憲法重要判例六法F

憲法についての条文・重要判例まとめ

タグ:環境権

環境権(5)長良川河口堰建設差止訴訟・古屋高裁平成10年12月17日・岐阜地裁6年7月20日

 目次

【名古屋高裁平成10年12月17日・長良川河口堰建設差止訴訟】

事案の概要

 原告(岐阜県海津郡海津町、岐阜県武儀郡板取村、岐阜市及び三重県桑名市の住民二〇人)は、長良川と揖斐川との合流地点付近に建設される長良川河口堰について被告(水資源開発公団)に対し、人格権、環境権等に基づく建設差止請求をした。

要旨

集団的権利としての環境権、安全権なるものは、民事上の請求の具体的な根拠となる権利と解することができず、また、良好な自然環境の享受を目的とする環境権は、絶対的な権利に基づく民事差止等の請求の法的根拠としては十分とはいえない。

 

判旨

第一 本件各請求の法的根拠の有無

一 はじめに

 控訴人らは、当審において、本件各請求の根拠として、環境権及び安全権なる権利を主張する。そこで、これらの権利をもって、民事訴訟における建設差止請求、建造物の収去請求、その運用差止請求の法的根拠とし得るか否か等、本件における各差止請求権ないし収去請求権についての法律上の根拠の有無につき検討する。

二 集団的権利としての環境権、安全権

1 自然環境を良好に保つ利益は、社会生活上保護されるべき重要な利益であるところ、控訴人らは、右利益に関する権利を、地域住民らによって共有される集団的な(さらには世代的な)権利としての環境権であると構成して主張する。

 しかし、このような集団的権利は、権利者の範囲が明確ではなく、権利の客体である環境の内容が多様で、その侵害が権利主体たる各個人に及ぼす不利益の内容や程度も極めて多様であるので、通常民事訴訟において、そのような集団的権利を主張する場合、当事者が、自己に帰属する共有持分を越えて当事者以外の者に帰属する権利利益までも主張する点については、当該当事者の当事者適格を肯定するのに困難を生じるなど、通常民事訴訟を主観訴訟とみる伝統的な考え方やこれを前提とする実体私法の法解釈と必ずしも適合しないといった問題が生じる。そして、現状において、そのような問題点が未だ十分に解決されているとはいえず、このような集団的権利をもって、直ちに民事上の請求の具体的な根拠となる権利であると解することはできない。

2 また、控訴人らは、住民共有の集団的な(さらには世代的な)権利である安全権なる権利を主張するが、右1と同様、このような集団的権利を民事上の請求の具体的な根拠となる権利であると解することはできない。

三 民事差止等の請求と良好な自然環境の享受を目的とする環境権

1 民事上の請求として、直接の契約関係にない他人に対し、その故意過失を問わずに、建造物の建設差止、収去ないしその運用の差止等を求めるといった、物権的請求権類似の妨害排除ないし妨害予防請求権を行使するには、自己の不可侵性のある権利(絶対権)が受忍限度を越えて侵害され又は侵害されるおそれがあることを根拠とすべきであると解される。

2 ところで、控訴人らの環境権に関する主張は、長良川の自然環境の保護を訴え、控訴人らを含む地域住民らの、良好な自然環境を享受する利益が本件堰の建設により侵害されることを問題とするものであるから、その主張する環境権の権利内容(目的)は、良好な自然環境の享受にあるとみられる。

 しかし、自然環境については、一般的にはこれを保護することに価値があるといい得るにしても、具体的な場面において、個人個人の自然環境に関する考え方や利害の内容、程度は多種多様であり、自然環境の保全の必要性、保護の程度、保護の態様等を決するには、関係する多数の者の利害や意見の調節を要するものであり、ある個人が最も望ましいと考える自然環境を他の者は必ずしも最適とは考えず、また、ある自然環境の保護行為が、利害関係人の財産権、活動の自由、開発利益の享受等を制約する、といった事態が生じ得るものであって、自然環境に対する侵害の問題は、人格権侵害と比較する場合はもちろん、個人の居住環境に対する侵害の場合に比しても、一段と、利害や意見の調整が広範で複雑なものとなるといえる。それゆえ、ある個人の自然環境を享受する利益が他の者の利害や意見と合致しない場合に、一般的に自然環境を享受する利益を主張する者が優先し、他の者に対しその利益を侵害しないことを求めるべき法的地位を有するということはできない。

  3 そうすると、個人個人の自然環境を享受する利益を含めて環境権という権利を構成し得たとしても、そのような権利につき、立法的手当もなしに無限定に不可侵性、絶対性を付与することはできないこととなる。したがって、良好な自然環境の享受を目的とする環境権は、絶対的な権利に基づく民事差止等の請求の法的根拠としては十分とはいえない、と解さざるをえない。

四 本件各請求の法的根拠

1 以上のように控訴人らの主張する環境権、安全権は、それ自体としては民事差止等の請求の法的根拠とはならないと解される。もっとも、本件堰の事故時における危険や本件堰周辺の自然環境の劣悪化等が、ひいては、物権、人格権(個人の生命、身体、健康、自由、生業、生活利益等に関する権利)など、他の絶対権の侵害に結びつく場合には、その絶対権に対する法的保護を通じて、個人個人の安全な生活を営む利益や良好な自然環境を享受する利益も事実上保護され得ると解される。

2 ところで、本件における控訴人らの環境権、安全権に関する主張事実の内容は、控訴人らの個々の生命、身体、健康等が侵害され、又は、侵害される危険があることを包含するとみられ、その意味で人格権侵害に関する主張がなされていると解される。そうすると、控訴人らの本件各請求は、環境権ないし安全権に基づく請求としてではなく、本件堰による人格権の侵害を予防ないし排除する趣旨の請求(人格権に基づく差止請求、妨害排除請求ないし原状回復請求等)として、その法的根拠を肯定し得ることとなる。

 

 

【岐阜地裁6年7月20日・長良川河口堰建設差止請求事件】

要旨

一 公共事業の差止請求が認められるための要件

二 人格権又は環境権を河口堰の建設差止請求の法的根拠とすることの可否

三 科学裁判における立証のあり方、河口堰建設事業を実施する者の社会的責務等について判示し、堰の安全性、事業の公共性、環境への配慮等が肯認されるとして、河口堰の建設差止請求が棄却された事例

 

判旨

第三 本件堰建設の差止請求

 一 差止請求の要件

  1 一般原則

 原告らは、本件堰建設の差止めを求めている。

 およそ、公共的な目的を有する事業の差止請求が認容されるためには、差止めの対象とされた事業の実施によって、請求者の排他的な権利が侵害され、又は将来侵害されるおそれがあり、その侵害行為によって請求者に回復し難い明白かつ重大な損害が生じ、その損害の程度が、当該事業によってもたらされるべき公共の利益を上回る程のものであって、その権利を保全することがその事業を差止めることによってのみ実現されることを高度の蓋然性をもって立証することを要するものと解すべきである。

 しかも、当該事業によってもたらされる公共の利益を犠牲にしても、なおかつその事業を差止めることによって請求者の権利を保全することが、社会、公共の見地からも容認されるものであることをも必要とすると解するのが相当である。

