憲法重要判例六法F

憲法についての条文・重要判例まとめ

タグ:思想及び良心の自由

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【最判昭和63年2月5日  東京電力塩山営業所事件】

要旨

営業所長が、女子職員に対し、共産党員か否かを問い質し、かつ、共産党員でない旨を書面にして提出するよう求めた行為は、相当とはいい難い面もあるが、右職員の精神的自由を侵害した違法行為であるとまでは言えないとされた例

 

判旨

一 原審の確定した事実関係は、おおむね次のとおりである。

1 被上告人東京電力株式会社塩山営業所(以下「本件営業所」という。)の公開されるべきでないとされている情報が、ひそかに外部に漏れて日本共産党(以下「共産党」という。)の機関紙「赤旗」の昭和四八年一二月二八日付け紙上に報道されたことから、当時、本件営業所の所長であった第一審被告・控訴人亡齊藤忠司(昭和六二年三月二九日死亡により、被上告人齋藤恵美子、同齋藤肇、同中野節子、同河島久枝が本訴を承継した。以下「亡齋藤」という。)は、本件営業所の責任者として右報道記事の取材源につき調査の必要を認め、本件営業所の従業員の中でかねてから共産党の党員ないしその同調者であると噂の高かった訴外名取純一又は上告人以外に他に右取材源となる者はいないとの判断に基づいて、まず名取から昭和四九年一月二五日に事情を聴取し、次いで同年二月一五日に上告人から事情を聴取することにした。

2 亡齊藤は、同日午前八時五〇分ころ、上告人を本件営業所の応接室に呼び、二人だけで約一時間にわたる話合い(以下「本件話合い」という。)をし、その比較的冒頭の段階で、上告人が共産党員であるかどうかを尋ねた(以下この質問を「本件質問」という。)が、これに対し上告人は、共産党員ではない旨の返答をした。そこで、亡齋藤は、さらに、上告人に対して上告人が共産党員ではない旨を書面にしたためることを求めた(以下この要求を「本件書面交付の要求」という。)ところ、上告人は右要求を断る態度に出た。しかし、亡齋藤は、右書面を作成することの必要性などをいろいろ説いて右要求に応じさせようと、再三にわたり話題を変えて上告人の説得に努め、本件書面交付の要求を繰り返したが、上告人はこれを拒否して退室した。なお、本件質問及び本件書面交付の要求には強要にわたるところがなく、また、本件話合いの中で、亡齋藤が、上告人が本件書面交付の要求を拒否することによって不利益な取扱いを受ける虞のあることを示唆し、あるいは上告人が右要求に応じることによって有利な取扱いを受け得る旨の発言をした事実はなかった。

 

二 右事実関係によれば、亡齋藤が本件話合いをするに至った動機、目的は、本件営業所の公開されるべきでないとされていた情報が外部に漏れ、共産党の機関紙「赤旗」紙上に報道されたことから、当時、本件営業所の所長であった亡齋藤が、その取材源ではないかと疑われていた上告人から事情を聴取することにあり、本件話合いは企業秘密の漏えいという企業秩序違反行為の調査をするために行われたことが明らかであるから、亡齋藤が本件話合いを持つに至ったことの必要性、合理性は、これを肯認することができる。右事実関係によれば、亡齋藤は、本件話合いの比較的冒頭の段階で、上告人に対し本件質問をしたのであるが、右調査目的との関連性を明らかにしないで、上告人に対して共産党員であるか否かを尋ねたことは、調査の方法として、その相当性に欠ける面があるものの、前記赤旗の記事の取材源ではないかと疑われていた上告人に対し、共産党との係わりの有無を尋ねることには、その必要性、合理性を肯認することができないわけではなく、また、本件質問の態様は、返答を強要するものではなかったというのであるから、本件質問は、社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるとはいえない。さらに、前記事実関係によれば、本件話合いの中で、上告人が本件質問に対し共産党員ではない旨の返答をしたところ、亡齋藤は上告人に対し本件書面交付の要求を繰り返したというのであるが、企業内においても労働者の思想、信条等の精神的自由は十分尊重されるべきであることにかんがみると、亡齋藤が、本件書面交付の要求と右調査目的との関連性を明らかにしないで、右要求を繰り返したことは、このような調査に当たる者として慎重な配慮を欠いたものというべきであり、調査方法として不相当な面があるといわざるを得ない。

しかしながら、前記事実関係によれば、本件書面交付の要求は、上告人が共産党員ではない旨の返答をしたことから、亡齋藤がその旨を書面にするように説得するに至ったものであり、右要求は、強要にわたるものではなく、また、本件話合いの中で、亡齋藤が、上告人に対し、上告人が本件書面交付の要求を拒否することによって不利益な取扱いを受ける虞のあることを示唆したり、右要求に応じることによって有利な取扱いを受け得る旨の発言をした事実はなく、さらに、上告人は右要求を拒否した、というのであって、右事実関係に照らすと、亡齋藤がした本件書面交付の要求は、社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるということはできない

 したがって、右確定事実の下において上告人につき所論の不法行為に基づく損害賠償請求権が認められないとした原審の判断は、これを正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、右違法があることを前提とする所論憲法及び国際人権規約違反の主張は、失当である。論旨は、ひっきょう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は原判決を正解しないでその不当をいうものにすぎず、採用することができない。

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【最判昭和63年7月15日 麹町中学校内申書事件】

要旨

学校教育法施行規則五四条の三に基づく調査書(高校入試の際のいわゆる内申書)の記載は、生徒の思想信条の自由や表現の自由を侵害するものではない。

 

判旨

2 上告理由第一点のうち、原判決が学校教育法施行規則五四条の三に規定する調査書(以下「調査書」という。)として送付された本件調査書には、上告人の思想、信条にわたる事項又はそれと密接な関連を有する上告人の外部的行動を記載し、思想、信条を高等学校の入学者選抜の資料に供したことを違法でないとしたのは、教育基本法三条一項、憲法一九条に違反するものとする点について

本件調査書の備考欄及び特記事項欄にはおおむね「校内において麹町中全共闘を名乗り、機関紙『砦』を発行した。学校文化祭の際、文化祭粉砕を叫んで他校生徒と共に校内に乱入し、ビラまきを行つた。大学生ML派の集会に参加している。学校側の指導説得をきかないで、ビラを配つたり、落書をした。」との記載が、欠席の主な理由欄には「風邪、発熱、集会又はデモに参加して疲労のため」という趣旨の記載がされていたというのであるが、右のいずれの記載も、上告人の思想、信条そのものを記載したものでないことは明らかであり、右の記載に係る外部的行為によつては上告人の思想、信条を了知し得るものではないし、また、上告人の思想、信条自体を高等学校の入学者選抜の資料に供したものとは到底解することができないから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、採用できない

 なお、調査書は、学校教育法施行規則五九条一項の規定により学力検査の成績等と共に入学者の選抜の資料とされ、その選抜に基づいて高等学校の入学が許可されるものであることにかんがみれば、その選抜の資料の一とされる目的に適合するよう生徒の学力はもちろんその性格、行動に関しても、それを把握し得る客観的事実を公正に調査書に記載すべきであつて、本件調査書の備考欄等の記載も右の客観的事実を記載たものであることは、原判決の適法に確定したところであるから、所論の理由のないことは明らかである。

3 上告理由第一点のうち、調査書の制度が生徒の思想、信条に関する事項を評定の対象として調査書にその記載を許すものとすれば、調査書の制度自体が憲法一九条に違反するものとする点については、原判決の認定しない事実関係を前提とする仮定的主張であるから、到底採用することができない。

4 上告理由第一点のうち、原判決が、公立中学校の生徒には表現の自由の保障があるのに、その内在的制約の基準を明示せず、何の理由も付さずに、上告人が校内の秩序に害のある行動に及んだと認定したのは、理由不備の違法があるものとする点については、原判決は、適法詳細に認定した事実、すなわち、上告人が生徒会規則に違反し、再三にわたり学校当局の許可を得ないでビラ等を配付したこと、学校文化祭当日他校の生徒を含め一〇名の中学生と共にヘルメットをかぶり、覆面をして裏側通用門を乗り越え校内に立ち入つて、校舎屋上からビラをまき、シュプレヒコールをしながら校庭一周のデモ行進をしたこと、校舎壁面や教室窓枠、ロッカー等に落書をしたこと等の事実をもつて、「生徒会規則に違反し、校内の秩序に害のあるような行動に及んで来た場合」であると判断しているのであつて、何ら理由不備の点はなく、また表現の自由の内在的制約の基準を明示的に判示していないが、表現の自由といえども右のような行為を許容するものでないことを前提として判断していることは明らかであるから、所論は採用できない。

5 上告理由第一点のうち、本件調査書の備考欄等に記載された上告人の行動は、いずれも思想、信条又は表現の自由の保障された範囲の行動であるのに、これをマイナス評価の対象として本件調査書に記載したものであるところ、上告人の思想、信条又はこれにかかわる右の行動をマイナス評価の対象とすることを違法でないとした原判決の判断は、憲法一九条、二一条に違反するものとする点について

() 憲法一九条違反の主張については、所論はその前提を欠き採用できないものであることは、前記一の2において判示したとおりである。

() 憲法二一条違反の主張について

 原判決の適法に認定したところによると、本件中学校においては、学校当局の許可を受けないで校内においてビラ等の文書を配付すること等を禁止する旨を規定した生徒会規則が存在し、本件調査書の備考欄等の記載事項中、上告人が麹町中全共闘を名乗つて機関紙「砦」を発行したこと、学校文化祭の際ビラまきを行つたこと、ビラを配付したり落書をしたことの行為がいずれも学校当局の許可なくしてされたものであることは、本件調査書に記載されたところから明らかである。

 表現の自由といえども公共の福祉によつて制約を受けるものであるが(最高裁昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日大法廷判決・民集三八巻一二号一三〇八頁参照)、前記の上告人の行為は、原審の適法に確定したところによれば、いずれも中学校における学習とは全く関係のないものというのであり、かかるビラ等の文書の配付及び落書を自由とすることは、中学校における教育環境に悪影響を及ぼし、学習効果の減殺等学習効果をあげる上において放置できない弊害を発生させる相当の蓋然性があるものということができるのであるから、かかる弊害を未然に防止するため、右のような行為をしないよう指導説得することはもちろん、前記生徒会規則において生徒の校内における文書の配付を学校当局の許可にかからしめ、その許可のない文書の配付を禁止することは、必要かつ合理的な範囲の制約であつて、憲法二一条に違反するものでないことは、当裁判所昭和五二年(オ)第九二七号同五八年六月二二日大法廷判決(民集三七巻五号七九三頁)の趣旨に徴して明らかである。したがつて、仮に、義務教育課程にある中学生について一般人と同様の表現の自由があるものとしても、前記一の2において説示したとおり、調査書には、入学者の選抜の資料の一とされる目的に適合するよう生徒の性格、行動に関しても、これを把握し得る客観的事実を公正に記載すべきものである以上、上告人の右生徒会規則に違反する前記行為及び大学生ML派の集会の参加行為をいずれも上告人の性格、行動を把握し得る客観的事実としてこれらを本件調査書に記載し、入学者選抜の資料に供したからといつて、上告人の表現の自由を侵し又は違法に制約するものとすることはできず、所論は採用できない。

