憲法重要判例六法F

憲法についての条文・重要判例まとめ

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【政教分離(2-6-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見2-2】

憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

憲法目次Ⅳ

【政教分離(2-1-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟】

【政教分離(2-1-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟2】

【政教分離(2-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見】

【政教分離(2-3)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見2】

【政教分離(2-4)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見3】

【政教分離(2-5-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-1】

【政教分離(2-5-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-2】

【政教分離(2-6-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見3-1】

 八 次に、多数意見の掲げる考慮要素の「3」「当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度」についてみることとする。この点につき多数意見は、考慮要素「2」検討に該当する箇所において、一般人が本件の玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難いとした上で、そうであれば、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざるを得ないのであり、このことは、本件においても同様というべきである、とした。

 玉串料等の奉納は、D神社又は県E神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有するものと位置付けられ、或いは最も盛大な規模で行われる祭に際し、神社あてに拠出されるものであるから、宗教にかかわり合いを持つものであることは当然で、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざるを得ないことは勿論であろう。問題は、その意識の程度である。玉串料等の奉納が儀礼的な意味合いを持つことは、後に多数意見の説示自体にも現れる。曰く、「確かに、D神社及びE神社に祭られている祭神の多くは第二次大戦の戦没者であって、その遺族を始めとする愛媛県民のうちの相当数の者が、県が公の立場においてD神社等に祭られている戦没者の慰霊を行うことを望んでおり、そのうちには、必ずしも戦没者を祭神として信仰の対象としているからではなく、故人をしのぶ心情からそのように望んでいる者もいることは、これを肯認することができる。そのような希望にこたえるという側面においては、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない」と。

 長年にわたって比較的低額のまま維持された玉串料等の奉納が慣習化した社会的儀礼としての側面を持つことは、多数意見の右の説示をまつまでもなく、社会生活の実際において到底否定し難いところであり、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するという意識を「大なり小なり持たざるを得ない」とする説示は、あたかも、この間の消息を物語るもののようにも感ぜられる。なお、多数意見は、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できないとした上で、たとえ相当数の者がそれを望んでいるとしても、そのことのゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが、相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえないとするが、これは既に違憲と決めつけた上での駄目押しにすぎず、この項で論じているのは、「相当とされる限度を超える」か否かの判断に資するために定立された目的・効果基準を具体的に適用するにあたり、検討すべき考慮要素の一々についてであるから、右の多数意見についてはこれ以上の言及をしない。多数意見が「戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体は、本件のように特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができると考えられる」云々と説示する点についても同様である。

 ところで、考慮要素「3」にいう、当該行為者が当該行為を行うについての意図・目的についてはどうであろうか。この点につき、多数意見は「本件においては、県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がうかがわれないのであって、県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持つたことを否定することができない」と判示した。その表現はさりげなく、その文章は短いが、その意図するところは大きい。考慮要素「3」にいう当該行為者が当該行為を行うについての意図・目的の検証をこれで一挙に完結させようとするものであるからである。

 被上告人B1らの主張及びこれに副う書証・人証等によれば、D神社の例大祭、みたま祭や県E神社の慰霊大祭以外にも、愛媛県は公金を支出して来た。H戦没者墓苑における慰霊祭には、同墓苑の創設された昭和三四年以来ずっと公金を支出し、東京事務所長らが出席している。支出金は一万五千円(昭和六〇年)で、D神社や県E神社に対する年間支出金額と大差ない。全国戦没者追悼式に際しても、毎年供花料として一万円を支出している。沖縄には愛媛県出身戦没者のための慰霊塔「愛媛の塔」(昭和三七年一〇月建立)があり、遺族会は毎年慰霊塔の前で仏式慰霊祭を行って来たが、この慰霊塔の維持管理のため、毎年公金(約二〇万円)を支出している、という。県の公金支出は宗教的目的のためではなく、目的はあくまで戦没者の慰霊や遺族の慰謝にある、というのである。H戦没者墓苑における慰霊祭、全国戦没者追悼式、「愛媛の塔」の前での慰霊祭を挙行しているのは、なるほど宗教団体ではない。しかし、千鳥ヶ淵も、全国追悼式も、「愛媛の塔」も、D神社も、県E神社も、公金の支出はすべて戦没者の慰霊、遺族の慰謝が目的であると主張されている案件において、D神社と県J神社のみが宗教団体といえるものであることを捉えて、「県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がうかがわれない」との理由付けで、「県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない」とするのは、判断として公正を欠くとの譏りを免れないであろう。これまで特定の宗教団体とのかかわり合いとされて来たのが、ここで俄かに「特別の」かかわり合いとされたことに注目すべきであろう。

 九 最後に、多数意見の掲げる考慮要素の「4」「当該行為の一般人に与える効果、影響」についてみることとしよう。いわゆる目的・効果基準の二要件のうち、当該行為の憲法適合性を判断するための最も重要な要件に関するものである。考慮要素「4」につき多数意見の述べるところは少ない。曰く、「地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つことは、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない」と。

 多数意見がH戦没者墓苑における慰霊祭、全国戦没者追悼式、「愛媛の塔」前の仏式慰霊祭の例を度外視し、これら慰霊の行事の主催者が宗教団体でない点を捉えてした立論が当を得ないことはさきに指摘したとおりで、これを根拠として、「地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つ」ことの是非を論じたのは、その前提に誤りがあるものといわなければならない。しかも、この前提の上に立って、多数意見が考慮要素の「4」当該行為の一般人に与える効果、影響として述べるのは、「一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすもの」であるというに尽きる。

 甚だ抽象的で具体性に欠け、援助、助長、促進との観念上のつながりを手探りしているかの感があるが、この点はむしろ一審判決の方が分かり易い。一審判決は次のようにいう。県がD神社に対して支出した金額は通常の社会的儀礼の範囲内に属するといってよい額である。しかし、一回一回の支出が少額であっても毎年繰り返されて行けば、県と神社との結び付きも無視することができなくなり、それが広く知られるときは、一般人に対しても、D神社は他の宗教団体とは異なり特別のものであるとの印象を生じさせ、或いはこれを強めたり固定したりする可能性が大きくなる。結論として、玉串料等の支出は、県とD神社との結び付きに関する象徴としての役割を果たしているとみることができ、玉串料等の支出は、経済的な側面からみると、D神社の宗教活動を援助、助長、促進するものとまではいえなくとも、精神的側面からみると、右の象徴的な役割の結果としてD神社の宗教活動を援助、助長、促進する効果を有するものということができる、と。県E神社への供物料についても同旨である。

 一審判決は、県とD神社、県E神社との間に具体的な結び付きの実体がないにもかかわらず、両者の「結び付きに関する象徴」としての役割を論じたところに無理があった。或いは結び付きの実体がないからこそ、「結び付きの象徴」として精神的側面を端的に強調したものとも考えられよう(合衆国判例における「象徴的結合」とは、事案も内容も異なる)。

 津地鎮祭大法廷判決によって定立された目的・効果基準の適用にあたって、当該行為の効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるか否かの判定は、このような専ら精神面における印象や可能性や象徴を主要な手がかりとして決せられてはならない。このように抽象的で内容的に具体的なつかみどころのない観念が指標とされるときは、違憲審査権の行使は恣意的とならざるを得ないからである。多数意見は、一審判決のいう「結び付きに関する象徴」云々の表現を用いなかったが、その判旨の内容は実質的に異なるものではない。

 一〇 以上、津地鎮祭大法廷判決の定立した判例法理に従うとして、多数意見が考慮要素の「1」ないし「4」について説示するところをみて来たが、論理に従ってその文脈を辿ることは著しく困難であるといわざるを得ない。考慮要素の「1」はそもそも本件において機能し得ず、また考慮要素の「2」ないし「4」については十分な説明も論証もないまま、多数意見は、目的・効果基準を適用して、本件支出行為と宗教とのかかわり合いが「相当と認められる限度を超えるもの」と論断した。

 しかし、すでにみたように、玉串料等の奉納行為が社会的儀礼としての側面を有することは到底否定し難く、そのため右行為の持つ宗教的意義はかなりの程度に減殺されるものといわざるを得ず、援助、助長、促進に至っては、およそその実体を欠き、徒らに国家神道の影に怯えるものとの感を懐かざるを得ない。

 本件玉串料等の奉納は、被上告人B1が知事に就任する以前から、通算二十数年の長きにわたり、一審判決の表現によれば「通常の社会的儀礼の範囲に属するといってよい額」を細々と長々と続けて来たものにほかならない。訴訟において関係人の陳述を指して…は何々である旨縷々陳述するが…と評することが多いが、縷々とは細く長く絶えず続くことの意味である。本件玉串料等の支出はまさしくそれに当たる。そして、この細く長く絶えず続けられた玉串料等の支出が、多数意見によって「相当とされる限度を超えるもの」とされるとき、私は今は故人となった憲法学徒の次の言葉を想起させられるのである。曰く、「民間信仰の表現としての地蔵や庚申塚が公有地の隅に存することも容認しないほど憲法は不寛容と解すべきであるのか」(小嶋和司「いわゆる『政教分離』について」ジュリスト八四八号)と。

 一一 本件支出の合違憲性についての私の所見は、基本的に以上に述べたところに尽きるが、私は本件支出は違憲でないとの結論をとるので、憲法二〇条のみならず八九条についても言及する必要がある。

 多数意見はこの点につき、D神社及び県E神社は憲法八九条にいう宗教上の組織又は団体に当たることが明らかであり、本件玉串料等をD神社又は県E神社に奉納したことによってもたらされる県とD神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと解されるから、本件支出は、同条の禁止する公金の支出に当たり、違法というべきであるとした。

 憲法八九条は、行政実務上の解釈困難な問題規定の一つであり、多数意見が津地鎮祭大法廷判決の定立した目的・効果基準に従い、本件支出の憲法八九条適合性を判断した態度は是認されよう。津地鎮祭大法廷判決は、次のように述べている。

 曰く、本件起工式[地鎮祭]はなんら憲法二〇条三項に違反するものではなく、また、宗教団体に特権を与えるものともいえないから、同条一項後段にも違反しないというべきである。更に、右起工式の挙式費用の支出も、本件起工式の目的、効果及び支出金の性質、額等から考えると、特定の宗教組織又は宗教団体に対する財政援助的な支出とはいえないから、憲法八九条に違反するものではなく、地方自治法二条一五項、一三八条の二にも違反するものではない、と。

 津地鎮祭大法廷判決においていう「当該行為」とは津市当局の主催した地鎮祭の挙行であり、本件においては、玉串料等の奉納という支出以外に「当該行為」と目すべきものは存在しないから、右の先例の判文をそのままなぞって本件に翻訳することはできないが、要するに、玉串料等の奉納という本件支出の目的、効果、支出金の性質、額等から考えると、特定の宗教組織又は宗教団体に対する財政援助的な支出とはいえないから、憲法八九条に違反するものではない、というに帰着しよう。

 一二 憲法八九条についての戦後の論議は、実り豊かなものではなかった(旧帝国議会での審議当時、宗教関係者が最も怖れたのは、明治政府によつて国有化された、名義上の国有財産である神社・寺院の境内地等が、この規定を根拠にして全面的に取り上げられるのではないか、ということであった)。そして、その条文は、その規定に該当する限り一銭一厘の支出も許されないかの如き体裁となっている。そこで忽ち問題となるのが、津地鎮祭大法廷判決の判文にも現れる「特定宗教と関係のある私立学校に対し一般の私立学校と同様な助成を」することは、憲法八九条に違反することにならないか、ということである。

 この点は、他の私学への助成金(公金)の支出が許されるのに、特定宗教と関係のある私学への助成金(公金)の支出が許されないとすれば、平等原則の要請に反するから…と説明されるのが通常である。しかし、憲法解釈上の難問に遭遇したとき、安易に平等原則を引いて問題を一挙にクリヤーしようとするのは、実は、憲法論議としての自殺行為にほかならないのではあるまいか。

 一方において、宗教関係学校法人に対する億単位、否、十億単位をもってする巨額の公金の支出が平等原則の故に是認され得るとすれば、そして、もしそれが許されないとすれば即信教の自由の侵害になると論断されるのであれば、その論理は同時に、他の戦没者慰霊施設に対する公金の支出が許されるとすれば、同じく戦没者慰霊施設としての基本的性質を有する神社への、五千円、七千円、八千円、一万円という微々たる公金の支出が許されないわけがない、もし神社が「宗教上の組織又は団体」に当たるとの理由でそれが許されないとすれば、即信教の自由の侵害になる、との結論を導き出すものでなければならない。宗教関係学校法人への巨額の助成を許容しながら微細な玉串料等の支出を違憲として、何故、論者は矛盾を感じないのであろうか。すべて、戦前・戦中の神社崇拝強制の歴史を背景とする、神道批判の結論が先行するが故である。

 戦前・戦中における国家権力による宗教に対する弾圧・干渉をいうならば、苛酷な迫害を受けたものとして、神道系宗教の一派である大本教等があったことが指摘されなければならない。

 一三 悪の芽は小さな中に摘みとるのがよく、憲法の理想とするところを実現するための環境を整える努力を怠ってはならない。しかし、国家神道が消滅してすでに久しい現在、我々の目の前に小さな悪の芽以上のものは存在しないのであろうか。 憲法八九条に関連して一例を挙げれば、宗教団体の所有する不動産やその収益と目すべきものにつき、これを課税の対象から外すことは、宗教団体に対し積極的に公金を支出するのと同様の意味を持つ。これが政教分離原則との関係において合衆国判例において論ぜられて久しい。

 我が国において、これらの点に関連して論ぜられるべき問題状況は果たして存在しないのであろうか。何故これらの点がまともに論ぜられることなく、かえって、細く長く絶えず続けられた本件玉串料等の支出の如きが、何故かくも大々的に論議されなければならないのであるか。これが疑問とされないのは何故であるかを疑問とせざるを得ないのである。

 

【政教分離(2-6-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見3-1】

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【政教分離(2-1-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟】

【政教分離(2-1-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟2】

【政教分離(2-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見】

【政教分離(2-3)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見2】

【政教分離(2-4)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見3】

【政教分離(2-5-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-1】

【政教分離(2-5-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-2】

【政教分離(2-6-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見3-1】

 判示第一についての裁判官可部恒雄の反対意見は、次のとおりである。

 一 本件第一審判決(松山地裁平成元年三月一七日判決)は、いわゆる津地鎮祭大法廷判決(最高裁昭和五二年七月一三日大法廷判決)を先例として掲げて被上告人B1(元愛媛県知事)の行為を違憲とし、その控訴審である原審判決(高松高裁平成四年五月一二日判決)は、同じく右大法廷判決に従って元知事の行為を合憲とし、当審大法廷の多数意見は、同じく右大法廷判決を先例として引いて元知事の行為を違憲であるとする。私は、津地鎮祭大法廷判決の定立した基準に従い、その列挙した四つの考慮要素を勘案すれば、自然に合憲の結論に導かれるものと考えるので、多数意見の説示するところと対比しながら、以下に順次所見を述べることとしたい。

 二 本件は、被上告人B1が愛媛県知事として在任中の昭和五六年から同六一年にかけてD神社の春秋の例大祭に際して奉納された玉串料各五千円、みたま祭に際して奉納された献灯料各七千円又は八千円、愛媛県E神社の春秋の慰霊大祭に際し県遺族会を通じて奉納された供物料各一万円の公金からの支出が憲法二〇条三項、八九条に違反するや否やが争われた事件であるが、多数意見は、本件支出の適否を判断するにあたり、「政教分離原則と憲法二〇条三項、八九条により禁止される国家等の行為」との標題を掲げて、次のように説示した。

 1 まず、政教分離規定がいわゆる制度的保障の規定であること、現実の国家制度として国家と宗教との完全な分離を実現することは実際上不可能に近いこと、政教分離原則を完全に貫こうとすればかえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを挙げて、

 2 国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があり、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、制度の根本目的(信教の自由の保障の確保)との関係において、そのかかわり合いの許否の限度を論ずべきであるとし、

 3 このような見地から考えると、政教分離原則は、国家の宗教的中立性を要求するものではあるが、国家と宗教とのかかわり合いを全く許さないものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的・効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである、と結論づけた。

 三 右にいう「我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするもの」というのは、表現それ自体としては、いわば、適法とされる限度を超える場合には違法となるとするの類いで、もとよりその内容において一義的でなく、それ自体としては、当該行為の合違憲性の判断基準として明確性を欠くとの非難を免れないが、多数意見は、以上に続いて次のように述べている。

 「憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである」と。いわゆる目的・効果基準であり、さきにみた「相当とされる限度を超えるもの」というおよそ一義性に欠ける説示の内容が合違憲性の判断基準として機能することが可能となるための指標が与えられたものと評することができよう。

 しかしながら、具体的な憲法訴訟として提起される社会的紛争につき右の基準を適用して妥当な結論に到達するためには、更により具体的な考慮要素が示されなければならない。多数意見は、この点につき、「1」当該行為の行われる場所、「2」当該行為に対する一般人の宗教的評価、「3」当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、「4」当該行為の一般人に与える効果、影響の四つの考慮要素を挙げ、ある行為が憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」に該当するかどうかを検討するにあたっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、右の「1」ないし「4」の考慮要素等諸般の事情を考慮し、社会通念に従って客観的に判断しなければならない旨を判示した。