  2 差止請求の根拠

 原告らの主張するところによれば、原告らは、財産権、人格権又は環境権に基づいて、本件堰の建設差止めを求めるものである。

   (一) 物権及び人格権等

 まず、財産権(物権)はもとより、人格権(生命、身体、自由、名誉等の重大な人格的利益に関する権利)も、排他性を有する権利であるから、これらの権利を侵害された者は、当該権利に基づいて、侵害者に対し、右のような一定の要件の下に、現在及び将来の侵害行為の排除、差止めを求めることができることは明らかである。

 なお、原告らは、これらに加え、治水上安全な生活を営む権利であって人格権と財産権を包摂する権利、あるいは村落共同体において生活を営む権利であって人格権と財産権を包摂する権利といったものをも差止請求権の根拠として主張している。しかしながら、これらは、実体法上明文の根拠を欠く上、これらを人格権や財産権を離れた別個の権利として認めるべき実質的理由も見出し難いから、差止請求の根拠としての私法上の権利として認めることはできない。

   (二) 環境権

 (1) 原告らの環境権に関する主張の要旨は、請求原因第五の六1のとおり、現在、長良川が一級河川としては日本で数少ない自然の残った河川であって、その水質が比較的良好であること、広範な汽水域の存在等によって多種多様な生物の生息が可能になっていること等により、流域住民が長良川から多くの恩恵を受けているとの前提の下に、このような良好な自然環境を享受し得る利益を、環境権として、その侵害に対して差止めという形での法的保護を認めるべきであるというのである。

 (2) このような、原告ら主張の環境権について、実体法上明文の規定がないことは、被告の指摘するとおりである。差止めは、相手方に作為又は不作為を命じてその権利の行使を直接制約するという強力な手段であることにかんがみれば、憲法一三条及び二五条並びに環境基本法(平成五年法律第九一号)三条及び八条をもって、環境権を私法上の権利として認める根拠とすることはできない。すなわち、憲法一三条及び二五条の規定は、いずれも国の国民一般に対する責務を宣言した綱領的規定であって、個々の国民に対して直接に具体的権利を賦与したものと解することはできない。また、環境基本法は、環境の保全の基本理念を宣言した上(三条)、この理念に則り、国及び地方公共団体の行う環境の保全のための施策について総合的な指針及び枠組みを示すことを目的とする基本法であって、同法八条の規定も、事業者に対し、右理念に則って、一般的、抽象的な責務(社会的責任)を負わせたものにすぎず、これにより個々の国民に対して直接に事業者に対する具体的権利を賦与したものではないと解するのが相当だからである。

 (3) なお、環境の破壊とみられるような行為については、これにより、住民の生命、身体の安全に関する利益が侵害され、又は侵害されるおそれのある場合には、前示のような一定の要件の下に人格権に基づく右行為の差止めを求めることができると解すべきであるから、当該住民は、私法上は、この限度において環境の保全の目的を達し得るものということができる。

環境権(4)女川原発訴訟・仙台地裁平成6年1月31日・仙台高裁平成11年3月31日

  目次

【仙台地裁平成6年1月31日・女川原発訴訟】

要旨

一 人格権又は環境権に基づく原子力施設の建設・運転の差止請求の可否

二 原子炉施設の建設・運転差止訴訟における原子炉施設の安全性の意義

三 原子炉施設の建設・運転差止請求訴訟における原子炉施設の危険性についての立証責任のあり方、立証の方法・程度等

四 原子炉施設の安全性が肯認されるとしてその建設・運転の差止請求が棄却された事例

 

判旨

第二章 差止請求権の根拠

原告らは、人格権又は環境権に基つき本件原子力発電所一号機の運転差止め及び本件原子力発電所二号機の建設差止めを求め、被告らは、人格権又は環境権は実定法上の根拠がなく、人格権又は環境権に基づく差止請求は権利保護の資格を欠くとして、本件訴え却下を求めているので、この点について判断する。

 およそ、個人の生命・身体が極めて重大な保護法益であることはいうまでもなく、個人の生命・身体の安全を内容とする人格権は、物権の場合と同様に排他性を有する権利というべきであり、生命・身体を違法に侵害され、又は侵害されるおそれのある者は、人格権に基づき、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止めを求めることができるものと解するのが相当である(最高裁判所昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日大廷判決・民集四〇巻四号八七二頁参照)。

 したがって、人格権に基づき本件原子力発電所一号機の運転差止め及び本件原子力発電所二号機の建設差止めを求める本件請求は、民訴法上請求権としての適格性を有することは明らかであるから、本件訴えは適法というべきである。

 また、原告らが主張する環境権が実定法上明文の根拠のないことは被告の指摘するとおりではあるものの、権利の主体となる権利者の範囲、権利の対象となる環境の範囲、権利の内容は、具体的・個別的な事案に即して考えるならば、必ずしも不明確であるとは速断し得ず、環境権に基づく本件請求については、民訴法上、請求権として民事裁判の審査対象としての適格性を有しないとはいえないから、本件訴えは適法であるというべきである。

 しかしながら、実体法上の請求権として是認し得る権利であるか否かについては、更に検討を要するものというべきであるが、原告らの環境権に基づく本件差止請求も、本件原子力発電所が原告らの環境に対し運転又は建設の差止めを肯認するに足りるほどの危険性があるか否かという点にかかるものということができる点においては、人格権に基づく請求と基本的には同一であるから、以下、本件原子力発電所の危険性の有無について判断することにする。

 

【仙台高裁平成11年3月31日・女川原発訴訟】

要旨

1 人格権又は環境権に基づく原子力発電所の運転差止請求の可否

2 運転差止請求訴訟における原子力発電所の安全性の意義

3 運転差止請求訴訟における原子力発電所の危険性の立証責任

4 原子力発電所の安全性が肯認定されるとしてその運転差止請求を棄却した1審判決が維持された事例

 

判旨

第一 原子力発電所施設の危険性の判断手法について

一 環境リスク

 控訴人らは、原子力発電所のように、一度大事故が起こると、質・量共に、他の種類の事故と比べ、けた違いに深刻な結果を招く場合には、いわゆる環境リスクの問題として、国家や法がそのリスクを防止する機能を発揮すべく、差止めの判断基準もこれを前提として設定されるべきである旨主張する。

 確かに、原子力発電所の事故について、例えば、いわゆるシビアアクシデントのレベルのものを想定すると、その結果の深刻さはいうまでもないところである。しかし、原子力発電所の運転も、これに関する事故の発生の危険性も、法律的に評価するときは、結局、これを社会的かつ有限な事象としてとらえざるを得ないのであって、仮に、控訴人らの主張が原子力発電所の事故発生の具体的な危険性の有無を超えて、論理的ないし抽象的・潜在的なレベルでの危険性が少しでもあれば一切原子力発電所の建設・運転が許されないという判断基準を求めるものであれば、採用することができない。

 もっとも、原子力発電所の危険性の有無を判断するに当たっては、原子力発電所の事故の深刻さという特殊性を念頭に置き、他の社会的な事故との比較においても、十分に安全側に立った慎重な認定・評価をする必要があるということは否定できない。

 同様に、原子力発電所の事故の深刻さを前提として、原子力発電所の危険性と必要性の兼ね合いについてみると、当該原子力発電所が周囲の住民等に具体的な危険をもたらすおそれのある場合には、いかにその必要性が高くとも、その建設・運転が差し止められるべきことはいうまでもない。また、逆に、以上のような原子力発電所の特殊性にかんがみ、当該原子力発電所の必要性が著しく低いという場合には、これを理由としてその建設・運転の差止めが認められるべき余地があるものと解するのが相当である。