 二 上告理由第二点について

 所論は、教師が教育関係において得た生徒の思想、信条、表現行為及び信仰に関する情報は、調査書に記載することによつて志望高等学校に開示することができないものであるにもかかわらず、この情報の本件調査書の記載を適法とした原判決は、憲法二六条、一三条に違反する旨を主張するのであるが、本件調査書の備考欄等の記載は、上告人の思想、信条そのものの記載でもなく、外部的行為の記載も上告人の思想、信条を了知させ、また、それを評価の対象とするものとはみられないのみならず、その記載に係る行為は、いずれも調査書に記載して入学者の選抜の資料として適法に記載し得るものであるから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、採用できない。

 また、所論の憲法二六条のほか一三条違反をも主張する趣旨が本件調査書の記載が教育上のプライバシーの権利を侵害するものであるとするならば、本件調査書の記載による情報の開示は、入学者選抜に関係する特定小範囲の人に対するものであつて、情報の公開には該当しないから、本件調査書の記載が情報の公開に該当するものとして憲法一三条違反をいう所論は、その前提を欠き、採用することができない。

思想良心の自由(3-2)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官那須弘平の補足意見】

憲法目次

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思想良心の自由(3-1)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】
思想良心の自由(3-2)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官那須弘平の補足意見】
思想良心の自由(3-3)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官藤田宙靖の反対意見】

【裁判官那須弘平の補足意見】は,次のとおりである。

私は,本件職務命令が憲法19条に違反しないとする多数意見にくみするものであるが,その理由とするところについては,以下のとおり若干の補足をする必要があると考える。

学校の儀式的行事において国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは,一般的には上告人の有する「君が代」に関する特定の歴史観ないし世界観と不可分に結び付くものということはできず,国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする職務命令を発しても,その歴史観ないし世界観を否定することにはならないこと(理由3(1)),客観的に見ても,入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をするという行為自体は,音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであって,その伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することが困難であること(同3(2))は,多数意見のとおりである。

しかし,本件の核心問題は,「一般的」あるいは「客観的」には上記のとおりであるとしても,上告人の場合はこれが当てはまらないと上告人自身が考える点にある。上告人の立場からすると,職務命令により入学式における「君が代」のピアノ伴奏を強制されることは,上告人の前記歴史観や世界観を否定されることであり,さらに特定の思想を有することを外部に表明する行為と評価され得ることにもなるものではないかと思われる。この点,本件で問題とされているピアノ伴奏は,外形的な手足の作動だけでこれを行うことは困難であって,伴奏者が内面に有する音楽的な感覚・感情や知識・技能の働きを動員することによってはじめて演奏可能となり,意味のあるものになると考えられる。上告人のような信念を有する人々が学校の儀式的行事において信念に反して「君が代」のピアノ伴奏を強制されることは,演奏のために動員される上記のような音楽的な内心の働きと,そのような行動をすることに反発し演奏をしたくない,できればやめたいという心情との間に心理的な矛盾・葛藤を引き起こし,結果として伴奏者に精神的苦痛を与えることがあることも,容易に理解できることである。

本件職務命令は,上告人に対し上述の意味で心理的な矛盾・葛藤を生じさせる点で,同人が有する思想及び良心の自由との間に一定の緊張関係を惹起させ,ひいては思想及び良心の自由に対する制約の問題を生じさせる可能性がある。したがって,本件職務命令と「思想及び良心」との関係を論じるについては,上告人が上記のような心理的矛盾・葛藤や精神的苦痛にさいなまれる事態が生じる可能性があることを前提として,これをなぜ甘受しなければならないのかということについて敷えんして述べる必要があると考える。

上記の点について,多数意見が挙げる憲法15条2項(「全体の奉仕者」),地方公務員法30条(「全体の奉仕者」として「公共の利益」のために勤務),32条(法令等及び上司の職務上の命令に従う義務)等の規定と,上告人のような「君が代」斉唱に批判的な信念を持つ教師の思想・良心の自由との関係については,以下のとおり理解することができる。

第1に,入学式におけるピアノ伴奏は,一方において演奏者の内心の自由たる「思想及び良心」の問題に深く関わる内面性を持つと同時に,他方で入学式の進行において参列者の国歌斉唱を補助し誘導するという外部性をも有する行為である。その内面性に着目すれば,演奏者の「思想及び良心の自由」の保障の対象に含まれ得るが,外部性に着目すれば学校行事の一環としての「君が代」斉唱をより円滑かつ効果的なものにするに必要な行為にほかならず,音楽専科の教諭の職務の一つとして校長の職務命令の対象となり得る性質のものである。このような両面性を持った行為が,「思想及び良心の自由」を理由にして,学校行事という重要な教育活動の場から事実上排除されたり,あるいは各教師の個人的な裁量にゆだねられたりするのでは,学校教育の均質性や組織としての学校の秩序を維持する上で深刻な問題を引き起こし,ひいては良質な教育活動の実現にも影響を与えかねない。

なお,学校の教師は専門的な知識と技能を有し,高い見識を備えた専門性を有するものではあるが,個別具体的な教育活動がすべて教師の専門性に依拠して各教師の裁量にゆだねられるということでは,学校教育は成り立たない面がある。少なくとも,入学式等の学校行事については,学校単位での統一的な意思決定とこれに準拠した整然たる活動(必ずしも参加者の画一的・一律の行動を要求するものではないが,少なくとも無秩序に流れることにより学校行事の意義を損ねることのない態様のものであること)が必要とされる面があって,学校行事に関する校長の教職員に対する職務命令を含む監督権もこの目的に資するところが大きい。

第2に,入学式における「君が代」の斉唱については,学校は消極的な意見を有する人々の立場にも相応の配慮を怠るべきではないが,他方で斉唱することに積極的な意義を見いだす人々の立場をも十分に尊重する必要がある。そのような多元的な価値の併存を可能とするような運営をすることが学校としては最も望ましいことであり,これが「全体の奉仕者」としての公務員の本質(憲法15条2項)にも合致し,また「公の性質」を有する学校における「全体の奉仕者」としての教員の在り方(平成18年法律第120号による全部改正前の教育基本法6条1項及び2項)にも調和するものであることは明らかである。

他面において,学校行事としての教育活動を適時・適切に実践する必要上,上記のような多元性の尊重だけではこと足りず,学校としての統一的な意思決定と,その確実な遂行が必要な場合も少なくなく,この場合には,校長の監督権(学校教育法28条3項)や,公務員が上司の職務上の命令に従う義務(地方公務員法32条)の規定に基づく校長の指導力が重要な役割を果たすことになる。そこで,前記のような両面性を持った行為についても,行事の目的を達成するために必要な範囲内では,学校単位での統一性を重視し,校長の裁量による統一的な意思決定に服させることも「思想及び良心の自由」との関係で許されると解する

本件職務命令は,小学校における入学式に際し,その式典の一環として従前の例に従い「君が代」を斉唱することを学校の方針として決定し,これを実施するために発せられたものである。そして,入学式において,「君が代」を斉唱させることが義務的なものかどうかについてはともかく,少なくとも本件当時における市立小学校においては,学校現場の責任者である校長が最終的な裁量権を行使して斉唱を行うことを決定することまで否定することは,上記校長の権限との関係から見ても,困難である。そうしてみると,学校が組織として国歌斉唱を行うことを決めたからには,これを効果的に実施するために音楽専科の教諭に伴奏させることは極めて合理的な選択であり,その反面として,これに代わる措置としてのテープ演奏では,伴奏の必要性を十分に満たすものとはいえないことから,指示を受けた教諭が任意に伴奏を行わない場合に職務命令によって職務上の義務としてこれを行わせる形を採ることも,必要な措置として憲法上許されると解する。

この場合,職務命令を受けた教諭の中には,上告人と同様な理由で伴奏することに消極的な信条・信念を持つ者がいることも想定されるところであるが,そうであるからといって思想・良心の自由を理由にして職務命令を拒否することを許していては,職場の秩序が保持できないばかりか,子どもたちが入学式に参加し国歌を斉唱することを通じ新たに始まる学年に向けて気持ちを引き締め,学習意欲を高めるための格好の機会を奪ったり損ねたりすることにもなり,結果的に集団活動を通じ子どもたちが修得すべき教育上の諸利益を害することとなる。

入学式において「君が代」の斉唱を行うことに対する上告人の消極的な意見は,これが内面の信念にとどまる限り思想・良心の自由の観点から十分に保障されるべきものではあるが,この意見を他に押しつけたり,学校が組織として決定した斉唱を困難にさせたり,あるいは学校が定めた入学式の円滑な実施に支障を生じさせたりすることまでが認められるものではない

上告人は,子どもに「君が代」がアジア侵略で果たしてきた役割等の正確な歴史的事実を教えず,子どもの思想及び良心の自由を実質的に保障する措置を執らないまま,「君が代」を歌わせることは,教師としての職業的「思想・良心」に反するとも主張する。上告人の主張にかかる上記職業的な思想・良心も,それが内面における信念にとどまる限りは十二分に尊重されるべきであるが,学校教育の実践の場における問題としては,各教師には教育の専門家として一定の裁量権が認められるにしても,すべてが各教師の選択にゆだねられるものではなく,それぞれの学校という教育組織の中で法令に基づき採択された意思決定に従い,総合的統一的に整然と実施されなければ,教育効果の面で深刻な弊害が生じることも見やすい理である。殊に,入学式や卒業式等の行事は,通常教員が単独で担当する各クラス単位での授業と異なり,学校全体で実施するもので,その実施方法についても全校的に統一性をもって整然と実施される必要があり,本件職務命令もこの観点から事前にしかも複数回にわたって校長から上告人に発出されたものであった。したがって,A小学校において,入学式における国歌斉唱を行うことが組織として決定された後は,上記のような思想・良心を有する上告人もこれに協力する義務を負うに至ったというべきであり,本件職務命令はこの義務を更に明確に表明した措置であって,これを違憲,違法とする理由は見いだし難い。

 

思想良心の自由(3-3)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官藤田宙靖の反対意見】

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思想良心の自由(3-1)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】
思想良心の自由(3-2)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官那須弘平の補足意見】
思想良心の自由(3-3)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官藤田宙靖の反対意見】

【裁判官藤田宙靖の反対意見】は,次のとおりである。

私は,上告人に対し,その意に反して入学式における「君が代」斉唱のピアノ伴奏を命ずる校長の本件職務命令が,上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえないとする多数意見に対しては,なお疑問を抱くものであって,にわかに賛成することはできない。その理由は,以下のとおりである。