 以上、多数意見の説示するところが津地鎮祭大法廷判決の判旨に倣ったものであることは、その判文に照らして明らかである。そこで、以下に津地鎮祭大法廷判決の事案及びその判旨と対比しつつ、多数意見に賛同し得ない理由を述べることとする。

 四 津地鎮祭大法廷判決が判例法理として定立した目的・効果基準とは、()該行為の目的が宗教的意義を持つものであること、及び()その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為であること、の二要件を充足する場合に、それが憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」として違憲となる(その一つでも欠けるときは違憲とならない)とするもので、この点、合衆国判例にいうレモン・テストにおいて、a目的が世俗的なものといえるか、b主要な効果が宗教を援助するものでないといえるか、c国家と宗教との間に過度のかかわり合いがないといえるか、の一つでも充足しないときは違憲とされることとの違いがまず指摘されるべきであろう。

 本件において県のしたさきの支出行為が目的(宗教的意義を持つか)効果(宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等となるか)基準の二要件を充足するか否かを、四つの考慮要素を勘案し、社会通念に従って客観的に判断するためには、まず、津地鎮祭大法廷判決の事案を眺め、それと本件玉串料等支出の事案との異同を識別しなければならない。

 津地鎮祭大法廷判決の事案は、次のようなものである。津市体育館の建設にあたり、その建設現場において、津市の主催による起工式[地鎮祭]が、市職員が進行係となって、神職四名の主宰のもとに、所定の服装で、神社神道固有の祭祀儀式に則り、一定の祭場を設け、一定の祭具を使用して行われ、これを主宰した神職自身、宗教的信仰心に基づいて式を執行したものと考えられるが、その挙式費用(神職に対する報償費及び供物料)を市の公金から支出したことの適否が争われたというものである。

 そして、右大法廷判決は、ある行為が憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」に該当するかどうかを検討するにあたっては、「当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則ったものであるかどうかなど」当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、前述の四つの考慮要素等諸般の事情を考慮し、社会通念に従って客観的に判断しなければならない、としたのである。

 津市長個人を被告とする住民訴訟の形式で争われたのは、地鎮祭の挙式費用としての公金支出の適否であるが、津地鎮祭大法廷判決が憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」に該当するか否かを論じたのは、いうまでもなく、津市の主催した地鎮祭(その主宰者は専門の宗教家である神職で、神社神道固有の祭祀儀式に則って行われたもの)そのものについてである。同判決は、地鎮祭の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則ったものであるかどうかなど、地鎮祭の外形的側面のみにとらわれることなく、「1」地鎮祭の行われる場所、「2」地鎮祭に対する一般人の宗教的評価、「3」地鎮祭主催者である市が地鎮祭を行うについての意図・目的、宗教的意識の有無・程度、「4」地鎮祭の一般人に与える効果・影響等、四つの考慮要素を勘案し、社会通念に従って客観的に判断すべきであるとした。

 以下に、I事件との対比において、本件において、〝当該行為〟が憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」に該当するか否かを決するにあたり、検討されるべき考慮要素とは何か、についてみることとする。

 五 本件において、多数意見が憲法適合性の論議の対象として取り上げるのは、前述のように、D神社の春秋の例大祭に際して奉納された玉串料、みたま祭に際して奉納された献灯料、県E神社の春秋の慰霊大祭に際して県遺族会を通じて奉納された供物料、の公金からの支出行為自体であって、それ以外にない。

 さきのI事件において憲法適合性が論ぜられたのは津市の主催する地鎮祭であるが、本件において多数意見の言及する右の例大祭、みたま祭、慰霊大祭の主催者は、D神社や県E神社であって、もとより県ではない(慰霊大祭についてはその主催者が県E神社であるか遺族会であるかの争いがあるが、その実態からみて両者の共催であるとしても、主催者が県でないことに変わりはない)。

 D神社についていえば、被上告人B1の委任に基づき県東京事務所長の決するところにより、同事務所の職員が、例大祭やみたま祭に際し、多くはその当日ではなく事前に、通常の封筒に入れて玉串料や献灯料を社務所に届けたものであり、知事は勿論、職員の参拝もなかった。

 県E神社についていえば、遺族会の要請により春と秋の彼岸に近接した日に行われる慰霊大祭に際し知事である被上告人B1が(老人福祉課長の専決処理により)遺族会会長である被上告人B1に対し供物料を支出した後、遺族会会長名義の供物料として奉納したものである(一審判決によれば、春秋の慰霊大祭の行事中に知事又はその代理者の参列についての記述がみられる)。

 六 I事件と本件との事案の相違の最も顕著な点は右のとおりであるが、まず、検討すべき考慮要素の「1」「当該行為の行われる場所」についてみると果たしてどうであろうか。

 この点につき多数意見は、本件公金の支出は、D神社又は県E神社が各神社の境内において挙行した恒例の宗教上の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際し、玉串料、献灯料又は供物料を奉納するためになされたものであるとした上、神社神道においては、祭祀を行うことがその中心的な宗教上の活動であるとされていること、例大祭及び慰霊大祭は、神道の祭式に則って行われる儀式を中心とする祭祀であり、各神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有するものと位置付けられていること、みたま祭は同様の儀式を行う祭祀であり、D神社の祭祀中最も盛大な規模で行われるものであることは、いずれも公知の事実である、とする。これらの事実が果たして公知であるか否かは暫く措くとして、多数意見は、神社神道において中心的な宗教上の活動とされる祭祀の中でも重要な意義を有するものと位置付けられ或いは最も盛大な規模で行われる春秋の例大祭、みたま祭又は慰霊大祭が、各神社の境内で挙行されることを強調しているやに見受けられる(このことは、みたま祭において奉納者の名前を記した灯明が境内に掲げられる旨を特記する点にも表れている)。しかし、恒例の宗教上の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭が神社の境内において挙行されるのは、あまりにも当然のことであって(灯明の掲げられる場所が境内であることについても同様である)、問題とされた本件支出行為につき、津地鎮祭大法廷判決が例示し、本件において多数意見がこれに倣う考慮要素の一としての〝当該行為の行われる場所〟としての意味を持ち得るものではない。

 七 次に、多数意見の掲げる考慮要素の「2」「当該行為に対する一般人の宗教的評価」についてみることとする。この点につき多数意見は、一般に、神社自体がその境内において(ここで再び「境内において」と強調されるのは、考慮要素「1」とのかかわり合いであろう)挙行する恒例の重要な祭祀に際して右のような玉串料を奉納することは、建築主が主催して建築現場において土地の平安堅固工事の無事安全等を祈願するために行う儀式である起工式[地鎮祭]の場合とは異なり、時代の推移によって既にその宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとまでは到底いうこということができず、一般人が本件の玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難いところである、という。

 元来、我が国においては、(キリスト教諸国や回教諸国と異なり)各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存して来ていることは、多数意見の述べるとおりであるが、さきの津地鎮祭大法廷判決は、この点の指摘とともに、多くの国民は、地域社会の一員としては神道を、個人としては仏教を信仰するなどし、冠婚葬祭に際しても異なる宗教を使い分けしてさしたる矛盾を感ずることがないというような宗教意識の雑居性が認められ、国民一般の宗教的関心は必ずしも高いものとはいい難い、と述べている。地域社会の一員としては、鎮守の杜のお社の氏子として行動し、家に帰っては、それぞれの寺院に先祖代々の墳墓を設け、葬儀も供養も仏式によって行うというのは、国民の間で広く受け容れられている生活の類型である。

 初詣には神社に参詣することが多いが、参詣者の大部分は仏教徒である。神社に参詣すれば通常はお賽銭を上げるが、履物を脱いで参殿し、神前に額づいて神職から格別の扱いを受ければ、玉串料を捧げることになる。七五三の行事は概ねこれによって行われる。式次第は神社神道固有の祭祀儀式に則って行われるが、それを受ける側の参詣者の多くは仏教徒その他神道信仰者以外の者であって、内心において信仰上の違和感を持たないのが通常であろう。

 国民が神社に参詣し玉串料等を捧げるのは、初詣や神前の結婚式や七五三や個人的な祈願のための行事の機会の外に、神社神道においてその中心的な宗教上の活動であるとされる恒例の祭祀の機会がある。D神社の春秋の例大祭、みたま祭、県E神社の春秋の慰霊大祭もその一つである。D神社や県E神社は、元来、戦没者の慰霊のための場所、施設である。戦後、占領政策の一環として宗教法人としての性格付けを与えられたが、そのために戦没者の慰霊のための場所、施設としての基本的性質が失われたわけではない。D神社の祭神は百五単位をもって数える戦没者が主体であり、県E神社のそれは愛媛県出身の戦没者が主体であるが、そのほかに、旧藩主、藩政に功労のあった者、産業功労者、警察官、消防団員、自衛官の公務殉職者等を含むとされる。祭神という言葉はいかめしいが、いわば神社神道固有の〝術語〟であり、神社に参詣する国民一般からすれば、今は亡きあの人この人であって、ゴッドではない。

 各県におけるE神社は、かつては招魂社と呼ばれた。その恒例の祭祀が招魂祭である。現に六〇歳代以上の年輩者には記憶のあることであるが、「招魂祭」とは戦没者の慰霊のための催しであるとはいえ、現在の政教分離原則の下で国家神道との関係が云々されるようないかめしいものではなく、招魂社の境内には綿菓子やのし烏賊を売る屋台が並び、それらの匂いの漂う子供心にも楽しいお祭り以外の何物でもなかった。

 県E神社についていえば、春秋二回の慰霊大祭に際し、「供物料 愛媛県」と書いたのし袋に一万円を入れて、県E神社の境内にある県遺族会事務所に届け、県遺族会から「供物料 財団法人F遺族会会長B1」と書いたのし袋に一万円を入れて、県E神社に奉納したものであり、D神社についても、県職員が多くは事前に通常の封筒に入れて玉串料(各五千円)や献灯料(七千円又は八千円)を社務所に届け、知事は勿論、職員の参列もなかったことは、前述のとおりである。金額が軽少であることが特に注目されよう。

 以上のように具体的に考察してみれば、神社の恒例の祭祀に際し、招かれて或いは求められて玉串料、献灯料、供物料等を捧げることは、神社の祭祀にかかわることであり、奉納先が神社であるところから、宗教にかかわるものであることは否定できず、またその必要もないが、それが慣習化した社会的儀礼としての側面を有することは、到底否定し難いところといわなければならない。

 しかるに多数意見は、地鎮祭の先例を引いて社会的儀礼にすぎないとはいえないとする。地鎮祭は、前述のとおり、津市の主催の下に、専門の宗教家である神職が、所定の服装で、神社神道固有の祭祀儀式に則って、一定の祭場を設け一定の祭具を使用して行ったものであるのに対し、本件はD神社又は県E神社の主催する例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際して、比較的低額の玉串料等を奉納したというのが実態であって、当該行為に対する一般人の宗教的評価いかんを判定するにあたり、前者は社会的儀礼にすぎないが、後者をもって「一般人が…社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難い」とするのは、著しく評価のバランスを失するものといわなければならない。

 多数意見がこのように性急に論断する理由は、「県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持ったということが明らかである」ことにある。

 しかしながら、「政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ない」ことは、多数意見の自ら述べるとおりで、「そのかかわり合いが…相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを」違憲と判断するための目的・効果基準を定立し、その具体的適用にあたり検討すべき四つの考慮要素を掲げた。その考慮要素の「2」〝当該行為に対する一般人の宗教的評価〟を論ずるにあたり、「県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持った」ことを理由に、当該行為が宗教的意義を持つとの一般人の評価が肯定されるというのでは、目的・効果基準を具体的に適用する上での考慮要素「2」は何ら機能していないものといわざるを得ない。

【政教分離(2-5-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-2】


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憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

憲法目次Ⅳ

【政教分離(2-1-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟】

【政教分離(2-1-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟2】

【政教分離(2-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見】

【政教分離(2-3)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見2】

【政教分離(2-4)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見3】

【政教分離(2-5-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-1】

【政教分離(2-5-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-2】

【政教分離(2-6-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見3-1】

 三 本件支出にかかる事実関係とその検討

 1 D神社に対する供与

 D神社に対する供与は、昭和五六年から同六一年までの間、春秋の例大祭に際し、玉串料名下に一回五〇〇〇円ずつ九回、七月のみたま祭に際し、献灯料名下に一回七〇〇〇円ないし八〇〇〇円ずつ四回供与したもので、その供与は合計七万六〇〇〇円である。

 右各供与は、恒例の宗教上の祭祀である春秋の例大祭及びみたま祭に際してされたものであり、しかも昭和三三年ころから毎年継続して行われてきたというのであるが、次の諸点が留意されなければならない。

 () 金員の供与がD神社の恒例の祭祀に際してされたことが問題とされている。しかしながら、現在のD神社の春秋の例大祭の日は、戦後の政教分離政策の実施とともに、それぞれ春分の日及び秋分の日を基に新旧暦で換算して定めたものであり、春分の日及び秋分の日は、国民生活において、彼岸の中日として、祖先など死没者の墓参りが行われる日である。また、みたま祭は、古来我が国で祖先などの霊を祀り、慰め、供養する日とされてきたお盆(もともと民間習俗であって、仏教に由来するものではないとされている。)の日にちなんで、戦後設定したものであり、お盆に帰ってくる祖先などの霊を迎えるため提灯を掲げる習俗に合わせ、D神社の境内にも、献灯料によって二万を超える提灯が掲げられるのである。すなわち、いずれも特に祭神に直接かかわりのある日を卜して定められたものではなく、我が国において多数を占める国民が日常生活の上で祖先などの追悼、慰霊の日としてきた日にちなんで定められた日であって、特定の宗教への信仰を離れても、戦没者の追悼、慰霊をするにふさわしい日といえる。

 春秋の例大祭及びみたま祭は、D神社の立場からすれば、いわゆる恒例祭として、重要な宗教的意義を持ち、外形的にも主要な宗教的儀式にほかならないけれども、二に述べたように、多くの国民は、D神社を戦没者の追悼、慰霊の中心的施設と意識しているのであって、祖先などの追悼、慰霊の日にちなんだ日に行われる例大祭やみたま祭については、多くの国民や遺族は、戦没者を偲び、追悼し、慰霊する行事との意識が強く、祭神を信仰の対象としての宗教的儀式という意識は、必ずしも一般的ではないといえる。憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動及び同八九条の禁止する公金の支出に当たるかどうかの判断は、多くの国民の側の意識を考慮してされるべきであって、D神社の立場に立ってされるべきではない。このことは宗教的儀式の二面性ともいうべきものであって、世俗的行事とされている地鎮祭のような宗教的儀式についてもいえる。すなわち、地鎮祭も、これを主宰している神職の立場からすれば、降神の儀により大地主神及び産土神をその場所に招いて行う厳粛な神儀であり、外形的にも宗教的儀式にほかならないが、ただ建築主その他の参列者を含む国民一般は、世俗的行事と意識しているということなのである。

 () 右各金員の供与は、いずれもD神社からの案内に基づき、あらかじめ愛媛県知事である被上告人B1から委任を受けていた愛媛県東京事務所長である被上告人B2が通常の封筒に金員を入れて同神社の社務所に持参し、玉串料又は献灯料として持参した旨を口頭で告げて、同神社に交付したというのである。この供与の機会あるいは例大祭やみたま祭の機会に、県知事自らが参拝した事実はないのみならず、東京事務所長その他の県職員が代理して参拝した事実もなく、通常の封筒に入れて玉串料又は献灯料と記載することもなく交付しているのであって、供与の態様は極めて事務的といえる。

 例大祭に際しては、交付に当たり「玉串料」と告げているが、玉串料とは、神式による儀式に関連して金員を供与するに当たっての一つの名目でもあり、葬儀が神式で行われる場合、香典の表書を「御玉串料」とする例も多いことは、周知のところであるし、例大祭において、県関係者による現実の玉串奉奠がされたこともない。それ故、玉串料という名目に、必ずしも供与する側の宗教的意図、目的を見い出すことはできず、また、必ずしも国民一般がこれを宗教的意義ある供与として意識するともいえないと思われる。ちなみに、前出最高裁昭和五二年七月一三日大法廷判決が世俗的行事であって憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たらないと判示した津市体育館の地鎮祭においては、神事として、津市長、同市議会議長らによって、現実に玉串奉奠が行われているし、最高裁昭和六二年(行ツ)第一四八号平成五年二月一六日第三小法廷判決・民集四七巻三号一六八七頁がそれへの参列は宗教的活動に当たらないとした忠魂碑前での神式による慰霊祭の神事においても、市長ら参列者により現実の玉串奉奠が行われているのである。

 みたま祭に際しては、交付に当たり「献灯料」と告げているが、境内に提灯が掲げられるのは、お盆に祖先を迎えるため提灯を掲げる我が国の習俗に由来すること、多くの国民はD神社を戦没者の追悼、慰霊の中心的施設と意識しているしと前述のとおりであることからすれば、多くの国民は、みたま祭の献灯をD神社の祭神にかかる宗教的儀式と結び付ける意識は薄く、戦没者の追悼、慰霊のためとの意識が強いということができる。そのための献灯料の供与に、必ずしも供与する側の宗教的意図、目的を見い出すことはできず、また、必ずしも国民一般がこれを宗教的意義ある供与として意識するともいえないと思われる。