二 「多重防護思想」の問題性

 控訴人らは、原子力発電所のような巨大システムは、多数の部品・機器・系統などの構成要素が複雑に絡み合い一つの機能を実現するものであり、その実用化は、個々の部品等の故障頻度の低下と相互作用の解明等による多重防護体制に依拠しているが、実用化ということは、事故の発生をゼロにすることではなく、経済的に成り立つ範囲で低下させるにすぎず、そこでいう多重防護思想も、反面では、発生確率は低いが起こり得る重大事故を切り捨てるものにほかならない旨主張する。

 確かに、巨大システムにありがちな弱点、問題点は、控訴人ら指摘のとおりであるが、抽象的には甚大な危険を伴い得るシステムであっても、法的評価の場面において、社会観念上無視し得る危険の許容限度を想定することが可能かつ必要であることは原判決説示(原判決六四頁九行目から六七頁六行目まで)のとおりであり、その関係で、多重防護の考え方自体を否定することは相当ではない。

 もっとも、原子力発電所の運転に従事する者としては、かかる多重防護のシステムも現実には万能ではないとの意識をもち、そのことを前提に、絶えず防護体制の改良・修正に意を用いるとともに、個々の場面・段階での対応に万全を期する必要があるというべきである。

三 試験による機能確認の問題性

 控訴人らは、高度化されたシステムにおいては、細部の故障が全体に影響を及ぼす可能性があり、しかも、その故障は、必ずしも、事前の試験における「厳しい条件」下で生ずるとは限らないところ、それにもかかわらず、安全審査における解析により、設計が妥当で、安全性が確保し得ると安易に判断することは重大な誤りである旨主張する。

 確かに、事前の試験条件は完全無欠ではあり得ない。しかし、想定外の事象が生じ得るとしても、問題は、その程度、態様であり、本件安全審査における試験条件の設定について検討しても、直ちに対応が困難で、かつ、容易に重大な結果に至る想定外の事象が生ずるとは考え難い。

四 安全審査の位置づけ

 控訴人らは、安全審査の合理性や原子力委員会の組織・性格のみで原子力発電所の安全性が推認されるというのは不当であり、少なくとも、具体的な設計・施工の安全性は、安全審査とは別に被控訴人において立証されるべきである旨主張する。

 確かに、安全審査によって確認されるのが直接的には基本設計レベルでの安全性にとどまるとの控訴人らの指摘は誤りではないが、当該安全審査の内容等により、具体的な設計施工の安全性が全体として推認される場合があるということまで否定されるべきではなく、本件の場合、かかる推認が働くと評価すべきことは原判決説示(原判決一一五頁二行目から一五〇頁末行まで)のとおりである。もっとも、原子力発電所における事故の重大性にかんがみれば、具体的な建設・運転段階における個々の問題性について、その頻度・程度などのいかんによっては、これを厳しく吟味すべき場合があることは当然であって、右のような推認が働くとはいっても、その推認の程度がそれほど高いものと解すべぎではなく、当該原子力発電所や他の原子力発電所等(原子力関連施設を含む。以下同じ。)のトラブルや運転状況のいかんによって、右推認が覆される場合があることは別問題である。

第五 原子力発電所の必要性及び関連事情について

一 原子力発電所の必要性

 《証拠略》によれば、原審口頭弁論終結後の原子力発電所の必要性に関する事情は、大要、次のとおりであると認められる。

1 我が国の使用電力量は、全国的にみても、また、被控訴人の供給に係る分についてみても、なお継続的に増加傾向にあり(被控訴人の策定する供給計画における電力需要の年平均増加率も、平成九年度計画(平成七年度から平成一八年度までの分)では、一・九パーセントと想定しており、同計画中の八月最大電力需要は、平成一二年度が一三五五万キロワット、平成一五年度が一四二一万キロワット、平成一八年度が一四八七万キロワットと見込まれている。かかる電力需要の増加傾向を、国民多数の理解を得てここ数年のうちに押し止め、更に減少に転じさせることは、省エネルギー政策等が実施されているにもかかわらず、現時点での社会状勢や国民の生活状況をみる限りは、いわゆるピーク・カット(真夏期における最大電力需要の削減)のレベルに限局しても、多大の困難性を伴うとみられる。

2被控訴人の平成八年度の電源構成実績は、概数で、水力一六パーセント、石炭火力一八パーセント、石油火力一二パーセント、ガス火力二七パーセント、原子力二四パーセント、地熱その他三パーセントとなっている。被控訴人は、このほか、風力発電、太陽光発電などの新エネルギー発電の開発をも手掛けているが、少なくとも、現在の段階で、原子力発電に取って代われるほどに、電源構成中のパーセンテージを短期間で飛躍的に増大させ得る発電方法は見いだせない状況にある。

3被控訴人の前記供給計画による平成九年度の最大電力需要は一二八〇万キロワットであるが、被控訴人の同時期の供給力は一四〇九万キロワットであり、これから本件原子力発電所一、二号機の供給量(一二九万四〇〇〇キロワット)を差し引くと、同時期においては、いわゆる供給予備力が全くないということになる。

以上のとおり、原子力発電所の必要性を取り巻く状勢は、原審口頭弁論終結後も、少なくとも、原子力発電所による発電の必要性を否定ないし著しく減ずる方向へ働いているとは認め難い。

 ところで、原子力発電所の必要性・経済性と危険性の兼ね合いについて付言するに、右にみたように、少なくとも、現時点において、原子力発電所による一定の電力供給力の確保という必要性は否定できないが、さればといって、原子力発電所の運転上具体的な危険が生ずることも許されない。したがって、原子力発電所の必要性と安全性の確保は、いずれも否定することができない前提条件と考えられるのであるから、原子力発電所の運転に関しては、必然的に、経済性の要請は後退せざるを得ないというべきてある。そうすると、程度問題ではあるが、原子力発電所を運転する側で、経済性を優先させる余り、稼働率を重視することがあれば、それは問題といわなければならず(なお、これに関連するが、原子力発電所がスクラム等で停止した場合でも、厳密にいえば、停止したこと自体が問題なのではなく、どのような原因で停止したのか、また、停止までの経過がどうであったのかが重要なのであり、原子力発電所を運転する側において、原子力発電所を停止すること自体にちゅうちょしたり、後ろめたさを感じたりすべきではなく、その経過と原因を徹底的に究明して事後の運転上の教訓にするとともに、できるだけ早い時期にその結果を必要かつ十分に開示して一般の理解を求めるべきである。)、他方、原子力発電所の運転を批判する側も、単に、経済性や能率性に劣るという理由だけで、いまこの時期において、直ちに原子力発電所の全廃を唱えるのも相当とはいい難い(もとより、個々の原子力発電所のうち、具体的な危険を生じている原子力発電所の優先的な廃止を求めることとは別問題である。)。

二 原子力発電所による社会的損失

 控訴人らは、いわゆる核燃料サイクルがこれを機能させるための二本の柱である再処理工場と高速増殖炉の事故により破綻しており、また、仮に再処理を行ったとしても、処理後の高レベル廃棄物の処分方法について具体的な見通しは全くなく、これに伴って、本件原子力発電所でも、早晩、使用済燃料の処理に行き詰まることは目に見えており、かかる事態を社会的に放置することは許されない旨主張する。