多数意見は,本件で問題とされる上告人の「思想及び良心」の内容を,上告人の有する「歴史観ないし世界観」(すなわち,「君が代」が過去において果たして来た役割に対する否定的評価)及びこれに由来する社会生活上の信念等であるととらえ,このような理解を前提とした上で,本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは,上告人にとっては,この歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが,一般的には,これと不可分に結び付くものということはできないとして,上告人に対して同伴奏を命じる本件職務命令が,直ちに,上告人のこの歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないとし,また,このようなピアノ伴奏を命じることが,上告人に対して,特定の思想を持つことを強制したり,特定の思想の有無について告白することを強要するものであるということはできないとする。これはすなわち,憲法19条によって保障される上告人の「思想及び良心」として,その中核に,「君が代」に対する否定的評価という「歴史観ないし世界観」自体を据えるとともに,入学式における「君が代」のピアノ伴奏の拒否は,その派生的ないし付随的行為であるものとしてとらえ,しかも,両者の間には(例えば,キリスト教の信仰と踏み絵とのように)後者を強いることが直ちに前者を否定することとなるような密接な関係は認められない,という考え方に立つものということができよう。しかし,私には,まず,本件における真の問題は,校長の職務命令によってピアノの伴奏を命じることが,上告人に「『君が代』に対する否定的評価」それ自体を禁じたり,あるいは一定の「歴史観ないし世界観」の有無についての告白を強要することになるかどうかというところにあるのではなく(上告人が,多数意見のいうような意味での「歴史観ないし世界観」を持っていること自体は,既に本人自身が明らかにしていることである。そして,「踏み絵」の場合のように,このような告白をしたからといって,そのこと自体によって,処罰されたり懲戒されたりする恐れがあるわけではない。),むしろ,入学式においてピアノ伴奏をすることは,自らの信条に照らし上告人にとって極めて苦痛なことであり,それにもかかわらずこれを強制することが許されるかどうかという点にこそあるように思われる。そうであるとすると,本件において問題とされるべき上告人の「思想及び良心」としては,このように「『君が代』が果たしてきた役割に対する否定的評価という歴史観ないし世界観それ自体」もさることながら,それに加えて更に,「『君が代』の斉唱をめぐり,学校の入学式のような公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って,また,このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」といった側面が含まれている可能性があるのであり,また,後者の側面こそが,本件では重要なのではないかと考える。そして,これが肯定されるとすれば,このような信念ないし信条がそれ自体として憲法による保護を受けるものとはいえないのか,すなわち,そのような信念・信条に反する行為(本件におけるピアノ伴奏は,まさにそのような行為であることになる。)を強制することが憲法違反とならないかどうかは,仮に多数意見の上記の考えを前提とするとしても,改めて検討する必要があるものといわなければならない。このことは,例えば,「君が代」を国歌として位置付けることには異論が無く,従って,例えばオリンピックにおいて優勝者が国歌演奏によって讃えられること自体については抵抗感が無くとも,一方で「君が代」に対する評価に関し国民の中に大きな分かれが現に存在する以上,公的儀式においてその斉唱を強制することについては,そのこと自体に対して強く反対するという考え方も有り得るし,また現にこのような考え方を採る者も少なからず存在するということからも,いえるところである。この考え方は,それ自体,上記の歴史観ないし世界観とは理論的には一応区別された一つの信念・信条であるということができ,このような信念・信条を抱く者に対して公的儀式における斉唱への協力を強制することが,当人の信念・信条そのものに対する直接的抑圧となることは,明白であるといわなければならない。そしてまた,こういった信念・信条が,例えば「およそ法秩序に従った行動をすべきではない」というような,国民一般に到底受け入れられないようなものであるのではなく,自由主義・個人主義の見地から,それなりに評価し得るものであることも,にわかに否定することはできない。本件における,上告人に対してピアノ伴奏を命じる職務命令と上告人の思想・良心の自由との関係については,こういった見地から更に慎重な検討が加えられるべきものと考える。

多数意見は,また,本件職務命令が憲法19条に違反するものではないことの理由として,憲法15条2項及び地方公務員法30条,32条等の規定を引き合いに出し,現行法上,公務員には法令及び上司の命令に忠実に従う義務があることを挙げている。ところで,公務員が全体の奉仕者であることから,その基本的人権にそれなりの内在的制約が伴うこと自体は,いうまでもなくこれを否定することができないが,ただ,逆に,「全体の奉仕者」であるということからして当然に,公務員はその基本的人権につき如何なる制限をも甘受すべきである,といったレヴェルの一般論により,具体的なケースにおける権利制限の可否を決めることができないことも,また明らかである。

本件の場合にも,ピアノ伴奏を命じる校長の職務命令によって達せられようとしている公共の利益の具体的な内容は何かが問われなければならず,そのような利益と上記に見たようなものとしての上告人の「思想及び良心」の保護の必要との間で,慎重な考量がなされなければならないものと考える。ところで,学校行政の究極的目的が「子供の教育を受ける利益の達成」でなければならないことは,自明の事柄であって,それ自体は極めて重要な公共の利益であるが,そのことから直接に,音楽教師に対し入学式において「君が代」のピアノ伴奏をすることを強制しなければならないという結論が導き出せるわけではない。本件の場合,「公共の利益の達成」は,いわば,「子供の教育を受ける利益の達成」という究極の(一般的・抽象的な)目的のために,「入学式における『君が代』斉唱の指導」という中間目的が(学習指導要領により)設定され,それを実現するために,いわば,「入学式進行における秩序・紀律」及び「(組織決定を遂行するための)校長の指揮権の確保」を具体的な目的とした「『君が代』のピアノ伴奏をすること」という職務命令が発せられるという構造によって行われることとされているのである。そして,仮に上記の中間目的が承認されたとしても,そのことが当然に「『君が代』のピアノ伴奏を強制すること」の不可欠性を導くものでもない。公務員の基本的人権の制約要因たり得る公共の福祉ないし公共の利益が認められるか否かについては,この重層構造のそれぞれの位相に対応して慎重に検討されるべきであると考えるのであって,本件の場合,何よりも,上記の①「入学式進行における秩序・紀律」及び②「校長の指揮権の確保」という具体的な目的との関係において考量されることが必要であるというべきである。このうち上記①については,本件の場合,上告人は,当日になって突如ピアノ伴奏を拒否したわけではなく,また実力をもって式進行を阻止しようとしていたものでもなく,ただ,以前から繰り返し述べていた希望のとおりの不作為を行おうとしていたものにすぎなかった。従って,校長は,このような不作為を充分に予測できたのであり,現にそのような事態に備えて用意しておいたテープによる伴奏が行われることによって,基本的には問題無く式は進行している。ただ,確かに,それ以外の曲については伴奏をする上告人が,「君が代」に限って伴奏しないということが,参列者に一種の違和感を与えるかもしれないことは,想定できないではないが,問題は,仮に,上記1において見たように,本件のピアノ伴奏拒否が,上告人の思想・良心の直接的な表現であるとして位置付けられるとしたとき,このような「違和感」が,これを制約するのに充分な公共の福祉ないし公共の利益であるといえるか否かにある(なお,仮にテープを用いた伴奏が吹奏楽等によるものであった場合,生のピアノ伴奏と比して,どちらがより厳粛・荘厳な印象を与えるものであるかには,にわかには判断できないものがあるように思われる。)。また,上記②については,仮にこういった目的のために校長が発した職務命令が,公務員の基本的人権を制限するような内容のものであるとき,人権の重みよりもなおこの意味での校長の指揮権行使の方が重要なのか,が問われなければならないことになる。原審は,「思想・良心の自由も,公教育に携わる教育公務員としての職務の公共性に由来する内在的制約を受けることからすれば,本件職務命令が,教育公務員である控訴人の思想・良心の自由を制約するものであっても,控訴人においてこれを受忍すべきものであり,受忍を強いられたからといってそのことが憲法19条に違反するとはいえない。」というのであるが,基本的人権の制約要因たる公共の利益の本件における上記具体的構造を充分に踏まえた上での議論であるようには思われない。また,原審及び多数意見は,本件職務命令は,教育公務員それも音楽専科の教諭である上告人に対し,学校行事におけるピアノ伴奏を命じるものであることを重視するものと思われるが,入学式におけるピアノ伴奏が,音楽担当の教諭の職務にとって少なくとも付随的な業務であることは否定できないにしても,他者をもって代えることのできない職務の中枢を成すものであるといえるか否かには,なお疑問が残るところであり(付随的な業務であるからこそ,本件の場合テープによる代替が可能であったのではないか,ともいえよう。ちなみに,上告人は,本来的な職務である音楽の授業においては,「君が代」を適切に教えていたことを主張している。),多数意見等の上記の思考は,余りにも観念的・抽象的に過ぎるもののように思われる。これは,基本的に「入学式等の学校行事については,学校単位での統一的な意思決定とこれに準拠した整然たる活動が必要とされる」という理由から本件において上告人にピアノ伴奏を命じた校長の職務命令の合憲性を根拠付けようとする補足意見についても同様である。

以上見たように,本件において本来問題とされるべき上告人の「思想及び良心」とは正確にどのような内容のものであるのかについて,更に詳細な検討を加える必要があり,また,そうして確定された内容の「思想及び良心」の自由とその制約要因としての公共の福祉ないし公共の利益との間での考量については,本件事案の内容に即した,より詳細かつ具体的な検討がなされるべきである。このような作業を行ない,その結果を踏まえて上告人に対する戒告処分の適法性につき改めて検討させるべく,原判決を破棄し,本件を原審に差し戻す必要があるものと考える。

(裁判長裁判官那須弘平裁判官上田豊三裁判官藤田宙靖裁判官

堀籠幸男裁判官田原睦夫)

思想良心の自由(3-1)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】

憲法目次

憲法目次

憲法目次


思想良心の自由(3-1)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】
思想良心の自由(3-2)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官那須弘平の補足意見】
思想良心の自由(3-3)【最判平成19年2月27日 君が代ピアノ伴奏職務命令拒否戒告処分事件】【裁判官藤田宙靖の反対意見】

要旨

判示事項

市立小学校の校長が音楽専科の教諭に対し入学式における国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏を行うよう命じた職務命令が憲法19条に違反しないとされた事例

裁判要旨

市立小学校の校長が職務命令として音楽専科の教諭に対し入学式における国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏を行うよう命じた場合において,(1)上記職務命令は「君が代」が過去の我が国において果たした役割に係わる同教諭の歴史観ないし世界観自体を直ちに否定するものとは認められないこと,(2)入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をする行為は,音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであり,当該教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難であって,前記職務命令は前記教諭に対し特定の思想を持つことを強制したりこれを禁止したりするものではないこと,(3)前記教諭は地方公務員として法令等や上司の職務上の命令に従わなければならない立場にあり,前記職務命令は,小学校教育の目標や入学式等の意義,在り方を定めた関係諸規定の趣旨にかなうものであるなど,その目的及び内容が不合理であるとはいえないことなど判示の事情の下では,前記職務命令は,前記教諭の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するということはできない。

(補足意見及び反対意見がある。)

 

 

判旨

理由

本件は,市立小学校の音楽専科の教諭である上告人が,入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏を行うことを内容とする校長の職務上の命令に従わなかったことを理由に被上告人から戒告処分を受けたため,上記命令は憲法19条に違反し,上記処分は違法であるなどとして,被上告人に対し,上記処分の取消しを求めている事案である。