 () 供与にかかる金員の額は、一般に冠婚葬祭などに際し、都道府県ないしその知事の名義で社会的儀礼として供与する金員として最低限度の額といえるものであることは明らかであるし、愛媛県の規模、予算その他からしても、逆にD神社のそれらからしても、極めて微少であって、金額からみれば、宗教とのかかわり合いは最低限度のものといってよい。金員供与が毎年の例大祭ないしみたま祭に際し継続的にされていることから、単に社会的儀礼の範囲にとどまるものとは評価し難いとする向きもあるが、右のように、例大祭やみたま祭に際しての金員の供与が、追悼、慰霊としての社会的儀礼の範囲内といえる程度のものであるならば、それが春秋ないし毎年の追悼、慰霊の機会に継続的にされたことは、あたかも死没者に対する毎年の命日ごとの追悼、慰霊のように、手厚い儀礼上の配慮がされたというべきものであって、継続的にされたことから、社会的儀礼の範囲を超えるものと評価することは当たらない。

 ちなみに、D懇報告書をふまえて、昭和六〇年の終戦記念日に内閣総理大臣がD神社の本殿に昇殿して、公式に参拝をしたが、その際、「内閣総理大臣何某」の名入りの花一対を本殿に供えた。その代金として公金から支出されD神社に交付された金員の額は、三万円であり、一国を代表する者としての戦没者の追悼、慰霊のための支出として、当然社会的儀礼の範囲内といえる額であるが、これとの対比においても、右各供与が社会的儀礼の範囲を超えるものでないことは明らかである。

 なお、判例をみると、地方公共団体が行う接待等については、一回の機会にかなりの金額を支出している場合にも、社会通念上儀礼の範囲を逸脱したものとまでは断じ難いとしており、奈良県の某町が、地元出身の大臣の祝賀式典の挙行等のために、三二六万余円の公金(同町の当時の歳出予算額の〇・一六パーセントを占める金額)を支出した事案で、「社交儀礼の範囲を逸脱しているとまでは断定することができず」と判示した(最高裁昭和六一年(行ツ)第一二一号平成元年七月四日第三小法廷判決・判例時報一三五六号七八頁)のは、その例である。戦没者の追悼、慰霊のための宗教とのかかわり合いが相当とされる限度を超えるかどうかが問題とされる場合のみ、微少な金額の支出についても、厳しく糾弾するのは、バランスを欠くとの感を否めない。

 2 宗教法人愛媛県E神社(以下、私の反対意見において、「愛媛県E神社」という。)に対する供与

 愛媛県E神社に対する供与は、昭和五六年から同六一年までの間、春秋の慰霊大祭に際し、供物料名下に一回一万円ずつ九回供与したもので、その供与は合計九万円である。

 右各供与は、恒例の宗教上の祭祀である春秋の慰霊大祭に際してされたものであり、しかも、昭和三三年ころから毎年継続して行われてきたというのであるが、次の諸点が留意されなければならない。

 () 金員の供与は春秋の慰霊大祭の際にされており、愛媛県E神社の恒例の大祭に際して供与されたことが問題とされる。しかしながら、春秋の大祭は、愛媛県E神社の立場からすれば、重要な宗教的意義を持ち、外形的にも主要な宗教的儀式にほかならないけれども、二に述べたように、多くの国民は、E神社を戦没者の追悼、慰霊の中心的施設と意識しているのであって、慰霊大祭の名の下に行われるこの行事については、()に後述するようにこの行事に深く関与している財団法人F遺族会(以下、私の反対意見において、「F遺族会」という。)を始めとし、多くの国民や遺族は、慰霊大祭の名に示されるとおり、正に戦没者を偲び、追悼し、慰霊する行事との意識が強く、祭神を信仰の対象としての宗教的儀式という意識は、必ずしも一般的ではないといえる。このことは、D神社の例大祭及びみたま祭について述べたと同じく、宗教的儀式の二面性として把握されるべきものであって、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動及び同八九条の禁止する公金の支出に当たるかどうかの判断は、多くの国民の側の意識を考慮してされるべきものであって、愛媛県E神社の立場に立ってされるべきではない。

 () 右各金員の供与は、以下のようにしてされた。すなわち、まずF遺族会ないし同会長の名義による愛媛県知事あての慰霊大祭の案内状が届き、愛媛県では、慰霊大祭の供物料として一万円を支出する手続をとり、「供物料、愛媛県」と表書したのし袋に入れ、通常は老人福祉課遺族援護係長がF遺族会の事務所に持参し、これを受領した同会は、慰霊大祭の日に、右一万円を「供物料、財団法人F遺族会会長B1」と表書したのし袋に入れ替えて、愛媛県E神社に交付した、というのである。

 このように、愛媛県からの金員供与は、直接的には、F遺族会に対してされ、同会において、同会会長名を表書した別ののし袋に入れ替えて、愛媛県E神社に交付しているのであるから、愛媛県から愛媛県E神社に対する金員の供与というべきであるかは著しく疑問で、むしろ、供物料を奉納するのはF遺族会であって、愛媛県は、遺族援護業務として、F遺族会に対し供物料を供与したものといえるのである。F遺族会が宗教上の組織又は団体に当たらないことはいうまでもない。仮に愛媛県から愛媛県E神社への供与とみることができるとしても、その供与は間接的というほかはない。

 表書は「供物料」となっているが、供物料とは、神式に限らず、神式又は仏式による儀式に関連して金員を供与するに当たっての一の名目でもあり、葬儀が神式で行われる場合、香典の表書を「神饌料」(「神饌」とは、神に供する酒食の意である。)とする例もあることは、周知のところである。それ故、供物料という名目に、必ずしも供与する側の宗教的意図、目的を見い出すことはできず、また、必ずしも国民一般がこれを宗教的意義ある供与として意識するともいえないと思われる。

 () 供与にかかる金員の額は、一般に冠婚葬祭などに際し、都道府県ないしその知事の名義で社会的儀礼として供与する金員として最低限度の額といえるものであることは明らかであり、愛媛県の規模、予算その他からしても、極めて微少であって、金額からみれば、宗教とのかかわり合いは最低限度のものといってよいことなどは、D神社に対する供与について述べたのと同様である。金員の供与が毎年春秋の慰霊大祭に際し継続的にされていることから、単に社会的儀礼の範囲にとどまるものとは評価し難いとする向きもあるが、D神社に対する供与について述べたのと同様に、金員の供与が追悼、慰霊としての社会的儀礼の範囲内といえる程度のものであるならば、それが継続されたことは、手厚い儀礼上の配慮がされたと評価すべきものであって、継続的にされたことから、社会的儀礼の範囲を超えるものと評価することはできない。

 四 本件支出の評価

 戦没者に対する追悼、慰霊は、国民一般として、当然の行為であり、また、国や地方公共団体、あるいはそれを代表する立場にある者としても、当然の礼儀であり、道義上からは義務ともいえるものであること、また、D神社やE神社は、多くの国民から、日清戦争、日露戦争以来の我が国の戦没者の追悼、慰霊の中心的施設であり、戦没者の御霊のすべてを象徴する施設として意識されており、現実の問題として、そのような施設は、D神社やE神社をおいてはほかに存在しないことは、二に述べたとおりである。また、本件支出にかかるD神社及び愛媛県E神社への供与は、右各神社の側からすれば、重要な宗教的意義を持ち外形的にも主要な宗教的儀式である恒例祭に際してされたものであるけれども、多くの国民や遺族にとっては、戦没者を偲び、追悼し、慰霊する行事に際してのことであること、D神社への供与は、その交付の態様は極めて事務的であること、愛媛県E神社への供与とされている供与は、遺族援護業務としてのF遺族会への供与ということができ、愛媛県E神社への供与と断ずべきものか著しく疑問であるのみならず、仮にそのような供与とみることができるとしても、その供与は間接的であること、玉串料又は献灯料と告げ、あるいは供物料と表書したことに、必ずしも供与する側の宗教的意図、目的を見い出すことはできず、また、必ずしも国民一般がこれを宗教的意義ある供与として意識するともいえないと思われること、供与の額は、一般に冠婚葬祭などに際し、都道府県やその知事の名義で社会的儀礼として供与される金員として最低限度の額といえるものであり、金額からみれば、宗教とのかかわり合いは最低限度のものといってよいこと、供与が毎年継続的にされたことから、社会的儀礼の範囲を超えるものと評価することはできないことなどは、三に述べたとおりである。

 以上に加えて、我が国においては、家に神棚と仏壇が併存し、その双方にお参りをし、さらに、家の中にはそれ以外の神仏の守り札も掲げられているといった家庭が多く、場合によっては、その子女はミッション系の学園で学んでいるといったこともみられる。また、前出最高裁平成五年二月一六日第三小法廷判決の事案にみられるように、同一の遺族会主催の下に毎年一回行われる同一の忠魂碑の前での慰霊祭が、神式、仏式隔年交替で行われている事例もある。すなわち、我が国においては、多くの国民の宗教意識にも、その日常生活にも、異なる宗教が併存し、その併存は、調和し、違和感のないものとして、肯定されているのであって、我が国の社会においては、一般に、特定の宗教に対するこだわりの意識は希薄であり、他に対してむしろ寛容であるといってよい。このような社会の在り方は、別段批判せらるべきものではなく、一つの評価してよい在り方であり、少なくとも「宗教的意識の雑居性」というような「さげすみ」ともとれる言葉で呼ばれるべきものではない。このような社会的事情も考慮に入れるれなければならず、特定の宗教のみに深い信仰を持つ人々にも、本件のような問題につきある程度の寛容さが求められるところである。

 これら諸般の事情を総合すれば、本件支出は、いずれも遺族援護業務の一環としてされたものであって、支出の意図、目的は、戦没者を追悼し、慰霊し、遺族を慰めることにあったとみるべきであり、多くの国民もそのようなものとして受け止めているということができ、国民一般に与える効果、影響等としても、戦没者を追悼、慰霊し、我が国や世界の平和を折求し、遺族を慰める気持を援助、助長、促進するという積極に評価されるべき効果、影響等はあるけれども、特定の宗教を援助、助長、促進し、又は他の宗教に対する圧迫、干渉等となる効果、影響等があるとは到底いうことができず、これによってもたらされる愛媛県とD神社又は愛媛県E神社とのかかわり合いは、我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるとはいえない。本件支出は、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に該当せず、同八九条の禁止する公金の支出にも該当せず、また、同二〇条一項後段にも違反しないというべきである。

 五 付言

 1 本件支出をもって違憲ということができないことは、以上に詳述したとおりであるが、心の問題としては、わだかまるものがないではない。二に述べたとおり、公人が公人の立場で、過度に特定の宗教とかかわることのない限度で、戦没者の追悼、慰霊に尽くすことは、当然の礼儀であり、道義上は義務ともいえるのであるが、追悼、慰霊が特定の宗教とかかわりを持って行われる場合の支出は、そのかかわり合いが相当とされる限度を超えないものに限られるのであるから、当然本件支出の金額程度にとどまる。そうだとすれば、心の問題としては、その程度の金員は、これを自己において支弁することに、より共感を覚える。けだし、自己において支弁する方がより心のこもった供与となり、追悼、慰霊の趣旨に一層かなうからである。しかし、このことは、本件支出が違憲かどうかにはかかわりがない。本件では、心の問題としての本件支出の相当性が問われているのではない。上述のような判断となった次第である。

 2 D神社やE神社と国や地方公共団体とのかかわりに関して、世上、国家神道及び軍国主義の復活を懸念する声がある。戦前の一時期及び戦時中において、事実上神社に対する礼拝が強制されたことがあり、右危惧を抱く気持は理解し得ないではない。しかしながら、昭和二〇年一二月一五日の連合国最高司令官からのいわゆる神道指令により、神社神道は一宗教として他のすべての宗教と全く同一の法的基礎に立つものとされると同時に、神道を含む一切の宗教を国家から分離するための具体的措置が明示され、さらに、昭和二二年五月三日には政教分離規定を設けた憲法が施行された。戦後現在に至るD神社やE神社は、他の宗教法人と同じ地位にある宗教法人であって、戦前とはその性格を異にしている。また、政教分離規定を設けた憲法の下では、国家神道の復活はあり得ないし、平和主義をその基本原理の一つとする憲法は、軍国主義の十分な歯止めとなっている。D神社の社憲二条にも、神社の目的として、「…万世にゆるぎなき太平の基を開き、以て安国の実現に寄与するを以て根幹の目的とする。」と定められているところである。D神社やE神社と国や地方公共団体との本件程度のかかわり合いにつき、そのような危惧を抱くのは、短絡的との感を免れず、日本国民の良識を疑っているものといわざるを得ない。戦後長い間に培われた日本国民の良識をもっと信頼すべきであろう。

 3 世上、D神社に一四人のA級戦犯も合祀されているしとを指摘する向きもある。今ここに東京裁判について論述することは、本件訴訟の争点と関係がないので、差し控えるが、A級戦犯が合祀されていることは、二四六万余にのぼる多くの戦没者につき、追悼、慰霊がされるべきであることとかかわりのないことであるし、まして本件支出が特定の宗教との相当とされる限度を超えるかかわり合いに当たるかどうかとは無関係の事柄である。D懇報告書にも、「合祀者の決定は、現在、D神社の自由になし得るところであり、また、合祀者の決定に仮に問題があるとしても、国家、社会、国民のために尊い生命を捧げた多くの人々をおろそかにして良いことにはならないであろう。」と指摘されているので、これを引用する。

 4 なお、本件のような問題は、本質的には、国内問題であることはいうまでもないが、右2及び3については、常に関係諸外国の理解を得るための努力も続けられなければならないところである。      

 

 

【政教分離(2-5-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-1】

 

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【政教分離(2-1-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟】

【政教分離(2-1-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟2】

【政教分離(2-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見】

【政教分離(2-3)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見2】

【政教分離(2-4)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見3】

【政教分離(2-5-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-1】

【政教分離(2-5-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-2】

【政教分離(2-6-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見3-1】

 判示第一についての裁判官三好達の反対意見は、次のとおりである。

 私は、本件支出は、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に該当せず、また、同八九条の禁止する公金の支出にも該当しないし、宗教団体が国から特権を受けることを禁止した同二〇条一項後段にも違反しないと考える。したがって、上告人らの本訴請求は棄却されるべきものであり、これを棄却した原判決は、その結論において維持せらるべく、本件上告は、理由がないものとして、これを棄却すべきものであると考える。以下、その理由を述べる。

 一 憲法における政教分離原則と憲法の禁止する宗教的活動及び公金の支出

 この点についての私の考えは、多数意見も引用するところの最高裁昭和四六年(行ツ)第六九号同五二年七月一三日大法廷判決・民集三一巻四号五三三頁及び最高裁昭和五七年(オ)第九〇二号同六三年六月一日大法廷判決・民集四二巻五号二七七頁の判示するところと同一であるが、以下、その主要な点を申し述べる。

 現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近く、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが、問題とならざるを得ないのである。右のような見地から考えると、憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。

 右の政教分離原則の意義に照らすと、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきであり、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するか否かを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意義の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。

 そして、本件支出が、宗教上の組織又は団体に対する公金の支出として、憲法八九条によって禁止されるものに当たるか否かの判断も、右の基準によってされるべきものであり、本件支出を評価するに当たっては、我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められるか否かを検討すべきであり、また、その検討に当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることがあってはならないのである。

 二 D神社及び各県などのE神社(私の反対意見において、E神社とは、宗教法人愛媛県E神社のみを指すのではなく、各県などに存在するE神社一般を指称する。)をめぐる国民の意識等

 1 祖国や父母、妻子、同胞等を守るために一命を捧げた戦没者を追悼し、慰霊することは、遺族や戦友に限らず、国民一般としての当然の行為ということができる。このような追悼、慰霊は、祖国や世界の平和を祈念し、また、配偶者や肉親を失った遺族を慰めることでもあり、宗教、宗派あるいは民族、国家を超えた人間自然の普遍的な情感であるからである。そして、国や地方公共団体、あるいはそれを代表する立場に立つ者としても、このような追悼、慰霊を行うことは、国民多数の感情にも合致し、遺族の心情にも沿うものであるのみならず、国家に殉じた戦没者を手厚く、末長く追悼、慰霊することは、国や地方公共団体、あるいはそれを代表する立場にある者としての当然の礼儀であり、道義の上からは義務ともいうべきものである。諸外国の実情をみても、各国の法令上の差異や、国家と宗教とのかかわり方の相違などにかかわらず、国が自ら追悼、慰霊のための行事を行い、あるいは、国を代表する者その他公的立場に立つ者が民間団体の行うこれらの行事に公的資格において参列するなど、戦没者の追悼、慰霊を公的に行う多数の例が存在する。我が国においても、この間の事情は、これら諸外国と同様に考えることができる。そして、前述のように戦没者に対する追悼、慰霊は人間自然の普遍的な情感であることからすれば、追悼、慰霊を行うべきことは、戦没者が国に殉じた当時における国としての政策が、長い歴史からみて、正であったか邪であったか、当を得ていたか否かとはかかわりのないことというべきである。

 以上のような私の考えは、さきに内閣総理大臣その他の国務大臣のD神社参拝の在り方をめぐる問題について検討を遂げた「閣僚のD神社参拝問題に関する懇談会」の昭和六〇年八月九日の報告書(以下、「D懇報告書」という。)において述べられているところと概ね趣旨を同じくするものである。

