからである。

 

 

【最判平成7年12月15日 指紋押捺制度の合憲性】

要旨

1 憲法13条は、国民の私生活上の自由が国家権力の行使に対して保護されるべきことを規定していると解されるので、個人の私生活上の自由の一つとして、何人もみだりに指紋の押なつを強制されない自由を有するものというべきであり、国家機関が正当な理由もなく指紋の押なつを強制することは、同条の趣旨に反して許されず、また、右の自由の保障は、我が国に在留する外国人にも等しく及ぶ。

2 何人も個人の私生活の事由の一つとしてみだりに指紋の押なつを強制されない自由を有し、国家機関が正当な理由もなく指紋の押なつを強制することは、憲法13条の趣旨に反し許されない。

 

判旨

指紋は、指先の紋様であり、それ自体では個人の表生活や人格、思想、信条、良心等個人の内心に関する情報となるものではないが、性質上万人不同性、終生不変性をもつので、採取された指紋の利用方法次第では個人の私生活あるいはプライバシーが侵害される危険性がある。このような意味で、指紋の押なつ制度は、国民の私生活上の自由と密接な関連をもつものと考えられる。

 憲法一三条は、国民の私生活上の自由が国家権力の行使に対して保護されるべきことを規定していると解されるので、個人の私生活上の自由の一つとして、何人もみだりに指紋の押なつを強制されない自由を有するものというべきであり、国家機関が正当な理由もなく指紋の押なつを強制することは、同条の趣旨に反して許されず、また、右の自由の保障は我が国に在留する外国人にも等しく及ぶと解される(最高裁昭和四〇年(あ)第一一八七号同四四年一二月二四日大法廷判決・刑集二三巻一二号一六二五頁、最高裁昭和五〇年(行ッ)第一二〇号同五三年一〇月四日大法廷判決・民集三二巻七号一二二三頁参照)。

 しかしながら、右の自由も、国家権力の行使に対して無制限に保護されるものではなく、公共の福祉のため必要がある場合には相当の制限を受けることは、憲法一三条に定められているところである。

 そこで、外国人登録法が定める在留外国人についての指紋押なつ制度についてみると、同制度は、昭和二七年に外国人登録法(同年法律第一二五号)が立法された際に、同法一条の「本邦に在留する外国人の登録を実施することによって外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もって在留外国人の公正な管理に資する」という目的を達成するため、戸籍制度のない外国人の人物特定につき最も確実な制度として制定されたもので、その立法目的には十分な合理性があり、かつ、必要性も肯定できるものである。また、その具体的な制度内容については、立法後累次の改正があり、立法当初二年ごとの切替え時に必要とされていた押なつ義務が、その後三年ごと、五年ごとと緩和され、昭和六二年法律第一〇二号によって原則として最初の一回のみとされ、また、昭和三三年律第三号によって在留期間一年未満の者の押なつ義務が免除されたほか、平成四年法律第六六号によって永住者(出入国管理及び難民認定法別表第二上欄の永住者の在留資格をもつ者)及び特別永住者(日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法に定める特号永住者)にっき押なつ制度が廃止されるなど社会の状況変化に応じた改正が行われているが、本件当時の制度内容は、押なつ義務が三年に一度で、押なつ対象指紋も一指のみであり、加えて、その強制も罰則による間接強制にとどまるものであって、精神的、肉体的に過度の苦痛を伴うものとまではいえず、方法としても、一般的に許容される限度を超えない相当なものであったと認められる。

 右のような指紋押なつ制度を定めた外国人登録法一四条一項、一八条一項八号が憲法一三条に違反するものでないことは当裁判所の判例(前記最高裁昭和四四年一二月二四日大法廷判決、最高裁昭和二九年(あ)第二七七七号同三一年一二月二六日大法廷判決・刑集一〇巻一二号一七六九頁)の趣旨に徴し明らかであり、所論は理由がない。

 

 

13条 幸福追求権(1)・最大判昭和25年11月22日・最大判昭和45年9月16日・喫煙禁止訴訟・最判平成15年12月11日・ストーカー規制法

 

  目次

 

最大判昭和25年11月22日

要旨

判示事項

一 刑法第一八六条第二項賭場開張図利罪規定の合憲性

二 政府乃至都道府縣が賭場開張図利乃至富籤罪と本質上同一の行為を為すことによつて右犯罪行為を公認したものといえるか

裁判要旨

一 刑法第一八六条第二項賭場開張図利罪の規定は、憲法第一三条に違反しない。

二 賭博及び富籤に関する行為が風俗を害し、公共の福祉に反するものと認むべきことは前に説明したとおりであるから、所論は全く本末を顛倒した議論といわなければならない。すなわち、政府乃至都道府縣が自ら賭場開張図利乃至富籤罪と同一の行為を為すこと自体が適法であるか否か、これを認める立法の当否は問題となり得るが、現に犯罪行為と本質上同一である或る種の行為が行われているという事実並びにこれを認めている立法があるということだけから国家自身が一般に賭場開張図利乃至富籤罪を公認したものということはできない。

 

 

判旨

 弁護人山崎一男同遊田多聞の上告趣意について。

 賭博行為は、一面互に自己の財物を自己の好むところに投ずるだけであつて、他人の財産権をその意に反して侵害するものではなく、従つて、一見各人に任かされた自由行為に属し罪悪と称するに足りないようにも見えるが、しかし、他面勤労その他正当な原因に因るのでなく、単なる偶然の事情に因り財物の獲得を僥倖せんと相争うがごときは、国民をして怠惰浪費の弊風を生ぜしめ、健康で文化的な社会の基礎を成す勤労の美風(憲法二七条一項参照)を害するばかりでなく、甚だしきは暴行、脅迫、殺傷、強窃盗その他の副次的犯罪を誘発し又は国民経済の機能に重大な障害を与える恐れすらあるのである。これわが国においては一時の娯楽に供する物を賭した場合の外単なる賭博でもこれを犯罪としその他常習賭博、賭場開張等又は富籖に関する行為を罰する所以であつて、これ等の行為は畢竟公益に関する犯罪中の風俗を害する罪であり(旧刑法第二篇第六章参照)、新憲法にいわゆる公共の福祉に反するものといわなければならない。ことに賭場開張図利罪は自ら財物を喪失する危険を負担することなく、専ら他人の行う賭博を開催して利を図るものであるから、単純賭博を罰しない外国の立法例においてもこれを禁止するを普通とする。されば、賭博等に関する行為の本質を反倫理性、反社会性を有するものでないとする所論は、偏に私益に関する個人的な財産上の法益のみを観察する見解であつて採ることができない。

 しかるに、所論は、賭場開張図利の行為は新憲法施行後においては国家の中枢機関たる政府乃至都道府県が法律に因り自ら賭場開張図利と本質的に異なることなき「競馬」「競輪」の主催者となり、賭場開張図利罪乃至富籖罪とその行為の本質を同じくする「宝籖」を発売している現状からして、国家自体がこれを公共の福祉に反しない娯楽又は違法性若しくは犯罪性なき自由行為の範囲内に属するものとして公認しているものと観察すべく、従つて、刑法一八六条二項の規定は新憲法施行後は憲法一三条、九八条に則り無効となつた旨主張する。

 しかし、賭博及び富籖に関する行為が風俗を害し、公共の福祉に反するものと認むべきことは前に説明したとおりであるから、所論は全く本末を顛倒した議論といわなければならない。すなわち、政府乃至都道府県が自ら賭場開張図利乃至富籖罪と本質上同一の行為を為すこと自体が適法であるか否か、これを認める立法の当否は問題となり得るが現に犯罪行為と本質上同一である或る種の行為が行われているという事実並びにこれを認めている立法があるということだけから国家自身が一般に賭場開張図利乃至富籖罪を公認したものということはできない。それ故所論は採用できない。

 よつて、旧刑訴四四六条に従い主文のとおり判決する。

 

 

【最大判昭和45年9月16日・喫煙禁止訴訟】

要旨

未決勾留中の在監者に対する喫煙の禁止は、拘禁の目的と制限される基本的人権の内容、制限の必要性などを総合すると、必要かつ合理的なものと認められるから、憲法13条に違反しない。

 

判旨

 所論は、在監者に対する喫煙を禁止した監獄法施行規則九六条は、未決勾留により拘禁された者の自由および幸福追求についての基本的人権を侵害するものであつて、憲法一三条に違反するというにある。

 しかしながら、未決勾留は、刑事訴訟法に基づき、逃走または罪証隠滅の防止を目的として、被疑者または被告人の居住を監獄内に限定するものであるところ、監獄内においては、多数の被拘禁者を収容し、これを集団として管理するにあたり、その秩序を維持し、正常な状態を保持するよう配慮する必要がある。このためには、被拘禁者の身体の自由を拘束するだけでなく、右の目的に照らし、必要な限度において、被拘禁者のその他の自由に対し、合理的制限を加えることもやむをえないところである。

 そして、右の制限が必要かつ合理的なものであるかどうかは、制限の必要性の程度と制限される基本的人権の内容、これに加えられる具体的制限の態様との較量のうえに立つて決せられるべきものというべきである。

 これを本件についてみると、原判決(その引用する第一審判決を含む。)の確定するところによれば、監獄の現在の施設および管理態勢のもとにおいては、喫煙に伴う火気の使用に起因する火災発生のおそれが少なくなく、また、喫煙の自由を認めることにより通謀のおそれがあり、監獄内の秩序の維持にも支障をきたすものであるというのである。右事実によれば、喫煙を許すことにより、罪証隠滅のおそれがあり、また、火災発生の場合には被拘禁者の逃走が予想され、かくては、直接拘禁の本質的目的を達することができないことは明らかである。のみならず、被拘禁者の集団内における火災が人道上重大な結果を発生せしめることはいうまでもない。他面、煙草は生活必需品とまでは断じがたく、ある程度普及率の高い嗜好品にすぎず、喫煙の禁止は、煙草の愛好者に対しては相当の精神的苦痛を感ぜしめるとしても、それが人体に直接障害を与えるものではないのであり、かかる観点よりすれば、喫煙の自由は、憲法一三条の保障する基本的人権の一に含まれるとしても、あらゆる時、所において保障されなければならないものではない。したがつて、このような拘禁の目的と制限される基本的人権の内容、制限の必要性などの関係を総合考察すると、前記の喫煙禁止という程度の自由の制限は、必要かつ合理的なものであると解するのが相当であり、監獄法施行規則九六条中未決勾留により拘禁された者に対し喫煙を禁止する規定が憲法一三条に違反するものといえないことは明らかである。

 したがつて、論旨は理由がない。

 

 

【最判平成15年12月11日・ストーカー規制法】

要旨

ストーカー行為等の規制等に関する法律の目的は正当であり、同法による規制の内容は合理的で相当なものであると認められることにかんがみれば、同法2条1項・2項、13条1項は、憲法13条・21条1項に違反せず、また、同法2条2項の「反復して」の文言は、つきまとい等を行った期間、回数等に照らし自ずから明らかになるから不明確であるといえず、憲法13条・21条1項、31条に違反しない。

 

判旨

 1 弁護人福島昭宏の上告趣意のうち、規制の内容に関し憲法13条、21条1項違反をいう点について

 所論は、ストーカー行為等の規制等に関する法律(以下「ストーカー規制法」という。)2条1項、2項、13条1項は、規制の範囲が広きに過ぎ、かつ、規制の手段も相当ではないから、憲法13条、21条1項に違反する旨主張する。

 ストーカー規制法は、ストーカー行為を処罰する等ストーカー行為等について必要な規制を行うとともに、その相手方に対する援助の措置等を定めることにより、個人の身体、自由及び名誉に対する危害の発生を防止し、あわせて国民の生活の安全と平穏に資することを目的としており、この目的は、もとより正当であるというべきである。そして、ストーカー規制法は、上記目的を達成するため、恋愛感情その他好意の感情等を表明するなどの行為のうち、相手方の身体の安全、住居等の平穏若しくは名誉が害され、又は行動の自由が著しく害される不安を覚えさせるような方法により行われる社会的に逸脱したつきまとい等の行為を規制の対象とした上で、その中でも相手方に対する法益侵害が重大で、刑罰による抑制が必要な場合に限って、相手方の処罰意思に基づき刑罰を科すこととしたものであり、しかも、これに違反した者に対する法定刑は、刑法、軽犯罪法等の関係法令と比較しても特に過酷ではないから、ストーカー規制法による規制の内容は、合理的で相当なものであると認められる。

 以上のようなストーカー規制法の目的の正当性、規制の内容の合理性、相当性にかんがみれば、同法2条1項、2項、13条1項は、憲法13条、21条1項に違反しないと解するのが相当である。このように解すべきことは、当裁判所の判例(最高裁昭和57年(行ツ)第156号同59年12月12日大法廷判決・民集38巻12号1308頁、最高裁昭和57年(あ)第621号同60年10月23日大法廷判決・刑集39巻6号413頁)の趣旨に徴して明らかである。

 

 

 

 

【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(4)

 

 目次

個人の尊重(5-1) 【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(1)
個人の尊重(5-2) 【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(2)
個人の尊重(5-3)【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(3)
個人の尊重(5-4)【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(4)


第四節 国会議員の立法行為の国家賠償法上の違法及び故意・過失の有無(争点二)

第一 原告らの主張

 原告らは、ハンセン病患者の隔離等を規定する旧法及び新法の違憲性を主張し、さらに、<1>旧法を昭和二八年まで改廃しなかった国会議員の立法不作為、<2>新法制定に係る国会議員の立法行為、<3>新法を平成八年まで改廃しなかった国会議員の立法不作為の、国家賠償法上の違法性を主張している。

第二 新法の違憲性

 一 新法の解釈等

 新法は、ハンセン病を予防するとともに、ハンセン病患者の医療を行い、併せてその福祉を図り、もって公共の福祉の増進を図ることを目的として制定された法律であるが(一条)、そのうち、ハンセン病を予防するための措置として、六条で、伝染させるおそれがある患者の療養所への入所について定めている。すなわち、新法六条は、ハンセン病を伝染させるおそれがある患者について、ハンセン病予防上必要があると認められる場合に限り、当該患者を療養所に入所させることとし、入所させるための措置として、第一次的には入所勧奨を、入所勧奨に応じないときには入所命令を、入所命令に従わないとき又は入所勧奨や入所命令の手続を採るいとまがないときには入所の即時強制をそれぞれ行うこととしている。

 このように、新法六条は、ハンセン病予防のために患者を入所させる措置として、勧奨、命令及び即時強制という三つの方法を規定しているところ、同条一項ないし三項の末尾はいずれも「できる。」との文言になっているが、重篤な伝染性疾患であるハンセン病を患者の隔離によって予防しようとする新法の目的・趣旨からすれば、伝染させるおそれがある患者についてハンセン病予防上必要があると認められる場合に、都道府県知事にこれらの措置を採る権限を行使しない裁量が与えられているものとは解されず、これらの措置を採って患者を入所させるべきことが義務付けられているものと解される。このことは、患者の側から見れば、伝染させるおそれがあり、ハンセン病予防上必要があると認められる以上、入所時期の猶予を受ける余地はあっても、入所自体を拒む自由はなく、入所義務を課せられることにほかならない。