原審の適法に確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。

(1) 上告人は,平成11年4月1日から日野市立A小学校に音楽専科の教諭として勤務していた。

(2) A小学校では,同7年3月以降,卒業式及び入学式において,音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」の斉唱が行われてきており,同校の校長(以下「校長」という。)は,同11年4月6日に行われる入学式(以下「本件入学式」という。)においても,式次第に「国歌斉唱」を入れて音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」を斉唱することとした。

(3) 同月5日,A小学校において本件入学式の最終打合せのための職員会議が開かれた際,上告人は,事前に校長から国歌斉唱の際にピアノ伴奏を行うよう言われたが,自分の思想,信条上,また音楽の教師としても,これを行うことはできない旨発言した。校長は,上告人に対し,本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を行うよう命じたが,上告人は,これに応じない旨返答した。

(4) 校長は,同月6日午前8時20分過ぎころ,校長室において,上告人に対し,改めて,本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を行うよう命じた(以下,校長の上記(3)及び(4)の命令を「本件職務命令」という。)が,上告人は,これに応じない旨返答した。

(5) 同日午前10時,本件入学式が開始された。司会者は,開式の言葉を述べ,続いて「国歌斉唱」と言ったが,上告人はピアノの椅子に座ったままであった。校長は,上告人がピアノを弾き始める様子がなかったことから,約5ないし10秒間待った後,あらかじめ用意しておいた「君が代」の録音テープにより伴奏を行うよう指示し,これによって国歌斉唱が行われた。

(6) 被上告人は,上告人に対し,同年6月11日付けで,上告人が本件職務命令に従わなかったことが地方公務員法32条及び33条に違反するとして,地方公務員法(平成11年法律第107号による改正前のもの)29条1項1号ないし3号に基づき,戒告処分をした。

上告代理人吉峯啓晴ほかの上告理由第2のうち本件職務命令の憲法19条違反をいう部分について

(1) 上告人は,「君が代」が過去の日本のアジア侵略と結び付いており,これを公然と歌ったり,伴奏することはできない,また,子どもに「君が代」がアジア侵略で果たしてきた役割等の正確な歴史的事実を教えず,子どもの思想及び良心の自由を実質的に保障する措置を執らないまま「君が代」を歌わせるという人権侵害に加担することはできないなどの思想及び良心を有すると主張するところ,このような考えは,「君が代」が過去の我が国において果たした役割に係わる上告人自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上の信念等ということができる。しかしながら,学校の儀式的行事において「君が代」のピアノ伴奏をすべきでないとして本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは,上告人にとっては,上記の歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが,一般的には,これと不可分に結び付くものということはできず,上告人に対して本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする本件職務命令が,直ちに上告人の有する上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないというべきである。

(2) 他方において,本件職務命令当時,公立小学校における入学式や卒業式において,国歌斉唱として「君が代」が斉唱されることが広く行われていたことは周知の事実であり,客観的に見て,入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をするという行為自体は,音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであって,上記伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものであり,特に,職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には,上記のように評価することは一層困難であるといわざるを得ない。

本件職務命令は,上記のように,公立小学校における儀式的行事において広く行われ,A小学校でも従前から入学式等において行われていた国歌斉唱に際し,音楽専科の教諭にそのピアノ伴奏を命ずるものであって,上告人に対して,特定の思想を持つことを強制したり,あるいはこれを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものでもなく,児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない。

(3) さらに,憲法15条2項は,「すべて公務員は,全体の奉仕者であって,一部の奉仕者ではない。」と定めており,地方公務員も,地方公共団体の住民全体の奉仕者としての地位を有するものである。こうした地位の特殊性及び職務の公共性にかんがみ,地方公務員法30条は,地方公務員は,全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し,かつ,職務の遂行に当たっては全力を挙げてこれに専念しなければならない旨規定し,同法32条は,上記の地方公務員がその職務を遂行するに当たって,法令等に従い,かつ,上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない旨規定するところ,上告人は,A小学校の音楽専科の教諭であって,法令等や職務上の命令に従わなければならない立場にあり,校長から同校の学校行事である入学式に関して本件職務命令を受けたものである。そして,学校教育法18条2号は,小学校教育の目標として「郷土及び国家の現状と伝統について,正しい理解に導き,進んで国際協調の精神を養うこと。」を規定し,学校教育法(平成11年法律第87号による改正前のもの)20条,学校教育法施行規則(平成12年文部省令第53号による改正前のもの)25条に基づいて定められた小学校学習指導要領(平成元年文部省告示第24号)第4章第2D(1)は,学校行事のうち儀式的行事について,「学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。」と定めるところ,同章第3の3は,「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と定めている。入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で国歌斉唱を行うことは,これらの規定の趣旨にかなうものであり,A小学校では従来から入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」の斉唱が行われてきたことに照らしても,本件職務命令は,その目的及び内容において不合理であるということはできないというべきである。

(4) 以上の諸点にかんがみると,本件職務命令は,上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえないと解するのが相当である。なお,上告人は,雅楽を基本にしながらドイツ和声を付けているという音楽的に不適切な「君が代」を平均律のピアノという不適切な方法で演奏することは音楽家としても教育者としてもできないという思想及び良心を有するとも主張するが,以上に説示したところによれば,上告人がこのような考えを有することから本件職務命令が憲法19条に反することとなるといえないことも明らかである。以上は,当裁判所大法廷判決(最高裁昭和28年(オ)第1241号同31年7月4日大法廷判決・民集10巻7号785頁,最高裁昭和44年(あ)第1501号同49年11月6日大法廷判決・刑集28巻9号393頁,最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁及び最高裁昭和44年(あ)第1275号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号1178頁)の趣旨に徴して明らかである。所論の点に関する原審の判断は,以上の趣旨をいうものとして,是認することができる。論旨は採用することができない。

その余の上告理由について

論旨は,違憲及び理由の不備をいうが,その実質は事実誤認若しくは単なる法令違反をいうもの又はその前提を欠くものであって,民訴法312条1項及び2項に規定する事由のいずれにも該当しない。

 

よって,裁判官藤田宙靖の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文

のとおり判決する。なお,裁判官那須弘平の補足意見がある。

 

憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

【最判平成8年3月19日 南税理士会政治献金事件】

要旨

税理士会が政党など政治資金規正法上の政治団体に金員を寄付することは、税理士会の目的の範囲外の行為であり、その寄付をするために会員から特別会費を徴収する旨の税理士会の総会決議は、会員の思想・信条の自由を考慮しておらず無効である

 

判旨

         主    文

一 原判決を破棄する。

二 上告人の請求中、被上告人の昭和五三年六月一六日の総会決議に基づく特別会費の納       入義務を上告人が負わないことの確認を求める部分につき、被上告人の控訴を棄却する。

三 その余の部分につき、本件を福岡高等裁判所に差し戻す。

四 第二項の部分に関する控訴費用及び上告費用は被上告人の負担とする。

         理    由

 上告代理人馬奈木昭雄、同板井優、同浦田秀徳、同加藤修、同椛島敏雅、同田中利美、同西清次郎、同藤尾順司、同吉井秀広の上告理由第一点、第四点、第五点、上告代理人上条貞夫、同松井繁明の上告理由、上告代理人諌山博の上告理由及び上告人の上告理由について

一 右各上告理由の中には、被上告人が政治資金規正法(以下「規正法」という。)上の政治団体へ金員を寄付することが彼上告人の目的の範囲外の行為であり、そのために本件特別会費を徴収する旨の本件決議は無効であるから、これと異なり、右の寄付が被上告人の目的の範囲内であるとした上、本件特別会費の納入義務を肯認した原審の判断には、法令の解釈を誤った違法があるとの論旨が含まれる。以下、右論旨について検討する。

二 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。

 1 被上告人は、税理士法(昭和五五年法律第二六号による改正前のもの。以下単に「法」という。)四九条に基づき、熊本国税局の管轄する熊本県、大分県、宮崎県及び鹿児島県の税理士を構成員として設立された法人であり、D税理士会連合会(以下「D税連」という。)の会員である(法四九条の一四第四項)。被上告人の会則には、被上告人の目的として法四九条二項と同趣旨の規定がある。

 2 E税理士政治連盟(以下「E税政」という。)は、昭和四四年一一月八日、税理士の社会的、経済的地位の向上を図り、納税者のための民主的税理士制度及び租税制度を確立するため必要な政治活動を行うことを目的として設立されたもので、被上告人に対応する規正法上の政治団体であり、F税理士政治連盟の構成員である。

 3 G税理士政治連盟、H税理士政治連盟、I税理士政治連盟及びJ税理士政治連盟(以下、一括して「K税政」という。)は、E税政傘下の都道府県別の独立した税政連として、昭和五一年七、八月にそれぞれ設立されたもので、規正法上の政治団体である。

 4 被上告人は、本件決議に先立ち、昭和五一年六月二三日、被上告人の第二〇回定期総会において、税理士法改正運動に要する特別資金とするため、全額をK税政へ会員数を考慮して配付するものとして、会員から特別会費五〇〇〇円を徴収する旨の決議をした。被上告人は、右決議に基づいて徴収した特別会費四七〇万円のうち四四六万円をK税政へ、五万円をE税政へそれぞれ寄付した。

 5 被上告人は、昭和五三年六月一六日、第二二回定期総会において、再度、税理士法改正運動に要する特別資金とするため、各会員から本件特別会費五〇〇〇円を徴収する、納期限は昭和五三年七月三一日とする、本件特別会費は特別会計をもって処理し、その使途は全額K税政へ会員数を考慮して配付する、との内容の本件決議をした。

 6 当時の被上告人の特別会計予算案では、本件特別会費を特別会計をもって処理し、特別会費収入を五〇〇〇円の九六九名分である四八四万五〇〇〇円とし、その全額をK税政へ寄付することとされていた。

 7 上告人は、昭和三七年一一月以来、被上告人の会員である税理士であるが、本件特別会費を納入しなかった。

 8 被上告人の役員選任規則には、役員の選挙権及び被選挙権の欠格事由として「選挙の年の三月三一日現在において本部の会費を滞納している者」との規定がある。

 9 被上告人は、右規定に基づき、本件特別会費の滞納を理由として、昭和五四年度、同五六年度、同五八年度、同六〇年度、同六二年度、平成元年度、同三年度の各役員選挙において、上告人を選挙人名簿に登載しないまま役員選挙を実施した。三 上告人の本件請求は、K税政へ被上告人が金員を寄付することはその目的の範囲外の行為であり、そのための本件特別会費を徴収する旨の本件決議は無効であるなどと主張して、被上告人との間で、上告人が本件特別会費の納入義務を負わないことの確認を求め、さらに、被上告人が本件特別会費の滞納を理由として前記のとおり各役員選挙において上告人の選挙権及び被選挙権を停止する措置を採ったのは不法行為であると主張し、被上告人に対し、これにより被った慰謝料等の一部として五〇〇万円と遅延損害金の支払を求めるものである。