 そして、一般的にいえば、慰霊の対象である御霊というものは、宗教的意識と全く切り離された存在としては考え難いのであって、ただ留意すべきことは、追悼、慰霊に当たり、特定の宗教とのかかわり合いが相当とされる限度を超えることによって、憲法二〇条三項等に違反してはならないということである。

 2 D神社は、主として我が国に殉じた戦没者二四六万余を祀る神社であり、各県などにあるE神社は、主として右戦没者のうちその県などに縁故のある人々を祀る神社であって、いずれも宗教的施設にほかならない。そして、折りにふれD神社やE神社にいわゆるお参りをする遺族や戦友を始め国民の中には、祭神を信仰の対象としてお参りするという者もあるであろうが、より一般的には、そのような宗教的行為をしているという意識よりは、国に殉じた父、息子、兄弟、友人、知人、さらにはもっと広く国に殉じた同胞を偲び、追悼し、慰霊するという意識が強く、これをもっと素朴にいえば、戦没者を慰めるために、会いに行くという気持が強いといえる。

 そうであってみれば、D神社やE神社は、正に神道の宗教的施設であり、右各神社の側としては、お参りする者はすべて祭神を信仰の対象とする宗教的意識に基づき宗教的行為をしている者と受け取っているであろうことはいうまでもないところであるが、右に述べたような多くの国民の意識からすれば、右各神社は、戦没者を偲び、追悼し、慰霊する特別の施設、追悼、慰霊の中心的施設となっているといえるのであって、国民の多くからは、特定の宗教にかかる施設というよりも、特定の宗教を超えての、国に殉じた人々の御霊を象徴する施設として、あたかも御霊を象徴する標柱、碑、名牌などのように受け取られているといってよいものと思われる。

 D懇報告書も、国民や遺族の多くは、戦後から今日に至るまで、D神社を、その沿革や規模からみて、依然として我が国における戦没者追悼の中心的施設であるとしている旨を指摘しているところである。

 これに加えて、現実の問題として、戦没者を追悼、慰霊しようとする場合、我が国に殉じた戦没者すべての御霊を象徴するものは、D神社以外に存在しないし、右戦没者のうちその県などに縁故のある人々すべての御霊を象徴するものは、その県などのE神社をおいてほかに存在しないといってよい。H戦没者墓苑もあり、右墓苑における追悼、慰霊も怠ってはならないが、何といっても、右墓苑は、先の大戦での戦没者の遺骨のうち、氏名が判明せず、また、その遺族が不明なことから、遺族に渡すことのできない遺骨を奉安した墓苑であって、日清戦争や日露戦争での戦没者を始めとし、我が国のために殉じたすべての戦没者の御霊にかかる施設ではない。また、識者の中には、追悼、慰霊のための宗教、宗派にかかわりのない公的施設を新たに設置することを提案する意見もあり、考慮に値する意見ではあるが、国民感情や遺族の心境は、必ずしも合理的に割り切れるものではなく、このような施設が設置されたからといって、これまでD神社やE神社を追悼、慰霊の中心的施設としてきている国民感情や遺族の心境に直ちに大きな変化をもたらすものとは考え難い。

 3 国民の中に、D神社やE神社において、国や地方公共団体などを代表する立場にある者によって戦没者の追悼、慰霊の途が講ぜられることを望む声が多く、また、いわゆる公式参拝決議をした県議会や市町村議会も多いが、それらは、このように多くの国民の意識として右各神社が戦没者の追悼、慰霊の中心的施設として意識されていることによるものである。これらのことなどから、まだ占領下であった昭和二六年一〇月一八日、戦後はじめてのD神社の秋季例大祭に内閣総理大臣、その他の国務大臣らによる参拝が行われて以来、D神社の春季、秋季の例大祭や終戦記念日に同神社に参拝した内閣総理大臣その他の国務大臣は多く(一定の時期までは、内閣総理大臣のうち参拝しなかった者は、むしろ例外である。)、それらのうちには、いわゆる公式参拝であることを言明した者がかなりの数に上っているし、参拝した内閣総理大臣の中には、クリスチャンである者も含まれているとされている。D懇報告書も、「政府は、この際、大方の国民感情や遺族の心情をくみ、政教分離原則に関する憲法の規定の趣旨に反することなく、また、国民の多数により支持され、受け入れられる何らかの形で、内閣総理大臣その他の国務大臣のD神社への公式参拝を実施する方途を検討すべきである」と提言しているところである。

 4 本件支出を評価するに当たっての社会的・文化的諸条件として、以上述べたようなD神社やE神社に対する多くの国民の意識等を十分に考慮しなければならない。

 

【政教分離(2-4)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見3】

憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

憲法目次Ⅳ

【政教分離(2-1-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟】

【政教分離(2-1-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟2】

【政教分離(2-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見】

【政教分離(2-3)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見2】

【政教分離(2-4)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見3】

【政教分離(2-5-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-1】

【政教分離(2-5-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-2】

【政教分離(2-6-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見3-1】

 判示第一の二についての裁判官尾崎行信の意見は、次のとおりである。

 私は、多数意見の結論には同調するが、多数意見のうち第一の二については賛成することができないので、その点についての私の意見を明らかにしておきたい。

 

 一 政教分離規定の趣旨・目的と合憲性の判断基準

 多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決及び多数意見も説示しているとおり、憲法は、大日本帝国憲法下において信教の自由の保障が不十分であったため種々の弊害が生じたことにかんがみ、信教の自由を無条件に保障し、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けたものであり、これを設けるに当たっては、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。右大法延判決は、右の説示に続けて、国家が諸施策を実施するに当たり宗教とのかかわり合いを生ずることは免れ難く、国家と宗教との完全分離を実現することは実際上不可能に近いし、これに固執すればかえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないとし、完全分離の理想を貫徹し得ない例として、宗教関係の私立学校への助成等を挙げている。なるほど平等権や信教の自由を否定する結果を招くような完全分離は不合理極まりないとみることができるから、こうした憲法的価値を確保することができるよう考慮を払うことには理由があり、厳格な完全分離の例外を一定限度で許し、柔軟に対応する余地を残すことは、複雑多岐な社会事象を処理するための慎重な態度というべきであろう。この範囲において、私は、右大法廷判決の説くところに同意することができる。そして、私は、右の説示の趣旨に沿って政教分離規定を解釈すれば、国家と宗教との完全分離を原則とし、完全分離が不可能であり、かつ、分離に固執すると不合理な結果を招く場合に限って、例外的に国家と宗教とのかかわり合いが憲法上許容されるとすべきものと考えるのである。

 このような考え方に立てば、憲法二〇条三項が「いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しているのも、国が宗教とのかかわり合いを持つ行為は、原則として禁止されるとした上で、ただ実際上国家と宗教との分離が不可能で、分離に固執すると不合理な結果を生ずる場合に限って、例外的に許容されるとするものであると解するのが相当である。したがって、国は、その施策を実施するための行為が宗教とのかかわり合いを持つものであるときには、まず禁じられた活動に当たるとしてこれを避け、宗教性のない代替手段が存しないかどうかを検討すべきである。そして、当該施策を他の手段でも実施することができるならば、国は、宗教的活動に当たると疑われる行為をすべきではない。しかし、宗教とのかかわり合いを持たない方法では、当該施策を実施することができず、これを放棄すると、社会生活上不合理な結果を生ずるときは、更に進んで、当該施策の目的や施策に含まれる法的価値、利益はいかなるものか、この価値はその行為を行うことにより信教の自由に及ぼす影響と比べて優越するものか、その程度はどれほどかなどを考慮しなければならない。施策を実施しない場合に他の重要な価値、特に憲法的価値の侵害が生ずることも、著しい社会的不合理の一場合である。こうした検証を経た上、政教分離原則の除外例として特に許容するに値する高度な法的利益が明白に認められない限り、国は、疑義ある活動に関与すべきではない。このような解釈こそが、憲法が政教分離規定を設けた前述の経緯や趣旨に最もよく合致し、文言にも忠実なものである上、合憲性の判断基準としても明確で疑義の少ないものということができる。そして、右の検討の結果、明確に例外的事情があるものと判断されない限り、その行為は禁止されると解するのが、制度の趣旨に沿うものと考える。

 二 多数意見に対する疑問

 これに対し、多数意見の示す政教分離規定の解釈は、前述の制定経緯やその趣旨及び文言に忠実とはいえず、また、その判断基準は、極めて多様な諸要素の総合考慮という漠然としたもので、基準としての客観性、明確性に欠けており、相当ではないというほかはなく、私は、これに賛成することができない。その理由は、次のとおりである。

 1 多数意見は、憲法が政教の完全分離を理想としているとしつつ、「分離にもおのずから一定の限界がある」という。この判示のみをみれば、宗教的活動のすべてが「許されない」のが原則であるが、分離不能など特別の事情のために「許される」例外的な場合が存するとの趣旨をうかがわせる。ところが、それに続いて、「信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題」となるといい、突如「許されない」活動を限定的に定義している。完全分離を理想と考え、国が宗教とかかわり合いを持つことは原則的に許されないという立場から出発するのであれば、何が「許されない」かを問題とするのではなく、何が例外的に「許される」のかをこそ論ずべきである。

私は、このような多数意見の立場は、政教分離制度の趣旨、目的にかなわず、同制度が信教の自由を確保する手段として最大限機能するよう要請されていることを忘れたものであって、望ましくないと考える。

 2 法解釈の原則は、法文を通常の意味・用法に従って解釈し、それで分明でないときは、立法者の意思を探求することである。「いかなる宗教的活動」をも禁止するとの文言を素直に読めば、宗教とかかわり合いを持つ行為はすべて禁止されていると解釈すべきことは、極めて分明で、「原則禁止、例外許容」の立場を採るのが当然である。にもかかわらず、何ら限定が付されていない文言を「いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題」として、性質上の制限があると読むことは、文意を離れるものであり、これを採ることができない。

 憲法二〇条三項に影響を与えた米国憲法の類似規定(修正一条)に関し、いわゆる目的効果基準を採る判例が、この規定は一定の目的、効果を持つ行為を禁ずるものであると解釈していることにならって、我が国でも同様な限定を「宗教的活動」に加える考えが生まれたとみられる。しかし、これは、両国憲法の規定の相違を無視するものである。米国憲法は、「国教の樹立を定め、又は宗教の自由な行使を禁止する法律(省略)を制定してはならない。」と規定し、国教樹立や宗教の自由行使の禁止に当たる行為のみが許されないとしているため、右の禁止に当たる範囲を定義する必要が生じ、判例は、許されない行為を決定する立場から基準を定めたのである。これに対し、我が憲法は、端的にすべての宗教的活動を禁止の対象とするとしているのであるから、およそ宗教色を帯びる行為は一義的に禁止した上、特別の場合に許容されるとの基準を設けるのが自然なこととなる。両国の条文の差異をみれば、基準の立て方が異なってこそ、それぞれ素直に条文に適するといえよう。

 3 また、多数意見は、憲法二〇条三項の解釈に当たって、用語の意味内容があいまいで、その適用範囲が明確でなく、将来の指標とするには不十分と認められる。

 多数意見は、「宗教的活動」とは、「国及びその機関の活動」で宗教とのかかわり合いを持つ「すべての行為」を指すものではなく、「かかわり合いをもたらす行為」の目的効果にかんがみ、そのかかわり合いが諸条件に照らし「相当とされる限度を超えるもの」のみをいい、この相当限度を超えるのは「当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助…等になるような行為」であるという。この定義において、「当該行為」は、「国及びその機関」(以下「国」という。)の活動で宗教との「かかわり合いをもたらす行為」(以下「関与行為」という。)を意味している。

 国と宗教とのかかわり合いをみる場合、右のように国の「かかわり合いをもたらす」国自体の関与行為とかかわり合いの対象となる宗教的とみられる行為(以下「対象行為」という。)が存在し、その両者の関係がいかなるものか検討されることとなる。なお、この両者は、国教樹立のように大きく重なることもあれば、津地鎮祭のように重なる部分が減少し、本件玉串料奉納のように重なりが更に小さくなることもあり得る。また、津地鎮祭の場合、市がその主催者となっているとはいえ、宗教行事そのものは、神職が主宰者となり独自の宗教儀式として実施されており、市はこの他者の宗教行事と参加・利用の関係に立ったのであって、ここでも関与行為と対象行為の区別は明らかである。

 続いて多数意見は、「ある行為」が禁止される宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、「当該行為」の外形的側面のみにとらわれることなく、「当該行為の行われる場所」その他の要素も考慮せよという。この場合、「ある行為」や「当該行為」は、先行定義によれば、国の活動を意味する。ところが、多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決は、「当該行為」の外形的側面の例示として、主宰者が宗教家か、式次第が宗教の定める方式にのっとったものかなど、を挙げており、右大法廷判決が「当該行為」なる用語を国の関与行為とは別異の、宗教行事など国がかかわり合いを持とうとする対象行為を指すものとして使用していることを推知させる。しかし、この判示を定義どおり国の関与行為の外形と解する者もあろうし、特にこの例示を欠く多数意見は、その可能性を高めている。

 さらに、後続部分における「当該行為」も、多義的で意味を特定し難い。多数意見が「当該行為の行われる場所」というとき、愛媛県による玉串料などの支出が問題になっているので、県のかかわり合いをもたらす出損行為の場所と考えることもできるが、直前の「当該行為」が祭式を指すのと同様、例大祭の場所とみる方が自然である。「当該行為に対する一般人の宗教的評価」も同様で、玉串料奉納行為など関与行為に対するものか、例大祭など対象行為に対するものか、両者を含めてか、人々を迷わせる。「当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識」という場合、検討するのは関与行為(者)、対象行為(者)のいずれについてか、その双方か、やはり不分明である。津地鎮祭の場合、まず、一般人の意識においては、地鎮祭には宗教的意義を認めず、世俗的行為、慣習化した社会的儀礼として、世俗的な行事と評価しているとした上で、津市長らも同一の意識を持っていたと説示した点をみれば、対象行為を主眼としているとみられる一方、本件の原判決においては、県の行為は、戦没者の慰霊が目的であったこと、遺族援護行政の一環としてされたこと、金額が小さく儀礼的とみられることが論じられているところからすれば、県の関与行為を中心に「当該行為」や「当該行為者」が理解されていたとみられる。つまり、「当該行為」、「当該行為者」という同一用語を、前記大法廷判決は対象行為について、本件原判決は関与行為について、それぞれ使用しており、この用語が必ずしも一義的には解し得ないことを示している。「当該行為の一般人に与える効果、影響」というときも、国の行為のみについて論じているのか、例大祭なども考慮の対象としているのか明らかでなく、ことの性質上、後者が除かれているとは思えない。要するに、多数意見は、その意味内容を特定し難い部分があり、真意を把握するのが困難でその適用に際し、判断を誤らせる危険があり、合憲性を左右する基準として、このような不明確さは許されるべきでない。

 

 4 そして、私の主張する前記一の立場によれば、国の行為のうち、一応宗教的と認められるものは、すべて回避され、特に例外とすべき事由が明確に示されて初めて許容されることとなるため、検討すべき行為の量も検討すべき事項も、選別され、限定される。要するに、基準の客観的定立と適用がより容易になるといい得る。

 これに対し、多数意見の立場は、「宗教的活動」が本来的に限定された意味、内容を持つことを出発点とする。そこでは、すべての宗教的活動は、例示されたような多様な考慮要素に照らし総合評価して初めて、許されない宗教的活動の範囲に属することが決定される。検討対象の量も多く、検討事項も広範に及び、特に総合評価という漠然たる判断基準に頼らざるを得ず、客観性、明確性の点で大きな不安を感じさせる。判断基準という以上、単に考慮要素を列挙するだけでは足りず、各要素の評価の仕方や軽重についても何らかの基準を示さなければ、尺度として意味をなさない。事実、これまでの裁判例において、同一の目的効果基準にのっとって同一の行為を評価しながら、反対の結論に達している例があることは、右基準が明確性を欠き、その適用が困難なことを示すものというべきである。

 私は、右基準に代え、前記一に述べたところに従って新たな基準を用いることにより、将来の混乱を防止すべきものと考える。

 三 結論

 1 そこで、本件を前記一において述べた基準に従って見てみると、まず、県が戦没者を慰霊するという意図を実現するために、D神社等の祭祀に当たって玉串料等を奉納する以外には、宗教とかかわり合いを持たないでこれを行う方法はなかったのかどうかを検討しなければならない。しかし、そのような主張、立証はないのみならず、反対に、多くの宗教色のない慰霊のみちがあることは、公知の事実である。したがって、本件の県の行為は、宗教との分離が実際上不可能な場合には当たらないというほかはない。また、当然のことながら、宗教とのかかわり合いを持たないでも県の右意図は実現することができる以上、本件の県の行為がなければ社会生活上不合理な結果を招来するということはできず、この面からも、政教分離原則に反しない例外的事情があるということはできない。実際に他の都道府県の知事らが本件のような玉串料等の奉納をしなくても、特段の不合理を生じているとは認められず、この種の社会的儀礼を尊重するあまり、憲法上の重要な価値をおろそかにするのは、ことの順逆を誤っている。したがって、本件の玉串料等の奉納は、憲法二〇条三項に違反するものであり、本件支出は違法というべきである。