 確かに、核燃料サイクルに関して、現在、控訴人ら指摘のような問題点が大きく浮上してきていることは否定し難く、長期的・将来的には、それが本件原子力発電所の運転に影響を及ぼす可能性があり、特に、廃棄物処理に関しては、高レベル廃棄吻の処分の見通しが立たない状況が続けは、いきおい、本件原子力発電所をはじめとする各地の原子力発電所の使用済核燃料について、行き場のない状況が深刻化し、周辺住民の差止請求をまたずとも、実際上、原子力発電所が稼働を停止ないし縮小せざるを得ない事態も想定される。

 しかし、かかる核燃料サイクルに関する問題は、少なくとも、当面の全体原子力発電所の運転状況に影響を及ぼす事柄とはいえず、したがって、本訴における判断、すなわち、現時点において控訴人らに本件原子力発電所の運転の差止めを求める権利があるかどうかの点を左右するものとはいい難い。この点の問題性への対処は、原子力発電所の必要性と国民一人一人の子孫に残す環境を含めた現在及び将来における生活の在り方を見すえた上での社会的な決断と選択にゆだねざるを得ないというべきである。

第六 本件差止請求の結論的な当否について

以上検討したところを総合すると、本件原子力発電所については、現時点において、一定の運転の必要性が認められる一方、これによって、控訴人らに被害をもたらす具体的な危険性があるとは認め難く、したがって、本訴請求は理由がない。

 ちなみに、右判断は、飽くまでも、現時点における差止請求権の存否についてのものであり、今後の本件原子力発電所及び他の原子力発電所等における運転状況ないしトラブル発生の状況、原子力発電所の必要性をめぐる各種の状勢の変化(前示のとおり、原子力発電所の特殊性にかんがみ、原子力発電所の必要性自体が現在に比して著しく減少すれば、これを理由としてその建設・運転の差止めが認められる余地があると解される。)などにより、将来において、本件原子力発電所の長期的ないし一般的な差止め(仮処分を含む。)を肯定すべき事態が生ずるかどうかは、別個の事柄というべきである。

 

 

環境権(3)最大昭和56年12月16日・金沢地裁平成3年3月13日・小松基地騒音差止請求等

 

  目次

【最大昭和56年12月16日・大阪空港訴訟】

要旨

人格権または環境権に基づく民事上の請求として一定の時間帯につき航空機の離着陸のためにする国営空港の供用の差止を求める訴は、不適法である。

 

判旨

所論は、要するに、本件訴えのうち、被上告人らが大阪国際空港(以下「本件空港」という。)の供用に伴い航空機の発する騒音等により身体的・精神的被害、生活妨害等の損害を被つているとし人格権又は環境権に基づく妨害排除又は妨害予防の民事上の請求として一定の時間帯につき本件空港を航空機の離着陸に使用させることの差止めを請求する部分は、その実質において、公権力の行使に関する不服を内容とし、結局において運輸大臣の有する行政権限の発動、行使の義務づけを訴求するものにほかならないから、民事裁判事項には属しないものであり、また、本件空港に離着陸する航空機の騒音等のもたらす被害対策としてはいくつかの方法があつて、そのいずれを採択し実施するかは運輸大臣の裁量に委ねられている事項であるにもかかわらず、そのうちの一方法にすぎない一定の時間帯における空港の供用停止という特定の行政権限の行使を求めるものである点において、行政庁の行使すべき第一次的判断権を侵犯し、三権分立の原則に反するものというべきであるから、右請求を適法として本案について審理判断した原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違背がある、というのである。

 

 

【大津地裁平成元年3月8日・琵琶湖総合開発計画工事差止請求事件判決】

要旨

上水道受給者が求めた下水道処理場建設工事差止請求について、その請求の根拠として憲法一三条・二五条に基づく環境権なる権利を主張することができないとされた事例。

 

判旨

 3 環境権

 原告らは、本件差止請求の根拠として、環境権を主張し、その成文法上の根拠として、憲法一三条、二五条を、その内容として、権利主体は原告らを含む日本人各人であり、その共有に属し、その権利内容は、琵琶湖の自然的、社会的、文化的環境のすべてを含むとし、差止の要件は、良好な環境を悪化させることとするので、かかる環境権なるものが認められるか否かについて検討する。

 まず、1、成文法上の根拠についてみるに、浄水享受権のところで憲法一三条、二五条について述べたのと同様の理由で、私法上の権利の発生を根拠づけ難い、2、権利主体についてみるに、日本人各人の共有に属するというが、その具体的意味、内容は何等主張されず不明であり、また、本件では原告ら八名が提訴しているが、かかる極く一部の者が提訴できる根拠についても何等主張されず不明である。3、権利内容も、環境という漠然としたもので明確でなく、4、良好な環境を悪化させるという差止の要件も、価値概念であり、その内容を明確に一義的にとらえることははなはだ困難である。

 以上のように、環境権なる権利は、実定法上の根拠もなく、その内容、要件等が抽象的で、不明確である等の多くの難点が存し、到底認めることはできない。環境の問題は、私法上の権利義務についての紛争を解決するために設けられた民事訴訟ではなく、国民ないし住民の民主的選択に従い、立法及び行政の制度を通じて公法的規制により処理されるべきものである。

 

【金沢地裁平成3年3月13日・小松基地騒音差止請求、ファントム戦闘機離着陸差止等請求事件】

要旨

自衛隊機の離着陸差止等請求および損害賠償請求に対して、人格権の侵害の問題として把握することができ、環境権ないし平和的生存権について判断する必要はない。

 

判旨

 一 人格権、環境権及び平和的生存権等、本件各請求の根拠について

 被告は、原告らが本件離着陸差止等請求及び損害賠償請求の根拠として主張している人格権、環境権及び平和的生存権は、その要件及び効果が不明確であり、実定法上の根拠を欠く権利であって、それ自体としては本件各請求の根拠とならない旨主張するので、まず、前提問題としてこの点について判断しておくこととする。

  1 人格権について

 原告らが本訴において人格権の侵害であるとして主張しているものの実体は、騒音、振動等によって日常会話や睡眠等の人間が生活していくうえで当然守られるべき必須条件を侵害されたというものであり、更にはかかる騒音等によって難聴等の身体的被害が生じたというものであるところ、人の生命、身体への侵害が不法行為となることは、すべての権利の侵害が不法行為となることを規定した民法七〇九条や、身体、自由、名誉等に対する侵害が不法行為となることを規定した同法七一〇条に照らして疑いないところである上、直接このような規定の存しない生活上の利益、例えば円滑に他人と会話を交わし、休養や睡眠をとる等、平穏な日常生活を享受する利益も、人たるに値する生活を営むためには不可欠であり、かつ、かかる利益も一般的に差止請求権や損害賠償請求権の根拠となることが肯定されている物権や準物権等の財産権以上に重要なものということができる。そして、これらの利益が古典的な物権等に対する侵害として保護されるとは限らない以上、右生命、身体等を含めた人格に関する利益を人格権と総称して法的保護の対象とし、その侵害行為に対する差止請求権及び損害賠償請求権を肯認するのが相当である。被告が右権利を否定する根拠として主張する概念の不明確さとこれに伴う法的不安定さは、具体的事案を検討する過程において、侵害に係る利益の具体的内容を個別的に特定し、これが法的保護に価することを明確にすることによって回避できると考えられるから、右は人格権概念を否定する決定的な理由となるものではない。