 また、新法は、入所患者がみだりに療養所から外出・逃亡することによって、ハンセン病が伝染・拡大することを防止するため、一五条で、入所患者に対する極めて厳格な外出制限を定めている。すなわち、新法一五条は、入所患者は、<1>親族の危篤、死亡、り災その他特別の事情がある場合であって、療養所長が、らい予防上重大な支障を来たすおそれがないと認めて許可したとき(同条一項一号)、<2>法令により療養所外に出頭を要する場合であって、療養所長が、らい予防上重大な支障を来たすおそれがないと認めたとき(同条項二号)を除いては、療養所から外出してはならないものとしている。そして、右規定に違反した場合については、新法二八条により拘留又は科料という刑罰による制裁が設けられているのである。

 なお、新法は、入所者の退所について明文の規定を置いていないが、新法一三条が「国は、必要があると認めるときは、入所患者に対して、その社会的更生に資するために必要な知識及び技能を与えるための措置を講ずることができる。」と規定し、退所を前提としていると考えられることや、新法の立法経過等に照らせば、新法が退所を認めない建前をとっていないことは明らかである。ただ、他方、入所患者が療養所長の許可を受けずに退所することは、新法一五条により許されないから、その意味で、入所者には、療養所長が退所を許可しない限り療養所にとどまるべき義務(在所義務)があると解される。

 二 ところで、憲法二二条一項は、何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転の自由を有すると規定している。この居住・移転の自由は、経済的自由の一環をなすものであるとともに、奴隷的拘束等の禁止を定めた憲法一八条よりも広い意味での人身の自由としての側面を持つ。のみならず、自己の選択するところに従い社会の様々な事物に触れ、人と接しコミュニケートすることは、人が人として生存する上で決定的重要性を有することであって、居住・移転の自由は、これに不可欠の前提というべきものである。新法は、六条、一五条及び二八条が一体となって、伝染させるおそれがある患者の隔離を規定しているのであるが、いうまでもなく、これらの規定(以下「新法の隔離規定」という。)は、この居住・移転の自由を包括的に制限するものである。

 ただ、新法の隔離規定によってもたらされる人権の制限は、居住・移転の自由という枠内で的確に把握し得るものではない。ハンセン病患者の隔離は、通常極めて長期間にわたるが、たとえ数年程度に終わる場合であっても、当該患者の人生に決定的に重大な影響を与える。ある者は、学業の中断を余儀なくされ、ある者は、職を失い、あるいは思い描いていた職業に就く機会を奪われ、ある者は、結婚し、家庭を築き、子供を産み育てる機会を失い、あるいは家族との触れ合いの中で人生を送ることを著しく制限される。その影響の現れ方は、その患者ごとに様々であるが、いずれにしても、人として当然に持っているはずの人生のありとあらゆる発展可能性が大きく損なわれるのであり、その人権の制限は、人としての社会生活全般にわたるものである。このような人権制限の実態は、単に居住・移転の自由の制限ということで正当には評価し尽くせず、より広く憲法一三条に根拠を有する人格権そのものに対するものととらえるのが相当である。

 もっとも、これらの人権も、全く無制限のものではなく、公共の福祉による合理的な制限を受ける。しかしながら、前述した患者の隔離がもたらす影響の重大性にかんがみれば、これを認めるには最大限の慎重さをもって臨むべきであり、伝染予防のために患者の隔離以外に適当な方法がない場合でなければならず、しかも、極めて限られた特殊な疾病にのみ許されるべきものである。

 三 これを本件についてみるに、前記第三節第二の一で指摘した新法制定当時の事情、特に、ハンセン病が感染し発病に至るおそれが極めて低いものであること及びこのことに対する医学関係者の認識、我が国のハンセン病の蔓延状況、ハンセン病に著効を示すプロミンの登場によって、ハンセン病が十分に治療が可能な病気となり、不治の悲惨な病気であるとの観念はもはや妥当しなくなっていたことなど、当時のハンセン病医学の状況等に照らせば、新法の隔離規定は、新法制定当時から既に、ハンセン病予防上の必要を超えて過度な人権の制限を課すものであり、公共の福祉による合理的な制限を逸脱していたというべきである。

 そして、さらに、前記第三節第二の二で指摘した新法制定以降の事情、特に、昭和三〇年代前半までには、プロミン等スルフォン剤に対する国内外での評価が確定的なものになり、また、現実にも、スルフォン剤の登場以降、我が国において進行性の重症患者が激減していたこと、昭和三〇年から昭和三五年にかけても新発見患者数の顕著な減少が見られたこと、昭和三一年のローマ会議、昭和三三年の第七回国際らい会議(東京)及び昭和三四年のWHO第二回らい専門委員会などのハンセン病に関する国際会議の動向などからすれば、遅くとも昭和三五年には、新法の隔離規定は、その合理性を支える根拠を全く欠く状況に至っており、その違憲性は明白となっていたというべきである。

 

 

 

 

 

第三 立法行為の国家賠償法上の違法性及び故意・過失の有無について

 一 ある法律が違憲であっても、直ちに、これを制定した国会議員の立法行為ないしこれを改廃しなかった国会議員の立法不作為が国家賠償法上違法となるものではない。

 この点について、最高裁昭和六〇年一一月二一日第一小法廷判決(民集三九巻七号一五一二頁)は、在宅投票制度を廃止しこれを復活しなかった立法行為についての事案について、「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違法の評価を受けない」と判示し、その後にも、これと同旨の最高裁判決がある。

 しかしながら、右の最高裁昭和六〇年一一月二一日判決は、もともと立法裁量にゆだねられているところの国会議員の選挙の投票方法に関するものであり、患者の隔離という他に比類のないような極めて重大な自由の制限を課する新法の隔離規定に関する本件とは、全く事案を異にする。右判決は、その論拠として、議会制民主主義や多数決原理を挙げるが、新法の隔離規定は、少数者であるハンセン病患者の犠牲の下に、多数者である一般国民の利益を擁護しようとするものであり、その適否を多数決原理にゆだねることには、もともと少数者の人権保障を脅かしかねない危険性が内在されているのであって、右論拠は、本件に全く同じように妥当するとはいえない。また、その後の最高裁判決の事案も、一般民間人戦災者を対象とする援護立法をしないことに関するもの(昭和六二年六月二六日第二小法廷判決・裁判集民事一五一号一四七頁)、生糸の輸入制限に関するもの(平成二年二月六日第三小法廷判決・訟務月報三六巻一二号二二四二頁)、民法七三三条の再婚禁止期間に関するもの(平成七年一二月五日第三小法廷判決・裁判集民事一七七号二四三頁)等であり、本件に匹敵するようなものは全く見当たらない。

 もっとも、右一連の最高裁判決は、立法行為が国家賠償法上違法と評価されるのは、容易に想定し難いような極めて特殊で例外的な場合に限られるべきである旨判示しており、その限りでは、本件にも妥当するものである。ただ、右判決の文言からも明らかなように、「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反している」ことは、立法行為の国家賠償法上の違法性を認めるための絶対条件とは解されない。右一連の最高裁判決が「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反している」との表現を用いたのも、立法行為が国家賠償法上違法と評価されるのが、極めて特殊で例外的な場合に限られるべきであることを強調しようとしたにすぎないものというべきである。

 二 そこで本件について検討するに、既に述べたとおり、新法の隔離規定は、新法制定当時から既に、ハンセン病予防上の必要を超えて過度な人権の制限を課すものであり、公共の福祉による合理的な制限を逸脱していたというべきであり、遅くとも昭和三五年には、その違憲性が明白になっていたのであるが、このことに加え、新法附帯決議が、近い将来、新法の改正を期するとしており、もともと新法制定当時から新法の隔離規定を見直すべきことが予定されていたこと、昭和三〇年代前半には、スルフォン剤の評価が確実なものとなり、これに伴い、国際的には、次第に強制隔離否定の方向性が顕著となり、昭和三一年のローマ会議以降のハンセン病の国際会議においては、ハンセン病に関する特別法の廃止が繰り返し提唱されるまでに至っていたこと、特に、昭和三三年に東京で開催された第七回国際らい会議では、「政府がいまだに強制的な隔離政策を採用しているところは、その政策を全面的に破棄するように勧奨する」等と決議されていること、さらに、昭和三八年の第八回国際らい会議では、「この病気に直接向けられた特別な法律は破棄されるべきである。一方、法外な法律が未だ廃されていない所では、現行の法律の適用は現在の知識の線に沿ってなされなければならない。(中略)無差別の強制隔離は時代錯誤であり、廃止されなければならない。」とされたこと、同年ころの新法改正運動の際には、全患協が、国会議員や厚生省に対し、改正要請書を提出したり新法改正を求める陳情を行うなどの活動を盛んに行っており、右陳情を受けた国会議員の中には、「政府も早急に法改正に努力しなければならない。」とか、「このような予防法があることは国として恥かしい。」と述べた者もいたほどであり、国会議員としても、このころに新法の隔離規定の適否を判断することは十分に可能であったこと、昭和三九年三月に厚生省公衆衛生局結核予防課がまとめた「らいの現状に対する考え方」(乙一一二。前記第一節第五の三)からしても、新法の隔離規定に合理性がないことが明らかであること、その他、前記第三節第二の一及び二で指摘した事情等を考慮し、新法の隔離規定が存続することによる人権被害の重大性とこれに対する司法的救済の必要性にかんがみれば、他にはおよそ想定し難いような極めて特殊で例外的な場合として、遅くとも昭和四〇年以降に新法の隔離規定を改廃しなかった国会議員の立法上の不作為につき、国家賠償法上の違法性を認めるのが相当である。

 そして、前記第三節第二の一及び二で指摘した事情等、新法の隔離規定の違憲性を判断する前提として認定した事実関係については、国会議員が調査すれば容易に知ることができたものであり、また、昭和三八年ころには、全患協による新法改正運動が行われ、国会議員や厚生省に対する陳情等の働き掛けも盛んに行われていたことなどからすれば、国会議員には過失が認められるというべきである。

 三1 被告は、日本らい学会等のハンセン病に関する専門家が、予防措置は不要であるとして医学的知見に基づく政策変更の提言をしたのは平成七年のことであるから、それ以前に、国会議員が法廃止の必要性を判断できなかったとしてもやむを得なかったと主張する。

 しかしながら、既に検討したとおり、プロミンによりハンセン病が治し得るものとなっていたことは、新法制定までの国会審議で明らかにされていた上、ハンセン病に関する国際会議の動向は、国会議員においても自ら又は厚生省を通じて調査すれば十分に認識可能であり、遅くとも昭和三九年には厚生省公衆衛生局結核予防課がまとめた「らいの現状に対する考え方」等によって、新法が医学的根拠を欠いていたことが十分に判断できたはずである。したがって、被告の主張は、失当である。

 なお、付言するに、我が国のハンセン病に関する専門家が、平成七年まで新法の隔離規定を積極的に支持していたとは到底考えられない。そのことは、昭和三九年に発表された前記「らいの現状に対する考え方」からも十分うかがわれるところであるが、昭和四五年に発行された当時の長島愛生園長高島重孝監修による「らい医学の手引き」(前記第一節第五の一4(三)(4))にも、「絶対隔離政策はまさにナンセンスであり、(我が国の)らい患者の減少にあずかって力があったのは、文化的生活水準の向上ということになろう。(中略)<1>らいが不治でなく、<2>変形は単なる後遺症にすぎず、<3>病型によっては伝染の恐れが全くないばかりか、<4>乳幼児期に感染しないかぎり発病の可能性はきわめて少ないことが明らかな現在では、らい予防法に旧態依然としてうたわれている隔離が、問題視されるのも当然である。」と記載されている。また、昭和六二年三月には、所長連盟が強制措置の撤廃等を求める新法の改正要請書まで提出しているのである。外出制限が徐々に弾力的に運用されるようになったのも、新法の隔離規定が療養所長を始めとする我が国のハンセン病専門家の支持を失っていたことの一つの現れというべきである。この点に関連して、成田は、意見書(甲一五九)において、日本らい学会が抱えていた問題として、再発や難治らい、DDS耐性があったとしながらも、「このような治療上の問題故に、隔離の強制は必要であり、『らい予防法』も必要とは、日本らい学会も考えなかったはずである。むしろ余りにも時代がかった法律として無視してしまったというのが当たっている。」と述べているのである。

  2 また、被告は、ハンセン病が治癒し伝染させるおそれがなくなった者は、本来、新法一五条の「入所患者」には当たらないのであるが、このような者も、形式的には「入所患者」に含めた上で、全く法的に外出を制限しない運用をすることにしていたのであり、このことは、すべての入所者に対し、新法一五条一項一号の外出許可事由があり、かつ、らい予防上重大な支障を来すおそれがないとして、事前に包括的に外出を認める体制を採っていたと評価すべきものであると主張する。

 しかしながら、すべての入所者について新法一五条一項一号の外出許可事由があるなどというのは、新法一五条の文言やこれに関する通達等から全く逸脱した解釈であって、新法廃止までにそのような認識が療養所関係者にあったとは認められない。外出制限の実情については、前記第二節第三の四で詳述したところであり、確かに、徐々に緩やかな運用となり、昭和五〇年代以降は、同条による制限が著しく後退していたことは事実である。しかしながら、被告が新法廃止までに外出制限の必要性を公式には否定したことは一度もなく、昭和五七年の国会審議に至っても、厚生大臣及び厚生省公衆衛生局長は、隔離政策によるハンセン病患者の人権制限の必要性を否定していないのである。しかも、新法一五条による外出の制限は、法律上当然に加えられているものであって、運用が弾力的であることによってその制限の存在を完全に否定することができるものではなく、入所者にとって、新法一五条に違反しても処罰されないとの保障はどこにもなかったのである。

 したがって、外出制限が緩やかに運用されるようになったことは、損害論において十分に斟酌すれば足りることであって、違法性及び過失の判断を左右するものではない。

  3 さらに、被告は、新法廃止とともに、それまでの入所者の処遇の水準を維持することを保障する法律を制定することは、社会福祉立法をすることになるが、社会福祉立法は、その時々の財政状況、社会状況、他の疾病に対する施策との均衡等の様々な事項を総合的に考慮しなければならない問題であって、高度の立法裁量の問題と不可分であると指摘する。

 確かに、新法の隔離規定を改廃した場合には、新法全体が見直される可能性も高いであろうし、その場合に入所者にいかなる処遇を与えるかの問題も生じるであろうが、これは、新法が廃止されたときに考慮すべき別の立法政策上ないし立法技術上の問題であり、そのように考慮すべき立法政策上ないし立法技術上の問題が生ずることが、法解釈上直ちに、新法の隔離規定の改廃義務の消長を来すものとする根拠は見いだすことはできず、被告の主張は、この立法政策や立法技術の問題と法的義務・法解釈の問題とを殊更に結び付けようとするものであって、失当である。