 2 これに対し、本件の玉串料等の奉納は、その金額も回数も少なく、特定宗教の援助等に当たるとして問題とするほどのものではないと主張されており、これに加えて、今日の社会情勢では、昭和初期と異なり、もはや国家神道の復活など期待する者もなく、その点に関する不安はき憂に等しいともいわれる。

 しかし、我々が自らの歴史を振り返れば、そのように考えることの危険がいかに大きいかを示す実例を容易に見ることができる。人々は、大正末期、最も拡大された自由を享受する日々を過ごしていたが、その情勢は、わずか数年にして国家の意図するままに一変し、信教の自由はもちろん、思想の自由、言論、出版の自由もことごとく制限、禁圧されて、有名無実となったのみか、生命身体の自由をも奪われたのである。「今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる」との警句を身をもって体験したのは、最近のことである。情勢の急変には一〇年を要しなかったことを想起すれば、今日この種の問題を些細なこととして放置すべきでなく、回数や金額の多少を問わず、常に発生の初期においてこれを制止し、事態の拡大を防止すべきものと信ずる。

 右に類する主張として、我が国における宗教の雑居性、重層性を挙げ、国民は他者の宗教的感情に寛大であるから、本件程度の問題は寛容に受け入れられており、違憲などといってとがめ立てする必要がないとするものもある。しかし、宗教の雑居性などのために、国民は、宗教につき寛容であるだけでなく、無関心であることが多く、他者が宗教的に違和感を持つことに理解を示さず、その宗教的感情を傷付け、軽視する弊害もある。信教の自由は、本来、少数者のそれを保障するところに意義があるのであるから、多数者が無関心であることを理由に、反発を感ずる少数者を無視して、特定宗教への傾斜を示す行為を放置することを許すべきでない。さらに、初期においては些少で問題にしなくてよいと思われる事態が、既成事実となり、積み上げられ、取り返し不能な状態に達する危険があることは、歴史の教訓でもある。この面からも、現象の大小を問わず、ことの本質に関しては原則を固守することをおろそかにすべきではない。

 私は、こうした点を考慮しつつ、憲法がその条文に明示した制度を求めるに至った歴史的背景を想起し、これを当然のこととして、異論なく受容した制定者始め国民の意識に思いを致せば、国は、憲法の定める制度の趣旨、目的を最大限実現するよう行動すべきであって、憲法の解釈も、これを要請し、勧奨するよう、なさるべきものと信じ、本意見を述べるものである。

 

【政教分離(2-3)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見2】

憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

憲法目次Ⅳ

 

【政教分離(2-1-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟】

【政教分離(2-1-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟2】

【政教分離(2-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見】

【政教分離(2-3)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見2】

【政教分離(2-4)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見3】

【政教分離(2-5-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-1】

【政教分離(2-5-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-2】

【政教分離(2-6-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見3-1】

 判示第一の二についての裁判官高橋久子の意見は、次のとおりである。

 私は多数意見の結論には賛成するが、その結論に至る説示のうち第一の二には同調することができないので、その点に関する私の意見を明らかにしておきたい。

 一 我が国憲法は、二〇条に、信教の自由は、何人に対してもこれを保障する、いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない(一項)、何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない(二項)、国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない(三項)と規定し、さらに、八九条に、公の財産は、宗教上の組織又は団体の使用、便益又は維持のため、支出してはならない旨定めている。これは、大日本帝国憲法における信教の自由を保障する規定が極めて不十分で、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、それに対する信仰が強制されるとともに、一部の宗教団体に対しては厳しい迫害が加えられるなど、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、その保障を確実ならしめるため政教分離規定を設けるに至ったのである。

 憲法は、信教の自由が人間の精神的自由の中核をなす基本的人権であり、我が国においては前述のような歴史的事情があったことにかんがみ、信教の自由を無条件に保障するのみでなく、国家といかなる宗教との結び付きも排除するために、国家と宗教との完全な分離を理想として、国家の宗教的中立性を確保しようとしたものと解される。このことは、多数意見でも認めているところである。

 しかしながら、多数意見は、「政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。」とした上、「国家が社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するに当たって、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れることはできないから、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。さらにまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。」、「政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題とならざるを得ないのである。」、「(政教分離原則は)国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。」として、憲法のいう「国家と宗教との完全な分離」を「理想」として棚上げし、国家は実際上、宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないというのである。

 この考え方によれば、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、「当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうもの」とされ、ある行為が宗教的活動に該当するか否かについては、「当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」ということになる。

 この考え方は、多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決(以下「地鎮祭判決」という。)に示され、いわゆる目的・効果基準としてその後の宗教に関する裁判に大きな影響を与えたものであって、多数意見は、これに依拠して、本判決の枠組みとしているが、私は、この目的・効果基準についていくつかの疑問を持たざるを得ない。

 二 第一に、多数意見は、憲法のいう「国家と宗教との完全な分離」は理想であって、これを実現することは「不可能に近く」、これを完全に貫こうとすれば、「各方面に不合理な事態を生ずる」というが、果たしてそうであろうか。地鎮祭判決の挙げている不合理な事態の例は、特定宗教と関係のある私立学校への助成、文化財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のための宗教団体に対する補助、刑務所等における教誨活動等であるが、これらについては、平等の原則からいって、当該団体を他団体と同様に取り扱うことが当然要請されるものであり、特定宗教と関係があることを理由に他団体に交付される助成金や補助金などが支給されないならば、むしろ、そのことが信教の自由に反する行為であるといわなければならない。このような例は、政教分離原則を国家と宗教との完全な分離と解することによって生ずる不合理な事態とはいえず、国家と宗教との完全な分離を貫くことの妨げとなるものとは考えられないのである。

 私も、「完全分離」が不可能あるいは不適当である場合が全くないと考えているわけではない。クリスマスツリーや門松のように習俗的行事化していることがだれの目にも明らかなものもないわけではなく、他にも同様の取扱いをする理由を有するケースが全くないと断定することはできない。しかし、「いかなる宗教的活動もしてはならない。」とする憲法二〇条三項の規定は、宗教とかかわり合いを持つすべての行為を原則として禁じていると解すべきであり、それに対して、当該行為を別扱いにするには、その理由を示すことが必要であると考える。すなわち、原則はあくまでも「国家はいかなる宗教的活動もしてはならない」のである。ところが、多数意見は、「国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で」と、前提条件を逆転させている。

 憲法二〇条三項の規定が、我が国の過去の苦い経験を踏まえて国家と宗教との完全分離を理想としたものであることを考えると、目的・効果基準によって宗教的活動に制限を付し、その範囲を狭く限定することは、憲法の意図するところではないと考えるのである。

 三 第二は、多数意見が、「(国家と宗教との)かかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さない」、さらに、「諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」と、現実の姿を判断の尺度としていることである。前述のとおり、我が国において国家神道に国教的な地位が与えられ、その結果種々の弊害を生じたことは周知の事実であり、憲法は、その反省の上に立って信教の自由を無条件で保障し、それを確実ならしめるために国家と宗教との完全な分離を理想として二〇条の規定を設けたものと考えられるが、信教の自由は、心の深奥にかかわる問題であるだけに、いまだに国家神道の残滓が完全に払拭されたとはいい難い。また、我が国においては宗教は多元的・重層的に発展してきており、国民一般の宗教に対する関心は必ずしも高くはなく、異なった宗教に対して極めて寛容である。特定の宗教に帰依するからといって他宗教を排他的に取り扱うことはなく、このことは、戦前、国家神道が各家庭の中で宗教というよりも超宗教的存在として生活の規範をなし、多くの弊害をもたらす土壌となったと思われる。宗教的感覚において寛容であるということは、それ自体として悪いとはいえないであろうが、宗教が国民一般の精神のコントロールを容易になし得る危険性をはらんでいるともいえる。その意味からも政教分離原則は厳格に遵守されるべきであって、「社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度」、「社会通念に従って、客観的に判断」というように、現実是認の尺度で判断されるべき事柄ではないと思うのである。

 四 第三は、いわゆる目的・効果基準は極めてあいまいな明確性を欠く基準であるということである。多数意見は、「(国家が)宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである」というが、「社会的・文化的諸条件」とは何か、「相当とされる限度」というのはどの程度を指すのか、明らかではない。ある行為が宗教的活動に該当するか否かを判断するに当たって考慮する事情として、「当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。」、そして、「ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」としているが、これらの事情について何をどのように評価するかは明らかではない。いわば目盛りのない物差しである。したがって、この基準によって判断された地鎮祭判決後の判決が、同じ事実を認定しながら結論を異にするものが少なくない。

 殉職自衛隊員たる亡夫を山口県E神社に合祀されたことに関し、キリスト教徒である妻からの国家賠償法に基づく損害賠償請求について、一、二審判決は、県隊友会の同神社に対する合祀申請に自衛隊職員が関与した行為が憲法二〇条三項にいき宗教的活動に当たるとしたが、多数意見引用の昭和六三年六月一日大法廷判決は、右行為は宗教的活動に当たらないとした。

 箕面市が忠魂碑の存する公有地の代替地を買い受けて忠魂碑の移設・再建をした行為、地元の戦没者遺族会に対しその敷地として右代替地を無償貸与した行為等が右の宗教的活動に該当するかどうかが争われた裁判では、一審判決は、右行為が宗教的活動に当たると判断したが、二審判決は、これを否定し、最高裁平成五年二月一六日第三小法廷判決も、宗教的活動には当たらないとした。

 本件についても、一審判決と原判決とでは、同じ目的・効果基準によって判断しながら結論は反対であるし、本判決においても、多数意見と反対意見とでは、同じ認定事実の下にいずれも地鎮祭判決の目的・効果基準に依拠するとしつつ全く反対の結論に到達しているのであって、これをみても、地鎮祭判決の示す基準が明確な指針たり得るかどうかに疑問を禁じ得ないのである。

 以上のとおり、目的・効果基準は、基準としては極めてあいまいなものといわざるを得ず、このようなあいまいな基準で国家と宗教とのかかわり合いを判断し、憲法二〇条三項の宗教的活動を限定的に解することについては、国家と宗教との結び付きを許す範囲をいつの間にか拡大させ、ひいては信教の自由もおびやかされる可能性があるとの懸念を持たざるを得ない。

 五 私は、憲法二〇条の規定する政教分離原則は、国家と宗教との完全な分離、すなわち、国家は宗教の介入を受けず、また、宗教に介入すべきではないという国家の非宗教性を意味するものと思うのである。信教の自由に関する保障が不十分であったことによって多くの弊害をもたらした我が国の過去を思うとき、政教分離原則は、厳格に解されるべきことはいうまでもない。

 したがって、私は、完全な分離が不可能、不適当であることの理由が示されない限り、国が宗教とかかわり合いを持つことは許されないものと考える。県の公金からD神社の例大祭、みたま祭に玉串料、献灯料を、E神社の慰霊大祭に供物料を奉納するため金員を支出した本件各行為は、いずれもそのような例外に当たるものとは到底いえないことが明らかであり、違憲というほかはない。

 

【政教分離(2-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見】

憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

憲法目次Ⅳ

【政教分離(2-1-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟】

【政教分離(2-1-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟2】

【政教分離(2-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見】

【政教分離(2-3)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見2】

【政教分離(2-4)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見3】

【政教分離(2-5-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-1】

【政教分離(2-5-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-2】

【政教分離(2-6-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見3-1】

 判示第一の二についての裁判官大野正男の補足意見は、次のとおりである。

 私は、多数意見に賛同するものであるが、多数意見第一の二につき、私の意見を

補足しておきたい。

 一 本件行為の目的について

 本件で重視されなければならないのは、玉串料等の奉納が、戦没者の慰霊、遺族の慰謝を目的とするものであるといっても、それはあくまでD神社、E神社という特定の宗教団体の祭祀に対してされているという事実である。その点を捨象して、単に、地方公共団体が戦没者の慰霊等を行うことに宗教的的意義があるか否かとか、あるいはそれが社会的儀礼に当たるか否かとかを論ずることは、事柄の本筋を見落とすものである。

 被上告人B1は、本件玉串料等の支出目的は、同人の支持団体であり同人が会長を務める県遺族会の要請にこたえ、県の行う戦没者の慰霊、遺族の慰謝という遺族援護行政の一環として行ったものであって、特段の宗教的意識を持って行ったものではない旨主張している。

 しかし、憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たるか否かの判断基準の一となるべき行為の目的は、当該行為者の主観的、内面的な感情の有無や濃淡によってのみ判断されるべきではなく、その行為の態様等との関連において客観的に判断されるべきものであり、とりわけ支出が宗教団体の世俗的な行為ではなくその宗教的な行為そのものに向けられているときは、世俗的目的もあるからといって、その行為の客観的目的の宗教的意義が直ちに否定されるものではない。

 本件支出行為は、一面において遺族の援護という行政的な目的を有するとしても、その対象がD神社等の最も重要な祭祀であって本来の行政の範囲に属する世俗的行為ではないから、直接的に特定の宗教団体の宗教儀式そのものへの賛助を目的としているといわざるを得ず、その宗教的意義を否定することはできない。

 二 本件行為の効果について

 被上告人B1は、本件玉串料等の奉納は戦没者慰霊等のためにされた少額のもので社会的儀礼であり、宗教に対する関心を特に高めたり、その援助、助長をするようなものではないと主張している。

 本件玉串料等の支出は相当年数にわたり継続して行われているとはいえ、一回の金員は五〇〇〇円ないし一万円程度のものであるから、経済的にみれば、宗教に対する援助、助長に当たるとは必ずしもいえないとの議論もあり得るかもしれない。しかしながら、政教分離原則の適用を検討するに当たっては、当該行為の外形的、経済的な側面のみにとらわれるべきでなく、社会的、歴史的条件に即してその実質をみる必要があり、社会に与える無形的なあるいは精神的な効果や影響をも考慮すべきである。そして、その観点よりすれば、以下に述べるとおり、その影響、効果は大きいといわざるを得ない。

 1 多数意見の述べるとおり、我が国においては各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存しているが、戦没者、戦争犠牲者の慰霊、追悼については各種の宗教団体がそれぞれの教義、教理、祭式に基づいてこれを執り行っているのであって、その中にあって地方公共団体がD神社等による戦没者慰霊の祭祀にのみ賛助することは、その祭祀を他に比して優越的に選択し、その宗教的価値を重視していると一般社会からみられることは否定し難く、特定の宗教団体に重要な象徴的利益を与えるものといわざるを得ない。およそ公的機関は、すべての、いかなる宗教をも援助、助長してはならないが、中でも併存する宗教団体のうちから特定の宗教団体を選択してその宗教儀式を賛助することは、政教分離の中心をなす国家の宗教的中立に反するものである。

 2 地方公共団体によるD神社等への玉串料等の公金の支出の世俗的影響も、無視することはできない。

 宗教的祭祀に起源を有する儀式等が多くの歳月を経てその宗教的意義が希薄になり、社会的儀礼や風俗として残っていることもまれではない。このような場合に公的機関がこれを行ったり参加したりしても、特定の宗教団体を支持していると受け取られることはなく、また、社会関係の円滑な維持のため役立つことはあっても、社会に対立をもたらすことは考え難い。しかし、公的機関がD神社等の祭祀に公金を支出してこれを賛助することについては、D神社に崇敬の念を持つ人々やD神社を戦没者慰霊の中心的施設と考える人々は、これに満足と共感を覚えるかもしれないが神道と教義を異にする宗教団体に属する人々や、D神社が国家神道の中枢的存在であるとしてそれへの礼拝を強制されたことを記憶する人々、あるいはD神社に合祀されている者は主として軍人軍属及び準軍属であって一般市民の戦争犠牲者のほとんどが含まれていないことに違和感を抱く人々は、これに不満と反感を持つかもしれない。そのような対立は、宗教的分野ばかりではなく、社会的、政治的分野においても起こり得ることである。公的機関が宗教にかかわりを持つ行為をすることによって、広く社会にこのような効果を及ぼすことは、公的機関を宗教的対立に巻き込むことになり、同時に宗教を世俗的対立に巻き込むことにもなるのであって、社会的儀礼や風俗として容認し得る範囲を超え、公的機関と宗教団体のいずれにとっても害をもたらすおそれを有するといわざるを得ない。そのようなことを避けることこそ、厳格な政教分離原則の規範を憲法が採用した趣旨に合致するものである。

 三 被上告人B1は、D神社は我が国における戦没者慰霊の中心的存在であるから、その祭祀に地方公共団体が玉串料を奉納することは社会的儀礼であると主張する。

 しかしながら、玉串料の奉納に儀礼的な意味合いがあるとしても、また、我が国近代史の一時期にD神社が戦没者の中心的慰霊施設として扱われたことがあるとしても、それを理由に政教分離原則の例外扱いを認めるべきものではない。