四 原審は、前記二の事実関係の下において、次のとおり判断し、上告人の右各請求はいずれも理由がないと判断した。

 1 法四九条の一二の規定や同趣旨の被上告人の会則のほか、被上告人の法人としての性格にかんがみると、被上告人が、税理士業務の改善進歩を図り、納税者のための民主的税理士制度及び租税制度の確立を目指し、法律の制定や改正に関し、関係団体や関係組織に働きかけるなどの活動をすることは、その目的の範囲内の行為であり、右の目的に沿った活動をする団体が被上告人とは別に存在する場合に、被上告人が右団体に右活動のための資金を寄付し、その活動を助成することは、なお被上告人の目的の範囲内の行為である。

 2 K税政は、規正法上の政治団体であるが、被上告人に許容された前記活動を推進することを存立の本来的目的とする団体であり、その政治活動は、税理士の社会的、経済的地位の向上、民主的税理士制度及び租税制度の確立のために必要な活動に限定されていて、右以外の何らかの政治的主義、主張を掲げて活動するものではなく、また、特定の公職の候補者の支持等を本来の目的とする団体でもない。

 3 本件決議は、K税政を通じて特定政党又は特定政治家へ政治献金を行うことを目的としてされたものとは認められず、また、上告人に本件特別会費の拠出義務を肯認することがその思想及び信条の自由を侵害するもので許されないとするまでの事情はなく、結局、公序良俗に反して無効であるとは認められない。本件決議の結果、上告人に要請されるのは五〇〇〇円の拠出にとどまるもので、本件決議の後においても、上告人が税理士法改正に反対の立場を保持し、その立場に多くの賛同を得るように言論活動を行うことにつき何らかの制約を受けるような状況にもないから、上告人は、本件決議の結果、社会通念上是認することができないような不利益を被るものではない。

 4 上告人は、本件特別会費を滞納していたものであるから、役員選任規則に基づいて選挙人名簿に上告人を登載しないで役員選挙を実施した被上告人の措置、手続過程にも違法はない。

五 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

 1 税理士会が政党など規正法上の政治団体に金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する政治的要求を実現するためのものであっても、法四九条二項で定められた税理士会の目的の範囲外の行為であり、右寄付をするために会員から特別会費を徴収する旨の決議は無効であると解すべきである。すなわち、

  () 民法上の法人は、法令の規定に従い定款又は寄付行為で定められた目的の範囲内において権利を有し、義務を負う(民法四三条)。この理は、会社についても基本的に妥当するが、会社における目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、その目的を遂行する上に直接又は間接に必要な行為であればすべてこれに包含され(最高裁昭和二四年(オ)第六四号同二七年二月一五日第二小法廷判決・民集六巻二号七七頁、同二七年(オ)第一〇七五号同三〇年一一月二九日第三小法廷判決・民集九巻一二号一八八六頁参照)、さらには、会社が政党に政治資金を寄付することも、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためにされたものと認められる限りにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為とするに妨げないとされる(最高裁昭和四一年(オ)第四四四号同四五年六月二四日大法廷判決・民集二四巻六号六二五頁参照)。

  () しかしながら、税理士会は、会社とはその法的性格を異にする法人であって、その目的の範囲については会社と同一に論ずることはできない。

 税理士は、国税局の管轄区域ごとに一つの税理士会を設立すべきことが義務付けられ(法四九条一項)、税理士会は法人とされる(同条三項)。また、全国の税理士会は、D税連を設立しなければならず、D税連は法人とされ、各税理士会は、当然にD税連の会員となる(法四九条の一四第一、第三、四項)。

 税理士会の目的は、会則の定めをまたず、あらかじめ、法において直接具体的に定められている。すなわち、法四九条二項において、税理士会は、税理士の使命及び職責にかんがみ、税理士の義務の遵守及び税理士業務の改善進歩に資するため、会員の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的とするとされ(法四九条の二第二項では税理士会の目的は会則の必要的記載事項ともされていない。)、法四九条の一二第一項においては、税理士会は、税務行政その他国税若しくは地方税又は税理士に関する制度について、権限のある官公署に建議し、又はその諮問に答申することができるとされている。

 また、税理士会は、総会の決議並びに役員の就任及び退任を大蔵大臣に報告しなければならず(法四九条の一一)、大蔵大臣は、税理士会の総会の決議又は役員の行為が法令又はその税理士会の会則に違反し、その他公益を害するときは、総会の決議についてはこれを取り消すべきことを命じ、役員についてはこれを解任すべきことを命ずることができ(法四九条の一八)、税理士会の適正な運営を確保するため必要があるときは、税理士会から報告を徴し、その行う業務について勧告し、又は当該職員をして税理士会の業務の状況若しくは帳簿書類その他の物件を検査させることができる(法四九条の一九第一項)とされている。

 さらに、税理士会は、税理士の入会が間接的に強制されるいわゆる強制加入団体であり、法に別段の定めがある場合を除く外、税理士であって、かつ、税理士会に入会している者でなければ税理士業務を行ってはならないとされている(法五二条)。

 () 以上のとおり、税理士会は、税理士の使命及び職責にかんがみ、税理士の義務の遵守及び税理士業務の改善進歩に資するため、会員の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的として、法が、あらかじめ、税理士にその設立を義務付け、その結果設立されたもので、その決議や役員の行為が法令や会則に反したりすることがないように、大蔵大臣の前記のような監督に服する法人である。また、税理士会は、強制加入団体であって、その会員には、実質的には脱退の自由が保障されていない(なお、前記昭和五五年法律第二六号による改正により、税理士は税理士名簿への登録を受けた時に、当然、税理士事務所の所在地を含む区域に設立されている税理士会の会員になるとされ、税理士でない者は、この法律に別段の定めがある場合を除くほか、税理士業務を行ってはならないとされたが、前記の諸点に関する法の内容には基本的に変更がない。)。

 税理士会は、以上のように、会社とはその法的性格を異にする法人であり、その目的の範囲についても、これを会社のように広範なものと解するならば、法の要請する公的な目的の達成を阻害して法の趣旨を没却する結果となることが明らかである。

 () そして、税理士会が前記のとおり強制加入の団体であり、その会員である税理士に実質的には脱退の自由が保障されていないことからすると、その目的の範囲を判断するに当たっては、会員の思想・信条の自由との関係で、次のような考慮が必要である。

 税理士会は、法人として、法及び会則所定の方式による多数決原理により決定された団体の意思に基づいて活動し、その構成員である会員は、これに従い協力する義務を負い、その一つとして会則に従って税理士会の経済的基礎を成す会費を納入する義務を負う。しかし、法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。

 特に、政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、政党など規正法上の政治団体は、政治上の主義若しくは施策の推進、特定の公職の候補者の推薦等のため、金員の寄付を含む広範囲な政治活動をすることが当然に予定された政治団体であり(規正法三条等)、これらの団体に金員の寄付をすることは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題だからである。

 法は、四九条の一二第一項の規定において、税理士会が、税務行政や税理士の制度等について権限のある官公署に建議し、又はその諮問に答申することができるとしているが、政党など規正法上の政治団体への金員の寄付を権限のある官公署に対する建議や答申と同視することはできない。

 () そうすると、前記のような公的な性格を有する税理士会が、このような事柄を多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできないというべきであり(最高裁昭和四八年(オ)第四九九号同五〇年一一月二八日第三小法廷判決・民集二九巻一〇号一六九八頁参照)、税理士会がそのような活動をすることは、法の全く予定していないところである。税理士会が政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する要求を実現するためであっても、法四九条二項所定の税理士会の目的の範囲外の行為といわざるを得ない。

 2 以上の判断に照らして本件をみると、本件決議は、被上告人が規正法上の政治団体であるK税政へ金員を寄付するために、上告人を含む会員から特別会費として五〇〇〇円を徴収する旨の決議であり、被上告人の目的の範囲外の行為を目的とするものとして無効であると解するほかはない。

 原審は、K税政は税理士会に許容された活動を推進することを存立の本来的目的とする団体であり、その活動が税理士会の目的に沿った活動の範囲に限定されていることを理由に、K税政へ金員を寄付することも被上告人の目的の範囲内の行為であると判断しているが、規正法上の政治団体である以上、前判示のように広範囲な政治活動をすることが当然に予定されており、K税政の活動の範囲が法所定の税理士会の目的に沿った活動の範囲に限られるものとはいえない。因みに、K税政が、政治家の後援会等への政治資金、及び政治団体であるE税政への負担金等として相当額の金員を支出したことは、原審も認定しているとおりである。

六 したがって、原審の判断には法令の解釈適用を誤った違法があり、右の違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、その余の論旨について検討するまでもなく、原判決は破棄を免れない。そして、以上判示したところによれば、上告人の本件請求のうち、上告人が本件特別会費の納入義務を負わないことの確認を求める請求は理由があり、これを認容した第一審判決は正当であるから、この部分に関する被上告人の控訴は棄却すべきである。また、上告人の損害賠償請求については更に審理を尽くさせる必要があるから、本件のうち右部分を原審に差し戻すこととする。

 よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、四〇七条一項、九六条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

     最高裁判所第三小法廷

         裁判長裁判官    園   部   逸   夫

            裁判官    可   部   恒   雄

            裁判官    大   野   正   男

            裁判官    千   種   秀   夫

            裁判官    尾   崎   行   信

 

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-3)裁判官藤田八郎の反対意見・裁判官垂水克己の反対意見

憲法目次

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【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-1)

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-2) 裁判官栗山茂の意見・裁判官入江俊郎の意見

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-3)裁判官藤田八郎の反対意見・裁判官垂水克己の反対意見

【裁判官藤田八郎の反対意見】

 本件における被上告人の請求の趣意、並びにこれを容認した原判決の趣意は、上告人に対し、上告人がさきにした原判示の所為は、被上告人の名誉を傷つけ、被上告人に迷惑を及ぼした非行であるとして、これにつき被上告人に陳謝する旨の意を新聞紙上に謝罪広告を掲載する方法により表示することを命ずるにあることは極めて明らかである。しかして、本件において、上告人は、そのさきにした本件行為をもつて、被上告人の名誉を傷つける非行であるとは信ぜず、被上告人に対し陳謝する意思のごときは、毛頭もつていないことは本件弁論の全経過からみて、また、極めて明瞭である。

