13条 個人の尊重(1) ・最大判昭和23年3月24日・東京地判昭和39年9月28日・大阪高判昭和50年11月27日・札幌地裁平成9年3月27日
最大判昭和23年3月24日
要旨
憲法第一三條は、個人の尊嚴と人格の尊重を宣告したもの
判旨
憲法第十三条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定されている。この規定は、個人の尊厳と人格の尊重を宣言したものであることは勿論であるが、個人の生命、自由、権利も、社会生活の正しい秩序、共同の幸福が保持されない限り、所詮それは砂上の楼閣に終るしかないのである。されば同条には「公共の福祉に反しない限り」との大きな枠をつけており、また他方において憲法第三十一条においては、社会秩序保持のため必要とされる国家の正当なる刑罰権の行使を是認しているのである。されば、被告人が現時国民に非常なる害悪を与え国民憎悪の的である掏摸を行つたことに対し、原審が諸般の事情を考慮して、実刑を科する判決を言渡したことは、事実審である原審の自由裁量権に属することであつて、これをもつて憲法違反乃至違法であると言うことはできない。従つて論旨は理由なきものである。
東京地判昭和39年9月28日
要旨
いわゆるプライバシー権は私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利として理解されるから、その侵害に対しては侵害行為の差し止めや精神的苦痛による損害賠償請求権が認められるべきものであり、民法第七〇九条による損害賠償の原由となる。
判旨
近代法の根本理念の一つであり、また日本国憲法のよつて立つところでもある個人の尊厳という思想は、相互の人格が尊重され、不当な干渉から自我が保護されることによつてはじめて確実なものとなるのであつて、そのためには、正当な理由がなく他人の私事を公開することが許されてはならないことは言うまでもないところである。このことの片鱗はすでに成文法上にも明示されているところであつて、たとえば他人の住居を正当な理由がないのにひそかにのぞき見る行為は犯罪とせられており(軽犯罪法一条一項二三号)その目的とするところが私生活の場所的根拠である住居の保護を通じてプライバシーの保障を図るにあることは明らかであり、また民法二三五条一項が相隣地の観望について一定の規制を設けたところも帰するところ他人の私生活をみだりにのぞき見ることを禁ずる趣旨にあることは言うまでもないし、このほか刑法一三条の信書開披罪なども同じくプライバシーの保護に資する規定であると解せられるのである。
・大阪高判昭和50年11月27日 大阪国際空港公害訴訟事件
要旨
個人の生命・身体の安全、精神的自由は、人間の存在に最も基本的なことがらであつて、法律上絶対的に保護されるべきものであり、憲法13条、25条もこれを裏付けるものである。そしてその総体を人格権ということができ、何人もこれをみだりに侵害することは許されず、その侵害に対してはこれを排除する機能が認められなければならない。また、人格権にもとづく差止請求を認容した場合、環境権理論の当否について判断する要はない。
判旨
およそ、個人の生命・身体の安全、精神的自由は、人間の存在に最も基本的なことがらであつて、法律上絶対的に保護されるべきものであることは疑いがなく、また、人間として生存する以上、平穏、自由で人間たる尊厳にふさわしい生活を営むことも、最大限度尊重されるべきものであつて、憲法一三条はその趣旨に立脚するものであり、同二五条も反面からこれを裏付けているものと解することができる。このような、個人の生命、身体、精神および生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであつて、その総体を人格権ということができ、このような人格権は何人もみだりにこれを侵害することは許されず、その侵害に対してはこれを排除する権能が認められなければならない。すなわち、人は、疾病をもたらす等の身体侵害行為に対してはもとより、著しい精神的苦痛を被らせあるいは著しい生活上の妨害を来たす行為に対しても、その侵害行為の排除を求めることができ、また、その被害が現実化していなくともその危険が切迫している場合には、あらかじめ侵害行為の禁止を求めることができるものと解すべきであつて、このような人格権に基づく妨害排除および妨害予防請求権が私法上の差止請求の根拠となりうるものということができる。
被告は、このような差止請求の根拠としての人格権には実定法上の根拠を欠くと主張するが、右のとおり人格権の内容をなす利益は人間として生存する以上当然に認められるべき本質的なものであつて、これを権利として構成するのに何らの妨げはなく、実定法の規定をまたなくとも当然に承認されるべき基本的権利であるというべきである。また、従来人格権の語をもつて名誉、肖像、プライバシーあるいは著作権等の保護が論ぜられることが多かつたとしても、それは、人格的利益のそのような面について、他人の行為の自由との牴触およびその調整がとくに問題とされることが多かつたことを意味するにすぎず、より根源的な人格的利益をも総合して、人格権を構成することには、何ら支障とならないものと解される。もつとも、人格権の外延をただちに抽象的、一義的に確定することが困難であるとしても、少なくとも前記のような基本的な法益をその内容とするものとして人格権の概念を把握することができ、他方このような法益に対する侵害は物権的請求権をもつてしては救済を完うしえない場合があることも否定しがたく、差止請求の根拠として人格権を承認する実益も認められるのであつて、学説による体系化、類型化をまたなくてはこれを裁判上採用しえないとする被告の主張は、とりえないところである。