 被告は、新法を存続させながら、隔離条項のみを削除する内容の法改正は、自由の制限という予防法としての本質を失わせ、このような制限規定があるがために特段の各種福祉的措置を採り得るという新法の建前を崩すことになるから、法廃止とともに社会福祉立法をするのと同様の結果をもたらすことになるとも主張する。

 しかしながら、新法の隔離規定のみを削除することによって、福祉的な規定が残ることになったとしても、それは、あくまで反射的な結果にすぎず、新たな社会福祉立法を行うのと同視するのは明らかに論理の飛躍である。被告の右主張もまた失当である。

 なお、付言するに、違憲・違法な人権侵害があっても、それが福祉的措置の根拠となったり、その人権侵害に対する福祉的措置が採られれば、右人権侵害が許容されるものとなるものでないことは当然である。

 四 以上のとおりであって、国会議員には、昭和四〇年以降においても、なお新法の隔離規定を改廃しなかった点に違法があり、国会議員の過失も優にこれを認めることができる。

【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(3)

 

 目次

個人の尊重(5-1) 【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(1)
個人の尊重(5-2) 【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(2)
個人の尊重(5-3)【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(3)
個人の尊重(5-4)【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(4)


第三 違法性及び過失の検討

 一 以上のとおりであって、遅くとも昭和三五年以降においては、すべての入所者及びハンセン病患者について隔離の必要性が失われたというべきであるから、厚生省としては、その時点において、新法の改廃に向けた諸手続を進めることを含む隔離政策の抜本的な変換をする必要があったというべきである。そして、厚生省としては、少なくとも、すべての入所者に対し、自由に退所できることを明らかにする相当な措置を採るべきであった。のみならず、ハンセン病の治療が受けられる療養所以外の医療機関が極めて限られており、特に、入院治療が可能であったのは京都大学だけという医療体制の下で、入院治療を必要とする患者は、事実上、療養所に入所せざるを得ず、また、療養所にとどまらざるを得ない状況に置かれていたのであるが(前記第二節第三の八1)、これは、抗ハンセン病薬が保険診療で正規に使用できる医薬品に含まれていなかったことなどの制度的欠陥によるところが大きかったのであるから、厚生省としては、このような療養所外でのハンセン病医療を妨げる制度的欠陥を取り除くための相当な措置を採るべきであった。さらに、従前のハンセン病政策が、新法の存在ともあいまって、ハンセン病患者及び元患者に対する差別・偏見の作出・助長に大きな役割を果たしたことは、前記第二節第四のとおりであり、このような先行的な事実関係の下で、社会に存在する差別・偏見がハンセン病患者及び元患者に多大な苦痛を与え続け、入所者の社会復帰を妨げる大きな要因にもなっていること、また、その差別・偏見は、伝染のおそれがある患者を隔離するという政策を標榜し続ける以上、根本的には解消されないものであることにかんがみれば、厚生省としては、入所者を自由に退所させても公衆衛生上問題とならないことを社会一般に認識可能な形で明らかにするなど、社会内の差別・偏見を除去するための相当な措置を採るべきであったというべきである。

 この点、厚生省は、特に、昭和五〇年代以降、非公式的にではあるが、外出制限規定を弾力的に運用するなど、様々な点で隔離による人権制限を緩和させていったことは一応評価できるが、新法廃止まで、新法の改廃に向けた諸手続を進めることを含む隔離政策の抜本的な変換を行ったものとは評価できない。また、厚生省は、新法廃止まで、すべての入所者に対し、自由に退所できることを明らかにするなどしたことはなく、療養所外でのハンセン病医療を妨げる制度的欠陥を取り除くことなく放置し、さらには、社会一般に認識可能な形でハンセン病患者の隔離を行わないことを明らかにするなどしなかったのであるから、前記の相当な措置等を採ったとも評価し得ない。

 伝染病の伝ぱ及び発生の防止等を所管事務とする厚生省を統括管理する地位にある厚生大臣は、厚生省が右のような隔離政策の抜本的な変換やそのために必要となる相当な措置を採ることなく、入所者の入所状態を漫然と放置し、新法六条、一五条の下で隔離を継続させたこと、また、ハンセン病が恐ろしい伝染病でありハンセン病患者は隔離されるべき危険な存在であるとの社会認識を放置したことにつき、法的責任を負うものというべきであり、厚生大臣の公権力の行使たる職務行為に国家賠償法上の違法性があると認めるのが相当である。

 そして、厚生大臣は、昭和三五年当時、前記第二の一及び二で指摘した<1>ないし<9>の各事情等、隔離の必要性を判断するのに必要な医学的知見・情報を十分に得ていたか、あるいは得ることが容易であったと認められ、また、ハンセン病患者又は元患者に対する差別・偏見の状況についても、容易に把握可能であったというべきであるから、厚生大臣に過失があることを優に認めることができる。

 二 これに対し、被告が反論する点については、既にそれぞれの箇所で検討・言及してきたところであるが、以下では、更に検討を加える。

  1 被告は、たとえ新法が違憲であっても、厚生大臣その他の職員が新法に従って行政を行った以上、国家賠償法上違法と評価されることはなく、少なくとも故意・過失は存しないと主張する。

 確かに、すべての入所者及びハンセン病患者について隔離の必要性が失われた事態を抜本的に解決しようとすれば、国会における新法の廃止が最も端的な方法ではあるが、新法の廃止は、国会のみの責任でのみ行なわれ得るものではなく、今回の平成八年の新法廃止の経過からみれば、厚生省の新法廃止に向けての作業が重要な役割を果たしていることは明らかであるところからみても、ハンセン病医療を所管し、国内外におけるハンセン病の専門的な医学的知見やより詳細な治療の状況に関する情報を入手することが可能である厚生省の新法廃止へ向けての積極的な作業が必要とされるのであって、本件のように隔離政策による患者の人権被害が甚大であり、隔離政策の誤りが明白となっている状況の下では、厚生省がそのような作業をしても国会で新法廃止の立法がなされなかった場合であればともかく、厚生省が右のような新法廃止に向けての積極的な作業を一切することなくこれを放置しておきながら、厚生省は違憲の法律であってもそれに従って行政を行なう以上国家賠償法上の違法性はなく、少なくとも故意・過失はないというような主張は採用できない。

 また、新法は、必ず隔離政策を維持・継続しなければならないと定めているわけではなく、むしろ、隔離の必要性の判断を、医学的知見の進展やハンセン病の蔓延状況によってその都度変更すべき場合があることを予定しているものとも解されるのであって、新法が存続していたことは、厚生大臣の行為の違法性及び過失を認めるに当たって、特に支障となるものではないというべきである。

  2 また、被告は、強制収容と法的に評価し得るのは物理的強制入所のみであるとの前提に立って、新法の下において物理的強制入所がなかったか、ほとんどなかったことをるる指摘する。

 しかしながら、たとえ、新法六条一項による勧奨による入所であっても、伝染させるおそれがあり、ハンセン病予防上必要があると認められる以上、同条二項の入所命令、同条三項の直接強制を受ける可能性があることを前提とした勧奨であるから、患者に入所を拒む自由は事実上ないというべきであり、また、入所後においては、退所を制限され、新法一五条による外出制限に服する点からみても、入所命令や即時強制による入所と異ならないのであって、物理的強制を伴わない入所を全くの任意入所のようにいうことはできない。原告らの入所形態や入所理由には様々なものがあるが、いずれにしても、外出制限等を伴う隔離状態に置かれていた点では変わらず、厚生大臣の行為を違法と評価することに支障となるものではない。

  3 さらに、被告は、遅くとも、昭和五〇年ころ以降は、菌陰性かどうかに関係なく、自由に退所することができたと主張する。

 そもそも、退所が可能かどうかの判断は、高度に医学的・専門的な事項であって、入所者自身において判断し得るものではないことに加え、新法に退所基準や退所の手続的規定が定められていないことをも考え合わせると、入所者から具体的な退所の申出がない限り、療養所側が何の対応もしなくてよいとするのでは、退所機会の保障という点で極めて不十分である。そして、前記第二節第三の三で指摘した事情、特に、厚生省が、新法廃止までに、だれでも自由に退所できるなどと公式に表明したことは一度もなく、昭和五七年の国会答弁でも、ハンセン病の対策の手を緩めるわけにはいかず、患者に対する一定の人権制限はやむを得ないと答弁していたこと、厚生省が昭和三一年に策定した唯一の退所基準である暫定退所決定準則は、極めて厳格なものであり、退所機会を適正に保障する内容のものとはいえないこと、しかも、右準則は、当初入所者に厳秘とされていたもので、後にその存在が全患協に知られるようになったが、この準則の退所基準が入所者らに広く周知されていたとは認められないこと、昭和三〇年代にいくつかの療養所で退所基準や退所手続規定が定められているが、これによっても、退所基準が緩やかになったとは評価し得ないこと、昭和五〇年代以降、多くの療養所において、退所を強く希望する入所者に対して是が非でも退所を許可しないということはなくなったが、そのような療養所の方針が公式に表明されたことはなく、入所者にだれでも自由に退所できることが周知されていたとは認められないことなどからすれば、入所者が認識可能な形で退所の自由が認められていたのでないことは明らかである。隔離状態が徐々に緩和されていったことは、損害論では十分斟酌すべき点ではあるが、隔離政策自体は緩やかながら新法廃止まで継続されていたと認めざるを得ず、隔離政策を継続したことについての違法性の判断そのものを左右するとまではいえない。

 三 以上のとおりであって、厚生大臣の公権力の行使たる職務行為には違法があり、厚生大臣の過失も優にこれを認めることができる。

 

【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(2)

 

 目次

個人の尊重(5-1) 【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(1)
個人の尊重(5-2) 【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(2)
個人の尊重(5-3)【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(3)
個人の尊重(5-4)【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(4)


第三節 厚生大臣のハンセン病政策遂行上の違法及び故意・過失の有無(争点一)

第一 厚生省の隔離政策の遂行等について

 一 厚生省は、旧法下の昭和二五年には、ハンセン病患者総数一万一〇九四人のうち八三二五人の患者(収容率75.04パーセント)を収容隔離していたが、新法制定後も、これらの患者の隔離を続け、さらに、新患者の収容隔離も続行し、昭和三〇年には最多の一万一〇五七人(収容率90.86パーセント)のハンセン病患者を隔離し、その後、昭和四五年の93.65パーセントをピークに九〇パーセント前後の収容率でハンセン病患者を、全国の療養所に隔離してきたものである。なお、昭和五〇年の在所患者は一万〇一九九人(収容率89.87パーセント)で、平成五年の在所患者は六七二九人(収容率89.79パーセント)である。(別紙五参照)

 ところで、新法六条一項は、勧奨による入所を定めるが、これは同条二項の入所命令、同条三項の直接強制を前提とするものであり、後記第四節第二の一の新法の解釈等からすれば、法的にも任意の入所とは同視し難い面がある。のみならず、新法廃止まで、抗ハンセン病薬が保険診療で正規に使用できる医薬品に含まれていなかったことなどにより、ハンセン病の治療が受けられる療養所以外の医療機関が極めて限られており、特に、入院治療が可能であったのは、京都大学だけという医療体制の下で、入院治療を必要とする患者は、事実上療養所に入所せざるを得ず、また、療養所にとどまらざるを得ない状況に置かれていた(前記第二節第三の八1)。さらに、戦前・戦後にまたがるほぼ全患者を対象とする収容の徹底・強化により、多くの国民は、ハンセン病が強烈な伝染病であるとの誤った認識に基づく過度の恐怖心を持つようになり、その結果、ハンセン病に対する社会的な差別・偏見が増強され、プロミン登場によりハンセン病が治し得る病気となった後も、新法がハンセン病に対する隔離政策を継続したことによって、ハンセン病に対する差別・偏見が助長・維持され、新法廃止まで根強い差別・偏見が厳然として存在し続けたものであるところ、その中で、ハンセン病患者は、いったんハンセン病であるとの診断を受けると、保健所職員の度重なる勧奨入所により、隣近所の者からハンセン病患者及びその家族が白眼視されるに至るなど、療養所に入所せざるを得ない状況に追い込まれ入所を余儀なくされていったことが認められる。したがって、少なくとも、原告らのうちで最も入所時期の遅い者(原告一一番)が入所した昭和四八年ころまでの状況を見る限り、勧奨による入所という形をとっていても、その実態は、患者の任意による入所とは認め難いものであった。(第二節第一の一、同第四、各原告作成の陳述書、各原告本人)

 また、第二節第二の一〇のとおり、新法六条の「らいを伝染させるおそれがある患者」の解釈についても、ハンセン病と診断されると「伝染させるおそれ」がないと判断される未治療の患者はいないといわれるほど極めて広義に解釈されており、これに対応するように、第二節第三の三のとおり、入所者の退所についても、極めて厳格な運用がされており、最も軽快退所者の多かった昭和三五年でも、その年の軽快退所者数二一六人の入所者数一万〇六四五人に対する割合は二パーセントに過ぎず、昭和二六年から平成九年までの各年の退所者の右割合も一パーセント未満の年がほとんどという状況であった(別紙六)。昭和三一年に厚生省が各療養所長に示した唯一の退所基準である「らい患者の退所決定暫定準則」も、その内容は極めて厳格で、しかも入所者にはその当時は周知されておらず、昭和五〇年代以降も、退所の自由について公式に表明されたこともなかった。

 また、新法一五条は、入所患者の外出を厳しく制限し、これに違反すると同法二八条で罰則を課することになっていたが、第二節第三の四のとおり、昭和三〇年代までは外出制限について厳格な取扱いもされていた。昭和五〇年代以降は、相当緩やかな運用がされるようになったが、厚生省や療養所が外出制限を事実上撤廃するなどということを公式に表明したこともなかった。

 さらに、優生保護法のらい条項の下で、昭和三〇年代まで優生手術を受けることを夫婦舎への入居の条件としていた療養所があり、入所者が療養所内で結婚するためには優生手術に同意をせざるを得ない状況もあった。

 昭和五〇年前後からは、療養所内の処遇改善が行われ、外出制限も緩やかに運用されるようになり、退所についても、入所者が積極的に希望する限り、あえてこれを制限しない運用にはなったものの、大部分の入所者は、療養所での生活が長期間となり高齢となっていたこと、また、新法における隔離政策の廃止が明確にされないまま療養所が運営されていたことなどにより、療養所外の社会におけるハンセン病に対する偏見・差別が依然として残り、退所して社会復帰をすることを希望する入所者も漸次減少してくるなかで、厚生省は、平成八年四月まで、ハンセン病患者の人権を著しく侵害する内容を有し、ハンセン病に対する差別・偏見を助長、維持するという弊害をもたらし続けたところの新法の下での隔離政策を廃止しなかったものである。