 憲法二〇条三項、八九条が厳格な政教分離原則を採用しているのは、多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決及び多数意見が繰り返し判示しているように、明治維新以降の我が国の社会において国家と神道が結び付き、国家神道に対して事実上国教的な地位が与えられ、その信仰が要請され、一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた歴史的経緯に基づくものであるが、このような政教の融合が生じたのも、「神社は宗教にあらず」ということを理由に、神道的祭祀や儀礼を世俗的な次元で社会的規範として取り入れ、また、臣民の義務であるとして事実上強制したからである。憲法は、第二次大戦後このような歴史的経験にかんがみて、信教の自由を国民の基本的人権として、これに強い保障を与えるとともに、国家と宗教が融合することは信教の自由に対する侵害になる危険性が高いことを認識して、その制度的保障として政教分離原則を採用し、前記規定を設けたものである。この立法の経緯及び趣旨に照らせば、右各条項は公的機関に対し強い規範性を有するものと解すべきであるから、我が国社会の中に、D神社に崇敬の念を持つ人々がいることは事実であり、また、それは信教の自由の保障するところでもあるが、いやしくも公的機関が特定の宗教団体であるD神社等に対し、公金を使用して玉串料等を奉納し特別の敬意を表することは、先に述べたとおり、その目的、効果を実質的にみれば、戦没者の慰霊、追悼について公的機関が特定の宗教団体との特別のかかわり合いを示すことは明らかであって、右憲法条項の規範性に照らし到底許されないことである。そして、このことは、単にD神社に対してのみ許されないことではなく、あらゆる宗教団体に対しても同様であることはもちろんである。

 判示第一の二についての裁判官福田博の補足意見は、次のとおりである。

 

 

 私は、多数意見に賛成するものであるが、この機会に、我が国における信教の自由について私が考えていることを若干補足して述べておきたい。

 信教の自由は、各種の人権の中でも最も基本的な自由権の一つとして、近代民主主義国家にあってその擁護が重視されているものである。多数意見に述べられているとおり、憲法に定める政教分離規定も、そのような信教の自由を一層確実なものとするための制度的保障として設けられたものである。

 我が国においては、神道は年中行事や冠婚葬祭などを通じて多くの国民の生活に密接に結び付いており、そのような行事や儀式への参加が自然なこととして受け入れられている部分があることは事実である。とはいえ、神道も宗教の一つであることは、信教の自由を保障する憲法二〇条が当然の前提としているところでもある。したがって、政教分離規定を適用して国(地方公共団体を含む。以下同じ。)の宗教へのかかわりをどこまで許すかを検討する際は、政教分離の原則が目指す国の非宗教性ないし宗教的中立性の理念は、神道を含むあらゆる宗教についてひとしく当てはまる理念であることを常に念頭に置くことが、不可欠であると考える。

 また、政教分離規定は、信教の自由を保障するために設けられたものであり、その適用に当たっては、国のかかわりを認めることにつき基本的に慎重な態度で臨むことが重要であると考える。なぜならば、国のかかわりを認めても差し支えないとされたことが結果的には国の信教の自由への過剰な関与(ひいては干渉ないし強制)につながることとなった事例が、諸国の歴史の中に散見されるからである。そして、このような慎重な態度を維持することは、緊密化する国際間の交流を通じ国民が様々な宗教に接する機会が増えつつある今日、我が国が信教の自由を保障し、いかなる信仰についても寛容であることを確保していく上でも、重要ではないかと考えるのである。

 

 

 

 

 判示第一の二についての裁判官園部逸夫の意見は、次のとおりである。

 本件支出が違法な公金の支出に当たるということについては、私も多数意見と結論を同じくするものであるが、その理由(多数意見第一の二)については、見解を異にする。

 我が国には、戦前から、戦没者追悼慰霊の中心的施設として、D神社及びE神社が置かれているが、原審の判断及び被上告人らの主張はいずれも、これらの神社が通常の宗教施設と異なった意義を有することを強調している。しかしながら、D神社及びE神社は、戦後の法制度の改革により、他の宗教団体と同等の地位にある宗教団体(宗教法人)となっており、その施設は、通常の宗教施設である。

 私は、右のことを前提とした上で、本件におりる公金の支出は、公金の支出の憲法上の制限を定める憲法八九条の規定に違反するものであり、この一点において、違憲と判断すべきものと考える。

 一般に、葬式・告別式等の際にお悔やみとして供される金員は、社会通念上、特定の故人の遺族を直接の対象とし社会的儀礼の範囲に属する支出とみられている。

これと異なり、宗教団体の主催する恒例の宗教行事のために、当該行事の一環としてその儀式にのっとった形式で奉納される金員は、当該宗教団体を直接の対象とする支出とみるべきである。したがって、右のような金員を公金から支出した行為は、一面において、その支出の財務会計上の費目、意図された支出の目的、支出の形態、支出された金額等に照らし社会的儀礼の範囲に属するとみられるところがあったとしても、詰まるところ、当該宗教団体の使用(宗教上の使用)のため公金を支出したものと判断すべきであって、このような支出は、宗教上の団体の使用のため公金を支出することを禁じている憲法八九条の規定に違反するものといわなければならない。

 これを本件についてみると、原審の適法に確定した事実関係によれば、被上告人B2らは、D神社又はE神社が各神社の境内において挙行した恒例の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際して、玉串料、献灯料又は供物料を奉納するため、多数意見第一の一掲記の回数及び金額の金員を県の公金から支出したというのであるから、右の金員は、D神社又はE神社の使用のため支出したものと認めるのを相当とする。したがって、右の支出は、憲法八九条の右規定に違反する違法な公金の支出というべきである。

 ここで、二つのことを付言しておきたい。まず、従来の最高裁判所判例は、公金を宗教上の団体に対して支出することを制限している憲法八九条の規定の解釈についても、憲法二〇条三項の解釈に関するいわゆる目的効果基準が適用されるとしているが、私は、右基準の客観性、正確性及び実効性について、尾崎裁判官の意見と同様の疑問を抱いており、特に、本判決において、その感を深くしている。しかし、その点はきておき、本件において、憲法八九条の右規定の解釈について、右基準を適用する必要はないと考える。

 次に、本件の争点である公金の支出の違憲性の判断について、当該支出が憲法八九条の右規定に違反することが明らかである以上、憲法二〇条三項に違反するかどうかを判断する必要はない。私は、およそ信教に関する問題についての公の機関の判断はできる限り謙抑であることが望ましいと考える。「為政者の全権限は、魂の救済には決して及ぶべきでなく、また及ぶことが出来ない。」(ジョン・ロック。種谷春洋『近代寛容思想と信教自由の成立』二三〇頁以下参照)

 


【政教分離(2-1-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟2】

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【政教分離(2-1-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟】

【政教分離(2-1-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟2】

【政教分離(2-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・補足意見】

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【政教分離(2-5-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見1-2】

【政教分離(2-6-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見3-1】

要旨

一 愛媛県が、宗教法人D神社の挙行した恒例の宗教上の祭祀である例大祭に際し玉串料として九回にわたり各五〇〇〇円(合計四万五〇〇〇円)を、同みたま祭に際し献灯料として四回にわたり各七〇〇〇円又は八〇〇〇円(合計三万一〇〇〇円)を、宗教法人愛媛県E神社の挙行した恒例の宗教上の祭祀である慰霊大祭に際し供物料として九回にわたり各一万円(合計九万円)を、それぞれ県の公金から支出して奉納したことは、一般人がこれを社会的儀礼にすぎないものと評価しているとは考え難く、その奉納者においてもこれが宗教的意義を有する者であるという意識を持たざるを得ず、これにより県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができないのであり、これが、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており右宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ないなど判示の事情の下においては、憲法二〇条三項、八九条に違反する。

二 愛媛県が憲法二〇条三項八九条に違反して宗教法人D神社等に玉串料等を県の公金から支出して奉納したことにつき、右支出の権限を法令上本来的に有する知事は、委任を受け又は専決することを任された補助職員らが右支出を処理した場合であっても、同神社等に対し、右補助職員らに玉串料等を持参させるなどしてこれを奉納したと認められ、当該支出には憲法に違反するという重大な違法があり、地方公共団体が特定の宗教団体に玉串料等の支出をすることについて、文部省自治省等が、政教分離原則に照らし、慎重な対応を求める趣旨の通達、回答をしてきたなどの事情の下においては、その指揮監督上の義務に違反したものであり、過失があったというのが相当であるが、右補助職員らは、知事の右のような指揮監督の下でこれを行い、右支出が憲法に違反するか否かを極めて容易に判断することができたとまではいえないという事情の下においては、その判断を誤ったものであるが、重大な過失があったということはできない。

三 複数の住民が提起する住民訴訟は、類似必要的共同訴訟と解すべきである。

四 複数の住民が共同訴訟人として提起した住民訴訟において、共同訴訟人の一部の者が上訴すれば、それによって原判決の確定が妨げられ、当該訴訟は全体として上訴審に移審し、上訴の判決の効力は上訴をしなかった共同訴訟人にも及ぶが、上訴をしなかった共同訴訟人は、上訴人にはならず、上訴をした共同訴訟人のうちの一部の者が上訴を取り下げた場合は、その者は上訴人ではなくなる。

(一につき、補足意見、意見及び反対意見がある。)



 第二 Gの上告取下げの効力について

 本件上告を申し立てた者のうちGは、平成六年七月七日、上告を取り下げる旨の書面を当裁判所に提出した。そこで、職権により、右上告取下げの効力について判断する。

 

 本件は、地方自治法二四二条の二に規定する住民訴訟である。同条は、普通地方公共団体の財務行政の適正な運営を確保して住民 全体の利益を守るために、当該普通地方公共団体の構成員である住民に対し、いわば公益の代表者として同条一項各号所定の訴えを提起する権能を与えたもので あり、同条四項が、同条一項の規定による訴訟が係属しているときは、当該普通地方公共団体の他の住民は、別訴をもって同一の請求をすることができないと規 定しているのは、住民訴訟のこのような性質にかんがみて、複数の住民による同一の請求については、必ず共同訴訟として提訴することを義務付け、これを一体 として審判し、一回的に解決しようとする趣旨に出たものと解される。そうであれば、住民訴訟の判決の効力は、当事者となった住民のみならず、当該地方公共 団体の全住民に及ぶものというべきであり、複数の住民の提起した住民訴訟は、民訴法六二条一項にいう「訴訟ノ目的カ共同訴訟人ノ全員ニ付合一ニノミ確定ス ヘキ場合」に該当し、いわゆる類似必要的共同訴訟と解するのが相当である。

 

 

 ところで、類似必要的共同訴訟については、共同訴訟人の一部の者がした訴訟行為は、全員の利益においてのみ効力を生ずるとされている(民訴法六二条一項)。上訴は、上訴審に対して原判決の敗訴部分の是正を求める行為であるから、類似必要的共同訴訟において共同訴訟人の一部の者が上訴すれば、それによって原判決の確定が妨げられ、当該訴訟は全体として上訴審に移審し、上訴審の判決の効力は上訴をしなかった共同訴訟人にも及ぶものと解される。しかしながら、合一確定のためには右の限度で上訴が効力を生ずれば足りるものである上、住民訴訟の前記のような性質にかんがみると、公益の代表者となる意思を失った者に対し、その意思に反してまで上訴人の地位に就き続けることを求めることは、相当でないだけでなく、住民訴訟においては、複数の住民によって提訴された場合であっても、公益の代表者としての共同訴訟人らにより同一の違法な財務会計上の行為又は怠る事実の予防又は是正を求める公益上の請求がされているのであり、元来提訴者各人が自己の個別的な利益を有しているものではないから、提訴後に共同訴訟人の数が減少しても、その審判の範囲、審理の態様、判決の効力等には何ら影響がない。そうであれば、住民訴訟については、自ら上訴をしなかった共同訴訟人をその意に反して上訴人の地位に就かせる効力までが行政事件訴訟法七条、民訴法六二条一項によって生ずると解するのは相当でなく、自ら上訴をしなかった共同訴訟人は、上訴人にはならないものと解すべきである。この理は、いったん上訴をしたがこれを取り下げた共同訴訟人についても当てはまるから、上訴をした共同訴訟人のうちの一部の者が上訴を取り下げても、その者に対する関係において原判決が確定することにはならないが、その者は上訴人ではなくなるものと解される。最高裁昭和五七年(行ツ)第一一号同五八年四月一日第二小法廷判決・民集三七巻三号二〇一頁は、右と抵触する限度において、変更すべきものである。

 したがって、Gは、上告の取下げにより上告人ではなくなったものとして、本判決をすることとする。

 よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官大野正男、同福田博の各補足意見、裁判官園部逸夫、同高橋久子、同尾崎行信の各意見、裁判官三好達、同可部恒雄の各反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

 

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【政教分離(2-1-2)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟2】

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【政教分離(2-6-1)最大判平成9年4月2日 愛媛玉串訴訟・反対意見3-1】

判旨

 一 事実関係及び訴訟の経過

 1 原審の適法に確定した事実関係によれば、被上告人B1が愛媛県知事の職にあった昭和五六年から同六一年にかけて、() 愛媛県(以下「県」という。)の東京事務所長の職あった被上告人B2が、宗教法人D神社(以下「D神社」という。)の挙行した春季又は秋季の例大祭に際して奉納する玉串料として九回にわたり各五〇〇〇円(合計四万五〇〇〇円)を、() 同じく同被上告人が、D神社の挙行した七月中旬の「みたま祭」に際して奉納する献灯料として四回にわたり各七〇〇〇円又は八〇〇〇円(合計三万一〇〇〇円)を、また、() 県生活福祉部老人福祉課長の職にあった被上告人B3、承継前被上告人B4、被上告人B5、同B6及び同B7が、宗教法人愛媛県E神社(以下「E神社」という。)の挙行した春季又は秋季の慰霊大祭に際してF遺族会を通じて奉納する供物料として九回にわたり各一万円(合計九万円)を、それぞれ県の公金から支出した(以下、これらの支出を「本件支出」という。)というのであるところ、本件は、本件支出が憲法二〇条三項、八九条等に照らして許されない違法な財務会計上の行為に当たるかどうかが争われた地方自治法二四二条の二第一項四号に基づく損害賠償代位請求住民訴訟である。

 2 第一審は、本件支出は、その目的が宗教的意義を持つことを否定することができないばかりでなく、その効果がD神社又はE神社の宗教活動を援助、助長、促進することになるものであって、本件支出によって生ずる県とD神社及びE神社との結び付きは、我が国の文化的・社会的諸条件に照らして考えるとき、もはや相当とされる限度を超えるものであるから、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に当たり、違法なものといわなければならないと判断した。

 これに対して、原審は、本件支出は宗教的な意義を持つが、一般人にとって神社に参拝する際に玉串料等を支出することは過大でない限り社会的儀礼として受容されるという宗教的評価がされており、知事は、遺族援護行政の一環として本件支出をしたものであって、それ以外の意図、目的や深い宗教心に基づいてこれをしたものではないし、その支出の程度は、少額で社会的な儀礼の程度にとどまっており、その行為が一般人に与える効果、影響は、D神社等の第二次大戦中の法的地位の復活や神道の援助、助長についての特別の関心、気風を呼び起こしたりするものではなく、これらによれば、本件支出は、神道に対する援助、助長、促進又は他の宗教に対する圧迫、干渉等になるようなものではないから、憲法二〇条三項、八九条に違反しないと判断した。

 二 本件支出の違法性に関する当裁判所の判断

 原審の右判断は是認することができない。その理由は以下のとおりである。

 1 政教分離原則と憲法二〇条三項、八九条により禁止される国家等の行為 憲法は、二〇条一項後段、三項、八九条において、いわゆる政教分離の原則に基づく諸規定(以下「政教分離規定」という。)を設けている。

 一般に、政教分離原則とは、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされているところ、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によって異なるものがある。我が国では、大日本帝国憲法に信教の自由を保障する規定(二八条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限を伴っていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた等のこともあって、同憲法の下における信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかった。憲法は、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き右のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至ったのである。元来、我が国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであって、このような宗教事情の下で信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結び付きをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であった。これらの点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるに当たり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。

 しかしながら、元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、信教の自由そのものを直接保障するものではなく国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。そして、国家が社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するに当たって、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れることはできないから、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。さらにまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があるしとを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題とならざるを得ないのである。右のような見地から考えると、憲法の政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。

 右の政教分離原則の意義に照らすと、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。そして、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。

 憲法八九条が禁止している公金その他の公の財産を宗教上の組織又は団体の使用、便益又は維持のために支出すること又はその利用に供することというのも、前記の政教分離原則の意義に照らして、公金支出行為等における国家と宗教とのかかわり合いが前記の相当とされる限度を超えるものをいうものと解すべきであり、これに該当するかどうかを検討するに当たっては、前記と同様の基準によって判断しなければならない。

 以上は、当裁判所の判例の趣旨とするところでもある(最高裁昭和四六年(行ツ)第六九号同五二年七月一三日大法廷判決・民集三一巻四号五三三頁、最高裁昭和五七年(オ)第九〇二号同六三年六月一日大法廷判決・民集四二巻五号二七七頁参照)。

 

 2 本件支出の違法性

 そこで、以上の見地に立って、本件支出の違法性について検討する。

 () 原審の適法に確定した事実関係によれば、被上告人B2らは、いずれも宗教法人であって憲法二〇条一項後段にいう宗教団体に当たることが明らかなD神社又はE神社が各神社の境内において挙行した恒例の宗教上の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際して、玉串料、献灯料又は供物料を奉納するため、前記回数にわたり前記金額の金員を県の公金から支出したというのである。ところで、神社神道においては、祭祀を行うことがその中心的な宗教上の活動であるとされていること、例大祭及び慰霊大祭は、神道の祭式にのっとって行われる儀式を中心とする祭祀であり、各神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有するものと位置付けられていること、みたま祭は、同様の儀式を行う祭祀であり、D神社の祭祀中最も盛大な規模で行われるものであることは、いずれも公知の事実である。そして、玉串料及び供物料は、例大祭又は慰霊大祭において右のような宗教上の儀式が執り行われるに際して神前に供えられるものであり、献灯料は、これによりみたま祭において境内に奉納者の名前を記した灯明が掲げられるというものであって、いずれも各神社が宗教的意義を有すると考えていることが明らかなものである。