・札幌地裁平成9年3月27日
要旨
少数民族が民族固有の文化を享有する権利は憲法一三条により保障されるとした事例
判旨
憲法一三条は、すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定する。この規定は、その文言及び歴史的由来に照らし、国家と個人との関係において個人に究極の価値を求め、国家が国政の態度において、構成員としての国民各個人の人格的価値を承認するという個人主義、民主主義の原理を表明したものであるが、これは、各個人の置かれた条件が、性別・能力・年齢・財産等種々の点においてそれぞれ異なることからも明らかなように、多様であり、このような多様性ないし相異を前提として、相異する個人を、形式的な意味ではなく実質的に尊重し、社会の一場面において弱い立場にある者に対して、その場面において強い立場にある者がおごることなく謙虚にその弱者をいたわり、多様な社会を構成し維持して全体として発展し、幸福等を追求しようとしたものにほかならない。このことを支配的多数民族とこれに属しない少数民族との関係においてみてみると、えてして多数民族は、多数であるが故に少数民族の利益を無視ないし忘れがちであり、殊にこの利益が多数民族の一般的な価値観から推し量ることが難しい少数民族独自の文化にかかわるときはその傾向は強くなりがちである。少数民族にとって民族固有の文化は、多数民族に同化せず、その民族性を維持する本質的なものであるから、その民族に属する個人にとって、民族固有の文化を享有する権利は、自己の人格的生存に必要な権利ともいい得る重要なものであって、これを保障することは、個人を実質的に尊重することに当たるとともに、多数者が社会的弱者についてその立場を理解し尊重しようとする民主主義の理念にかなうものと考えられる。
また、このように解することは、前記B規約成立の経緯及び同規約を受けて更にその後一層少数民族の主体的平等性を確保し同一国家内における多数民族との共存を可能にしようとして、これを試みる国際連合はじめその他の国際社会の潮流(甲四一ないし四六、証人相内)に合致するものといえる。
そうとすれば、原告らは、憲法一三条により、その属する少数民族たるアイヌ民族固有の文化を享有する権利を保障されていると解することができる。
もっとも、このような権利といえども公共の福祉による制限を受けることは憲法一三条自ら定めているところであるが、その人権の性質に照らして、その制限は必要最小限度に留められなければならないものである。
(二)アイヌ民族の先住性
B規約二七条は「少数民族」とのみ規定しているから、民族固有の文化を享有する権利の保障を考えるについては、その民族の先住性は要件ではないが、少数民族が、一地域に多数民族の支配が及ぶ以前から居住して文化を有し、多数民族の支配が及んだ後も、民族固有の文化を保持しているとき、このような少数民族の固有の文化については、多数民族の支配する地域にその支配を了承して居住するに至った少数民族の場合以上に配慮を要することは当然であるといわなければならないし、このことは国際的に、先住民族に対し、土地、資源及び政治等についての自決権であるいわゆる先住権まで認めるか否かはともかく、先住民族の文化、生活様式、伝統的儀式、慣習等を尊重すべきであるとする考え方や動きが強まっていること(甲四五、四六、証人相内)からも明らかである。
(1)アイヌ民族の先住性について検討することとするが、その前日として先住民族の定義について考えたい。そもそも「先住民族」の概念自体統一されたものはなく(証人相内)、これを定義づけることの相当性について疑問がないわけではないが(一口に先住民族であるとはいっても、その民族が属する国家により、その民族が現在置かれている状況、歴史的経緯等が異なり、そうである以上共通に理解することができないことは当然である。)、本訴においては、被侵害利益であるアイヌ文化の重要性、その文化を享有する権利の保障の程度等を検討することが必要であり、そのためにはアイヌ民族の先住性に言及することか不可避であるといわざるを用ないと考えるから、本訴において必要な限度で定義つけることとする。
証拠(甲四二、四三の二・三、四四ないし四六、証人相内)及び弁論の趣旨を総合して考えるに、先住民族とは、歴史的に国家の統治が及ぶ前にその統治に取り込まれた地域に、国家の支持母体である多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ少数民族が居住していて、その後右の多数民族の支配を受けながらも、なお従前と連続性のある独自の文化及びアイデンティティを喪失していない社会的集団であるということができる。