 二 以上のとおり、厚生省は、新法の下で、ハンセン病患者の隔離政策を遂行してきたものであるが、いうまでもなく、患者の隔離は、患者に対し、継続的で極めて重大な人権の制限を強いるものであるから、すべての個人に対し侵すことのできない永久の権利として基本的人権を保障し、これを公共の福祉に反しない限り国政の上で最大限に尊重することを要求する現憲法の下において、その実施をするに当たっては、最大限の慎重さをもって臨むべきであり、少なくとも、ハンセン病予防という公衆衛生上の見地からの必要性(以下「隔離の必要性」という。)を認め得る限度で許されるべきものである。新法六条一項が、伝染させるおそれがある患者について、ハンセン病予防上必要があると認められる場合に限って、入所勧奨を行うことができるとしているのも、その趣旨を含むものと解されるところである。また、右の隔離の必要性の判断は、医学的知見やハンセン病の蔓延状況の変化等によって異なり得るものであるから、その時々の最新の医学的知見に基づき、その時点までの蔓延状況、個々の患者の伝染のおそれの強弱等を考慮しつつ、隔離のもたらす人権の制限の重大性に配意して、十分に慎重になされるべきであり、もちろん、患者に伝染のおそれがあることのみによって隔離の必要性が肯定されるものではない。

第二 隔離の必要性の有無について

 一 前記第一の二で述べたところを前提として、隔離の必要性の有無について検討するに、<1>もともと、ハンセン病は、感染し発病に至るおそれが極めて低い病気であって、このことは、新法制定よりはるか以前から政府やハンセン病医学の専門家において十分に認識されていたところであること(前記第一節第五の一)、<2>我が国のハンセン病の患者数は、明治三三年から昭和二五年までの五〇年間に半減あるいはそれ以下に減少し、それとともに、有病率もその間に一万人当たり6.92人から1.33人と約五分の一に低下し、新法制定当時のハンセン病の蔓延状況は、もはや深刻なものではなくなっていたこと、また、その後も、ハンセン病患者の発生は、戦後の混乱期を脱して社会経済状態が好転していくことで、自然に減少していくと見込まれていたこと(前記第一節第二の一、三4、四、第二節第二の四、六1の宮崎及び参議院厚生委員長の発言部分、九3の廣瀬久忠議員の発言部分)、<3>ハンセン病は、慢性の経過をたどって進行するが、もともと、それ自体としては致死的な病気ではない上、すべての症例が重症化するわけではなく、自然治癒するものもあったこと(前記第一節第一の三5、四12)、<4>新法制定当時、既にプロミンがハンセン病に著効を示すことが国内外で明らかとなっており、特に、重症化しやすい結節らいの患者の病状を著しく軽快させることができる状況になっていたこと、また、昭和二四年以降、プロミンが我が国の療養所で広く普及するようになり、かつてのようなハンセン病が不治の悲惨な病気であるとの観念はもはや妥当しなくなっていたこと、さらに、昭和二三年ころからは、プロミンと同じスルフォン剤であり経口投与可能なDDSが、少量でプロミンに劣らぬ治療効果を持っていることが明らかになり、新法制定の前年の昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会では、在宅治療の可能性を拡げるものとして高い評価を得ていたこと(前記第一節第三の一ないし三、第五の二)、<5>ハンセン病に関する国際会議等では、戦前から、隔離を限定的に行おうとする考え方が随所に現れていたこと、特に、患者を伝染性患者と非伝染性患者に分け、前者のみを隔離の対象とすべきことは、大正一二年の第三回国際らい会議以降、繰り返し提唱され、昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会の報告にもその旨の指摘がなされていたこと、また、国際連盟らい委員会が昭和六年に発行した「ハンセン病予防の原則」や昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会の報告では、強制隔離政策が、隔離を回避しようとする患者を潜伏化させる傾向がありハンセン病予防に十分な効果をもたらさないことがある旨の指摘もなされており、新法制定後のものではあるが、昭和二九年にWHOがまとめた「近代癩法規の展望」でも、隔離政策の正当性・有効性が疑問視されていたことなどが認められる。

 そうすると、他方で、新法制定当時においては、スルフォン剤治療による再発の頻度がいまだ明らかになっておらず、スルフォン剤の評価が完全に確定的になったとまでいえる状況ではなかったこと、昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会の報告を始め、国内外のハンセン病医学の専門家の意見としても、隔離政策を完全に否定するところまではいっていなかったことなどを考慮しても、少なくとも、病型による伝染力の強弱のいかんを問わずほとんどすべてのハンセン病患者を対象としなければならないほどの隔離の必要性は見いだし得ないというべきである。

 二 また、以上に加え、新法制定以降の事情として、<6>プロミン治療が我が国で開始されてから一〇年を経過した昭和三一年ころ以降、スルフォン剤治療による再発の頻度が少しずつ明らかになっていったが、国際的には、スルフォン剤のハンセン病治療上の優位は全く揺るがず、治療実績が積み重ねられるにつれ、ますますスルフォン剤の評価が確実なものとなっていったこと、<7>これに伴い、国際的には、次第に強制隔離否定の方向性が顕著となり、昭和三一年のローマ会議、昭和三三年の第七回国際らい会議(東京)及び昭和三四年のWHO第二回らい専門委員会などのハンセン病の国際会議においては、ハンセン病に関する特別法の廃止が繰り返し提唱されるまでに至っていたこと、<8>我が国におけるスルフォン剤の評価も、右の国際的評価と基本的には変わらないものであって、現実にも、スルフォン剤の登場以降、我が国において進行性の重症患者が激減していたこと、<9>戦後の混乱期を脱して社会経済状態が回復していったことにより、昭和三〇年に四一二人であった新発見患者数が、昭和三五年には二五六人となり、新発見患者数に顕著な減少が見られたこと(甲一の一八頁)などを総合すると、遅くとも昭和三五年以降においては、もはやハンセン病は、隔離政策を用いなければならないほどの特別の疾患ではなくなっており、病型のいかんを問わず、すべての入所者及びハンセン病患者について、隔離の必要性が失われたものといわざるを得ない。

 三 なお、被告は、スルフォン剤単剤治療によるL型患者の再発についてるる指摘するが、再発の頻度、原因、再発後の治療状況、再発症例の発生によるスルフォン剤の評価への影響については、前記第一節第三の七1、第五の二2(三)で検討したとおりであり、昭和三〇年代の再発の問題がスルフォン剤の評価を根本的に見直さなければならないようなものであったとは認められない。しかも、スルフォン剤単剤治療による再発が隔離の必要性を肯定する理由にならないことは、証人和泉が明確に証言しているほか(四回二〇〇項)、再発の問題の深刻さを強調する被告申請証人の長尾も、再発の可能性があったからといって隔離政策を継続すべきであったとは考えていない旨証言しているのである(一三回四一二項以下)。

 また、被告は、スルフォン剤単剤治療による難治らいの症例の存在を指摘するが、これについては、前記第一節第三の七2で検討したとおりであり、我が国においてハンセン病政策全体を左右するほど多数の難治らいの症例があったとは認められない。

 さらに、被告は、スルフォン剤登場後もらい反応をどのように克服するかがハンセン病の治療に当たっての極めて深刻かつ重要な課題だったのであり、また、らい反応によって医学的に見て入院治療が必要な場合もあったと主張する。ところで、らい反応については、前記第一節第一の五で詳しく検討したが、らい反応によって入院治療が必要な場合があるというのは、専ら医療上の観点からであって、ハンセン病予防という公衆衛生上の必要性と直接結び付くものではなく、隔離の必要性を肯定する理由にはならない。なお、らい反応が起こるのは、スルフォン剤に欠陥があるからではなく、頻度は異なるがリファンピシンによる治療や多剤併用療法でもらい反応の問題は生じること、スルフォン剤単剤治療の時代にも、らい反応に対してそれ相応の対応ができたことは、長尾の証言(一二回二〇六項以下)等から明らかである。

 したがって、被告の右指摘・主張を考慮しても、前記一及び二の隔離の必要性の判断を左右するものではない。

 

【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(1)

「らい予防法」違憲国家賠償請求事件


 目次

個人の尊重(5-1) 【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(1)
個人の尊重(5-2) 【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(2)
個人の尊重(5-3)【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(3)
個人の尊重(5-4)【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(4)

要旨

らい予防法(昭和28年法律214号、平成8年法律28号廃止)におけるハンセン病患者の強制隔離規定(同法6条・15条及び28条)は、憲法22条1項 の居住移転の自由を包括的に制限するものだが、それだけでは正当に評価し尽くせず、学業中断や失職、結婚や家庭形成や出産の機会喪失をもたらすなど、その 人権の制限が、人としての社会生活全般にわたるから、より広く憲法13条に根拠を有する人格権そのものに対する制限だととらえるのが相当であるところ、同 規定は、同法の制定時から既に、これら人権に対する公共の福祉による合理的な制限を逸脱しており、遅くとも昭和35年には、その合理性を支える根拠を全く 欠く状況に至っており、その違憲性は明白になっていたというべきである。

 

判旨

第一 事案の概要

 本件は、平成八年四月一日に廃止されたらい予防法(昭和二八年法律第二一四号。以下「新法」という。)の下で同法一一条の国立療養所(以下「療養所」という。)に入所していた原告らが、被告である国に対し、<1>国家賠償法が施行された昭和二二年一〇月二七日から新法の下で厚生大臣が策定・遂行したハンセン病の隔離政策の違法、<2>国会議員が新法を制定した立法行為又は新法を平成八年まで改廃しなかった立法不作為の違法などを理由に、国家賠償法に基づき、新法及びハンセン病政策によって療養所に隔離されたことによる損害及び新法の存在及びハンセン病政策の遂行によって作出・助長された差別・偏見にさらされたことによる損害などの賠償を求めた事案である。

第二 前提事実(後記一、二は当事者間に争いがない。なお、後記三の争いの有無及び証拠の摘示は、別紙一参照)

 一 ハンセン病の医学的知見の概略

  1 ハンセン病の定義

 ハンセン病は、抗酸菌の一種であるらい菌によって引き起こされる慢性の細菌感染症である(なお、これまで「癩(らい)」とも呼ばれてきたが、以下、原則として、ハンセン病という。)。らい菌は、明治六年ころにノルウェーのアルマウエル・ハンセンによって発見された細菌で、結核菌等と同じ抗酸菌に属するものである。ハンセン病は、主として末梢神経と皮膚が侵される疾患で、慢性に経過する。

  2 ハンセン病の感染・発病

 らい菌の毒力は極めて弱く、ほとんどの人に対して病原性を持たないため、人の体内にらい菌が侵入し感染しても、発病することは極めてまれである。

  3 ハンセン病の治療

 ハンセン病の本格的な薬物療法は、昭和一八年、アメリカでのプロミンの有効性についての報告に始まり、日本でも、昭和二二年より、静脈注射によって投与するプロミンが一部の患者に使用され始めた。その後、プロミンの改良型で同じスルフォン剤の一種である経口薬ダプソン(DDS)が用いられるようになった。さらに、昭和四〇年代後半になり、リファンピシンがらい菌に対し強い殺菌作用を有することが明らかになった。

 昭和五六年には、WHO(世界保健機構)が、リファンピシン、DDS及びクロファジミン(B六六三)による多剤併用療法を提唱した。この多剤併用療法は、その卓越した治療効果だけでなく、再発率の低さ、患者に多大な苦痛と後遺症をもたらす経過中の急性症状(らい反応)の少なさ、治療期間の短縮等の点で画期的な療法であり、わずか数日間の服薬で菌は感染力を喪失するとされている。

 そのため、現在では、ハンセン病は、早期発見と早期治療により、障害を残すことなく、外来治療によって完治する病気であり、また、不幸にして発見が遅れ障害を残した場合でも、手術を含む現在のリハビリテーション医学の進歩により、その障害を最小限に食い止めることができるとされている。

 二 ハンセン病に対する法制の変遷等

  1 「癩予防ニ関スル件」の制定

 明治四〇年、我が国においてハンセン病患者に対する強制措置を定めた最初の法律である明治四〇年法律第一一号(以下「癩予防ニ関スル件」という。)が制定された。

 これによれば、「癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ行政官庁ニ於テ命令ノ定ムル所ニ従ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ但シ適当ト認ムルトキハ扶養義務者ヲシテ患者ヲ引取ラシムヘシ」(三条一項)、「主務大臣ハ二以上ノ道府県ヲ指定シ其ノ道府県内ニ於ケル前条ノ患者ヲ収容スル為必要ナル療養所ノ設置ヲ命スルコトヲ得」(四条一項)とされた。

  2 懲戒検束権の付与

 大正五年法律第二一号により、「癩予防ニ関スル件」が一部改正され、「療養所ノ長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ被救護者ニ対シ必要ナル懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得」(四条ノ二)とされ、療養所長の懲戒検束権が法文化された。

  3 癩予防法の制定

 昭和六年法律第五八号により、「癩予防ニ関スル件」が改正され、癩予防法(以下「旧法」という。)の名称となった。

 右改正により、「行政官庁ハ癩予防上必要ト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノヲ国立癩療養所又ハ第四条ノ規定ニ依リ設置スル療養所ニ入所セシムベシ」(三条一項)とされた。

 なお、この前後より、被告が全国で推進した「無らい県運動」によって、ハンセン病の未収容患者が次々と療養所に入所させられ、昭和五年から昭和一〇年にかけて入所患者数が約三倍に増加した。

  4 優生保護法(昭和二三年法律第一五六号)の制定

 昭和二三年に優生保護法が制定されたが、これには次の内容の規定があった(以下「優生保護法のらい条項」という。)。

   () 医師は、本人又は配偶者が癩疾患にかかりかつ子孫にこれが伝染するおそれがある者に対して、本人の同意並びに配偶者(届出をしないが事実上婚姻関係と同様な事情にある者を含む。以下同じ。)があるときはその同意を得て、優生手術を行うことができる(三条一項三号)。

   () 都道府県の区域を単位として設立された社団法人たる医師会の指定する医師は、本人又は配偶者が癩疾患にかかっている者に対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる(昭和二七年法律第一四一号による改正後の一四条一項三号)。

  5 新法の制定

   () 昭和二八年八月一五日、旧法が廃止され、新法が公布施行された。

 新法の主な規定を挙げると、次のとおりである。

 (国立療養所への入所)

 六条 都道府県知事は、らいを伝染させるおそれがある患者について、らい予防上必要があると認めるときは、当該患者又はその保護者に対し、国が設置するらい療養所(以下「国立療養所」という。)に入所し、又は入所させるように勧奨することができる。

  2 都道府県知事は、前項の勧奨を受けた者がその勧奨に応じないときは、患者又はその保護者に対し、期限を定めて、国立療養所に入所し、又は入所させることを命じることができる。