 かかる上告人に対し、国家が裁判という権力作用をもつて、自己の行為を非行なりとする倫理上の判断を公に表現することを命じ、さらにこれにつき「謝罪」「陳謝」という道義的意思の表示を公にすることを命ずるがごときことは、憲法一九条にいわゆる「良心の自由」をおかすものといわなければならない。けだし、憲法一九条にいう「良心の自由」とは単に事物に関する是非弁別の内心的自由のみならず、かかる是非弁別の判断に関する事項を外部に表現するの自由並びに表現せざるの自由をも包含するものと解すべきであり、このことは、憲法二〇条の「信教の自由」についても、憲法はただ内心的信教の自由を保障するにとどまらず、信教に関する人の観念を外部に表現し、または表現せざる自由をも保障するものであつて、往昔わが国で行われた「踏絵」のごとき、国家権力をもつて、人の信念に反して、宗教上の観念を外部に表現することを強制するごときことは、もとより憲法の許さないところであると、その軌を一にするものというべきである。従つて、本件のごとき人の本心に反して、事の是非善悪の判断を外部に表現せしめ、心にもない陳謝の念の発露を判決をもつて命ずるがごときことは、まさに憲法一九条の保障する良心の外的自由を侵犯するものであること疑を容れないからである。従前、わが国において、民法七二三条所定の名誉回復の方法として、訴訟の当事者に対し判決をもつて、謝罪広告の新聞紙への掲載を命じて来た慣例のあることは、多数説のとくとおりであるけれども、特に、明文をもつて、「良心の自由」を保障するに至つた新憲法下においてかかる弊習は、もはやその存続を許されないものと解すべきである。(そして、このことは、かかる判決が訴訟法上強制執行を許すか否かにはかかわらない。国家が権力をもつて、これを命ずること自体が良心の自由をおかすものというべきである。あたかも、婚姻予約成立の事実は認定せられても、当事者に対して、判決ををもつて、その履行―すなわち婚姻―を命ずることが、婚姻の本質上許されないと同様、強制執行の許否にかかわらず、判決自体の違法を招致するものと解すべきである)。 従つて、この点に関する論旨は理由あり、原判決が上告人に対し謝罪広告を以て、自己の行為の非行なることを認め陳謝の意を表することを命じた部分は破棄せらるべきである。

 

 

【裁判官垂水克己の反対意見】

 私は原判決が広告中に「謝罪」「陳謝」の意思を表明すべく命じた部分は憲法一

九条に違反し原判決は破棄せらるべきものと考える。

 一、判決と当事者の思想 裁判所が裁判をもつて訴訟当事者に対し一定の意思表示をなすべきことを命ずる場合に裁判所はその当事者が内心において如何なる思想信仰良心を持つているかは知ることもできないし、調査すべき事柄でもない。本件謝罪広告を命ずる判決をし又はこの判決を是認すべきか否かを判断するについても固より同じである。すなわち、かような判決をすべきかどうかを判断するについては上告人が、万一、場合によつてはこんな広告をすることは彼の思想信仰良心に反するとの理由からこれを欲しないかも知れないことも予想しなければならない。世の中には次のような思想の人もあり得るであろう―「今日多くの国家においては大多数の人々が労働の成果を少数者によつて搾取され、人間に値せぬ生活に苦しんでいる、これは重要生産手段の私有を認める資本主義の国家組織に原因するから、かかる組織の国家は地上からなくさなくてはならない、そのためには憲法改正の合法手段は先ず絶望であるから、手段を選ばずあらゆる合法・非合法手段、平和手段・暴力手段を用いてたたかい、かかる国家、その法律、国家機関、裁判、反対主義の敵に対しても、これを利用するのはよいが、屈服してはならない、これがわれわれの信条・道徳・良心である。」と。或は一部宗教家、無政府主義者のように、すべて人は一切他人を圧迫強制してはならない、国家、法律は圧力をもつて人を強制するものであるから、これに対しては、少くともできるだけ不服従の態度をとるべきである、という信条の人もあり得るであろう。かような人の内心の思想信仰良心の自由は法律、国権、裁判をもつてしても侵してはならないことは憲法一九条、二〇条の保障するところである。

 論者或はいうかもしれない「迷信や余りに普遍的妥当性のない考は思想でも信仰でもなく憲法の保障のほかにある」と。しかし、誰が迷信と断じ普遍的妥当性なしと決めるのか。一宗一主義は他宗他主義を迷信虚妄として排斥する。けれども、種々の思想、信条の自由活溌な発露、展開、論議こそ個人と人類の精神的発達、人格完成に貢献するゆえんであるとするのが、わが自由主義憲法の基本的精神なのであつて、憲法を攻撃する思想に対してさえ発表の機会を封ずることをせず思想は思想によつて争わしめようとするところに自由主義憲法の特色を見るのである。

 二、謝罪、陳謝とは上告人が、万一、前段設例のような信条の持主であると仮定するならば、本件裁判は彼の信条に反し彼の欲しない意思表明を強制することになるのではないか。この点を判断するには先ず「陳謝」ないし「謝罪」とは如何なる意味のものであるかを判定しなければならない。思うに一般に、「あやまる」、「許して下さい」、「陳謝」又は「遺憾」の意思表明とは(1)自分の行為若くは態度(作為・不作為)が宗教上、社会道徳上、風俗上若くは信条上の過誤であつた(善、正当、是、若くは直でなく悪、不当、非、若くは曲であつた、許されない規範違反であつた)ことの承認、換言すれば、自分の行為の正当性の否定である、或は(2)そのほか更に遡つて行為の原因となつた自分の考(信条を含む)が悪かつたことの承認、若くは一層進んで自分の人格上の欠陥の自認、ひいて劣等感の表明である、或は(3)なおこれに行為者が自分の考を改め将来同様の過誤をくり返さないことの言明を附加したものである。なお、記事や発言の「取消」というものがある。これには単なる訂正の意味のものもあるが、やはり前同様自己の記事や発言に瑕疵不当があつたとしてその正当性を否定する意味のものもある。

 本件広告は相当の配慮をもつて被上告人の申し立てた謝罪文を修正したものではあるが、原審は単に故意又は過失による不法行為としての名誉毀損を認めたに止まり刑法上の名誉毀損罪を認めたものではないから、本件広告に罪悪たることの自認を意味するものと解し得られる「謝罪」という文言を用いることは、或は上告人がその信条からいつて欲しないかも知れない。さすれば本件判決中、広告の標題に「謝罪」の文言を冠し、末尾に「ここに陳謝の意を表します」との文言を用いた部分は本人の信条に反し、彼の欲しないかも知れない意思表明の公表を強制するものであつて、憲法一九条に違反するものであるというのほかない。けだし同条は信条上沈黙を欲する者に沈黙する自由をも保障するものだからである。

 人は尋ねるかも知れない「それならば、当事者はどんな信条を持つているかも知れないから、裁判所はあらゆる当事者に対して或意思表示(例えば登記申請)をすべく命ずる裁判は一切できなくなるではないか、」と。固より左様でない。裁判所は法の世界で法律上の義務とせられるべき事項を命ずることはできるのである。しかし、行為者が自分の行為を宗教上、道徳風俗上、若くは信条上の規範違反である罪悪と自覚した上でなければできないような謝罪の意思表明の如きを判決で命ずることは、性質上法の世界外の内界の問題に立ち入ることであるから、たとえ裁判所がこれを民法七二三条による名誉回復に適当な処分と認めたとしても許されない訳なのである。

 三、法と道徳について法は人の行為についての国家の公権力による強制規範であり、行為とは意思の外部的表現である。人の考が一旦外部に現われて或行為(作為若くは不作為)と観られるに至つたときは社会ないし国家は関心なきを得ないので、法は或は行為を権利行為として保護し或は放任行為として干渉せず、或は表現(をすること又はしないこと)の自由の濫用とし、或は犯罪として刑罰を科し或は不法行為、債務不履行として賠償や履行を命じたりする。その場合に、法は行為が意思に基くか、又、如何なる意思に基くかをも探究する。もちろん、道徳が憲法以下の法の基本をなす部分が相当に大きく、この基本を取り去つては「個人の尊重」、「公共の福祉」、「権利の濫用」、「信義誠実」、「公序良俗」、「正当事由」、「正当行為」などという重要な概念が立処に理解できなくなるという関係ですでにこれらの概念は法概念と化していることは私もよく肯定するものである。しかし、法がこれら内心の状態を問題にしたり行為のかような道徳に由来する法律的意味を探究する場合にも、法はあくまで外部行為の価値を判定するに必要な限度において外部行為からうかがわれ得る内心の状態を問題とするに止まる。一定の行為が法の要求する一定の意思状態においてなされたものとして観られる以上、法はそれが何かの信条からなされたものかどうかを問わない。行為者の意思が財物奪取にあつたか殺害にあつたかは問題とされるが如何なる思想からしたかは問われない。無政府主義者が税制を否定し所得申告を欲しなくても法は彼の主義如何に拘わりなく申告と納税を強制する。かようにして法は作為・不作為に対しそれに相応する法律効果を付しこれによつて或結果の発生・不発生をもたらしその行為を処理しようとするものである。

 四、本件広告の内容謝罪の意思なき者に謝罪広告を命ずる裁判が合憲であるとの理由は出て来ない。けだし、謝罪は法の世界のほかなる宗教上、道徳風俗上若くは信条上の内心の善悪の判断をまつて始めてなされるものてあり、そして内心から自己の行為を悪と自覚した場合にのみ価値ある筈のものだからである。先ず、裁判所が上告人は判示所為をしたものでありその所為は不法行為たる名誉毀損に当ると認めた場合には、上告人の信条に拘わりなくこれによる義務の存在を確認させることができるのはもちろん、又、かかる所為をしたこと及びそれか名誉毀損に当ることを確認する旨の広告を上告人の意思に反してさせることもできることは疑いない。本件広告は単に「広告」と題し本文を「私は昭和二十七年十月一日施行された、云々、申訳もできないのはどうしたわけかと記載いたしましたが右放送及び記事は真実に相違して居り、貴下の名誉を傷け御迷惑をおかけいたしました。」と記載してなすべく命ずることも憲法一九条に違反するところなく妨げない、(客観的に、「真実に相違しておる」ことを確認させ、被害を与えたとの法律上の意味で「御迷惑をおかけしました」と言明すべき法的義務を課してもよい。)と考える、ところが本件広告には前に述べたように「謝罪」、「陳謝の意を表します」という文言を用いた部分があつてこの点は両当事者が重要な一点として争うところなのである。が、かような謝罪意思表明の義務は上告人の本件名誉毀損行為から法概念としての「善良の風俗」からでも生ずべき性質のものといえるであろうか。又、「かような謝罪の意思表明は名誉毀損の確認に附加されたところの、本件当事者双方の名誉を尊重した紳士的な社交儀礼上の挨拶に過ぎず、そしてそれは心にもない口先だけのものであつても被害者や世人はいずれその程度のものとして受けとる性質のものであるから、上告人も同様に受けとつてよいものである。」といえるてあろうか。私は疑なきを省ない。かような挨拶が被害者の名誉回復のために役立つとの面にのみに着眼し表意者が信条に反するために謝罪を欲しないため信条に反する意思表明を強制せられる場合のあることを顧みないで事を断ずるのは失当といわざるを得ない。私は本件広告中、右「謝罪」、「陳謝の意を表します」の文言があるのに、上告人が信条上欲しない場合でもこれをなすべきことを命ずる原判決は、性質上、上告人の思想及び良心の自由を侵すところがあり憲法一九条に違反するものと考える。これにはなお一つの理由を附加したい。それは本件判決が民訴法七三三条の代替執行の方法によつて強制執行をなし得るという点である。一説は本件判決は給付判決であつても夫婦同居を命ずる判決と同じく強制執行を許されないというが、夫婦同居判決のように強制執行のてきないことが自明なものならばその通りであるが、本件判決は理由中に別段本件広告については強制執行を許さない旨をことわつてなく、判決面ではそれを許しているものと解せられるものであり、そして本件広告が新聞紙に掲載せられたような場合に、読者は概ねそれが民事判決で命ぜられて余儀なくなされたもであることを知らずに、上告人が自発的にしたものであると誤解する公算が大きい。かくては上告人の信条に反し、そのの意思に出でない上告人の名における謝罪広告が公表せられることになり、夫婦同居判決が当事者の任意服従がないかぎり実現されずに終るのと違う結果を見るのである。されば論旨は理由があり、原判決が主文所掲広告の標題に冠した「謝罪」という文言とその末尾の「ここに陳謝の意を表します」との文言を表示すべく命じた部分は憲法一九条に違反するから原判決は破棄すべきものである。