  2 環境権について

 原告らが主張する環境権とは、良き生活環境を享受し、かつこれを支配しうる権利であるということであるが、このような抽象的内容にとどまる限り、実体法上の根拠が皆無である(憲法一三条や二五条によって、直ちに、私法上の権利としての性格が与えられたと解することはできない。)のみならず、その要件、効果等が明確でないなど、権利として未成熟であって、法的権利として確立したものと認めることはできない。原告らが主張する環境利益の侵害は、これが個人の具体的、基本的生活利益の侵害となる限り、前記のような意味における人格権の侵害の問題として把握することができ、そのなかで法的保護をはかることができるものであり、現時点における法解釈及び本件の解決としては、これをもって足りる。

  3 平和的生存権について

 原告らの主張する平和的生存権とは、平和的手段によって戦争及びその危険の存しない良好な環境を享受し、かつこれを支配する権利であって、軍事施設の存在や軍事行動によって、右平和的な環境が侵害されるときはこれを排除することができ、その根拠は直接的には憲法前文にあり、憲法九条、一三条にも根拠を有する、というものである。

 日本国憲法が国民主権主義とともに国際的恒久平和主義の理念を基盤としていることは、その前文、第九条等の記載に照らして明らかであり、この点は異論のないところといえる。すなわち、憲法前文第二段を見るに、第一文では、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とその決意を宣明し、第二文では、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」と望ましい国際社会とその中における日本の立場と希望を宣明し、更に第三文では、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とあるべき世界像を確認している。これが敗戦を契機として「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」(同前文第一段)たことと補強し合って、国際的恒久平和主義の理念を力強く宣明するものであることは、疑う余地がない。憲法は、これを単なる「崇高な理想と目的」として定めたものではなく、「日本国民が国家の名誉にかけて全力をあげて達成すべきもの」(同前文四段)と定めたものである。そして、この見地から、憲法は、第二章の「戦争の放棄」(九条)と、九八条二項の条約及び確立された国際法規の遵守を規定したものであることも明らかである。

 かくして、日本国憲法上、平和主義が、国民主権主義と基本的人権の擁護(憲法第三章及び九七条)とともに、三大原理ないし三大理念というべきものを構成していることは明らかであるが、そうであるからといって、憲法が原告らが主張するような私法上の実体的権利としての「平和的生存権」を定めているかどうかは、右の憲法前文全体の文脈に照らしても甚だ疑わしいといわざるを得ない。けだし、例えば、その第二段第三文を見ても、その文意からして、「平和のうちに生存する権利」が日本国民だけの「権利」を定めたものでないことは明らかであるところ、この点を措いて文章を素直に読んでも、これが個々人の私法上の実体的権利を定めたものと読み取ることは到底困難である。そして、そもそも、憲法前文や九条から明らかな右平和主義が、どのような形態の紛争、訴訟においてどのような態様で裁判規範として機能し作用すべきかは、それ自体検討すべき点が多いが、平和主義に係るこれらの規定ないし記述が優れて公法的な性格を有する規範であることは明らかであり、前示の憲法の記述、構成などに照らしてこれが公法秩序上、特に政治規範、政治理念として最大限に尊重されるべきことは当然としても、一般私法秩序に係る紛争、訴訟において平和主義ないし平和的生存権が主張される場合にあっては、そこにいう「平和」の概念が、個々人の私法上の権利の目的、対象としては余りにも抽象的であり、かつ多義的であるから、このような内容、趣旨の「平和的生存権」は、私法上これを根拠として一定の給付を請求しうるような具体的な権利と見ることができないものというほかない(いわゆる百里基地訴訟についての最高裁判所平成元年六月二〇日第三小法廷判決・民集四三巻六号三八五頁参照)。

 加えて、後に被告の主張する統治行為理論に関して論ずるとおり、本件事案は、被告の設置・管理する飛行場において被告ないし被告の承諾を受けた米国の飛行機が離着陸しているという、原告らの私法上の権利関係とは直接関係がない事実行為があるにすぎないものである。もとより、これから生じる騒音等によって原告らが日常生活上甚大な被害を受けているという主張を契機として、右設置・管理の「瑕疵」の存否とこれに伴う損害賠償請求の当否や、一定の差止請求の可否・当否が検討されることになるのであるが、その際問題とされるのは、騒音等により原告らが日常生活上受けている被害の具体的な内容、程度であって、個々人としての原告らの「平和」(このような表現自体奇妙なものではあるけれども)が侵害されたかどうかではない。すなわち、例えば騒音について見るとき、その発生源たる飛行機の離着陸、運航の法的根拠が何であるかによって、あるいは、その飛行機が自衛隊機であるか民間の一般旅客機であるかによって、原告らの受ける日常生活上の被害の内容、程度が増減左右されることはあり得ないのである。したがって、原告らが主張するような「平和的生存権」を憲法が規定ないし内包しているかどうかは、本件の結論を何ら左右しないものというべきである。本件にあっては、原告らの請求の根拠として前示人格権だけを認めれば足りるものであり、本件を離れて、憲法が平和的生存権なるものを規定しているか、あるいはこれが憲法一三条の幸福追求権に含まれているかどうかについては判断する必要を見ない。

 

 

【最判平成5年2月25日・厚木基地騒音公害訴訟上告審判決】

要旨

国が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約に基づきアメリカ合衆国に対し同国軍隊の使用する施設及び区域として飛行場を提供している場合において、米軍機の運航等に伴う騒音等による被害を主張して人格権、環境権に基づき、国に対し右軍隊の使用する航空機の離着陸等の差止めを請求することはできない。

 

判旨

 所論は、上告人らの本件訴えのうち、アメリカ合衆国軍隊(以下「米軍」という。)の使用する航空機(以下「米軍機」という。)の一定の時間帯における離着陸等の差止め及びその余の時間帯における音量規制を請求する部分(以下この部分の請求を「本件米軍機の差止請求」という。)は、本件自衛隊機の差止請求と同様、被上告人に対して不作為を求めるものであり、この場合においてその相手方が厚木飛行場の設置・管理者である被上告人となるのは自明のことであって、米軍の本件飛行場の使用権限が条約によって与えられているという事実は被上告人と米軍との間の内部関係にすぎないから、被上告人に米軍機の運航を規制、制限する権限がないことなどを理由に本件米軍機の差止請求に係る訴えを却下すべきものとした原審の判断は、憲法三二条に違反し、裁判所法三条の解釈適用を誤ったものである、というのである。

 しかしながら、上告人らは、米軍機の運航等に伴う騒音等による被害を主張して人格権、環境権に基づき米軍機の離着陸等の差止めを請求するものであるところ、上告人らの主張する被害を直接に生じさせている者が被上告人ではなく米軍であることはその主張自体から明らかであるから、被上告人に対して右のような差止めを請求することができるためには、被上告人が米軍機の運航等を規制し、制限することのできる立場にあることを要するものというべきである。

 これを本件についてみると、原審の確定したところによれば、本件飛行場は、原判決の引用する一審判決別冊第1図青枠部分の区域からなり、被上告人が米軍の使用する施設及び区域としてアメリカ合衆国に提供しているものであって(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(昭和三五年条約第六号)六条参照)、昭和四六年六月三〇日に我が国とアメリカ合衆国との間で締結された政府間協定により、同年七月一日以降、()前記第1図の緑斜線部分は、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定(昭和三五年条約第七号)二条四項(a)に基づき、米軍と我が国の海上自衛隊の共同使用部分とされ、()同図赤斜線部分は、海上自衛隊の管轄管理する施設となったが、同頃(b)の規定の適用のある施設及び区域として米軍に対し引き続き使用が認められ、()同図黄色部分は、引き続き米軍が航空機を保管し整備等を行うため専用している。このように、