  3 都道府県知事は、前項の命令を受けた者がその命令に従わないとき、又は公衆衛生上らい療養所に入所させることが必要であると認める患者について、第二項の手続をとるいとまがないときは、その患者を国立療養所に入所させることができる。

  4 第一項の勧奨は、前条に規定する医師が当該患者を診察した結果、その者がらいを伝染させるおそれがあると診断した場合でなければ、行うことができない。

 (従業禁止)

 七条 都道府県知事は、らいを伝染させるおそれがある患者に対して、その者がらい療養所に入所するまでの間、接客業その他公衆にらいを伝染させるおそれがある業務であって、厚生省令で定めるものに従事することを禁止することができる。

  2 前条第四項の規定は、前項の従業禁止の処分について準用する。

 (汚染場所の消毒)

 八条 都道府県知事は、らいを伝染させるおそれがある患者又はその死体があった場所を管理する者又はその代理をする者に対して、消毒材料を交付してその場所を消毒すべきことを命ずることができる。

  2 都道府県知事は、前項の命令を受けた者がその命令に従わないときは、当該職員にその場所を消毒させることができる。

 (物件の消毒廃棄等)

 九条 都道府県知事は、らい予防上必要があると認めるときは、らいを伝染させるおそれがある患者が使用し、又は接触した物件について、その所持者に対し、授与を制限し、若しくは禁止し、消毒材料を交付して消毒を命じ、又は消毒によりがたい場合に廃棄を命ずることができる。

  2 都道府県知事は、前項の消毒又は廃棄の命令を受けた者がその命令に従わないときは、当該職員にその物件を消毒し、又は廃棄させることができる。(三ないし六項は省略)

 (国立療養所)

 一一条 国は、らい療養所を設置し、患者に対して、必要な療養を行う。

 (外出の制限)

 一五条 入所患者は、左の各号に掲げる場合を除いては、国立療養所から外出してはならない。

 一 親族の危篤、死亡、り災その他特別の事情がある場合であって、所長が、らい予防上重大な支障を来たすおそれがないと認めて許可したとき。

 二 法令により国立療養所外に出頭を要する場合であって、所長が、らい予防上重大な支障を来たすおそれがないと認めたとき。

 (秩序の維持)

 一六条 入所患者は、療養に専念し、所内の紀律に従わなければならない。

  2 所長は、入所患者が紀律に違反した場合において、所内の秩序を維持するために必要があると認めるときは、当該患者に対して、左の各号に掲げる処分を行うことができる。

 一 戒告を与えること。

 二 三十日をこえない期間を定めて、謹慎させること。

  3 前項第二号の処分を受けた者は、その処分の期間中、所長が指定した室で静居しなければならない。

  4 第二項第二号の処分は、同項第一号の処分によっては、効果がないと認められる場合に限って行うものとする。

  5 所長は、第二項第二号の処分を行う場合には、あらかじめ、当該患者に対して、弁明の機会を与えなければならない。

 (物件の移動の制限)

 一八条 入所患者が国立療養所の区域内において使用し、又は接触した物件は、消毒を経た後でなければ、当該国立療養所の区域外に出してはならない。

 (罰則)

 二八条 左の各号の一に該当する者は、拘留又は科料に処する。

 一 第一五条第一項の規定に違反して国立療養所から外出した者

 二 第一五条第一項第一号の規定により国立療養所から外出して、正当な理由がなく、許可の期間内に帰所しなかった者

 三 第一五条第一項第二号の規定により国立療養所から外出して、正当な理由がなく、通常帰所すべき時間内に帰所しなかった者

   () なお、新法制定に当たって、参議院厚生委員会により次の附帯決議が附された(以下「新法附帯決議」という。)。

 一 患者の家族の生活援護については、生活保護法とは別建の国の負担による援護制度を定め、昭和二九年度から実施すること。

 二 国立のらいに関する研究所を設置することについても同様昭和二九年度から着手すること。

 三 患者並びにその親族に関する秘密の確保に努めるとともに、入所患者の自由権を保護し、文化生活のための福祉施設を整備すること。

 四 外出の制限、秩序の維持に関する規定については、適正慎重を期すること。

 五 強制診断、強制入所の措置については人権尊重の建前にもとづきその運用に万全の留意をなすこと。

 六 入所患者に対する処遇については、慰安金、作業慰労金、教養娯楽費、賄費等につき今後その増額を考慮すること。

 七 退所者に対する更生福祉制度を確立し、更生資金支給の途を講ずること。

 八 病名の変更については十分検討すること。

 九 職員の充実及びその待遇改善につき一段の努力をすること。

 以上の事項につき、近き将来本法の改正を期するとともに本法施行に当っては、その趣旨の徹底、啓蒙宣伝につき十分努力することを要望する。

  6 新法の廃止に至る経過等

   () 昭和二六年、国立療養所の入所者らによって全国国立らい療養所患者協議会(後に「全国ハンセン病患者協議会」に改称。以下、まとめて「全患協」という。)が結成され、これを中心に、新法成立までの間、強制収容反対、退園の法文化、懲戒検束規定の廃止等を求めて、療養所でのハンストや陳情団の国会での座り込みなどによる激しい旧法改正運動を展開した。

 全患協は、新法成立後も、昭和三八年と平成三年四月の二度にわたって、厚生大臣に対し、強制措置の撤廃等を求める新法の改正要請書を提出した。また、国立らい療養所長で構成される全国国立ハンセン病療養所所長連盟(以下「所長連盟」という。)も、昭和六二年三月に強制措置の撤廃等を求める新法の改正に関する請願書を提出した。

 しかし、これらは、直接には新法の改廃には結び付かなかった。

   () その後、元厚生省医務局長で財団法人藤楓協会の理事長である大谷藤郎(以下「大谷」という。)が新法の廃止を呼び掛けたことが契機となって、平成六年一一月に所長連盟が「らい予防法改正問題についての見解」を、平成七年一月に全患協が「らい予防法改正を求める全患協の基本要求」を、同年四月に日本らい学会が「『らい予防法』についての日本らい学会の見解」をそれぞれ発表し、新法廃止に向けての機運が一気に高まった。さらに、同年五月のハンセン病予防事業対策調査検討委員会の中間報告書においても、新法の廃止を視野においた抜本的な見直しが提言された。

 これを受けて、同年七月、厚生省保健医療局長の私的諮問機関であるらい予防法見直し検討会(以下「見直し検討会」という。)が設置され、右検討会は、同年一二月八日、新法や優生保護法のらい条項の廃止等を提言した。

   () 厚生大臣は、見直し検討会の右報告を受け、平成八年一月一八日、全患協代表者らに対し、「らい予防法の見直しが遅れたこと、そして、旧来の疾病像を反映したらい予防法が今日まで存在し続けたことが、結果としてハンセン病患者、そしてその家族の方々の尊厳を傷つけ、多くの苦しみを与えてきたこと、さらに過去において優生手術を受けたことにより、在園者の方々が多大なる身体的・精神的苦痛を受けたことは、誠に遺憾とするところであり、厚生省としても、そのことに深く思いをいたし、そして率直にお詫び申し上げたいと思います。」と述べて公式に謝罪し、通常国会への新法廃止法案の提出を表明した。

   () 新法を廃止し優生保護法のらい条項を削除することなどを定めたらい予防法の廃止に関する法律(以下「廃止法」という。)が平成八年三月に成立し、同年四月一日に公布施行された。

 なお、廃止法の議決に際し、衆参両厚生委員会により、「ハンセン病は発病力が弱く、又発病しても、適切な治療により、治癒する病気となっているにもかかわらず、『らい予防法』の見直しが遅れ、放置されてきたこと等により、長年にわたりハンセン病患者・家族の方々の尊厳を傷つけ、多くの痛みと苦しみを与えてきたことについて、本案の議決に際し、深く遺憾の意を表するところである。」とした上、「ハンセン病療養所から退所することを希望する者については、社会復帰が円滑に行われ、今後の社会生活に不安がないよう、その支援策の充実を図ること。」という附帯決議がなされた。

 三 原告らの療養所入所歴について

 原告らは、療養所の入所者又は元入所者であって、その入所期間等は別紙一のとおりである。

第三 本件の主要な争点

 一 厚生大臣のハンセン病政策遂行上の違法及び故意・過失の有無

 二 国会議員の立法行為の国家賠償法上の違法及び故意・過失の有無

  1 旧法を昭和二八年まで改廃しなかった立法不作為について

  2 新法の制定について

  3 新法を平成八年まで改廃しなかった立法不作為について

 三 損害

 四 除斥期間

個人の尊重(4)最判平成12年2月29日 エホバの証人・宗教的理由による輸血拒否訴訟

 

 目次


最判平成12年2月29日 エホバの証人・宗教的理由による輸血拒否訴訟

要旨

判示事項

宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有している患者に対して医師がほかに救命手段がない事態に至った場合には輸血するとの方針を採っていることを説明しないで手術を施行して輸血をした場合において右医師の不法行為責任が認められた事例

裁判要旨

医師が、患者が宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有し、輸血を伴わないで肝臓のしゅようを摘出する手術を受けることができるものと期待して入院したことを知っており、右手術の際に輸血を必要とする事態が生ずる可能性があることを認識したにもかかわらず、ほかに救命手段がない事態に至った場合には輸血するとの方針を採っていることを説明しないで右手術を施行し、患者に輸血をしたなど判示の事実関係の下においては、右医師は、患者が右手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪われたことによって被った精神的苦痛を慰謝すべく不法行為に基づく損害賠償責任を負う。

 

 

判旨

 1 亡T(以下「T」という。)は、昭和四年一月五日に出生し、同三八年から「U」の信者であって、宗教上の信念から、いかなる場合にも輸血を受けることは拒否するという固い意思を有していた。Tの夫である被上告人・附帯上告人B1(以下「被上告人B1」という。)は、「U」の信者ではないが、Tの右意思を尊重しており、同人の長男である被上告人・附帯上告人B2(以下「被上告人B2」という。)は、その信者である。

 2 上告人・附帯被上告人(以下「上告人」という。)が設置し、運営しているV病院(以下「V」という。)に医師として勤務していたWは、「U」の信者に協力的な医師を紹介するなどの活動をしている「U」の医療機関連絡委員会(以下「連絡委員会」という。)のメンバーの間で、輸血を伴わない手術をした例を有することで知られていた。しかし、Vにおいては、外科手術を受ける患者が「U」の信者である場合、右信者が、輸血を受けるのを拒否することを尊重し、できる限り輸血をしないことにするが、輸血以外には救命手段がない事態に至ったときは、患者及びその家族の諾否にかかわらず輸血する、という方針を採用していた。

 3 Tは、平成四年六月一七日、国家公務員共済組合連合会X病院に入院し、同年七月六日、悪性の肝臓血管腫との診断結果を伝えられたが、同病院の医師から、輸血をしないで手術することはできないと言われたことから、同月一一日、同病院を退院し、輸血を伴わない手術を受けることができる医療機関を探した。

 4 連絡委員会のメンバーが、平成四年七月二七日、W医師に対し、Tは肝臓がんに罹患していると思われるので、その診察を依頼したい旨を連絡したところ、同医師は、これを了解し、右メンバーに対して、がんが転移していなければ輸血をしないで手術することが可能であるから、すぐ検査を受けるようにと述べた。

 5 Tは、平成四年八月一八日、Vに入院し、同年九月一六日、肝臓の腫瘍を摘出する手術(以下「本件手術」という。)を受けたが、その間、同人、被上告人B1及び同B2は、W医師並びにVに医師として勤務していたY及びZ(以下、右三人の医師を「W医師ら」という。)に対し、Tは輸血を受けることができない旨を伝えた。被上告人B2は、同月一四日、W医師に対し、T及び被上告人B1が連署した免責証書を手渡したが、右証書には、Tは輸血を受けることができないこと及び輸血をしなかったために生じた損傷に関して医師及び病院職員等の責任を問わない旨が記載されていた。

 6 W医師らは、平成四年九月一六日、輸血を必要とする事態が生ずる可能性があったことから、その準備をした上で本件手術を施行した。患部の腫瘍を摘出した段階で出血量が約二二四五ミリリットルに達するなどの状態になったので、W医師らは、輸血をしない限りTを救うことができない可能性が高いと判断して輸血をした。

 7 Tは、Vを退院した後、平成九年八月一三日、死亡した。被上告人・附帯上告人ら(以下「被上告人ら」という。)は、その相続人である。

 二 右事実関係に基づいて、上告人のTに対する不法行為責任の成否について検討する。

 本件において、W医師らが、Tの肝臓の腫瘍を摘出するために、医療水準に従った相当な手術をしようとすることは、人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者として当然のことであるということができる。しかし、患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。そして、Tが、宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有しており、輸血を伴わない手術を受けることができると期待してVに入院したことをW医師らが知っていたなど本件の事実関係の下では、W医師らは、手術の際に輸血以外には救命手段がない事態が生ずる可能性を否定し難いと判断した場合には、Tに対し、Vとしてはそのような事態に至ったときには輸血するとの方針を採っていることを説明して、Vへの入院を継続した上、W医師らの下で本件手術を受けるか否かをT自身の意思決定にゆだねるべきであったと解するのが相当である。

 ところが、W医師らは、本件手術に至るまでの約一か月の間に、手術の際に輸血を必要とする事態が生ずる可能性があることを認識したにもかかわらず、Tに対してVが採用していた右方針を説明せず、同人及び被上告人らに対して輸血する可能性があることを告げないまま本件手術を施行し、右方針に従って輸血をしたのである。そうすると、本件においては、W医師らは、右説明を怠ったことにより、Tが輸血を伴う可能性のあった本件手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪ったものといわざるを得ず、この点において同人の人格権を侵害したものとして、同人がこれによって被った精神的苦痛を慰謝すべき責任を負うものというべきである。そして、また、上告人は、W医師らの使用者として、Tに対し民法七一五条に基づく不法行為責任を負うものといわなければならない。これと同旨の原審の判断は、是認することができ、原判決に所論の違法があるとはいえない。論旨は採用することができない。 附帯上告代理人Aa、同Ab、同Acの上告理由について 所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう点を含め、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難し、独自の見解に立って原審の右判断における法令の解釈適用の誤りをいうか、又は原審の裁量に属する慰謝料額の算定の不当をいうものであって、採用することができない。

 よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 千種秀夫 裁判官 元原利文 裁判官 金谷利廣 裁判官 奥田

昌道)

個人の尊厳(3)・東京高裁平成11年8月30日

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東京高裁平成11年8月30日

要旨

国会議員の立法不作為が憲法の一義的な文言に違反していなくても右不作為が憲法秩序の根幹的価値にかかわる基本的人権を侵害しその救済立法をする必要があるとして、右不作為を国家賠償法上違法と評価することの可否

 