 これらのことからすれば、県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持ったということが明らかである。そして、一般に、神社自体がその境内において挙行する恒例の重要な祭祀に際して右のような玉串料等を奉納することは、建築主が主催して建築現場において土地の平安堅固、工事の無事安全等を祈願するために行う儀式である起工式の場合とは異なり、時代の推移によって既にその宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとまでは到底いうことができず、一般人が本件の玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難いところである。そうであれば、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざる得ないのであり、このことは、本件においても同様というべきであるまた、本件においては、県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がうかがわれないのであって、県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない。これらのことからすれば、地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つことは、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない

 被上告人らは、本件支出は、遺族援護行政の一環として、戦没者の慰霊及び遺族の慰謝という世俗的な目的で行われた社会的儀礼にすぎないものであるから、憲法に違反しないと主張する。確かに、D神社及びE神社に祭られている祭神の多くは第二次大戦の戦没者であって、その遺族を始めとする愛媛県民のうちの相当数の者が、県が公の立場においてD神社等に祭られている戦没者の慰霊を行うことを望んでおり、そのうちには、必ずしも戦没者を祭神として信仰の対象としているからではなく、故人をしのぶ心情からそのように望んでいる者もいることは、これを肯認することができる。そのような希望にこたえるという側面においては、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない。しかしながら、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き種々の弊害を生じたことにかんがみ政教分離規定を設けるに至ったなど前記の憲法制定の経緯に照らせば、たとえ相当数の者がそれを望んでいるとしても、そのことのゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが、相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえない。戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体は、本件のように特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができると考えられるし、神社の挙行する恒例祭に際して玉串料等を奉納することが、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとも認められないことは、前記説示のとおりである。ちなみに、神社に対する玉串料等の奉納が故人の葬礼に際して香典を贈ることとの対比で論じられることがあるが、香典は、故人に対する哀悼の意と遺族に対する弔意を表するために遺族に対して贈られ、その葬礼儀式を執り行っている宗教家ないし宗教団体を援助するためのものではないと一般に理解されており、これと宗教団体の行う祭祀に際して宗教団体自体に対して玉串料等を奉納することとでは、一般人の評価において、全く異なるものがあるといわなければならない。また、被上告人らは、玉串料等の奉納は、神社仏閣を訪れた際にさい銭を投ずることと同様のものであるとも主張するが、地方公共団体の名を示して行う玉串料等の奉納と一般にはその名を表示せずに行うさい銭の奉納とでは、その社会的意味を同一に論じられないことは、おのずから明らかである。そうであれば、本件玉串料等の奉納は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであったとしても、世俗的目的で行われた社会的儀礼にすぎないものとして憲法に違反しないということはできない。

 以上の事情を総合的に考慮して判断すれば、県が本件玉串料等D神社又はE神社に前記のとおり奉納したことは、その目的が宗教的意義を持つことを免れず、その効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進になると認めるべきであり、これによってもたらされる県とD神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものであって、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に当たると解するのが相当である。そうすると、本件支出は、同項の禁止する宗教的活動を行うためにしたものとして、違法というべきである。これと異なる原審の判断は、同項の解釈適用を誤るものというほかはない。

 () また、D神社及びE神社は憲法八九条にいう宗教上の組織又は団体に当たることが明らかであるところ、以上に判示したところからすると、本件玉串料等をD神社又はE神社に前記のとおり奉納したことによってもたらされる県とD神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと解されるのであるから、本件支出は、同条の禁止する公金の支出に当たり、違法というべきである。したがって、この点に関する原審の判断も、同条の解釈適用を誤るものといわざるを得ない。

 

 三 被上告人らの損害賠償責任の有無

 原審は、右の誤った判断に基づき、本件支出に違法はないとして、上告人らの請求をいずれも棄却すべきであるとしたが、以上のとおり、本件支出は違法であるというべきであるから、更に進んで、被上告人らの損害賠償責任の有無について検討することとする。

 原審の適法に確定した事実関係によれば、本件支出の当時、本件支出の権限を法令上本来的に有していたのは、知事の職にあった被上告人B1であったところ、本件支出のうちD神社に対してされたものについては、県の規則により県東京事務所長に対し権限が委任され、その職にあった被上告人B2がこれを行ったのであり、また、本件支出のうちE神社に対してされたものについては、県の規則及び訓令により県生活福祉部老人福祉課長に専決させることとされ、その職にあった被上告人B3、承継前被上告人B4、被上告人B5、同B6及び同B7(以下、被上告人B2を含め、これらの者を「被上告人B2ら」という。)がそれぞれこれを行ったというのである。

 右のように、被上告人B1は、自己の権限に属する本件支出を補助職員である被上告人B2らに委任し、又は専決により処理させたのであるから、その指揮監督上の義務に違反し、故意又は過失によりこれを阻止しなかったと認められる場合には、県に対し右違法な支出によって県が被った損害を賠償する義務を負うことになると解すべきである(最高裁平成二年(行ツ)第一三七号同三年一二月二〇日第二小法廷判決・民集四五巻九号一四五五頁、最高裁昭和六二年(行ツ)第一四八号平成五年二月一六日第三小法廷判決・民集四七巻三号一六八七頁参照)。原審の適法に確定したところによれば、被上告人B1は、D神社等に対し、被上告人B2らに玉串料等を持参させるなどして、これを奉納したと認められるというのであり、本件支出には憲法に違反するという重大な違法があること、地方公共団体が特定の宗教団体に玉串料、供物料等の支出をすることについて、文部省、自治省等が、政教分離原則に照らし、慎重な対応を求める趣旨の通達、回答をしてきたことなどをも考慮すると、その指揮監督上の義務に違反したものであって、これにつき少なくとも過失があったというのが相当である。したがって、被上告人B1は、県に対し、違法な本件支出により県が被った本件支出金相当額の損害を賠償する義務を負うというべきである。

 これに対し、被上告人B2らについては、地方自治法二四三条の二第一項後段により損害賠償責任の発生要件が限定されており、本件支出行為をするにつき故意又は重大な過失があった場合に限り県に対して損害賠償責任を負うものであるところ、原審の適法に確定したところによれば、被上告人B2らは、いずれも委任を受け、又は専決することを任された補助職員として知事の前記のような指揮監督の下で本件支出をしたというのであり、しかも、本件支出が憲法に違反するか否かを極めて容易に判断することができたとまではいえないから、被上告人B2らがこれを憲法に違反しないと考えて行ったことは、その判断を誤ったものではあるが、著しく注意義務を怠ったものとして重大な過失があったということはできない。そうすると、被上告人B1以外の被上告人らは県に対し損害賠償責任を負わないというべきである。

 

 四 結論

 以上によれば、上告人らの被上告人B1に対する請求は、これを認容すべきであり、その余の被上告人らに対する請求は、これを棄却すべきであるところ、これと同旨の第二審判決は、結論において是認し得るから、第一審判決のうち上告人らの被上告人B1に対する請求に係る部分を取り消して同請求を棄却した原判決主文第一項は、破棄を免れず、右部分については、同被上告人の控訴を棄却すべきであり、上告人らのその余の被上告人らに対する控訴を棄却した原判決主文第二項に対する上告は、理由がないとして、これを棄却すべきである。

 


 

 

【政教分離(1-3)最大判昭和52年7月13日 津市地鎮祭事件・反対意見】


憲法目次Ⅰ

憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

憲法目次Ⅳ

 裁判官藤林益三の追加反対意見は、次のとおりである。

 一 国家と宗教

 信教の自由は、近世民主主義国家の一大原則であつて、これは数世紀にわたる政治的及び学問的闘争の結果、かちえた寛容の精神の結晶である。政教分離原則は、信教の自由の確立の歴史の過程で、その保障に不可欠の前提をなすものと考えられるに至つているが、次の二つの主要点を含む。

 () 国家は、いかなる宗教に対しても、特別の財政的もしくは制度的援助を与えず、又は特別の制限を加えない。すなわち国家は、すべての宗教に対して、同一にして中立的な態度をとるべきである。

 () 国家は、国民各自がいかなる宗教を信ずるかについて、何らの干渉を加えるべきではない。信教は、各個人の自由に放任されるべきものであり、宗教を信ずるや否や、信ずるとすればいかなる宗教を選ぶかは、国民各自の私事である。

 この原則の確立により国家の特定宗教への結びつきは原則的に否定せられ、国家は世俗的なもののみに関与すべきものとされるに至つたのであるが、これによつて、国家と宗教の問題が全く消滅したのではない。けだし、すべての国家は、その存立の精神的又は観念的基礎をもつ以上、宗教もまた人類の精神の所産であるから、国家は、信教自由の原則を認めると同時に、国家自身が、宗教に対して無関心、無感覚であつてはならない。信教自由の原則は、国家の宗教に対する冷淡の標識ではなく、かえつて宗教尊重の結果でなければならない。

 国家の存立は、真理に基づかねばならず、真理は擁護せられなければならない。しかしながら、何が真理であるかを決定するものは国家ではなく、また国民でもない。いかに民主主義の時代にあつても、国民の投票による多数決をもつて真理が決定せられるとは誰も考えないであろう。真理を決定するものは、真理それ自体であり、それは歴史を通して、すなわち人類の長い経験を通して証明せられる。真理は、自証性をもつ。しかし、自ら真理であると主張するだけでは、その真理性は確立せられない。それは、歴史を通してはじめて人類の確認するところとなるのである。宗教に関しても、真理は自証性を有するものであるといわなければならない。したがつて、真の宗教は、国家その他の世俗の力によつて支持されることなくして立つべきものであり、かつ、立つことが可能なのである。そして宗教は、その独立性こそが尊重せられるべきである。

 二 宗教の民主主義化

 国家神道又は神社神道に関する連合国最高司令官総司令部からのいわゆる神道指令は、三つの重要な点を含んでいる。そして、これが憲法二〇条の基礎をなしているのである。

 () 神社を宗教と認めたことである。これが日本国民の国民的感情に完全に合致するや否やは、若干疑問の余地がないではない。神社は、宗教として思想的体系が貧弱であり、むしろ素朴な民族的生活感情の表現たる点が多いからである。しかし、神社の行事並びに神職の行為には、宗教的行事と認められるものがあり、これが本件の問題である。

 () 神社を宗教と認める以上、これに国家の行政的もしくは財政的保護を与えることは、政教分離の原則上不当であるとして、これが廃止を命令されたことである。

 () このように国家より分離された神社を、宗教として信仰することは、国民の自由であるとされたことである。

 明治維新後、政府は、新日本を建設するに当たり、制度及び文化は西洋より輸入したが精神的根底としては日本古来の神ながらの道によることとし、この跛行的状態をもつて日本の近代化運動を開始した。かくして、事実上神社神道に国教的地位を認めながら、ただ国際的及び国内的の都合から、信教自由の原則に抵触させないために、神社は宗教に非ずとの解釈を下したのである。それ以来、日本の政治及び教育は、この線に沿つて行われた。自己の信ずる宗教の何であるかを問わず、国務大臣は新任に際して伊勢神宮に参拝することが慣例とせられ、地方官は官国幣社の大祭に奉幣使として参拝を命ぜられ、学校生徒は教師に引率されて集団的に神社に参拝し、地方住民は神社の氏子として祭礼に寄附を求められた。これらのことが慣行として一般に平穏に行われたことには、次の理由があつた。

 () 神社の宗教性が素朴であつたことである。神社神道には組織的な神学がなく、その神観は原始的であり、超自然的・奇蹟的要素がほとんどなかつた。すべてが概して自然的であり、かつ、人間的であつた。このように、神社の宗教性が素朴であることが、神社参拝を信教自由の原則に抵触しないものとして、一般国民に安易に受けいれさせたのである。

 () 日本の仏教は、理論的にも生活的にも神社と対立闘争することが少なく、むしろこれと協調し合流して、併立的に共存して来たという歴史的事実がある。すなわち日本の神々は、仏教諸仏の化身であるという本地垂迹説が唱えられて、日本の神々と仏教諸仏との調和・一致・併存が理論づけられ、仏寺の境内には鎮護の神社を祭るものもあり、日本国民の大部分は、仏教信者であると同時に神社の氏子であつた。すなわち個人としては仏教を信じ、国民としては神社を祭つて、毫も怪しむところがなく、平穏な生活を営んで来たのである。これは仏教の布教政策によつたものでもあり、一方、既述の如く、神社が素朴な宗教性をしかもたないからであつた。とにかく、過去一千年以上にわたつて実行せられて来た仏教と神社との二重生活によつて、明治維新以来の神社政策は、国民の間に大なる問題もなく受けいれられたのである。

 () 従来神社神道及び仏教によつて養われて来た日本国民の宗教意識そのものが、信教自由の問題について十分な敏感さをもたなかつたことである。けだし、神社神道も仏教も、その教義は多神教もしくは汎神教的であつて、キリスト教のような人格的一神教でなく、個人の人格の観念を刺激し、基本的人権の観念を発達せしめず、したがつて、信教自由の原則の重要性を認識させることも少なかつた。この事情が、神社参拝問題を信教の自由に抵触するものとして重要視しなかつたことの一大原因であろう。

 三 憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動

 信教の自由と政教分離の原則を宣明する憲法二〇条一項ないし三項の規定は、その制定に最大の影響を与えたものと思われるアメリカ合衆国憲法修正一条(連邦議会は法律により、国教の樹立を規定し、もしくは信教上の自由な行為を禁止することはできない。宮沢俊義編岩波文庫、世界憲法集訳)よりも、この点に関しては、更に徹底したものであり、世界各国憲法にもその比を見ないほどのものである。 その三項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しているが、その解釈の指導原理となるべき政教分離原則の意義から考えると、右規定によつて国及びその機関が行うことを禁止される宗教的活動とは、宗教の布教、宣伝、信者の教化、育成を目的とする積極的な活動にとどまらず、宗教上の祝典、儀式、行事など宗教的意義を有する一切の行為をいうものと解すべきである。そしてこのように、宗教的活動の意味を広く解すべき実質的理由は、次のとおりである。

 およそ歴史に知られた民族で宗教をもたなかつたものはないといわれる。もちろん、宗教学又は宗教史学にいわゆる宗教と、法律学上の宗教とは必ずしも同様に解すべきではないが、宗教に関して、神学者、哲学者、宗教の科学的研究者たちは、古来さまざまな宗教の定義を提示しており、その多様さは、学者の数だけ定義の数もあるといわれるほどである。それゆえ、わが国においても、法律上どこにも宗教の定義が示されていないことは当然であると思われる。また、アメリカ合衆国憲法にも、宗教もしくは宗教的ということばの定義は見られないのみならず、アメリカ連邦最高裁判所は、もろもろの宗教又は宗教らしいものに対応するに際して、宗教や宗教的という用語を定義することなく、この語がどういう意味をもつにしろ、アメリカ合衆国憲法修正一条が「社会的義務に違反し、もしくは善良な秩序を破壊する行為に介入するような」政府の行動を禁止してはいないということで満足していたのである。すなわち法は、行為の抑制のためにつくられるのであるから、法は、宗教的な信念や見解そのものに干渉することはできないが、宗教的活動に対しては抑制が可能であるとしたのである。換言すれば、あらゆる宗教又は宗教らしいものを憲法上宗教として取りあつかい、その外部に現われたところのものを問題とするにとどまつたのである(清水望、滝澤信彦共訳、「コンヴイツツ・信教の自由と良心」のうち、宗教とは何か、参照)。

 思うに、わが憲法においても、宗教又は宗教的という語は、できうる限り広く解釈さるべきものである。しかるにこれを厳密に定義し、また、これを狭く解するときには、それ以外の宗教ないし宗教類似の行為には二〇条の保障が及ばないこととなつて、信教の自由が著しく制限される結果となるばかりでなく、反面、国家と宗教の密接な結びつきが許容される道を開くこととなるであろう。

 四 本件起工式の性質

 多数意見は、起工式が工事の無事安全等を祈願する儀式であり、「祈る」という行為を含むものであることまでは認めているが、今日では、それは一般人及び主催者の意識においては、建築上の儀礼と化してしまつているから、世俗的行事と評価されているとしている。すなわち慣行だというのである。もちろん世の中には、その起源を宗教的なものに発してはいるが、現在では宗教的意義を有しない諸行事が存することを認めないわけにはいかない。正月の門松は、年々減少していくようであるが、縁起ものとして今日でも行われている。雛祭りやクリスマスツリーの如きものも、親が子供に与える家庭のたのしみとして、あるいは集団での懇親のための行事として意味のあることが十分に理解できる。そして今日では、これらは宗教的意義を有しないとすることもできるであろう。しかし、原審認定のような状況下において、本件起工式をとり行うことをもつて、単なる縁起もの又はたのしみのようなものにすぎないとすることができるであろうか。多数意見も認めているとおり、本件のような儀式をとり入れた起工式を行うことは、特に工事の無事安全等を願う工事関係者にとつては、欠くことのできない行事とされているというのであつて、主催者の意思如何にかかわらず、工事の円滑な進行をはかるため、工事関係者の要請に応じて行われるものなのである。起工式後のなおらいの祝宴をめあてに、本件儀式がなされたとはとうてい考えられない。ここに単なる慣行というだけでは理解できないものが存在するのである。けだし、工事の無事安全に関する配慮が必要なだけならば、現在の進歩した建築技術のもとで、十分な管理がなされる限り、科学的にはこれにつけ加えるべきものはない。しかるに、工事の無事安全等に関し人力以上のものを希求するから、そこに人為以外の何ものかにたよることになるのである。これを宗教的なものといわないで、何を宗教的というべきであろうか。本件起工式の主催者津市長がたとえ宗教を信じない人であるとしても、本件起工式が人力以上のものを希求する工事関係者にとつて必須のものとして行われる以上、本件儀式が宗教的行事たることを失うものではない。これは宗教心のない喪主たる子が、親のために宗教的葬式を主催しても、それが宗教的行事であることに変りがないのと同様である。