 本件飛行場に係る被上告人と米軍との法律関係は条約に基づくものであるから、被上告人は、条約ないしこれに基づく国内法令に特段の定めのない限り、米軍の本件飛行場の管理運営の権限を制約し、その活動を制限し得るものではなく、関係条約及び国内法令に右のような特段の定めはない。そうすると、上告人らが米軍機の離着陸等の差止めを請求するのは、被上告人に対してその支配の及ばない第三者の行為の差止めを請求するものというべきであるから、本件米軍機の差止請求は、その余の点について判断するまでもなく、主張自体失当として棄却を免れない。論旨は採用することができない。

環境権(2)

   目次

【鹿児島地裁昭和47年5月19日・し尿処理施設増設禁止仮処分申請事件 】

要旨

憲法二五条一項・一三条一項から個人の環境権なる権利を認めることはできない。

 

判旨

 憲法第二五条一項、第一三条第一項の規定からただちに申請人らが主張するような内容の環境権なる権利を各個人が有するということには、各個人の権利の対象となる環境の範囲(環境を構成する内容の範囲、およびその地域的範囲)、共有者となる者の範囲のいずれもが明確でないという点を考えるとたやすく同調し難い。したがつて、本件増設施設によるし尿処理が申請人らの環境権を侵害することを理由として、本件増設工事の差止めを求めるという申請人らの主張は採用できない。

 

 

【大阪地裁昭和49年2月27日・大阪国際空港公害訴訟第一審判決】

要旨

憲法一三条・二五条の規定は、国の国民一般に対する責務を定めた綱領規定であるから、政府・公共団体が環境保全・公害防止の責務を有するとしても、住民に公害の私法的救済の手段としての環境権が認められるとはいえない。

 

判旨

 二 人格権および環境権について

 まず、原告らが、本件損害賠償請求において侵害された権利は人格権ないし環境権であると主張し、またこれらの権利をもつて本件差止請求の法的根拠としていることについて考察する。原告らの主張の骨子は、人格権ないし環境権は憲法一三条の生命、自由および幸福追求権、二五条の健康で文化的な最低限度の生活を営む権利をその内容とする排他的支配権であり、その性質上これに対する侵害行為はいかなる理由があつても許されないから、公共性その他の要素について判断するまでもなく、被害の存在のみで違法性が肯認されるべきであり、殊に環境権については、人格権の外延を守るため、公害その他広範囲にわたる環境破壊が行われている現状に対処して、地域住民に具体的被害が発生する前段階で侵害行為を食い止めると共に、個々の住民の権利侵害とあわせて地域的な拡がりを持つ環境破壊を阻止できる有力な根拠となり得るというのである。

 思うに、個人の生命、自由、名誉その他人間として生活上の利益に対するいわれのない侵害行為は許されないことであり、かかる個人の利益は、それ自体法的保護に値するものであつて、これを財産権と対比して人格権と呼称することができる。そして、本件における航空機騒音の如く、個人の日常生活に対し極めて深刻な影響をもたらしひいては健康にも影響を及ぼすおそれのあるような生活妨害が継続的かつ反覆的に行われている場合において、これが救済の手段として、既に生じた損害の填補のため不法行為による損害賠償を請求するほかないものとすれば、被害者の保護に欠けることはいうまでもないから、損害を生じさせている侵害行為そのものを排除することを求める差止請求が一定の要件の下に認められてしかるべきである。この場合、差止請求の法的根拠としては、妨害排除請求権が認められている所有権その他の物権に求めることができるが、物権を有しない者であつても、かかる個人の生活上の利益は物権と同等に保護に値するものであるから、人格権についてもこれに対する侵害を排除することができる権能を認め、人格権に基づく差止請求ができるものと解するのが相当である。

 ところで、環境権については、実定法上かかる権利が認められるかどうかは疑問である。憲法一三条、二五条の規定は、いずれも国の国民一般に対する責務を定めた綱領規定であると解すべきであり、同条の趣旨は国の施策として立法、行政の上に忠実に反映されなければならないが、同条の規定によつて直接に、個々の国民について侵害者に対し何らかの具体的な請求権が認められているわけではない。原告ら指摘の如く、近時公害による環境破壊は著しく、良好な環境を破壊から守り、維持して行く必要があることは、何人といえども否定できないところであり、政府、公共団体が環境保全のため公害防止の施策を樹立し、実施すべき責務を有し、企業や住民も公害の防止に努めるべきことは当然であるけれども、このことから直ちに、公害の私法的救済の手段としての環境権なるものが認められるとするのは早計といわなければならない。また、環境が破壊されたことによつて個人の利益が侵害された場合には、不法行為を理由に損害賠償の請求をすることができ、違法性の有無を判断するに際し、被侵害利益の性質として環境破壊の点を考慮すべき場合があるとしても、環境権という権利が侵害されたかどうかを問題にするまでもないし、差止請求においても、物権のみならず人格権をその根拠とすることによつて救済の実をあげることができるのであつて、いずれにしても環境権を認めなければ個人の利益が救済できないという場面はないと考えられる。原告らによれば、環境権によつて具体的被害が発生する前に侵害を食い止め、また個々人の法益を越えて環境破壊を阻止することができるというが、かような役割を環境権に持たせようとするのであるならば、それは私法的救済の域を出るものであつて、実定法上の明文の根拠を必要とするといわなければならない。

 なお、環境権についてはその排他性から何等の利益考量も許されず、被害の存在のみで違法性が認められるという議論にも首肯しがたいものがある。具体的な事件においていかなる事情を基礎として違法性があると認めるべきかの判断は、被侵害利益が排他的な権利である場合にも省略することはできないのであり、かかる利益考量を経て初めて、具体的事案に即した妥当な救済方法を導き出すことが可能となるのである。

 ちなみに、本件において原告らは、航空機の騒音等により原告ら居住地域一般の環境が破壊されたことを強調してはいるけれども、これは結局のところ原告ら個人個人の生活上の利益の侵害に還元することができるものであるし、原告らは同時に個人の健康や生活利益に被害がもたらされていることをも個別的、具体的に主張しているのであるから、私法的救済の方法としては、殊更に環境権という概念を持ち出さなければその主張を維持できないわけでもないことに留意する必要がある。

 

 

【大阪高裁昭和50年11月27日・大阪国際空港公害訴訟】

要旨

憲法一三条から導かれる人格権に基づき、民事上の請求として一定の時間帯につき航空機の離着陸のためにする国営空港の供用の差し止めを求める訴は、適法なものと容認することができ、人格権侵害を根拠とする限り環境権理論の当否について判断する必要がない。

 

判旨

  1 原告らは、本件の被害をもつて、人格権ないし環境権の侵害であると主張し、これらの権利に基づき、被告に対し、本件空港における航空機の一定時間内における発着の禁止を請求する。

 ところで、原告らは、原告ら各人についてすでに被害が発生していることを主張しており、他方、原告らの主張によつても、環境権の意義は、被害が各個人に現実化する以前において環境汚染を排除し、もつて人格権の外延を守ることにあるというのであるから、判断の順序としては、まず人格権に基づく主張の当否を判断すべきものと解される。