判旨

控訴人らは、被控訴人は憲法前文一段、二段、同九条に基づき「道義的国家たるべき義務」を負うのであるから、謝罪と賠償の範囲、方法を規定する立法が欠けていても、裁判所としては、類似法令の類推等を通じてこれを特定し、司法救済を実現すべきであるとし、国家賠償法の規定を、除斥期間、時効等に係る規定を除いて類推適用し、控訴人らの請求を認めるべきであると主張する。しかしながら、憲法前文、同九条が、裁判所に対して国家賠償法の類推適用を法的に義務づけたものと解することは到底不可能であり、また、国家賠償法制定前の国家の行為について同法を類推適用するのは、同法附則六項の規定を無視することになる。控訴人らの主張は、独自の見解に基づくものであって採用することができない。

 したがって、控訴人らの国家賠償法の類推適用に基づく請求は、理由がない。

8控訴人らは、明治憲法二七条の解釈は憲法二九条の解釈がそのまま妥当するとし、国の行為が違法であると適法であるとを問わず、また、財産権ばかりか生命・身体の自由に対しても損失補償を認めた規定であることを前提として、同条に基づき補償請求することができると主張する。しかしながら、明治憲法下においては、権力的作用については、違法行為に対しても国は賠償責任を負わないものとされていたことに加え、明治憲法二七条は、「日本臣民ハ其ノ所有権ヲサルヽコトナシ」、「公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」と規定していたのであるから、財産権の損失補償についても法律に基づいて初めて損失補償請求権が生ずるものと解されるのであって、同条の規定から直接に損失補償請求権が生ずると解することはできない。

 また、控訴人らが明治憲法二七条の解釈についても同様に解すべきであるとする憲法二九条三項は、財産権を公共のために用いることができることを前提として、その正当な補償を規定するものであることは、その文言上明らかである。したがって、同条項は、公共のために用いる国の行為が違法である場合の補償を予定したものでもなく、生命・身体の自由を公共のために用いることができることを前提とするものでもないことは、明白である。

 したがって、憲法二九条三項に関する解釈をもって、明治憲法二七条に基づく控訴人らの本件補償請求の根拠とすることはできず、控訴人らの右請求は、理由がない。」

二 当審における予備的請求について

 控訴人らの当審における予備的請求は、要するに、被控訴人の国会議員において、被控訴人が韓国人である従軍慰安婦に対して一定の賠償金ないし補償金の給付をなすベき旨を定める法律を、内閣官房長官談話等から三年以内に成立させなかったことが、国家賠償法上、違法の評価を受けるどし、国家賠償法一条一項、四条、民法七二三条の規定に基づき控訴人らが右の違法な立法懈怠により被った新たな侵害につき慰藉料の支払及び公式謝罪を求めるというものである。

1従軍慰安婦関係

(一)憲法一七条は、「何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。」と規定し、これを具体化した国家賠償法一条一項は、国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民に損害を加えたときに国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずることを規定している。国会による立法も公権力の行使に当たるから、国会議員の立法行為も国家賠償法一条一項による賠償の対象になり得る。

 もっとも、憲法が採用する議会制民主主義の下における国会議員の立法過程における行動は、原則として国会議員各自の政治的な判断に任され、その行動の当否は、最終的には自由な言論や選挙を通じての国民の政治的評価に委ねられているというべきである。

 すなわち、国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではなく、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会としてあえて当該立法を行うがごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違法の評価を受けないと解すべきである(最高裁昭和六〇年一一月二一日第一小法廷判決・民集三九巻七号一五一二頁等参照)。

(二)控訴人らは、憲法前文、九条、一三条、一四条、一七条、二九条一項及び三項、四〇条並びに九八条二項等の各規定を総合すれば、国会議員には控訴人らが主張する「帝国日本による侵略戦争及び植民地支配により被害を蒙った控訴人らに対する賠償ないし補償を行う立法」をすべき義務があると主張するが、次にみるとおり、憲法前文その他の条項のどれ一つを取り上げても、また、これらの規定を総合しても、右立法の作為義務を一義的に定めた規定であると解することは到底できない。

 すなわち、憲法前文は、憲法の基本原理を宣言するものであるにとどまり、それ自体において裁判規範性はなく、同前文から謝罪と賠償についての一義的な立法義務が生じているとは到底解されない。憲法九条は、国の戦争放棄、軍備及び交戦権の否認を規定しているが、同条の理念である平和主義及び国際協調主義から、直ちに、国会に対して「従軍慰安婦」及び「遺骨問題」に対する賠償立法等を一義的に義務づけているとは解されない。憲法一三条は、個人の尊重と生命、自由及び幸福追求権を規定しており、それらが、国家による侵害から保護されるべき法的利益であることの根拠とはなるが、その法的利益の侵害に対し同条を直接の根拠として損害賠償請求権が生じたり、賠償立法義務等が生じたりする余地はない。憲法一四条は、国政の高度の指導原理として法の下の平等原則を宣言したものであり、これに違反する法令、処分等は無効とされるが、その違反行為に対し同条を直接の根拠として損害賠償請求権が生じたり、賠償立法等の措置を採るべき義務が生じたりする余地はない。憲法 七条は、前記のとおり国家賠償法の制定を規定するにすぎず、同法の制定に際し、どのような要件の下に、憲法にいう「不法行為」を認めて損害賠償請求権を生じさせるかについては、なお立法府の裁量に委ねられているものと解され、同条を直接の根拠として損害賠償請求権が生じたり、また、一義的な立法義務を定めたものとまでは解されない。憲法二九条一項及び三項は、財産権の保障及び財産権についての特別な犠牲に対する補償を規定しているが、控訴人らの主張する損害はそもそも同条項にいう財産権についての特別の犠牲ではなく、右各条項において、それらの損害に対する賠償立法等の義務が一義的に定められているとは到底解されない。憲法四〇条は、刑事補償請求権を規定するが、同請求権は同条の文言上明らかなように刑事手続において無罪の裁判を受けた場合を前提とするのであって、同条が賠償立法義務等を一義的に定めていると解する余地はない。憲法九八条項は、日本国が締結した条約及び確立された国際法規を遵守すべき旨を規定するが、同規定が賠償立法義務等を一義的に定めていると解することはできないし、また、日本国が締結した条約及び確立された国際法規にも右義務を一義的に定めているものは見当たらない。

 以上のとおり、憲法前文その他の規定のどれ一つを取り上げても、右立法の作為義務を一義的に定めた規定であるとは解することはできないのであるが、また、それらの条項を総合的に解釈してみても、立法義務が一義的に定められていると解することは到底できない。

 したがって、控訴人らの右主張は採用することができない。

(三)また、控訴人らは、従軍慰安婦に対する保証立法について、憲法上立法についての文言が一義的でなくても、その不行為が憲法秩序の根幹的価値にかかわる基本的人権の侵害をもたらしている場合には、国会議員に立法義務が生じ、その是正を図るのが裁判所の固有の権限と義務であり、単に国会議員の政治責任を問うのみでは解消されないというが、既存法規の憲法適合性の審査ではなく、憲法秩序の根幹的価値にかかわる基本的人権の侵害があり、かつ、これを救済する立法をすべきであるとの司法判断を、民事訴訟等の場において裁判所が行うことを憲法が予定していると解することはできない。憲法は、三権分立の原則を採用し、その制度の下において、それらの立法の要否、内容、立法の時期等については 憲法の一義的な文言に違反していない限り、原則として立法府の裁量に委ねていると解するのが相当である。したがって、右立法の不作為をもって国家賠償法一条一項の適用上、違法の評価を受けるものということはできない。

(四)控訴人らは、憲法制定前の帝国日本の国家行為によるものであっても、これと同一性ある国家である被控訴人には、その先行する法益侵害が真に重大である限り、被害者に対し、より以上の被害の増大をもたらさないよう配慮、保証すべき条理上の法的作為義務が課せられ、被害者に対する何らかの損害回復措置を採らなければならないことを前提に、国会議員に立法の作為義務が生じるのは、立法の作為義務を一義的に定めた規定がある場合だけでなく、その不作為が憲法秩序の根幹的価値にかかわる基本的人権の侵害をもたらしている場合にも、例外的に国家賠償法上の違法をいうことができるものと解すべきであると主張する。しかしながら、控訴人らの主張する立法義務の具体的内容が明らかではない本件において、そもそも立法不作為の懈怠を判断することができるか疑問である上、憲法上いかなる立法をなすべきかについて一義的に定めた条規がない場合には、立法の要否、内容、時期等について、なお立法府である国会の政治的な判断に任されているとみるべきであることは、前記(三)に説示したとおりである。

 したがって、控訴人らの右主張も採用することができない。

 

 

 

13条 個人の尊重(2)山口地裁下関支部平成10年4月27日

  目次

山口地裁下関支部平成10年4月27日

要旨

いわゆる慰安婦に対する救済立法の不作為を違法であるとして国に損害賠償が命じられた事例

 

判旨

 2 ところで、いわゆる立法不作為による国家賠償請求については、当事者双方が援用する最高裁昭和六〇年一一月二一日第一小法廷判決(民集三九巻七号一五一二頁)があり、同判決が法的判断の枠組みを規定するというべきところ

 (一) 同判決には

 国家賠償法一条一項は、公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民に損害を加えたときに、国又は公共団体がこれを賠償する責めに任ずることを規定するものであるから、国会議員の立法行為(立法不作為を含む。以下同じ。)が国家賠償法上違法となるかどうかは、国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背したかどうかの問題であって、当該立法の内容の違憲性の問題とは区別されるべきであるとの前提のもとに、国会議員が立法に関し個別の国民に対する関係においていかなる義務を負うかについては、憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国会は、国民の間に存する多元的な意見及び諸々の利益を立法過程に公正に反映させ、議員の自由な討論を通してこれらを調整し、究極的には多数決原理により統一的な国家意思を形成すべき役割を担うものであり、国会議員は、多様な国民の意向をくみつつ、国民全体の福祉の実現を目指して行動することが要請されているのであって、議会制民主主義が適正かつ効果的に機能することを期するためにも、国会議員の立法過程における行動で、立法行為の内容にわたる実体的側面に係るものは、これを政治的判断に任せ、その当否は終局的に国民の自由な言論及び選挙による政治的評価にゆだねるのを相当とすること、立法行為の規範たるべき憲法についてさえ、その解釈につき国民の間には多様な見解があり得るのであって、国会議員は、これを立法過程に反映させるべき立場にあること、憲法五一条が、国会議員の発言・表決につきその法的責任を免除しているのも、国会議員の立法過程における行動は政治的責任の対象とするのにとどめるのが国民の代表者による政治の実現を期するという目的にかなうとの考慮によること、このように、国会議員の立法行為は、本質的に政治的なものであって、その性質上法的規制の対象になじまず、特定個人に対する損害賠償責任の有無という観点からあるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的には許されないものといわざるを得ないと論決した上、結論として、「国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであって、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違法の評価を受けないものといわなければならない。」

 以上のとおりの判示がある。

 一般に、国家がいつ、いかなる立法をすべきか、あるいは立法をしないかの判断は、国会の広範な裁量のもとにあり、その統制も選挙を含めた政治過程においてなされるべきであることは、日本国憲法の統治構造上明らかであるから、当裁判所もまた基本的には右最高裁判決と意見を同じくする。

  (2) しかし、右結論部分における「例外的な場合」についてはやや見解を異にし、立法不作為に関する限り、これが日本国憲法秩序の根幹的価値に関わる基本的人権の侵害をもたらしている場合にも、例外的に国家賠償法上の違法をいうことができるものと解する。

 まず、国会議員は、原則として、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負わないと結論づけるに当たって、同判決は、結局のところ、議会制民主主義が適正かつ効果的に機能することを期するためには、国会議員の立法過程における行動で、立法行為の内容にわたる実体的側面に係るものは、これを政治的判断に任せ、その当否は国民の自由な言論及び選挙による政治的評価にゆだねるのが相当であるとし、国会議員の立法行為は、本質的に政治的なものであって、その性質上法的規制の対象になじまないことを理由とするように思われる(なお、憲法解釈をいう部分は趣旨不明瞭であるし、いわゆる免責特権をいう部分は、違法と責任とを峻別する我が国の法制度のもとにおいてはほとんど論拠とならず、これらの説示にさして意味があるとは思われない。)。

 しかし、右のような議会制民主主義、選挙をも含めて究極的には多数決原理による議会制民主主義の政治が、その原理だけのもとでは機能不全に陥り、多数者による少数者への暴政をもたらしたことの反省に立って日本国憲法が制定されたはずである。そして、その日本国憲法の原理、議会制民主主義に立つ立法府をも拘束する原理が基本的人権の思想であり、むしろ端的に、基本的人権の尊重、確立のために議会制民主主義の政治制度が採用されたはずであって、その上に、さらにこれを十全に保障するために裁判所に法令審査権が付与されたはずである。したがって、少なくとも憲法秩序の根幹的価値に関わる人権侵害が現に個別の国民ないし個人に生じている場合に、その是正を図るのは国会議員の憲法上の義務であり、同時に裁判所の憲法上固有の権限と義務でもあって、右人権侵害が作為による違憲立法によって生じたか、違憲の立法不作為によって生じたかによってこの理が変わるものではない。ただ、立法権、司法権という統治作用ないし権限の性質上の差異や、国会、裁判所という機構ないし能力上の差異によって自ずとその憲法上の権限の範囲やその行使のあり方が定まり、裁判所にあっては、積極的違憲立法についての是正権限は右人権侵害以上に広く、消極的違憲の立法不作為についての是正権限は右根幹的価値に関わる人権侵害のごとく、より狭い範囲に限られることになると解されるのであるが、逆に、積極的違憲立法の是正については、当該法令のその事案への適用を拒否することによって簡明に果たされるのに対し、消極的違憲の立法不作為については、その違憲確認訴訟を認めることに種々の難点があることから、国家賠償法による賠償を認めることがほとんど唯一の救済方法になるともいえるのであって、その意味では、むしろ、立法不作為にこそ違法と認める余地を広げる必要もある。

 このように、立法不作為を理由とする国家賠償は、憲法上の国会と裁判所との役割分担、憲法保障という裁判所固有の権限と義務に関することがらであり、国会議員の政治的責任に解消できない領域において初めて顕在化する問題というべきであって、これが国家賠償法上違法となるのは、単に、「立法(不作為)の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行う(行わない)というごとき」場合に限られず、次のような場合、すなわち、前記の意味での当該人権侵害の重大性とその救済の高度の必要性が認められる場合であって(その場合に、憲法上の立法義務が生じる。)、しかも、国会が立法の必要性を十分認識し、立法可能であったにもかかわらず、一定の合理的期間を経過してもなおこれを放置したなどの状況的要件、換言すれば、立法課題としての明確性と合理的是正期間の経過とがある場合にも、立法不作為による国家賠償を認めることができると解するのが相当である。