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-2) 裁判官栗山茂の意見・裁判官入江俊郎の意見

 

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 【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-1)

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-2) 裁判官栗山茂の意見・裁判官入江俊郎の意見

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-3)裁判官藤田八郎の反対意見・裁判官垂水克己の反対意見

【裁判官栗山茂の意見】

 論旨は憲法一九条にいう「良心の自由」を倫理的内心の自由を意味するものと誤解して、原判決の同条違反を主張している。しかし憲法一九条の「良心の自由」は英語のフリーダム・オブ・コンシャンスの邦訳であつてフリーダム・オブ・コンシャンスは信仰選択の自由(以下「信仰の自由」と訳す。)の意味であることは以下にかかげる諸外国憲法等の用例で明である。

 先づアイルランド国憲法を見ると、同憲法四四条は「宗教」と題して「フリーダム・オブ・コンシャンス(「信仰の自由」)及び宗教の自由な信奉と履践とは公の秩序と道徳とに反しない限り各市民に保障される。」と規定している。次にアメリカ合衆国ではカリフオルニヤ州憲法(一条四節)は宗教の自由を保障しつつ「何人も宗教的信念に関する自己の意見のために証人若しくは陪審員となる資格がないとされることはない。しかしながらかように保障されたフリーダム・オブ・コンシャンス(「信仰の自由」)は不道徳な行為又は当州の平和若しくは安全を害するような行為を正当ならしむるものと解してはならない。」と規定している。そしてこのフリーダム・オブ・コンシャンス(「信仰の自由」)という辞句はキリスト教国の憲法上の用語とは限らないのであつて、インド国憲法二五条は、わざわざ「宗教の自由に対する権利」と題して「何人も平等にフリーダム・オブ・コンシャンス(「信仰の自由」)及び自由に宗教を信奉し、祭祀を行い、布教する権利を有する。」と規定し、更にビルマ国憲法も「宗教に関する諸権利」と題して二〇条で「すべての人は平等のフリーダム・オブ・コンシヤンス(「信仰の自由」)の権利を有し且宗教を自由に信奉し及び履践する権利を有する云々」と規定しており、イラク国憲法一三条は回教は国の公の宗教であると宣言して同教各派の儀式の自由を保障した後に完全なフリーダム・オブ・コンシャンス(「信仰の自由」)及び礼拝の自由を保障している。(ピズリー著各国憲法集二巻二一九頁。脚註に公認された英訳とある。)。英語のフリーダム・オブ・コンシヤンスは仏語のリベルテ・ド・コンシアンスであつて、フフンスでは現に宗教分離の一九〇五年の法律一条に「共和国はリベルテ・ド・コンシアンス(「信仰の自由」)を確保する。」と規定している。これは信仰選択の自由の確保であることは法律自体で明である。レオン、ヂユギはリベルテ・ド・コンシアンスを宗教に関し心の内で信じ若しくは信じない自由と説いている。(ヂュギ著憲法論五巻一九二五年版四一五頁)

 以上の諸憲法等の用例によると「信仰の自由」は広義の宗教の自由の一部として規定されていることがわかる。これは日本国憲法と異つて思想の自由を規定していないからである。日本国憲法はポツダム宣言(同宣言一〇項は「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」と規定している)の条件に副うて規定しているので思想の自由に属する本来の信仰の自由を一九条において思想の自由と併せて規定し次の二〇条で信仰の自由を除いた狭義の宗教の自由を規定したと解すべきである。かように信仰の自由は思想の自由でもあり又宗教の自由でもあるので国際連合の採択した世界人権宣言(一八条)及びユネスコの人権規約案(一三条)にはそれぞれ三者を併せて「何人も思想、信仰及び宗教の自由を享有する権利を有する」と規定している。以上のように日本国憲法で「信仰の自由」が二〇条の信教の自由から離れて一九条の思想の自由と併せて規定されて、それを「良心の自由」と訳したからといつて、日本国憲法だけが突飛に倫理的内心の自由を意味するものと解すべきではないと考える。憲法九七条に「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であると言つているように、憲法一九条にいう「良心の自由」もその歴史的背景をもつ法律上の用語として理解すべきである。されば所論は「原判決の如き内容の謝罪文を新聞紙に掲載せしむることは上告人の良心の自由を侵害するもので憲法一九条の規定に違反するものである。」と言うけれども、それは憲法一九条の「良心の自由」を誤解した主張であつて、原判決には上告人のいう憲法一九条の「良心の自由」を侵害する問題を生じないのである。

 

 

 

【裁判官入江俊郎の意見】

 一、上告理由三は、要するに本件判決により、上告人は強制的に本件のごとき内容の謝罪広告を新聞紙へ掲載せしめられるのであり、それは上告人の良心の自由を侵害するものであつて、憲法一九条違反であるというのである。しかしわたくしは、本件判決は、給付判決ではあるが、後に述べるような理由により、その強制執行は許されないものであると解する。しからば本件判決は上告人の任意の履行をまつ外は、その内容を実現させることのできないものであつて、従つて上告人は本件判決により強制的に謝罪広告を新聞紙へ掲載せしめられることにはならないのであるから、所論違憲の主張はその前提を欠くこととなり採るを得ない。上告理由三については、右を理由として上告を棄却すべきものであると思うのである。

 二、多数説は、原判決の是認した被上告人の本訴請求は、上告人をして、上告人がさきに公表した事実が虚偽且つ不当であつたことを広報機関を通じて発表すベきことを求めるに帰するとなし、また、上告人に屈辱的若しくは苦役的労務を科し又は上告人の有する意思決定の自由、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられないといい、結局本件判決が民訴七三三条の代替執行の手続によつて強制執行をなしうるものであることを前提とし、しかもこれを違憲ならずと判断しているのである。しかしわたくしは、本件判決の内容は多数説のいうようなものではなく、上告人に対し、上告人のさきにした本件行為を、相手方の名誉を傷つけ相手方に迷惑をかけた非行であるとして、これについて相手方の許しを乞う旨を、上告人の自発的意思表示の形式をもつて表示すべきことを求めていると解すべきものであると思う。そして、若しこのような上告人名義の謝罪広告が新聞紙に掲載されたならば、それは、上告人の真意如何に拘わりなく、恰も上告人自身がその真意として本件自己の行為が非行であることを承認し、これについて相手方の許しを乞うているものであると一般に信ぜられるに至ることは極めて明白であつて、いいかえれば、このような謝罪広告の掲載は、そこに掲載されたところがそのまま上告人の真意であるとせられてしまう効果(表示効果)を発生せしめるものといわねばならない。自己の行為を非行なりと承認し、これにつき相手方の許しを乞うということは、まさに良心による倫理的判断でなくて何であろうか。それ故、上告人が、本件判決に従つて任意にこのような意思を表示するのであれば問題はないが、いやしくも上告人がその良心に照らしてこのような判断は承服し得ない心境に居るにも拘らず、強制執行の方法により上告人をしてその良心の内容と異なる事柄を、恰もその良心の内容であるかのごとく表示せしめるということは、まさに上告人に対し、その承服し得ない倫理的判断の形成及び表示を公権力をもつて強制することと、何らえらぶところのない結果を生ぜしめるのであつて、それは憲法一九条の良心の自由を侵害し、また憲法一三条の個人の人格を無視することとならざるを得ないのである。

 三、もとより、憲法上の自由権は絶対無制限のものではなく、憲法上の要請その他公共の福祉のために必要已むを得ないと認めるに足る充分の根拠が存在する場合には、これに或程度の制約の加えられることは必ずしも違憲ではないであろう。しかし自由権に対するそのような制約も、制約を受ける個々の自由権の性質により、その態様又は程度には自ら相違がなければならぬ筈のものである。ところで古人も「三軍は帥を奪うべし。匹夫も志を奪うべからず」といつたが、良心の自由は、この奪うべからざる匹夫の志であつて、まさに民主主義社会が重視する人格尊重の根抵をなす基本的な自由権の一である。そして、たとえ国家が、個人が自己の良心であると信じているところが仮に誤つていると国家の立場において判断した場合であつても、公権力によつてなしうるところは、個人が善悪について何らかの倫理的判断を内心に抱懐していること自体の自由には関係のない限度において、国家が正当と判断した事実関係を実現してゆくことであつて、これを逸脱し、例えば本件判決を強制執行して、その者が承服しないところを、その者の良心の内容であるとして表示せしめるがごときことは、恐らくこれを是認しうべき何らの根拠も見出し得ないと思うのである。

 英、米、独、仏等では、現在名誉回復の方法として本件のごとき謝罪広告を求める判決を認めていないようである。すなわち英、米では名誉毀損の回復は損害賠償を原則とし、加害者の自発的な謝罪が賠償額の緩和事由となるとせられるに止会り、また独、仏では、加害者の費用をもつて、加害者の行為が、名誉毀損の行為であるとして原告たる被害者を勝訴せしめた判決文を新聞紙上に掲載せしめ又は加害者に対し新聞紙上に取消文を掲載せしめる等の方法が認められている。わが民法七二三条の適用としても、本件のような謝罪広告を求める判決のほかに、(一)加害者の費用においてする民事の敗訴判決の新聞紙等への掲載、(二)同じく刑事の名誉毀損罪の有罪判決の新聞紙等への掲載、(三)名誉毀損記事の取消等の方法が考えうるのであるが、このような方法であれば、これを加害者に求める判決の強制執行をしたからといつて、不当に良心の自由を侵害し、または個人の人格を無視したことにはならず違憲の問題は生じないと思われる。しかし、本件のような判決は、若し強制執行が許されるものであるとすれば、それはまさに公権力をもつて上告人に倫理的の判断の形成及び表示を強制するのと同様な結果を生ぜしめるに至ることは既に述べたとおりであり、また前記のごとく民法七二三条の名誉回復の為の適当な処分としては他にも種々の方法がありうるのであるから、これらを勘案すれば、本件判決を強制執行して良心の自由又は個人の人格に対する上述のような著しい侵害を敢えてしなければ、本件名誉回復が全きを得ないものとは到底認め得ない。即ち利益の比較較量の観点からいつても、これを是認しうるに足る充分の根拠を見出し得ず、結局それは名誉回復の方法としては行きすぎであり、不当に良心の自由を侵害し個人の人格を無視することとなつて、違憲たるを免れないと思うのである。(以上述べたところは、私見によれば、取消文の掲載又は国会、地方議会における懲罰の一方法としての「公開議場における陳謝」には妥当しない。前者については、取消文の文言にもよることではあるが、それが単に一旦発表した意思表示を発表せざりし以前の状態に戻す原状回復を趣旨とするものたるに止まる限り良心の自由とは関係なく、また後者は、これを強制執行する方法が認められていないばかりでなく、特別権力関係における秩序維持の為の懲戒罰である点において、一般権力関係における本件謝罪広告を求める判決の場合とは性質を異にするというべきだからである。)