(2)次に、アイヌ民族が右にいう先住民族であるかどうかについて、考察することとするが、アイヌ民族が文字を持たない民族であることは前述のとおりであり、そのため右のような先住性を証する上で役立つアイヌ民族の手による歴史文書等がなく、アイヌ民族がアイヌ民族としての社会集団を構成して北海道あるいは本州の北部にいつごろから定住し始めたのかは、本件全証拠によっても明らかではない。ここでは主にアイヌ民族以外の日本人(原告らの用法に従って、以下「和人」という。)の手によって記された中世及び近世のアイヌ民族に関する文献等を主たる証拠資料として右の意味での先住性を判断することとする。
証拠(甲五、一九の一・二・三の一・四ないし六・八・一二・一三、証人田端)及び弁論の全趣旨を総合すれば、鎌倉時代の末期ころまでには、北海道に居住するアイヌ民族と和人の交易商人との間で、北海道の特産品である魚類や獣類と和人の物を物々交換する形で、北海道におけるアイヌ民族と和人との交易による接触は始まっていたこと、一五世紀の半ばころは、和人の中小の豪族が函館等の道南を中心に北海道に居住するようになっていたが、右豪族間あるいは右豪族とアイヌ民族の間で争い事等が繰り返されていたこと(たとえば、康正二年(西暦(以下省略)一四五六年)のコシャマインの戦い)、一六世紀の中ころには、松前藩の前身である蠣崎家と松前地方のアイヌ民族との間に「夷狄の商船往還の法度」という交易秩序の維持のための御法度が定められたが、そのころのアイヌ民族と和人との交易形態は、北海道の各地の居住先からアイヌの人々が松前付近に出て来て、和人の商人が本州からそこへ集まり物々交換をするというものであったこと、慶長九年(一六〇四年)には、松前藩は、江戸幕府による幕藩休制の下に入り、同藩は、その家臣らに対し知行地として商場(交易をする場所)を与え、アイヌ民族と交易をさせ、それから生じる利益に関税を掛けることなどにより、藩の財政基盤を確保していたこと、そのころは和人は北海道内の自由通行を認められていなかったが、アイヌ民族には許されていたこと、寛文九年(一六六九年)、和人とアイヌ民族が関係するシャクシャインの戦いが起こったこと、遅くとも一八世紀半ばころには、和人の商人は、松前藩から近い地域において、独占的に漁場を経営したり、対アイヌ交易を行ったりする請負場所を設定し、その請負場所において、漁猟生産の労働力としてアイヌ民族を使い始めたこと、一八世紀の終わりころにはその地域が北海道東部にまで及び、その請負場所において、和人によるアイヌの人々の酷使が原因となって、和人とアイヌ民族との争い事が発生していること(寛政元年(一七八九年)のクナシリ・メナシの戦い)、幕末期には、沙流川周辺においては山田文右衛門という和人が沙流場所(現在の苫小牧市から静内町にかけての漁場)を請け負い、右山田はアイヌの人々の主要な働き手を厚岸等の請負場所まで出稼ぎとして連れて行き、これを酷使していたこと、地域によっては家ぐるみで別の場所に移転させられたこと、安政五年(一八五八年)、北海道(蝦夷地)の調査をしていた松浦武史郎が二風谷地域を訪れ、同地域に居住するアイヌの人々の人数、年齢、生活の状況などを記録していること、松前藩は和人とアイヌの人々を完全に分離し、交易等を通じた接触に止める政策をとったため、アイヌの人々は民族として和人とは異なる文化、伝統を維持し得たこと、江戸幕府は、北海道の地に対するロシア勢力の進出を危惧していたことなどから、一八世紀後半から一九世紀半ばころまでの間、アイヌ民族を和人化させるためにアイヌ民族に日本語を使用させることや米を食べさせるようにすることなどのいわゆる同化政策を何度か打ち出したが、アイヌ民族の強い反発などから、結局、右政策は貫徹されなかったことが認められる。
右認定事実に弁論の全趣旨を総合すれば、江戸時代に幕藩体制下の松前藩による統治が開始される以前に、二風谷地域をはじめ北海道には、アイヌ民族が先住していた地域が数多く存在しており、その後も、松前藩による北海道の統治は全域に及ぶものではなく、アイヌ民族は、幕藩体制の下で大きな政治的、経済的影響を受けつつも独自の社会生活を継続し、文化の享有を維持しながら北海道の各地に居住していたことが認められ、その後、後記(四)認定のとおり、アイヌ民族に対し採られた諸政策等により、アイヌ民族独自の文化、生活様式等が相当程度衰退することになったことが認められる。
しかしながら、証拠(甲四七、証人大塚、原告ら)によれば、現在アイヌの人々は、我が国の一般社会の中で言語面でも、文化面でも他の構成員とほとんど変わらない生活を営んでおり、独自の言語を話せる人も極めて限られているものの、民族としての帰属意識や民族的な誇りの下に、個々人として、あるいはアイヌの人々の民族的権利の回復と地位向上を図るための団体活動を通じて、アイヌ民具の収集、保存、博物館の開設、アイヌ語の普及、アイヌ語辞典の編さん、アイヌ民族の昔話の書物化、アイヌ文化に関する講演等を行い、アイヌ語や伝統文化の保持、継承に努力し、その努力が実を結んでいることが認められる。
(3)以上認定した事実を総合すれば、アイヌの人々は我が国の統治が及ぶ前から主として北海道において居住し、独自の文化を形成し、またアイデンティティを有しており、これが我が国の統治に取り込まれた後もその多数構成員の採った政策等により、経済的、社会的に大きな打撃を受けつつも、なお独自の文化及びアイデンティティを喪失していない社会的な集団であるということができるから、前記のとおり定義づけた「先住民族」に該当するというべきである。