 3 そこで、以上の見地に立って本件につき検討を加える。

 (一) 従軍慰安婦について

  (1) 慰安婦原告らが、いずれもその貧困のため、慰安所経営者と思われる人物の甘言に乗せられ、不任意に旧日本軍の関与する慰安所に連行され、監禁同然にして、長期間、慰安婦として旧日本軍人との性交を強要されたこと、同原告らが被った肉体的・精神的苦痛は極めて苛酷なものであり、帰国後もその恥辱に苛まれ、今なお心身ともに癒すことのできない苦悩のうちにあることは、前記事実問題においてみたとおりである。

 そして、この従軍慰安婦制度が、原告らの主張するとおり、徹底した女性差別、民族差別思想の現れであり、女性の人格の尊厳を根底から侵し、民族の誇りを踏みにじるものであって、しかも、決して過去の問題ではなく、現在においても克服すべき根源的人権問題であることもまた明らかである。

 例えば、甲一四(四五頁以下)に次の資料がある。

 昭和一三年三月、常州駐屯間内務規定、独立攻城砲兵第二大隊

 第九章 慰安所使用規定

  「単価

  使用時間は一人一時間を限度とす

  支那人 一円〇〇銭

  半島人 一円五十銭

  日本人 二円〇〇銭」

  「慰安所内に於て飲酒するを禁す」

  「女は総て有毒者と思惟し防毒に関し万全を期すべし」

  「営業者は酒肴茶菓の饗応を禁す」

  「営業者は特に許したる場所以外に外出するを禁す」

 慰安所という名の施設の「使用」規定であり、「使用」単価、料金であり、「使用」限度時間である。酒肴茶菓の饗応、接待もなく、ただ性交するだけの施設がここにあり、慰安婦とはその施設の必需の備付品のごとく、もはや売(買)春ともいえない、単なる性交、単なる性的欲望の解消のみがここにある。そして、前記事実問題でみた慰安所開設の目的と慰安婦たちの日常とに鑑みれば、まさに性奴隷としての慰安婦の姿が如実に窺われるというべきである。しかも、使用単価に現れた露骨な民族差別。希少性ないし需給法則のゆえに日本人の単価が高かっただけではあるまい。

  (2) ところで、日本国憲法は、その人権総論部分である一三条において、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」旨規定し、個人の尊重、個人の人格の尊厳に根幹的価値を置いている。そして、右に典型例をみたとおり、従軍慰安婦制度が女性の人格の尊厳を根底から侵すものであり、民族の誇りを甚だしく汚すものであったことも論をまたない。

 しかるに、従軍慰安婦制度は、日本国憲法制定前に設けられた制度であり、慰安婦原告らが慰安婦とされたのも日本国憲法制定前のことであって、これがいかに重大な人権侵害であろうとも、それだけを理由として、直ちに日本国憲法がその賠償立法を被告に命じていると解したり、あるいはこれに代わるべき救済を直接に裁判所が命じることができると解したりすることができないことは、先に「道義的国家たるべき義務」の検討においてみたとおりである。

  (3) しかしながら、従軍慰安婦に対する人権侵害の重大性と現在まで続く被害の深刻さに鑑みると、次のような解釈が可能と考える。

 従軍慰安婦制度は、その当時においても、婦人及び児童の売買禁止に関する国際条約(一九二一年)や強制労働に関する条約(一九三〇年)上違法の疑いが強い存在であったが、単にそれのみにとどまらず、同制度は、慰安婦原告らがそうであったように、植民地、占領地の未成年女子を対象とし、甘言、強圧等により本人の意思に反して慰安所に連行し、さらに、旧軍隊の慰安所に対する直接的、間接的関与の下、政策的、制度的に旧軍人との性交を強要したものであるから、これが二〇世紀半ばの文明的水準に照らしても、極めて反人道的かつ醜悪な行為であったことは明白であり、少なくとも一流国を標榜する帝国日本がその国家行為において加担すべきものではなかった。にもかかわらず、帝国日本は、旧軍隊のみならず、政府自らも事実上これに加担し、その結果として、先にみたとおりの重大な人権侵害と深刻な被害をもたらしたばかりか、慰安婦原告らを始め、慰安婦とされた多くの女性のその後の人生までをも変え、第二次世界大戦終了後もなお屈辱の半生を余儀なくさせたものであって、日本国憲法制定後五〇年余を経た今日まで同女らを際限のない苦しみに陥れている。

 ところで、このような場合、法の解釈原理として、あるいは条理として、先行法益侵害に基づくその後の保護義務を右法益侵害者に課すべきことが一般に許容されている。そうであれば、日本国憲法制定前の帝国日本の国家行為によるものであっても、これと同一性ある国家である被告には、その法益侵害が真に重大である限り、被害者に対し、より以上の被害の増大をもたらさないよう配慮、保証すべき条理上の法的作為義務が課せられているというべきであり、特に、個人の尊重、人格の尊厳に根幹的価値をおき、かつ、帝国日本の軍国主義等に関して否定的認識と反省を有する日本国憲法制定後は、ますますその義務が重くなり、被害者に対する何らかの損害回復措置を採らなければならないはずである。しかるに、被告は、当然従軍慰安婦制度の存在を知っていたはずであるのに、日本国憲法制定後も多年にわたって右作為義務を尽くさず、同女らを放置したままあえてその苦しみを倍加させたのであり、この不作為は、それ自体がまた同女らの人格の尊厳を傷つける新たな侵害行為となるというべきである。

 そして、遅くとも従軍慰安婦が国際問題化し、国会においても取り上げられるようになった平成二年(一九九〇年)五、六月ころには、右不作為による新たな被告の侵害行為は、それ以前の多年にわたる放置と元慰安婦女性の高齢化、労働省職業安定局長による「民間業者が云々」との政府答弁(別紙一の第八の一5参照)、さらには、そのころまでには明確に自覚されるに至った女子差別の撤廃と性的自由の思想等々とあいまっていよいよその人権侵害の重大性と救済の必要性を増し、違憲的違法性を帯びるものとなったということができる。

  (4) しかして、《証拠略》によれば、内閣官房内閣外政審議室は、平成五年(一九九三年)八月四日、「いわゆる慰安婦問題について」と題する従軍慰安婦問題についての調査報告書を提出し、また、当時の河野洋平内閣官房長官も、「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」、「戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。」、「いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。」との慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話を発表していることが認められるところ、右調査報告書と内閣官房長官談話によれば、従軍慰安婦問題が、女性差別、民族差別に関する重大な人権侵害であって、「心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」べきものであり、かつ、「そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきもの」であることが表明されている。そして、これに加えるに、そのころまでには、ドイツ連邦共和国、アメリカ合衆国、カナダにおいて、第二次世界大戦中の各国家の行為によって犠牲を被った外国人に対する謝罪と救済のための立法等がなされた事実もまた明らかになっており(別紙一及び二のとおり、当事者間に争いがない。)、これら先進諸国の動向とともに従軍慰安婦制度がいわゆるナチスの蛮行にも準ずべき重大な人権侵害であって、これにより慰安婦とされた多くの女性の被った損害を放置することもまた新たに重大な人権侵害を引き起こすことをも考慮すれば、遅くとも右内閣官房長官談話が出された平成五年(一九九三年)八月四日以降の早い段階で、先の作為義務は、慰安婦原告らの被った損害を回復するための特別の賠償立法をなすべき日本国憲法上の義務に転化し、その旨明確に国会に対する立法課題を提起したというべきである。そして、右の談話から遅くとも三年を経過した平成八年八月末には、右立法をなすべき合理的期間を経過したといえるから、当該立法不作為が国家賠償法上も違法となったと認められる。

 なお、被告国会議員も、右の談話から右立法義務を立法課題として認識することは容易であったといえるから、当該立法をしなかったことにつき過失があることは明白である。

  (5) 以上によれば、慰安婦原告らは、被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき、被告国会議員が右特別の賠償立法をなすべき義務を違法に怠ったことによる精神的損害の賠償を求める権利があるというべきところ、その額については、将来の立法により被害回復がなされることを考慮し、各金三〇万円と算定するのが相当である。

 なお、慰安婦原告らは、請求の趣旨1の公式謝罪をも求めるけれども、いかなる方法による謝罪をするかについては、これこそ政治部門の独自の判断と裁量により決すべき事項であって司法裁判所の介入できるところでないから、そもそも右請求の適格性すら問題である上に、少なくとも現時点においては、その必要が認められない。

13条 個人の尊重(1) ・最大判昭和23年3月24日・東京地判昭和39年9月28日・大阪高判昭和50年11月27日・札幌地裁平成9年3月27日

 目次



最大判昭和23年3月24日

要旨

憲法第一三條は、個人の尊嚴と人格の尊重を宣告したもの

 

判旨

 憲法第十三条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定されている。この規定は、個人の尊厳と人格の尊重を宣言したものであることは勿論であるが、個人の生命、自由、権利も、社会生活の正しい秩序、共同の幸福が保持されない限り、所詮それは砂上の楼閣に終るしかないのである。されば同条には「公共の福祉に反しない限り」との大きな枠をつけており、また他方において憲法第三十一条においては、社会秩序保持のため必要とされる国家の正当なる刑罰権の行使を是認しているのである。されば、被告人が現時国民に非常なる害悪を与え国民憎悪の的である掏摸を行つたことに対し、原審が諸般の事情を考慮して、実刑を科する判決を言渡したことは、事実審である原審の自由裁量権に属することであつて、これをもつて憲法違反乃至違法であると言うことはできない。従つて論旨は理由なきものである。

 

 

東京地判昭和39年9月28日

要旨

いわゆるプライバシー権は私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利として理解されるから、その侵害に対しては侵害行為の差し止めや精神的苦痛による損害賠償請求権が認められるべきものであり、民法第七〇九条による損害賠償の原由となる。

 

判旨

近代法の根本理念の一つであり、また日本国憲法のよつて立つところでもある個人の尊厳という思想は、相互の人格が尊重され、不当な干渉から自我が保護されることによつてはじめて確実なものとなるのであつて、そのためには、正当な理由がなく他人の私事を公開することが許されてはならないことは言うまでもないところである。このことの片鱗はすでに成文法上にも明示されているところであつて、たとえば他人の住居を正当な理由がないのにひそかにのぞき見る行為は犯罪とせられており(軽犯罪法一条一項二三号)その目的とするところが私生活の場所的根拠である住居の保護を通じてプライバシーの保障を図るにあることは明らかであり、また民法二三五条一項が相隣地の観望について一定の規制を設けたところも帰するところ他人の私生活をみだりにのぞき見ることを禁ずる趣旨にあることは言うまでもないし、このほか刑法一三条の信書開披罪なども同じくプライバシーの保護に資する規定であると解せられるのである。

 

 

・大阪高判昭和50年11月27日 大阪国際空港公害訴訟事件

要旨

個人の生命・身体の安全、精神的自由は、人間の存在に最も基本的なことがらであつて、法律上絶対的に保護されるべきものであり、憲法13条、25条もこれを裏付けるものである。そしてその総体を人格権ということができ、何人もこれをみだりに侵害することは許されず、その侵害に対してはこれを排除する機能が認められなければならない。また、人格権にもとづく差止請求を認容した場合、環境権理論の当否について判断する要はない。

 

判旨

およそ、個人の生命・身体の安全、精神的自由は、人間の存在に最も基本的なことがらであつて、法律上絶対的に保護されるべきものであることは疑いがなく、また、人間として生存する以上、平穏、自由で人間たる尊厳にふさわしい生活を営むことも、最大限度尊重されるべきものであつて、憲法一三条はその趣旨に立脚するものであり、同二五条も反面からこれを裏付けているものと解することができる。このような、個人の生命、身体、精神および生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであつて、その総体を人格権ということができ、このような人格権は何人もみだりにこれを侵害することは許されず、その侵害に対してはこれを排除する権能が認められなければならない。すなわち、人は、疾病をもたらす等の身体侵害行為に対してはもとより、著しい精神的苦痛を被らせあるいは著しい生活上の妨害を来たす行為に対しても、その侵害行為の排除を求めることができ、また、その被害が現実化していなくともその危険が切迫している場合には、あらかじめ侵害行為の禁止を求めることができるものと解すべきであつて、このような人格権に基づく妨害排除および妨害予防請求権が私法上の差止請求の根拠となりうるものということができる。

被告は、このような差止請求の根拠としての人格権には実定法上の根拠を欠くと主張するが、右のとおり人格権の内容をなす利益は人間として生存する以上当然に認められるべき本質的なものであつて、これを権利として構成するのに何らの妨げはなく、実定法の規定をまたなくとも当然に承認されるべき基本的権利であるというべきである。また、従来人格権の語をもつて名誉、肖像、プライバシーあるいは著作権等の保護が論ぜられることが多かつたとしても、それは、人格的利益のそのような面について、他人の行為の自由との牴触およびその調整がとくに問題とされることが多かつたことを意味するにすぎず、より根源的な人格的利益をも総合して、人格権を構成することには、何ら支障とならないものと解される。もつとも、人格権の外延をただちに抽象的、一義的に確定することが困難であるとしても、少なくとも前記のような基本的な法益をその内容とするものとして人格権の概念を把握することができ、他方このような法益に対する侵害は物権的請求権をもつてしては救済を完うしえない場合があることも否定しがたく、差止請求の根拠として人格権を承認する実益も認められるのであつて、学説による体系化、類型化をまたなくてはこれを裁判上採用しえないとする被告の主張は、とりえないところである。

 

 

・札幌地裁平成9年3月27日

要旨

少数民族が民族固有の文化を享有する権利は憲法一三条により保障されるとした事例

 

判旨

憲法一三条は、すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定する。この規定は、その文言及び歴史的由来に照らし、国家と個人との関係において個人に究極の価値を求め、国家が国政の態度において、構成員としての国民各個人の人格的価値を承認するという個人主義、民主主義の原理を表明したものであるが、これは、各個人の置かれた条件が、性別・能力・年齢・財産等種々の点においてそれぞれ異なることからも明らかなように、多様であり、このような多様性ないし相異を前提として、相異する個人を、形式的な意味ではなく実質的に尊重し、社会の一場面において弱い立場にある者に対して、その場面において強い立場にある者がおごることなく謙虚にその弱者をいたわり、多様な社会を構成し維持して全体として発展し、幸福等を追求しようとしたものにほかならない。このことを支配的多数民族とこれに属しない少数民族との関係においてみてみると、えてして多数民族は、多数であるが故に少数民族の利益を無視ないし忘れがちであり、殊にこの利益が多数民族の一般的な価値観から推し量ることが難しい少数民族独自の文化にかかわるときはその傾向は強くなりがちである。少数民族にとって民族固有の文化は、多数民族に同化せず、その民族性を維持する本質的なものであるから、その民族に属する個人にとって、民族固有の文化を享有する権利は、自己の人格的生存に必要な権利ともいい得る重要なものであって、これを保障することは、個人を実質的に尊重することに当たるとともに、多数者が社会的弱者についてその立場を理解し尊重しようとする民主主義の理念にかなうものと考えられる。