 四、以上述べたとおり、わたくしは、本件判決が強制執行の許されるものであるとするならば、それは憲法一九条及び一三条に違反すると解するのであつて、従つて、多数説が、本件判決が民訴七三三条の代替執行の方法により強制執行をなしうるものであることを前提として、しかも本件判決を違憲でないとしたことには賛成できない。

 けれども、わたくしは以下述べるごとく、本件判決は強制執行はすべて許されないものであると解するのである。思うに、給付判決の請求と、強制執行の請求とは一応別個の事柄であり、従つて給付判決は常に必ず強制執行に適するものと限らないことは、多数説の説示の中にも示されているとおりであつて(給付判決であつても、強制執行の全く許されないものとしては、例えば夫婦同居の義務に関する判例があつた。)、本件判決が果して強制執行に適するものであるか否かは、本件判決の内容に照らし、更に審究を要する問題であろう。ところで、給付判決の中で強制執行に適さないと解せられる場合としては、(一)債務の性質からみて、強制執行によつては債務の本旨に適つた給付を実現し得ない場合、(二)債務の内容からみて、強制執行することが、債務者の人格又は身体に対する著しい侵害であつて、現代の法的理念に照らし、憲法上又は社会通念上、正当なものとして是認し得ない場合の二であろう。(一)の場合は主として、債務の性質が強制執行をするのに適当しているかどうかの観点から判断しうるけれども、(二)の場合は、強制執行をすること自体が、現代における文化の理念に照らして是認しうるかどうかの観点から判断することが必要となつてくる。そして、本件のごとき判決を強制執行することは、既に述べたように、不当に良心の自由を侵害し、個人の人格を無視することとなり違憲たるを免れないのであるから、まさに上記(二)の場合に該当し、民訴七三三条の代替執行たると、同七三四条の間接強制たるとを問わず、すべて強制執行を許さないものと解するを相当とするのである。また本件判決は、被害者が名誉回復の方法として本件のような謝罪広告の新聞紙への掲載を加害者に請求することを利益と信じ、裁判所がこれを民法七二三条の適当な処分と認めてなされたものであるから、これについて強制執行が認められないからといつて、それは給付判決として意味のないものとはいえないと思う。

 以上のべたごとく、本件判決は強制執行を許さないものであるから、違憲の問題を生ずる余地なく、所論は前提を欠き、上告棄却を免れない。

 

 

 

 

 

 

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】

憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-1)

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-2) 裁判官栗山茂の意見・裁判官入江俊郎の意見

【最大判昭和31年7月4日 謝罪広告事件】(1-3)裁判官藤田八郎の反対意見・裁判官垂水克己の反対意見


要旨

判示事項

一 謝罪広告を命ずる判決と強制執行

二 右判決は憲法第一九条に反しないか

裁判要旨

一 新聞紙に謝罪広告を掲載することを命ずる判決は、その広告の内容が単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明する程度のものにあつては、民訴第七三三条により代替執行をなし得る。

二 右判決は憲法第一九条に反しない。

 

 

判旨

 しかし、憲法二一条は言論の自由を無制限に保障しているものではない。そして本件において、原審の認定したような他人の行為に関して無根の事実を公表し、その名誉を毀損することは言論の自由の乱用であつて、たとえ、衆議院議員選挙の際、候補者が政見発表等の機会において、かつて公職にあつた者を批判するためになしたものであつたとしても、これを以て憲法の保障する言論の自由の範囲内に属すると認めることはできない。してみれば、原審が本件上告人の行為について、名誉毀損による不法行為が成立するものとしたのは何等憲法二一条に反するものでなく、所論は理由がない

 民法七二三条にいわゆる「他人の名誉を毀損した者に対して被害者の名誉を回復するに適当な処分」として謝罪広告を新聞紙等に掲載すべきことを加害者に命ずることは、従来学説判例の肯認するところであり、また謝罪広告を新聞紙等に掲載することは我国民生活の実際においても行われているのである。尤も謝罪広告を命ずる判決にもその内容上、これを新聞紙に掲載することが謝罪者の意思決定に委ねるを相当とし、これを命ずる場合の執行も債務者の意思のみに係る不代替作為として民訴七三四条に基き間接強制によるを相当とするものもあるべく、時にはこれを強制することが債務者の人格を無視し著しくその名誉を毀損し意思決定の自由乃至良心の自由を不当に制限することとなり、いわゆる強制執行に適さない場合に該当することもありうるであろうけれど、単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものにあつては、これが強制執行も代替作為として民訴七三三条の手続によることを得るものといわなければならない。そして原判決の是認した被上告人の本訴請求は、上告人が判示日時に判示放送、又は新聞紙において公表した客観的事実につき上告人名義を以て被上告人に宛て「右放送及記事は真相に相違しており、貴下の名誉を傷け御迷惑をおかけいたしました。ここに陳謝の意を表します」なる内容のもので、結局上告人をして右公表事実が虚偽且つ不当であつたことを広報機関を通じて発表すべきことを求めるに帰する。されば少くともこの種の謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる原判決は、上告人に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられないし、また民法七二三条にいわゆる適当な処分というべきであるから所論は採用できない。

 

 

【裁判官田中耕太郎の補足意見】

 上告論旨は、要するに、上告人が「現在でも演説の内容は真実であり上告人の言論は国民の幸福の為に為されたものと確信を持つている」から、謝罪文を新聞紙に掲載せしめることは上告人の良心の自由の侵害として憲法一九条の規定またはその趣旨に違反するものというにある。ところで多数意見は、憲法一九条にいわゆる良心は何を意味するかについて立ち入るところがない。それはただ、謝罪広告を命ずる判決にもその内容から見て種々なものがあり、その中には強制が債務者の人格を無視し著しくその名誉を毀損し意思決定の自由乃至良心の自由を不当に制限する強制執行に適しないものもあるが、本件の原判決の内容のものなら代替行為として民訴七三三条の手続によることを得るものと認め、上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものと解せられないものとしているにとどまる。

 私の見解ではそこに若干の論理の飛躍があるように思われる。

 この問題については、判決の内容に関し強制執行が債務者の意思のみに係る不代替行為として間接強制によるを相当とするかまたは代替行為として処置できるものであるかというようなことは、本件の判決の内容が憲法一九条の良心の自由の規定に違反するか否かを決定するために重要ではない。かりに本件の場合に名誉回復処分が間接強制の方法によるものであつたにしてもしかりとする。謝罪広告が間接にしろ強制される以上は、謝罪広告を命ずること自体が違憲かどうかの問題が起ることにかわりがないのである。さらに遡つて考えれば、判決というものが国家の命令としてそれを受ける者において遵守しなければならない以上は、強制執行の問題と別個に考えても同じ問題が存在するのである。

 私は憲法一九条の「良心」というのは、謝罪の意思表示の基礎としての道徳的の反省とか誠実さというものを含まないと解する。又それは例えばカントの道徳哲学における「良心」という概念とは同一ではない。同条の良心に該当するゲウイツセン(Gewissen)コンシアンス(Conscience)等の外国語は、憲法の自由の保障との関係においては、沿革的には宗教上の信仰と同意義に用いられてきた。しかし今日においてはこれは宗教上の信仰に限らずひろく世界観や主義や思想や主張をもつことにも推及されていると見なければならない。憲法の規定する

思想、良心、信教および学問の自由は大体において重複し合つている。

 要するに国家としては宗教や上述のこれと同じように取り扱うべきものについて、禁止、処罰、不利益取扱等による強制、特権、庇護を与えることによる偏頗な所遇というようなことは、各人が良心に従つて自由に、ある信仰、思想等をもつことに支障を招来するから、憲法一九条に違反するし、ある場合には憲法一四条一項の平等の原則にも違反することとなる。憲法一九条がかような趣旨に出たものであることは、これに該当する諸外国憲法の条文を見れば明瞭である

 憲法一九条が思想と良心とをならべて掲げているのは、一は保障の対照の客観的内容的方面、他はその主観的形式的方面に着眼したものと認められないことはない。 ところが本件において問題となつている謝罪広告はそんな場合ではない。もちろん国家が判決によつて当事者に対し謝罪という倫理的意味をもつ処置を要求する以上は、国家は命ぜられた当事者がこれを道徳的反省を以てすることを排斥しないのみか、これを望ましいことと考えるのである。これは法と道徳との調和の見地からして当然しかるべきである。しかし現実の場合においてはかような調和が必ずしも存在するものではなく、命じられた者がいやいやながら命令に従う場合が多い。もしかような場合に良心の自由が害されたというならば、確信犯人の処罰もできなくなるし、本来道徳に由来するすべての義務(例えば扶養の義務)はもちろんのこと、他のあらゆる債務の履行も強制できなくなる。又極端な場合には、表見主義の原則に従い法が当事者の欲したところと異る法的効果を意思表示に附した場合も、良心の自由に反し憲法違反だと結論しなければならなくなる。さらに一般に法秩序を否定する者に対し法を強制すること自体がその者の良心の自由を侵害するといわざるを得なくなる。

 謝罪広告においては、法はもちろんそれに道徳性(Moralitat)が伴うことを求めるが、しかし道徳と異る法の性質から合法性(Legalitat)即ち行為が内心の状態を離れて外部的に法の命ずるところに適合することを以て一応満足するのである。内心に立ちいたつてまで要求することは法の力を以てするも不可能である。この意味での良心の侵害はあり得ない。これと同じことは国会法や地方自治法が懲罰の一種として「公開議場における陳謝」を認めていること(国会法一二二条二号、地方自治法一三五条一項二号)についてもいい得られる。 謝罪する意思が伴わない謝罪広告といえども、法の世界においては被害者にとつて意味がある。というのは名誉は対社会的の観念であり、そうしてかような謝罪広告は被害者の名誉回復のために有効な方法と常識上認められるからである。この意味で単なる取消と陳謝との間には区別がない。もし上告理由に主張するように良心を解するときには、自己の所為について確信をもつているから、その取消をさせられることも良心の自由の侵害になるのである。 附言するが謝罪の方法が加害者に屈辱的、奴隷的な義務を課するような不適当な場合には、これは個人の尊重に関する憲法一三条違反の問題として考えられるべきであり、良心の自由に関する憲法一九条とは関係がないのである。 要するに本件は憲法一九条とは無関係であり、この理由からしてこの点の上告理由は排斥すべきである。憲法を解釈するにあたつては、大所高所からして制度や法条の精神の存するところを把握し、字句や概念の意味もこの精神からして判断しなければならない。私法その他特殊の法域の概念や理論を憲法に推及して、大局から判断をすることを忘れてはならないのである。

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