 本件においては、土俗の慣例にしたがい大工、棟梁が儀式を行つたものではなく、神職四名が神社から出張して儀式をとり行つたのである。神職は、単なる余興に出演したのではない。原審の認定するとおり、祭祀は、神社神道における中心的表現であり、神社神道において最も重要な意義をもつものである。このことは、すべての神道学者が力説するところである。神社の宗教的活動は、祭りの営みにあるといつてよいくらいである。祭祀は、神社神道における神恩感謝の手ぶりであり、信仰表明の最も純粋な形式であるといわれる。教化活動は、祭りに始まり、祭りに終るということができるのであつて、祭祀をおろそかにしての教化活動は、神社神道においては無意味であるとされる。すなわち祭祀は、神社神道において最も重要にして第一義的意義を有するものであり、儀式あるいは儀礼が最上の宗教的行為なのである。

 五 宗教的少数者の人権

 本件起工式は、たとえ専門の宗教家である神職により神社神道固有の祭祀儀礼に則つて行われたものとしても、それが参列者及び一般人の宗教的関心を特に高めることとなるものとは考えられないというのが、多数意見である。神社神道が教化力に乏しいというところから、そういう議論になるのであろうが、たとえそうであるとしても、そのような儀式に対してすら、違和感を有する人があることもまた事実である。もとより、個人あるいは私法人が起工式を行うに当たり、神社神道又はその他の宗教によることは自由であり、これこそ信教の自由であるが、本件起工式は、地方公共団体が主催して行つたものであることが、案外、軽視されているように思われてならないのである。すなわち国家や地方公共団体の権限、威信及び財政上の支持が特定の宗教の背後に存在する場合には、それは宗教的少数者に対し、公的承認を受けた宗教に服従するよう間接的に強制する圧力を生じるからである。たとえ儀式に要する費用が多くなくても、また一般市民に参加を強制しなくても、それは問題でない(本件起工式では、来賓として地元有力者等百五十名の参列をえ、工事責任者が出席し、津市の職員が進行係をつとめ、被上告人請求の目的となつている挙式費用七六六三円を含め公金一七万四千円を支出した。)。要するに、そういう事柄から国家や地方公共団体は、手をひくべきものなのである。たとえ、少数者の潔癖感に基づく意見と見られるものがあつても、かれらの宗教や良心の自由に対する侵犯は多数決をもつてしても許されないのである。そこには、民主主義を維持する上に不可欠というべき最終的、最少限度守られなければならない精神的自由の人権が存在するからである。「宗教における強制は、他のいかなる事柄における強制とも特に明確に区別される。私がむりに従わされる方法によつて私が裕福となるかもしれないし、私が自分の意に反してむりに飲まされた薬で健康を回復することがあるかもしれないが、しかし、自分の信じていない神を崇拝することによつて私が救われようはずがないからである。」(ジエフアソン) 国家又は地方公共団体は、信教や良心に関するような事柄で、社会的対立ないしは世論の対立を生ずるようなことを避けるべきものであつて、ここに政教分離原則の真の意義が存するのである。

 六 以上が、反対意見に追加する私の意見であるが、その一及び二項において、私は矢内原忠雄全集一八巻三五七頁以下「近代日本における宗教と民主主義」の文章から多くの引用をしたことを、本判決の有する意義にかんがみ、付記するものである。

 

【政教分離(1-2)最大判昭和52年7月13日 津市地鎮祭事件・反対意見】

 

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憲法目次Ⅱ

憲法目次Ⅲ

憲法目次Ⅳ

 裁判官藤林益三、同吉田豊、同団藤重光、同服部高顯、同環昌一の反対意見(裁

判官藤林益三については、本反対意見のほか、後記のような追加反対意見がある。)

は、次のとおりである。

 

 一 憲法における政教分離原則

 信教の自由は、近代における人間の精神的自由の確立の母胎となり、自由権の先駆的な役割を果たし、その中核を形成した重要な基本的人権であり、現代の各国の憲法において、精神生活の基本原則として、普遍的に保障されているものである。わが憲法も、二〇条一項前段において「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と規定して信教の自由を無条件で保障するとともに、同項後段において宗教団体に対する特権の付与及び宗教団体の政治権力の行使の禁止を、二項において宗教上の行為等に対する参加の強制の禁止を、三項において国及びその機関の宗教的活動の禁止を、また、八九条において宗教上の組織・団体に対する財政援助の禁止をそれぞれ規定し、あらゆる角度から信教の自由を完全に保障しようとしている。 そもそも信教の自由を保障するにあたつては、単に無条件でこれを保障する旨を宣明するだけでは不十分であり、これを完全なものとするためには、何よりも先ず国家と宗教との結びつきを一切排除することが不可欠である。けだし、国家と宗教とが結びつくときは、国家が宗教の介入を受け又は宗教に介入する事態を生じ、ひいては、それと相容れない宗教が抑圧され信教の自由が侵害されるに至るおそれが極めて強いからである。このことは、わが国における明治維新以降の歴史に照らしても明らかなところである。

 すなわち、明治元年(一八六八年)、新政府は、祭政一致を布告し、神祇官を再興し、全国の神社・神職を新政府の直接支配下に組み入れる神道国教化の構想を明示したうえ、一連のいわゆる神仏判然令をもつて神仏分離を命じ、神道を純化・独立させ、仏教に打撃を与え、他方、キリスト教に対しては、幕府の方針をほとんどそのまま受け継ぎ、これを禁圧した。明治三年(一八七〇年)、大教宣布の詔によつて神ながらの道が宣布され、同五年(一八七二年)、教部省は、教導職に対し三条の教則(「第一条 敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事 第二条 天理人道ヲ明ニスヘキ事 第三条 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事」)を達し、天皇崇拝と神社信仰を主軸とする宗教的政治思想の基本を示し、これにより、国民を教化しようとした。また、明治四年(一八七一年)、政府は、神社は国家の宗祀であり一人一家の私有にすべきでないとし(太政官布告第二三四号)、更に、「官社以下定額及神官職員規則等」(太政官布告第二三五号)により、伊勢神宮を別として、神社を官社(官幣社、国幣社)、諸社(府社、藩社、県社、郷社)に分ける社格制度を定め、神職には官公吏の地位を与えて、他の宗教と異なる特権的地位を認めた。明治八年(一八七五年)、政府は、神仏各宗合同の布教を差し止め各自布教するよう達し、神仏各宗に信仰の自由を容認する旨を口達しながら、明治一五年(一八八二年)、神官の教導職の兼補を廃し葬儀に関与しないものとする旨の達(内務省達乙第七号、丁第一号)を発し、神社神道を祭祀に専念させることによつて宗教でないとする建前をとり、これを事実上国教化する国家神道の体制を固めた。明治二二年(一八八九年)、旧憲法が発布され、その二八条は信教の自由を保障していたものの、その保障は、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という制限を伴つていたばかりでなく、法制上は国教が存在せず各宗教間の平等が認められていたにもかかわらず、上述のようにすでにその時までに、事実上神社神道を国教的取扱いにした国家神道の体制が確立しており、神社を崇奉敬戴すべきは国民の義務であるとされていたために、極めて不完全なものであることを免れなかつた。更に、明治三九年法律第二四号「官国幣社経費ニ関スル法律」により、官国幣社の経費を国庫の負担とすることが、また、同年勅令第九六号「府県社以下神社ノ神饌幣帛料供進ニ関スル件」により、府県社以下の神社の神饌幣帛料を地方公共団体の負担とすることが定められ、ここに神社は国又は地方公共団体と財政的にも完全に結びつくに至つた。このようにして、昭和二〇年(一九四五年)の敗戦に至るまで、神社神道は事実上国教的地位を保持した。その間に、F教、G教団、H教育学会、I教団などは、厳しい取締・禁圧を受け、各宗教は国家神道を中心とする国体観念と矛盾しない限度でその地位を認められたにすぎなかつた。そして、神社参拝等が事実上強制され、旧憲法で保障された信教の自由は著しく侵害されたばかりでなく、国家神道は、いわゆる軍国主義の精神的基盤ともなつていた。そこで、昭和二〇年(一九四五年)一二月一五日、連合国最高司令官総司令部は、日本政府にあてて、いわゆる神道指令(「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)を発し、これにより、国家と神社神道との完全な分離が命ぜられ、神社神道は一宗教として他の一切の宗教と同じ法的基礎のうえに立つこと、そのために、神道を含むあらゆる宗教を国家から分離すること、神道に対する国家、官公吏の特別な保護監督の停止、神道及び神社に対する公けの財政援助の停止、神棚その他国家神道の物的象徴となるものの公的施設における設置の禁止及び撤去等の具体的措置が明示された。

 憲法は、信教の自由が重要な基本的人権であり、その保障のためには国家と宗教との分離が不可欠であるにもかかわらず、前述のように旧憲法のもとにおいては、信教の自由の保障が不完全であり、国家と神道との結びつきにより種々の弊害が生じたにがい経験にかんがみ、神道指令の思想をも取り入れ、二〇条一項前段において信教の自由を無条件で保障するとともに、その保障を完全にするために前記の諸規定を設けるに至つたものと考えられる。

 以上の点にかんがみると、憲法二〇条一項後段、同条三項及び八九条に具現された政教分離原則は、国家と宗教との徹底的な分離、すなわち、国家と宗教とはそれぞれ独立して相互に結びつくべきではなく、国家は宗教の介入を受けずまた宗教に介入すべきではないという国家の非宗教性を意味するものと解すべきである。

 多数意見は、国家と宗教との完全な分離は理想にすぎずその実現は実際上不可能であり、政教分離原則を完全に貫こうとすればかえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないから、政教分離規定の保障による国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があり、わが憲法における政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いがわが国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないものであるとし、その意義を限定的に解しようとするのである。しかしながら、多数意見のいう国家と宗教とのかかわり合いとはどのような趣旨であるのか必ずしも明確でないばかりでなく、そのかかわり合いが相当とされる限度を超えるものと認められる場合とはどのような場合であるのかもあいまいであつて、政教分離原則を多数意見のように解すると、国家と宗教との結びつきを容易に許し、ひいては信教の自由の保障そのものをゆるがすこととなりかねないという危惧をわれわれは抱かざるをえないのである。なお、われわれのような国家と宗教との徹底的な分離という立場においても、多数意見が政教分離原則を完全に貫こうとすれば社会の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないとして挙げる例のごときは、平等の原則等憲法上の要請に基づいて許される場合にあたると解されるから、なんら不合理な事態は生じないのである。

 二 憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動

 憲法二〇条三項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定するが、上述の政教分離原則の意義に照らしてこれをみれば、ここにいう宗教的活動には、宗教の教義の宣布、信者の教化育成等の活動はもちろんのこと、宗教上の祝典、儀式、行事等を行うこともそれ自体で当然に含まれるものと解すべきであつて、多数意見のようにこれを限定して解すべきものではない。けだし、宗教上の祝典、儀式、行事等は宗教的信仰心の表白の形式であり、国又はその機関が主催してこれらを行うことは、多数意見のようにその及ぼす具体的な効果のいかんを問うまでもなく、前述の政教分離原則の意味する国家の非宗教性と相容れないことは明らかであるからである。もつとも、一応宗教的活動にあたると認められるようなものであつても、国若しくはその機関がこれを行わなければかえつて国民の信教の自由が制約される結果となるとき又は平等の原則等憲法上の要請に基づいて行われるときには、許される場合があることを否定するものではない。

 右のような見地に立つても、元来は宗教に起源を有する儀式、行事であつても時代の推移とともにその宗教性が稀薄化し今日において完全にその宗教的意義・色彩を喪失した非宗教的な習俗的行事は、憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動にあたらないというべきであるが、他方、習俗的行事化しているものであつてもなお宗教性があると認められる宗教的な習俗的行事は、右規定により禁止される宗教的活動に当然含まれると解すべきである。(なお、右のような非宗教的な習俗的行事にあたるかどうかの判断は、本来、右規定の解釈適用の問題であるから、原判決のいうような民俗学上にいう習俗の要件を充足しているかどうかによつて判断すべきものではない。)

 三 本件起工式の性質

 右の見地に立つて、本件起工式が憲法二〇条三項によつて禁止される宗教的活動にあたるかどうかについて検討する。

 () 本件起工式について、原審が確定した事実は、おおよそ次のとおりである。

 () 本件起工式の式場には、天幕が二つ張られ、手前の天幕の下には参列者用の椅子が並べられ、奥の天幕は、周囲に紅白の幔幕を張り、四隅に笹竹(斎竹)を立て、三方に注連縄が引きめぐらされて祭場が設けてあつた。そして、右祭場の奥正面には榊(神籬)をのせた白木の机の祭壇を設け、その前面に青物等の供物(神饌)をのせた三方がおかれ、祭壇に向つて左手前の机には玉串が、また右手前の机には榊、鎌、鍬の祭具がのせてあつた。更に左手前には枯草を植えた盛砂があり、その前方に起工式の式次第が掲示されていた。

 () 参列者は、それぞれ式場入口で市職員より奉書で柄をまき水引をかけた柄杓で手に水をそそがれ、身を清めるいわゆる「手水の儀」(神道における最小限度の禊の意味)をしたのち、式場に入つた。

 () 本件起工式は、津市職員のJを進行係とし、当日午前一〇時から開始されたが、土地の氏神にあたる宗教法人D神社の宮司Kが斎主、その他の三名の神職が斎員となり、いずれも所定の服装で、神社所有の祭具を用いて、次の神事が行われた。

 修祓の儀(神職が参列者一同の前に進み出て榊の枝を打ち振り、一同の罪穢をはらいのける儀式)、降神の儀(神職が祭壇の前へ出て礼拝し、祭壇の神籬に大地主神及び産土神である大市比売命等の神霊を招き降す儀式)、献饌の儀(神職が神饌である青物等の供物を供える儀式)、祝詞奏上(斎主が祭壇の前へ進み出て神霊に対し本件工事の無事安全を祈願する祝詞を読み上げる儀式)、清祓の儀(敷地をはらい散供を行う儀式)、刈初めの儀(市長が盛砂の上に植えてある枯草を鎌で刈る動作をし、荒地を切り開く儀式)、鍬入れの儀(工事責任者が盛砂に鍬を入れて荒地を平にする儀式)、玉串奉奠(市長、市議会議長らが順次祭壇の前に進み出て神職から渡された榊の枝(玉串)を奉つて拍手拝礼する儀式)、撤饌の儀(神饌を撤する儀式)、昇神の儀(神々に天に帰つてもらう儀式)

 そして、参列者一同拝礼して、午前一〇時四五分ころ、滞りなく儀式を終え、しかるのち、あらかじめ西隣りに設けられた祝賀会用天幕へ行つて祝宴(神道では直会という。)をした。

 () 右事実によれば、本件起工式は、神職が主宰し神社神道固有の祭式に則つて行われた儀式であつて、それが宗教上の儀式であることは明らかである。もつとも、一般に起工式そのものは名称はともかくとして古くから行われてきており、時代の推移とともに多分に習俗的行事化している側面のあることは否定することができないが、本件起工式目体は、前記の事実に徴すれば、極めて宗教的色彩の濃いものというべきであつて、これを非宗教的な習俗的行事ということはとうていできない。しかも、多数意見のようにその具体的な効果について考えてみても、地方公共団体が主催して右のような儀式を行うことは、地方公共団体が神社神道を優遇しこれを援助する結果となるものであることはいうまでもないところであつて、かような活動を極めて些細な事柄として放置すれば、地方公共団体と神社神道との間に密接な関係が生ずるおそれのあることは否定することができないのである。多数意見は、本件起工式を宗教とかかわり合いがあるものとしその宗教性を否定はしないものと考えられるが、その宗教的意義を軽視し、しかもその効果を過小に評価しようとするものであつて、その説くところに、われわれは、とうてい賛同することができない。われわれの見解によれば、本件起工式は、明らかに、憲法二〇条三項にいう宗教的活動にあたるものというべきである。しかも、本件起工式が許されるものとすべき前述の事由は全く認められない。よつて、本件起工式は、憲法二〇条三項に違反し許されないものといわなければならない。

 四 結論

 以上の次第で、本件起工式は憲法二〇条三項に違反するというべきであり、これと同旨の原審の判断は正当であるから、本件上告は棄却されるべきものである。