 また、このように解することは、前記B規約成立の経緯及び同規約を受けて更にその後一層少数民族の主体的平等性を確保し同一国家内における多数民族との共存を可能にしようとして、これを試みる国際連合はじめその他の国際社会の潮流(甲四一ないし四六、証人相内)に合致するものといえる。

 そうとすれば、原告らは、憲法一三条により、その属する少数民族たるアイヌ民族固有の文化を享有する権利を保障されていると解することができる。

 もっとも、このような権利といえども公共の福祉による制限を受けることは憲法一三条自ら定めているところであるが、その人権の性質に照らして、その制限は必要最小限度に留められなければならないものである。

(二)アイヌ民族の先住性

 B規約二七条は「少数民族」とのみ規定しているから、民族固有の文化を享有する権利の保障を考えるについては、その民族の先住性は要件ではないが、少数民族が、一地域に多数民族の支配が及ぶ以前から居住して文化を有し、多数民族の支配が及んだ後も、民族固有の文化を保持しているとき、このような少数民族の固有の文化については、多数民族の支配する地域にその支配を了承して居住するに至った少数民族の場合以上に配慮を要することは当然であるといわなければならないし、このことは国際的に、先住民族に対し、土地、資源及び政治等についての自決権であるいわゆる先住権まで認めるか否かはともかく、先住民族の文化、生活様式、伝統的儀式、慣習等を尊重すべきであるとする考え方や動きが強まっていること(甲四五、四六、証人相内)からも明らかである。

(1)アイヌ民族の先住性について検討することとするが、その前日として先住民族の定義について考えたい。そもそも「先住民族」の概念自体統一されたものはなく(証人相内)、これを定義づけることの相当性について疑問がないわけではないが(一口に先住民族であるとはいっても、その民族が属する国家により、その民族が現在置かれている状況、歴史的経緯等が異なり、そうである以上共通に理解することができないことは当然である。)、本訴においては、被侵害利益であるアイヌ文化の重要性、その文化を享有する権利の保障の程度等を検討することが必要であり、そのためにはアイヌ民族の先住性に言及することか不可避であるといわざるを用ないと考えるから、本訴において必要な限度で定義つけることとする。

 証拠(甲四二、四三の二・三、四四ないし四六、証人相内)及び弁論の趣旨を総合して考えるに、先住民族とは、歴史的に国家の統治が及ぶ前にその統治に取り込まれた地域に、国家の支持母体である多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ少数民族が居住していて、その後右の多数民族の支配を受けながらも、なお従前と連続性のある独自の文化及びアイデンティティを喪失していない社会的集団であるということができる。

(2)次に、アイヌ民族が右にいう先住民族であるかどうかについて、考察することとするが、アイヌ民族が文字を持たない民族であることは前述のとおりであり、そのため右のような先住性を証する上で役立つアイヌ民族の手による歴史文書等がなく、アイヌ民族がアイヌ民族としての社会集団を構成して北海道あるいは本州の北部にいつごろから定住し始めたのかは、本件全証拠によっても明らかではない。ここでは主にアイヌ民族以外の日本人(原告らの用法に従って、以下「和人」という。)の手によって記された中世及び近世のアイヌ民族に関する文献等を主たる証拠資料として右の意味での先住性を判断することとする。

 証拠(甲五、一九の一・二・三の一・四ないし六・八・一二・一三、証人田端)及び弁論の全趣旨を総合すれば、鎌倉時代の末期ころまでには、北海道に居住するアイヌ民族と和人の交易商人との間で、北海道の特産品である魚類や獣類と和人の物を物々交換する形で、北海道におけるアイヌ民族と和人との交易による接触は始まっていたこと、一五世紀の半ばころは、和人の中小の豪族が函館等の道南を中心に北海道に居住するようになっていたが、右豪族間あるいは右豪族とアイヌ民族の間で争い事等が繰り返されていたこと(たとえば、康正二年(西暦(以下省略)一四五六年)のコシャマインの戦い)、一六世紀の中ころには、松前藩の前身である蠣崎家と松前地方のアイヌ民族との間に「夷狄の商船往還の法度」という交易秩序の維持のための御法度が定められたが、そのころのアイヌ民族と和人との交易形態は、北海道の各地の居住先からアイヌの人々が松前付近に出て来て、和人の商人が本州からそこへ集まり物々交換をするというものであったこと、慶長九年(一六〇四年)には、松前藩は、江戸幕府による幕藩休制の下に入り、同藩は、その家臣らに対し知行地として商場(交易をする場所)を与え、アイヌ民族と交易をさせ、それから生じる利益に関税を掛けることなどにより、藩の財政基盤を確保していたこと、そのころは和人は北海道内の自由通行を認められていなかったが、アイヌ民族には許されていたこと、寛文九年(一六六九年)、和人とアイヌ民族が関係するシャクシャインの戦いが起こったこと、遅くとも一八世紀半ばころには、和人の商人は、松前藩から近い地域において、独占的に漁場を経営したり、対アイヌ交易を行ったりする請負場所を設定し、その請負場所において、漁猟生産の労働力としてアイヌ民族を使い始めたこと、一八世紀の終わりころにはその地域が北海道東部にまで及び、その請負場所において、和人によるアイヌの人々の酷使が原因となって、和人とアイヌ民族との争い事が発生していること(寛政元年(一七八九年)のクナシリ・メナシの戦い)、幕末期には、沙流川周辺においては山田文右衛門という和人が沙流場所(現在の苫小牧市から静内町にかけての漁場)を請け負い、右山田はアイヌの人々の主要な働き手を厚岸等の請負場所まで出稼ぎとして連れて行き、これを酷使していたこと、地域によっては家ぐるみで別の場所に移転させられたこと、安政五年(一八五八年)、北海道(蝦夷地)の調査をしていた松浦武史郎が二風谷地域を訪れ、同地域に居住するアイヌの人々の人数、年齢、生活の状況などを記録していること、松前藩は和人とアイヌの人々を完全に分離し、交易等を通じた接触に止める政策をとったため、アイヌの人々は民族として和人とは異なる文化、伝統を維持し得たこと、江戸幕府は、北海道の地に対するロシア勢力の進出を危惧していたことなどから、一八世紀後半から一九世紀半ばころまでの間、アイヌ民族を和人化させるためにアイヌ民族に日本語を使用させることや米を食べさせるようにすることなどのいわゆる同化政策を何度か打ち出したが、アイヌ民族の強い反発などから、結局、右政策は貫徹されなかったことが認められる。

 右認定事実に弁論の全趣旨を総合すれば、江戸時代に幕藩体制下の松前藩による統治が開始される以前に、二風谷地域をはじめ北海道には、アイヌ民族が先住していた地域が数多く存在しており、その後も、松前藩による北海道の統治は全域に及ぶものではなく、アイヌ民族は、幕藩体制の下で大きな政治的、経済的影響を受けつつも独自の社会生活を継続し、文化の享有を維持しながら北海道の各地に居住していたことが認められ、その後、後記(四)認定のとおり、アイヌ民族に対し採られた諸政策等により、アイヌ民族独自の文化、生活様式等が相当程度衰退することになったことが認められる。

 しかしながら、証拠(甲四七、証人大塚、原告ら)によれば、現在アイヌの人々は、我が国の一般社会の中で言語面でも、文化面でも他の構成員とほとんど変わらない生活を営んでおり、独自の言語を話せる人も極めて限られているものの、民族としての帰属意識や民族的な誇りの下に、個々人として、あるいはアイヌの人々の民族的権利の回復と地位向上を図るための団体活動を通じて、アイヌ民具の収集、保存、博物館の開設、アイヌ語の普及、アイヌ語辞典の編さん、アイヌ民族の昔話の書物化、アイヌ文化に関する講演等を行い、アイヌ語や伝統文化の保持、継承に努力し、その努力が実を結んでいることが認められる。

(3)以上認定した事実を総合すれば、アイヌの人々は我が国の統治が及ぶ前から主として北海道において居住し、独自の文化を形成し、またアイデンティティを有しており、これが我が国の統治に取り込まれた後もその多数構成員の採った政策等により、経済的、社会的に大きな打撃を受けつつも、なお独自の文化及びアイデンティティを喪失していない社会的な集団であるということができるから、前記のとおり定義づけた「先住民族」に該当するというべきである。


13条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

 目次


本条の趣旨

前段で「個人として尊重」として、基本的人権の中核となる思想である「個人の尊重」の原理を掲げている。

後段で「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を「公共の福祉」に反しない限り、「立法その他の国政の上で、最大の尊重」を必要とすることを規定している、

これは、憲法は人権をまもるための性質を有する(自由の基礎法・近代的意味の憲法)ので、人権条項全体を基礎づける原則を宣言したものである。

 

【個人の尊重】

 

「個人の尊重」としての個人主義とは、全体主義(国家・集団の利益に究極の価値を置く)、利己主義(自分自身の利益に究極の価値を置く)とは異なる原理で、自律・自己決定・博愛を基礎に、個人に究極の価値を認め、それら個人としての価値をすべての人々に平等に認める思想といえる。

 

しかし、自律と自己決定は、責任を伴う強い個人を想定しており、博愛は、人間性の感情に反しても万人に尊厳を認めるよう考える点で、現実の弱い個人(自由からの逃走)、人間性の感情に反していると感じる点で感銘力を欠くことなど実現不可能な思想ともいえる。

 

そこで、個人主義とは指導原理としての価値を有する理念と解される。個人主義の理念は、現実との乖離を直視しながらも、国際・国内の紛争解決の指導原理として非常に重要な役割がある。

 

 

【生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利】

・前段の個人の尊重を受けて、後段で生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利を立法その他国政の上で、最大の尊重を必要と規定し、ヴァージニア権利章典・アメリカ独立宣言と同じ系譜に連なるものである。

・幸福「追求」としているのは、幸福の内容自体は個々人が決定することで、そのような幸福を追求する条件・手段に関する規定を設けるべきとの考え方に基づいている。

・初期の学説では、13条で具体的権利性を認めてこなかった。

・しかし、1960年以降の激しい社会経済の変動により生じた諸問題等に法的に対応する必要性が高まり、個人尊重の原理に基づく幸福追求権を新しい人権の根拠と解する考え方が発展した。「新しい人権」とは、一般的自由を解する見解もあるが、人権のインフレ化を防ぎ、個人主義・幸福追求の条件・手段を設ける前段の性質から、「自律的な個人が人格的に生存するために不可欠と考えらえる不可欠と考えられる基本的な権利・自由として保護に値する法的利益」と解する。

 

【公共の福祉】

・日本国憲法は、各人権に個別的な制限の根拠・程度を規定せずに、「公共の福祉」による制約が存する旨の一般的に定める方式をとる。

・「公共の福祉」については、かつては抽象的な「公益」「公共の安寧秩序」と解して、法律の留保と同レベルで、権利制限を根拠と課す考え方も存在した。しかし、個人の尊厳を基礎とした人権を制約するためには、具体的な制約根拠が必要である。

・そこで、「公共の福祉」とは人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的衡平の原理と解され、人権すべての論理必然的に内在する性質のもので、権利の性質に応じて具体的な権利の制約根拠をもっての程度が異なるとされる。

・内在的制約とは、他人の生命・健康を害してはならない・他人の人間としての尊厳を気づ着けてはならない・他人の人間と衝突する場合の相互調整の必要という観念から帰結される限界等と考えられる。しかし、内在的制約のその具体的意味・実質的な正当化根拠を示さないと、法律の留保と同じく抽象的な概念により制約として、個人の尊厳を害する結果となる点で注意が必要である。



第13条
個人の尊重
13条 個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉
13条 個人の尊重(1) ・最大判昭和23年3月24日・東京地判昭和39年9月28日・大阪高判昭和50年11月27日・札幌地裁平成9年3月27日
13条 個人の尊重(2)山口地裁下関支部平成10年4月27日
個人の尊重(3)・東京高裁平成11年8月30日
個人の尊重(4)最判平成12年2月29日 エホバの証人・宗教的理由による輸血拒否訴訟
個人の尊重(5-1) 【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(1)
個人の尊重(5-2) 【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(2)
個人の尊重(5-3)【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(3)
個人の尊重(5-4)【熊本地裁平成13年5月11日(ハンセン病訴訟事件)】(4)

幸福追求権・新しい人権
幸福追求権(1)・最大判昭和25年11月22日・最大判昭和45年9月16日・喫煙禁止訴訟・最判平成15年12月11日・ストーカー規制法

新しい人権 【最大判昭和44年12月24日 京都府学連事件】【最大判昭和61年6月11日 北方ジャーナル事件】【最判平成7年12月15日 指紋押捺制度の合憲性】

プライバシー権
プライバシー権(1)東京地判昭和39年9月28日 宴のあと事件・東京高決昭和45年4月13日 エロス+虐殺事件・最判昭和56年4月14日 前科照会事件
プライバシー権(2) 最判平成6年2月8日・ノンフィクション逆転事件・最判昭和63年7月15日 麹町中学校内申書事件
ライバシー権(3)最判平成15年9月12日・早稲田大学江沢講演会名簿提出事件・最判平成15年3月14日 長良川リンチ殺人事件報道訴訟
プライバシー権(4-1)最判平成20年3月6日・住基ネット訴訟・高裁の判断
プライバシー権(4-2)最判平成20年3月6日・住基ネット訴訟・最高裁の判断
プライバシー権(5)最判平成13年12月18日 レセプト情報公開請求事件・最判昭和63年12月20日 囚われの聴衆 伊藤正巳補足意見
プライバシー権(6)最判平成14年9月24日 石に泳ぐ魚
プライバシー権(7)・大阪高裁平成12年2月29日 堺通り魔殺人事件名誉毀損訴訟
プライバシー権(8)・東京高裁平成13年7月18日
プライバシー権(9) 指紋押捺 最判平成9年11月17日 再入国不許可処分取消等請求
プライバシー権(10)東京地裁平成5年11月19日・大阪高裁平成11年11月25日
プライバシー権(11)東京高裁平成12年10月25日・最判平成7年9月5日

自己決定権
自己決定権 最判平成8年7月18日修徳高校パーマ退学訴訟等

人格権
人格権 最大判昭和44年12月24日 京都府学連事件等

肖像権
肖像権 最判平成17年11月10日等

環境権
環境権(1) 最判平成18年3月30日
環境権(2) 大阪高裁昭和50年11月27日・大阪国際空港公害訴訟鹿児島地裁昭和47年5月19日
環境権(3)最大昭和56年12月16日・金沢地裁平成3年3月13日・小松基地騒音差止請求等
環境権(4)女川原発訴訟・仙台地裁平成6年1月31日・仙台高裁平成11年3月31日
環境権(5)長良川河口堰建設差止訴訟・古屋高裁平成10年12月17日・岐阜地裁6年7月20日

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