  2 およそ、個人の生命・身体の安全、精神的自由は、人間の存在に最も基本的なことがらであつて、法律上絶対的に保護されるべきものであることは疑いがなく、また、人間として生存する以上、平隠、自由で人間たる尊厳にふさわしい生活を営むことも、最大限度尊重されるべきものであつて、憲法一三条はその趣旨に立脚するものであり、同二五条も反面からこれを裏付けているものと解することができる。このような、個人の生命、身体、精神および生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであつて、その総体を人格権ということができ、このような人格権は何人もみだりにこれを侵害することは許されず、その侵害に対してはこれを排除する権能が認められなければならない。すなわち、人は、疾病をもたらす等の身体侵害行為に対してはもとより、著しい精神的苦痛を被らせあるいは著しい生活上の妨害を来す行為に対しても、その侵害行為の排除を求めることができ、また、その被害が現実化していなくともその危険が切迫している場合には、あらかじめ侵害行為の禁止を求めることができるものと解すべきであつて、このような人格権に基づく妨害排除および妨害予防請求権が私法上の差止請求の根拠となりうるものということができる。

 被告は、このような差止請求の根拠としての人格権には実定法上の根拠を欠くと主張するが、右のとおり人格権の内容をなす利益は人間として生存する以上当然に認められるべき本質的なものであつて、これを権利として構成するのに何らの妨げはなく、実定法の規定をまたなくとも当然に承認されるべき基本的権利であるというべきである。また、従来人格権の語をもつて名誉、肖像、プライバシーあるいは著作権等の保護が論ぜられることが多かつたとしても、それは、人格的利益のそのような面について、他人の行為の自由との牴触およびその調整がとくに問題とされることが多かつたことを意味するにすぎず、より根源的な人格的利用益をも総合して、人格権を構成することには、何ら支障とならないものと解される。もつとも、人格権の外延をただちに抽象的、一義的に確定することが困難であるとしても、少なくとも前記のような基本的な法益をその内容とするものとして人格権の概念を把握することができ、他方このような法益に対する侵害は物権的請求権をもつてしては救済を完了しえない場合があることも否定しがたく、差止請求の根拠として人格権を承認する実益も認められるのであつて、学説による体系化、類型化をまたなくてはこれを裁判上採用しえないとする被告の主張は、とりえないところである。

 

 

【名古屋地裁昭和54年6月28日・場外馬券発売中止等請求事件】

要旨

憲法一三条・二五条は、いわゆる環境権の実定法上の根拠とはなりえないし、また、良好・便利な環境利益は、民法その他の法令に根源を有する私法上の権利の範ちゆうに属するものではないから、いわゆる環境権を私法上の差止または損害賠償の各請求権の根拠とすることはできない。

 

判旨

 一 環境権の主張について

 原告らは本訴差止(場外馬券発売禁止)及び損害賠償の各請求の根拠として、環境権の存在を主張する。

 まず、原告らは、環境権を「良き環境を享受し、かつ、これを支配しうる権利であり、更に、人間が健康で快適な生活を求める権利である。」と意義づけ、その実定法上の根拠を、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する旨規定した憲法二五条、幸福追求の権利を有する旨規定した憲法一三条に求めうるかのように主張するが、これらの規定は、右各条中の爾余の文言からも明らかなように、国の国民一般に対する政治、行政上の責務を定めた綱領的規定であつて、それ自体を所論の環境権の実定法上の規定と解し難いばかりでなく、文理上も右各規定が右環境権の権利概念を予定し、或は想定していると解するのは難しい。また、原告らは、右環境権を人格権の延長線にとらえうる一種の抵抗権としての性質をもつたもので、企業体に対して良き環境の確保を要求しうる権能を含んだ生存権的基本権の一面を有するとともに、右企業体からの環境侵害を守るための社会的基本権の側面をもつた実定法の予期しなかつた新しい基権であるとも主張するのであるが、右主張は、その論拠を理解し難いばかりでなく、憲法その他の実定法上の法理を飛躍した独自の見解であつて、とうてい首肯し難い。

 原告らは、環境権の性質、効果について、一つの環境を形成している一定地域の住民のすべてに平等に分配された地域住民全体の共有の権利であり、その環境破壊をもたらす侵害行為に対しては、具体的な損害の発生いかんにかかわらず、私法上の権利として予防ないし排除の請求をすることができる旨主張する。しかし、所論がここでいう「環境」とは、抽象的には住民をとりまく一定地域及びその周辺の物又は状態であり、それには道路・河川・建物・交通機関等公物、私物を含めた物的施設、水・大気・日照・海・山・動植物等の自然事象、更にはここに居住し、或はこれらを利用する人間関係などの一切が含まれるが、これらの要素にはそれ自体流動的なものがあるばかりでなく、この環境には具体的には当該住民にとつて良好、不良或は普通の三様があつて、必ず良好の環境とばかりいえないのみならず、その評価は、帰するところ多数の住民の個々の意思に待つべきものであるところからすれば、それら住民の年令・職業・思想・文化等による差異があつて一定でないのが通常であり、このような多様かつ不特定な事象に対して、評価も一定、普遍を保し難い個々の地域住民について全体に共通の共有による排他的支配権を与えようとする思考事態矛盾を含み、論理的でないといわざるをえない。所論は、前記のとおり人が幸福を追求し、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があるとの憲法上の規定を理由に、良き環境に対してこれを利用、享受しうる権利がある旨主張するけれども、仮にその住民をとりまく一定地域の生活環境が良好、便利なものであつたとしても、それは前述の自然現象のほか、そこに備つた公共的な設備・施策、文化的資産等に由来するものであつて、いわばこれらによる反射的利益というべきもので、その利益は民法その他の法令に根源を有する私法上の権利の範疇に属するものではない。もとよりその利益が個々人にとつてかけがえのない財産上の利益であり、或は生活上、身体上の利益である場合も肯認しうるところであるが、それは、右個々人の財産権或は人格権上の利益として法的保護を与えれば足り、ことさら環境権なる権利概念を構成する必要を見ない。その他、所論が環境権に期待するところの不可侵的で絶対的な予防・排除の法的効力は、その権利概念が瞹眛・脆弱であるのに比して過大・強烈であり、現今の社会共同生活での法律関係を律するに妥当でないばかりでなく、法律の解釈としてもその域を脱し、かつ、本末転倒の議論との批判を免れず、とうてい左袒することができない。

 従つて環境権を私法上の差止及び損害賠償の各請求権の根拠とする原告らの主張は採用することができない。

環境権

   目次

【最判平成18年3月30日】

事案の概要

本件は,上告人らが,大学通り周辺の景観について景観権ないし景観利益を有しているところ,本件建物の建築により受忍限度を超える被害を受け,景観権ないし景観利益を違法に侵害されているなどと主張し,上記の侵害による不法行為に基づき,① 被上告人Y1及び本件区分所有者らに対し本件建物のうち高さ20メートルを超える部分の撤去を,② 被上告人らに対し慰謝料及び弁護士費用相当額の支払をそれぞれ求めている事案である

 

要旨

判示事項

1 良好な景観の恵沢を享受する利益は法律上保護されるか

2 良好な景観の恵沢を享受する利益に対する違法な侵害に当たるといえるために必要な条件

3 直線状に延びた公道の街路樹と周囲の建物とが高さにおいて連続性を有し調和がとれた良好な景観を呈している地域において地上14階建ての建物を建築することが良好な景観の恵沢を享受する利益を違法に侵害する行為に当たるとはいえないとされた事例

裁判要旨

1 良好な景観に近接する地域内に居住する者が有するその景観の恵沢を享受する利益は,法律上保護に値するものと解するのが相当である。

2 ある行為が良好な景観の恵沢を享受する利益に対する違法な侵害に当たるといえるためには,少なくとも,その侵害行為が,刑罰法規や行政法規の規制に違反するものであったり,公序良俗違反や権利の濫用に該当するものであるなど,侵害行為の態様や程度の面において社会的に容認された行為としての相当性を欠くことが求められる。

3 南北約1.2kmにわたり直線状に延びた「大学通り」と称される幅員の広い公道に沿って,約750mの範囲で街路樹と周囲の建物とが高さにおいて連続性を有し,調和がとれた良好な景観を呈している地域の南端にあって,建築基準法(平成14年法律第85号による改正前のもの)68条の2に基づく条例により建築物の高さが20m以下に制限されている地区内に地上14階建て(最高地点の高さ43.65m)の建物を建築する場合において,(1)上記建物は,同条例施行時には既に根切り工事をしている段階にあって,同法3条2項に規定する「現に建築の工事中の建築物」に当たり,上記条例による高さ制限の規制が及ばないこと,(2)その外観に周囲の景観の調和を乱すような点があるとは認め難いこと,(3)その他,その建築が,当時の刑罰法規や行政法規の規制に違反したり,公序良俗違反や権利の濫用に該当するなどの事情はうかがわれないことなど判示の事情の下では,上記建物の建築は,行為の態様その他の面において社会的に容認された行為としての相当性を欠くものではなく,上記の良好な景観に近接する地域内に居住する者が有するその景観の恵沢を享受する利益を違法に侵害する行為に当たるとはいえない。

 

判旨

都市の景観は,良好な風景として,人々の歴史的又は文化的環境を形作り,豊かな生活環境を構成する場合には,客観的価値を有するものというべきである。被上告人Y1が本件建物の建築に着手した平成12年1月5日の時点において,国立市の景観条例と同様に,都市の良好な景観を形成し,保全することを目的とする条例を制定していた地方公共団体は少なくない状況にあり,東京都も,東京都景観条例(平成9年東京都条例第89号。同年12月24日施行)を既に制定し,景観作り(良好な景観を保全し,修復し又は創造すること。2条1号)に関する必要な事項として,都の責務,都民の責務,事業者の責務,知事が行うべき行為などを定めていた。また,平成16年6月18日に公布された景観法(平成16年法律第110号。同年12月17日施行)は,「良好な景観は,美しく風格のある国土の形成と潤いのある豊かな生活環境の創造に不可欠なものであることにかんがみ,国民共通の資産として,現在及び将来の国民がその恵沢を享受できるよう,その整備及び保全が図られなければならない。」と規定(2条1項)した上,国,地方公共団体,事業者及び住民の有する責務(3条から6条まで),景観行政団体がとり得る行政上の施策(8条以下)並びに市町村が定めることができる景観地区に関する都市計画(61条),その内容としての建築物の形態意匠の制限(62条),市町村長の違反建築物に対する措置(64条),地区計画等の区域内における建築物等の形態意匠の条例による制限(76条)等を規定しているが,これも,良好な景観が有する価値を保護することを目的とするものである。そうすると,良好な景観に近接する地域内に居住し,その恵沢を日常的に享受している者は,良好な景観が有する客観的な価値の侵害に対して密接な利害関係を有するものというべきであり,これらの者が有する良好な景観の恵沢を享受する利益(以下「景観利益」という。)は,法律上保護に値するものと解するのが相当である

もっとも,この景観利益の内容は,景観の性質,態様等によって異なり得るものであるし,社会の変化に伴って変化する可能性のあるものでもあるところ,現時点においては,私法上の権利といい得るような明確な実体を有するものとは認められず,景観利益を超えて「景観権」という権利性を有するものを認めることはできない。

ところで,民法上の不法行為は,私法上の権利が侵害された場合だけではなく,法律上保護される利益が侵害された場合にも成立し得るものである(民法709条)が,本件におけるように建物の建築が第三者に対する関係において景観利益の違法な侵害となるかどうかは,被侵害利益である景観利益の性質と内容,当該景観の所在地の地域環境,侵害行為の態様,程度,侵害の経過等を総合的に考察して判断すべきである。そして,景観利益は,これが侵害された場合に被侵害者の生活妨害や健康被害を生じさせるという性質のものではないこと,景観利益の保護は,一方において当該地域における土地・建物の財産権に制限を加えることとなり,その範囲・内容等をめぐって周辺の住民相互間や財産権者との間で意見の対立が生ずることも予想されるのであるから,景観利益の保護とこれに伴う財産権等の規制は,第一次的には,民主的手続により定められた行政法規や当該地域の条例等によってなされることが予定されているものということができることなどからすれば,ある行為が景観利益に対する違法な侵害に当たるといえるためには,少なくとも,その侵害行為が刑罰法規や行政法規の規制に違反するものであったり,公序良俗違反や権利の濫用に該当するものであるなど,侵害行為の態様や程度の面において社会的に容認された行為としての相当性を欠くことが求められると解するのが相当である。これを本件についてみると,原審の確定した前記事実関係によれば,大学通り周辺においては,教育施設を中心とした閑静な住宅地を目指して地域の整備が行われたとの歴史的経緯があり,環境や景観の保護に対する当該地域住民の意識も高く,文教都市にふさわしく美しい都市景観を守り,育て,作ることを目的とする行政活動も行われてきたこと,現に大学通りに沿って一橋大学以南の距離約750mの範囲では,大学通りの南端に位置する本件建物を除き,街路樹と周囲の建物とが高さにおいて連続性を有し,調和がとれた景観を呈していることが認められる。そうすると,大学通り周辺の景観は,良好な風景として,人々の歴史的又は文化的環境を形作り,豊かな生活環境を構成するものであって,少なくともこの景観に近接する地域内の居住者は,上記景観の恵沢を日常的に享受しており,上記景観について景観利益を有するものというべきである。

しかしながら,本件建物は,平成12年1月5日に建築確認を得た上で着工されたものであるところ,国立市は,その時点では条例によりこれを規制する等上記景観を保護すべき方策を講じていなかった。

そして,国立市は,同年2月1日に至り,本件改正条例を公布・施行したものであるが,その際,本件建物は,いわゆる根切り工事が行われている段階にあり,建築基準法3条2項に規定する「現に建築の工事中の建築物」に当たるものであるから,本件改正条例の施行により本件土地に建築できる建築物の高さが20m以下に制限されることになったとしても,上記高さ制限の規制が本件建物に及ぶことはないというべきである。本件建物は,日影等による高さ制限に係る行政法規や東京都条例等には違反しておらず,違法な建築物であるということもできない。また,本件建物は,建築面積6401.98㎡を有する地上14階建てのマンション(高さは最高で43.65m。総戸数353戸)であって,相当の容積と高さを有する建築物であるが,その点を除けば本件建物の外観に周囲の景観の調和を乱すような点があるとは認め難い。その他,原審の確定事実によっても,本件建物の建築が,当時の刑罰法規や行政法規の規制に違反するものであったり,公序良俗違反や権利の濫用に該当するものであるなどの事情はうかがわれない。以上の諸点に照らすと,本件建物の建築は,行為の態様その他の面において社会的に容認された行為としての相当性を欠くものとは認め難く,上告人らの景観利益を違法に侵害する行為に当たるということはできない。

↑このページのトップヘ